昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

油絵「ヒマワリ」

2012年09月29日 | 妻の油絵

妻の油絵「ヒマワリ」です。

毎年描くヒマワリですが、なぜか今年は遅くなり、「晩夏のヒマワリ」といったところでしょうか。

少なめの小輪の花は、真夏の炎天下で元気いっぱいに咲く大輪のヒマワリとは違い、どことなく秋の気配を感じさせるようです。

風に吹かれ、涼やかに咲くヒマワリもまた一興です。



南九州旅行No.24 日南市飫肥「小村寿太郎記念館」と誕生の地

2012年09月24日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市の「飫肥城」と「豫章館」を見学した後、「小村寿太郎記念館」へ向かいました。



「豫章館」を出て、南に下る「大手門通り」を見た風景です。

すぐ左手に「小村寿太郎記念館」への入口があります。

「小村寿太郎誕生の地」は、この大手門通りを進み、国道222号と交差する少し手前の左手にあります。

途中には鯉の泳ぐ水路や、豪商の邸宅「旧山本猪平家」などがあり、石塀の続く城下町を楽しみながら散策しました。



観光パンフレットにあった飫肥地区の観光マップの一部です。

飫肥城大手門からマップ1の「豫章館」から、マップ4の「国際交流センター小村寿太郎記念館」、「旧伊東祐正家住宅」を見て、マップ5の「旧山本猪平家」、「小村寿太郎誕生の地」と歩いて行きました。



左右に石柱が建つ門を入ると「旧伊東祐正家住宅」が見えてきます。

通りを挟んで向いにある「豫章館」と同様、城を背にする屋敷で、城下町では最上級の屋敷だったようです。

「国際交流センター小村寿太郎記念館」は、この邸宅の奥に造られており、地元の人々は「小村寿太郎」に最大の敬意を表して、この屋敷を選んだようです。

■玄関の脇に案内板がありました。
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日南市飫肥重要伝統的建造物群保存地区
私邸物件 旧伊東祐正家住宅
昭和52年5月18日選定
 国際交流センター小村記念館を含む屋敷地は、江戸時代の初めは松岡八郎左衛門、江戸時代末には川崎宮内か居住していたことが絵図によって判明している。
いずれも上級家臣である。明治以降は、藩主であった伊東家の分家が住んだ。
 現在の建物は明治初期の火災後建てられたものであるが、江戸時代の武家屋敷の様式をよく残している。当初は茅葺きであったが、昭和28年頃の改造で瓦葺きになるとともに、建物規模の縮小が行われた。
 現在、復元準備を検討ている。
  日南市教育委員会
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「旧伊東祐正家住宅」の玄関の上に家紋の入った飾りがありました。

確か、藩主に連なる伊東家の家紋は、九曜紋[くようもん]」のはずですが、この紋は何なのでしょうか。



飫肥城内の「松尾の丸」に再現された江戸時代初期の藩主の屋敷の瓦です。

撮ってきた写真を調べてみると、丸い「九曜紋[くようもん]」の他に玄関上に見られた紋が見つかりました。



「松尾の丸」に<飫肥藩、成り立ち物語 初代藩主伊東祐兵[すけたけ]の妻「松寿院」を中心に>のタイトルで展示されていた資料の中に「飫肥藩主伊東氏の家紋」と題した展示がありました。

説明文では、三代藩主までは中央の丸(星)を含めて九個ありますが、同じ家紋の熊本藩主細川家と識別するため三代藩主以後は、丸(星)を一個増やし、右上の紋としたとあります。

残念ながら玄関上の紋は、「庵木瓜紋[いおりもっこうもん]」、右下は「鍵一文字」の名称のみ書かれていました。

下段の紋の意味や、どのように使い分けられていたのか興味のあるところです。



「旧伊東祐正家住宅」の北側に沿ったアプローチを進むと「国際交流センター小村寿太郎記念館」が見えてきました。

玄関を入ると正装した150センチに満たない小村寿太郎の等身大の人形があり、余りに小柄だったことに驚きました。

外交官、大使、外務大臣など歴任し、強気の外交交渉で名をあげたのは、ずば抜けた知力と胆力によるものだったのでしょうか。

■玄関を入ると左手に案内板がありました。
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国際交流センター小村寿太郎記念館
国際交流センター小村寿太郎記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎の没八十周年を記念して、小村候の功績を後世に伝えるとともに、国際化に対応できる人材教育や文化活動の拠点をめざして、平成五年(1993)一月十六日に開館した。建物の建築面積は一千三十四平方メートルで、記念館と国際交流センターからなっている。
小村候は、二十世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結んだ。また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得。その功績で日本は名実ともに独立主権国家となった。
日南市では、ポーツマス条約を縁として、米国ニューハンプシャー州ポーツマス市と姉妹都市提携を昭和六十年(1985)に結んでいる。
この施設の完成により、ポーツマス市を中心とした国際交流が一層推進されることになった。
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案内板にあった小村寿太郎の写真です。

小村寿太郎は、1855年(安政2)に飫肥で生まれ、1911年(明治44)に満56歳で没しています。

左の写真は、誕生地の案内板にあった14歳の頃の顔で、礼儀正しく、ひたむきに勉学に励む少年に見えますが、右の晩年の写真では感情を一切出さず、重要な交渉を冷徹におし進める外交官の顔に見えます。

4歳の頃から私塾へ通い、規定に14歳からとされていた藩校「振徳堂」へ特別に13歳から入学しており、子供の頃から非凡さが現れていたようです。

その後も抜群の優秀さで、貢進生として「大学南校(後の東京大学)」と進み、更に文部省から海外留学を認められて米国ハーバード大学で学んでいます。

外交官の素地は、このような経歴でつくられていったようです。



「小村寿太郎記念館」に再現されたポーツマス講和条約の調印式場と、後方の絵は講和会議の様子が描かれたものと思われます。(案内板にあった写真で、館内は撮影禁止でした)

日露戦争終結のホーツマスでの講和条約締結交渉が「小村寿太郎」の晴れの舞台となったようです。

日露戦争で、東郷平八郎大将率いる日本海軍が、ロシアバルチック艦隊を破った有利な状況下で、米国ルーズベルト大統領の仲介でポーツマス講和会議は、行われました。

会議場は、米国東海岸のポーツマス海軍工廠の第86号館で、現在は博物館となって講和会議の資料や、海軍工廠で建造された潜水艦の資料などが展示されているようです。



大手門通りを進んで行くと、「小村寿太郎誕生の地」の案内板と、大きな石碑のある屋敷跡がありました。

下級藩士の家の長男小村寿太郎が生まれ育った場所で、生活に追われ多忙な両親に代わって寿太郎の世話をしたのが祖母熊で、深い愛情と、厳しいしつけの中で幕末の幼少期を過ごしています。

■案内板がありました。
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小村寿太郎候生誕之地
小村寿太郎は、安政二年(1855)この記念碑がある場所で生まれた。父は町役人(別当職)をしていた小村寛で、禄高十八石の従士席という役人であった。
明治になって小村寛は飫肥藩の専売品を取り扱う飫肥商社の社長に就任していたため、その経営を巡る裁判によって小村家は破産した。その後、土地・建物は隣に屋敷を構えることになる山本猪平に売却されたが、昭和八年(1933)に山本家が土地を寄付するとともに飫肥藩関係者の寄付金によって現在の記念碑が建てられた。
記念碑の題字は、日本海海戦指揮官東郷平八郎の揮毫、裏面は大学時代から親交のあった杉浦重剛の詩である。
平成五年(1993)、小村候の功績を記念して国際交流センターが飫肥城前に開館した。
また、生誕の家と伝えられている建物は飫肥城近くに残されている。
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■レンタサイクルコースの案内板もありました。
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小村候生誕地
安政2年(1855年)小村寛の長男としてこの地で生まれたが、生家は飫肥本町の別当職で、小禄一八石の従士であった。
幼少から祖母、熊子の厳格な養育を受け六才から藩校に学び、一三才で寮に入った。
藩校時代には提灯をさげて早朝一番乗りをし寮生となっても寮僕のアルバイトを終えた夜の勉強の時間が一番楽しみだったという。
明治38年ポーツマス講和条約のことは承知のとおりであるが、よく大国の間に伍し一貫して興亜外交に終始したのである。
碑面は元帥「東郷平八郎」の書である。
  日南市観光協会
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小村候生誕地の案内板にあった屋敷の建物配置図です。

右に「明治十二年八月十八日 鹿児島県日向国那珂郡本町五百九拾弐番地 建物」とあり、左に「建物持主 小村 寛」とあります。

父小村寛が経営する総合商社は、南九州が戦場となった西南戦争の影響で不振となり、家は人手に渡っています。

国の役人となった寿太郎には莫大な借金が残され、極度の貧乏生活が長い間続いたようです。

寿太郎は、借金の支払いを迫られる窮地を、何事にも動じない胆力を鍛える環境にしてしまったのかも知れません。

■図に添えられていた説明文です。
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この図は、明治12年に書かれた小村寿太郎候の生誕地の当時の全図である。
本家(生家)、土蔵、納屋、2階付きの納屋、平屋(隠居)、厩屋、などの建物が、現存していたと思われる。この地より小村候は、7才の時から、藩校振徳堂に通学された。又明治12年と言えば、当時小村候は、アメリカのハーバード大学に留学中で翌13年に5年間に渡る留学を終え同年11月8日に帰朝された。26才の秋である。しかし、恩師飫肥西郷、小倉処平は、すでになくどんなにか小村候は師の不運を嘆いた事であろうか(小倉処平は、西南戦争にて没す)尚小村寿太郎候の生家は、現在十文字に現存している。
  図面の小村寛は小村候の父である
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屋敷の中央に「小村寿太郎候誕生の地」と刻まれた石碑があり、碑文は日本海海戦の勝利で国民的英雄になった「東郷平八郎」の書によるものです。

小村寿太郎は、46歳の1901年に外務大臣に就任、翌年には日英同盟を締結、1905年には日露戦争終結のポーツマス講和条約締結を行っています。

更に1908年には二度目の外務大臣に就任、米・英と通商航海条約を改定、幕末以来の懸案事項だった関税自主権を回復し、外交面から日本を欧米列強と肩を並べる国にしたと言えます。

1911年(明治44)には桂内閣総辞職に伴い、56歳で政界を引退した三か月後、突然病死しました。

亡くなる前年の1910年には第二次日露協約の締結で、満州権益の確保、韓国併合条約の締結で、韓国併合を行い、日清戦争以降の明治の日本の外交をリードした人でもあり、その対外関係は今日まで影響を及ぼしているように思われます。

昨今の反日感情が続く韓国や、中国との問題を考え、新たな時代を模索しようとする時期、「小村寿太郎」の時代の歴史をもう一度振り返り返えって見ることも必要ではないでしょうか。

参考資料
「小村寿太郎 近代日本外交の体現者」(片山慶隆著、中央公論新社出版)
「ポーツマス会議の人々 小さな町から見た講和会議」(ピーター・E. ランドル著、原書房出版)

南九州旅行No.23 日南市 飫肥藩主 明治の屋敷「豫章館」

2012年09月19日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市の飫肥城下町の見物です。



大手門から出ると、明治維新後に藩主が移り住んだ屋敷「豫章館」の「薬医門」がありました。

「薬医門」を入ると、すぐ左手が受付の建物です。

右手の山には前回掲載の「松尾の丸」があり、「豫章館」は、城を背にして城下を見下ろす緩やかな傾斜地に建っていました。

■「街並み細見 西日本」(JTB日本交通公社出版事業局発行)の一節です。
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 大手門を出てすぐ右手角、広大な敷地に源氏塀*をめぐらせた薬医門がある。これはかつての家老屋敷、明治に入って旧藩主伊東氏が住んでいた邸宅で、豫章館と呼ばれている。周囲の山々を借景にした庭園は、武学流の築庭。

*源氏塀-下を板張り、上は塗り壁にして、瓦や板葺きの屋根をつける。数寄屋の住居や身分の高い者の屋敷などに用いられた。
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「薬医門」をくぐり、東側の玄関を見た風景です。

左手には庭園が広がり、右手には家の裏手と、付属建物に続く通路が伸びています。

案内板によると「豫章館」の名は、庭の北隅にあった大きな楠木にちなむものとされています。

豫(予)章とは楠木(クスノキ)の別名で、かつてはこの風景のどこかに楠木がそびえていたものと思われます。

玄関前の左右にコンクリートの四角な枡が見られますが、水が貯められており、昔からの防火用水だったのかも知れません。

■門を入り、左手に案内板がありました。
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市指定文化財 昭和五十八年十月一日指定
 建造物 豫章館
 豫章館は、飫肥藩主伊東祐帰が明治二年(一八六九)に城内から移り住んだ屋敷で、庭の北隅に大きな楠木があったことから豫章館と名付けられた。
 この屋敷は大手門前に位置する飲肥城下ではもっとも格式の高い武家屋敷である。薬医門と屋根付きの塀に囲まれた約六千五百平米の屋敷内には主屋、雑舎(台所・便所・納屋)、蔵、御数寄屋があり、南面に広大な枯山水の庭園が配されている。主屋は六部屋をL字型に配し、、玄関は千鳥破風の屋根を構え、表玄関と脇玄関がある。屋根はもとは茅葺きであったが、昭和初期に瓦葺きになった。
 昭和五八年(一九八三)に伊東家より日南市に寄付された。
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玄関が左右二つ並び、左手の「表玄関」です。

玄関が二つある屋敷は、賓客を迎えるための門とセットになっているものを見たことがありますが、元藩主となればその必要性はなかったのかも知れません。

この玄関を上がるのはどんな身分の人だったのでしょうか。

奥には五月人形や、奴凧が展示され、端午の節句は少し過ぎていましたが、楽しい玄関の風景でした。



右手の「脇玄関」の風景です。

「表玄関」よりだいぶ狭く、少し簡素な造りです。

見学者は、庭からの見学で、建物に入ることはできませんでした。



玄関から左に回った建物南側の風景です。

長い縁側から庭に出入りする踏石(沓脱石)が二ヵ所見えます。



縁側の東にある踏石辺りから見た庭の風景です。

庭の中央に井戸があり、ソテツなどの植え込みをめぐる飛び石が続いています。



縁側の西にある踏石辺りから見た庭の風景です。

敷地を囲む植木は、低いものが多く、向こうに見える低い山の風景を借景した広くゆったりした雰囲気の庭でした。

案内板に枯山水の庭とあり、すぐ前の自然石や、向こうの植込みは、広い池に浮かぶ岩礁や、築山を表現しているのでしょうか。



庭の中央にあった植込みから更に南に進むと、敷地を囲む屋根付きの塀に門がありました。

塀の向こうの一段低くなった道に通じる門で、縁側からよく見えませんでしたが、枯山水の庭の風景を壊さないよう植込みの陰になるよう作られたのかも知れません。



庭の南から見た母屋正面の風景です。

広々とした芝生の庭と、後方の山を背にした風景は、水辺の屋敷をイメージします。



母屋の西隣にあった建物です。

高い基礎と、周囲に格子窓を巡らせた不思議な建物でした。

建物配置図と、その案内板がほしいものです。



建物正面を南西から見た風景です。

昭和初期までの茅葺屋根だったとされ、廃藩置県で、藩主の座を外れた伊東家の私邸は、格式を保ちながらも意外に落ち着いたたたずまいだったことが想像されます。

瓦屋根が続く、飫肥の町並みもかつては茅葺屋根が続く素朴な町並みだったものと思われ、現代に作り替えられたイメージを少し修正して見る必要があるようです。



庭園を望む部屋にたくさんの五月人形や、凧が飾ってありました。

戦国時代、勇猛果敢に戦った先祖に思いを馳せたものだったのでしょうか。

かつて伊東氏と、島津氏が激しく戦ったこの地も、今では江戸時代の情緒を残す、のどかな城下町でした。

南九州旅行No.22 日南市 飫肥城「松尾の丸」 再現された藩主の御殿

2012年09月17日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市の「飫肥城」の「松尾の丸」に藩主の御殿が再現されており、見学しました。



石段を上ると「松尾の丸」が見えてきました。

「松尾の丸」は、江戸時代初期の建物を考証して再現したとされ、正面は見学者の入口で、かつての玄関は向かって左の部分だったようです。

■案内板より
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松尾の丸
 飫肥城復元事業により、昭和五十四年(一九七九)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設された。建物は延床面積約八百平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など二十室以上の部屋がある。
涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。建物の設計、監修は豊後岡城や京都二条城を参考に故藤岡通夫博士が行った。
 本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、財団法人日本船舶振興会(現日本財団)から多額の助成を受けた。
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「松尾の丸」の案内板にあった建物図面です。

赤い矢印と、番号で見学経路を描いており、(1)は上段の写真「見学者入口」、(2)は御殿の玄関です。

一段目の建物図は、向かって右に玄関があり、その左に廊下が続いており、建物正面と思われます。

二段目は建物裏面の図と思われますが、平面図左上に斜めに付け足した部分と、その右に突き出た部分は除外され、建物の接続部分が白く描かれているようです。

下段の平面図は、下が建物正面で、通常南方向に向けて建てられますが、実際には東方向に向いていました。

かつて藩主の御殿は、広い本丸にあったとされ、「松尾の丸」の場所に建物を再現するために方角を変更したのかも知れません。



「全景」と書かれたこの建物写真も「松尾の丸」の案内板にあったもので、向かって右端が玄関と思われます。

庭に見学ルートがなく、建物外観を紹介するための外観写真だったのでしょうか。

明治初期の建物の写真かとも思いましたが、庭に何もないことから再現建物の写真のようです。



御殿平面図で、(3)の「二の間」(12畳)と名付けられた部屋に展示されていた「川御座船」です。

「舞鶴丸」と名付けられており、船の長さが71尺(約21.5m)、巾(腰当)11尺余(約3.4m)で、実物は約3倍の大きさだったようです。

参勤交代などで、藩主を乗せて「飫肥城」から「酒谷川」を下り、日向灘まで約8Km、川沿いののどかな風景を見ながら航行していたのでしょうか。

■展示されていた説明文です。
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川御座船
 日南船舶株式会社建造
 昭和53年10月

飫肥藩の川御座船
文化三年に制作されたもので(2月~11月の10ヶ月の日時を要した)ときの藩主は伊東祐民公であった。
 船の長さ 71尺、巾(腰当)11尺余、深さ 2尺6寸の規模である。
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御殿平面図で、(4)の「御座の間」と名付けられた12畳の部屋の風景で、客間と思われます。

「川御座船」が展示されていた12畳の部屋と続き間で、合わせると24畳の大広間となり、大勢の来客に対応する間取りとなっていたようです。

モダンにも思える壁、ふすまの模様が印象的で、これも考証によるものだったのでしょうか。



飫肥藩の漢学者落合雙石[おちあいそうせき]の漢詩が書かれた屏風が展示されていました。

漢詩は現在調査中とのことで意味不明ですが、素人の私が見てなかなかの達筆に思えます。

屏風の説明文にある「管茶山[かん ちゃざん]」は、広島県東部の備後福山藩の儒学者・漢詩人で、頼山陽が塾頭をつとめたこともある「廉塾」を開いたことでも知られています。

「落合雙石」は、27才の1812年(文化9)から1814年まで「廉塾」で学んだとされ、書も残っているようです。

■屏風の説明文が展示されていました。
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漢詩人 落合雙石[おちあいそうせき]の書
落合雙石(1786~1868)は飫肥藩士の家に生まれた。幼いころから詩作の才をみとめられ、長崎に遊学して中国語を学ぶ。江戸・大坂など諸国を遊学した。特に中国地方に留学した時は管茶山や頼春水(頼山陽の父)らと交流している。
藩主の侍読、藩校振徳堂の教授に任ぜられた。
代表作には漢詩集「鴻爪隼」がある。
 ●屏風の漢詩は現在調査中です。・・・
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御殿平面図で、(5)の「茶室」と案内されていた部屋です。

10畳の部屋の一部が床の間で、中央に炉が切られています。

天井から竹で作られた不思議な飾りのようなものがぶら下がっているのが見えますが、下のカギ状の曲りから竹製の自在鉤[じざいかぎ]と思われます。

昔の農家にあった囲炉裏にぶら下がった自在鉤とは違い、初めて見る風流な自在鉤です。

隣の三畳間は、「水舎」で、神社の手水舎と同様に清めの作法を行う場所と思われます。

藩主の茶室だけに、しっかりと作法が守られるよう造られていたようです。



御殿平面図(6)の場所に「御化粧ノ間」と案内されていた四畳半の素敵な部屋がありました。

玄関から客間、茶室と続く来客エリアの廊下から、奥の「御寝所」など私的エリアへの視線を遮るように造られているようです。



御殿平面図(7)の奥の場所に「御寝所」がありました。

12畳の広い部屋で、8畳の「二の間」、6畳の「三の間」と続き間が並び、合わせると26畳の間となるようです。

床の間を背にして見える庭の風景は、心和むものだったと思われます。



御殿平面図(7)の最も奥の場所に「御寝所」がありました。

御殿平面図(8)の「御寝所」の奥にあった「殿様御厠」(上)と、「御手洗所」(下)です。

二畳の間に黒漆にも見える便器が据えられ、使用禁止と書かれた「殿様御厠」で殿様体験したいものです。



御殿平面図(9)の場所に「湯殿(蒸風呂)」と案内された部屋がありました。

手前の畳の部屋は、8畳に床の間まで付いた「脱衣室」です。

屋根のある仕切られた場所の床下には蒸気を発生させる大きな鍋があり、当時の風呂の様子を知ることができます。



御殿平面図(11)の場所は、台所でしたが、(10)の10畳の部屋に<飫肥藩、成り立ち物語 初代藩主伊東祐兵[すけたけ]の妻「松寿院」を中心に>のタイトルで伊東氏の資料が掲示されていました。

「松寿院」は、戦国大名「伊東義祐」の嫡男「義益」の娘で、父「義益」の急死後、同族の「伊東祐兵」へ嫁いだようです。

島津氏に敗れた伊東氏は、日向を追われ、豊後国の大友氏、伊予国の河野氏と渡り歩く苦難の時代がありました。

夫「伊東祐兵」は、播磨国で織田信長の家臣だった羽柴秀吉に仕えて奇跡的に大名に復活しますが、その苦難の時代を支えた「松寿院」の物語で、伊東氏の歴史を知ることができました。

南九州旅行No.21 日南市「飫肥城」の散策

2012年09月05日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)は、宮崎県都城市のホテルを出発、緑の美しい国道222号を日南市「飫肥[おび]城」へ向かいました。

以前から「飫肥城」は、不思議な雰囲気を感じる文字と、「おび」とする意外な読み方が印象に残り、訪れてみたかったスポットでした。

飫肥城の城主「伊東氏」は、鎌倉時代に日向で地頭職を持った旧家で、戦国時代に日向の地を追われ、豊臣秀吉に仕えてこの地で再興した大名です。

戦国時代の一時期には日向の大半に勢力を拡大、島津氏から「飫肥城」を奪い取った時期もありましたが、結局、島津氏に敗れてしまったようです。



飫肥城の大手門です。

塀に挟まれた長い直線の道の向こうに二階建ての門が見えてきました。

観光案内では左右に桜が咲き誇る写真を見ましたが、新緑の風景もまた格別の美しさです。

門の前には橋が架かっており、左右の塀に沿って空堀が続いていました。

■大手門の案内板です。
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大手門
 飫肥城大手門は明治時代初めに取り壊されたが、昭和五三年(一九七八)に飫肥城復元事業の第二期工事として歴史資科館とともに復元建設された。
 復元に際しては、当時の城郭研究の第一人者であった故藤岡通夫博士に設計、監修を依頼し国内に現存する大手門を参考に長来工法で行った。
復元された大手門は木造渡櫓二階建てで、高さ十ニ・三メートルを計る。建築材は飫肥営林署の三ッ岩学術参考保護林から樹齢百年の飫肥杉四本の提供を受けた。
 なお、復元工事中に、礎石に刻まれた正徳三年(一七一三)銘の碑文が発見され、大手門の内側に保存されている。
 飫肥城は、重要伝統的建造物群保存地区内であるとともに、日南市指定文化財である。
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■飫肥城下町めぐりレンタサイクルコースの案内板もありました。
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大手門
この大手門は、周辺の石垣遺構や主柱の根石などを検証し昭和五十三年に復元されたものである。
木造渡櫓二階建、屋根までの高さ三メートル、一階は二十一・六平方メートル、二階は四十中平方メートルで町の巾は一階七メトルである。柱や梁には樹齢百年以上の飫肥杉を使用し、釘は使わない「組み式」である。
屋根は入母屋風で「庵木爪[いおりもっこう]」の鬼瓦と「月星九曜紋」の軒瓦はいずれも「伊東家紋」である。
     日南市観光協会
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宮崎市から道のりで約50Km南にある日南市付近の地図です。

「飫肥城」は、地図左上の広渡川の支流「酒谷川」沿いにあり、海岸には飫肥藩の外港だった「油津港」があります。



上段は、飫肥城周辺の地形図です。

南に大きく蛇行した酒谷川の北側に飫肥の城下町が広がり、飫肥城本丸跡は川を見下ろす断崖の上にあります。

東側にも二本の川が見えることから、北側の山を背に三方を川に守られた城郭だったようです。

下段は、本丸跡の案内板に「飫肥城古図(1662年)」と書かれた絵図で、向かって右が北方向になっています。

左(南)に蛇行した酒谷川が流れ、右上に山上にそびえる本丸が描かれています。

右(北)に掘りと思われる黒い縦の線が二本、左右中央にも縦方向に二本の掘り(空堀か?)が見られます。

又、下側(東)の川に沿って土塁のような地形がみられ、川との間には侍屋敷があったようです。



門をくぐり、正面に見えた風景です。

左右と正面は石垣が立ちふさがり、その上に狭間(弓・鉄砲の穴)のある塀が築かれています。

■飫肥城下町めぐりレンタサイクルコースの案内板
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飫肥城
飫肥城は古くは「飫肥院」の跡とも云われているが、何時頃創建されたかは明らかでない。
長禄ニ年(一四五八年)島津の武将「新納忠続」を志布志城から飫肥城に移し、伊東方の押へにしているのでそれ以前の築城と考えられている。文明十六年(一四八四年)伊東祐国(六代佐土原城主が飫肥城攻防初戦をはじめてから、天正十五年(一四八四年)伊東祐兵(十九代飫肥藩初代)が豊臣秀吉の九州征伐の功により朱印によって飫肥城入城するまで約百年の我が国に於ける最長攻防戦いが行なわれたのである。
以来、約三〇〇年伊東藩の居城であった。
     日南市観光協会
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城内へ進み、大手門を振り返った風景です。

左手の塀の陰は、侵入してくる敵を迎え撃つ兵の待機場所だったのでしょうか。

美しい建物にもすざましい戦いの機能が秘められているようです。



大手門から左手の石段を上り、右手(東側)にある登り口です。

石段の上の建物は、「飫肥城歴史資料館」で、その後方(西)の更に高い場所には「松尾の丸」があります。

「飫肥城歴史資料館」や、「松尾の丸」を見学しましたが、「飫肥城歴史資料館」の撮影が禁止となっており、伊東マンショなどの興味深い展示があったものの展示内容の記憶は、すっかり消えてしまいました。



石段を登り、「飫肥城歴史資料館」の前から東側に「飫肥小学校」の校庭が広がっていました。

「飫肥城歴史資料館」から「飫肥小学校」の一郭は、かつての「中の丸」(後に、本丸となる)で、更に東には「今城」の一郭があったとされています。



「飫肥城歴史資料館」の北から見上げた「松尾の丸」です。

石段を上ると城主の御殿だった建物が再現され、伊東家の歴史資料も展示されており、次回の掲載とします。



「松尾の丸」の北に位置する「旧本丸」への登り口です。

上に掲載した1662年の飫肥城古図では「旧本丸」には藩主の御殿だったとされる平屋の建物が建っており、天守閣はなかったようです。

■登り口に「本丸」の案内板がありました。
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市指定丈化財  平成三年八月一日指定
史蹟飫肥城旧本丸
 飫肥城は東西約七百五十メートル、南北約五百メートルの城域に大小十三の曲輪と犬馬場などからなる・広大な城である。各曲輪はシラス台地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形態である。
戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正十五年(一五八七)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。
 城内の各曲始は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。
このうち、元禄六年(一六九三)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは旧本丸が藩主の御殿であった。
 旧本丸は寛文二年 (一六六ニ)、延宝八年(一六八○)、貞享元年(一六八六) の三度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。
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「旧本丸」への石段を登った辺りの風景です。

郭全体に杉が植えられ、苔の生い茂った林が広がっていました。

案内板によると、1600年代の後半に三度の大地震があったとされていますが、その痕跡には気付きませんでした。



「旧本丸」の北に門がありました。

門の左手には北に伸びる尾根が続き、「明治五年 飫肥城絵図」によると「西の丸」、「松の丸」と城郭が伸びていたようです。



「旧本丸」の北の門から見下ろした風景です。

右に折れた道は、急な断崖に造られた石段で、下には飫肥中学校の校庭が広がっています。

「明治五年 飫肥城絵図」によると飫肥中学校の校庭辺りは、「中の城」の一郭があり、更に北には「北の城」の一郭が描かれており、飫肥城の意外な広大さを知りました。

小京都と称される平和な飫肥城の城下町の雰囲気とは違い、城郭には激しい戦いに明け暮れた戦国の武士達の想いが籠っているようです。