昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

益田市鎌手海岸の絶景と、「唐音の蛇岩」

2009年12月31日 | 山陰地方の旅
10月11~12日に行った石見旅行最後のスポットです。

益田市の東端に近い鎌手海岸にある「唐音の蛇岩」を見に行きました。



不思議な「唐音の蛇岩」のある鎌手海岸の入江です。

天気にも恵まれ、奇岩が続く海岸や、海の色がとにかくきれいでした。



「唐音の蛇岩」がある鎌手海岸周辺の地図で、山陰本線の鎌手駅や、国道9号線が見えます。

国道9号線から海岸に沿った道を進むと「唐音の蛇岩」の駐車場(緑の丸印)に着きます。



鎌手海岸の駐車場に「唐音水仙公園案内板」がありました。

この一帯を水仙の花の名所にする活動状況が書かれています。

「平成元年より毎年10アール増殖」とあり、植えた水仙の球根は平成15年で百万球にもなるようです。

小さな半島を横切るように「唐音の蛇岩」も描かれています。



駐車場から海岸への道は、整備された下り道から始まります。



少し歩くと景色が開け、道の向こうに海岸が見えてきます。

向って左の山裾の木や草が切り取られ、水仙が植えられているようです。

美しい水仙の花畑は、天気の良い冬が見頃です。

訪れた10月には、この一帯にツワブキの黄色い花がたんさん咲いていました。



入江の左側の景色です。

手前に砂浜があり、浅い海の底がきれいに見えていました。

こちらを向いた二匹のワニに見える中央の岩、その右手にタコのように見える岩があります。



入江の右側の景色です。

荒々しい奇岩の続く絶景の海岸です。

北北西方向に島影が見えました。



島影をズームで撮ってみました。

山頂には灯台も見えます。

調べてみると「高島」と言う無人島で、1975年まで人が住む島だったようです。



一つ西側の入江の景色です。

向って右手の大きな岩場に釣をする人が並んでいます。

左手は、上の地図にも見える「魚待ノ鼻」[うおまちのはな]です。

左隅に灯台の頭がのぞいています。



灯台がよく見える場所に移動して撮った写真です。

一段と荒々しい奇岩の海岸です。

向こうにかすかに山が見えています。

山影は、南西の方向ですが、いったいどこの山だったのでしょうか?



一見、道のように見える一段低い細長く続く岩が、「唐音の蛇岩」です。

黒っぽい岩の地層が90度傾き、両側の岩より風化して帯状に低くなったものと思われます。

先に見える白い案内標識には「国指定天然記念物 唐音の蛇岩」と書かれていました。

「唐音の蛇岩」の先に見えるのは、南西方向の「魚待ノ鼻」です。

■近くにこの「唐音の蛇岩」の案内板があり、転記します。
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国指定天然記念物 唐音の蛇岩
        指定昭和十一年十二月十六日
唐音海岸の一帯は今から約一億年前の白亜紀後期の阿武層群に属する石英粗面岩からなる隆起海蝕台地ですがその中を幅 1mほどの安山岩脈が屈曲しながら北東の方向ヘ貫き、途中から入江に没して再び対岸ではいあがっています。この岩脈があたかも岩盤の上に横たわる大蛇のようであることとから「唐音の蛇岩」と呼ばれています。
また、唐音の北約300mのところにある松島にも、同じ時代に形成されたものと考えられる安山岩脈が露出しています。
益田市には、このほかに「鑪崎及び松島の磁石石(飯裏町)」が貴重な地質鉱物として島根県の天然記念物に指定されています。
         平成十年三日
              益田市教育委員会
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写真に向って左下から黒い岩「唐音の蛇岩」が、北東方向の海に向って伸びています。

案内板の説明では向こうの岸までこの「唐音の蛇岩」が続いているようです。

奇岩に挟まれた海には潮が渦を巻き、激しい波しぶきがあがっていました。

海岸の景色がとても美しく、期待以上のスポットでした。

益田市久城町「スクモ塚古墳」

2009年12月20日 | 山陰地方の旅
前々回掲載した益田市乙吉町「小丸山古墳」の案内板に「スクモ塚古墳」が、石見地方最大の全長100mもある古墳とのことで、訪ねて行きました。



島根県益田市久城町の「スクモ塚古墳」です。

小高い墳丘に祠[ほこら]が作られ、案内板も見えます。



益田市の地図です。

「スクモ塚古墳」は、海に近く、近くを小川が流れる場所にあり、「小丸山古墳」からほぼ北の方向に位置します。



案内板に描かれていた古墳の平面図です。[案内板の画像の角度を変え、北方向を上に修正しています]

この図や、説明文を見ると、「スクモ塚古墳」は、全長100mの石見地方最大の前方後円墳ではなかったようです。

それでも石見地方を代表する大型古墳ということで気を取り直して見学させて頂きました。

平面図で、円墳の北に突出した造り出し部分を見ると、前方後円墳の原形にも思えます。

■古墳の案内板を転記します。
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史跡 スクモ塚古墳
指定 昭和十六年十二月十三日
スクモ塚古墳は古墳時代の五世紀初め頃に益田地方を治めていた首長の墓として、四塚山古墳(下本郷町)、大元一号(遠田町)につづく時期に築造されたものと考えられ、石見地方を代表する大型古墳です。
これまで全長一〇〇mに及ぷ前方後円墳といわれてきましたが、最近は造出し付きの大型円墳と方墳が隣接したものと考えられています。
円墳は直径約五六m、高さ約七mの二段築成で、墳頂部には広い平坦面があり、墳丘の表面には葺石が全面に施され、周囲には円筒埴輪が巡らされていました。
北側に延びる造り出し部分は縦約一七m、横約一五mで高さは約二、五m、その両側に従臣のものと思われる小さな陪塚(円墳)がありましたが、今はほとんどその原甘形を失っています。
また、この古墳の北側に隣接している方墳は一辺一〇~一二m、高さ一、五mの大きさです。
 平成十年三月
   益田市教育委員会
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中央のスクモ塚古墳の北西にある陪塚です。

古墳の平面図で、古墳の北側にある突出しの両側にあったとされる陪塚の一つと思われます。



スクモ塚古墳の頂上から東方向の景色です。

下に祠や、案内板が見えます。

上の地図には見えませんが、この古墳に接して東西南北に道が走っていました。



スクモ塚古墳の頂上から北東方向の景色です。

古墳平面図にもありますが、角に畑があるようです。



スクモ塚古墳の頂上から方墳が見える北東方向の景色です。

写真では縮小されてよく見えませんが、この一帯は海岸に近い小高い場所で、地平線付近に日本海が見えました。

そういえば乙吉町の「小丸山古墳」からも日本海がよく見えていました。

今年もシャコバサボテンが咲きました

2009年12月16日 | 日記

2週間ほど前から咲き始めたテラスのシャコバサボテンがだいぶ咲いてきました。

まだまだ小さなツボミが多く、正月頃まで花が楽しめるかも知れません。

枝の直径は70センチで昨年と同じ位です。

一昨年から植替えをせず、肥料もやっていないためでしょうか。



昨年12-06の記事で花盛りを紹介しましたが、開花を始めた直後から室内に入れ、12月上旬に花盛りになっていました。

今年は、もっと長く美しい花を楽しみたいと思い、テラスに置いたままにしています。



鉢植えの一部を拡大してみました。

シャコバサボテンの鉢植えは、満開状態よりこの程度開花した姿が最も魅力的に感じます。

雪舟禅師終焉の地、益田市「大喜庵」

2009年12月13日 | 山陰地方の旅
10月11・12日の石見(島根県西部)旅行2日目の続きです。

益田川の東岸を国道9号から南に入った「大喜庵[たいきあん」に行きました。

「大喜庵」は、雪舟が晩年を過ごし終焉を迎えた場所に建つ寺院です。



保育所の隣にある駐車場から坂道を登り始めると「大喜庵」の本堂が見えてきます。

保育所名は、何と「雪舟保育所」でした。

■大喜庵の案内板が壁に掛けられていました。
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大喜庵(東光寺)の由来
大喜庵[たいきあん]は元禄三年(一六九〇年)都茂[つも]の僧・大喜松祝[しょうしゅく]が建立した庵です。その前身は白水山東光寺(一名山寺)、後に妙喜山[みょうぎさん]とよばれたこの地方きっての大伽藍でした。鎌倉の中期・益田氏の一族・多根兼政[たねかねまさ]が菩提寺として建立・室町期には南宗士綱が再興し・以来・石窓禅師・勝剛長柔[しょうごうちょうじゅう]・竹心周鼎[ちくしんしゅうてい]が入山しました。文明年間に山口の雲合庵より来任した雪舟等楊[とうよう]禅師は、附近の風景が中国の名勝瀟湘[しょうそう]や洞庭[どうてい]の雰囲気によく似ていることからこの地を殊に愛し、「山寺図」をスケッチし・また「益田兼尭寿像図[ますだかねたかじゅぞうづ]」「四季花鳥図屏風[しきかちょうづびょうぶ]」を描くかたわら・医光寺[いこうじ]・万福寺[まんぷくじ]に心の庭を築きました。
 禅師が東光寺に生活の場を求めたのは文亀二年(一五〇二年)・二度目の益田訪問の時です。まさにあこがれの舞台でしたので・日夜禅の道に精進しなから画業にも専念していましたが、永正三年(一五〇六年)・八十七歳遂にこの地で永眠しました。
東光寺はぞの後天正年間に全焼し、仁保成隆[にほなりたか]が再建した小庵も益田氏の須佐転封で廃頽[はいたい]するばかりでした。前述した大喜松祝の力によって、雪舟禅師の香りを現今にとどめることができました。
裏山には雪舟禅師や大喜松祝上座の墓があり、堂内にはただ一つ焼失をまぬがれた東光寺のご本尊観世音菩薩立像があります。
 昭和五十六年九月
 雪舟顕彰会
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一見、古い絵図にも見えますが、タイトルの横に「 (昭和58年4月) 斎藤政夫翁作」とあり、雪舟が生きていた室町時代の町の様子を想像して描かれたものです。

向って左の絵図は、益田川東岸の「旧今市港附近図」で、「大喜庵 」の少し西にあった港や、町並みの様子が描かれています。

向って右の絵図は、「旧高津川益田川地図」とあり、益田市街地全体の地図が描かれています。



小高い山の中腹にある「大喜庵」の前には益田の町の風景が広がっています。

立て札に「雪舟山水郷展望地」「雪舟さんが晩年親しんだ風景」と書かれ、雪舟が室町時代に見た風景を連想してみました。



本堂の脇に「雪舟禅師硯水等にご使用の 霊巌泉 右の山裾の泉」と書かれ、下に進む坂道がありました。



坂道を下りて行くと竹の簾で覆われた「霊巌泉」がありました。

この泉の水がまさしく雪舟の絵に使われた水のようです。

■「霊巌泉」のそばにあった案内板を転記します。
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雪舟硯水霊巌泉[せっしゅうげんすいれいがんせん]の由来
この泉は画聖雪舟が伯耆[ほうき]大山にある七井戸の一水を持ち帰り、水神に供えて設けたもので、この名水を画筆や茶の湯として、愛用してやまなかったと伝えられています。
 益田の風土を殊の外、愛好した雪舟は、壮年の頃、この山寺、東光寺を中心とした「山寺図」[やまでらず]をスケッチして、京畿に遊び、間もなく益田城主益田兼尭[かねたか]の孫、宗兼[むねかね]の元服を祝うために帰りましたが、この時に大山の一水を得て、この泉を設けたものと思われます。さらに晩年に及んで、再度この寺を訪れた雪舟は、この泉水を愛用し、悠々自適の生涯を送りました。
 その後、火災のために東光寺は荒廃しましたが、元禄の頃、大喜松祝[たいきしょうしゅく]がこの地に大喜庵を再建し、この名水は「雪舟硯水霊巌泉」と名付けられました。
昭和六十二年三月
雪舟顕彰会
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大喜庵本堂の横に石碑があり「画聖雪舟禅師 終焉地碑 山寺東光寺旧跡」と刻まれていました。

又、「雪舟の墓」「小丸山古墳」と書かれた立て札があり、階段を登った先にあるようです。



坂道を登って行くと「石州山地雪舟廟」と書かれた標識と共に「雪舟の墓」がありました。

妻に画聖の雪舟さんに祈ると絵が上手になるかも知れないと一緒にお祈りしました。

■墓の正面に立てられた墓の説明板を転記します。
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益田市指定文化財
雪舟の墓
昭和四十六年六月二十一日
雪舟は応永二十七年(一四二〇)に備中(岡山県)に生まれ、幼くして相国寺[しょうこくじ]に入り、周文[しゅうぶん]から画法を学び、応仁元年(一四六七)明に渡り中国の画法も学んだ。
また益田氏の招聘[しょうへい]によって、石見を二度も訪れ益田で死没したと言われる。
雪舟の没年は、永正三年(一五〇六)であると言われており雪舟終焉地については東光寺(現大喜庵)の他、山口雲谷庵備中重源寺[ちょうげんじ]、同真福寺[しんぷくじ]など諸説があるが、墓が存在するのは益田市のみである。
雪舟の墓は東光寺の荒廃とともに寂れたが、江戸時代中頃の宝暦年間に乙吉村の庄屋金山太右衛門が施主となり願主である佐州(佐渡)の浄念[じょうねん]とともに改築したものが現在の墓で、内部には旧墓の相輪[そうりん]が納められている。
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雪舟の墓の後方に小さな石塔があり、斜め後方に「雪舟禅師追褒塔[ついほうとう]」と書かれた白い標識がありました。

2005年が、雪舟没後500年だったようです。

雪舟の500年前の作品に今でも多くの人々が感銘を受け、画聖と讃え続けていることを改めて感じました。

■石塔の後方に案内板がありました。
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雪舟禅師追褒塔
 元禄十五年(一七〇二)頃、大喜松祝によって雪舟の旧墓(宝筐印塔)を発掘して建立されたが、星霜を経て崩壊し、その後、雪舟の旧墓は現今の雪舟廟の後ろ側に安置してあったが雪舟没五〇〇回忌を機に雪舟顕彰会によって雪舟禅師追褒塔として復元し建立された。
二〇〇五年(平成十七年)二月二十四日
益田市雪舟顕彰会
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墓の横の道を更に登ると山の頂上に「小丸山古墳」がありました。

古墳は、手入れが行届き、山頂に造られた濠のある珍しい前方後円墳でした。

古墳の上からは周囲の景色が良く見えました。



古墳の正面に陶板の案内板があり、古墳の説明図が描かれていました。

案内板の説明文にこの地で一番大きな「スクモ塚古墳」があり、早速見に行くことにしました。

■案内板にあった古墳の説明文を転記します。
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小丸山古墳[こまるやこふん]
 この古墳は前方後円墳です。益田平野を一望する山頂に立地しています。古墳時代後期の6世紀の初めごろにつくられたもので、
この地方を支配した首長の墓と考えられます。
 墳丘の全長は52m。石見地方では市内久城町の国史跡スクモ塚古墳(全長100m)、遠田町の大元1号墳(全長89m)、浜田市の
周布古墳(全長67m)に次ぐ第4位の前方後円墳です。大きな特徴は、古墳の周囲に周濠と外堤を備えていることで、このような
古墳は県内では唯一です。
 益田市ではこの貴重な遺跡を保存し、郷土の文化と歴史を学ぷ資料とするため、平成4年度にふるさとづくり特別対策事業によ
り復元しました。復元は発掘調査の成果にもとづき、奈良県の市尾墓山古墳の復元を参考に築造当時の規格性を推定し、現存する
古墳部分を保護しながら復元しました。
 所在地 島根県益田市乙吉町
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古墳の見学を終え、「大喜庵」の境内を歩いていると古い椿の木があり、標識に「雪舟禅師お手植椿」と書かれていました。

又、椿の木のそばに石が立ち、標識に「雪舟禅師面影石」とあります。

この一帯は一時、荒廃したようで、本当のものか疑わしく思いますが、雪舟を慕う人々の気持ちから作られた話かも知れません。

益田市「三宅御土居跡」の見学

2009年12月10日 | 山陰地方の旅
益田市の「染羽天石勝神社」「医光寺雪舟庭園」の次に「三宅御土居跡」を見学しました。



益田市の観光案内地図で、赤い丸印が、「三宅御土居跡」です。

「三宅御土居跡」は、平安末期から関ヶ原の戦いの頃まで石見国西部に長く勢力を張っていた豪族「益田氏」の屋敷跡です。



「医光寺」の総門の横に益田市の観光案内板があり、この「三宅御土居」の想像図が紹介されていました。

館は、川を利用した堀に囲まれ、三方に橋が架かっています。

この絵を見て早速、「三宅御土居」の見学に来たものです。



「三宅御土居跡」の様子です。

道路と、墓地に挟まれた細長い場所に「三宅御土居跡」が整備され、正面の小さな建物に「三宅御土居跡」や、「長尾城跡」の案内板がありました。

■案内板にあった「三宅御土居跡」の説明文です。
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三宅御土居跡
御土居とは武士の館があった場所を指す「土居」という言葉の敬称です。
 三宅御土居跡は益田氏の居館跡で、居館が七尾城から益田川を隔てた対岸に築かれた
のは、平野部の開発に伴う水の管理や益田川の水運を掌握するためと考えられます。
 発掘調査の結果、南側は益田川の支流と考えられる川を堀に兼用し、残る三方には人
工的な堀が巡っていました。最終段階の規模はおおよそ1町(約109m)×2町(約
218m)の大ささで、1町四方といわれる通常の館に比べ2倍の規模があり、このこ
とからも益田氏の勢力の大きさがうかがえます。
 三宅御土居は、11代兼見によって応安年間(1368~75)に築かれ、天正11年
(1583)頃に改修されたといわれてきましたが、12世紀にさかのぼる中国製の白磁や
青磁も多数出土したことから、平安時代の未期頃から拠点的な施設が設立していたと考
えられています。
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「三宅御土居跡」の案内板にあった「益田氏御殿略図写」です。

石見国西部に勢力を張る益田氏の館には様々な機能があったことがうかがえます。



「三宅御土居跡」の案内板にあった航空写真です。

上に掲載した「三宅御土居」の想像図と合わせて現地を歩くとよく分かるかもしれません。

■「三宅御土居跡」の案内板にあった説明文です。
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三宅御土居の発掘調査
三宅御土居跡の発掘調査は、平成2年度から12年度にかけで行いました。
周囲の調査
三宅御土居跡の周囲は高さが5mに及ぶ大規模な土塁や堀・川によって守られ
ていました。東西の土塁の外側は幅約10m、深さ約3mの箱堀で、北側は幅が
10m~16m、深さ約1.5mのやや浅い堀でした。南側は益田川の支流と考えら
れる幅約20m~25mの川を堀として利用していました。全体の規模は館の東が
北側に突出した長靴形で、敷地の東西は最大190m、南は最大110mもありま
した。
 また、館の敷地の南側には幅15m~20mの帯曲輪がありました。
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「三宅御土居跡」の案内板にあった発掘写真と、説明文です。

たくさんの柱穴跡をよく分析出来たものだと感心します。

400年を超える長い時代、館が営まれていた場所の発掘と聞くとわくわくします。



「三宅御土居跡」の案内板にあった「益田氏関係年表」です。

平安時代末期に益田氏の祖「藤原国兼」が石見に来て、関ヶ原の合戦の後、長州に移るまでの約500年の歴史が書かれています。




「三宅御土居跡」に再現された井戸と、その横に「掘立柱建物」の案内板がありました。

■「掘立柱建物」の案内板にあった説明文です。
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道路部分の発掘調査で約1000の柱穴が発見され、12世紀から16世紀にかけての掘立柱建物が繰り返し建て替えられたことがわかりました。館の東側には蔵や作業場など館の生活を支えるための建物があったと考えられます。
おどい広場では、建物の規模が明らかになった掘立柱建物10数棟のうち6棟を3種類の金属板を使って時代別に表示しました。銅は12~13世紀頃、真鍮は15世紀、ステンレスは館の改修が行われたといわれる16世紀に存在した建物を表しています。
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「掘立柱建物」の案内板にあった「建物の平面表示」の図です。

上段の写真の足元に光っている金属のラインが時代別の建物跡で、現在地が案内板の場所です。

■「三宅御土居跡」の案内板にあった発掘調査の説明文です。
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館内の調査
 おどい広場一帯では約1,000の柱穴が発見され、12世紀から16世紀にかけ
て掘立柱建物が繰り返し建てられていたたことがわかりました。建跡の大きさが
推定できた10数棟の建物は出土した遺物や向きから12世紀~13世紀と15世紀、
そして16世紀に行われた改修後の大きく3時期に分けられます。さらに礎石建
物が1棟発見され、周囲から済や鉄さい、ふいごの羽口が出土したことから鍛冶
場であったことがわかりました。
また13世紀の木組井戸跡や、16世紀に築かれた直径が約12mの石組井戸跡も
発見されました。このように、館の東側には倉庫や蔵など、生活を維持するため
良光寺本堂周辺では厚さ1mに及ぷ盛土が確認されました。建物跡はまだ発
見されていませんが、16世紀の改修の時に造成されたこの盛土の範囲に御殿な
どの主要建物があったと推定されます。
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上段の「建物の平面表示」の図で、現在地の右に見える建物跡です。

赤い線は12~13世紀、黒っぽい線は16世紀のものです。

この建物跡の表現や、案内板の図・写真・説明文を見ていると、この益田の地で400年を超えて勢力を誇った益田氏の歴史を解り易く伝えようとする気持ちが伝わって来るようです。

益田市 医光寺の雪舟庭園

2009年12月04日 | 山陰地方の旅
10月11・12日の石見(島根県西部)旅行2日目の続きです。

朝8:30頃、益田市の「染羽天石勝神社」から数百メートル東の「医光寺」に行きました。



よく晴れた朝、風格のある「医光寺総門」が輝いて見えていました。

門の向こうには医光寺の中門、右手に鐘楼が見えます。

関ケ原の戦の後、総門がここに移設されたとされることから桃山時代以前の建築物と思われます。

■寺の前の道路脇に「医光寺総門」の案内板があり、転記します。
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島根県指定文化財
医光寺総門
  指定昭和三十四年九月一日
高麗門形式の門で、屋根は切妻造り、本瓦葺、中央を高くし、両側を一段低くした構造になっています。
この門は、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、益田氏二十代元祥の長門国須佐への移住に伴い廃城となった七尾城の大手門を移築したものと伝えられています。
七尾城の大手(城の正面)は、医光寺から向かいの南側に見える七尾城山の中央の谷あいと考えられています。南北朝時代には当時の大手口「北尾木戸」で三隅方との合戦があったことが益田家文書に残っています。
十七世紀後半に屋根を改めたといわれ、前面の都市計画道路中島染羽線の整備に伴い、平成四年度に本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われました。
構造、意匠とも簡素ですが、本柱、冠木ともに太く、戦国時代末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物です。
 平成二十年三月
  益田市教育委員会
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中門前の石段から「総門」を振り返った景色です。

後ろの山には戦国武将益田氏の居城だった「七尾城跡」があります。



中門の前の石段脇に「医光寺境内案内図」がありました。

右手の「⑨雪舟灰塚」を見落としていました。

案内図は、落ち着いてよく見ないといけませんね。



「医光寺」の中門です。

中門の裏手に本堂、左手の建物は「開山堂」です。



中門をくぐると少し新しい本堂があります。

右手に歩くと庫裡の玄関があり、そこから裏の「雪舟庭園」に案内されます。



本堂の玄関前から左手の開山堂方向を見た景色です。

■頂いたパンフレットに「医光寺」の説明文がありました。
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医光寺
 臨済宗東福寺派。本尊は薬師如来像。もとは天台宗崇観寺の後身。崇観寺は医光寺の西方にあった古刹で、開山は東福寺の法系、竜門士源で聖一国師の法孫士顔の嫡子です。
貞冶2(1363)斎藤長者の妻、法名直山妙超大姉の本願によって創建され、益田兼弘の保護と援助を受けて栄えました。
寺領は1,500石、南北朝時代、益田兼見は当寺を尊崇し、「祥兼置文」に、崇観寺、万福寺など領内の小庵に至るまで退転ないようにと命じています。
その後、勝剛長柔の入山、画僧雪舟等楊の来山により繁栄しましたが、益田宗兼が医光寺を現在地に建立し保護を加えましたことから、崇観寺は衰退の一途をたどり、さらに寺堂の焼失によって医光寺と合併しました。
寺領30石。その後内容、外観ともに整備されましたが、亨保14年(1729)大火で延焼。
問もなく再建されて今日に至ってします。
本尊の薬師如来像は安阿弥の作と伝えられる高さ1メートルの座像。
日光、月光菩薩の脇侍よく均衡がとれ、金箔の上に繊細な色彩がつけられています。
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本堂裏の東側から庭の西を見た景色です。

朝の明るい陽射しが池の周辺をだけを照らして、庭全体が調和して見えない感じでした。

8:30頃の拝観でしたが、見頃の時間帯があるのかもしれません。

■中門に上がる石段の脇に「医光寺庭園」の案内板がありました。
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国指定
史跡及び名勝 医光寺庭園
指定 昭和三年三月二十八日
画聖雪舟作、池泉観賞(一部回遊)式庭園。
雪舟は文明十一年(一四七九)、益田氏第十五代当主益田兼尭に招かれ、画業の傍ら作庭したと言われている。
この庭園は山畔を巧みに利用した上下二段で構成されている。鶴を形どった池泉部に亀島(蓬莱神仙島)を浮かべており、その背には三尊石を整えている。
さらに庭の左上方には須弥山石を据え、その下に枯滝石組を置く蓬莱山水の手法で作庭されている。
春の枝垂桜、秋の楓等々背後の竜蔵山と融合して四季折々に異なった趣を表す庭園である。
当庭園は万福寺庭園(市内)、常栄寺庭園(山口県)、旧亀石坊庭園(福岡県)とともに「雪舟四大庭国」と言れている。
益  田  市
益田市教育委員会
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庭園は、山の斜面に広がっていました。

葉の落ちた大きなしだれ桜の枝が白く光り、花が咲いているようにも見えます。



頂いたパンフレットに印刷されていた「雪舟庭園」の写真です。

やはりプロの写真は庭園の雰囲気がうまく表現されています。

■頂いたパンフレットにあった「雪舟庭園」の説明文です。
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雪舟庭園
 国史蹟及び名勝。広さ2,198「ポ(666坪)医光寺の裏山を利用した西南向きの池泉鑑賞半回遊式の庭園。
雪舟が文明10年頃来山し、造園した鶴亀を主体とした武家様式で鶴を形どった池の中に亀島を浮かべています。
亀の背中には中心石と三尊石をおき、西側の丘にある須弥山石からは枯滝石組を作って、東のしだれ桜とバランスよくマッチしています。
禅の教えは「以心伝心」でそれは文字ではなく、心にあるといいます。したがって心の芸術である庭も「無心」そのもので、それが芸術として現れますので、作庭も枯山水となり、石庭となるのでしょう。
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庫裡の廊下付近にあった「雪舟像」の掛け軸です。

■説明書きです。
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雪舟和尚肖像 作者不詳
崇観寺(現:医光寺)五世であった雪舟和尚の350回忌法要に併せて作成された肖像画。
安政12年(1756)制作
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「雪舟像」の掛け軸の横に「益田宗兼像」の掛け軸がありました。

■説明書きです。
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益田宗兼像 作者不詳
医光寺の創立者で、益田氏第17代当主。直垂(ひたたれ)姿
烏帽子(えぼし)を冠り刀を帯びた凛々しい城主宗兼。
本寺の境内に宗兼墓がある。
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開山堂の少し西にあった益田宗兼の墓です。

益田宗兼は、15世紀後半から16世紀前半に山口の大内氏に従属したこの地の領主で、医光寺の創立者とされています。

益田市の名の由来が、この地で長く続いた領主「益田氏」によるものと知りました。

益田氏は、孫の藤兼の代に毛利元就の軍門に下り、関ヶ原の戦いの後、毛利に従い長州に移りました。

めまぐるしい栄枯盛衰の歴史の中で「益田氏」は、長州毛利の重臣として幕末まで続いたようです。