昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

油絵「水仙」

2013年03月30日 | 妻の油絵

妻の油絵「水仙」(F6号)です。

背景の色は、白い「水仙」と、「リンゴ」にマッチするように考えたそうですが、以前の水仙の作品とよく似ているのは仕方ないことでしょうか。

「リンゴ」の横に置かれているのは何故か「シナマンサク」の枯葉です。

水仙と同じ早春に咲く「シナマンサク」は、錦糸玉子にも似た黄色い花で、大きな枯葉が同じ枝先についている珍しい植物です。

秋に葉が枯れ、尚もしがみついて年を越し、翌年の花も看取った末に力尽きたこの枯葉の健闘を讃え、同じ季節の水仙の花の隣に登場願ったのかも知れません。



先週、福山市田尻町で撮った水仙です。

杏の花が見頃になり、見物に行った時の写真です。



これも田尻町の海を見下ろす山道に咲いていました。

白く輝く花びらに魅せられます。



水仙の咲く田尻町の「十三仏」近くの山道から見下ろした風景です。

山の斜面や、海岸近くに満開の菜の花畑が広がり、紅や、白の杏の花が春を彩る素敵な風景でした。

沖に浮かぶ島は鞆の浦の「仙酔島」、海岸の大きな建物は老人施設「エクセル鞆の浦」です。

妻は、この風景を油絵に描いていました。



山裾に広がる杏畑から田尻漁港を見下ろした風景です。

この風景もよく絵に描かれています。

長崎旅行-15 平戸市「生月島」断崖が続く風景

2013年03月26日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行4日目、長崎市から平戸市生月島まで走り、佐世保市まで引き返すコースの観光です。

当初の予定では長崎市から佐世保市にかけてのエリアの観光でしたが、あいにく午前中が雨の予報で、翌日の予定地で最も遠い生月島までの移動時間に振替えたものです。



平戸島から見た雨上がりの「生月大橋」の風景です。

朝、長崎市のホテルを出発、西海大橋、平戸大橋を渡り、ここまで約3時間のドライブでした。

「生月大橋」は、二十数年前に完成し、2010年まで有料だったようですが、現在は無料となって、観光に訪れる者にも助かります。

隠れキリシタンや、断崖が続く海岸線の風景などで知られる生月島には、十数年前の旅行で平戸までしか訪れられなかったので、今回は一番に来たものです。



左側の地形図が「生月島」で、「生月大橋」を渡り東岸を北上し、「塩俵の断崖」から「大バエ灯台」を見て西岸を南下、最後に「平戸市生月町博物館・島の館」を見学するコースでした。

右の地形図は「生月島」の位置を見て頂くもので、南の長崎から一気に走って来ました。



「塩俵の断崖」の風景です。

もっと雄大な風景を期待していましたが、ややものたりないさが残る風景でした。

観光としては、珍しい「柱状節理」の風景がポイントのようです。

道路から近い、海岸沿いの遊歩道から見下ろした風景で、そばの展望施設から見た風景を撮影した方が良かった知れません。

■案内板より
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生月島塩俵断崖の柱状節理
 生月島は、南北約十キロ、東西(最大幅)三・八キロの細長い島で、新第三紀(約二千五百万年前~約二百万年前)に「平戸層群」(約千五百万年前)の上に「松浦玄武岩」(約八百万年前)が重なった溶岩台地です。
 柱状節理は、溶岩流が厚い部分に発達する場合が多く、玄武岩の柱ははぽ垂直で、さらに水平に亀裂が生じてくる。当地の姿や断面五~七角形の蜂の巣状の俵を重ねた様は、これらを物語るものです。
 本節理は県内でも代表的なもので、南北に約五百メートルの長さと海面から約二十メートルの高さの規模をもち、景観的にも優れ貴重なものです。
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海岸付近をズームで撮った風景です。

岩が柱状に割れた「柱状節理」の断崖の下には、波で浸食された柱状の断面が並び、規則正しく六角形をしたものから四角形や、不定形のものまで様々です。

「塩俵」の名称は、白く乾いた柱状の断面の様子が「塩俵」に似ていたことによるものだったのでしょうか。



「塩俵の断崖」の駐車場近くの遊歩道脇にあった遊歩道の案内図です。

上の(西)海岸沿いに「生月島自然歩道」が造られ、北端に近い「大バエ灯台」まで続いているようです。

好天の日にのんびりと、断崖の風景を見ながら歩いてみたいものです。

■「生月島自然歩道」の案内図にあった(1)から(9)の地名です。
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(1)塩俵憩いの広場
 0.7Km
(2)オロノウチ
 0.5Km
(3)山見跡(旦那山)
 0.3Km
(4)駐車場
 0.4Km
(5)砲台跡
 0.3Km
(6)三番高り
 0.5Km
(7)二番高り
 0.3Km
(8)駐車場
 0.3Km
(9)大バエ灯台
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距離合計 3.3Km



生月島北端の小高い山の上に建つ「大バエ灯台」です。

白い階段を登った展望台からは360度の絶景が広がっていました。

灯台の壁の表示板には「大碆鼻 北東照射灯 初点平成14年3月」とあり、「大碆鼻[おおばえはな]北東照射灯」が正式名称のようです。

「照射灯」は、一般的な「灯台」と違い、危険な場所の暗礁などを照射して航行する船舶に知らせる施設とされ、上に見えるガラス窓から「大バエ灯台」の看板方向を照らしているようです。



「大バエ灯台」の展望台から北東方向を見た風景です。

生月島の北端「大碆鼻[おおばえはな]」の先端に黒褐色の岩礁が広がり、二人の釣り人も見られ、その沖に「鯨島[けしま]」が浮かんでいます。

「鯨島[けしま]」には鯨の親子のイメージも感じられ、江戸時代、日本最大の捕鯨拠点だった生月島の人々が名付けたことにもうなづけます。(鯨を「け」と読ませるの理由は謎で、興味がわきます)

「大碆鼻北東照射灯」が照らしている場所は、あの黒褐色の岩礁がある「大碆鼻」の先端辺りだったのでしょうか。

気象庁のサイトで平戸瀬戸の潮位データを見ると、当日の干潮時刻は13時頃で、この写真の岩場付近の海面水位は干潮の約1時間半前の状態です。

おそらく、満潮時には「大碆鼻」周辺の浅い海域は、航行が危険な暗礁地帯となる可能性があるものと思われます。

ところで、「大碆鼻北東照射灯」に照らされた夜の海は、イカ釣り漁船の集魚灯的効果で、たくさんの魚が集まる絶好の釣シーズンがあるのかも知れませんね。



「大バエ灯台」の展望台から南西方向を見た風景です。

生月島西岸の雄大な断崖の絶景が広がり、断崖の下の海には小さな漁船が浮かんでいます。

あの高い断崖は、「生月島自然歩道」の案内図にもある「二番高り」と思われます。

地形図で見ると「二番高り」付近の最高地点は標高86mで、「塩俵の断崖」の標高約35mと比較して圧倒的に雄大さを感じる訳です。



「大バエ灯台」の展望台から南方向を見た風景です。

平戸島から渡ってきた「生月大橋」が見え、その右には生月島の最高峰「番岳」がそびえています。

南北に約10Kmの細長い「生月島」を最北地点から一望した風景が見られました。



帰り道、「塩俵の断崖」の近くの道路脇で偶然見つけた石碑(右端)と、付近の風景です。

石碑には「益富捕鯨 納屋跡 昭和五十四年五月建立」とあり、東海岸の湾に面して小さな漁港と平坦な土地が見られました。

石碑の横の案内板によると、ここが江戸時代の捕鯨基地だったようで、詳細は生月島の最後に見学した「平戸市生月町博物館・島の館」と併せて掲載したいと思います。

■案内板より
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生月町指定史跡 御崎浦鯨組納屋場跡
 昭和四十六年三月二十九日指定

 享保十四年(一七二九)益富又左衛門正勝が、この地に、舘浦で営んでいた鯨組を移した。この一帯を石垣で囲い、網納屋、鍛冶網大工樽等の納屋、赤身納屋、東蔵尾羽毛[をばいき]蔵、苧[を]蔵、塩蔵大納屋、道具納屋、油壺場、小納屋、小納屋蔵、骨納屋、勘定納屋、大工納屋、米倉、新筋[しんすじ]蔵、艪[ろ]納屋、油貯[いれ]小倉、油貯六間倉、荒物貯八間倉等各一宇、筋納屋二宇、羽差納屋一宇、加子納屋三十宇、轆轤[ろくろ]八箇等があり、海岸に鯨の、船引揚げ場があり、当時の大工場であり、日本最大規模の捕鯨基地でもあった。享保十八年に鯨の網取法を導入してからは、少し離れた古賀江の海岸に網干し場を設けている。
 天明八年(一七八八)絵師、司馬江漢は生月の益富家に一ヵ月滞在し、この間この地を訪れて捕鯨その他をスケッチしている。又、明治二十四年には、幸田露伴が、この地や羽差をモデルとして、小説「いさなとり」を発表した。
 捕鯨不振により文久元年(一八六一)基地は閉じられた。
  平成三年三月二十五日設置
   生月町教育委員会
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生月島の西岸の道路を南に進むと「鷹ノ巣トンネル」があり、ここにも雄大な断崖がありました。

「鷹ノ巣トンネル」から少し北の道路脇に駐車場があり、立ち寄ってみましたが、この一帯にも雄大な断崖の風景が見られます。

駐車場にも石碑があり、「生月農免道路 竣工記念碑 平成五年五月吉日」とあり、西岸の道路は、比較的新しく造られた風景が楽しめるコースでした。



「生月島」南西端の「長瀬鼻」の断崖の風景です。

観光協会の案内では「長瀬鼻」には、「長瀬八洞」、「はなぐり洞門」があるとのことでしたが、断崖の下にある洞窟で、道路脇からはこの風景だけです。

「生月島」西岸は、玄武岩の断崖が続き、「生月農免道路」からの風景は、素敵なものでした。

この後、楽しみにしていた「生月大橋」の近くにある「平戸市生月町博物館・島の館」の見学です。

長崎旅行-14 長崎市「崇福寺」の中国盆「蘭盆勝会」

2013年03月21日 | 九州の旅
2012年9月12日長崎旅行3日目夕方、中国盆が行われていた長崎市鍛冶屋町の「崇福寺[そうふくじ]」を参拝しました。

「崇福寺」(黄檗宗-禅宗)は、江戸時代初期に長崎に住む華僑によって創建された寺院の一つで、3日間続く中国盆「蘭盆勝会[らんぼんしょうえ]」の初日でした。

長崎には1570年(元亀元)の開港以来、多くの華僑が来航、居住していましたが、出身地ごとに同郷団体「幇[ぱん]」を組織してそれぞれの菩提寺を創建していたようです。

江戸初期の1620年(元和6)に三江幇(江蘇省・浙江省)の「興福寺」が創建され、1628年(寛永5)に泉樟幇(福建省漳州・泉州)の「福済寺」、翌年1629年(寛永6)に福建省福州「崇福寺」が創建され、これら三寺を「長崎三福寺」と呼ぶようです。

古くから唐船には航海の守護神「媽祖[まそ]」を祀っており、長崎港碇泊中に安置する「幇[ぱん]」の集会所が菩提寺の基になったとされ、故郷を遠く離れ、同郷の人々が結束して生きてきたことがうかがえます。



鮮やかな赤色、黄色の提灯で飾られた崇福寺「三門」です。

どっかりとした姿の赤い「三門」は、「竜宮造」と呼ばれる形式の門で、台風で倒壊した門に代えて1849年(嘉永2)に再建された建物とされ、二階中央に「聖壽山」の扁額、向かって右側の門の上に「吉祥」左側には「如意」の文字が書かれ、三つの門があります。

この「竜宮造」の門は各地の寺院で見られますが、安徳天皇を祀る下関の赤間神宮(元・阿弥陀寺)の赤と白に塗り分けられた門を想い出します。

■案内板より
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国指定重要文化財 崇福寺三門(楼門)
  指定年月日 明治39年4月14日 所有者 崇福寺
 一般寺院の外門を山門というが、三門は禅宗寺院の場合そう呼ぶことが多く、三解脱門(空門・無相門・無作門)の略であるという。
 この建物は嘉永2年(1849)に再建された、中国趣味のきわめて濃厚な珍しい建築様式であるが、日本人棟梁の作で、特異な形から竜宮門の名で親しまれている。
 当山の山号「聖寿[しょうじゅ]山」の横学が楼上正面にある。隠元禅師の筆で県指定有形文化財。

(指定の経緯)
 明治39・4・14 特別保護建造物(古社寺保存法) 昭和4・7・1 国宝(国宝保存法)
 昭和25・8・29 重要文化財(文化財保護法)
  長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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賑やかな提灯に心が浮かれそうな「三門」中央の風景です。

中央の門の両脇に体をくねらせたような独特のポーズをした獅子の石像、門の上に暖簾のように掛かった「蘭盆勝会」の文字がいかにも中風の寺院を感じさせます。

門を入った突当りに拝観受付があり拝観料を支払って、左上に続く数十段の石段を登って行きました。



「崇福寺」のパンフレットにあった「崇福寺諸堂配置図」に「蘭盆勝会」の祭壇などを追記したものです。

左下の「三門」から入り、石段を上り、配置図に記した赤い字の番号順に建物を見て歩きました。



「三門」をくぐり、左手の石段を登って行くと国宝「第一峰門」(2)が見えてきます。

軒下の複雑な組物に豪華な極彩色が施されていましたが、よく見ると、とても細かで仏教的な模様が描かれていました。

写真左下は、門の右手の赤い破線で囲んだ場所にあった2体の人形「七爺八爺[ちーやぱーや]」です。

「七爺八爺」は、死後の魂を冥土へ連れて行く神様で、背が高く長い舌を出している「七爺」、背が低く黒い「八爺」が門を通る参拝者をみつめているようでした。

■案内板より
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国宝 崇福寺第一峰門
 指定年月日 昭和28年3月31日 所有者 崇福寺
二の門・中門・唐門・赤門・海天門の別名がある。中国寧波で切組み唐船で運び元禄9年(1696)ごろ建てた。唐通事[とうつうじ]林仁兵衛(林守壂[しゅでん])の寄進。
軒裏の複雑な組物(四手先三葉■[木+共]斗■[木+共]詰組[よてさきさんようきょうときようつめぐみ])が特徴で、華南地方に見られるが日本では唯一例である。平垂木を放射状に割付けた扇垂木[おうぎだるき]に鼻隠板[はなかくしいた]打ち。極彩色模様が施されているが、雨かかり部分は単なる朱塗りである。当初材は広葉杉(こうようざん)であることが確認された。(昭和39年塗装彩色修理工事のとき。)即非禅師書「第一峰」の額は県指定有形文化財。
(指定の経過)
明治39・4・14 特別保護建造物(古社寺保存法) 昭和4・7・1  国宝(国宝保存法)
昭和25・8・29 重要文化財(文化財保護法)   昭和28・3・31 国宝(文化財保護法)
 長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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■:表示できない漢字を「へん」と、「つくり」を例[木+共]と表現しています。



「第一峰門」をくぐると「閻魔大王」(3)の祭壇が作られていました。

参拝者も「七爺八爺」に案内され、ここで「閻魔大王」に裁かれるのでしょうか。



左手に国宝「大雄宝殿[だいゆうほうでん]」(4)が見えてきました。

下段の写真は、正面から見た風景です。

写真両端の柱の前に垂れ下がっている物は、下の案内板に書かれた珍しい建物の装飾「擬宝珠付き垂花柱[すいかちゅう]」と思われます。

■案内板より
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国宝 崇福寺大雄宝殿[だいゆうほうでん]
 指定年月日 昭和28年3月31日 所有者 崇福寺
本尊に釈迦(大雄[だいゆう]・だいおうの読みもある。)を祀る。中国で切組み正保3年(1646)建立した。寄進者は唐商何高材[かこうざい]。長崎に現存する最古の建物。はじめ単層屋根であったが、天和元年(1681)「魏之■[王+炎]」[ぎしえん]が日本人棟梁をつかい入母屋屋根の上層を付加し、現在の姿になった。
 特徴としては、軒回りの擬宝珠付き垂花柱[すいかちゅう]が珍しい。前面吹放ち廊下のアーチ型天井は、俗に黄檗天井と呼ばれ、黄檗建築独特のものである。下層部の当初材は広葉杉(こうようざん)と推定される。
 殿内の釈迦三尊や十八羅漢の仏像群と寺内の聯(れん。柱にかける文字を書いた板)や額(但し、隠元・即非・千■[豈+犬][せんがい]が書いたものだけ)は県指定有形文化財。
(指定の経過)
特別保護建造物・国宝・重要文化財・国宝など指定年月日と経過は第一峰門に同じ。
 長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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県指定有形文化財 崇福寺本堂の仏像群(釈迦三尊と十八羅漢)
指定年月日 昭和35年7月13日 所有者 崇福寺
大雄宝殿の本尊は釈迦如来座像。向かって右脇侍[わきじ]は迦葉[かしょう]尊者、左は阿南[あなん]尊者ともに立像。みな中空の乾漆像。胎内から銀製の五臓と布製の六腑が発見された。前者に承応2年(0653)化主[けしゅ](寄付集め世話人)何[か]高材、後者に江西南昌府豊城懸仏師徐潤陽ほか2名の墨書があった。
左右に並ぶ十八羅漢は中空の寄木造で麻布を置き漆で固めたもの、延宝5年羅漢奉加人数(1677)という巻物が三尊の胎内から発見されたことと、唐僧南源の手紙に唐仏師三人が崇福寺で羅漢を造ると書くので、この三人が徐潤陽ほか2名ではないかと疑うこともできる。どれもみな中国人仏師の作で当寺を示す貴重な作例である。
 長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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「大雄宝殿の向いにある「護法堂」(5)です。

頂いたパンフレットによると建物は、1731年(享保16)再建とあり、国指定重要文化財です。

「護法堂」の軒下には赤色と、金色が鮮やかな小さな建物が並び、花・ローソク・線香などが供えられていました。

これらは「蘭盆勝会」の時期だけのものだったのかも知れません。

「護法堂」の建物の中に入ると、中央は「観音堂」、向かって右の「関帝堂」には関羽像が祀られ、左の「天王殿」には「韋駄天像」の他に様々な神像が祀られていました。

寺院とは言え、「関帝像」や「媽祖」など、仏教以外の神様も祀られ、神仏習合だった江戸時代までの日本の神社仏閣もこのような様子だったと思われます。



上段の写真は、「護法堂」過ぎて突当りの堂で、中に「大釜」(6)が置かれていました。

「大釜」は、下の案内板の記述にあるように、江戸時代前期の1680年の不作から飢饉が発生し、慈善活動の粥の施しで使われた
ものだそうです。

寺のパンフレットには4石2斗(1石=1000合・約180リットル)を炊くと伝えられており、1人1合の粥としたら4,200人分となります。

お堂の左右に高さ約1mの「金山・銀山」が多く置かれていますが、精霊が冥土で使うお金としてお盆の最後にお土産として燃やされるようです。

「金山・銀山」は、上部の円錐形部分に金や、銀の円形の色紙がたくさん貼り付けてあり、これが金貨・銀貨とされるようで、1枚づつ貼り付けながら亡くなった人に思いをはせているのでしょうか。

下段の写真は、「護法堂」の奥に並んで建っている「鐘鼓楼」(7)です。

鐘を突く鐘楼は、よく目にしますが、「鐘鼓楼」は、初めてで、どんな音か聴いてみたいものです。

建物は、1728年(享保13)の再建ですが、梵鐘は、開創時の1647年(正保4)のものが残っているようです。

■案内板より
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市指定有形文化財 崇福寺大釜
 指定;昭和43年11月20日
 所有者 崇福寺 
第2代住持であった唐僧・千■[豈+犬][せんがい](千呆)性■[イ+安]が、飢餓救済の施粥[せじゅく]のために造った大釜である。
延宝8年(1680)の諸国不作以来、米穀不足となり、天和元年(1681)には、長崎にも餓死者が出た。 福済寺2代住持唐僧慈岳や当寺の千獃は、托鉢や富商の喜捨などで粥を煮、多数の窮民を救った。粥の施しを受ける者は多い日には、3,000人から5,000人に及んだという。
 千獃は翌天和2年(1682)2月大釜を造り、4月14日完成。 鋳工は鍛冶屋町の鋳物師案山[あやま]弥兵衛と推定される。
 長崎市教育委員会(平成元年3月設置)
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■案内板より
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国指定重要文化財 崇福寺鐘鼓楼[しょうころう]
 指定年月日 昭和25年8月29日
 所有者 崇福寺
 上階に梵鐘を吊り太鼓を置いて、鐘楼[しょうろう]と鼓楼[ころう]を兼ねる。鐘楼はもと書院前庭南隅にあったが、享保13年(1728)ここに位置を変え新築した。軸部は中国で切組み、日本人棟梁が建てた。建物の特徴は護法堂に同じ。雨がかり部分だけ朱塗りである。上層下層の比例に安定感があり、円窓・華頭窓・白壁の取り合わせの意匠も秀れている。
 梵鐘は正保4年(1647)鍛冶屋町住の鋳物師[いもじ]阿山[あやま]氏初代の作。県有形文化財指定。
(指定の経過)
特別保護建造物・国宝・重要文化財の指定経過と年月日は護法堂におなじ。
 長崎県教育委員会
 長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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「大雄宝殿」に並んで「媽祖門[まそもん]」(8)があります。

パンフレットによると1827年(文政10)に再建されたとあり、「媽祖堂」に対する門と、仏殿と、方丈を連絡する廊下を兼ねているとされています。

■案内板より
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国指定重要文化財  崇福寺媽祖門[まそもん]
 指定年月日 昭和47年5月15日 所有者 崇福寺
 媽祖堂の前にあるから媽祖堂門と呼ばれるが(文化財の指定は媽祖門となっている)、大雄宝殿と方丈とをつなぐ廊下を兼ねた巧みな配置となっている。現在の門は文政10年(1827)に再建したもので、建築様式は和風が基調をなしているが、扉前面に黄檗天井がある。木割が大きく外観がよい。主要材はケヤキである。
 媽祖は、まそ・まぁずぅ・ぼさと読むが、また天妃[てんぴ]・天后聖母[てんこうしょうも]・菩薩・老媽[のうま]などの呼び名がある。海上安全守護の女神で、各唐船には船魂神として媽祖の小像を祀る。
 長崎県教育委員会
 長崎市教育委員会
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門をくぐると、正面の更に一段高くなった場所に「媽祖堂」(9)が建っています。

中を覗きましたが、中央奥にエレガントな女性らしい媽祖像が安置されていました。

下の案内板では「寺に媽祖を併せ祀ったのは、長崎の唐寺の特色である」とし、江戸時代の長崎奉行の施政下で、宗教施設を制限されたことによるものだったのかも知れません。

左手には「蘭盆勝会」の仮設と思われる観音菩薩像の祭壇があり、次の写真で紹介しています。

■案内板より
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県指定史跡 崇福寺媽祖[まそ]堂
 指定年月日 昭和35年7月13日
 所有者 崇福寺
 海上安全の守護神媽祖[まそ]を祀る媽祖堂は当寺草創後間もなく、現状より小さなお堂として建てられた。航海安全を最上の願いとする来航唐商たちが祀っていた。ここ崇福寺のほか、唐人の建てた興福寺には媽祖堂があり、福済寺は観音堂の脇壇に媽祖を祀った。寺に媽祖を併せ祀ったのは、長崎の唐寺の特色である。来航唐船に祀る船魂神の媽祖像は、在港中これら唐寺の媽祖堂に奉安した。現存建物は寛政6年(1794)再建のものである。
 媽祖堂は唐人屋敷内にもあった。天后堂という。
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媽祖堂のそばに細長いテーブルを囲むように仮設の建物があり、観音像と思われる絵が掛けられていました。

どのような目的があるのか分りませんが、何か儀式でもするのでしょうか。



16:30頃、「大雄宝殿」(本堂)へ入る数名の僧侶の行列が見られ、木魚や、カネの音に合わせ読経が始まりました。

日本各地の寺院で聞く読経とは違う珍しい読経の様子をしばらく見せて頂きました。

境内に祀られている様々な神仏や、扁額を見てもほとんど理解できず、中国の文化や、宗教などを知る必要を感じた参拝でした。

以前、神戸の中華街で春節祭の行事を見物したことがありますが、このような季節の行事の時に訪れるのも楽しいものです。

長崎旅行-13 「長崎市古写真資料館」で見た幕末・明治の写真師「上野彦馬」

2013年03月08日 | 九州の旅
2012年9月12日長崎旅行3日目は、市内電車一日乗車券を購入して長崎市内の観光を楽しみました。

朝8時頃からグラバー園をゆっくりと観光、「長崎市古写真資料館」へ着いたのは10時過ぎでした。



市電石橋駅付近を通り、石畳のオランダ坂通りを上って行くと、左手に「長崎市古写真資料館」の入口が見えてきました。

明治の洋館を利用した施設で、道路脇には大きな「東山手洋風住宅群」の案内表示の下に「東山手地区町並み保存センター」「東山手 地球館」「長崎市古写真資料館」「埋蔵資料館」と書かれた案内板があり、明治期の「東山手洋風住宅群」を利用した施設が案内されています。

■「長崎市古写真資料館」の玄関にあった案内板です。
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古写真資料館
 長崎は、200余年の鎖国時代にはわが国唯一の貿易港として西洋の多くの文化が流入し、日本文化の近代化に大きく貢献しました。また、安政5年(1858)、幕府は5ヶ国と修好通商条約を結び、翌年、横浜・函館とともに長崎も新しい時代の自由貿易港として開港され、東山手・南山手周辺地区に外国人居留地が形成されました。
 居留地の建設時にはすでに多くの写真が撮影されており、長崎の町は重要な被写体でありました。
 この古写真資料館は、全国の資料館や博物館に所蔵されている幕末から明治期の貴重な古写真や絵葉書を通して、長崎の外人居留地と当時の長崎を紹介しています。
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「長崎市古写真資料館」のある「東山手洋風住宅群」を中心とした地図です。

「東山手洋風住宅群」は、長崎の市電の駅で、最も南にある「石橋駅」から北へ約100mの場所です。

右下の拡大地図にある黄色い7棟が「東山手洋風住宅群」で、左列の上1棟が「埋蔵資料館」、左列の下3棟が「長崎市古写真資料館」、右列の上2棟が「東山手地区町並み保存センター」、右列の下1棟が「東山手 地球館」として利用されているようです。



洋館が並ぶ「東山手洋風住宅群」の風景で、「長崎市古写真資料館」の建物です。

淡いグリーンの洋館が並び、和風の瓦屋根の塀に囲まれる風景にも文明開化が進んでいた時代が感じられるようです。

「長崎市古写真資料館」には幕末から明治の著名人や、長崎の風景写真の他、写真家「上野彦馬」の生涯がパネル展示されていました。

館内には多くの写真が展示されていましたが、撮影禁止とあり、彦馬の紹介パネルにあった小さな写真を使わせて頂き、館内外の風景写真と併せて掲載します。

■「長崎市古写真資料館」の案内板です。
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長崎市古写真資料館
長崎の出島は、わが国で最初にカメラが持ち込まれたところです。
外国人居留地の建設時には、すでに多くの写真が撮影されています。やがて写真技術は長崎に定着し、日本人による最初の営業写真館が開設されました。
 この古写真資料館は、居留地時代の洋風住宅を整備したもので、わが国における写真の開祖といわれる「上野彦馬」の偉業を紹介するとともに幕末から明治期の貴重な写真資料を通じて長崎の外国人居留地と当時の長崎、また、日本における写真の歴史について、展示を行っています。
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左の写真は、写真家「上野彦馬」(1838年~1904年)で、眼鏡橋に近い生誕地の案内板に掲載されていたものです。

右の写真は、「上野彦馬」の父、「上野俊之丞」の肖像画で、資料館のパネルに掲載されていたものです。

パネルの説明文にあるように彦馬の父「上野俊之丞」は、好奇心あふれる多才な人だったようで、日本に初めてダゲレオタイプ(銀板)の写真機を輸入し、そのカメラで撮影した薩摩藩主島津斉彬の写真が日本人による初めての写真となったようです。

しかし、父俊之丞は、彦馬が13才の時、62才で亡くなっています。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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学問的家庭環境の上野家
 彦馬の父、上野俊之丞常足[しゅんのじょうつねたり]は長崎の御用商人であり、長崎奉行所の御用時計師として、出島への自由な出入りを許されていました。代々の絵師でもある俊之丞は、西洋の知識を積極的に取り入れ、後に火薬の原料である硝石の製造も行いました。
俊之丞の研究は多方面にわたっていますが、特に製薬業・中島更紗の開発・研究には力を注いでいたようです。
 上野邸には俊之丞の盛名を慕って多くの蘭学者が集まりました。そうした中で、彦馬も日常的に貴重な蘭書を目にし、西洋の学問についての会話を耳にして育ちました。家庭内での会話にもオランダ語が使われていたそうです。母の伊曽[いそ]も教育熱心で、彦馬は幼少時代から町内の松下平塾に通っていました。
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左の肖像画は、彦馬が約3年間師事した儒学者「広瀬淡窓」で、天領の日田(大分県)で開いた私塾「咸宜園[かんぎえん]」は、全国から門弟が集まる日本有数の規模だったとされます。

「咸宜園」では身分、性別を問わず門弟を受入れ、平等に学べる先進的な教育だったようです

右の写真は、幕府が長崎に開設した海軍伝習所の教授として来日したオランダ軍医「ポンペ」です。

「ポンペ」は、医学伝習所を開設し、彦馬も入門を許され、やがてダゲレオタイプ(銀板)の次に発明された湿板写真に出会うことになります。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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日田・淡窓塾咸宜園へ入門
 嘉永6年(1853年)、16才になった彦馬は後見役の木下逸雲のはからいで、豊後日田(現在の大分県日田市)の咸宜園に入門しています。
咸宜園は、儒学者広瀬淡窓の私塾で、身分制社会にあって、身分に関係なく入門を許し、地位や年齢にかかわらず塾生を平等に取り扱うという先進性を持っていました。
咸宜園には、多くの門人が集まり、高野長英・大村益次郎・後の総理大臣、清浦奎吾などの人材もでています。
彦馬はここで約3年間漢学を学びました。そののち、日田から長崎へ戻った彦馬は、父の友人であった大通詞(通訳)の名村花渓から、蘭語・蘭学を学んでいます。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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彦馬、恩師ポンペとの出会い
 黒船の来航以来、開国を迫られていた徳川幕府は、諸外国に対抗するための海軍の必要性を感じました。
 幕府は安政2年(1855年)、長崎に海軍伝習所を開き、オランダの海軍士官を招いて諸藩の学徒に西洋式の軍事教育を受けさせることとしました。
 1857年、海軍伝習所の第2次派遣隊の一員として来日したポンペは、基礎科学に始まり、臨床医学にいたる組織的な教育を行いました。
 ポンペは伝習所の終了後も日本に残り、養生所(病院)も開くなど、西洋医学を日本に根付かせるのに大きな功績を果たしました。
 日田から戻った彦馬は安政5年(1858年)、このポンペのもとに入門しています。
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左は、1839年にフランスで発表された世界初の実用的なカメラ「ダゲレオタイプカメラ(銀板)」で、右は、「上野俊之丞手控え(カメラスケッチ)」とあり、彦馬の父俊之丞が初めて日本に「ダゲレオタイプカメラ」を輸入した時のスケッチと思われます。

「ダゲレオタイプカメラ」は、銀板上に定着させたポジティブ画像をそのまま鑑賞するもので、露光時間も初期には数十分要していたようです。

下の説明文にあるように彦馬が医学伝習所で学んでいた頃、写真技術は、「ダゲレオタイプ(銀板)」から1851年にイギリスで発明された「ウエット・コロジオン・プロセス(湿板)」へ変わって行く時代でした。

湿板は、感光材などを塗ったガラス板に画像を感光させ、現像したネガ画像を焼増しする方式です。

彦馬は、ポンペのもとで舎密学(化学)を学ぶ中で、その後の人生を決定づける新しい「ポトガラヒー(湿板)」の言葉に出会ったようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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「ポトガラヒー」なる単語発見
安政5年(1858年)、20才になった彦馬は医学伝習所のポンペのもとに入門しました。ある日、舎密学(化学)の勉強をしていた彦馬は、ショメールの百科事典の中に「ポトガラヒー」という単語をみつけました。
それは、発明後間もないウエット・コロジオン・プロセス、今日で言う湿板写真の紹介でした。
興味を覚えた彦馬は、早速ポンペにその内容を質問しました。いかし、ポンペは写真についての知識はありましたが、実際に撮影に成功したことはなかったのです。
 そこで彦馬は書物の知識を頼りに、ポンペの助言と協力を受けながら、堀江鍬次郎と共に、手探りで写真術の研究を始めることになったのです。
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上段の図は、「彦馬が自作したカメラの原理」と題するもので、凸レンズを通った画像の光が反転して後方の感光板へ写る単純なものだったようです。

又、薬品も文献を見ながら試行錯誤し、感光材や、現像液などを作ったことが伝えられています。

結果としては何とか写真撮影に成功したものの、実用出来るレベルではなかったようですが、この試行錯誤の苦労が、その後の写真技術の基礎となったものと思われます。

下段の図は、単レンズ、複合レンズが描かれたもので、彦馬は、複合レンズを教えてくれた写真家「ロシエ」から写真撮影の技術を学ぶことが出来たようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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手探りの研究-カメラ作り
 彦馬の写真研究は、まず写真機を作ることから始まりました。彦馬の父、俊之丞は天保14年(1848年)にオランダからもたらされたダゲレオタイプ(銀板写真機)のスケッチを手控え(メモ)残し、嘉永元年(1848)に輸入していました。あるいは彦馬も、それを参考にしたのかもしれません。
 初めて作った自作のカメラは、オランダ製の遠眼鏡からはずしたレンズを使ったものと言われています。これを筒にはめ込んで木製の箱に差し込んで覗くと、蘭書にあるとおりに物体が上下逆さまになって映ります。
 大小の木箱を入れ子にして、内箱に筒にはめ込んだレンズを固定し、この内箱を前後に動かすことによってピントわ合わせる仕組みなど、自分なりの工夫をしながらカメラを作り上げていったのです。
彦馬は自作のカメラに、凸レンズ一枚の「単レンズ」を取り付けていました。やがて、フランス人ロシエから、レンスを数枚組み合わせて写真の隅々まできれいにピントを合わせることができる「複合レンズ」を教わりました。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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手探りの研究-感光剤・現像液作り
写真を撮るためには、カメラだけではなく、映っている光景を科学的に固定するための感光剤が必要です。
彦馬はそれらの材料を、自分の手で、一つ一つ作りだしていきました。
まず、エチルアルコールを焼酎を蒸留して作ろうとしました。しかし、焼酎では不純物がどうしても取り除けませんでした。そこでポンペから、ジンをもらって、やっつと純粋なアルコールを得ることに成功しました。
硫酸を得るためには、硝石と硫黄を焚き、そこから発生するガスに水蒸気を通す、大掛かりな装置を作りました。6昼夜不眠不休の作業を行い、更に精製に1ヶ月かかったといわれています。
アンモニアは、地中に埋めて半分腐らせた牛の骨を、煎じて蒸留することで得られました。
また、青酸カリは、牛の生血を日光にさらして乾かし、分析・生成して作りました。
これらの作業は大変な悪臭を伴い、また、気味が悪いというので、近所からの苦情が相次ぎ、奉行所へ訴えられてポンペのとりなしで、ようやく事なきを得たという逸話も残っています。
彦馬はこうした苦難と試行錯誤を重ね、必要な薬品を製造していきました。そして、安政6年(1859年)には自力での撮影に成功したようです。同年、フランスの写真家ロシエが来日、彦馬は、ヨーロッパ最新の写真術の指導を受けることができました。
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「上野彦馬が活躍していた頃の写真撮影の様子(コロジオン湿板法)」と書かれたジオラマが展示されていました。

カメラの向こうに置かれた大きな箱は、感光材の塗布や、現像を行うための暗室だったのでしょうか。

当時、屋外の撮影は、荷物を運ぶ数名のスタッフが必要だったと思われます。

下の説明文にあるように彦馬の写真研究は、伝習所で共に学ぶ津藩の藩士「堀江鍬次郎」との出会いがあり、意気投合して共同研究を行ったとされます。

又、その関係から二人は、津藩で購入した最新式の湿板写真機を江戸へ持って行き、藩主や、諸侯を撮影することとなり、彦馬は一流の写真家への道を踏み出したようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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彦馬と堀江鍬次郎、江戸へ
 彦馬が伝習所で出会った津藩(現在の三重県)の藩士、堀江鍬次郎は、彦馬の良き共同研究者でした。鍬次郎は、藩主藤堂高猷[とうどうたかゆき]に願って、150両もする最新式の湿板写真機一式を、藩費で購入することを許されました。
万延元年(1860年)、彦馬と鍬次郎は藤堂公の命により江戸に行き、神田和泉橋の中屋敷に滞在しました。1年近くの間、2人は幕府蕃書調所に通いながら、屋敷に出入りする大名や旗本諸侯を撮影しました。その当時(文久元年)22才の彦馬を、鍬次郎が撮影した写真が残っています。
彦馬は文久元年(1861年)9月、藤堂公と共に津へ同行し、藩校有造館の洋学所で蘭語と化学を講義しています。
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写真は、彦馬の著書「舎密局必携」の一部のページです。

写真機や、三脚の挿絵があることから下の説明文にある「舎密局必携」の付録となった日本初の写真技術解説書「撮形術ポトガラヒー」と思われます。

彦馬が津藩の藩校「有造館」での講義のために書き上げた「舎密局必携」は、ポンペから学んだ舎密学を総括し、その後の彦馬の写真技術のバックボーンになったと考えられます。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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有造館時代の「舎密局必携」出版
 文久元年(1861年)、藤堂公と共に津へ向かった22才の彦馬は、藩校有造館洋学所で蘭語と化学を教えることになりました。
 ここで、語学力のないものが洋学を学ぶことの困難さを感じた彦馬は、日本語の科学の教科書「舎密局必携」を著しました。
 全編3巻になる「舎密局必携」は、藤堂高猷のはからいですぐに出版のはこびとなりました。
 これは主に9種の原書を参考・引用した名著で、その中で彦馬は、「化学当量」「元素記号」分子式」「化学式」などの概念を、国内の学者にさきがけて用いており、当時としては非常に画期的なものでした。
 「舎密局必携」は、大変な評判を呼び、全国的に利用されました。明治の中頃まで、関西を中心に科学の教科書として使われていたほどでした。
 付録には「撮形術ポトガラヒー」として、38項にわたって湿板写真に関する技術が詳しく記されています。これは日本初の写真技術解説書といえるでしょう。
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資料館に昔のカメラが展示されていました。

蛇腹が付いていることから「湿板カメラ」の次に発明された「乾板カメラ」の時代のものと思われます。

幕末の1862年、彦馬は、津から長崎に帰り、写真館「上野撮影局」を開設、長崎を訪れた著名人を数多く撮影することになります。

1881年(明治14年)43才の年、新しい写真技術のガラス乾板を日本で初めて輸入し、使い始め、その翌年に新築した写真館も「ビードロの家」と称されて話題を呼び、彦馬の四十代前半は繁栄への基礎固めの時期となったようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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写場「上野撮影局」開設から彦馬全盛時代まで
文久2年末(1862年)、長崎に帰った23才の彦馬は、「上野撮影局」を開設しました。これは横浜の下岡蓮杖と並び、日本最初の営業写真館で す。経営が軌道にのるまでには数年の月日を要しましたが、写真は徐々に人々の間に広まっていきました。
開設当初の撮影料は一枚一人二分。これは、当時の職人の一か月の生活費にあたりました。
 明治15年に、彦馬は家屋とスタジオを新築しました。特にガラス張りのスタジオは評判になり、「ビードロの家」と呼ばれました。フランスの小説家ピエール・ロチが「お菊さん」という小説の中で、この頃の撮影局り繁盛ぶりを描いています。
 彦馬は明治23年にウラジオストック、翌年には香港・上海に弟子を派遣し、上野撮影局の海外支店を開いています。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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湿板写真時代の終焉
 明治14年(1881年)、彦馬は当時欧米で湿板に代わって主流になっていた乾板を、ベルギーのモンコーエン社から輸入しました。
 それまでの湿板は、ガラス板に塗った感光剤が濡れているうちに撮影・現像しなくてはならなかっつたので、保存や運搬が大変不自由でした。
 乾板は保存がきくので、いつでも手軽に持ち運びすることができ、しかも感度が高いので格段に露光時間が短くなり、非常に便利になりました。
 この乾板写真は「早撮写真」と呼ばれ、当時有名だったのが東京の江崎礼二です。
 一般には明治16年の海軍競漕会を江崎が撮影した「隅田川水雷爆発」が日本初の乾板写真とされてきましたが、実際には、彦馬のほうが2年早く導入していたようです。
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昔のカメラのそばに小さなステージがあり、坂本龍馬の写真パネルがありました。

ステージの案内板に「このコーナーは、初期の上野撮影局の屋外写場を再現したものです~」とあり、湿板時代には屋外のステージで撮影していたようです。

現地では気付きませんでしたが、ステージの左に置かれた黒い台をよく見ると、龍馬の横に写っているものとそっくりです。

幕末に撮影されたこの黒い台は、「レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界」(小沢健志・上野一郎監修、山川出版社発行)に後藤象二郎が左ひじを置き、カメラ目線で写った写真にも見られました。

この黒い台が写る二つの写真は、龍馬が亀山社中を結成した頃のものだったのでしょうか。

この洋風の台を見ると、幕末の開国により、いち早く文明開化波が押し寄せていた長崎の雰囲気が伝わってくるようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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幕末の若き志士たち
 慶応年間の上野写真館には勤王佐幕双方の志士たちが訪れ、その若き日の姿を写真の上に残しています。
 彦馬の人物写真は「ナダール風」と言われるように、フランスの肖像画に近いと評されます。
 彦馬の作風は、彼を指導したフランス人写真家ロシエの影響と思われますが、絵師の家に生まれた彦馬自身の絵画的センスも大きな要素と考えられています。
 彦馬の写真は時代ごとに光の使い方が異なっており、スタジオや、撮影技術の進歩が見て取れます。
 また、彦馬は集合写真における人物配置が非常に巧みで、その群像のまとめ方には定評があり、今日の感覚から見ても優れたものがあります。
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彦馬が撮影したとされるロシア「ニコライ2世(人力車上にて)」と記された写真で、皇太子時代の1891年(明治24)に長崎を訪れた時のものと思われます。

「レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界」によると、この写真撮影の前年、彦馬はウラジオストックに初の海外支店を設立、19世紀末の長崎には氷に閉ざされる冬のウラジオストックを離れたロシア艦隊がよく寄港していたとあります。

ロシア艦上での集合写真や、多くのロシア軍人の肖像写真も残されており、皇太子はなじみのある彦馬の写真館に案内されたようです。

この写真を撮影した年、彦馬は上海や、香港にも支店を出し、1893年(明治26)にはシカゴで開催された博覧会に出品した写真が最高賞となるなど彦馬は、40代後半から次第に絶頂期を迎えます。

しかし、1895年(明治28)、日清戦争の開戦により、海外支店は閉鎖、1904年(明治37)には日露戦争の開戦となり、彦馬はその年、亡くなっています。

以前このブログでも掲載しましたが、北海道旅行で知った、同時代の函館の写真家「田本研造」も同様ですが、幕末に屈辱的とも言われる開港でしたが、それにより新しい技術が伝わり、人を育て、新しい文化を産み、繁栄していった歴史に大きな夢を感じます。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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新写場「上野撮影局」全盛時代
 西南戦争が終わると、外国人や著名人を始め、一般庶民の利用客も飛躍的に増えました。
 明治15年、彦馬は家屋を新築し、採光のために天井をガラス張りにした洋風のスタジオをつくりました。このスタジオは「ビードロの家」と呼ばれて評判になり、ますます多くの客が訪れるようになりました。
 明治19年には清の提督丁汝昌を、24年にはロシア皇太子(後のニコライ2世)を撮影しました。
 後日の大津事件の際には、このロシア皇太子の写真の焼き増し注文が殺到しました。
 明治26年には明治天皇の御真影の複写を行うなど、彦馬の名声はますます高まりました。そのかたわらで彦馬は写真術の研究を怠らず、第一回内国勧業博覧会を始めとする様々な博覧会で、
彦馬の作品は次々に賞を獲得していきました。
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