昔に出会う旅

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ドイツ・スイス旅行 11 中世の城郭都市 ローテンブルク(1)

2013年10月14日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行3日目朝、ハイデルベルクのホテルを出発、直線距離で約100Km東にあるローテンブルクへ向かいました。

ローテンブルクは、正式名を「ローテンブルク・オプ・デア・タウバー[Rothenburg ob der Tauber](タウバー川の上にあるローテンブルク)」と呼び、ドイツ南東部に位置するバイエルン州に属する人口が約11万人の町です。

町の周囲には中世からの城壁や、町並がよく残され、「中世の宝石箱」と呼ばれています。

又、トイツ観光街道の「ロマンチック街道」、「古城街道」が交差する場所にあることもあり、多くの観光客で賑わっていました。



旅行3日目で訪れた場所と、ローテンブルクの位置を印したドイツの地図です。

ハイデルベルクのホテルを8:00に出発し、ローテンブルクからロマンチック街道を南下し、ヴィースの巡礼教会を見て、18時過ぎに街道の終着地フュッセンにまでの約10時間の行程です。

ローテンブルクでの観光時間は、10:30から13:20と食事を含めて3時間足らず、その後のヴィースの巡礼教会では約15分間の観光と、バスでの移動時間が約7時間に及ぶとは予想していませんでした。



ローテンブルクの町に入り、城壁沿いの道の風景で、写真上部は、城壁を見上げた風景です。

今でも町の周囲には、このような城壁が続き、中世の町の面影を色濃く残しています。

城壁の上部には通路(犬走り)が続き、城壁に一定間隔で作られた穴は、矢・鉄砲などを射る狭間と思われます。

城壁の先にそびえる塔は、数ヶ所の城門の間に造られた「壁塔」の一つで、このように本格的な高い塔が造られているのは珍しく、ローテンブルクの特徴とされるようです。

矢・鉄砲狭間、犬走り、天守閣など安土桃山時代の頃から始まる近世日本の城郭は、南蛮貿易で伝わったヨーロッパの城郭技術に強く影響を受けたことを感じる風景です。



ローテンプルクの町の各所に掲示された案内図の写真に日本語の名称を加えたものです。

北の赤い矢印付近のゲートから町に入り、観光後、南の矢印から出ました。

町を歩いた経路を赤い(1)~(5)の数字で記していますが、続きは、次回の掲載とします。

上段の城壁の風景は、(1)の場所から西側を見た風景です。

ローテンプルクの町は、夕ウバー川東岸の高台に造られた町で、城郭があったとされる西に突出た「ブルク(城塞)公園」を中心に町を囲む城壁は次第に東に拡張されたようです。



「シュランネ広場(1)」から南に歩き、(2)の場所の東側に「ヴァイサー塔」が美しくそびえていました。

一瞬、町の中になぜこんな塔があるのか不思議に感じた風景でした。

町のパンフレットによると、「ヴァイサー塔」は、白い塔(WeiBerTurm)とも呼び、「12世紀に建造された市門。塔に隣接する建物は旧ユダヤ人舞踊館であり、中世期ユダヤ人社会の中心地の役目を果たしていました。」と紹介され、すぐ南にある「マルクス門」と併せて拡張される以前の城壁にあった門でした。

1172年、神聖ローマ帝国から自治権を認められ、ローテンプルクで最初に造られた城壁の門で、かつての城壁の痕跡は、市庁舎を中心とする環状道路に見られます。

町の案内図を見ると、二本の環状道路が見られ、外側の道は、堀の跡だそうです。



後方に二つの塔がそびえる「聖ヤコブ教会」(プロテスタント)です。

1311年に着工し、1485年に完成したとされますが、1336年からは教会として使用されていたようです。

コシック建築の比較的簡素な建物でしたが、二つの塔や、壁に飾られた彫刻など見ごたえのあるものでた。

■町の観光案内パンフレットより
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聖ヤコブ教会
教会内のテイルマン・リーメンシュナイダーの手になる「聖血祭壇」はフランケン地方有数の見所のひとつであり、これまたテイルマン・リーメンシュナイダー作の「ルートヴィッヒ・フォン・トウールーズ祭壇」及びフリードリヒ・ヘルリン作の「12使徒祭壇」もぜひじっくりご覧いただきたいものです。~
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「聖ヤコブ教会」の二つの塔の写真です。

向かって左が南側の塔、右が北側の塔ですが、右の塔が少し高く見え、デザインも素敵です。

この二つの塔は別々の建築家によって建てられたそうで、以下の資料に悲しい結末が書かれていました。

■「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)より
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聖ヤコブ教会
~建築様式はゴシックで、2本の塔は58メートルと55メートルの高さがある。塔の高さや装飾が違うのは別々の建築家が造ったためで、低い方の塔の建築家は、もう一つの塔があまりにも見事なのでショックで塔から飛び降り自殺をしたらしい。
この教会は、プロテスタント・ルター派である。教会の内部には、それはすばらしい「ティルマン・リーメンシュナイダー」の「聖血の祭壇」の木の彫刻があるので、フリータイムのとき、ぜひ入ってみたい。入場料は有料(2ユーロ、2010年現在)。聖血の祭壇には、「最後の晩餐」が彫り込まれている。入って階段を上がった2階で見られる。
リーメンシュナイダーは、ヴユルツブルク出身の15世紀から16世紀の彫刻家である。ヴユルツブルクでは、1520年から1521年に市長も務めた人物だ。
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「聖ヤコブ教会」の東側の広場の奥に面白い建物がありました。

建物中央に塔が付けられ、螺旋階段に合わせたと思われる斜めの窓が見られます。

写真下段は、八角柱の塔の三階部分の壁三面にそれぞれ日時計が付けられており、水平面や、斜面に造られた日時計しか見たことのない私には実に興味深い風景でした。(撮影時刻は10:38で、日時計は正確のようです)

三つの日時計が並べて作られた謎を考えてみました。

南向きの垂直の壁に取付けた日時計は、秋分の日から春分の日までは、日の出から日の入まで、ほぼ180度までの方角から日射を受けられます。

昼がの長くなる、春分の日から秋分の日までは、180度を超える方角からの日射となり、まして北緯50度前後のドイツの夏至では約300度の方角から日射があるものと考えられ、南向きの日時計1台では朝・夕の光は受けられなくなります。

八角柱の塔の左右の壁(南東・南西向き)に取付けられた日時計を考えると、左右に各45度の方角が広がり、三つの日時計を合わせると、270度方角から日射を受けることが可能となります。

六角柱の塔なら左右に各60度の方角が広がり、ドイツの夏至の約300度にはほぼ対応できたのかも知れませんが、後方建物の屋根が朝夕の光を遮らないよう塔を高くして、日時計も高い場所に設置する必要があると考えられます。

螺旋階段に沿った斜めの窓や、三つ並ぶ日時計にドイツ人の生真面目で、合理的な気風を感じます。



「聖ヤコブ教会」から南へ歩き、東西に走る通り「ヘルンガッセ」に出て、東方向を見た風景です。

伝統的な木組みの建物や、美しい建物が続く町並みで、この先には市庁舎や、マルクト広場があります。

町の案内図を見て頂くと、赤い字で(3)と表示した場所で、「ヘルンガッセ」は、町の中心「マルクト広場」と、昔に城塞のあったブルク公園を結ぶ重要な通りだったようです。

添乗員さんから教えられた一年中クリスマス用品を売っている「ヴォールファールト」の店は、左から三軒目の赤茶色の家と思われます。



「ヘルンガッセ」の南に面した「フランツイスカーナ教会」(プロテスタント)です。

町の観光案内パンフレットでは、この町最古の1285年の建物とされることからローテンブルクが1274年に帝国都市の特権を与えられて発展をしていた頃の建物と思われます。

ローテンブルクの町を開いたローテンプルク伯が断絶し、後を継いだホーエンシュタウフェン家も1254年に滅んだ後、市民による自治が始まった時代と思われます。

この教会にも一つの塔があり、建物の形も「聖ヤコブ教会」や、ハイデルベルクの「聖霊教会」に似ており、ドイツ風の教会なのでしょうか。

写真左に古めかしい像が立つのは車道の一部を塞ぐように作られた噴水で、教会と関連するのかよく分らない施設でした。

■町の観光案内パンフレットより
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フランツイスカーナ教会(FranzISkanerklrChe)
1285年に建立された前期ゴシック様式のローテンプルク最古のこの教会には、テイルマン・リーメンシュナイダーの手になる「聖フランシスコ祭壇」があります。
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フランツイスカーナ教会の斜向いに「Meistertrunk[マイスタートゥルンク]」の名のホテルと、レストランが併設された店があり、その前で添乗員さんがローテンブルクに伝わる「マイスタートゥルンク」の物語を話している風景です。

「マイスタートゥルンク」は、三十年戦争の時代、ローテンブルクが陥落し、市長ヌッシュがワインの一気飲みで町を救った物語で、写真上段右は、玄関上の看板、左は、玄関左上の看板で、どちらもワインを飲む市長のデザインとなっています。

海外旅行のガイドブック「地球の歩き方」の案内図に「Meistertrunk[マイスタートゥルンク]」の名のホテルがあり、その横に併設されたレストランの看板でした。

■「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)より
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マイスタートウルンク
この「マイスタートゥルンク」の逸話となった事件は次のようなものだ。
1544年、ヨハン・ホルンブルク市長の時代に、ローテンプルクは、プロテスタントへの改宗が行われた。
1618年から1648年の三十年戦争の時代、1631、1634、1645年にローテンプルク付近で戦闘があった。そして、1631年10月に、カトリックのティリー将軍がプロテスタント・ルター派のローテンプルクに4万人の軍隊の宿営を求めた。
ティリー(Tilly)はブラバント公国(現在のベルギー辺り) の出身の将軍で、敬摩なカトリック信者であった。バイエルン軍を率いるカトリック連盟の総司令官として主導権を握っていた。
ローテンプルク側の抵抗で損害を受けたティリー将軍は立腹して、市参議員全員を処刑にした上、ローテンプルクの街を焼き払うと宣告した。
ローテンプルクの人々が命乞いをしたが聞き入れられなかった。将軍の気持ちをやわらげようとワイン管理人の娘が、この地方特産のフランケンワインを大杯に注いで将軍に差し出した。美味しいワインに酔っぱらったティリー将軍は、「この大杯に入ったワインを一気飲みできる奴がいたら街を救ってやろう」なんてことを言いだした。大杯にはワインが3.25リットル入っていた。
そこで、市長(元市長という説もある)のヌッシュ(Nusch)が名乗り出て、「それなら私が飲みはしましょう」と言って、大杯のワインを一気飲みし、街は救われた。ガイドブックなどには「老市長」と再かれているが、ヌッシコは当時43歳で、ワインを一気飲みした後はさすがに倒れたが、息を吹き返し、80歳まで生きたという。
この出来事を伝える祭りが、毎年5、6月ごろの聖霊降臨祭に行われている。市参事宴会館の仕掛け時計も、その様子を再現している。
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ヘルンガッセの突当りに美しくそびえる「ブルク門」が見えてきました。

塔のてっぺんの屋根の下には鐘が吊り下げられており、かつては危険などを知らせていたのかも知れません。

写真右端の赤い花が飾られた建物に「リラクゼーション」とカタカナで書かれた看板があり、店頭に日本人女性が立っていました。

町の南にある「プレーンライン」の近くにも日本人が経営するお土産屋があり、多い日本人観光客を当て込んでの出店だったのでしょうか。



上段の写真は、門の外側から見たブルク門の風景です。

高い塔の外側にとんがり屋根の建物を左右に配置し、丸いアーチの入口が造られています。

下の案内パンフレットの説明文に「紋章で装飾された外門」とあるのは、丸いアーチの入口の左上や、写真左下の塔の上部の左右に二つの塔がデザインされた紋章が見られます。

wikipediaによると、ローテンブルクの紋章は、「銀地に、赤い2本の胸壁のある塔のある城。塔の間には三角屋根の小楼」と説明されています。

写真右下は、案内パンフレットの説明文にある「針穴」で、塔の下のアーチを閉じる門扉の下部にある小さな開き戸です。

又、案内パンフレットの説明文に「お面の開口部」とあるのは、塔の壁にあるアーチの上と思われますが、気が付かず、写真はありません。

■町の観光案内パンフレットより
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城塞門(Burgtor=ブルク門)
紋章で装飾された外門。お面の開口部から攻撃者に向かって熱い?青を注ぎかけることができました。内側の門扉内に組み込まれた「針穴」と呼ばれる小さな戸は、夜間一人用の通路として使われました。
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写真上段は、ブルク門の前に広がる「ブルク公園」から南東方向のローテンブルクの町の南部を見た風景です。

赤い屋根の建物が並び、あちこちに塔が立つこの風景に「中世の宝石箱」と呼ばれるローテンブルクの一端を見るようです。

よく見ると、町の南部だけでも5~6ヶ所に塔が見られ、町の案内図では、城門、壁塔、旧城門、教会他で、30塔以上あるようで、イタリアのサンジミニャーノを思い出します。

写真下段は、「ブルク公園」から南のタウバー川を見下ろした風景で、ズームで撮っており、実際ははるか下に見えます。

14世紀に架けられたとされる「ドッベル橋(二重橋)」は、タウバー川にたくさんのアーチが連続し、町の日本語観光案内に「二重橋」と名付けられているのは謎です。

これらの風景を見渡す「ブルク公園」は、蛇行したタウバー川に突出た高台にあり、10世紀に始まるローテンブルク伯や、その後のホーエンシュタウフェン家の城塞が築かれ、町の発祥の場所だったようです。

ローテンブルクで撮った町の写真を見ていると、素敵で、珍しい風景に夢中になって歩いていたのを想い出します。

■町の観光案内パンフレットより
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城塞公園(Burggarten)
今日の城塞公園の場所に、1142年、ホー工ンシュタウフ工ン家が帝国城塞を建てましたが、1356年の地震によりほとんど崩壊してしまいました。唯一、ブラジウス礼拝堂だけが地震の後で修復されました。城塞公園からは、旧市街とタウバー渓谷の比類ない素晴らしい眺めが一望できます。
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