トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の大神殿の続きです。
「ハットゥシャ遺跡」の北端にある大神殿周辺の地図です。
前回は、門や、門を入った付近の紹介でしたが、今回は、神殿や、復元された城壁、倉庫群などの紹介です。
門から奥に進むと、右手に神殿の入口があります。
胸の高さまである大きな基礎石を見ると、かつての神殿が驚くほどのスケールだったことがうかがわれます。
入口を入ると、中庭が広がり、そのはるか先にはなだらかな丘の斜面が見えます。
木々もまばらなこの辺りは、標高1000mを超え、右手の岩山の陰(北東方向)には標高約1200mの聖地、ヤズルカヤがあります。
案内板にあった神殿の復元イメージ図と、平面図です。
神殿の復元イメージ図を見ると、日乾レンガで造られたとされる神殿は、石材を多用したエジプトや、ギリシア建築とは趣を異にしており、やはりメソポタミア建築の影響を強く受けたものと思われます。
この神殿には天候神「テシュプ」、配偶神「へパト」が祀られていたとされ、聖地「ヤズルカヤ遺跡」の大ギャラリーの一番奥のレリーフにも左の列の先頭に男神を従えた「テシュプ神」、右の列の先頭に女神を従えた「へパト神」が向き合った姿で描かれており、この神殿奥にも同様の考え方で祀られていたのかも知れません。
神殿奥の左右の二部屋(C・D)が二神を祀っていた場所とも思われ、神殿入口(平面図A)から広い中庭(平面図B)に入り、奥に祀られた二神への祈りの儀式が行われていたのかも知れません。
写真上段は、神殿入口から右手(東側)を見た風景です。
神殿の基礎石は、大きな岩を隙間のないよう丁寧に加工してつないでおり、周囲の建物とは際立った違いが感じられます。
幅が1mを超え、高さが胸まである基礎石の上に載せられた日乾レンガの壁は、かなり重厚なものだったと思われ、それだけでも神殿の壮大さがうかがわれます。
横幅130m、奥行き165mの巨大な大神殿が約3500年前、ここに建っていたことを想えば、古代エジプトと、覇を競ったヒッタイトの偉大な歴史に興味が深まってきます。
写真下段に遺跡研究員と思われる二人の若い女性が基礎石を調べていると思われる姿が見られますが、門の付近などにも4~5人が見られ、今でも詳細な研究が続けられているようです。
写真上段は、神殿奥の部屋(平面図D)の風景です。
中庭とは違い、床に石が敷き詰められています。
正面の左右の方形に整えられた基礎石と違い、中央の基礎石は、自然の岩の形を残し、部屋に突き出ており、祭壇だったのかもしれません。
「古代アナトリアの遺産」(立田洋司著、近藤出版社)によると、このアナトリアのコンヤ平原にある新石器時代の遺跡チャタル・ヒュユク(BC 6500頃~)では既に建物の内装に漆喰(しっくい)が使われており、クリーム色の漆喰で、床や壁を幾層にも塗って補修していたとされます。
この建物の床や、壁、天井も漆喰で白く塗られ、神聖さを演出していたのかも知れません。
写真下段は、神殿奥の辺りの部屋の仕切りと思われる基礎石の風景で、石の上に等間隔で小さな穴が開けられていました。
チャタル・ヒュユク遺跡の建物の壁や、屋根は、木材を骨格にして日乾レンガを積んだとされ、いち早く鉄器を使っていたヒッタイト帝国の神殿と考えると、この穴には金属棒(青銅、又は鉄)が差し込まれ、石材や、木材などを固定していたのかも知れません。
神殿西の奥(平面図Cの付近)から入口(南西)方向を見た風景です。
左手に神殿の中庭を隔てる基礎石、右手には神殿を囲む小部屋の基礎石が続き、正面に細く延びる場所は、廊下のような場所だったのでしょうか。
向こうの丘の麓の斜面を見ると、多くの建物跡が広がっています。
神殿入口を西に進んだ辺りの案内板の前にトルコ人ガイド、ギョクハンさんが立ち、その右(北西方向)に復元された城壁を望む風景が広がっています。
冒頭の大神殿の地図にもあるように城壁と神殿の間には倉庫とされるたくさんの建物跡が広がっています。
写真上段は、一段低くなった場所に倉庫群が広がり、城壁の背後にボアズカレ村が広がる風景です。
写真中段は、復元された城壁の全景で、写真下段は、案内板にあった復元城壁の平面図です。
城壁の平面図で、櫓が図の下に突き出た側が城壁の外側で、左の櫓の壁の白い部分は、入口と思われます。
ガイドさんの説明によるとこの城壁はJT(日本たばこ産業)の支援で復元されたそうで、JTのWebサイトを調べてもそのいきさつは見つかりませんでした。
写真上段は、案内板にあったハットゥシャで発掘されたとされる城塞形土製品の写真です。
城壁の復元は、この土製品を参考に行われたようです。
写真下段は、復元された城壁の左右の櫓部分を拡大したもので、土製品と比べてみると復元の参考としたことがうかがわれます。
右の櫓の下には入口があり、左右の櫓の右側(二階部分)には階段が見られることから一階と、二階を結ぶ階段があったようです。
左に傾斜が高くなる地形の高低差は、櫓の左右で城壁の高さを変えて造られており、階段が右だけに必要だったようです。
城壁の下の基礎石を見ると、比較的小さな石を積み重ねた石垣で、その上に日乾レンガの壁が造られているようです。
前回の記事の冒頭で掲載したオリエントの地図にヒッタイト帝国の主要部を囲むクズルウルマック川(赤い川)が見られますが、日乾レンガは、この川辺に沈殿した土が使われているようで、壁の色もその土の色が反映されたものかも知れません。
櫓の壁に丸く突き出たものが見られますが、一階の天井や、二階屋根を支える木材が壁から突き出ているものと思われます。
又、右の櫓の入口の左上には木材が見られないのは、おそらく二階に登る階段があることによるものと思われ、左の櫓にも同じ様な部分が見られます。
しかし、写真上段の土製品には一階天井を支える丸太は見られず、やはり約3500年の隔たりを埋める資料としては限界があったのかも知れません。
二つの谷に挟まれた尾根の斜面にこのような城壁が6Kmにも及んでいることを考えると、当時の高い建築技術や、建設にかけられた労力の膨大さが伝わってきます。
写真上段は、復元された城壁の右手(北方向)を見た風景です。
左右の赤い矢印の場所に大きな甕が埋められた場所がありました。
ガイドさんの説明では穀物(小麦?)などが貯蔵されていた甕だそうで、この一帯の建物には様々な物資が保管されていたものと思われます。
写真中段は、左手の5個の甕が見える場所で、遺跡の保護のためかフェンスで囲まれています。
写真下段は、右手の4個の甕が見える場所で、バスで走った道の近くでした。
これらの甕の縁には保管した物がヒエログリフ(象形文字)で刻まれていたとされ、それぞれの物資の必要量を保存する管理が行われていたことがうかがわれます。
直径が1mを超えると推察される大きな甕を作る焼き物の技術や、基礎石が甕の直径より幅広く造られた理由など写真を見ていくと興味が尽きません。
上段の4個の甕が見える場所の向こうで、建物を発掘していると思われる風景が見られました。
冒頭の大神殿周辺の地図に「建物A」と記した場所で、この地図に描かれているものの本格的な発掘はこれからだったのでしょうか。
写真上段は、大神殿の駐車場から道の向こうに見えた建物跡で、なだらかな斜面に基礎石が見られました。
写真中段は、建物跡をそばで見た風景で、倉庫でも見られた基礎石の幅の広さが印象的です。
標高1000mを超える土地で、冬の厳寒や、夏の猛暑に対応したたてものだったのでしようか。
写真下段は、案内板にあった建物の復元イメージ図で、石垣の基礎の上に建てられた平屋根の二階建ては、現代の建物と変わらないモダンさに驚きます。
現代の鉄筋コンクリートの建築は、石の基礎の上に木材を骨格とした日乾レンガの建築技術がベースになっているのかも知れません。
次回は、ハットゥシャ遺跡の南のエリアにある城門です。