昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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水彩スケッチ「チヴィタの秋」

2011年02月28日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「チヴィタの秋」です。

紅葉のツタに覆われた建物や、小さな家が続く通りのはるか先に青くかすんだ山並みが見えていました。

右手の二階建ての建物は、前回も掲載したイタリアのTV映画「ピノッキオ」に登場する「ジェッベットじいさん」の家として撮影された建物でした。



「チヴィタ」の東端近くの畑に秋を感じる柿がなっていました。

色や形は、日本でよく見るものと同じようです。

「イタリアにも柿があったのか!」と感心し、帰って調べてみるとイタリアでもkakiと呼ばれているようです。

日本から伝わったのでしょうね。




イタリア中部の町「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」は以下のページでご紹介しています。
イタリア旅行No.22 天空の町チヴィタ・ディ・バニョレージョ(1)
イタリア旅行No.23 天空の町チヴィタの素敵な風景(2)


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イタリア旅行No.23 天空の町チヴィタの素敵な風景(2)

2011年02月26日 | 海外旅行
11/13 イタリア旅行5日目「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」の町の散策の続きです。



チヴィタの町を東西に貫く石畳の通りを進んで行くと左手に「サン・ドナト教会」が見えてきます。

西に向く教会のファサードは、外装工事中のようで、工事の足場で覆われていました。



北西方向から見た「サン・ドナト教会」の鐘楼です。

古そうな鐘楼ですが、時計はまだ現役で動いているようです。



右手の入口に「ANTICO FORNO B&B(古い炉 B&B)」と書かれた看板が見えます。

「古い炉」の名は、暖炉で焼くチヴィタの郷土料理や、歴史的な建物をアピールする意味を込めたものだったのでしょうか。

レストランと思われる看板ですが、チヴィタのサイト「Civita B&B」を見ると「B&B」は「ベッド&ブレックファースト」の意味で、ここはホテルで、宿泊もできるようです。

左手の建物には二階の玄関に上がる階段があり、ここにも鉢植えの花が並んでいました。

階段の下に小さな車輪の付いた木馬が置かれています。

背中に小枝の束をくくり付けられた木馬の目には「困った」ような表情が浮かんでいました。



教会前の広場の道を荷物運搬用の四輪車が走っていました。

一般の自動車の通行が禁止されたチヴィタでは特別の貨物用車両だそうです。

ジグザグになった「サンタ・マリア門」の前の急な坂道をこの車で走るのは、ちょっとしたスリルのようです。

右手に見える建物は、教会広場の南にある土産物店です。



教会広場に面したお土産物店の店頭です。

オリーブオイルの大小の缶が陳列され、猫が店番をしています。

添乗員さんからチヴィタのオリーブオイルはおいしくて有名と教えられ、お土産にエキストラ・バージンオイルを数個買って帰りました。



土産物店を過ぎた教会の横の建物です。

葉の茂った階段の上にも玄関がありますが、チヴィタには二階に玄関がある建物がよく見られました。

階段の向こうのアーチの中に何かお店があるようです。

チヴィタのサイトでは「LA CANTINA DI ANTONIO[セラーアントニオ]」とあり、小さなワイナリーでしょうか。

帰り道、お店の前に50cc程度のバイクが駐車していました。

チヴィタで見たエンジンのある二つ目の乗り物でした。



通りを東に進むと紅葉のツタと、クラシックな街灯のある景色が現れて来ました。

通りは緩やかな下り坂が始まり、三匹の猫がのんびりと座っています。

右手の塀の向こうに小さな玄関と、二階の窓以外、ほとんど壁だけの質素な建物がありました。



上段の写真にある家を反対方向から見た風景です。

ツアーでご一緒した松山市のご夫婦が、家の壁にある貼紙を見て、この家が童話「ピノッキオ」に登場する「ジェッベットじいさん」の家と書かれているようだと教えて下さいました。

貼紙を見ると、2008年、アルベルトシローニ監督のテレビ映画「ピノッキオ」で「ジェッベットじいさん」の家としてロケで使われた建物のようでした。

インタネットで調べるとイタリア国営放送RAI が約40年ぶりにピノッキオをテレビ・ドラマ化とあり、話題の映画だったようです。

ジェッベットじいさん役は、実写映画スーパーマリオを演じたボブ・ホスキンスだったようです。



通りを更に東に進んだ左手に素敵な家がありました。

一段高い玄関へ上がる階段の前で記念写真を撮りました。



通りに面した家の二階の窓辺に赤い花が美しく咲いていました。

チヴィタの東端に近い、少し大きな家です。

数百年を経たと思われる家が建ち並ぶ通りは、鉢植えの花で、心がなごむ散策が出来ました。



チヴィタの東端の下り坂を少し下りて行くと雄大な渓谷の風景が開けていました。

一足先に添乗員さんが風景を眺めていました。

この東端から集合場所の駐車場まで、残った人がいないかチェックしながら帰って行かれたようです。

一見、うらやましいお仕事のように思えますが、実にご苦労が多いことが分かりました。



「サンタ・マリア門」の北側にある高い場所から西の駐車場方向を見下ろした風景です。

すぐ前には崩壊した建物の壁が見えます。

崩れゆく断崖に囲まれた「チヴィタ」の町の散策は、本当に心がなごむものでした。

美しい町の風景がこれからも永く続くことを祈るばかりです。


追記
「チヴィタ」の記事を2回に分け掲載しました。
他に「チヴィタ」の水彩スケッチと、関連風景も下記のリンク先へ掲載しています。
2011-02-24 水彩スケッチ「チヴィタの城門」
2011-02-28 水彩スケッチ「チヴィタの秋」
2011-03-04 水彩スケッチ「チヴィタの街角」
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水彩スケッチ「チヴィタの城門」

2011年02月24日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「チヴィタの城門」です。

天空の町「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」の「サンタ・マリア門」を町の中から見た風景です。

鮮やかに紅葉したツタが建物を覆い、チヴィタの秋を演出していました。

左手のBAR(バール)の建物からメニューの立て看板がのぞいています。

天空の町「チヴィタ」には絵にしたい風景があふれていました。



門を入り、すぐ左手にあったお家です。

花の鉢植が、通りの入口や、玄関、二階の窓辺に置かれ、素敵な風景をつくっています。

石造りの壁に緑のツタをアーチ型に這わせ、玄関を飾る工夫にはちょっと感心させられます。



スケッチとほぼ同じ、門を内側から見た風景です。

向かって右の階段に花の鉢植が並べられ、二階の玄関前までのアプローチを美しく飾っています。

上段の写真の家は、この階段の家の向こうを右に入った場所です。

正面の建物の屋根の下に花の鉢植が並べられた、ちょっと不思議な場所が気になります。



「サンタ・マリア門」を入り、右手奥の建物にマリア像と思われる絵がありました。

教会でもない建物にイエスを抱くマリアの絵は、意外に感じます。

門の名称と、何か関連があるのかも知れません。



門を入り、正面右にあるBAR(バール)です。

広場に小さな丸テーブルが並べられ、店先にはメニューの看板も見えます。

ここにも花の鉢植が置かれ、「サンタ・マリア門」に面した広場は、素朴で、心なごむ広場でした。

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イタリア旅行No.22 天空の町チヴィタ・ディ・バニョレージョ(1)

2011年02月22日 | 海外旅行
11/13 イタリア旅行5日目朝7:30頃、ツアーのバスはフィレンツェ郊外のホテル出発、10:30頃「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」へやってきました。



天空の町「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」の全景です。

類を見ない、驚きの風景でした。

広大な渓谷に断崖がそそり立ち、その上に中世の建物が並んでいます。

「バニョレージョ」の東の外れにある駐車場から「チヴィタ」へは約300mの長い橋が架けられ、さながら天空への道です。



イタリア旅行の行程を書き込んだ地図です。

「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」は。中央付近の赤枠で囲んで表示しています。

フィレンツェから約3時間でこの場所に到着しましたが、町のバスに乗換えたため時間が長くなったようです。

ローマから北北西に約100Kmの場所で、この後はローマへ向かいました。



ジグザグの坂道を登ると「チヴィタ」の入口「サンタ・マリア門」があります。

門に向かって左手に崖の崩落で破壊されたと思われる壁が見えます。

切り立つ斜面の地層を見ると、崩れやすい堆積層のようで、「チヴィタ」の町の危うさが実感させられます。

「チヴィタ」には「死にゆく町」「滅びゆく町」という悲しい別名がありました。



「チヴィタ」の橋から北に見えた風景です。

深い谷のはるか向こうの稜線に沿って町が続く風景は、実に雄大です。

地図で見ると「ルビリアーノ」という町でした。



「ルビリアーノ」の町をズームで撮った風景です。

地図を見ると、町の通りは、断崖に沿って続き、谷に下りて行く道もあります。

地層が現れた断崖を見ると「チヴィタ」の危機的な状況と同じ様に見えます。

ここも知られざる「死にゆく町」があるようです。

塔のある建物は中世のものでしょうか、断崖に見える数個の洞窟にも興味をひかれます。



天空の町「チヴィタ」へ上って行くところです。

意外に傾斜のある橋でした。

右手のはるか先の山に霧の海が広がっています。

この「チヴィタ」の町の周辺に深い霧が立ち込めると、この町をモデルとしたアニメ映画「天空の城ラピュタ」を彷彿とする風景となるのでしょうか 。



「チヴィタ」の町の入口にそびえる「サンタ・マリア門」です。

長い坂の橋を過ぎて、最後のジグザグの道は、更に急な坂道でした。

断崖の端に残る崩れた石壁は、古代遺跡を見るようです。

崩壊して次第にせばまる地形に、この城門にもいつか最期の時が来るのでしょうか。

入口のアーチの上に何か飾りが取り付けられていました。



「サンタ・マリア門」のアーチの上に取り付けられていた飾りです。

アーチの左右にある獅子像と、アーチの中央上にある鳥の像です。

何の鳥か分かりませんが、くちばしが大きく、城門を守る鳥と考えると「鷲」でしょうか。

日本でも神社仏閣に狛犬が見られ、再現された弥生時代の集落の門の上には鳥の飾りが見られますが、どことなく似たような風景です。



「サンタ・マリア門」のアーチをくぐり、「チヴィタ」の町が見えてきました。

目の前に二番目のアーチ、その壁の上から空が見えています。

植物に覆われた建物を見ると「天空の城ラピュタ」の城の中の風景を想い出します。



町に入り、「サンタ・マリア門」を振り返った風景です。

向って右の階段の脇に鉢植えの花が並び、住む人たちの温かい気持ちが伝わって来るようです。

左手の石造りの壁を美しく飾る鮮やかな紅葉が印象的でした。



「サンタ・マリア門」をくぐった辺りは小さな広場になっています。

劇的な町の外観とは裏腹に「チヴィタ」の町の中は、中世の雰囲気が漂う素朴な村のようでした。

屋外に小さなテーブルと、イスが置かれた右手の建物はバール(BAR)のようです。

添乗員さんの話では、ここ「チヴィタ」の住人は約20名、この店も観光客のためにつくられたようです。

これから「チヴィタ」の町の散策です。
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油絵「地球儀のある静物」

2011年02月19日 | 妻の油絵

妻の油絵「地球儀のある静物」です。(F6号)

何となく、うまく描けたようです。

この古びた地球儀を囲み、酒を飲み交わしながら旅の想い出話しにふけっている光景が浮かんできます。

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ところで、地球が球体であることは、紀元前の古代ギリシアの時代から知られていたようです。

哲学者「アリストテレス」(BC384年~BC322)は、月食の時、月に地球の影が映ることを知り、その影が常に丸いことから地球が球体であると理解したそうです。

又、イタリア・フィレンツェの地理学者・数学者・天文学者「パオロ・トスカネッリ」(1397~1482年)は、「地球球体説」を唱え、アジアへの西方航路の開発構想を提唱したとされています。

トスカネッリは、フィレンツェの大聖堂のクーポラを奇蹟的な工法で建設したブルネレスキ※(1377~1446年)とも会っていました。

ある時、大聖堂を巨大な日時計とすることを思いついたトスカネッリは、大聖堂のクーポラ頂上付近に光線を通す穴の開いたブロンズの板を設置、90m下の礼拝堂の床に定規となる石を設置する許可を得たようです。

その巨大な日時計により飛躍的に正確な太陽の動きが観測され、春分・秋分・冬至・夏至などを正確に予知出来るようになった他、天文図の修正・精密化なども進み、「天測航法」が大きく発達しました。

天体観測をして船の位置確認をする「天測航法」の発達は、やがてあの大航海時代の到来を招くことになります。

イタリア・ジェノヴァの船乗り「コロンブス」は、フィレンツェから送られたトスカネッリの手紙で世界地図(想像図)や、中国までの推定距離を知らされ、大西洋横断の航海に出発、アメリカ大陸発見となりました。

ただそれ以前、「コロンブス」は、アフリカ西海岸に松や、竹などが漂着しているのを観察し、西方に未知の土地があると考えていたようですが・・・・。
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この古風な地球儀に様々な歴史が想い起こされていきます。


※ブルネレスキ(1377~1446年)は、古代ローマ時代まで使われていた遠近法(透視図法)を再発見した人でも知られています。
透視図法は、紀元前6世紀のギリシアの画家キモンが発明したとされ、ローマ帝国滅亡と共に使われなくなっていたようです。
ブルネレスキは、古代ローマ時代の研究を行っており、その遺跡調査の測量技術から遠近法を発想したと考えられています。
当時の測量技術の内容は、よく分かりませんが、三次元の物体を平面に描き取ることでは遠近法(透視図法)と共通です。

参考文献
「天才建築家ブルネレスキ フィレンツェフィレンツェ・花のドームはいかにして建設されたか」ロス・キング著、田辺希久子訳、東京書籍発行
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イタリア旅行No.21 フィレンツェの町の散策

2011年02月17日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、フィレンツェ アルノ川河畔の見物を終え、土産物探しに行きました。



「アッレ・グラツィエ橋」を北に進むと右手に「サンタ・クローチェ広場」が広がり、その向こうに「サンタ・クローチェ教会」が見えてきました。(下段の地図(2)の場所)

花の聖母大聖堂などと同じ白・暗緑色・ピンク、三色の大理石で飾られたファサード(建物正面)が輝いています。

「サンタ・クローチェ教会」は、清貧をモットーとする修道会(信者の会)「フランチェスコ会」の教会と修道院がある施設です。

又、この教会にはミケランジェロ、ガリレオ、マキアヴェッリ、ギベルティなど著名人の墓があることでも知られています。

鐘楼の右にある丸い屋根の建物は「ペルッツィ家礼拝堂」で、その右の渦巻き模様の飾りがある街灯が印象的でした。



右手の教会がミケランジェロ広場から見た「サンタ・クローチェ教会」です。

中世には教会一帯は川沿いの湿地帯で、貧民の住居などもあったようですが、城壁が拡張され次第に整備されたようです。

アルノ川に建つ左下の建物は、「フィレンツェ国立中央図書館」(下段の地図(1)の場所)で、イタリアのみならずヨーロッパ最大級の図書館として知られています。



フィレンツェの地図です。

フィレンツェのアルノ川周辺の散策を終え、「アッレ・グラツィエ橋」(地図右下)付近から「サンタ・マリア・ノヴェッラ駅」(地図左上)まで歩いて行きました。

途中のスポットに番号(1)~(8)を記しています。



「サンタ・クローチェ教会」の近くにあるお土産物のガラス製品を買ったお店です。(上段の地図(3)の場所)

こぢんまりとした店内には素敵な商品がたくさん並んでいました。

写真右下の猫のイラストや、猫の置物は、店先に飾られていたもので、店主と思われる感じの良い応対を頂いた年配の女性の趣味だったのかもしれません。



「サンタ・クローチェ教会」から通りを西に折れて進むと「サン・フィレンツェ広場」に来ました。

向って右手の砦のような建物は「バルジェッロ国立博物館」(上段の地図(5)の場所)
で、左手の尖った鐘楼のある建物は「バディア・フィオレンティーナ教会」(上段の地図(6)の場所)のようです。

「バルジェッロ国立博物館」は、1865年に設立されたイタリア最初の国立博物館で、多くの彫刻も展示されているようです。



「サン・フィレンツェ広場」の東側に建つパロック風の建物「サン・フィレンツェ教会」(上段の地図(4)の場所)です。

小さな広場に意外に大きな建物がそびえ、ファサードの大きな白い飾りが印象的です。



美しいファサードの「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」です。(上段の地図(7)の場所)

40~50名の子供たち(イタリアの中学生?)が先生に引率されて楽しそうに見学していました。

「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」は、神学の研究や、フランシスコ会同様、清貧を重視する修道会「ドメニコ会」の施設として造られたようです。

1494年、メディチ家を追放して神権政治を行った「サヴォナローラ」は「ドメニコ会」の修道士でした。

「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」は、中世フィレンツェの作家「ボッカッチョ」の「デカメロン(十日物語)」にも登場します。

物語は、ペストが大流行した1348年(実際にフィレンツェの人口の半数以上が死亡した)、若い10人の男女がこの「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」のミサで出会ったことから始まります。



「サンタ・マリア・ノヴェッラ駅」を背にして見た鐘楼のそびえる「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」です。(上段の地図(8)の場所)

左手の建物の上に花の聖母大聖堂のクーポラが見えています。

1436年3月25日、建築家ブルネレスキにより奇跡的なクーポラの工事が完成、聖母マリアへささげる献堂式が教皇エウゲニウス四世の列席で開催されました。

その頃、フィレンツェで亡命中だった教皇の居館がこの「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」でした。

群衆がひしめく「花の聖母大聖堂」までの道には高さ1.8m、長さ300mに及ぶ木製の台の道が造られ、たくさんの花々で飾られたと言われています。

祝福の歓声が響く中、教皇エウゲニウス四世や、重責を担う人達は、花で飾られた大聖堂への道を歩いて行ったそうです。

3月25日は、大天使ガブリエルが聖母マリアへイエスの受胎を知らせた記念日でもあり、花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の献堂式には最適の日でもありました。

このフィレンツェのウフィツィ美術館に数名の画家による「受胎告知」の絵があったことも何となくうなづけます。

夢中で歩きまわったフィレンツェの観光もこれで終わりました。

翌日は天空の城「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」に立寄り、いよいよローマです。

参考文献
「天才建築家ブルネレスキ フィレンツェフィレンツェ・花のドームはいかにして建設されたか」ロス・キング著、田辺希久子訳、東京書籍発行
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油絵「紅いバラ」

2011年02月13日 | 妻の油絵

妻の油絵「紅いバラ」です。(F6号)

背景に変化を付け、リズム感のあるイメージを表現したかったそうです。

気高ささえ感じる深紅のバラは、この背景によって少し親しみのある絵になったようです。
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イタリア旅行No.20 フィレンツェ「ヴェッキオ橋」の風景

2011年02月11日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、フィレンツェの午後の自由時間、「ヴェッキオ橋」へ向いました。



「ウフィツィ美術館」の窓から見た「ヴェッキオ橋」の風景です。

この写真と同じ構図の風景画が隣町の「笠岡市立竹喬美術館」にありました。

日本画家小野竹喬[おのちっきょう]作、「ポンテ・ヴェッキオ」です。

デッサンの黒い線と、茶色の濃淡で色付けされた絵からは歴史的なフィレンツェの街の雰囲気が伝わってきます。

約90年前、竹喬は「ウフィツィ美術館」の三階の窓辺に立ち、この複雑な風景を正確に描きとめていました。

第一次世界大戦が終わって間もない1922年(大正11)に絵は制作されたようです。

長い船旅をしてはるばるこの遠い場所に立つには、竹喬の絵を極めようとする大きな夢があったものと思われます。



アルノ川下流(西側)の「サンタ・トリニタ橋」から見た「ヴェッキオ橋」です。

「ポンテ・ヴエッキオ(古い橋)」の名は、1218年、川下(西側)に2番目の橋「カッライア橋」が出来てから名付けられたそうです。

古代ローマ時代、ローマからフィレンツェを通るカッシア街道は、南から「ヴェッキオ橋」を渡り、「レプッブリカ(共和国)広場」を通過していました。

「ヴェッキオ橋」は、アルノ川の川幅が最も狭い場所を選んで造られたとされています。

その後、大洪水による幾度かの橋の崩壊があり、1345年に再建されてから現在まで奇蹟的にその姿を残しています。

川沿いのフィレンツェの町には厳しい自然との戦いの歴史があったようです。



「サンタ・トリニタ橋」から「ヴェッキオ橋」北詰付近を見た風景です。

通りに面した4~5階建ての古い石造りの建物もさることながら、岸に近い橋の上にも4~5階建ての呆れるほど高い建物が造られ、危なかしさに驚きます。

この後、アルノ川北岸の道を「ヴェッキオ橋」へ歩いて行きました。



三つのアーチがある「ヴェッキオ橋」の北側のアーチ部分です。

石造りの橋ですが、建物が石橋から横にせり出して造られ、たくさんの木材で支えられています。

このせり出した建物は、1495年に増改築され、現在まで残っているようです。



「ヴェッキオ橋」の中央のアーチが架かる橋げた部分にも大胆にせり出した建物が造られていました。

あの黄色の建物の窓から下を見下ろすことを想像するだけでも身震いしそうです。

アーチの中央辺りに胸像が建てられているのが見えます。



観光客で賑わう「ヴェッキオ橋」の中央付近の風景です。

橋の中央付近は、両側に続く貴金属店が途切れ、川の風景が楽しめます。

店舗の二階には「ヴァザーリの回廊(CorridoioVasariano)」があります。

「ヴァザーリの回廊」は、コジモ一世が1564年に造らせたもので、政務の事務所(現ウッフィーツィ美術館)と、対岸のビッティ宮殿までを結ぶ約1Kmの回廊です。

回廊を歩くコジモ一世は、二階の壁にある丸い窓から巷の様子を眺めていたものと思われます。



たくさんの美しい宝石、貴金属がならぶ「ヴェッキオ橋」のショーウィンドウです。

「ヴェッキオ橋」は、宝石、貴金属が続く商店街でした。

ショーウィンドウを覗き込んでいる日本人男性は、気に入った品が見つかったのでしょうか。



「ヴェッキオ橋」の中程の下流(西)側に胸像が立っていました。

これは、「金銀細工の父」とされるベンヴェヌート・チェッリーニ(1500~1571年)の胸像で、1900年に設置されたものです。

チェッリーニの作る指輪、腕輪など貴金属製品は素晴らしい評価を受け、「金銀細工の父」と呼ばれています。

チェッリーニの作品「メドゥーサの首を持つペルセウス」の銅像は、シニョリーア広場ロッジャにあり、このブログでも紹介しています。



「ヴェッキオ橋」の中程、上流(東)側の風景です。

二階を通る「ヴァザーリの回廊」を支える柱の上が美しいアーチになっています。



「ヴェッキオ橋」の上流(東)側に見える「アッレ・グラツィエ橋」です。

美しい五連のアーチの橋の向こうには「サン・ニッコロ門」がそびえ、右手の丘の上にはミケランジェロ広場があります。

かつて「アッレ・グラツィエ橋」は、1237年フィレンツェで3番目の橋として造られ、当時のポデスタ(司法長官)の名前から「ルバコンテ橋」と名付けられていたようです。

その後、橋の上にグラツィエ(慈悲)マリア礼拝堂が建てられ、広く信仰を集めて「アッレ・グラツィエ橋」の名に変わったとされています。

1944年、「ヴェッキオ橋」を除く3ヶ所の橋はドイツ軍により破壊されるまではフィレンツェ最古の石橋で、「ヴェッキオ橋」と同様に商店も並んでいたようです。



「ヴェッキオ橋」の北岸、上流側の風景です。

写真に向って右側「ウフィッツィ美術館」三階には、小野竹喬も「ヴェッキオ橋」を見下ろした窓が見えます。

その下の二階に「ウッフィーツィ美術館」から「ヴェッキオ橋」に続く「ヴァザーリの回廊」があり、川沿いには自動車が走るアーチが連続した回廊ありました。

ルネサンス時代の歴史的な建物も時代の流れの中に漂っているようです。
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水彩スケッチ「アルノ川河畔の教会」

2011年02月09日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「アルノ川河畔の教会」です。

河畔に建つ「サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会」のクーポラ(円蓋)が印象的な風景でした。



フィレンツェの町を貫くアルノ川付近の地図です。

向かって左端に「サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会」があります。

フィレンツェで最も有名な「ヴェッキオ橋」から下流に二つ目の橋「カッライア橋」の北詰「カルロ・ゴルドーニ広場」から南岸に渡る途中で見た景色でした。



「コルシーニ宮殿」付近から下流南岸に見た「サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会」で、手前にあるのが「カッライア橋」です。

アルノ川に向かった教会のファサードは、数百年間未完成とされる飾り気のない壁です。

「カッライア橋」は、四つの橋げたに五連のアーチが架かる美しい橋でした。

「カッライア」とは「荷車の通り道」の意味だそうで、この辺りに水を使う毛織物の作業場が多くあり、毛織物関係の荷物を運ぶ荷車も多かったことから名付けられたようです。



「カッライア橋」から見た下流南岸の風景です。

下流に見えるのは「アメリゴ・ヴェスプッチ橋」で、アルノ川の中には堰[せき]が造られています。

15世紀のフィレンツェの鳥瞰図を見ると、「アメリゴ・ヴェスプッチ橋」はありませんが、「カッライア橋」から上流に四つの橋が見え、この堰も描かれています。

かつてフィレンツェの繁栄は、アルノ川の豊かな水と、水運で支えられた毛織物産業よるものとされ、船をさえぎる堰を見ると、この下流に港があったのでしょうか。

■フィレンツェの毛織物産業の発祥の記載が下記の本にありました。******************************************************************************
「天才建築家ブルネレスキ フィレンツェフィレンツェ・花のドームはいかにして建設されたか」ロス・キング著、田辺希久子訳、東京書籍発行
P11
~だがこの町はロンドンにほぼ匹敵する五万の人口を擁し、有力な商業都市としての地位にふさわしい大聖堂を建立しょうとしていた。フィレンツェはヨーロッパでも指折りの繁栄した町になっていた。その富は、一二三九年にこの地に移ってきたウミリアート会の修道士たちによって始められた、毛織物産業がもたらしたものであった。コッツウォルズの修道院から運ばれてきた世界最高のイギリス産羊毛が、アルノ川の水で洗われ、梳[す]かれ、糸に紡がれ、機織り機で織り上げられる。そして紅海沿岸でとれた辰砂[しんしや](赤色顔料)や、丘の上の町サン・ジミニャーノ近郊の牧草地で育ったクロッカス(サフラン?)の明るい黄など、目にもあざやかな色で染め上げられる。こうして、ヨーロッパで最も高価でありながら、最も人気の高い毛織物が生まれるのであった。~
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アルノ川の下流に建つ「サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会」の対岸には「オンニサンティ広場」があり、その奥に「オンニサンティ教会」が建っています。

「オンニサンティ教会」は、フィレンツェに毛織物産業をもたらした「ウミリアート会」が創建した教会でした。



クーポラ(円蓋)と、鐘楼部分の写真です。

17世紀の建物ですが、風格のある美しさを感じます。

観光案内にはほとんど取上げられていませんが、アルノ川の水辺の風景は、ここが一番印象的でした。
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イタリア旅行No.19 フィレンツェ 「サンタ・トリニタ橋」付近の散策

2011年02月07日 | 海外旅行
11/12 イタリア旅行4日目、フィレンツェの午後は、自由時間でした。

妻の描く風景を探しながらアルノ川付近を散策しました。



フィレンツェで見かけたBVLGARI(ブルガリ)の店です。

トルナブォニ通りの両側には、グッチなど有名ブランドの店が並んでいました。



フィレンツェのアルノ川河畔の地図です。

グッチからサンタ・トリーニタ広場へ続くトルナブォニ通りからサンタ・トリニタ橋に出て、アルノ川北岸をカッライ橋へ進んで行きました。


トルナブォニ通りを南に歩いて行くとサンタ・トリニタ広場に正義の女神像が載る「正義の柱」(Colonna della Giustizia)がそびえていました。

この石像は、コジモ1世がストロッツィ達、反メディチ勢力を倒したモンテムルロの戦い(1537年)を記念するものだそうです。

■以下は、モンテムルロの戦いの背景です。
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1494年、フランス軍侵攻へ弱腰の対応をしたメディチ家はフィレンツェから追放されました。
ローマ教皇は、イタリア半島に勢力を拡大するフランス王国に対抗するため、スペイン、ナポリ、ヴェネツィアなどと神聖同盟を結びますが、フィレンツェは同盟参加を拒否して親フランスの姿勢を続けていました。
メディチ家と親しくする教皇は、スペイン軍の支援でフィレンツェを攻撃、メディチ家支配を復活を助け、神聖同盟に引き入れました。
その後、メディチ家から二人の教皇を輩出しますが、祖国の父と呼ばれるコジモ・イル・ヴェッキオ(1389~1464)から始まるメディチ家兄の家系は暗殺により断絶、弟の家系から17才のコジモ1世が擁立されました。
1537年、独裁体制を強めるコジモ1世に対抗し、フランス軍の支援を受けたストロッツィなど多くの貴族が反乱をおこしました。
戦いは、フィレンツェの北西約25Kmにあるモンテムルロの地で行われ、鎮圧されました
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反乱を率いたストロッツィ家は、銀行を営みサンタ・トリニタ広場のすぐ北にあるストロッツィ宮殿(地図に記載)の主でもありました。

この反乱は、銀行利権の争いでもあったのでしょうか。

広場の周辺にはストロッツィ宮殿以外にも多くの貴族の宮殿があります。



柱の上の正義の女神「テミス像」です。

「テミス」は、ギリシア神話でゼウスの妻となった女神で、目隠しをして、右手に剣、左手に天秤を持って立っています。

法曹界で使われるこの像は、目隠しで「予断を持たず」、剣で「力」を、天秤で「正しく判断する正義」を表しているそうです。



サンタ・トリニタ広場からすぐ南にある「サンタ・トリニタ橋」です。

橋のたもとに彫像が立ち、一見古いようにも思えますが、第二次世界大戦末期にドイツ軍撤退時に破壊され、戦後に昔の姿が再建されたようです。



二つの橋げたがある「サンタ・トリニタ橋」です。

アルノ川の氾濫で、橋が崩れた歴史があり、美しさと共に堅牢さを考慮し1569年に造られた姿が再現されているようです。

橋げたを見ると、上流側・下流側共に船の先端の形をしています。

始めてみる形ですが、水流に対して抵抗を少なくする配慮と思われます。



サンタ・トリニタ橋北岸を対岸から見た風景です。

橋のたもとにある屋上が砦のような建物は、「スピーニ・フェローニ宮殿」で、建物後方が「正義の柱」に面しています。

現在は、有名ブランドのサルヴァトーレ・フェラガモの本社が置かれている建物で、一階が店舗、二階には博物館があるようです。



「サンタ・トリニタ橋」の北岸から西を見た風景です。

ここは「コルシーニ通り」と呼ばれるようです。

向こうにはカッライア橋が見え、得体の知れないデザインの街灯の支柱が並んでいます。

写真の右手を見ると屋上に彫刻の並ぶ建物がありました。



屋上に彫刻の並ぶ建物です。

この建物は、前の通りの名称にもなっている「コルシーニ宮殿」で、コルシーニ家は、教皇も輩出した名門です。

フィレンツェでは何気なく見過ごすような多くの建物に、意外な歴史があるようです。



屋上に並ぶ彫像を見ると、なぜか全ての像が頭に小鳥を載せています。



コルシーニ通りを西に進むと「カッライア橋」があり、そのたもとに石像が゛見えて来ました。

「カッライア橋」は、1218年に造られた当時、ヴェッキオ橋に次ぐ古い橋だったそうです。

しかし、「サンタ・トリニタ橋」と同様にドイツ軍により破壊され、戦後再建されています。

1304年のカレンディマッジョ祭には群衆がおしよせて橋が倒壊したようで、1444年にヴェネツィアの「リアルト橋」が押し寄せた群衆により倒壊した話を思い出します。



「カッライア橋」のたもとは、「カルロ・ゴルドーニ広場」と呼ばれこの石像も「カルロ・ゴルドーニ」の像でした。

「カルロ・ゴルドーニ」は、ヴェネツィアが生んだ偉大な喜劇劇作家で、このブログ2010年12月13日の記事でも紹介しています。

フィレンツェで石像が造られ、広場の名前まであるのはなぜだったのでしょうか。

フィレンツェの町の散策では、興味深いものがたくさんありました。
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油絵「黄葉のアジサイ」

2011年02月02日 | 妻の油絵

妻の油絵「黄葉のアジサイ」です。

秋も深まり、落葉寸前のアジサイが美しく黄葉していました。

花瓶に挿して見ると意外な美しさがあります。

脇役のワインの瓶には少し控えめに、横になって登場してもらったそうです。

しかし、何と言ってもザクロの深い赤色と、黄葉のハーモニーが素朴な美しさを感じさせてくれます。
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