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病院への見舞いの帰り、福山市港町1丁目付近の公園で、岩と、小さな祠と、案内板があり、立ち寄ってみました。
案内板によるとこの岩は、「蛙岩(かえるいわ)」だそうです。
写真は、南から撮ったものです。
■写真に見える案内板の説明書きを転記します。
「蛙岩の伝説」
西浜の沖の蛙岩というは、この処に年経たる大蛙ありしが、或時大蛇来りて呑まんとす。
蛙逃げ廻り詮方なく恐ろしさの一念こって岩となる。大蛇は喰はんと見れども岩となりければ呑むこと出来ず大いに気を落とし一念こって、島となり、現在の深津高地となれり。
(江戸時代の作、西備名区より)
深津史跡顕彰会
福山市にこのような伝説があることを初めて知りました。
大蛇に襲われ石になった大蛙がこの岩のようです。
又、大蛙を喰えず気を落して石になった大蛇が「深津高地」と書かれています。
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地図の上部は、福山市王子町周辺で、下部は港町1丁目周辺です。
地図の下部にある赤丸が、「港町児童公園」です。
江戸時代に干拓が行われる前、この辺り一帯は海だったようです。
「深津高地」は、この地図上部にある緑部分の暁の星周辺で、王子神社辺りまでが万葉集にも詠われた「深津島」だったようです。
このブログ 2007-03-08「深津島」を眼下に眺望するで掲載した地図があり、昔の陸地と思われる部分を緑で表示しています。
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西から見た「蛙岩」です。
「蛙岩」を調べたらもう一つ「神功皇后」にまつわる伝説がありました。
「神功皇后」は、暗い夜にこの辺りを航海していました。
その時、行く手から大きな蛙の鳴き声が聞こえてきました。
不思議に思い調べてみると暗礁が見つかり、舵を切って難を逃れることが出来たそうです。
その暗礁は、蛙に似た形で、「蛙岩」と名付けられたそうです。
又、昔この港町辺りの地名は、「座床」と呼んでいたようで、船が「座礁」するにも通じるような名前だったようです。
このブログ2007-10-12 下関市長府の「忌宮神社」でも掲載しましたが、「神功皇后」は、第14代仲哀天皇の皇后で、広島県三原市「糸崎神社」の井戸にまつわる伝説や、福山市鞆町に鞆の地名の伝説も残っています。
「神功皇后」の時代は、弥生時代の終わり頃のようです。
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北から見た「蛙岩」です。
この岩の下は、土に埋まっていますが、かなり大きな岩だった可能性があります。
向かって右上の岩のふくらみは、カエルがこちらに向いている様にも見えますが、1800年前の話なので、地中に埋もれた部分を掘り出して見ないと分かりませんね。
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この岩を挟むように大小二つの祠があります。
祭神は、不明です。
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奥にある大きな祠です。
しめ縄が祠を巻くように取り付けられて、夏の日差しを避けるスダレのようにも見える変わったものです。
小さな祠のしめ縄とは様子がまったく違います。
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「港町児童公園」を東から撮った景色です。
子供達がボール遊びを楽しんでいました。
コメントありがとうございます。
祠が二つあることから考えると、祭神はおっしゃる通りかもしれませんね。
不思議なこの昔話を紹介して下さった深津史跡顕彰会の案内板は実にありがたいものです。
これがきっかけで備後地方の昔話の本を読むことができました。
この伝説は、福山市中央図書館で、地元の民話の本から見つけたものだったと記憶しています。
残念ながら、本の名は記録しておらず、不明です。