南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市の「飫肥城」と「豫章館」を見学した後、「小村寿太郎記念館」へ向かいました。
「豫章館」を出て、南に下る「大手門通り」を見た風景です。
すぐ左手に「小村寿太郎記念館」への入口があります。
「小村寿太郎誕生の地」は、この大手門通りを進み、国道222号と交差する少し手前の左手にあります。
途中には鯉の泳ぐ水路や、豪商の邸宅「旧山本猪平家」などがあり、石塀の続く城下町を楽しみながら散策しました。
観光パンフレットにあった飫肥地区の観光マップの一部です。
飫肥城大手門からマップ1の「豫章館」から、マップ4の「国際交流センター小村寿太郎記念館」、「旧伊東祐正家住宅」を見て、マップ5の「旧山本猪平家」、「小村寿太郎誕生の地」と歩いて行きました。
左右に石柱が建つ門を入ると「旧伊東祐正家住宅」が見えてきます。
通りを挟んで向いにある「豫章館」と同様、城を背にする屋敷で、城下町では最上級の屋敷だったようです。
「国際交流センター小村寿太郎記念館」は、この邸宅の奥に造られており、地元の人々は「小村寿太郎」に最大の敬意を表して、この屋敷を選んだようです。
■玄関の脇に案内板がありました。
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日南市飫肥重要伝統的建造物群保存地区
私邸物件 旧伊東祐正家住宅
昭和52年5月18日選定
国際交流センター小村記念館を含む屋敷地は、江戸時代の初めは松岡八郎左衛門、江戸時代末には川崎宮内か居住していたことが絵図によって判明している。
いずれも上級家臣である。明治以降は、藩主であった伊東家の分家が住んだ。
現在の建物は明治初期の火災後建てられたものであるが、江戸時代の武家屋敷の様式をよく残している。当初は茅葺きであったが、昭和28年頃の改造で瓦葺きになるとともに、建物規模の縮小が行われた。
現在、復元準備を検討ている。
日南市教育委員会
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「旧伊東祐正家住宅」の玄関の上に家紋の入った飾りがありました。
確か、藩主に連なる伊東家の家紋は、九曜紋[くようもん]」のはずですが、この紋は何なのでしょうか。
飫肥城内の「松尾の丸」に再現された江戸時代初期の藩主の屋敷の瓦です。
撮ってきた写真を調べてみると、丸い「九曜紋[くようもん]」の他に玄関上に見られた紋が見つかりました。
「松尾の丸」に<飫肥藩、成り立ち物語 初代藩主伊東祐兵[すけたけ]の妻「松寿院」を中心に>のタイトルで展示されていた資料の中に「飫肥藩主伊東氏の家紋」と題した展示がありました。
説明文では、三代藩主までは中央の丸(星)を含めて九個ありますが、同じ家紋の熊本藩主細川家と識別するため三代藩主以後は、丸(星)を一個増やし、右上の紋としたとあります。
残念ながら玄関上の紋は、「庵木瓜紋[いおりもっこうもん]」、右下は「鍵一文字」の名称のみ書かれていました。
下段の紋の意味や、どのように使い分けられていたのか興味のあるところです。
「旧伊東祐正家住宅」の北側に沿ったアプローチを進むと「国際交流センター小村寿太郎記念館」が見えてきました。
玄関を入ると正装した150センチに満たない小村寿太郎の等身大の人形があり、余りに小柄だったことに驚きました。
外交官、大使、外務大臣など歴任し、強気の外交交渉で名をあげたのは、ずば抜けた知力と胆力によるものだったのでしょうか。
■玄関を入ると左手に案内板がありました。
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国際交流センター小村寿太郎記念館
国際交流センター小村寿太郎記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎の没八十周年を記念して、小村候の功績を後世に伝えるとともに、国際化に対応できる人材教育や文化活動の拠点をめざして、平成五年(1993)一月十六日に開館した。建物の建築面積は一千三十四平方メートルで、記念館と国際交流センターからなっている。
小村候は、二十世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結んだ。また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得。その功績で日本は名実ともに独立主権国家となった。
日南市では、ポーツマス条約を縁として、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和六十年(1985)に結んでいる。
この施設の完成により、ポーツマス市を中心とした国際交流が一層推進されることになった。
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案内板にあった小村寿太郎の写真です。
小村寿太郎は、1855年(安政2)に飫肥で生まれ、1911年(明治44)に満56歳で没しています。
左の写真は、誕生地の案内板にあった14歳の頃の顔で、礼儀正しく、ひたむきに勉学に励む少年に見えますが、右の晩年の写真では感情を一切出さず、重要な交渉を冷徹におし進める外交官の顔に見えます。
4歳の頃から私塾へ通い、規定に14歳からとされていた藩校「振徳堂」へ特別に13歳から入学しており、子供の頃から非凡さが現れていたようです。
その後も抜群の優秀さで、貢進生として「大学南校(後の東京大学)」と進み、更に文部省から海外留学を認められて米国ハーバード大学で学んでいます。
外交官の素地は、このような経歴でつくられていったようです。
「小村寿太郎記念館」に再現されたポーツマス講和条約の調印式場と、後方の絵は講和会議の様子が描かれたものと思われます。(案内板にあった写真で、館内は撮影禁止でした)
日露戦争終結のホーツマスでの講和条約締結交渉が「小村寿太郎」の晴れの舞台となったようです。
日露戦争で、東郷平八郎大将率いる日本海軍が、ロシアバルチック艦隊を破った有利な状況下で、米国ルーズベルト大統領の仲介でポーツマス講和会議は、行われました。
会議場は、米国東海岸のポーツマス海軍工廠の第86号館で、現在は博物館となって講和会議の資料や、海軍工廠で建造された潜水艦の資料などが展示されているようです。
大手門通りを進んで行くと、「小村寿太郎誕生の地」の案内板と、大きな石碑のある屋敷跡がありました。
下級藩士の家の長男小村寿太郎が生まれ育った場所で、生活に追われ多忙な両親に代わって寿太郎の世話をしたのが祖母熊で、深い愛情と、厳しいしつけの中で幕末の幼少期を過ごしています。
■案内板がありました。
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小村寿太郎候生誕之地
小村寿太郎は、安政二年(1855)この記念碑がある場所で生まれた。父は町役人(別当職)をしていた小村寛で、禄高十八石の従士席という役人であった。
明治になって小村寛は飫肥藩の専売品を取り扱う飫肥商社の社長に就任していたため、その経営を巡る裁判によって小村家は破産した。その後、土地・建物は隣に屋敷を構えることになる山本猪平に売却されたが、昭和八年(1933)に山本家が土地を寄付するとともに飫肥藩関係者の寄付金によって現在の記念碑が建てられた。
記念碑の題字は、日本海海戦指揮官東郷平八郎の揮毫、裏面は大学時代から親交のあった杉浦重剛の詩である。
平成五年(1993)、小村候の功績を記念して国際交流センターが飫肥城前に開館した。
また、生誕の家と伝えられている建物は飫肥城近くに残されている。
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■レンタサイクルコースの案内板もありました。
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小村候生誕地
安政2年(1855年)小村寛の長男としてこの地で生まれたが、生家は飫肥本町の別当職で、小禄一八石の従士であった。
幼少から祖母、熊子の厳格な養育を受け六才から藩校に学び、一三才で寮に入った。
藩校時代には提灯をさげて早朝一番乗りをし寮生となっても寮僕のアルバイトを終えた夜の勉強の時間が一番楽しみだったという。
明治38年ポーツマス講和条約のことは承知のとおりであるが、よく大国の間に伍し一貫して興亜外交に終始したのである。
碑面は元帥「東郷平八郎」の書である。
日南市観光協会
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小村候生誕地の案内板にあった屋敷の建物配置図です。
右に「明治十二年八月十八日 鹿児島県日向国那珂郡本町五百九拾弐番地 建物」とあり、左に「建物持主 小村 寛」とあります。
父小村寛が経営する総合商社は、南九州が戦場となった西南戦争の影響で不振となり、家は人手に渡っています。
国の役人となった寿太郎には莫大な借金が残され、極度の貧乏生活が長い間続いたようです。
寿太郎は、借金の支払いを迫られる窮地を、何事にも動じない胆力を鍛える環境にしてしまったのかも知れません。
■図に添えられていた説明文です。
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この図は、明治12年に書かれた小村寿太郎候の生誕地の当時の全図である。
本家(生家)、土蔵、納屋、2階付きの納屋、平屋(隠居)、厩屋、などの建物が、現存していたと思われる。この地より小村候は、7才の時から、藩校振徳堂に通学された。又明治12年と言えば、当時小村候は、アメリカのハーバード大学に留学中で翌13年に5年間に渡る留学を終え同年11月8日に帰朝された。26才の秋である。しかし、恩師飫肥西郷、小倉処平は、すでになくどんなにか小村候は師の不運を嘆いた事であろうか(小倉処平は、西南戦争にて没す)尚小村寿太郎候の生家は、現在十文字に現存している。
図面の小村寛は小村候の父である
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屋敷の中央に「小村寿太郎候誕生の地」と刻まれた石碑があり、碑文は日本海海戦の勝利で国民的英雄になった「東郷平八郎」の書によるものです。
小村寿太郎は、46歳の1901年に外務大臣に就任、翌年には日英同盟を締結、1905年には日露戦争終結のポーツマス講和条約締結を行っています。
更に1908年には二度目の外務大臣に就任、米・英と通商航海条約を改定、幕末以来の懸案事項だった関税自主権を回復し、外交面から日本を欧米列強と肩を並べる国にしたと言えます。
1911年(明治44)には桂内閣総辞職に伴い、56歳で政界を引退した三か月後、突然病死しました。
亡くなる前年の1910年には第二次日露協約の締結で、満州権益の確保、韓国併合条約の締結で、韓国併合を行い、日清戦争以降の明治の日本の外交をリードした人でもあり、その対外関係は今日まで影響を及ぼしているように思われます。
昨今の反日感情が続く韓国や、中国との問題を考え、新たな時代を模索しようとする時期、「小村寿太郎」の時代の歴史をもう一度振り返り返えって見ることも必要ではないでしょうか。
参考資料
「小村寿太郎 近代日本外交の体現者」(片山慶隆著、中央公論新社出版)
「ポーツマス会議の人々 小さな町から見た講和会議」(ピーター・E. ランドル著、原書房出版)