昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

消えた古代文明「インカ・マヤ・アステカ展」で感じたこと

2008年01月28日 | 日記

昨日、岡山駅西口前のデジタルミュージアムで開催中の「インカ・マヤ・アステカ展」に行ってきました。

先週19日、入場者が1万人を突破したニュースを聞き、混雑を心配していましたが、約3.5時間ゆっくりと堪能することが出来ました。

会場南隣の駐車場の係りの人が前売り券をローソン(会場ビル1F)で販売していると教えてくれましたが、事前にJR緑の窓口で購入していました。

上の写真は、「インカ・マヤ・アステカ展」のパンフレットです。
裏にも写真が印刷されており、下の記事に使わせて頂きました。


4階の会場入り口です。
展示は、4・5階で、マヤ・アステカが4階、インカが5階に展示されていました。



パンフレットにあった中南米の地図で、アステカ・マヤ・インカの繁栄した地域が示されています。
「マヤ文明」は、密林にそびえる大ピラミッドを上空から迫力のある映像で鑑賞出来、群立する都市国家と、国家間の戦争、敬虔な太陽信仰と、残虐な生贄なども非常に印象的でした。
又、神や王のレリーフに「マヤ文字」が刻まれ、現在解読が進んでいることも初めて知りました。
インカ文明には文字がなかったと言われ、マヤ文明も同様と思っていました。
表音文字と、表意文字の組み合わせであると説明されており、後のインカ文明に影響しなかった理由にも興味が沸きます。

「アステカ文明」は、湖を埋め立て、大都市を建設、現在のメキシコ・シティーとしても使われている点が、オランダとの類似点を感じます。
埋立地の農業は、湖底の肥沃な土をすくい上げて生産性の高い農産物の栽培が行なわれていたことにも関心するばかりでした。
スペインに征服されて出来た現在のメキシコ・シティーは、かっての古代都市の上に造られ、堅牢な基礎の石組みはそのまま利用されているようです。

「インカ帝国」では首都クスコを中心に帝国全土に総延長4万キロの「インカ道」が造られていたそうです。
山岳地帯の絶壁に延々と築かれた「インカ道」は、想像を絶する大事業だったと思われます。
又、インカ王が死んでも領土や、召使は保持され、ミイラとなった王の生活は継続されていたようです。
次の王は、新たな領土を確保する必要があり、それがインカ帝国の急拡大の背景となっていたと考えられているようで、インカ社会のユニークさを感じます。
現在でも集落の道端の小屋に安置されたミイラに日常的な挨拶や、お祈りを行なう習慣が残っているようで、生死の区別が緩やかな文化に驚くばかりでした。



パンフレットに印刷されていたマヤ文明古典期後期(AD600-900)の「ヒスイの仮面」です。
カラクムル遺跡最大のピラミッドにある神殿の床下の墓から発見されたそうです。
仮面は、王の顔につけて埋葬されており、光沢のある美しい緑の翡翠(ひすい)のモザイクで全体を覆っていますが、部分的に貝、黒曜石なども使われており、技術の高さに感心します。

紀元前5000年前からの青森県の縄文遺跡「三内丸山遺跡」でも糸魚川産の翡翠(ひすい)の加工品が多く発見されています。
翡翠(ひすい)は、硬石とも言われ、とても硬い石でのようで加工にはかなり高い技術があったようです。



今日の見学で最も印象的だったのがこの「ワシの戦士象」で、アステカ文明 後古典期後期(AD1345-1521)と日本では室町時代にあたります。
人と同じ位の大きさで、両膝の位置に鷲の足ような三本の爪が付けられていました。
神に捧げる生贄(人)を得るために戦いに行く戦士の家に置かれていたそうです。
パンフレットに掲載されていた写真です。



写真は、墓地から発掘された父と、子のミイラで、乾燥したインカでは比較的簡単にミイラができるようです。
同じような帽子をかぶり、親子仲良く墓の中で生活するように埋葬品に乾燥した食糧があったようで、深い家族愛を感じるものです。

インカ文明では、人の生死に対する区別が非常に緩やかだったようです。
人は、死んだ後にミイラにされ、それまでと同じように生活する習慣があったようです。
インカ帝国が、急速に拡大した理由も、先代の王が死後も領地を保有し、新しい王の領地は新たに得る必要があったためとも言われています。



「キープ」が展示されていましたが、まったく写真が撮れなかったので会場外の案内パネルを写しています。

インカには文字がなかったと言われ、ヒモの長さ・色・結び目などで情報を記録し、伝えるこの「キープ」が使われていたようです。
沖縄県でも「キープ」と同様の「藁算」が近年まで使われており、このブログ<2007-04-29 竹富島の「藁算」は、古代インカ帝国にもあった>にも記載しています。


「キープ」の拡大した写真です。
よく見るとかなり複雑なものです。

聖徳太子の時代、中国の「随書倭国伝」の倭人の風俗を「文字が無く、木を刻み縄を結ぶ」と記載されているようです。
古代日本でも「キープ」や、「藁算」があったかも知れませんね。

その他、三文明に共通する彩色土器の芸術的な形状、絵、模様の美しさにも関心させられました。
厚みがとても薄く、焼物や、彩色の技術の高さは、予想外でした。

油絵「深紅のバラ」

2008年01月26日 | 妻の油絵
昨年11月頃に描いた「深紅のバラ」の油絵(F6号)です。

深紅のバラが、カスミ草と、花瓶の黄土色の帯、薄い焦げ茶色の背景との組合せで気品のある雰囲気を感じさせてくれるようです。

花の絵を描く時、背景色を決めるのが悩ましいと言っています。

唐桑半島ビジターセンターで知った日本史上最大の大津波

2008年01月23日 | 東北地方の旅

唐桑半島の観光案内パンフレットに掲載されていた唐桑半島の地図です。
半島を縦断する道路が南の御崎地区で終点となった所に「御崎神社」があり、その手前の三叉路を左に曲がると「唐桑半島ビジターセンター」があります。



「御崎神社」の前の広い駐車場に「御殿トイレ」の名の公衆トイレがありました。
「巨釜」「半造」の駐車場にも同じように「御殿トイレ」があります。

トイレの外壁に青色の表示板が見えます。
明治29年6月15日の大津波で、唐桑では人口の四分の一の約1000人が死傷したようです。



トイレの外壁にあった説明板です。
よく見ると地震が発生した場合の、津波から避難する注意書きでした。

唐桑半島では過去に幾度かの大津波の被害があったようです。



「唐桑半島ビジターセンター」です。
正面から見るとなだらかな三角の屋根の中央に四角に切り込んだ玄関が印象的です。






明治以降の大地震大津波の展示パネルで、左右を分けて上下に並べています。

津波の被害の規模ではこの地で発生した「明治三陸大津波」が最も大きく、明治29年6月15日、マグニチュード8.5、死者・行方不明者22,000名と、群を抜く大被害だったようです。(明治以前の日本の歴史で知られている範囲でも死者・行方不明者は最大規模のようです。)
又、マグニチュードの規模8.5も、「チリ地震津波」と並び、これも最高の数値です。
二番目の被害の規模でも「昭和三陸大津波」となっており、明治以降の大津波ではこの地が最大の被害を受けていたことを知りました。

有名な「大正12年9月1日、関東大震災、マグニチュード7.9、死者・行方不明者142,807名」や、近年の「平成7年1月17日、阪神・淡路大震災、マグニチュード7.2、死者・行方不明者5,500名」も記載があります。

明治以前の日本の大津波の歴史では、1792年(寛政4年)「島原大変肥後迷惑」の言葉で知られるの島原湾の大津波の死者が約15,000人で「明治三陸大津波」に次いで二番目の規模とされています。
1771年(明和8年)、沖縄県南部の八重山諸島で発生した「明和の大津波」が三番目の規模のようです。
「明和の大津波」の概要は、このブログで2007-05-23<石垣島 「伊原間海岸」の津波石>で掲載していますが、2007-04-23掲載の<石垣島大浜の巨大な津波石>は強烈な印象を受けました。



「唐桑半島ビジターセンター」のパンフレットの一部です。
被害の写真を見ると大津波の恐ろしさを痛感します。



津波の発生するメカニズムを模型で分り易く説明されています。
水槽の中央下に操作盤があり、「小さい津波」「大きい津波」と表示された二つのボタンスイッチがあり、説明書きがありました。

■説明書きを転記します。

津波は岸に近づき海が浅くなるにつれて、前の波に後ろからの波が追いつき折り重なる形となり、急速に高くなります。そのうえラッパのように、沖に向かって開いている湾などに入ると、波は両脇からも圧縮されていよいよ高くなり、大津波になります。
津波の押し寄せる様子と上の波高計をご覧ください。



「唐桑半島ビジターセンター」のパンフレットにも模型が掲載されていました。



「津波体験館」の様子です。
ミニ映画館のようで、前方のスクリーンと、両サイドのカーテンを明けた壁面に映像が映されます。
座席は、振動する構造になっており、180度以上の広い角度に映される津波の映像に合わせた震動と、大津波の轟音などで短時間の津波体験をさせて頂きました。



「津波体験館」の写真です。
写真の向かって右が、カーテンを開いた壁面です。
天井も鏡のようになっていました。



「唐桑半島ビジターセンター」のパンフレットの一部です。
「津波体験館」が掲載されていました。
写真撮影が出来なかったので拝借しました。

唐桑半島御崎の「鯨塚」と、古代文字の塚

2008年01月20日 | 東北地方の旅

御崎神社に参拝した後、御崎岬の方向へ歩いて行きました。
松林の中に遊歩道が続いています。



遊歩道が二股に分れる手前右手に「鯨塚」の案内板があります。
■内容を転記します。
昔、嵐にあった漁船を鯨が御崎神社沖まで誘導し、無事救ったという伝説があり、この鯨の霊を祀ったものである。神社では、毎年正月7日の朝、神酒、イワシと塩とを塚に供えて鯨を供養している。又、鯨は神社の使いであるとの信仰があり、氏子は鯨を捕ること、その肉を食べることはしない。

これが1月17日、このブログで掲載した「御崎神社」のお祭りで売られている「早波舟(さっぱせん)」の由来となった鯨の伝説のようです。
御崎神社の氏子は、鯨を捕獲したり、食べたりしないと書かれていますが、南にある石巻市、南牡鹿半島の南端鮎川では江戸時代から鯨漁が盛んで、南極の捕鯨基地としても栄えていた歴史があります。
この三陸の南部で鯨を食べない習慣があったわけではないようです。



曲がり角に杉の木があり、右に曲がったすぐ右手に「鯨塚」があります。
「鯨塚」は、三つの自然石に文字を刻んだ石碑です。
手前の石は、杉の木にもたれかかるように斜めに建っています。
中央の石には朝日が当り、白く光っています。
一番向こうの石は、その下部に花立ての穴があるようです。



向って左の石には「鯨塚」の文字が刻まれています。
細い竹が立って、その先に白い紙が付いています。
御幣(ごへい)が古くなり、紙のほとんどがちぎれたものと思われます。



中央の大きな石で、何やら訳のわからない文字で書かれています。
石上部中央に大きな変な字で3文字、右下には3列の筆文字で俳句のような文字が刻まれていました。
中央の1・2番目の文字上部にはチューリップの花のような模様がふたつ並び、文字下部には丸文字のような感じに書かれてますが、よく読めない字です。
3番目の文字の下部は、「羽」と思われ、上部が「ハ」の下に「○」のように書かれているので「「翁」と読めるようです。
右下の文字を俳句とし、中央の文字を「芭蕉翁」と読めないこともないようです。

かなり面白いアレンジがある文字で、この鯨塚を建てた人は、かなり遊び心のある人ではないかと思われます。
江戸時代に作られたと言われ、「粋(いき)」な人が作ったのでしょうか。


この写真は、ひとつ上の写真の右下が出っ張った部分です。
書かれている文字は、俳句が短冊にかかれたような感じで、二行目の最初に「月」と書かれ、最後の文字は「涼し」とかかれているようです。
芭蕉の句を探しても該当する句が見つかりませんでした。



向って右の石で、これにも「鯨塚」の文字が刻まれています。
この石の形は、頭を杉の木に寄せているようにも見え、このように傾き、変形したような石を選んだ点にも遊び心を感じます。



鯨塚の前にある「御崎漁業用無線局」の建物です。



「御崎漁業用無線局」の前を通り過ぎた所に変わった石碑がありました。
記号とも文字ともつかないものが刻まれ、子供のいたずらでもあるまいし、まったく意味不明でした。



石碑はこんな感じです。

もしかして「古代文字」かと思い、調べてみたら複数のサイトで古代文字「阿波文字」で「クエラツカ」と書かれていることが掲載されていました。
確かに文字を確認したら「クエラツカ」のようで、「クジラ ツカ」と書くところを誤って書いたものと推察されます。
「鯨塚」のすぐそばに建てられており、古代文字の発見話は江戸時代に多かったこととされていることから洒落で作った塚だったかも知れません。
しかし、鯨塚と離して建ててある点から、別の人が別の目的で建てた可能性もあるように思えます。

日本での「古代文字」は、ひらがなを別な「記号・絵」に置き換えたものが多いようで、平安時代以降の偽作と考える人が大半のようです。

2007-04-30このブログで掲載した八重山諸島で使われていた象形文字が、最近中国で発見された「絵文字・記号文字」と類似しており、中国で最古といわれていた「甲骨文字」よりはるかに古いものとされています。
古代文字には、たくさんの種類があり中には本物がないとも言えません。
大切なことは古代文字で書かれた文献が真実か否かが問題で、仮説の一つとして研究し、評価したら良いのではないかと考えます。

油絵「水仙」

2008年01月18日 | 妻の油絵
最近、妻が描いた油絵「水仙」です。
やや細めの花瓶いっぱいの元気な黄色いスイセンが描けました。

スイセンのイメージからでしょうか、なぜか落ち着きのある絵になっているようです。
緑の茎、黄色い花が元気付けてくれる感じです。

スイセンは、地中海沿岸が原産地で、スイセン属ヒガンバナ科の多年草だそうです。
花の中央にあるオレンジ色の筒状の部分は「副花冠(ふくかかん)」と言い、とてもユニークな部分です。
スイセンは、日本の花のイメージがありましたが、室町時代に渡来したそうで、遠い地中海沿岸からずいぶん長い旅をしてきたようです。

スイセンの花言葉は、「自己愛・うぬぼれ」だそうです。
又、黄色いスイセンの花言葉は、「私のもとへ帰って」「愛に応えて」とあります。

この絵は、いつも遅い時間に疲れて帰る私へのメッセージでしょうか???

唐桑半島「御崎神社」で想う古代「日高見の国」

2008年01月17日 | 東北地方の旅

唐桑半島の南端の御崎地区にある駐車場にあった「御崎観光案内図」です。
この地区一帯の観光案内が説明されています。

■向って左下の説明文を転記します。
「名勝御崎のみどころ」
●御崎神社
松や杉の巨木が茂り合う亜熱帯性植物タブの木のうっそうたる御崎の森に鎮座する1000年余りの歴史がある神社で、海の神様として地元の人々の信仰をあつめています。
●唐桑半島ビジターセンター
津波体験館
唐桑の自然と人とのかかわりをハイビジョン・パネル等により紹介する展示館と自然の脅威、大津波を映像・音響・振動などで表現し視聴覚による「津波の体験」ができる全国唯一の施設です。

御崎遊歩道は、海蝕によってできた数々の奇岩と雄大な太平洋を眼下に眺めながら、なだらかな起伏が続く約1Kmの道で30分程で周回できます。



駐車場に面して「御崎(おさき)神社」がありました。
きれいなしめ縄、朱塗りの塀、石の鳥居、参道、など掃除が行き届き、すがすがしい気持ちで参拝をさせて頂きました。
鳥居の横の黒い石柱に「御崎神社」の神社名が刻まれています。



鳥居の正面から石段の上にある拝殿を見た景色です。
鳥居の向って右の石柱に「御崎山 日高見神社」の神社名が刻まれています。

その隣にあった黒い石柱の「御崎神社」と二つの神社名があります。
家に帰っても気になり、調べてみました。
明治の初め頃、「御崎神社」は、神社名を「日高見神社」に変更し、昭和四十年代には再び「御崎神社」に戻したようです。

「日高見神社」は、宮城県石巻市桃生町に陸奥国桃生郡の式内社とされる「日高見神社」があり、関りがあるかも知れません。

「日高見」の名は、「日本書紀」に見られ、景行天皇(第12代天皇)の命で、武内宿禰が東国を視察したことが書かれています。
その内容は、「日高見国」は、蝦夷(えみし)の国で、入れ墨や、男女の髪型が紹介され、広大で肥沃な土地なので攻めるよう進言しています。
その後、景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)による東夷征伐があり、蝦夷を平定した物語となっています。

神話時代からとも言われている「大祓詞(おおはらえのことば)」の最初頃の一節で、「大倭日高見(おほやまとひだかみ)の國を安國(やすくに)と定め奉(まつ)りて・・・」とあります。

「日高見国」は、東北地方一帯を表す名称のようで、「大倭日高見の國」とは東北地方が、神話時代からヤマトの一部であったかも知れません。

平安時代初期、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を平定したとされていますが、初めて平定したわけでは、地方が独立と、統一が繰り返される歴史があったものと推察しています。

又、武内宿禰が蝦夷(えみし)の国で、入れ墨や、男女の髪型を紹介している一節は、「魏志倭人伝」の「男子は大小無く皆鯨面文身」を思い浮かべます。
かっては「鯨面文身」の文化を共有していたが、「日高見国」がヤマト文化圏から離れ、昔の風習を温存していたとも考えられます。

「蝦夷」「熊襲」「隼人」など異民族のようなイメージがありますが、時代変化の差と、地域の文化の違いで異民族のような言葉を生んだのではないかと推察しています。



石段を上がった左右に狛犬がありました。
ずいぶん風化していますが、頭にコブがあり、古風な狛犬です。
古い神社に木製の狛犬があり、頭に一本のツノがあるのを見ますが、このコブはツノだったのでしょうか。



なかなか立派な拝殿です。
狛犬がもう一対拝殿の前にありました。



拝殿に向かって右の建物です。



拝殿に向かって左の景色です。
何の木かおぼえていませんが、大きな木がありました。



拝殿に向かって左の建物です。
絵馬を掛ける小屋や、隣に二柱を祀る神殿、その奥には大黒天・えびす神を祀る神社があります。



向って左が「大黒天」左が「えびす神」のようです。
とてもふくやかなお顔です。



拝殿横から本殿を見た景色です。



御崎見物の最後に行った「唐桑半島ビジターセンター」で珍しいものが陳列されていました。
「御崎神社」では1月に盛大な祭があるようで、たくさんの露店が並び、境内には縁起物の郷土玩具が売られているようです。
上は「風車」「はじき猿」のセットだそうで、「風車」は福がくるくる廻ってくると言われ、「はじき猿」は、災いをはじき去ると言われているそうです。

このダジャレグッズで、たくさんの露店が商売繁盛しているのには感心します。

下の写真は「早波舟(さっぱせん)」です。
さっぱ舟は、昔、江戸に向かった船が嵐に会った時、鯨が現れて御崎の浜まで導かれ、助けられた伝説があるそうです。この一帯の漁師さんたちが買って帰り、神棚に供えて海の安全を祈るそうです。

唐桑半島の奇岩が続く「半造」の海岸

2008年01月12日 | 東北地方の旅

宮城県気仙沼市にある唐桑半島の「半造」の駐車場にあった「巨釜・半造」の観光案内図です。
向って左の「巨釜」の駐車場から右の「半造」の駐車場に車で移動し、見物を再開しました。

■案内板の左下隅にある案内文を転記します。
半造の見どころ
この一帯は、海の資源が豊富なことろであわび等の海産物の恵みで生活をし繁昌したことからこの地を明治後半まで「繁昌」と呼んでいました。
この後繁昌を「半造」となまりかけて現在の呼び名となりました。また、釜の半分だけ完成したような形なのでこう呼ばれるようになったと言われています。
案内板の横、小道を下ると約2Kmおよそ徒歩40分で半造を一周できる遊歩道があり東風穴・トンネル岩など雄大な海岸美を楽しめます。
また巨釜へは前田浜・海中公園を眼下に遊歩道が整備されており、約1Kmおよそ徒歩20分の道のりです。



遊歩道を進んで行くと入り江があり、岩壁の下に荒波が打ち寄せています。
朝日に輝くこの美しい景色に心がすがすがしくなりました。

案内板にある「狙板岩」「トンネル岩」などどこにあるのかよく分りませんでした。



「潮吹岩」です。
下半分が無くなった「案内板」があり分りましたが、一部しか読めませんでした。
「潮吹岩」の案内板には「折り重なる岩の根元に波がぶつかると、岩と岩の隙間から妙音と共に潮が吹き上げ・・・」とあり、以下はなくなって読めません。

写真では、岩の穴の周りが茶色になっており、潮が噴き出た痕のようです。
穴の中から波の音がしていましたが、潮吹きはありませんでした。
かなりの荒波でないとムリなのでしょうか。



「潮吹き穴」の中をのぞいてみました。
どうも潮が出てくる感じはありません。



「東風穴(こちあな)」だそうで、チョット風流な名が付けられています。
太平洋からの「東風」がつくる荒波の打ち寄せる圧力で、地下から圧縮された空気が噴き出てくるものと思われます。
「潮吹き穴」の近くにあり、原理は同じようです。
どこからともなく音が響いていましたが、どんな音か忘れてしまいました。



すぐ近くの別な場所にも二つ「東風穴」がありました。
少し小さな穴でした。



奇岩が続く海岸そばの景色です。
マーガレットのような花が咲いていました。
この地方に咲く海辺の秋の花で、「浜菊」のようです。
「浜菊」白く大きな花と、肉厚でツヤのある葉が特徴で、茨城県から北の本州太平洋側に分布しているようです。
唐桑半島「巨釜・半造」の海岸のあちこちに咲き乱れていました。


荒々しい波が押し寄せる岩だらけの海岸です。
黒っぽい岩ですが、資料によると大理石かも知れません。



「トド岩」がありました。
ウミネコが群がっていました。

■案内板を転記します。
「トド岩」
トド(アシカ科)は、太平洋北部に繁殖し、千島列島、北海道北部などで見られる海獣ですが、潮流に乗って南下したものがこの岩で身を休ませていることがあるのでトド岩と云われている。



海岸の急な斜面に「浜菊」が咲き、巨石のある美しい海の景色は最高です。



岩壁の下を見た景色です。
波間が上下する辺りの岩の色が赤紫に見えます。
ひとつ上の写真にも見えますが、この辺り一帯でよく見られました。
なぜこんな色になるのか分りませんが、とても不思議です。



半造の半島から南を見た景色です。
手前の岩の周りに白波が見え、向こうには岩礁・小島が並び、とてもいい景色です。

シャコバサボテンが満開

2008年01月08日 | 日記

我が家のシャコバサボテンがほぼ満開になりました。
とは言え、まだツボミは2割程度残っていますが、最初に開いた花は枯れ始めているので開花数ではピークの状態です。

一昨日天気が良かったので久しぶりに居間からテラスに出して撮影しました。
小さなテラスのテーブルからはみ出して咲き誇っています。



横から見たシャコバサボテンです。
かわいらしい花が次々に開いています。
昨年春、ひと回り大きな鉢に植え替え、芽を摘んだ成果で、今年の花の数は最高です。



花びらが、まるで胸を張って両腕を精いっぱい後ろに反らしたように広がっています。
何本もある白く細いオシベに囲まれた赤いメシベが、ひと際高く伸びて気品さを漂わせています。
花の周りにはツボミがまだ少なからず残っており、1週間以上楽しめそうです。

唐桑半島の断崖から見た「巨釜」の絶景

2008年01月06日 | 東北地方の旅

民宿の朝食を早く済ませ、唐桑半島の観光に出発しました。
先ず「巨釜・半造(おおがま・はんぞう)」の見物です。

この辺りの海岸線は、海蝕で出来た非常にたくさんの奇岩が続いています。
奇岩に荒波がぶつかり、迫力のあるしぶきも魅力的です。

上の図は、「巨釜」の駐車場にあった案内板です。(図の上が東方向になります)
向って左の半島、「巨釜」エリアからスタートです。



上の案内図の横にあった唐桑半島全体の案内図です。
唐桑半島の付近が、宮城県の最北端になります。
気仙沼港と、市街地は、向って左の気仙沼湾のいちばん奥付近にあります。

唐桑半島の見物は、「巨釜・半造地区」の後、半島南の「御埼地区」、次に半島北の「大理石海岸地区」の順で廻りました。



駐車場からなだらかな松林の中の遊歩道を歩いて行くと柵があり、断崖の下に雄大な海岸の景色が見えてきます。(北の方角の景色です)

日の出直後の早朝6時過ぎで、遊歩道の所々にに気持ちの良い朝日が差し込んでいました。
遊歩道は、海岸線の柵に沿って「半造」まで続いています。


「巨釜・半造地区」の案内図にもある「水取場」と思われる所です。

■「水取場」の案内板があり、転記します。
美味しい清水が湧いている場所で漁師が沖から漁の帰りに渇いた喉を潤したと云われている。 (清水の湧き口は前の入江の左奥)



見晴しのよい場所から、北の海岸線を見た景色です。
変化に富む奇岩と、その巨大さに感動します。

あまり風がない日でしたが、波しぶきが上がっているのが見えます。



上の景色を少し場所を変えて撮った写真です。
手前のそそり立った岩の巨大さが分ります。

この雄大な海岸の景色を見ていると、なんとなく和歌山の串本辺りの海岸を思い出しました。



遊歩道を進むと「折石(おれいし)」が見えてきました。
日の出の少し後で、逆光の写真になってしまいました。
この辺りでは一番の奇岩です。

下記の説明にあるように2mも短くなってこの高さとは驚きです。
折れる前の「折石」は、どう呼ばれていたのか興味のあるところです。
「折石」の名は痛々しさを感じます。

■折石の案内板を転記します。
前にそびえる石柱は、高さ16m、巾3mの大理石で、明治29年(1896年)三陸大津波の時、先端が2m程折れたことから折石と呼ばれている。



折石の写真です。
この後に行く「唐桑半島ビジターセンター」のパンフレットにあった「折石」の写真を拝借しました。
上の写真とほぼ同じ方角から撮ったものです。

やはりお天気の良い日中に撮影しないときれいに撮れないようです。



折石の写真を撮った場所付近の断崖の様子です。
このような高い断崖の上の柵から見下ろす荒々しい奇岩の海岸は、足がすくむ格別の景色でした。



「八幡岩」です。

■「唐桑半島ビジターセンター」のパンフレットに以下の説明がありました。
大理石の海蝕により奇岩が連続し、前田浜から沖合を見たとき、あたかも大きな釜の中でお湯が煮えたぎつているように見え、また、沖にある「八幡岩」が蓋のようにも見えることから「巨釜」と呼ばれています。

巨釜と、半造の中間にある入江の前田浜から見た景色から「巨釜」の名が付けられたとあります。
前田浜より少し西から撮った写真ですが、どうも煮えたぎっているようには見えません。
潮の満ち引きで湾内が渦巻くことにより、煮えたぎって見えるとも言われていますがいま一つピンときません。


海に浮かぶ大きな「八幡岩」の上にたくさんのウミネコが群れていました。
ウミネコは、チドリ目カモメ科で、中型のカモメだそうです。
猫に似た声ですぐに分ったのでズームで撮ってみました。



巨釜から半造の方向を撮った景色です。
岩の上でよく育った松の木もこの絶景を演出しているようです。

案内図にある「貞任岩」は、手前に見える岩辺りかと思いますがよく分りません。

「八幡岩」「貞任岩」の名は平安時代後期、東北地方で起きた前九年の役(ぜんくねんのえき)」にまつわる伝説から名付けられたようです。

「前九年の役(ぜんくねんのえき)」は、鎮守府将軍源頼義、義家親子が出羽(秋田)の豪族清原氏と組んで、陸奥の豪族安倍氏を滅ぼした12年にわたる事件です。

伝説の内容はよく分りませんが、戦いに敗れた「安倍貞任」がこの地に逃れ、「貞任岩」に隠れていたのを源義家に捕らえたことから名付けられたものと思われます。
又、「八幡岩」は、源義家が、鎌倉幕府を開いた頼朝の曾祖父で、八幡太郎義家の別名で崇められたことからこの名がついたものと思われます。

気仙沼~岩手県南部の旅行初日

2008年01月03日 | 東北地方の旅
2007年10月6日から9日まで3泊4日の東北旅行の記録を掲載します。



広島空港の14:00発、仙台空港へ15:30到着の便で出発しました。
仙台空港から来た便が折り返す運航で、遅く出て早く帰ると言う旅行者から見ると何とも情けない便です。
行き帰りとも移動で1日つぶれ、3泊4日とは言うものの、実質2日の旅行になります。



この飛行機に乗りました。
離発着の少ない暇な時間帯のせいか、係の人ものんびりとしているようです。
狭そうなキャビンには2人のパイロットが乗っていました。



14:15頃、鳥取県の「裏大山」を見ることが出来ました。
かすかに三保湾が見えています。

日本海沿いに新潟まで行き、そこから内陸部を仙台へ飛行します。
仙台までの空は、よく晴れて窓から見える景色を楽しめました。



14:20頃、鳥取市が見えてきました。昨年3月にもこのブログに同じような眺めを「上空から眺めた鳥取市」で掲載しました。
日本海に注ぐ「千代川(せんだいがわ)」と、向って右の海岸に「鳥取砂丘」が見えます。
向って左上には「湖山池(こやまいけ)」があり、海水と淡水が混じり合う「汽水湖」と言われています。
湖山池に川が流れ込み、湖山川から流れ出るのになぜ「汽水湖」なのかチョット調べてみました。
湖山池は、湖山川で日本海と結ばれており、潮の干満と水門により海水の取り込みが調整されているようです。
近年、水質の悪化、塩分濃度の低下で魚も減少し、改善に苦慮しているようです。



14:40頃、能登半島が見えてきました。
写真に向かって左下から伸びている海岸線が左にカーブした辺りが「滝埼」です。
その下、羽咋市(はくいし)から七尾市方向の平野部に雲が一列に並んでいるのが見えます。



14:42頃、七尾湾に浮かぶ能登島が見えてきました。
能登半島にはまだ行ったことがありません。是非行ってみたい所です。



15:00頃、新潟市の東にある阿賀川が見えてきました。
とても大きな川です。
河口の西には新潟空港があります。



予定通り15:30仙台空港へ到着、レンタカーで石巻を通る海岸線を気仙沼へ向けてひたすら走りました。
19:00前、日も暮れた気仙沼市の東にある唐桑半島の民宿にたどり着きました。

写真は、民宿の夕食で、これで一人前でした。
アワビの刺身・殻付き生カキ・イカ刺身・アジ刺身・ホヤ酢の物・カレイ煮付け・エビフライ・茶碗蒸し・等々食べきれないような食事でした。
さすが漁師さんの民宿です。

おかみさんも素朴で親切な方で、気持ちよく泊まらせて頂きました。

明けましておめでとうございます。

2008年01月01日 | 妻の油絵
年賀状にも印刷した妻の油絵で「紅白の椿」です。
寒い冬に咲くこの「紅白の椿」のように、今年も夫婦揃って元気に過ごしたいと願っています。

昨年を表すの文字が、「偽」と報道されて話題になっています。
過去から続いてきた様々な「偽」が表面化した年だったともいえます。
これまで「偽」を覆い隠していた政治・経済の体制が崩れてきたとも考えられます。
これからどんな社会になるのか分りませんが、問題が表面化し、直そうとする声があがっていることは、良い兆しとも言えます。

2008年も激しい変化の一年になりそうです。
多忙な仕事の合間に、今年も「昔に出会う旅」を続けていきたいと思います。