昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

幸運の別宮「風宮」「土宮」

2009年06月30日 | 近畿地方の旅

多賀宮から石段を下る途中から山の下に「風宮」が見えてきます。

拝殿の屋根の下に白い装束の神官がお祈りをされていました。

「風宮」は、風の神を祀る別宮で、内宮にも同じ風の神を祀る「風日祈宮」[かざひのみのみや]があります。

鎌倉時代、中国の元の大船団が九州に二度も攻めて来て、その都度、暴風雨が発生して船団の多くが沈没して征服を免れた歴史があります。(元寇)

その時、伊勢神宮では「風宮」「風日祈宮」にお祈りし、その暴風雨を風の神による「神風」と信じられたようです。

「神風」をおこし、元の侵略から国家を守った大きなご利益に、二つの別宮は、2~3階級特進とも言える、「別宮」に格上げされされたそうです。

平安時代の「延喜式神名帳」を見ると朝廷は、その中で神様を格付けしています。

格付けの目的には、多くの神様に対する認識を統一することでもあったようですが、神様に対して失礼ではないかとも思えます。



「風宮」の社殿です。

大変幸運な風の神様に参拝しました。

人々は、長い歴史の中で、風による大災害がないことを祈りながらも被害が絶えることはありませんでした。

50年前にも「伊勢湾台風」が東海地方一帯に大きな被害をもたらしました。

最近の地球温暖化で、とてつもない台風が来る時代でもあります。

このような、どうしようもない自然の脅威には神様に手を合わせ、お願いするしかないようです。



「風宮」の西隣に建つ別宮「土宮」の社殿です。

祭神は、土地の守り神「大土御祖神」[おおつちみおやのかみ]で、宮川の氾濫や、堤防を守護する神様でもあるようです。

調べてみると「風宮」の特別な昇格に先駆けて、少し早い時期に「土宮」が昇格したようです。

幾度も自然の脅威にさらされても、尚もこの神にすがるしかない思いから昇格したものと思われます。

こちらの神様も実に幸運です。

自然災害が発生しないことを祈り、災害が発生し続けても祈り続けていることがなんとなく分かったような気持ちになりました。

別宮「多賀宮」で気づいた「外宮」と、「高倉古墳」の謎

2009年06月27日 | 近畿地方の旅
外宮正殿の参拝を終え、外宮の神域である「高倉山」の方角に向かい森の中の長い階段を登って行きました。


階段を登ると「多賀宮」[たかのみや]の社殿と、その隣に式年遷宮のための御敷地[みしきち]がありました。

■正面の立札に書かれてある神社名、御祭神です。
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別宮 多賀宮[たかのみや] 御祭神 豊受大御神荒御魂[とようけおおかみのあらみたま]
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麓の外宮正殿のそばに「別宮遥拝所」(前回掲載の外宮案内図参照)があり、「多賀宮遥拝所」とも呼ばれているそうで、外宮正殿や、この「多賀宮」と、「遥拝所」の関係を考えてみました。

この「多賀宮」は、別名「高宮」と呼ばれているようですが、2009-06-01 熊野市「産田神社」で紹介した福岡県宗像市「宗像大社辺津宮」の奥宮とされる山の祭祀場も「高宮」と呼ばれています。

外宮が創建された、雄略朝(古墳時代の5世紀後半)の頃は、神の御魂が鎮座する社殿がなかった時代だったと思われ、この場所から高倉山に礼拝し、神を祭壇にお招きするで古代祭祀が行われていた可能性もあります。

社殿が造られた時代(仏教の影響か?)には、それまでの祭祀場に神殿が造られた可能性があり、天から山の磐座を経由して神殿に神の御魂が鎮座するようになったと考えられます。

この「多賀宮」の場所にも最初の外宮正殿が造られ、「多賀宮遥拝所」は、麓から正殿を見上げて、参拝する場所が固定化したものではないかと推察しています。

次に、神の御魂が常駐する時代が続くと、次第に社殿と、神の山との関係が希薄になり、遥拝所のあるへ山の麓に社殿が移設されたのではないかと考えました。


立札に「御祭神 豊受大御神荒御魂」とあります。

一般に「荒魂」は人に災をもたらす「荒ぶる魂」と言われていますが、どうも新魂[あらたま]から変化したものではないかと考えています。

以前読んだ京都「上賀茂神社」の本に、深夜に完全非公開で行われる「御阿礼神事」[みあれしんじ]が紹介されていました。

社殿裏の屋外へ弥生時代の祭祀を彷彿とする祭壇を作り、神社後方の山「神山」[こうやま]から新しい神の御魂をお迎えし、榊の枝に載せて暗闇を走り、神殿へ祀る神事があることを知りました。(毎年神の御魂を新たにする神事)

「豊受大御神荒御魂」の「荒御魂」[あらみたま]を見ると、古代に祭祀場だったと推測されるこの「多賀宮」でも、「高倉山」から新しい神の御魂を迎える神事があったように思えてなりません。



神明造の「多賀宮」の社殿を斜めから見た写真で、建物の部分名称を付けてみました。

「千木」[ちぎ]=屋根の両端に斜めに二本突き出た細い木・長方形の風穴がある
「鰹木」[かつおぎ]=屋根の棟の上に水平に数本置かれている木
「鞭懸」[むちかけ]=屋根の妻の破風に左右四本づつ突き出た木
「棟持柱」[むなもちばしら]=棟の両端を支える丸い柱

「内宮・外宮」の正殿を「唯一神明造」と云い、その他を「神明造」と呼ぶそうです。



「多賀宮」の参拝を終え、麓にある外宮の別宮「風宮」[かぜのみや]と、「土宮」を目指して下って行きました。

ところで、高倉山の頂上にある三重県最大の横穴式古墳「高倉山古墳」は、発掘調査で6世紀中頃ものと考えられています。(前回掲載の亀石があった山頂の古墳)

外宮がこの地に遷されたのは5世紀後半(雄略朝の時代)とされ、それから数十年後の時期に全国9位の大きさの地方豪族の墓と思われる「高倉山古墳」が造られたことになり、実に驚くことです。

伊勢神宮(内宮)がなぜこの地に遷されたのか? その後遷された外宮の豊受神とはどんな神だったのか? 伊勢神宮には多くの謎があります。

この「高倉山古墳」と外宮の異様とも思える位置関係に、謎を解く重大な手がかりがあるかも知れません。

伊勢神宮 外宮のパワースポット「三ツ石」、 石橋「亀石」

2009年06月24日 | 近畿地方の旅

外宮正殿の参拝を終え、別宮に向う道の脇に、小さくしめ縄に囲まれた「川原大祓」がありました。

ここには宮川の支流が流れていましたが、昔の大地震で地形が大きく変わり、川がなくなったと言われています。

戦国時代の1498年(明応7)9月 近畿から東海の広い地方で大地震・大津波が発生、数万人の死者が出たようです。(明応大地震)

伊勢地方でも大津波で1万人以上の死者があり、外宮一帯の地形も大きく変わったようです。

かつては、この外宮にも内宮の五十鈴川沿いにある御手洗場と同じものがあったのではないかと推察されます。

川のあった昔の外宮の姿はどんなものだったか、絵図など残っていれば是非見たいものです。



「三つ石」の拡大写真です。

ここは、式年遷宮の時、お祓いをする場所で、この石の上に手をかざすと温もりを感じるパワースポットでも有名のようです。

麻生総理も今年1月4日の恒例の参拝で、この「三つ石」に手をかざしエネルギーを感じられたそうです。



外宮の案内図の一部で、図の上に「外宮正殿」、その下に「三つ石」があり、その横に「亀石」があります。

又、「亀石」を通り、図の下には別宮「多賀宮」「風宮」「土宮」が見えます。



外宮正殿前の道を曲がり、別宮の参拝へ向う水路に架かる石橋で、この何気ない平たい大きな石は、「亀石」と呼ばれています。

この石は、三重県下最大の横穴式古墳「高倉山古墳」の入口の石だったと伝えられているようです。

「高倉山古墳」は、この道を進み「多賀宮」のある高倉山の頂上付近だそうですが、見学は出来ないようです。



「亀石」を斜めから見た写真です。

石橋の端に突き出た部分が、亀の頭に見えます。

亀石は、この感じから名付けたものと考えられます。



「亀石」を渡り、直進すると「多賀宮」へ登る階段が見えて来ます。

杉の大木の右に「土宮」[つちのみや]、左に「風宮」[かぜのみや]がありますが、「多賀宮」の参拝が先のようで、長い坂道を登っていきました。

伊勢神宮 外宮 (豊受大神宮)へ参拝

2009年06月21日 | 近畿地方の旅
ゴールデンウィークを利用した熊野・伊勢・志摩の旅行の続きです。

5月3日朝5時過ぎ、「伊勢神宮 外宮」へ到着、お伊勢参りのスタートです。

「内宮」「外宮」とある伊勢神宮の参拝順は、「お伊勢参りは、外宮から」の言われに従いました。



「伊勢神宮」外宮[げくう]の表参道前にある大灯篭のある景色です。

始めてのお伊勢参りに期待と、混雑の不安がありましたが、早朝の清閑な表参道前に立ち、気持ちが落ち着きました。



表参道口に掲示されていた「豊受大神宮(外宮)宮域図」です。

外宮駐車場に到着、係員の誘導で図①のPに駐車、②の北御門参道前を通り、③表参道口から境内に入りました。

境内では①~⑨の番号順に参拝し、②の北御門参道口から境内を出ました。



駐車場に近い北御門参道口②の様子です。

駐車場では早朝にかかわらず各地ナンバーの車が続々と到着、さすが伊勢神宮です。

ほとんどの人は、写真左手の手水舎で、手や口を清め、中央に見える橋を渡り、境内へ向かっていました。

私達は、急ぐ気持ちを抑え、表参道から参拝する道を選びました。



表参道前の広場③から参道口を見た景色で、こちらは参拝者が少なく静寂なためか、なんとなく神聖な空気が漂っているように感じます。

大きな松の木の左手に広い橋が表参道の入口で、その脇に「表見張所」の建物が見えます。

冒頭の大灯篭の写真は、ここから道路側を写したものです。

■参道口の脇に「豊受大神宮」の案内板がありました。
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豊受大神宮(外宮)
御祭神 豊受大御神
御鎮座 雄略天皇二十二年
 豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みをお与えくださる産業の守護神です。
 今から千五百年前に丹波国から天照大御神のお食事をつかさどる御饌都神としてお迎え申し上げました。
御垣内の御饌殿では 毎日朝夕の二度 天照大御神に神饌をたてまつるお祭りがご鎮座以来一日も絶えることなく行われています。
 御遷宮は内宮と同じく二十年ごとで 平成五年十月五日に行われました。
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表参道の火除橋[ひよけばし]を渡り、少し進むと右手に「清盛楠」[きよもりくす]と呼ばれるクスの木があります。(手水舎の向かいです)

勅使として参詣した平清盛の冠が、この楠の枝に触れ、枝を切らせた言い伝えで「清盛楠」と呼ばれているようです。

この「清盛楠」は、昭和34年の伊勢湾台風のときに被害を受け、大木だった幹中央部の大半が無くなり、左右に細くなった幹が別れて残っている状態です。

写真の向かって左の幹は、木の葉に隠れていますが、かなり太い幹の大木だったようです。



表参道の第一鳥居④です。

鳥居の柱に緑鮮やかな榊が飾られ、背後の森の新緑が美しく、とてもすがすがしい気持ちになります。

鳥居の先は、森のトンネルのような参道が続いています。



早朝でもあり、薄暗い森の道を進むと第二鳥居が見えて来ます。

トンネルの出口のようです。



第二鳥居を過ぎると右手に「神楽殿」がありました。

道に面した二つの建物は、写真左下にあるように奥でつながっていました。

■神社で頂いたシオリに神楽殿の説明がありました。
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神楽殿
ご祈祷[きとう]のお神楽や御饌[みけ]を行う御殿です。
お札やお守りも授与しています。
鎌倉時代風の屋根が美しい建物です。
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神楽殿を過ぎると右に分かれる三差路があり、右手角に「九丈殿」と、その後ろに「五丈殿」が見えます。

「九丈殿」は、摂社・末社・所管社の祀りを行う場所で、「五丈殿」は、雨天に御祓いなどをを行う場所だそうです。

二つの建物の方向は、90度違い、切妻造りの板葺屋根です。

参道を右に折れ、この建物に沿って進むと北御門参道口へ出ます。



正殿の鳥居と、門の屋根が、見えてきました。

藁葺き屋根、ツノのように屋根の両端から突き出した二本の千木[ちぎ]、棟の上に並ぶ鰹木に、伊勢神宮の長い歴史と、格式を感じます。

下段の説明にあるように、千木の先端が垂直に切られた形(外削[そとそぎ])が外宮の特徴で、内宮では水平に切られた形(内削[うちそぎ])す。

内宮・外宮の名は、この千木の「内削」「外削」から名付けたのかもしれません。

正殿は、四重もの垣根(瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣)で囲われているそうです。

写真に見える板垣の柱全てに飾られている榊は、10日毎に新しいものに替えているようです。



御正殿の参拝は、門の前で行います。

早朝でも警備の方がいて、少し緊張して参拝しました。

写真左下に御正殿の建物配置図があり、この場所は図の一番下の鳥居と、門です。

図で見ると、この門の次に二つ目の門があり、正面に神殿があるようです。

神殿の右上に「御饌殿」[みけでん]があります。

■神社で頂いたしおりに社殿の説明がありました。
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社殿の様式と配置
 ご正殿は唯一神明造[ゆいいつしんめいづくり]という日本古来の建築様式を伝え、ヒノキの素木[しらき]を用い、切妻、平入りの高床づくりです。屋根は萱で葺き柱は掘立、すべて直線式で、屋根の両端には千木が高くそびえ、棟には鰹木[かつお]がならぴ、正殿を中心にして瑞垣[みずがき]・内玉垣[うちたまがき]・外玉垣[とのたまがき]・板垣[いたがき]の四重の御垣[みかき]がめぐらされています。
 社殿の規模は両宮ほとんど向じですが、内宮の千木は内削[うちそぎ](水平切)、外宮は外削[そとそぎ](垂直切)、鰹木は内宮正殿十本(諸社殿偶数)外宮正殿九本(諸社殿奇数)、内宮は東西宝殿が正宮の後方にあるのに対し、外宮では前方にあります 外宮には板垣内の東北隅に御饌殿[みけでん]があるのが最も大きい相違です。
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御正殿前の全体を写した写真です。

大きく簡素な鳥居、藁葺き屋根の門に神聖さを感じます。

門の屋根の右手に見える屋根は、「四丈殿」[よじょうでん]と思われます。

この御正殿の裏には「御饌殿」があり、神々に食事をお供えする「日別朝夕大御饌祭」が行われているようです。

■神社で頂いたしおりに祭りの説明がありました。
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日別朝夕大御饌祭[ひごとあさゆうのおおみけさい]
 外宮の御垣内にある御饌殿において、毎日朗夕の二度、天照大御神をはじめ豊受大御神、向宮の相殿神[あいどののかみ](同殿にます神)十四所の別宮の神々にお食事をたてまつるお祭が行われます。これを日別朝夕大御饌祭といい、外宮ご鎮座以来千五百年間毎日続けられているお祭です。
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伊勢神宮の別宮「瀧原宮」へ参拝

2009年06月16日 | 近畿地方の旅
九木神社を後にして、大紀町の「瀧原宮」[たきはらのみや]へ参拝しました。

三重県大紀町滝原の国道42号沿いに道の駅「木つつ木館」があり、その裏手に参道入口があります。



参道入口の標柱に「皇大神宮別宮 瀧原宮」と書かれ、伊勢神宮内宮・外宮に次ぐ格式の別宮となっています。

「瀧原宮」の境内にはもう一つの別宮「瀧原竝宮」[たきはらならびのみや]も並んでいます。

両宮共に祭神は、「天照大神」とされ、「瀧原宮」には天照大神の和魂[にぎみたま]、「瀧原竝宮」が荒魂[あらみたま]を祀られているそうです。

私には、和魂、荒魂となぜ二つに分けて祀るのか、どうも分かりません。

「天照大神」から現在の天皇までつながっていることや、「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」夫婦の神様の物語を考えると、隠された神話があり、二つの神社は「天照大神」夫婦を祀ったものではないかとも思われます。



小さな川を利用した「御手洗場[みたらしば]」がありました。

清流を御手洗場とする形は、伊勢神宮内宮にある五十鈴川御手洗場と同じです。

夕方4時頃でしたが、静寂の森や、清流の所々に光が差し込む様子を見ると、心が清らかになるようです。

参道を進んでいると、右手に分岐する道があり、「御手洗場(手水場)」と書かれた立札に従い、石段を下ってきたものです。

日本書記によると倭姫が天照大神の鎮座地を求めて諸国を歩き、「瀧原宮」は、その過程で宮が造られた場所とされ、その後数ヶ所を経由して作られた「伊勢神宮」の施設の原型は、この「瀧原宮」にあったのかも知れません。



「御手洗場」から参道へ上がる石段の横で、「カエル」の顔のような石積みを見つけました。(左下は拡大写真です)

ご覧の通り、古い石積みの台の上にあり、気まぐれないたずらでもなさそうです。

ひょっとして「御手洗場」に関連するとしたら可愛らしいカエルの石積みを見て、気持ちを和ませるためのものでしょうか??

格式ある古い神社だけに、宗教的な意味を持つものと推測されますが、神社からもっと積極的な説明がほしいところです。



長い参道の両脇にはとても大きな杉の木がたくさんそびえています。

さすが、古墳時代の頃からと思えるこの神社で大切に守られてきた社業です。

参道を歩くと、数百歳の杉の大木から何か心に語りかけられているような気持ちになります。



参道を進むと左手に社殿が並ぶ場所が開けて来ました。

向かって左に「瀧原竝宮」[たきはらならびのみや]、その向こうに「瀧原宮」の社殿が並んでいます。

両神社の鳥居前の立札には、共通に「皇大神宮別宮 御祭神 天照坐皇大御神御魂」と、それぞれの神社名が書かれていました。

簡素な社殿ですが、屋根の両端に突き出た千木[ちぎ]や、屋根の棟に上に並ぶ金色の鰹木[かつおぎ]を見ていると、厳粛な気持ちになります。

「瀧原宮」について資料を探して見ました。

■白水社「日本の神々 神社と聖地」谷川健一編によると
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滝原宮 
宮川の上流約四〇キロの台地に滝原並宮と並んで鎮座し、『延書式』神名帳には「滝原宮大月次新嘗」のみが載るが、太神宮式では両宮ともに「大神の遥宮[とおのみや]」とされている。
「遥宮」とは「遠隔の宮」を意味し、ここは伊勢神宮遥拝の地であったと考えられる。したがって、祭神は天照大神であるが、速秋津彦であるとも伝えられる。ちなみに『皇大神宮儀式帳』にも、滝原宮は天照大神の遥宮で御正体は鏡であると記されている。

 『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が大和から伊勢に遷幸中、この地に到り、真奈胡神[まなごのかみ]に国の名を尋ねたところ、真奈胡神は「大河の滝原の国です」と答えた。そこで倭姫命は皇大神をこの地に鎮斎しょうと宮殿を建てたという。滝原の宮と並宮との関係については、前者が天照大神の和魂[にぎみたま]、後者が荒魂をまつるとも伝えられる。

 この遥宮の起源は明らかでないが、阪本広太郎は『神宮典略』に引かれた園田守夏の説を採って、志摩の南部にいた神戸[かんべ]の民が移って大神宮を遥祭した地であろうと考察している(『神官祭祀概説』)。
それにしても、この滝原宮と並宮との並立は、何か内宮と外官の並立の原形を見るような気がする。「倭姫命世紀」がこの両宮の祭神を水戸神[みなとのかみ]速秋津日子・速秋津比売とするのも、やはり河川の港へのそそぎ口の神という感じを神話的に表わしたものではあるまいか。
なお、この宮を皇大神宮のもとの鎮座地、すなわち元伊勢の一つとみる説もあるが、おそらくそれほ当たらない。
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上段の写真より境内右手を見た様子で、左手に「瀧原宮」、その奥に「若宮神社」、右手に見える社殿は、「長由介神社」です。

長い参道、深い森、この開けた場所を見ると境内の広大さが実感できます。



「瀧原宮」社殿正面の様子です。

柱に供えられた玉串の榊の緑が、印象的です。

静寂な社殿の前で、家内安全、旅の無事をお祈りしました。



「瀧原宮」の社殿全体を斜めから見た様子です。

社殿は、二重の玉垣で囲われ、社殿正面の参道に白い玉砂利、両脇には黒い玉砂利が敷かれていました。

金色の棟が印象的な神殿の屋根は、よく見ると茅葺のようです。

拝殿屋根は、板葺きで、ふと飛鳥時代に奈良県明日香村にあったとされる板蓋宮[いたぶきのみや]が、思い浮かびました。



「若宮神社」の社殿です。

立札に「瀧原宮所管 若宮神社」「御祭神 若宮神[わかみやのかみ]」と書かれてあります。

「若宮」は、他の神社でも見ましたが、主祭神の子神を祀るお宮と聞きます。

社殿の左手に見える少し低い建物は、御神体を納める「御船代」[みふなしろ]を納めている「御船倉」[みふなぐら]だそうです。

「御船代」は、伊勢神宮にまつわる神社では唯一、この「瀧原宮」だけにあるようです。

伊勢地域最大の宝塚一号墳(5世紀初頭・前方後円墳・全長111m)で、日本最大で、精密に作られた「船形埴輪」が出土して話題になりました。

墳丘のくびれ部に斎場の場になった方形の造出しと、墳丘をつなぐ「土橋」に船首を向け停泊する状態だったそうです。

又、各地の古墳で発掘された「舟形木棺」も船に乗る亡き王の魂を意識して造られたものと思われます。

この「御船倉」に納められた「御船代」は、若宮神が父神のために造った船の伝承ではないかとも思われます。



「長由介神社」[ながゆけじんじゃ]です。

この神殿の屋根も「若宮神社」同様に板葺きです。

鳥居脇の立札には、「瀧原宮所管 長由介神社」「御祭神 長由介神 川島神」と書かれていました。



現在の社殿が並ぶ場所から、参道を更に進んだ場所に広い空き地があり、小さな祠が並んでいました。

「瀧原宮」では「伊勢神宮」同様、20年ごと社殿が新築される式年遷宮が行われており、この場所は、新しい社殿が建てられる土地のようです。

今年の3月、福岡旅行で参拝した宗像大社の「第二宮」「第三宮」は、この建物とほぼ同じ造りでした。

社殿前の立札には式年遷宮に際し、別宮 伊佐奈岐宮 伊佐奈弥宮[いさなぎのみや いさなみのみや]の古殿を下付され、造営したと書かれていました。

一見、無駄遣いと思える二十年毎の式年遷宮は、千数百年前の技術や、文化を伝承する儀式でもあり、建物が再利用されていることに少し安心しました。



この地図は、伊勢志摩付近の「浅間山」を緑のマークで、伊勢神宮(内宮・外宮)、「瀧原宮」(向って左端)を赤のマークで表示したものです。

「瀧原宮」の南東方向へ約250mに「浅間山」があり、社殿のなかった古墳時代以前には、滝原の「浅間山」を崇め礼拝していたものと思われます。

「伊勢神宮」の東にも「朝熊山[あさまやま]」があり、同様に神宮に関わる信仰の山と思われます。

地図や、検索で、「浅間山」を探したら、付近にこれだけの「浅間山」が見つかりました。(探せばもっとあると思われます)

「浅間山」の意味、「浅間山」と古代信仰との関係など興味が湧いてきます。

旅行1日目は、これで終わり、いよいよ翌日の早朝に伊勢神宮の参拝です。

福山市「道三川」の川辺に咲くあじさい

2009年06月14日 | 日記
妻の風景画の場所探しで、福山市街を流れる小さな「道三川」を散策しました。

道三町の川辺できれいに咲く「あじさい」を見つけました。

霞小学校の南西に近い川辺で、名前は忘れましたが、小さな橋から撮った景色です。

福山市中央図書館前から駅前通りを横切り、「道三川」に沿って西の方向に歩いて行った場所です。

道三川は、江戸時代の初め、水野勝成公によって築城された福山城の外堀が残っているもので、福山市街の西を流れる「芦田川」から「吉津川」の支流が造られ、更に外堀だった「道三川」に流れているようです。

「道三川」の川辺には遊歩道が整備され、鯉が泳ぐ場所もあります。

又、小魚や、ザリガニを網で捕っている子供たちも多く、今日も見かけました。



ここにもたくさんの「あじさい」が咲き乱れていました。

霞小学校の南東にある霞橋の横の景色です。

川沿いのお家の方々が、精魂こめて作られているようです。

妻は、お許しを得てこの場所を絵にすることにし、スケッチに取りかかりました。



上段の「あじさい」を反対から見た写真です。

妻が、お家の方から聞いた話では、挿し木で花の種類を殖やされたそうです。



本当にきれいに咲いていました。

花は、数日前がピークだったそうで、ぼつぼつ終りに近づいているとのことです。



名前は、分かりません、ヒマワリに似た黄色い花が咲いていました。

道三川を歩くと、川沿いの方々のお陰で季節の様々な花が楽しめます。



妻がスケッチの後、お家の方から持って帰るようにと摘んで頂いた花です。

色々な種類を頂き、この花瓶に飾りきれず、もう一つの花瓶にも飾りました。

このクリスタルの花瓶は、ちょうど昨日購入したもので、記念撮影になりました。

油絵「硝子の花瓶のバラ」

2009年06月11日 | 妻の油絵
妻の油絵です。


5月の作品「硝子の花瓶のバラ」です。(F6号)

庭でたくさんのバラを栽培する知人から頂いたものを、描いた作品です。

ハウス栽培で一年中売られているバラの花と違い、露地植えの自然の季節に咲く花には格別の元気さと、美しさを感じます。

今月も又、バラの絵を描いていますのでいずれ掲載させて頂きます。

九鬼水軍が創建した尾鷲市「九木神社」

2009年06月08日 | 近畿地方の旅
5月2~4日に行った熊野・伊勢・志摩旅行の続きです。

早朝、福山市を出発、熊野市の鬼ヶ城 >> 花の窟神社 >> 産田神社と廻り、尾鷲市九鬼町の「九木神社」を参拝しました。

織田信長に従い、戦国時代に恐れられた「九鬼水軍」のルーツがこの地にあり、九鬼氏が創建した「九木神社」を知り、訪れたものです。



「九木神社」は、紀伊半島を周る国道42号から八鬼山トンネルを通り8Km余りの道のりです。

八鬼山トンネルや、紀勢本線がなかった時代、陸の孤島とも思える場所だったように思えます。

そのような土地に、なぜ戦国時代に名声を轟かせた九鬼水軍のルーツがあるのか、とても興味深いところです。

又、世界遺産となった熊野古道は、九鬼町の南西にある三木里町からの八鬼山越えで尾鷲市へ通じていたようです。



トンネルを抜け、坂道を下って行くと九木湾沿いの道に出ます。

向こうの山すそに九鬼町の集落が広がり、湾に面した右手にこんもりした小山の上に「九木神社」があります。

三方を山に囲まれた九木湾は、太平洋の荒波もなく、驚くほど波静な良港と思われます。

昔、船の航行では水や物資の補給、風待ちなどで各所の港に立ち寄っていましたが、太平洋に面した日本最大の紀伊半島の航行にはこの様な良港が必要だったと思われます。



道路脇の駐車場に九鬼水軍にちなむお菓子屋さんの看板がありました。

九鬼銘菓「九鬼水軍虎の巻」 錦花堂本舗とあり、小さな町の自慢の銘菓と思われます。



「九木神社」は、港に面した正面の山の上にあり、写真右手に鳥居が見えています。

この神社一帯の森「九木神社樹叢」は、貴重な自然が残り、国の天然記念物に指定されています。

特に、樹叢[神社の森]のシダ、クサマルハチは、日本で北限とされているようで、その他多くの暖地性植物が繁っています。



「九木神社」の入り口です。

ここから長い階段を上って行きます。

鳥居の右手に手洗い鉢があり、その後ろの立札に「清めの塩水 九木神社」「手を洗わないで下さい」と書かれていました。

鳥居の横に置かれた塩水で、お清めをするのは初めて見ます。

榊の葉に塩水を付けて御祓いをするようなイメージを持ちますが、実に興味のあるところです。



神社の石段から見下ろした景色で、九木湾の奥を見ています。

鳥居からすぐ前が海で、左手に桟橋、右手に九鬼市場の建物が見えます。

鳥居の横にお清めの塩水が見えますが、すぐ前の海から汲めるので真水を汲むより便利と思われます。



石段を上がり、奥に進むと神木と思われる大きな杉の木があり、その向こうに社殿が見えて来ます。

九鬼氏のルーツは、諸説があるようですが、狭く交通不便な九木湾岸に一族が住み始めたことを考えると戦いに敗れ、落ち延びたものと考えられます。

貞治年間(1362年~1366年)九鬼氏三代目次男の九鬼隆良が、志摩市大王町の波切に転進し、波切城城主となったとされています。

戦国時代、九鬼嘉隆の代になり、それまで従っていた北畠氏から、勢力の伸長著しい織田信長の傘下になったことが九鬼氏の大きな転換点となったようです。

織田軍と、毛利軍の大阪の石山本願寺の戦いに「九鬼水軍」は、火矢を防ぐ鉄板張りの戦艦で、毛利方の大船団「村上水軍」を打ち破り、この紀伊半島から大阪湾までの制海権を握る勢力となったとされています。

■参拝者向けの手作りの資料を頂き、その中に「九鬼の沿革」の記載がありました。
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九鬼の沿革
 九鬼という地名の由来には諸説あるが、日本地理資料によると正平年中(1346~1370)【南朝】に九鬼氏が城を築いてこの地に住まったので、九鬼と呼ぶようになったと書かれている。しかし、九鬼氏が当地に居城したのは数年の間であったようだ。
 九鬼家々譜略には、文和年中(1352~1356)【北朝】に隆良謂く、武名を天下に上げんことを願って壮士30余人を率いて海を渡り、志摩国英虞郡波切村に着いたと書いてあり、国史大辞典にも文和年中に志摩国に移ると書かれている。
 九鬼と称する以前は比志賀と称していたようだ。
 比志賀には伊勢神宮に献ずる塩を焼いていた御厨があったことが、鎌倉時代(1185~1333)の「神鳳抄」という書物に書かれているが、早田寄りの荒磯で塩を焼く程度の土地で、舟を繋留するような場所もなく、漁が出来るような場所ではない。
 平家の落武者が住んでいたと語り継がれている古田等の小集落が、平坦水利と静かな内湾を有する現在の地に居住するに至ったと思われる。
 尚、九鬼城については北牟婁郡地誌によると、慶長8年(1603)に九鬼恒隆が城を壊つと書いてあり、その城址は大正4年迄残っていたそうである。
 江戸時代に入ると九鬼以西の港と江戸とを行き交う船多く、天和2年(1682)に九木岬に遠見番所・狼煙場・燈明台が設置され、明治2年に廃す迄、九鬼水軍の末裔によってその任務は引き継がれていた。
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立札に「大漁の神 大黒(大国主命) えびす(事代主命)」とあり、小さな鳥居の後ろに二つのご神体と思われる石が置かれていました。

左手の石は、釣り竿を持ち、大きな鯛を抱えるえびす様と思われます。

なんとなく感じの出ている石です。



一見、寺院のお堂のようにも思える神社の拝殿正面の写真です。

閉め切って無人の神社が多い中、拝殿の中で参拝させて頂くことができました。

■参拝者向けの手作りの資料に神社の創祀が書かれていました。
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九木神社創祀
今から凡そ六百七十年前九鬼村開村間もなく藤原隆信(後醍醐天皇後村上天皇二氏奉仕)九鬼港に面する海岸のほぼ中央に位置する丘の上に小規模な城郭を築き、この開村から何もない時期に社寺、すなわち九木神社と曹洞宗真厳寺を建てられた。九木神社は隆信の嫡子隆治の時に創祀されたと伝えられる。そこで菅原道真公をお祭りした天満天神とは南国和尚(隆治十二世の孫)にお告げ有り前期(南国和尚)文章祭神となされました。(一三七五~一三七八)藤原隆治により九鬼城内に一祠を設け天満天神を祀ったのを創祀とし、後寛文二年二六六二)には現在の鎮座地に遷座し、それまでこの地の産土神として祀られていた若宮八幡・国柄明神と共に一社に祀られたと伝えられている。「天神」と称し近郷の人々の崇敬を集めていた。明治六年(一八七三)村社に列せられ、同三九年(一九〇六)神饌幣帛料供進社となり、昭和二一年(一九四六)宗教法人として届で現在に至っている。
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拝殿内の様子です。

左手の壁に掛けてあった菅原道真公の絵と、正面の祭壇の写真を並べています。

菅原道真公の絵は、どことなく憂いを感じるお顔で、服装には不思議な透明感があり、天神と祀られた姿を表現されているようです。

神社では、祭神のイメージをあまり強く感じることはありませんが、改めて祭神「菅原道真公」を印象付けられました。



「九木神社」宮司さんから頂いた葉書です。参拝の記帳をしていたためと思われます。

「このたびは ぬさも取りあへず・・・」は、菅原道真公の歌で、高校時代に習った百人一首の記憶がよみがえりました。

丁寧な礼状が、とてもうれしく、忘れられない神社になりました。

油絵「アジサイ」

2009年06月04日 | 妻の油絵
妻の油絵です。



5月の作品「アジサイ」です。(F6号)

最近ではよく描けた作品で、本人も少し満足のようです。

アジサイには、うっとうしい梅雨の季節をさわやかな気持ちにさせてくれる美しさがあるように思います。

これからの季節、絵を見て爽やかな気持になって頂ければ幸いです。

「伊弉冉尊」終焉の地、「産田神社」

2009年06月01日 | 近畿地方の旅
5月2~4日に行った熊野・伊勢・志摩旅行の続きです。

熊野市有馬町の「花の窟神社」の次にすぐ近くの「産田神社」へ行きました。



「産田神社」の入り口です。(駐車場は、道の向かいです)

鳥居の脇に神木と思われる二又の杉の大木がそびえ立ち、しめ縄が張られていました。

神社の名の由来は、「紀伊続風土記」に、里人の伝によれば、伊井再尊がこの地で珂遇突知神を産んだので産田と名づけたとしています。

火の神「軻遇突智」を産み、亡くなった地は、まさにこの場所で、葬られたのが「花の窟」だったと伝えられています。

現実的に考えると、弥生時代の女王伊弉冉尊[いざなみ]が、出産か、火災が原因で亡くなったのではと思われます。



正面石段の脇に熊野市の観光案内板と、「さんま寿しの発祥の地」と書かれた丸木の看板があり、隣の案内板には「ひもろぎ」と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)もあると書かれています。

「花の窟神社」と深い関連や、一部に熊野本宮大社の元宮との説もあり、歴史好きには興味深い神社のようです。

■案内板の向って右側の説明文です。
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産田神社祭祀遺跡
(熊野市指定文化財 史跡)
産田神社は弥生時代からの古い神社で、伊弉冉尊と軻遇突智神を祀っている。日本に米作りが伝えられた頃からあったと考えられおり、古い土器も出土する。
古代にはは神社に建物がなく、「ひもろぎ」と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)へしめ縄を張り神様を招いた。
この神社の社の左右にある石の台がそれである。日本で2ヵ所しか残っておらず、大変古くて珍しい。

弓引き神事(1月10日)
奥有馬、口有馬の当屋から各一人ずつ選ばれた弓引きは宵の宮、花の窟神社前の浜で身を清めた後、参籠殿にこもり一夜を過ごす。当日の朝は、産田川で身を清め、午前9時過ぎから行われる祭典が終了するまで、再び参籠殿にこもっている。式典が終わると弓引き神事が始まる。まず的に向って交互に2回矢を射る。次に4回ずつ矢を放って腕を競うのである。
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案内板にある「ホウハン」を描いたイラストです。

「弓引き神事」の後で行う直会[なおらい]の膳を描いたもので、「さんま寿し」も見えます。

産田神社の伝統的な祭り「弓引き神事」の直会[なおらい]の膳ホウハン「奉飯」の一品としてこの地で永く親しまれていることで、「さんま寿しの発祥の地」をPRしていることが分かりました。

冬の熊野灘は、さんま漁の季節で、1月の祭りに旬の食材を寿司にしたものと思われます。

熊野灘は、日本さんま漁発祥の地とも言われ、東北・関東の秋さんまと比較して脂が少なく、干物や、寿しに適しているようです。

■案内板のイラストの説明文です。
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ホウハン
祭典の際、拝殿で行われる直会[なおらい]のとき、「ホウハン」という特別な膳が出る。「ホウハン」の献立は、●米飯に白味噌を使った味噌汁をかけた汁かけ飯-碗 ●さんまを腹開きにし、骨を残したまま握ったすし ●生魚を細かく切ったものに唐辛子だけであえ、二切か四切を皿にのせた「アカイ」などである。
熊野市
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説明文の「アカイ」が、唐辛子だけで細かく切った生魚をあえたと書いていますが、味付けはしないのでしょうか?

唐辛子をワサビの代わりに使うことは聞いていますが、せめて醤油はほしいところです



鳥居をくぐり、まっすぐの参道を進むと、石垣で仕切られた第二の門があり、その手前に手水舎があります。

■参道脇にあった熊野市の案内板の説明文です。
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熊野市指定文化財
有形民俗文化財 産田神社の棟札
 棟札[むなふだ]とは、寺社民家を新改築したときの記録を建築に関係した人の名や経費、建築年月日を板に記入したもので神社の由来を知る一級資料である。
 産田神社には、百枚の棟札が保存されているが、今回文化財に指定したのは永正十八年(1521)と慶長元年(1596)同六年(1601)と同二十年(1615)の四点である。
 永正十八年の棟札は、永淑を本願とし、榎本朝臣和泉守忠親が奉行となり、神主が藤原森純とし、高さ六十三センチの杉材の表に墨書している。裏面には、これに要した米とその場所など記入している。
 詳しいことは、昭和六十三年に発刊した「神社棟札」を参照されたい。
 熊野市教育委員会
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「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると
”一方、この棟礼には祭主として、「紀伊牟婁郡有馬荘司榎本朝臣和泉守忠親・神主藤原森純」の名がみえるが、『紀伊続風土記』によれば、「上古は榎本氏が代々神官として社領の地を治めていたが、中世以来別に神官をおいて神事をさせた。藤原森純はその神官である。天正(一五七三-九二)のころ榎本氏が断絶し、そのとき宮社は兵火にかかって古記録も焼失した。”
とあり、戦国時代末期に古代から続いた体制が崩壊、その貴重な歴史資料の多くも失われたようです。



第二の門を奥の方から見た様子です。

境内は、この石垣で仕切られ、高い聖域に入ることを感じさせられます。

「産田神社」の西側には参道と並行して産田川が流れ、川に通じる道もあり、伊勢神宮の五十鈴川の手洗い場所を連想します。



正面の建物は、中央通路が拝殿、両側が社務所のような構成になっています。

中央通路の奥で参拝しますが、やや窮屈な感じでした。

両脇の狛犬は、体の割に頭の大きく、どことなくのんびりした表情で親しみが湧きます。

■拝殿にあった祭神の案内板を転記します。
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本社御祭神
伊弉諾尊、伊弉冉尊、軻遇突智尊
合祀御祭神
天照皇大神、大山祗命、木華開耶姫命 神武天皇
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7柱の神様が祀られているようです。

「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると”『三重県神社誌』によれば、当社の祭神は伊弊諾尊・伊弉冉尊・軻遇突智尊・天照皇大神・木華咲夜姫命・神武天皇・大山祀命の七神となっているが、永正十八年(一五二一)霜月十四日の棟札(写)に「奉棟上産田神社二所大明神」とあることから、もとの祭神は伊弊再尊と珂遇突智尊の二神であったと推定される。”と書かれてあり、伊弉冉尊終焉の地を感じさせられます。



産田神社の本殿の前に白い玉砂利が敷き詰められていました。

下にある熊野市の案内板では「ひもろぎの跡」と伝えられる場所が残っているとありますが、本殿の両脇に10個程度の平たい石が固めて置かれていました。

「ひもろぎの跡」は、他の参拝者がいて白い玉砂利の聖域に踏み込むことを躊躇し、撮影出来ていません。

■参道脇にあった祭祀遺跡の案内板を転記します。
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熊野市指定文化財
 史跡 産田神社祭祀遺跡
 所在 有馬町1814番地
 指定 昭和39年4月28日
 祭日 毎年1月10日(昔は陰暦1月10日 11月15日)
 由来 「日本書紀」一書に女神伊弉冉尊(いざなみのみこと)がここで火の神軻遇突智(かぐつち)を産み亡くなったので花の窟に葬ったとある 産田という名は 産んだ所と伝えている。
この付近では 埋蔵土器が多く出土し 考古学的にも先史古代にわたる古さを物語っている。
太古社殿の無かった時代のひもろぎの跡(神の宿る所)と伝えられる場所も残っている。
 平成20年3月 日
 熊野市教育委員会
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「ひもろぎ」(神籬)の参考のために福岡県宗像市「宗像大社辺津宮」の奥宮とされる祭場「高宮」を紹介します。

今年3月、福岡旅行で撮ったもので、石で囲われ樹木が立っている場所が「ひもろぎ」と思われます。

石で囲まれた聖なる木に神が降臨されるようで、いまでもこの場所で古代からの祭祀が続いているそうです。

福岡県の「宗像大社」は、三ヶ所の神社がセットの名称で、「辺津宮」(宗像市田島)の他、「中津宮」(すぐ沖にある筑前大島にある)、「沖津宮」(更に沖の沖ノ島にある)で構成されています。

産田神社の「ひもろぎ」説明は、本殿脇の固めて置かれた石組みを「祀り場」(祭祀台)を指し、「宗像大社」とは少し意味が違うようです。

■宗像大社「高宮」の案内板を転記します。
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高宮[たかみや]
宗像大神御降臨の地と言われています。社殿がいまだ創建されない悠遠[ゆうえん]のいにしえこの地で祭祀が行われ敬虔な祈りが捧げられたのであります。
現在でも一日、十五日の月次祭[つきなみさい]をはじめ春秋の大祭には本殿に先がけてお祭りが斎行されており全国でも数少ない神籬[ひもろぎ]、磐境[いわさか]の古代祭場であります。
 宗像大社
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宗像大社の「高宮」をさらに登り、「宗像山」の頂上にあった祭場「上高宮」で、「高宮」の祭場よりずっと古くからあり、素朴で、小さなものでした。

木が茂り、今は展望できませんが、かってはこの祭場から沖の海にある「中津宮」「沖津宮」を遥拝していたと思われます。

この場所は、「高宮」で参拝している時、信者の会の世話役さんとおぼしき方から教えて頂き、参拝出来たものです。

古代祭祀の一端を少し実感できたような気持ちです。



産田神社の本殿前の様子です。

なかなか良い面構えの狛犬がいます。

神社入り口の案内板に「古い土器も出土する」とあり、関連資料を探して見ました。

「日本の神々 神社と聖地6」(谷川健一編 白水社)によると
”昭和三十四年(一九五九)の伊勢湾台風のとき、境内の杉の大樹が根返りし、その下から弥生中期の土器片が出土した。また付近の津の森遺跡からは、独特の器形をもつ弥生後期の襲や土師器が多量に出土している。”
とあり、この一帯では最も規模の大きな遺跡のようで、神話にも符合するような弥生時代の遺跡があったことは興味深いものです。

神社から国道に向かう途中に「熊野市歴史民俗資料館」があり、遺跡から出土した遺物を展示しているようです。(残念ながら立ち寄れませんでした)

もしかしてその中に女王「伊弉冉尊」の遺品があるのかもしれません。

「なぜ伊弉冉尊がこの地にいたのか?」今回熊野で一番知りたかったことです。

理由は分かりませんでしたが、この地にいたのではないかという思いが強くなりました。