昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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伊勢神宮 内宮 正殿への参拝

2009年07月29日 | 近畿地方の旅
伊勢神宮 内宮の「宇治橋」を渡り、庭園のような植え込みが続く、広い参道を進んでいきました。

初めての参拝で、少し気持ちが高ぶっていました。



長い参道の狭い水路に架かった「日除橋」[ひよけばし]がありました。

外宮の参道口にも「日除橋」がありましたが、内宮では「宇治橋」が参道口となっており、「日除橋」は境内の参道の途中です。

江戸時代の寛政9年(1797)年発刊の伊勢参りの絵図「伊勢参宮名所図会」の「内宮宮中図其三」と現在の様子と比べてみました。

「内宮宮中図其三」の絵図には「日除橋」は見当たりませんでした。

宇治橋を渡り、一の鳥居までの一帯に民家等が立ち並ぶ様子は、現在とは大きく違っています。

「日除橋」は、神宮の建物を火災から守るため境内を水路でさえぎり、水路に架けた橋とされているようです。

「日除橋」が出来た経緯も民家が立ち並ぶ時代に考えられた防火対策で考えられたものではないかと推測されます。



「日除橋」を渡り、右手に「手水舎」がありました。

外宮の「手水舎」と同じ位の大きさで、やはり檜の掘建て柱です。



「手水舎」を過ぎるとすぐに「第一鳥居」があります。

榊が飾られた鳥居は、横を歩く人の大きさから、かなり太い柱です。

神社の鳥居には様々な種類があり、この鳥居は「伊勢鳥居」と呼ばれています。

鳥居の上にある傘木の断面が五角形で、その下段の横木「貫」[ぬき]が柱を突き抜けていない形式だそうです。



「第一鳥居」を過ぎると右手に五十鈴川の川岸につくられた「御手洗場」[みたらし]があります。

大勢の参拝者は、広い緩やかな石段を下って川岸で、手を清めています。

以前は、口も清めていたそうですが、衛生的な問題もあったのか、手だけの清めににしているようです。



「御手洗場」[みたらし]を過ぎると参道は、左に折れ、第二鳥居が見えてきます。

木が生い茂った参道から、社殿などの開けた明るい場所に出るとき、何とも言えない神聖な光が降り注いでくるようです。



参道を歩いていると散水車が追い越して走って行き、子供たちが追いかけて行きました。

散水車の青い水タンクの後方に「神宮」と書かれ、毎日参道に散水する保有車両のようです。

第二鳥居から「御札授与所」「神楽殿」「五丈殿」などの建物を左に見ながら歩いてきた辺りです。

手前の木は、杉の多い境内では珍しい巨大なクスのようです。



内宮正殿に近づいた参道の左手に大きな岩「籾種石」[もみだねいし]があります。

この風変りな名前「籾種石」には、実に涙ぐましい過酷とも思える物語がありました。

江戸時代中期、全国的に起きた「天明大飢饉」の頃、地元の楠部(五十鈴川下流の地域)の人々が、五十鈴川の河原からこの大きな岩を運び込んだと言われいます。

大飢饉で、食料が乏しくなっていた楠部の人々は、籾種[もみだね]まで食べ尽くしながらも岩を運び、奉納したことから「籾種石」と言われるようになったそうです。



参道は、突き止まりで、左手の石段を登るといよいよ天照大御神を祭る「御正宮」[ごしょうぐう]と呼ばれる神殿です。

右手の先には壁のない建物「御贄調舎」[みにえのちょうしゃ]が見えます。

内宮の祭典の時、ここでアワビを調理する儀式を行い、天照大御神にお供えするそうです。



参道の左手に「御正宮」[ごしょうぐう]へ昇る以外に高い石段がありました。

石段の下で写真撮影をするよう言われ、皆さんここで記念写真を撮っています。



「御正宮」のある石段の上を拡大してみました。

大きな鳥居と、茅葺屋根の門が見えます。

気が引き締まる想いで石段を登って行き、参拝しました。



参拝を終え、正面左手の道から見た「御正宮」です。

次々と参拝者が石段を登って行きます。



「御正宮」の隣に白い看板があり、「平成二十五年 第六十二回式年遷宮御敷地」と書かれています。

この場所に新たな神殿が建ち始めるのも、そう先ではないようです。

■新御敷地の前にあった式年遷宮の案内板に書かれていたものです。
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神宮式年遷宮について
ここは西の御敷地です。
東の御敷地と同じ広さがあり、二十年に一度、御正殿を始め、御門・御垣などの御建物と御装束神宝のすべてを新しくして、大御神様に新宮へお遷りいただくお祭りが式年遷宮です。
天武天皇の仰せににより、次の持統天皇四年(690)に第一回が行われて以来、現代まで千三百年間にわたって受け継がれてきました。
来る平成二十五年の第六十二回式年遷宮には、ここに新しい殿舎が建てられ、大御神様のご遷座を仰ぎます
この大祭には古代より常にみずみずしく、国も人も若がえり、栄え行くようにとの深い祈りが捧げられてまいりました
 神宮司庁
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伊勢神宮 宇治橋の架け替え工事の風景

2009年07月27日 | 近畿地方の旅
5月3~5日の「熊野・伊勢・志摩旅行」の思い出を再開します。

5月4日7:50頃、伊勢神宮 内宮へ参拝で、参道口の「宇治橋」にさしかかりました。

伊勢神宮では、第62回神宮式年遷宮の行事が、平成17(2005)年に始まり、平成25(2013)年まで様々な儀式や、行事が続いているようです。

内宮の宇治橋の架け替えもその行事の一つで、平成20年7月26日に起工式が行われ、目下建設中でした。



鳥居の向こうに工事中の「宇治橋」が見えます。

内宮の参道口である「宇治橋」は、五十鈴川に架かる檜[ひのき]造りの橋です。

記念撮影をする人が多く、私も三脚を持参し、妻と記念写真を撮りました。



伊勢神宮で頂いたパンフレットに掲載されていた「宇治橋」の写真です。
(前回の建て替え直後に撮られた写真でしょうか)

このブログ【2009-07-09 外宮 神路通りにある「お木曳」の案内板】でも引用した本ですが、「伊勢神宮 知られざる杜のうち」(矢野憲一 著)に、この正面から冬至の太陽が昇ることが紹介されていました。

誰かが冬至の日の出を意識してこの橋の方角を考えたのか、単なる偶然なのかは不明です。

機会があれば、この場所から冬至の早朝に太陽を拝みたいものです。

■パンフレットにあった宇治橋の説明文です。
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宇治橋
内宮の入口、五十鈴川の清流に影を映してかかる高欄つきの和橋が宇治橋で、二十年ごとに架けかえます。
橋の内側の大鳥居は内宮古殿の棟持柱を、外側は外宮古殿の棟持柱をつかい遷宮後に建て替えられます。
ここからはいよいよ神域だと、心のあらたまるところです。
  ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅ごころ
    うたた童にかへるかな      吉川英治
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工事中の「宇治橋」の隣ある「仮橋」です。

立て札に「右側通行」とありますが、外宮では逆に「左側通行」でした。



手前の仮橋から見る工事中の「宇治橋」です。

骨格は既に出来上がり、仕上げに入る段階のようです。



宇治橋の向こうに「鼓ヶ岳」[つづみがたけ](標高355.2m)が見えます。

この地方の山は、緑の色が多様で、とても美しく感じます。



川の中央付近から上流を見た景色です。

上流には人家が少ないようで、水がとても澄んでいます



仮橋から五十鈴川の下流を見た景色です。

川は、左にカーブしてその先の川辺は「おはらい通り」の町並みの裏通りです。

川の曲がった流れが、雑然とした景色を遮断しているようです。



仮橋を渡り、振り返って見た「宇治橋」の全景です。

少し離れているため、檜の香りはしませんでしたが、新緑の「鼓ヶ岳」に映えて完成時の美しさが思い浮かぶようです。



寛政9年(1797)年5月に発刊された伊勢参りの絵図「伊勢参宮名所図会」の「宇治橋」の絵図です。

「絵図に見る伊勢参り」(旅の文化研究所編 河出書房新社)に掲載されていたもので、江戸時代に盛んだったお伊勢参りの様子がよく伝わってくる本です。

江戸時代の「宇治橋」の風物詩を描いたもので、参拝者が厄除けで投げる銭を橋の下にいる人々が竿の先に付けた網でキャッチする様子だそうです。

大道芸人のようなパフォーマンスで、投げ銭をする人達を喜ばせていたのでしょうか、昔の情緒がしのばれます。

しかし、寒い冬にはかなりつらい仕事だったものと思われます。

■「絵図に見る伊勢参り」に掲載されていた説明文です。
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宇治橋
 五十鈴川に架けられた橋で、内宮の入口にあたる。南北の橋の渡り口に鳥居が立つ。ここでの名物は、竹の先に網をつけて投げ銭を拾う人々であった。『東海道中膝栗毛』にも、弥次郎兵衛と喜多八が同行の上方者といっしょになって宇治橋から銭を投げる場面がある。どのように銭を投げようとも彼らが器用に拾ってみせるので、一種の芸人であったともいえる。こうした情景がいつごろからみられるようになったかは定かでないが、神宮徴古館蔵の『伊勢両宮畳茶羅図』(桃山時代ごろ)に、宇治橋から銭を投げる人々とそれを拾う子どもの姿がすでに描かれている。綱つきの竹こそ使っていないが、宇治橋での投げ銭の慣習そのものは中世以来のことと考えることができる。また、寛政六(一七九四)年に東北からの参詣者が書き残した『伊勢参宮所々名所並道法道中記』には、「厄落とし橋銭投げ申すべく候」と善かれている。厄落としの賽銭のような意味合いで、参詣者は宇治橋から銭を放ったのであろう。
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「宇治橋」を内宮側の鳥居の下から見た景色です。

「宇治橋」の工事は、平成21(2009)年11月3日の渡始式を目指して行われており、完成後には再訪して渡って見たいと思います。

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油絵「カサブランカ」

2009年07月25日 | 妻の油絵
久しぶりに妻の油絵です。

今日、最近の作品をまとめて撮影したものです。



先週描いたばかりの作品「カサブランカ」です。

純白の花ビラに茶褐色の雄しべが、アクセサリーのように映え、とてもゴージャスな魅力があります。

白いウエディングドレス姿の花嫁の美しさとでも言うのでしょうか。


白い花びらを勢い良く描いているので、長い花の感じが出ているように思えます。

西日本では大雨が続き、大きな災害が発生しています。

先月、福山市では渇水で、給水制限が始まるところでしたが、その心配は無用となり、大雨の災害が心配となっています。
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見る方角で違う「石鎚山」の様々な姿

2009年07月22日 | 四国の旅
7月18日に「瓶ヶ森」の山歩きや、「瓶ヶ森林道」「石鎚石鎚スカイライン」から見えた「石鎚山」をたくさん写真に撮りました。

以前撮った写真と合わせ、色々な方角から見た「石鎚山」の写真を整理してみました。



2008-11-23 7:37 西条市壬生川[にゅうがわ]の南付近【北】から見た早朝の「石鎚山」です。

昨年秋、2008-11-26 愛媛県西条市の旅行で見た素敵な風景にも掲載した写真です。

少し積雪があり、見上げる「石鎚山」に神秘的な美しさを感じました。



2007-11-04 9:50 石鎚神社成就社【北北東】から見た「石鎚山」です。

最も近くから見た全景で、荒々しい山肌に「石鎚山」の偉大さを感じるようでした。



2009-07-18 12:06 瓶ヶ森【東北東】から見た「石鎚山」です。

天気が良く、澄み切った空気で、とても美しい「石鎚山」でした。



2009-07-18 9:43 「瓶ヶ森林道」自念子ノ頭付近【東】から見た石鎚山です。

手前に烏帽子の形をした「子持権現山」が見えます。
 


2009-07-18 13:12 「石鎚石鎚スカイライン」の土小屋付近の駐車場【南東】から見た石鎚山です。 



等高線の地図で「石鎚山」の標高1900m以上の峰(赤く塗った部分)を確認したところ、斜めの楕円形で囲んだ範囲に峰が並んでいることが分かりました。

標高1900m以上のベルト地帯が斜めに約1Km続き、屋根の棟のようです。

そのため上段の写真のように南東方向から見た最高峰の「天狗岳」は、正三角形に見えます。

■「石鎚山」の峰の標高を確認して見ました。
 弥山 1,974m、天狗岳 1,982m、南尖峰 1,982m
 矢筈岩 1846m、西ノ冠岳 1894m



2009-07-18 13:18 「石鎚石鎚スカイライン」【南南東】から見た石鎚山です。 

道路の向こうに雄大な「石鎚山」が現れ、急いでシャッターを切りました。



2009-07-18 13:39 「石鎚石鎚スカイライン」【南】から見た「石鎚山」です。

向って左の斜面にのぞいているのは「西ノ冠岳」でしょうか。 



2009-07-18 13:45 「石鎚石鎚スカイライン」の面河【南南西】から見た石鎚山です。

石鎚山の頂上が手前の山の上にのぞいています。

この方角からは、三角形だった山の形が完全に崩れできました。

標高1900mの峰が1Km続く頂上付近が、 切妻屋根の棟を斜めから見るような姿に見えます。
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「瓶ヶ森」から見た「石鎚山」の絶景と、「瓶ヶ森林道」

2009年07月20日 | 山歩き
7月18日、四国の「瓶ヶ森」の山歩きを楽しんで来ました。

「瓶ヶ森」(標高1896.2m)は、西日本の最高峰「石鎚山」(標高1982m)のすぐ東にある山で、「石鎚山」の眺望が良く人気の高い山です。

早朝、6:45出発、「瓶ヶ森」の登山口に到着したのが10:00でした。

晴天にも恵まれ、途中の瓶ヶ森林道の景色が素晴らしく、車を止めて景色を眺めていたので、福山市から正味3時間程度だったと思われます。



愛媛県西条市から高知県いの町へ抜ける国道194号の旧道「寒風山隧道」の高知県側の出口です。

隧道を出てすぐに右折すると「瓶ヶ森林道」[かめがもりりんどう]東の起点になります。

この道は、「寒風山」と「伊予富士」の間を通る標高約1120mの峠で、前後は急カーブが連続する狭い坂道が続いています。

昨年の秋にもここまで来ましたが、あいにく積雪があり、断念して帰りました。



快晴の「瓶ヶ森林道」を走っているとこんな景色が見えて来ます。

標高1701mの「自念子ノ頭」[じねんごのかしら]のようで、この辺りの道路の標高も1600mを超えてきます。

道路脇が広くなった場所で駐車し、この景色を満喫出来ました。

この他にも「瓶ヶ森林道」には素晴らしい景色が多く、石鎚スカイラインの景色より印象的でした。



東側から見た「瓶ヶ森」の全景で、向って右の頂上が「女山」、左の少し低い岩のある頂上が、「男山」です。

「瓶ヶ森」の「女山」の頂上は、標高1896.2mで、「瓶ヶ森林道」に面した登山口は、約1670mと、標高差は220~230mのようです。

瓶ヶ森男山の標高は、女山より約50m低く、名前だけ見ると女性上位の山のようですが、女山の頂上はなだらかな丘で、男山の頂上辺りは荒々しい岩場になっていることから名付けられたものと思われます。



瓶ヶ森登山口の駐車場にあった「瓶ヶ森」付近の案内図です。

「瓶ヶ森」登山口の駐車場は、「瓶ヶ森林道」の両側にあり、一段下にある北側の駐車場を利用しました。

向って右下の「現在地」から右上の「男山」まで680m、「男山」から左の「女山」まで540mと進み、帰りは「瓶ヶ森リュッテ」付近を通る下の道を選びました。



向って左の道が、「瓶ヶ森林道」に面した瓶ヶ森の登山口です。

この登山口の向いにトイレなどの施設があり、後方の両側に駐車場の入口があります。

10:00スタートです。



10:45、「瓶ヶ森 男山」の頂上へ到着です。

岩場の頂上には二つの祠があり、向こうに雄大な石鎚山が見えます。

頂上のすぐ手前の道は急な上り坂で、少し下に小さな小屋があり、写真に屋根の端がのぞいています。



「瓶ヶ森」の「男山」頂上から「女山」の頂上付近を見た様子で、これから尾根に沿って登って行きます。

この尾根の道から向って左に「石鎚山」、右に「西黒森」などが見えます。



「瓶ヶ森男山」から「女山」への尾根沿の道から東を見た景色です。

向って左の「西黒森」の頂から切り立った右手の尾根に沿って走る「瓶ヶ森林道」が延々と続いています。

四国の屋根が続く、とにかく雄大な景色でした。



「瓶ヶ森女山」の頂上近くから尾根沿の「男山」を見た景色です。

頂上にある小さな祠がかすかに見えていました。



11:15、「瓶ヶ森 女山」の頂上へ到着です。

登山口から1時間15分掛りましたが、写真を200枚も撮り、実にゆっくりと登ってきました。

頂上には約15人が山頂からの景色を楽しんだり、昼食をとっていました。



「瓶ヶ森 女山」の頂上から北を見た景色です。

向こうの山の向こうに瀬戸内海が見え、その手前が西条市の街のようです。

向って左には今治に向かう海岸線が縦に伸びているようです。

前日夜までの雨で、空気が澄んだようで、だいぶ遠くの景色が見えていました。



「瓶ヶ森 女山」の頂上付近から見た「石鎚山」の景色です。

「石鎚山」の景色を数十枚も撮りましたが、ここからの姿が最も神聖に見えるようです。

「瓶ヶ森」の登山ルートのほとんどの場所から「石鎚山」の姿が見えて、その雄大さに感動の連続でした。

12:18登山口まで到着、2時間18分の山歩きでした。

この後、「瓶ヶ森林道」を西に進み、石鎚スカイラインから東温市で国道11号へ出るコースを走りました。
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伊勢神宮 内宮 地下参道の「おかげ参り」の屏風絵

2009年07月17日 | 近畿地方の旅
宇治浦田町交差点の北にある無料駐車場に車を置き、内宮への参拝に向かいました。



a宇治浦田町交差点の少し東にある地下道の入口です。

まだ早朝だったので駐車場の空が多く、すぐ駐車出来ましたが、参拝を終えた頃には、待ちの行列が出来ていました。



b地下道に下りていく階段です。

多くの参拝者を考慮して広い地下道になっていますが、両脇の壁に、何やら絵が掛けられています。



右手の壁の絵です。

大きい字で「伊勢参宮道」とあり、続いて「おかげ参.抜け詣の図」と書かれています。

絵の中央付近に「京 三条大橋 京人總貫しは次第と 雪だるま式に道中を 伊勢に向ふ者しきり也」(一部読めなくて間違っている?)と書かれてありました。

これは、江戸時代にブームとなった伊勢神宮へのおかげ参りで、京都から伊勢までの絵の最初の場面のようです。



左手の絵の最後には、「昭和四十八年六月■■■始 八月■日完」「伊勢参宮道おかげ参の図 門脇俊一筆」と書かれ、海に浮かぶたくさんの帆かけ船の絵と、陸地には「御塩殿」の文字と、建物の絵があります。(■:読めない文字です)

左下に画家「門脇俊一筆」のサインに印があることから、どうも最後の絵のようです。

地下道の右の壁を奥に進み、左の壁を逆に戻る順で、京都から伊勢までのおかげ参りの道中の絵がかかれているようです。



地下道の半ばにさしかかった左手に「おかげ参り抜け詣の図」の説明文がありました。

これらの絵は、「現代の浮世絵師」と称される門脇俊一画伯(1913~2005年)の作品を陶板画にしたものだそうです。

■説明文を転記します。
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伊勢参宮道・おかげ参り抜け詣の図

伊勢に行きたい伊勢路がみたい
せめて一生に一度でも
江戸時代日本人みんなの憧れの
お伊勢さん
この絵は今から三百年前の
おかげ参り
京都から五日間の旅

昭和四十八年第六十回式年遷宮の年
画家門脇俊一さんは還暦を迎えた
そこでこれまでいただいた神仏を
はじめあらゆる「おかげ」に
感謝する気持ちをこめ
当時の人々の気分になって
一気に八十メートルの大屏風を描く
京都三条大橋を出発して
外宮内宮そして二見まで
一万人以上の人が描かれ
みんな喜びにあふれている
楽しんでご覧ください
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伊勢旅行の計画の下調べで見た本で、「絵図に見る伊勢参り」旅の文化研究所編 河出書房新社-の表紙の写真です。

この本には、寛政9年(1797)年5月に発刊された伊勢参りの絵図「伊勢参宮名所図会」が紹介されています。

「伊勢参宮名所図会」は、五巻六冊、附録一巻二冊の絵入大本で、編著者・絵師共に「蔀関月」[しとみかんげつ]とされ、絵図は、京都の三条橋から伊勢湾に面した二見の浦まで149点があるそうです。

「絵図に見る伊勢参り」には「伊勢参宮名所図会」の絵図35点が掲載されており、江戸時代と、現代の風景の違いが楽しめます。



「絵図に見る伊勢参り」にあった「古市」の絵です。

★古市は、外宮と、内宮の中間にあり、江戸時代賑わった全国有数の遊郭があった街だそうです。

遊女が千人もいたようで、昔も伊勢参りが盛んだったことがうかがえます。



地下道の門脇俊一画伯の屏風絵の中にも「古市」の絵がありました。

「伊勢参宮名所図会」の絵図とはまったく違っていますが、説明文はなぜか、同じ文章が書かれています。

やはり現代の浮世絵師と言われた「門脇俊一画伯」の絵は魅力的でした。

他にも楽しそうな絵がたくさんあり、昔の名所を調べて写真に撮った絵を眺めるのも旅の後の楽しみです。
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外宮別宮「月夜見宮」へ参拝

2009年07月14日 | 近畿地方の旅
ゴールデンウィークに行った伊勢旅行の続きです。

5/3早朝、外宮の参拝を終えて、近くにある別宮「月夜見宮」へ参拝しました。



外宮から「神路通」を直進すると「月夜見宮」に突き当ります。

「月夜見宮」の参道口は、深い森に囲まれています。

鳥居を入ると乗用車3台程度の駐車場がありました。



境内に入り、参道口を振り返って撮った写真です。

入口には「手水舎」がありますが、木が茂って暗い参道口を過ぎると明るい境内が広がっています。



月夜見宮の社殿前から参道口方向を撮った写真です。

向って右の「手水舎」に並ぶ建物の名称は、分かりませんが、壁がなく、板葺きの屋根でした。

手前の社殿前の砂利の色が白黒の二色となっているのが分かります。



参道口を入り、左手にある「宿衛屋」[しゅくえいや](社務所)の建物です。

早朝で、ひっそりとしていました。



「月夜見宮」の社殿です。すぐ脇に杉(?)の大木がありました。

祭神は、「月夜見尊」、「月夜見尊荒御魂」[つきよみのみことのあらみたま]と書かれており、伊勢神宮では珍しく、一つの社に二柱の神が祀られています。(とは言え同じ月夜見尊です)

「月夜見尊」は、最高神とされる女神「天照大神」の弟神でありながら、「天照大神」と同格とされる女神「豊受大神」(外宮)の別宮[わけのみや]に祀られています。

伊勢神宮の食物を司る女神「豊受大神」とは、いったい何者でしょうか?

又、伊弉冉[いざなぎ]の長男と思える「月夜見尊」を最高神とせず、姉神「天照大神」を最高神としたことも謎に思えます。

「豊受大神」は、兵庫県北部から遷宮されたとされ、元宮が残っているとのことで、一度訪ねてみたいと思います。



月夜見宮の社殿の横は、式年遷宮の敷地があり、社殿中央の砂利は、白く、両端は黒くなっています。

建物は、外宮の境内にある別宮と同じもので、背後のさわやかな5月の森に建物の美しさが引き立てられているようでした。



「月夜見宮」の社殿から右手奥に進むと、「高河原神社」があります。

参道の脇に小さな建物跡のように石が並んでいます。

祠でもあったのでしょうか?



立札に「豊受大神宮摂社 高河原神社」とあります。

板葺きの屋根で、他の摂社と同じような建物です。



「月夜見宮」の社殿左手奥に進む道があり、鳥居の下に稲荷神社にある白い狐が見えます。



大木の根元が枯れて空洞になった所にお稲荷さんが祀られているようです。

大木は、数本の木に支えられています。



白い狐の間に小さな賽銭箱があり、その奥に上が三角形になった石が置かれていました。

なぜか古代祭祀で神の依り代となる石のようにも思えます。

外宮境内の「度会国御神社」の奥にも大木の根元に白い狐の置物と、鳥居がありましたが、同じ神様なのでしょうか?

これらの神様に社殿を造らなかったことも謎です。

案内板もなく、祀られた神様もまったくわかりませんが、社殿のない遠い古代の信仰がそのまま残っているような感じです。
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「神路通り」で知った伊勢地方の「しめ縄」の文化

2009年07月11日 | 近畿地方の旅
5月3日、外宮参拝を終えて別宮「月夜見宮」への道「神路通り」を進んで行きました。



まだ早朝6:30頃です。

「月夜見宮」への道は、単純な直進の道ですが、二又に別れ、親切にも案内標識がありました。



少し進むと左手の道路脇の木の下に目立たない「神路通り」の案内板があります。

写真に向かって左下に竹筒から水が出るように作られたものと、水の説明板があり、右上にその拡大写真を貼り付けています。

■「神路通り」の案内板を転記します。
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神路通
古くより外宮の裏参道と月夜見宮とを結ぶこの道は、「神の通う路」と言われています。
外宮の別宮である月夜見宮の神様(月夜見宮尊)が、外宮の神様(豊受大神)のもとへ通われる路です。
神様は夜、宮の石垣の一つを白馬にかえて、その馬に乗って行かれます。
夜、この道を通る人は、神様に出逢わないように畏れつつしんで、路の真ん中をさけ、端を通ったと伝えられています。
 「宮柱立てそめしより月よみの  神の行き交う巾の古道」
と古歌にも詠まれています。
  神宮司庁刊「伊勢信仰と民話」より
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■竹の筒から出る水の案内板です。
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このお水は 神路通の 神聖なお水です ごゆっくりどうぞ
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竹筒からは水が出ていませんでしたが、湧水が出るのでしょうか?

竹の柄杓が置かれており、参拝者をもてなす町の人々の温かい気持ちが感じられます。



「神路通り」に面した昔ながらの民家の玄関になぜか季節はずれとも思える「しめ飾り」と、「神路通り」の提灯が掛けてありました。



旅館組合の入口には「笑門」とだけ書かれたしめ縄があります。

他にも色々とタイプがあるのでしょうか?

調べてみると伊勢地方では「しめ縄」を年中するのは当たり前の風景のようです。



この民家にも同じように「しめ飾り」と、「神路通り」の提灯が掛けてあります。

しめ飾りには大きな「門」の文字の中に「蘇民将来子孫家」と書かれているようです。

「蘇民将来」の伝説は、「備後風土記」(広島県東部)の逸文にあります。

全国的に行われている「茅の輪くぐり」は神社境内に作られた大きな「茅の輪」を歩いてくぐる神事です。

各戸の玄関にしめ縄を掛ける風習が続けられている伊勢地方のスタイルは、「蘇民将来」の伝説で語られる「茅の輪」を腰に付けると疫病にならない内容に近いものと思われます。

■東洋文庫「風土記」吉野裕訳 にある備後風土記の逸文を転記します。
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備後国[きびのみちのしりのくに]
 蘇民将来
 備後の国の風土記にいう、-疫隅の国社[えのくまのくにつやしろ]。昔、北の海においでになった武塔[むとう]の神が、南の海の神の女子を与波比[よばい](求婚)に出ていかれたところが、日が暮れた。その所に将来兄弟の二人が住んでいた。
兄の蘇民将来はひどく貧しく、弟の将来は富み、家と倉がー百あった。ここに武塔の神は宿を借りたが、惜しんで借さなかった。兄の蘇民将来はお借し申しあげた。そして粟柄[あわがら](粟の茎)をもって御座所を造り、粟飯などをもって饗応した。
さて終わってお出ましになり、数年たって八桂の子供をつれて還って来て仰せられて、「私は将来にお返しをしよう。お前の子孫はこの家に在宅しているか」と問うた。蘇民将来は答えて申しあげた。「私の娘とこの妻がおります」と。そこで仰せられるには、「茅の輪を腰の上に着けさせよ」と。そこで仰せのままに〔腰に茅の輪を〕着けさせた。その夜、蘇民の女の子一人をのこして、全部ことごとく殺しほろばしてしまった。そこで仰せられて、「私は速須佐雄[はやすさのお]の神である。
後の世に疫病がはやったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰に着けた人は免れるであろう」と
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備後地方に住んでいますが、全国的に神社で行われる「茅の輪くぐり」しかなく、この話を知る者も特に多いとは思えません。

しめ縄の風習、「松下社」など、伊勢地方に色濃く残る「蘇民将来」の伝説は、忘れ去られた歴史の痕跡のようにも思えます。
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外宮 神路通りにある「お木曳」の案内板

2009年07月09日 | 近畿地方の旅
伊勢神宮 外宮の参拝を終えて、「神路通り」を別宮「月夜見宮」へ向かう途中です。



前回掲載した昭和初期のコンクリート電柱のすぐ横に式年遷宮の一行事である「お木曳」[おきひき]の案内板がありました。

「お木曳」は、伊勢神宮の社殿を20年毎に建替えるための木材を運ぶ行事です。

■案内板の説明文です。
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お木曳[きひ]き行事と山田
伊勢神官には二十年毎に御宮を遷しかえる式年遷宮[しきねんせんぐう]という行事があります。
これは千三百年程前の持統天皇の御世に始められたもので、この伝統が固く守られ営々と現在に伝えられています。
お木曳[きひ]き行事とは、木曽の山から切り出された御用材を宮川より外宮の北御門[きたみかど]まで各団の誇るお木曳き車に載せ、木遣[きや]り歌、伊勢音頭[いせおんど]などを囃[はや]したり、練ったりしながら、神領民と呼ばれる地元の人々によって行われる民俗行事です。
時期的には遷宮の七、八年前に行われ、いよいよまち全体が遷宮の年に向けて走り出す行事といえます。
外宮領の山田地区では陸曳[おかびき]きと呼ばれ、街中を曳き、内宮領の宇治地区では川曳きと呼ばれ、五十鈴川をソリで曳きます。
お木曳き車はワン鳴りと呼ばれる独特の音を出しながら曳かれ、その音を競ったりもします。また、ここ北御門への曳き込みはエンヤ曳きと呼ばれ、お本曳き行事のクライマックスで見応えのある勇壮なものです。
伊勢人はこの行事に参加することで、お伊勢さんへの畏敬の念とともに親しみを持って自分達の誇りとして、日々暮らしています。
また、外宮の北御門は、伊勢参りに訪れる多くの人々が神宮に辿り着いたと感じる終着点と言える場所であり、それと同時に全国各地へ旅立つはじまりの場所でもありました。世界遺産に登録されている熊野古道(伊勢路)へ向かう多くの人々も、ここから熊野三山[くまのさんざん]を目指し新たな旅を始めようとしていたのです。

 たふとさに みなおしあひぬ 御遷宮  芭蕉
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式年遷宮は、飛鳥時代の690年に始まり、現在62回目の行事が8年間(2005~2013年)に亘り行われています。

規則正しく行われていたら2010年で第67回となるはずでしたが、戦国時代に約124年間中断しており豊臣秀吉により再開されたそうです。

内宮の「お木曳」では、五十鈴川を橇[そり]に乗せて運ぶようです。

このブログ【2009-06-24 伊勢神宮 外宮のパワースポット「三ツ石」、 石橋「亀石」】にも記載しましたが、1498年(明応7)9月(室町時代末期)、明応の大地震が発生し、外宮の社殿の横を流れていた宮川の支流が大津波により埋められてしまいました。

大津波前には、内宮で行われている川曳が、外宮でも行われていたのではと推測されます。



案内板の「お木曳」の写真を切り出したもので、外宮の「お木曳き車」には、長い綱が付けられ、街を引き歩くそうです。

「お木曳車」の派手な飾りと、簡素で厳粛な伊勢神宮のイメージとのギャップを感じますが、これも祭り好きの庶民の感性と言うものでしょうか。

伊勢旅行の下調べで、図書館のDVD「伊勢神宮 受け継がれるこころとかたち ~式年遷宮元年の記録~」を見ましたが、この「お木曳」前後の8年間に及ぶ式年遷宮の行事のスケールや、千数百年の伝統が受け継がれて行く様子に驚きました。

この「お木曳」に参加する一般市民は、内宮と合わせて延べ20万人にも及び、この神事に参加する伊勢の人々の熱い意気込みを感じます。

神宮で神職など歴任された矢野憲一氏の本の一節に式年遷宮の木材について書かれていました。

■「伊勢神宮 知られざる杜のうち」矢野憲一 著 より
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一回の遷宮に必要な檜材は約一万立方メートル。本数にすると一万本ほどになる。一万本もいるのかといわれるが、太い木ばかりだともっと少なくてよいのだが、細ければ本数はそれだけ多くなる。
一番太いのは棟持柱[むなもちばしら]で、二十年後には宇治橋の大鳥居になるからどなたもお馴染みだが、直径八十センチメートル、樹齢四百年以上の巨木が用いられる。最大のものは仕上がり直径一メートル三十センチの御扉に用いる一枚板の檜だが、もうこんなのは手に入らない。前回からは合板が使われた。
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用材の檜は、当初神宮の裏山だったものが、江戸時代以降、御嶽山の南に広がる長野・岐阜両県の山林から伐採されているようです。
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外宮 北御門前に立つ80年前のコンクリート電柱

2009年07月06日 | 近畿地方の旅
伊勢神宮 外宮の参拝を終え、別宮「月夜見宮」へ向いました。


北御門前から「月夜見宮」へ向かう最初の横断歩道を渡った舗道の脇で、少し古そうな電柱を見つけました。

電柱の横には案内板があり、昭和三年に両陛下の伊勢神宮ご参拝に備えて作られ、記念に1本だけ保存されているものだそうです。



案内板によるとこのコンクリート製電柱は、80年前の電話ケーブル用で、塗られているペンキの一部がはげ落ち、長い歳月が感じさせられます。

23本の電柱が建設されたのは、内宮の宇治橋から宇治蒲田町交差点(猿田彦神社付近)まで600mの道沿いにあったとされていますが、外宮前のこの場所には保存のため移設されたと思われます。

良く見ると電柱の立っている場所は、道路脇の私有地のようです。

すぐそばにNTTがあり、その関係でこの場所が選ばれたのでしょうか。

電柱が作られた昭和3年は、金融恐慌の始まった翌年でしたが、このモダンな電柱は、参拝者や、町の人々の心を明るくするものだったと思われます。

■舗道の脇にあった「コンクリート電柱」の案内板を転記します。
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昭和の歴史とともに歩んだコンクリート電柱
昭和三年に昭和天皇ご即位の大典が京都でとり行われ、同年十一月には、両陛下が伊勢神宮にご参拝されました。
これにあわせて、皇大神宮(内宮)宇治橋付近から宇治蒲田町交差点までの間、(通称おはらい町通り)約六百mに、通信ケーブル架渉用にコンクリート電柱二十三本が建設されました。
電柱は足場組立装置により現場において施工したもので、ホーロー引の番号札が取り付けられていました。
これらの電柱も、古い歴史を持つおはらい町の再開発計画(町並保存)の一環として、電話線の地中化が行われることとなり、平成四年十月に全て取り除かれました。
この電柱はその内の一本で、昭和初期としては非常に数少ないコンクリート電柱であることから、ここに保存のこととしました。
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ちなみに日本最古のコンクリート電柱は、北海道の函館港にあり、この電柱が出来た約5年前の大正12年に造られたようです。

8月上旬予定の函館旅行の下調べで知ったものです。

幾度も火災に遭っている函館の街の知恵か、送電用に鉄筋コンクリートで造られ、未だ現役で立っているようです。

電柱の断面が四角で、上が細くなった珍しい角錐形だそうで、是非見たいと思っています。

函館の送電用の電柱と違い、伊勢の電柱は、通信ケーブル用で、もしかして日本最古の電信用コンクリート電柱かも知れませんね。
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ちょっと不思議な外宮「度会国御神社」付近の参道

2009年07月02日 | 近畿地方の旅

「俺より前に出るな!!」

まるで小さな木が、大きな杉に向って実力行使をしているようです。

伊勢神宮 外宮の境内にある摂社「度会国御神社」へ向かう参道の脇で見かけた風景です。

いったいどうしてこんな形になったのでしょうか?



外宮の最初の記事にも掲載していた「豊受大神宮(外宮)宮域図」です。

伊勢神宮 外宮の広い境内の参拝もいよいよ最後になりました。

案内図の上部にある⑦の多賀宮・風宮・土宮から北御門参道を下に向かって歩き、⑧の「御厩」[みうまや]から左折して⑨の「度会国御神社」「大津神社」へ進むコースです。



朝6時過ぎ、北御門参道口に近い参道の左手に「御厩」[みうまや]がありました。

道の向こうは、最終地点の北御門参道口で、「御厩」のすぐ先を左折して「度会国御神社」に向かいます。

この「御厩」には神馬[しんめ]が二頭飼育されているようですが、早朝6時過ぎでしたが「御厩」の中に見当たりませんでした。

運動でもしているのでしょうか?

■「御厩」に二頭の馬の案内板がありました。
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豊受大神宮御料御馬

・草音号 [くさおとごう]
 生年 平成十三年
 毛色 芦毛[あしげ]

・路新号 [みちしんごう]
 生年 昭和六十年
 毛色 鹿毛[かげ]

 種類 アングロアラブ種
 産地 宮内庁御料牧場
 牽進 平成二十年十月
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宮内庁御料牧場で育てられ、皇室から贈られたようです。



北御門参道沿いの「御厩」から左に折れ、「度会国御神社」へ向う細い参道です。

冒頭に掲載した奇妙な二本の木の写真は、この道の先にありました。

参道の両脇は、自然林のようで、参拝する人も少なく、ちょっと静か過ぎる道を進んで行きました。



参道の右手に「度会国御神社」[わたらいくにみじんじゃ]の社殿が見えて来ました。

「度会国御神社」の祭神は、「彦国見賀岐建與束命」[ひこくにみがきたけよつかのみこと]だそうで、度会氏[わたらいし]の祖霊を祀る神社のようです。

度会氏は、古代から伊勢で勢力を持ち、明治初期まで代々外宮の禰宜[ねぎ]を世襲してきた一族です。

度会氏社殿の横には、やはり式年遷宮の敷地があります。



「度会国御神社」を少し過ぎた所に、「大津神社」がありました。

「大津神社」の祭神は、五十鈴川の河口を守る神様、葦原神です。

「大津神社」は、明治6年にこの地に再興された神社だそうです。



「大津神社」を過ぎ、一本道の細い参道を進むと、道は左にカーブし、右手に大木がありました。

大木の下を見ると、左手に何やら祀られているようで、榊や、小石が置かれています。

静寂な森の大木の根の部分に小さな洞窟が見え、少し気味悪い感じです。



上段の写真の左の部分を採った写真です。

大木の根元に鳥居が立て掛けられ、その前にお供えの平らな石、陶磁器の皿、湯呑、皿がありました。

キツネの置物が、2コ見えますが、乱雑に倒れて放置されているようです。

稲荷神を祀っているものと思われますが、境内の案内にはありません。



大木を過ぎ、更に参道を進むと二本目の大木があり、ここにもお稲荷さんが祀られていました。



大木の下を拡大して撮った写真です。

自然石を並べ、小さな鳥居、白い陶器のキツネが見えますが、ここも乱雑になっているようです。

元気そうな榊の緑の葉を見るとまったく放置されている訳ではなく、この大木の根元に乱れているキツネの人形は、いったいなぜなのでしょうか。

ひっそりとした参道で、大木の根元に祀られる不思議な稲荷さんは未だに謎です。



細い参道を更に進むと有刺鉄線の柵で、行き止まりになっていました。

北御門参道まで一本道を引き返しましたが、この一帯はちょっと不思議な場所でした。



「度会国御神社」「大津神社」の参拝を終え、北御門参道口に出て来ました。

外宮の参拝は、早朝、5時過ぎから6時30分の1.5時間でした。
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