昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

沖縄本島旅行の1日目は、「浦添ようどれ」の見学 №1

2008年06月28日 | 沖縄の旅
4月9日、数ヶ月前からプランを練っていた2泊3日の沖縄本島の旅行に行きました。
今回は、沖縄本島南部の史跡を中心に観光しました。

10時過ぎに那覇へ到着、レンタカーを借りて那覇市の北、沖縄県浦添市仲間にある史跡、「浦添ようどれ」を目指しました。
これまでの旅行で、行きたくて行けなかったスポットです。
今日は、「浦添ようどれ」の歴史と、概要をまとめましたが、資料の写真や、情報量が多く、数回に分けて掲載を予定しています。



「浦添ようどれ」の外観写真です。
浦添城(グスク)の北斜面に造られた琉球王朝のお墓です。

きちんと面を切揃えた白い琉球石灰岩で築かれた石垣が、とても雄大で、美しい曲線を描いています。
このような石垣の技術は少なくとも700年以上前にあったことがうかがえます。

首里城のそばにも世界遺産となっている王陵「玉陵(たまうどぅん)」がありますが、それより200年以上古い時代に築かれたようです。



14世紀頃の沖縄本島にあった主な城(グスク)と、勢力地図です。
「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていた資料「首里城以前の琉球王城」の一部を抜き取ったものです。

1406年、山南の東部の豪族で佐敷按司(地方領主)だった尚巴志が浦添城(グスク)を攻め、中山の察度王朝武寧王を滅ぼしたそうです。
その後尚巴志は、居城を浦添城(グスク)から首里城(グスク)へ移したそうです。



「浦添ようどれ」の入り口付近の案内板に年表が掲載されていました。

「浦添城(グスク)」は、舜天王統から始まり、「浦添ようどれ」は英祖王統から始まっていることがわかります。

「浦添城(グスク)」は、第一尚氏王朝が首里城へ移った後は、第二尚氏王朝の尚維衡(尚真王の長男)が浦添城(グスク)に居を構えた記録があります。
尚維衡は、王位に就くことがありませんでしたが、その曾孫「尚寧」が、七代の王となっています。



「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていた「浦添城(グスク)」付近の航空写真です。
向って左上に「浦添グスク・ようどれ館」があり、オレンジ色の線で囲まれた森が「浦添城(グスク)」の領域です。
「浦添ようどれ」は中央のやや上に位置しています。



「浦添グスク・ようどれ館」で上演されていた「浦添城(グスク)」のビデオ画面です。
山上に石垣で囲まれた「浦添城(グスク)」が広がり、手前の斜面に「浦添ようどれ」が見えます。
又、「浦添ようどれ」の下に「伝極楽寺跡」と案内されています。

「極楽寺」は、英祖王が建立した琉球最古の寺院と言われています。
一番上の写真を撮る時に、下に寺院が建っていたような場所があったはずですが、分かりませんでした。
いったいどんなお寺があったのでしょうか?



「浦添ようどれ」の入り口付近の案内板に「浦添ようどれ」の全景のイラスト描かれていました。

向って右に赤い字で「現在地」とあり、案内板と駐車場があります。
向って左に三重の石垣に囲まれた一番庭があり、二つの墓の扉が見えています。
向って右の墓は英祖王の墓、向って左は尚寧王の墓です。



この案内板にあるイラストの向かって右下には、古い絵図の写真が掲示されていました。写真の下の注釈に「仲座久雄収集 (仲座巌氏 提供)」とありました。

断崖の上を見ると沖縄では聖なる木とされる「クバの木」が描かれています。
沖縄の信仰は、祖先の霊を崇めるもので、この王陵でも御嶽でも同様の信仰と思われます。



この写真は、「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていたものです。
沖縄戦で壊滅的に破壊された「浦添ようどれ」です。

■写真の説明文を転記します。
「沖縄戦で壊滅した浦添ようどれ」
浦添はさる沖縄戦で激戦地となりました。この戦争で、浦添ようどれのみごとな石積みは跡形もなく破壊されました。
墓室の石積みは、戦後、琉球政府文化財保護委員会によって修理されましたが、墓庭を取り囲む石垣は失われたままでした。



この写真も、「浦添グスク・ようどれ館」に展示されていたものです。

■写真の説明文を転記します。
「浦添ようどれの発掘調査」
平成9年度から浦添ようどれの復元のための発掘調査が行われ、沖縄戦で破壊された石垣が残っていることがわかりました。
また、瓦溜まりや金属工房跡が発見され、西室(英祖王陵)では瓦葺き建物の柱をのせる礎石も見つかり、浦添ようどれの変せんを解明する新たな発見もありました。



「浦添グスク・ようどれ館」で頂いたパンフレットに載っていた「浦添ようどれ」の写真です。
上の沖縄戦で破壊された写真や、発掘調査の写真と対比して見ると見事に修復されたことがよく分かります。

■「浦添グスク・ようどれ館」で頂いたパンフレット説明文を転記します。
「浦添ようどれ」
浦添ようどれは、浦添グスクの北側崖下にある琉球王朝初期の王陵で、咸淳年間(1265-1274年)に英祖王が築いたといわれています。
その後1620年に浦添出身の尚寧王が改修し、王自身もここに葬られました。
岸壁に横穴を掘り墓室とし、中には中国産の石で作られた石厨子があります。
向って右側が英祖王、左側が尚寧王の墓といわれています。
「ようどれ」とは琉球語の夕凪(ゆうなぎ)です。
コメント

「うちわサボテン」の黄色い花

2008年06月27日 | 日記

テラスの「うちわサボテン」に5日前から花が咲きはじめました。
緑の茎に鮮やかで、透明感のある黄色い花が、小さな感動を与えてくれました。



2年前、知り合いからサボテンの1枚を頂き、鉢に植ていました。
写真には写っていませんが、最も伸びた節は5段になります。
又、向って左上の一枚には5個の花がついています。

「うちわサボテン」と呼んでいますが、その中にもいろいろ品種があるようですがよくわかりません。
昨年の元旦に掲載した「室戸サボテンから昇る初日の出」も「うちわサボテン」ですが、茎の厚さは、これよりだいぶ薄く、トゲもたくさん付いています。



1つの花は、2~3日間咲き、その後はしおれていくようです。
全部で、8個の花が次々と咲いて行くようで、まだ数日間楽しめそうです。
コメント

阿波南部最大の「大里古墳」

2008年06月24日 | 四国の旅
3/22の旅行、徳島県南部の海陽町の阿波海南文化村「海陽町立博物館」の続きです。



「海陽町立博物館」のパンフレットにあった館内の見取り図です。
赤い「A」の場所は、「大里古墳」の復元模型がありま、隣の「B」の位置には原寸大で、古墳の横穴石室が造られていました。
入口を入ると正面近くにあり、最初に見学しました。





「大里古墳」の復元模型です。
子供たちの歴史教育にも使える分かりやすい模型です。

■説明パネルがあり、転記します。
「大里古墳」
大里古墳(2号古墳)は、徳島県海部郡海陽町大里字浜崎34-4に所在し、海部川河口左岸に堆積した砂地状の台地の上に立地する。6世紀の終わりから7世紀の初めごろにつくられた古墳である。直径約20m、高さ4~5mの円墳で、墳丘内部に横穴式石室がつくられている。
入口は南向きである。横穴式石室の全長は11.20cmで、10m以上の横穴式石室は本古墳をふくめ、現在県下にわずか3例しか存在しない。
石室内の大きさは、遺体を置く玄室が長さ5.70m、幅1.95m、玄室に至る羨道が長さ5.50m、幅1.50mで、玄室部の高さは2.35mである。幅は玄門部が1.95m、羨門部が2.30mである。本古墳の石室上部をおおっていた天井石は玄室部が6枚、羨道部が2枚で、それぞれ推定約1~6tある巨石である。
石室の石材は砂岩が主に用いられている。「那佐石(なさいし)」といわれ、付近の那佐湾から、さらに化石漣痕のある石材は、宍喰浦付近から運ばれたのであろう。
本古墳の被葬者は、石室の規模からみて、在地の有力な首長であった。当時海部川下流域に、阿波の海を舞台とする文化のひとつの拠点が形成されていたことをうかがわせる。昭和27年に徳島県の史跡第1号として指定されている。



原寸大のジオラマ、古墳の横穴石室の一番奥にビデオ放映で、古墳造営の工事の様子をマンガで再現していました。


博物館に展示されていた「大里古墳」からの出土品です。
この遺物は、現存していない1号墳から出土したようです。



「大里古墳」の案内地図です。
「海陽町立博物館」の見学を終え、見当をつけていた大里松原の近くの道端で見つけました。



大里古墳がありました。
古墳は、写真に向かって左の奥にありました。
石碑や、古墳の説明板などがあり、古墳石室の入り口は、裏から手前の道路側に向かって造られていました。

■写真に見えている案内板を転記します。
徳島県史跡指定第一号
「大里古墳」
昭和27年6月25日指定
大里古墳(大里2号墳)は横穴式石室をもつ巨石墳である。墳丘の土は流失し、天井石が露出している。
推定高4~5m、直径約20mの円墳で、墳丘の周囲に濠をめぐらしていた。
石室は南向きに開口し、全長11.2m、羨道の長さ5.5m、棺を安置する奥の玄室の長さ5.7m、高さは2.3mほどである。石材は、地元で「那佐石(なさいし)」とよぶ砂岩である。
石室の長さは、県内では、四国最大級の横穴式石室をもつ美馬町段の塚穴古墳群の太鼓塚古墳に次ぐ。海部川流域の中心に海部地方一帯を掌握した、首長クラスの人物の墓であったと思われる。
発掘調査の結果、築造時期は6世紀であり、7世紀初めまで追葬が行われたと考えられる。大里松原の砂丘周辺には、数基の古墳が存在したと言われているが、本古墳だけが原形に近い状態を保っている。副葬品として出土した耳環や各種の須恵器をはじめ、石室の原形を復元したジオラマが海陽町立博物館に展示されている。
 平成12年6月25日 徳島県教育委員会 海陽町教育委員会


古墳石室の入り口で、戸が付けられ、カギもかけてあります。
入口のすぐ上に大木が生えています。



大里古墳の前には南西方向に向かう道があり、その先は短い下り坂があります。
道路脇に赤い椿の花が、散り始めていました。
コメント (4)

油絵「ばら公園」

2008年06月22日 | 妻の油絵
福山市の「ばら公園」の油絵です。(F8号)
「ばら祭」も終わった5月29日午後の風景です。

まだバラの花が咲き続け、平日でもバラを楽しむ人たちが公園にたくさん訪れていたそうです。

今年は天気に恵まれ、二人で何度も「ばら公園」を散策しました。
妻は、予めトンネルのある構図を考えていたようで、なんとか短時間で仕上げたようです。



3年前の「ばら祭」に撮ったバラのトンネルです。
「ばら祭」の日にはこのトンネルをくぐって楽しむ人が絶え間なく続いていました。
コメント

「大里出土銭」、大甕に大量の銅銭があった

2008年06月21日 | 四国の旅
3/22の旅行、徳島県南部の海陽町の阿波海南文化村「海陽町立博物館」の続きです。



とても大きな甕(かめ)にたくさんの古銭があふれた展示がありました。
この博物館では「海部刀」と並ぶ売り物「大里出土銭」の写真です。

安心してお金を預けられる銀行などのない時代で、敷地に埋めて財産を守ったようです。
埋められていた場所は、海部川河口の北岸にある大里で、「大里の松原」や、「大里古墳」もある所です。

博物館に展示されていた年表によると刀工「初代 海部氏吉」(前回掲載)が、「海部刀」を本格的に造り始めたのが1300年代初め頃で、「大里出土銭」が埋蔵された時代は1300年代後半と推定されています。

この地方で海運が発達し、「海部刀」造りが盛んとなり、財をなした有力者が埋蔵した古銭と推察されます。


**************************************************************************
■「大里出土銭」の案内板を転記します。
「銭甕」
この備前焼の大甕の中に70,088枚もの古銭が埋納されていた。
発見時、重機の爪で大甕は胴部より上が壊れたが、下部は土中に埋まった状態であった。古銭の埋納状態は、底部分の10cmほどが細い藁縄で通された緡(さし)であり、その上にバラ状態で古銭が入れられていた。このため、大甕内部には銭形の痕跡が無数に見られる。
この備前焼大甕の製作年代は、14世紀から15世紀半ば以前であるが、古銭の内容から察して14世紀後半と考えられる。
**************************************************************************
■「大里出土銭」の写真左下にあった説明書きを転記します。
土中から見つかった大甕一杯の古銭
ここにならんだ銅銭は、この甕に納め、土中に埋められた古銭のうち、もっとも枚数の多かった皇宋通寶という渡来銭です。
この古銭一種類だけで9,677枚もあり、全体の約7分の1をかぞえます。中国の北宋時代に造られたお金で、初めて鋳造された年は1038年(平安時代中期)です。
**************************************************************************


古銭の中心にある四角の穴にヒモを通して束ねられた「銭緡」(ぜにさし) が展示されていました。

この展示されていた「銭緡」1本が何枚か確認していませんが、室町時代の遺跡から97枚を1緡(さし)とした「銭緡」が多く発見され、1緡(97文)を100文とする商慣習があったと考えられているようです。
江戸時代になると1緡を96文が定着し、「九六銭」「省百」などと言われて堂々と百文で通用していたことが分かっています。

なんとも不思議な商慣習があったものですが、高額取引で、一枚づつ数える手間を省略する目的もあったようです。
現代でも硬貨で支払う場合、1種類で21枚以上なら受取りを拒否できる法律があるようで、銅銭の時代の知恵だったのでしょうね。

**************************************************************************
■展示物に添えられている説明書きを転記します。
「銭緡」(ぜにさし)
甕の底から約10cmには、このような銭緡の状態で入れられていた。
これで5貫文分である。
**************************************************************************



博物館に展示されていた「中世主要大量出土銭遺跡リスト」の一部です。
「大里出土銭」は全国第10位の枚数です。

写真のリストの続きには52位までがあり、我が地元の福山市「草戸千軒遺跡」は、27位の12,591枚で、やはり大甕に入れられたものが発見されています。

福山市にある「広島県立歴史博物館」に展示されています。



「大里出土銭」のコーナーに「中世主要大量出土銭遺跡リスト」の第1位、「志海苔出土銭」 の案内パネルがありました。
「志海苔出土銭」 は、北海道函館市志海苔町(しのりちょう)の中世の和人豪族が築いた館跡「志苔館跡」から出土したもので、14世紀後半に造られた越前焼(福井県)、珠洲焼(すずやき・石川県)の大甕に入れられていたそうです。

函館で、北陸地方の甕や、中国の銅銭が発見されたことを考えると交易はかなり広域で、大量に行われていたものと考えられます。
この時代は、東アジア全体に交易が発達し、琉球(沖縄)でも大交易時代が始まっています。
コメント (1)

海部川流域でつくられた「海部刀」

2008年06月19日 | 四国の旅
3/22の旅行、徳島県南部の海陽町の続きです。



阿波海南文化村の海陽町立博物館に「海部刀」が展示されていました。
写真は、海陽町立博物館のパンフレットの一部にあった海部刀の展示の様子です。

「海部刀」は、鎌倉時代から海陽町で作られてきた日本刀だそうです。
中世には中国・朝鮮へたくさんの海部刀が輸出されたようです。

「海部刀」の特徴は、「片切刃造り」、「のこぎり刃造り」だそうです。
刃のついていない側が、のこぎり状になった刀が展示されていたのには驚きました。



海陽町立博物館に展示されていた「海部刀」の鍛冶場(推定地)が記された海部川流域の地図です。
最盛期には60人以上の刀工がいたようで、この地図にも20ヶ所以上の鍛冶場があったとしています。
河口の鞆浦港からは、大陸や、京都などへ送り出されていたものと思われます。

しかし、この海部川流域でなぜ「海部刀」が多く作られたのかよく分かりません。
原料の鉄は、砂鉄採取、たたら製鉄の工程がありますが、この海部川流域ではその形跡がないようです。
原料は、他の地から調達し、刀鍛冶だけを行ったものと思われます。



写真は、海陽町立博物館のパンフレットの一部にあった海部刀を作っている海部氏吉(うじよし)と、泰吉(たいきち)
のジオラマです。
左の顔の絵は、海部刀工の海部氏吉だそうです。
コメント

海陽町立博物館の石碑で知った小笠原諸島発見の歴史

2008年06月12日 | 四国の旅
3/22の旅行、徳島県南部の海陽町の続きです。



海陽町の「阿波海南文化村」へ行きました。
駐車場から一段高い場所に門があり、入ると「阿波海南文化村」です。



「阿波海南文化村」の案内図です。
コンサートホール、書画などの展示ギャラリーなど色々な施設がありました。
目的は、「海陽町立博物館」の見学です。
大里の古墳、中世の海部刀、出土した大量の古銭などの見学を楽しみに来ました。



「阿波海南文化村」の様子です。
正面の建物は、「工芸館」で、向って右奥の建物が「海陽町立博物館」です。



「海陽町立博物館」の入り口です。
若い男性の職員の方が、親切な案内をされています。



玄関脇に黒い石碑があり、「冥福」の文字が刻まれていました。
読んでみると驚くべき歴史がありました。

■石碑の説明文を転記します。
「冥福」
寛文10年(1670)阿波国浅川船・船頭勘左衛門・水主安兵衛・彦之丞・三右衛門等は、紀州でみかんを積み江戸へ回送中、暴風雨にあい、七十日余大海を漂流、あらゆる困難を克服して小笠原諸島に漂着。船頭勘左衛門は、疲労のため島にて死亡。小笠原の父島に冥福の碑がある。これが最初の小笠原諸島発見の史実である。
ここに浅川船・船頭勘左衛門一同の功績を後世に伝えるため、海南の地に冥福の碑を建立する。
平成十四年 秋の吉日 海南町



地図には、浅川港・小笠原諸島を黄色いポイントで表示し、水色部分に小笠原諸島の拡大地図を表示しています。
浅川船の遭難、漂着、帰還の情報をインターネットから集め、整理してみました。
①海南町の浅川港(黄色の印)の船が、紀州でみかんを積み、江戸へ向かった。
 海部地方では中世から海運が発達し、船乗り達が活躍していたようです。
②遠州灘で遭難し、漂流した。
 2月小笠原諸島に漂着し、漂流期間から推察すると12月頃と考えられます。
 お正月用のみかんを江戸へ運んでいたと思われますが、年末需要に臨時で頼まれた不慣れな航路だったのでしょうか。
③70数日漂流後の2月、小笠原諸島(黄色の印)の母島へ漂着、船頭勘左衛門は、疲労で死亡した。
 遠州灘から約1000km、真冬の太平洋の漂流は、地獄の日々だったと思われます。
 北東に向かう太平洋の海流に逆らい、冬の北風が南に運んだ可能性があります。
 それにしても広い太平洋の中で、小笠原に漂着した運のよさにも驚きます。
④小笠原諸島の母島から父島、聟島(むこじま)、八丈島を経て11月には伊豆へ生還した。
 難破船を修理して、島づたいに帰ったと思われます。
 航海経験が豊富な船乗りならではの快挙だったと想像されます。
 船の修理には道具や、材料も必要で、いったいどうやって直したのでしょうか。
⑤この話は、江戸幕府四代将軍家綱の時代で、幕府は小笠原諸島を調査し、「此島大日本之内也」と領有権を刻んだ碑を建てたそうで、当時は「無人島(ぶにんじま)」の名で呼ばれていたようです。

 船頭が亡くなったものの、故郷浅川港に帰った乗組員の家族の喜びは大変なものだったと思われます。
コメント

「鞆浦漁港」の風景と、「大式網」

2008年06月10日 | 四国の旅

鞆浦漁港の景色です。
海部川の河口側を背にして撮りました。(前回掲載の地図-①から南方向)

向こうの山裾には、鞆浦の集落が見えます。



鞆浦に関係する展示が、同じ日に行った「海陽町立博物館」にあったのを思い出しました。
展示品の各テーマの表示板で、「海の仕事」とあり、色々な漁具が展示されていました。



これが「海陽町立博物館」に展示されていた大きな網です。

■説明文を転記します。
「大式網」
この網は、正式には、鰤(ぶり)落とし網という。
400年前の江戸時代の初めに富山県ではじまる。
四国へは明治30年ごろ芸東海岸で、徳島県では、大正14年から鞆浦(ともうら)ではじまり、現在に至る。
多くの魚は、垣網(かきあみ)に当たると、沖合へ行く習性を利用し垣網に突き当たり、運動場、登(のほり)、一段箱、二段箱、へと追い込んで行くようになっている。



「鞆浦大式」の全景です。
定置網のようで、網の周りを海底に固定しているようです。

魚の習性を熟知した捕獲方式で、魚の立場になったらとても怖い仕掛けです。
とりあえず、漁師には魚を獲る苦労がなくなるようですが、獲りすぎて魚が少なくなったら新たな苦労が発生するという困った図式にならなければよいのですが・・・。



鞆浦漁港の北から西側を見た景色です。
漁業関係と思われる建物が並んでいます。

向って右の山が、海部城跡と思われます。



鞆浦漁港の北から東側を見た景色です。
漁船がさわやかな緑色に塗られ、漁港全体がとても清潔そうに感じます。
魚が腐った臭いが漂う漁港のイメージはまったく感じませんでした。

向って左側は、外海に近い所ですが、少し大きな船が停泊していました。

このこの港は、中世に海部川流域の産品を積み出し、海運で大いに栄えた歴史があり、またの掲載とします。
コメント

「海部川」河口と、大里松原の風景

2008年06月08日 | 四国の旅
徳島県南部の旅行の続きです。



海部川の河口周辺の地図で、向って右の太平洋へそそぎ込んでいます。

河口のすぐ南は<鞆浦漁港で、たくさんの漁船が停泊しています。。(地図-①)

河口から少し川上に「海部川橋」、次に国道55号が通る「新海部川橋」、その川上にJR四国の牟岐線(むぎせん)が通る鉄橋が並んでいます。
鉄橋のすぐ南には海部駅があり、その先は長いトンネルのようです。



海部川の河口です。(地図-②)
海部川の河口は、北から伸びた大里海岸の砂浜て河口が細くなっています。
河口の南側は、コンクリートの護岸堤防になっていました。



河口の北側の岸に海部川の支流の水門があります。(地図-③)

後ろの松林は「大里の松原」の南端でしょうか。

川の中州に多くの水鳥がいました。
海部川は、上流の人口が少なく、ダムもないとてもきれいな川だそうです。
魚や、水鳥たちも元気に住めるのかも知れません。

又、海部川では鮎釣りが盛んだそうです。
海から上ってくる鮎たちも、ダムがなく、きれいな自然の環境で、昔ながらの繁殖ができるものと思われます。



河口の南岸から北にある大里松原海岸を見た景色です。(地図-④)
かなり長い砂浜になっているようです。

潮の寄せる音が心を落ち着かせてくれるような、とても気持ちの良い景色です。



河口の様子です。
波が繰り返し押し寄せ、見ていて飽きません。

向って右にはコンクリートの護岸を挟んで漁港がありました。



河口から川上を見た景色です。
川の左に見える山の下に石碑がありましたので一段下に掲載します。



山の麓の道路脇にあった石碑です。
右の石碑には「史跡海部城跡」とあり、この山に海部城があったようです。
左の石碑には「史跡森志摩守と御判形人之墓」しあります。

戦国時代の末期、長宗我部元親は、海部城を落城させ、その後、四国全土を統一したたそうです。
天正14年(1586年)豊臣秀吉により阿波の国は、蜂須賀氏が大名となったようです。

どうも森志摩守は、阿波水軍を率いた武士で、阿波の国の戦国大名三好氏と、蜂須賀氏に仕えたようです。
コメント

徳島県南部「海部駅」周辺の様子

2008年06月07日 | 四国の旅
3月22日、23日に行った徳島県旅行の続きです。



四国東部の地図です。
6/1に徳島県美波町の「にいや蒲鉾」のお土産や、「道の駅日和佐」の足湯などを記載しましたが、太平洋岸に沿って室戸岬方面に行くと海陽町があります。

海陽町は、徳島県南部の太平洋岸にあり、高知県に接する町です。
徳島市から高知市まで結ぶ国道55号線沿いにあります。
又、高松市まで結ぶ国道193号線の起点の町でもあります。



国道55号線の海部川を過ぎた辺りに海部駅があり、立ち寄ってみました。
のんびりした駅舎を期待して写真を撮ろうと思っていましたが、なんと高架線路になっていました。

海部駅(かいふえき)から徳島駅までがJR四国の牟岐線(むぎせん)だそうです。
途中から特急に乗換え、徳島まで約1時間30分のようです。

この駅から室戸面は、阿佐海岸鉄道(株)の阿佐東線で、次の駅「宍喰駅」を過ぎると終点高知県東洋町の「甲浦駅」まで8.5kmを結んでいるようです。


駅の時刻表を見ると甲浦駅方面に一日15便あるようです。
駅前では乗客の姿を見なかったのですが、以外に便がありました。



海部駅の前にあった案内板です。
「天然記念物のオオウナギと、ホタルの棲む里」と案内があり、旧海部町の観光案内地図が描かれています。

案内地図の向かって右側に海部川があり、その左に母川の支流が分かれています。

母川には、国指定の天然記念物「オオウナギ」や、ホタルが生息しているようです。

オオウナギは、このブログで、2007-02-03掲載の<池田湖「大うなぎ」の起床時間>でも紹介しましたが、鹿児島県指宿市の池田湖畔にあるドライブインで水槽に飼われています。
池田湖のオオウナギは、なぜか国指定ではなく、指宿市の天然記念物だそうです。

コメント

「福山市 中央図書館」が完成間近

2008年06月04日 | 日記
「福山市 中央図書館」の建設がほぼ終わり、現在は敷地内の整備を行なっています。
7月からの図書館のオープンが予定されていますが、既に駐車場や、会議室などの利用は始まっているようです。



東南から見た建物です。
レンガ風の茶色のタイルが貼られて落ち着いた外観になっています。



東側に池が造られています。
とても広く、非常に浅い池で、風のない時は、広い鏡のようにも見えます。



南西から見た建物です。
この黒い建物は、自走式の立体駐車場です。

近所の住民からこの巨大な黒い壁に威圧感を感じ、苦情が出ているようです
巨大な黒い壁を目の前にして生活する人の身になって考えて欲しいと思います。



南側の様子です。
道三川の水辺に下りて行く階段が、くつろぎのある雰囲気です。

道三川には小さな魚や、ザリガニも住んでいます。



手前は、駐車場の屋上です。
黒い壁に金を掛けなかった(?)反動か、駐車場の屋上に芝生の庭が造られています。
これまでの図書館は、駐車場が無料でしたが、今度は有料になっています。

とは言いながら、図書館の開館を待ち望んでいます。
コメント (3)

おいしかったお土産、「にいや蒲鉾店」の「珍味かまぼこ」

2008年06月01日 | 四国の旅
10月の東北旅行を終え、3月の徳島旅行の想い出です。

この写真は、3月22日に南徳島を訪れ、お土産に頂いた蒲鉾です。
(大変、ありがとうございました)
久々においしい蒲鉾に感激し、写真に撮りました。

実は、写真の4種類の他、ウニの蒲鉾があり、5本セットだったのですが、食べてしまいました。

包装の表示には「にいや蒲鉾店」徳島県海部郡美波町木岐535-1 とあり、調べたら徳島県美波町のホームページに紹介されていました。

様々な特産品の中に「にいや蒲鉾店 珍味かまぼこ」も掲載されていました。
「道の駅日和佐」でも販売されているようです。

又、この辺りの海では伊勢エビ、アワビ、ウニが採れ、特産品だそうです。
すると、この蒲鉾に使われているエビ・アワビ・ウニは、地元産のようですが、数の子はどう考えても北海道産周辺ですね。

食べた感想は、ウニ・アワビが特に風味が活かされ、シコシコした食感も最高です。
最近、練り製品の価格が下がり、おいしくないものが当たり前のようになりましたが、これはおいしい蒲鉾です。

これまで好きな蒲鉾は、山口県の仙崎に「焼き抜き蒲鉾」がありますが、これも好きな一品になりました。




徳島県美波町は赤い字の辺りです。



徳島県美波町の国道55号線沿いに「道の駅日和佐」がありました。
お客さんも多く、にぎわっていました。

「にいや蒲鉾店 珍味かまぼこ」は、ここで売られているはずです。



「道の駅日和佐」には無料の足湯があり、利用させて頂きました。

屋内に作られ、大きな長いテーブルを囲み、長方形の足湯でした。
この近くの温泉のPRで作られたようです。



足湯の部屋にある裏側の窓から見えた「日和佐城」です。
戦国時代、地元の豪族が造った城を再現したようです。



「道の駅日和佐」の斜め向かいの山の中腹に四国八十八か所の第23番札所「薬王寺」が見えます。
屋根の四方から上に向かって角のように突き出た塔がある屋根の形に驚きました。
厄払いにお参りする人が多いようです。


徳島市から南徳島への国道55号線を車で走ると、歩いているお遍路さんをよく見かけます。

第23番札所「薬王寺」は、徳島県阿南市の第22番札所「平等寺」と、高知県室戸市の第24番札所「最御崎寺」の間にあります。
「薬王寺」から室戸岬に近い「最御崎寺」までは約77Km、徒歩で約20時間かかる計算になります。
コメント