昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

江戸末期 因島の宗教家「一観」の書

2010年01月29日 | 山陽地方の旅
1月3日に因島を訪れ、歴史スポットを観光した続きです。

白滝山から「因島水軍城」のふもとにある「尾道市因島史料館」に行き、意外な展示品に遭遇しました。



江戸時代末期に白滝山で開かれた宗教「一観教」の開祖一観(柏原伝六)の肉筆と思われる書が展示されていました。

中央に豪放に書かれた文字と、江戸時代の絵とは思えない目と鼻が印象的な自画像で、鏡で見た自身の顔の特徴を意識して書いたのでしょうか。

■書の文章を転記します。間違いがあればご容赦下さい。(?-不明の文字)
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釈迦如来
一観音

我坒ヲ生ヲ受ル?四十二年
時来ル哉霜月六日夜アケノ
明星出ル時身心
ダツクウシテ法海ニ満ル

是[コノ]時
大涅槃之恐ヲ
開光明十方ニ
照ス天上天下ノ一心聖體ト成テ

亦坒示現シテ法身トナリ
右ニカキシルスガ如シ我名改テ
観音道一観トス
干時文政十丁亥初夏
四十七才書之
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◆ちょっとあやしい現代訳です。
42歳の11月6日夜明け、ついに悟りの境地に至る。
(霊的な啓示を受け、悟りを開いたと思われる場面はよく解らないため省略します)
真理(法)の身となり、「観音道一観」と名を改める。
文政10年(1827年)初夏、47歳の時、これを書きしるす。
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一観が、白滝山の観音堂に籠り、新しい宗教を開いた場面が生き生きと書かれています。

白滝山に石仏が次々と作られ、信者も広がっていた頃の自信にあふれた一観の心情が伝わってくるようです。

この書は、一観(柏原伝六)が、文政10年(1828年)3月15日広島の獄舎で病死(毒殺説あり)した前年のもので、悲しい結末を想うと、人の世のはかなさを感じてしまいます。



一観の書は、玄関側の壁に展示され、横に白滝山の写真と説明文がありましたが、残念ながら読めていません。

上記の書ではキリスト教の片鱗は感じませんが、一観教は、儒教・仏教・神道・キリスト教の四教を融合したものとされています。

十字架を手にしたマリア観音像まで作り、禁令のキリストに関わる布教活動をしていた教祖一観は、当然危険なことは知っていたはずです。

それ以前に、「なぜこの江戸末期の因島でキリスト教を知っていたのか?」も謎です。

神の啓示と言えばそれまでですが・・・。

隠れキリシタンのうわさもある一観教の謎には興味が尽きません。



正面の建物は、一観の書が展示されている「因島史料館」です。

山頂に見えるのは「因島水軍城」で、向かって右手の道から登って行きます。

「因島史料館」の展示は、瀬戸内の漁業などの民俗資料、古代遺跡の遺物、当地出身の偉人など興味深いもので、次の掲載とします。

白滝山の個性的な五百羅漢

2010年01月24日 | 山陽地方の旅
前回、白滝山の山頂にある多くの石仏群の概要を掲載しました。

今回は、個性的な石仏の姿をご紹介させて頂きます。

仏像の知識がないため、外見的な印象のみ書いています。



因島大橋が見渡せる東北側に並ぶ五百羅漢です。

様々な形の石に様々な姿の仏像が刻まれていました。



後姿が見える十大弟子の後方に五百羅漢と思われる石仏が並んでいました。

十大弟子は、前回掲載した白滝山山頂の案内図で、最前列の釈迦三尊像の脇に安置されています。



上段の石仏の後方に円形に安置された「西国三十三番札所」と案内された石仏です。

石仏は、三十三ヶ所のお寺の本尊である観音像のためか女性的な姿です。

「西国三十三番札所」は、近畿地方から岐阜県にまたがる観音霊場三十三ヶ所のことだそうです。

那智の滝で有名な和歌山県の青岸渡寺からスタートし、岐阜県の華厳寺までを巡礼する修業は、現在でも続いているようです。



頂上の鐘楼に続く参道の両側に五百羅漢が並んでいます。

眼下に広がる景色を楽しみながら、石仏をゆっくりと拝観して歩きました。



空を見上げているような羅漢さん(左)、三角形の帽子のようなものをかぶった羅漢さん (右)です。



イジケているようにも見える羅漢さんと、なぜかお腹が膨れている羅漢さんです。



中央の羅漢さんが、顔を90度近く曲げて左に向いて語りかけていますが、まったく無視されているように見えます。

右のが羅漢さんが担いでいる物はなんでしょうか?



左の羅漢さんは、身体を横から見たように刻まれて、始めて見る石仏の表現でした。

右の羅漢さんは、正面ではなく斜め前から見たように刻まれています。


服装や、頭にかぶっているものは実に多彩です。



左手に持っているのはお酒の瓶でしょうか。

こみあげる嬉しさが出ているように見えます。



右の羅漢さんが手で持ち上げているのは何でしょうか。

一つ一つの石仏が持っている物だけでも知らないことばかりです。



最後に、頂上展望台の下に並ぶ羅漢さんです。

南からの光を浴びた横顔が、ちょっと神秘的でした。

石仏は、七百体余りもあり、もっと個性的な石仏があったのかも知れませんがこの位で白滝山の紹介を終わります。

白滝山頂上の石仏群と柏原伝六

2010年01月20日 | 山陽地方の旅
前回に続き、尾道市因島重井町「白滝山」の記録です。

白滝山の頂上を散策すると、おびただしい数の石仏が並び、眼下には海と島のパノラマが展開しています。



山頂に作られた展望台から観音堂のある北北西方向を見た景色です。

山頂からなだらかに下る尾根沿いに約700体余りの石仏が並び、壮観です。

手前の二体の石像は、江戸時代末期に「一観教」を開き、石仏を造った柏原伝六と妻の像だそうです。

■持ち歩いた本、森本繁著「備後の歴史散歩」にあった白滝山の説明文です。
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・・・この白滝山を有名にしたのは山頂の尾根にずらりと並ぶ石仏である。
江戸時代の末期、文政五年(1822)に重井村の柏原伝六が四十二歳の時発心して白滝山の観音堂に籠り、儒仏神と邪蘇の四教を融合した新宗教を興し、その教祖となった。伝六は観音堂一観と号して四十六歳のときから釈迦三尊像と五百羅漢の彫造に着手し、白滝山頂に石仏の並ぶ観音浄土が出現した。
すると村人たちは競ってこの一観教に入信し、一観夫妻の石仏まで彫られたから広島藩庁は大いに驚き、これを邪教として伝六を召し捕り、伝六は文政十一年(1828)三月十五日、広島の獄舎で病死した。石仏は全部で七百余体もあり、中には十字架を手にしたマリア観音像もあるから、藩庁がこれを危険視した理由がわかる。
 現在、重井町東浜港に立つ柏原水軒翁築港碑は、安政四年(1857)に重井東港および新開を築造した柏原伝六水軒の頌徳碑だが、碑文を読むとこの水軒翁は重井村旧庄屋長右衛門家の亜流で、一観伝六の子であったことがわかる。
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白滝山山頂の案内図に施設・石像の名をアレンジして作った図です。

最初の頂上から見た全景写真と照合して見て頂くとよく分かります。



観音堂の境内から頂上に向かい石段を登った左手に「柏原林蔵像」があります。

「柏原林蔵」は、一観教の開祖「柏原伝六」の弟子となり、他の弟子を指揮して石仏を造った人のようです。

■石像の後方に案内板があり、「柏原林蔵」が石仏の台座に刻んだ碑文の説明が書かれていました。
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 碑 文      碑 文 の 意 味
吾卿居士一観   釈迦は「いつでもどこでも人の立場を
者世興以修善   考えて人のために努力することは最高
而自利自他人   の徳である」と教えられた
所知職矣又    伝六はこの教えをよく勉強し又これ
相値其勝因    を人にも伝えて世の中を平和にしようと
願而造立於二   心がけた
八尊者五百聖   善行を積み重ねている家は末代栄える
者永今人住一   多くの石仏を作っていつの時代の人にも
念不退地爾    熱心にに正しい信仰をしてもらいたい
六十一歳発願   石仏造りは六十一才に願かけし六十四才
六十四歳願成就  の時完成した
 柏原林蔵
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左右に沢山の石仏を従えた「釈迦三尊像」(普賢菩薩、釈迦如来、文殊菩薩) が一際高くそびえていました。

最初の写真にも写っていますが、一番前に並んでいる大きな石仏です。

釈迦三尊像は、中央に釈迦如来、両脇に普賢菩薩、文殊菩薩が並んでいます。

写真には右の一体しか見えませんが、両脇に「十大弟子」が並んでいました。



「釈迦三尊像」の両側にコの字型に突出して並ぶ「十六羅漢」です。

石に彫られた姿は、他の五百羅漢と比較してかなり個性的でした。

「釈迦三尊像」(上段の写真)や、「十大弟子」、「十六羅漢」を囲むように四天王(多聞天、持国天、広目天、増長天)が四方に立っていました。



向かって左が、「西国三十三番札所」と案内された石仏群で、右手が「過去七佛」だそうです。

仏教では、お釈迦様以前にも悟りを開いた仏様が六仏いたとし、お釈迦様を含めて※過去七仏[かこしちぶつ]と言うようです。

※毘婆尸佛[びばしぶつ]、尸棄佛[しきぶつ] 、毘舎浮佛[びしゃふぶつ]、拘留孫佛[くるそんぶつ] 、拘那含牟尼佛[くなごんむにぶつ]、迦葉佛[かしょうぶつ]、釈迦牟尼佛[しゃかむにぶつ]



案内図に「三大師座像、達磨大師・弘法大師・道元承陽大師」と書かれていた石仏です。

参道の両脇には五百羅漢が並んでいます。

「達磨大師」は、南インドの王子に生まれ、5世紀後半から中国で活躍した禅宗の開祖と言われる人です。

「道元承陽大師」は、禅宗の宗派の一つ「曹洞宗」の開祖「道元」です。

「弘法大師」と禅宗の二大師を組み合わせた教祖伝六の発想はよく分かりませんが、様々な宗教を統合しようとした意欲が垣間見られるようです。



展望台の前に柏原伝六夫婦像がありました。

台座には「一観像」「一観妻」と刻まれ、往時の面影がうかがえるようです。

なぜか台座は、向って右が空席のようです。

又、空席の台座の後方に後ろを向いた弘法大師立像が見えます。

他の仏像に背を向け、南に向いたこの立像の意味は謎です。

弘法大師立像の足元に「四国八十八ヶ所御本尊」の小さな石仏が並んでいました。



展望台の横に絶壁に建つ鐘楼があります。

ここから見下ろす西の景色は実に雄大です。

帰りの麓の道で、車を停めて白滝山を眺めていたら懐かしさを感じるこの鐘の音が聞こえて来ました。



頂上の展望台の横に「阿弥陀三尊像」が安置されていました。

手前に見える仏像は、勢至菩薩[せいしぼさつ]で、観音堂に置かれた案内図には「知恵の仏」と書かれています。

頂上で、最後列に仏教の「阿弥陀三尊像」があることから「一観教」の教えは仏教を主体とした教えだったと推測されます。



展望台の東側に「日本大小神祇」[にっぽんだいしょうじんぎ] と刻まれた石碑の後方に大きな岩が、並んでいます。

「大小神祇」の意味は、もろもろの神々といったところでしょうか。

高くそびえる岩は、その下にある両脇の岩に乗せられたような形跡がありました。

この巨石群は、古代祭祀の施設にも思われます。



上段の「日本大小神祇」の巨石群の裏側に廻って見ました。

巨石群と、岩の下の「御嶽神社」と刻まれたの石碑で、社殿のなかった時代の祭祀を彷彿とさせます。

向って右上の岩は、左を向いた顔にも見えます。

古代祭祀は、この方向から岩を見上げ、磐座に鎮座する神々に祈ったのでしょうか。


白滝山「観音堂」と、開山の由来

2010年01月17日 | 山陽地方の旅
前回に続いて尾道市因島の「白滝山」の紹介です。

白滝山にある「観音堂」は、戦国時代、因島村上水軍の当主吉充によって建てられたと言われています



白滝山の頂上に近い観音堂の境内です。

左手の紅白の幕が張られた石段を登り、小さな山門をくぐります。

右手奥の建物が「観音堂」で、お堂前にあった案内図によると「十一面観音」「白衣観音」が安置されているようです。



前回も掲載した境内案内図の一部です。

上段の境内の写真は、図の右側を撮ったもので、図の左側については次回の掲載とします。



境内に入り、山門の横から「多宝塔」を見た写真です。

突当りは、管理室と案内された建物で、この「多宝塔」は初めて見る風変りな石塔でした。

■山門の扉に古代の白滝山についての案内板があり、転記します。
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白滝山霊異記
 抑[そもそも]当山は古代に於ける山岳信仰の跡にして美事なる祭祀遺跡なり。
 さてこれ仏法に依りて開き給ひしは実に法道上人なり。上人は天竺の人にして霊鷲山の仏苑に住みしが、中国に渡り百済国を経て大化の頃本邦に来朝せられけり。
上人は今昔物語 宇治拾遺物語や、信貴山縁起絵巻に見るが如き千手空鉢の法を得たまいしより空鉢上人或いは満来上人とも稱せられぬ。
 木原の鉢ヶ峯、深安郡中條の円通寺、神石郡阿下の星居山にも併せて開き給いしと傳ふ。
 始め上人は鉄鉢を恣するや、鉄鉢は空をしのいで自ら飛び、山下の布刈瀬戸を往来する群船を廻りて鉢米を受けて山下に帰り来ると云ふ。或る時沖を通る大舟ありしが虚空より舞下りたる鉄鉢の中に舟入邪心を起こして鰯を入りしが、その舟大きく波にゆれて海底に沈みけるとかや。かくてこの瀬戸を山伏の瀬戸と云ふ。
 法道上人は弟子白道上人をこの地に、万慶上人を鉢ヶ峯に残して自らは播州書写山に赴き給いしと傳ふ。
 白道上人は細島にすみしよりこの島を山伏島とも云うとぞ。
 下りて永禄十一年海の驍将にして東亜の天地に其の名高き村上新蔵人吉充この地の青木に本城を構えるや当山を控えの要害とし峯に観音堂を設けて常楽院静金上人を居らしむ。
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説明文では天竺(インド)から来た「法道[ほうどう]上人」が白滝山を開山したと書かれています。

5年前、大分旅行で行った耶馬渓の「羅漢寺」を思い出しました。

「羅漢寺」も、「法道上人」が645年(大化元年)に開山した山上の寺です。

「法道上人」は、兵庫県に多くの寺を開山したことが伝えられていますが、大分から兵庫に向かう途中にこの「白滝山」に立ち寄ったのでしょうか。

「法道上人」は、「法道仙人」とも呼ばれ、超人的な伝説が多く残っているようです。



展望台側から見た観音堂で、垂れ幕に「上」を丸で囲った村上水軍の紋が見えます。

観音堂を建てた、因島村上氏第6代当主吉充[よしみつ]以来の紋が続いているものと思われます。

村上吉充は、厳島の戦い(1555年)で毛利氏を支援して陶陶晴賢軍を破り、その後に毛利水軍の一翼を担い、江戸時代初期まで生きた武将です。

観音堂が建立された1569年は、毛利氏が山陰地方の雄、尼子氏を滅ぼした3年後、毛利元就が亡くなる2年前の頃でした。

毛利水軍は、日本海へ出陣し、尼子氏方の隠岐水軍と戦い、九州へ出陣して大友氏方の豊後水軍と戦っており、傘下の因島村上水軍も相次ぐ戦いに出陣した時期だったとも思われます。



観音堂の前に置かれた境内図に「十字架観音」と案内された大石がありました。

不思議な名前の「十字架観音」は、特に説明もなく、見る者には謎の石仏です。

資料では白滝山のどこかにマリア観音像があるとのことで、この石かも知れません。

三段に刻まれた壇に石仏が置かれ、大石に直接刻まれた仏像も見えます。



最上段に安置されたとりわけ風変わりな三体の石仏です。

長い天狗のような鼻、額には山伏が着ける六角の兜巾[ときん]のようなものが見えます。

もしかして三体インドの仙人「法道」と、隣の「細島」に住んだ弟子「白道上人」、三原市の「鉢ヶ峯」に残した弟子「万慶上人」の三人の石仏かも知れませんね。



観音堂の横に回り、「十字架観音」を横から撮った写真です。

大きな石の横にも石仏が刻まれています。

■手前の右手に「白滝伝説恋し岩」の案内板があり、転記します。
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白滝伝説恋し岩(重井の民話より)
 昔々、重井の村に気立ての優しい可愛い娘と身体の大きなカの強い、立派な若者が居り、ニ人は恋に落ち、結婚を誓いました。そんな時、相撲の巡業が村を訪れ、素質を見込まれた若者は「三年間待ってくれ、立派な相撲取りになって迎えに帰る。」と言い残し、上方へと旅立ちました。娘は若者を信じて待ちましたが、約束の三年も過ぎてしまい悲嘆にくれ、海に身を投げて死んでしまいました。
 一方、若者は一所懸命に修行に励み「白滝」と名乗る一人前の力士になりました。娘を連れに村に帰った若者は、娘が身を投げて死んだことを知りました。深く嘆き悲しむ枕元に、ある夜、白滝山の観音様がお立ちになり、そのお告げにより、若者は深浦の浜で、身投げをした娘の化身の岩を見つけ、五十貫はあろうかというその岩を、一人で山の頂へ運び観音堂に奉り、その後一生をかけて供養しました。
平成二十一年三月吉日
 重井町文化財協会
 重井町区長会
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観音堂の横から裏手に曲がって撮った写真です。

通路の突当りの右に開いた扉が見えます。

左の低い塀の外には、建物に沿って裏参道があります。



細い通路の突当り、観音堂の裏手に「恋し岩」が安置されていました。

変わった形の岩です。

一途な恋と、悲しい別れの伝説を想いながら手を合わせました。

■扉にある「恋し岩」の説明文です。
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恋し岩
悲恋の愛を貫いた力士の行為により 今の世で図らずも分かれわかれになっている人々に同じ思いをさせてはならずと 出先よりの無事帰還及び元通りの平穏な倖せを与えてくれる。といわれている。
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しまなみ海道 因島「白滝山」から見た絶景

2010年01月13日 | 山陽地方の旅
1月2日、尾道市因島外浦町の「本因坊秀策記念館」の見学を終え、信仰と、絶景の山「白滝山」に行きました。



「白滝山」から北東方向に見えた「因島大橋」です。

少し寒いよく晴れた日で、白滝山頂上に近い観音堂の横から見えた絶景です。

「因島」は、尾道から「しまなみ海道」を南下、「向島」の次にある二番目の島です。



因島の北部の地図で、「白滝山」は、因島北インターの北に位置します。

車では、「白滝山」西の麓にある「因島フラワーセンター」(花のマーク)付近から登る道があります。

因島の北西には「細島」「小細島」が見えます。

地図で見ると細くないこの「細島」の名は、なぜ付いているのでしょうか?



標高227mの「白滝山」の南西方向からの景色です。

「白滝山」の頂上付近は、巨岩がむき出しになっているようです。

因島北インターから西方向に走った「有浜」付近から撮りました。



駐車場にあった案内板です。

今回は、駐車場から観音堂前の展望台までの風景を紹介します。

■案内図の向かって右下にある説明文です。
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白滝山頂案内図
標高227mの白滝山は、1569年に村上吉充(因島村上氏第6代当主)が観音堂を建立したと伝えられ、その後、柏原伝六とその弟子たちによって、五百羅漢の石仏が作られました。
羅漢像や釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、伝六夫婦像などさまざまな姿態や表情の大小約700石仏が自然に溶け込んで、独特の雰囲気を醸し出しています。
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山頂に近い「白滝山」の駐車場です。

向って右の奥に「因島大橋」の見える展望所があります。

左奥に「平山郁夫画伯」「しまなみ海道五十三次スケッチポイント」と書かれ、北西方向に見える「細島」「小細島」辺りのスケッチ画のある案内板がありました。



駐車場から急な坂道を登って行くと、なだらかな尾根の道になります。

向こうの山の上に観音堂の建物が見えてきました。

このすぐ先で観音堂への道が二手に分かれ、直進すると表参道で、山門を通る道です。

参道を左折すると裏参道で、巨岩の上に置かれた石仏を見ながら観音堂の裏を通り、境内に至る道です。



巨岩に彫られた「慈母観音像」の文字と、その上に観音像が彫られています。

周囲には巨岩が続き、信仰の山の雰囲気が漂ってきます。



「慈母観音像」を過ぎて少し歩き、上を仰ぐと絶壁に建てられた観音堂前の展望台がありました。

展望台の右手は、山門です。



観音堂の山門に近づいた最後の急な石段の道です。

私たちは、車で山頂近くまで登って来ましたが、麓のフラワーパークから長い坂道を登って来た人もいました。



小さな山門をくぐると左手に観音堂前の展望台があります。

風が少し強く、肌寒かったものの、雄大な景色に満足でした。



展望台から西方向の景色です。

眼下の正面に見えるのは重井東港で、海に突き出た山は「馬神山」のようです。

右手に浮ぶ島は最初の地図にある「小細島」です。



展望台から北西方向の景色で、「細島」「小細島」が見えます。

最初、地図で見た「細島」の形から想像出来ませんでしたが、ここから見るとずいぶん細長く見え、「細島」の名が納得です。

眼下に因島鉄工団地見え、沖に見える高い山は三原市の「鉢ヶ峰」のようです。

観音堂や、山頂に並ぶ五百羅漢は、次回とします。

尾道市因島の「本因坊秀策記念館」

2010年01月07日 | 山陽地方の旅
1月2日、尾道市因島外浦町の「本因坊秀策記念館」を訪れました。

本因坊秀策<1829(文政12年)~1861(文久元年)>は、江戸時代末期に当地で生れ、幼い頃に母に教えられた囲碁で、歴史に残る最強の棋士となった人です。



2008年9月に開館した「本因坊秀策記念館」です。

向って右隣が、石切神社、左奥の山に小さな神社が見えます。

館内に入ると受付の男性に勧められ、本因坊秀策の生涯をまとめたDVDを見せて頂きました。

展示品を見る前にDVDで概要を知り、とてもよく理解出来ました。



「秀策母子愛用の碁盤と碁石」です。

長年使い込まれたためか、碁盤の線はだいぶ消えかかっていました。

秀策の幼名は虎次郎で、商家だった桑原家の次男として生まれ、5歳頃に母から碁を教えられたようです。

碁盤の裏には「慎始 克終 視明 無惑」、「安政四丁巳[ひのとみ]初秋 十四世本因坊跡目 秀策」(1857年-安政4年)と書かれていました。(丁巳は60年周期の干支の一つです)

秀策29歳の年、第4回目最後の帰郷の時に書いたものとされています。



頂いたパンフレットにあった本因坊秀策の絵です。

亡くなった後に描かれたようですが、本因坊門下に入った子供時代の顔にも見えます。

6歳の頃、父に連れられ尾道の祭りに行った秀策は、尾道の豪商橋本吉兵衛に碁の才能を認められ、生涯後ろ盾を得ることになったようです。

7歳になり神童のうわさが広がり、碁好きの三原城主浅野忠敬に望まれて対局を行い、碁の相手として召し抱えられました。

秀策は、登城に先立ち、桑原虎次郎から安田栄斎に改名しています。(安田:養子に来た父の実家の姓で、城主に会える格式だったそうです)

浅野忠敬は、碁では芸州随一の竹原宝泉寺葆真和尚に秀策の育成をたのみ、しばらくすると葆真和尚をしのぐ実力になったようです。

9歳になると、浅野忠敬の計らいで本因坊家に弟子入りし、着実に実力を伸ばして行きました。



パンフレットにあった「秀策自筆の扇」です。

二十歳になった秀策は、本因坊家から後継者の要請を受け、十四世本因坊跡目 秀策と名乗り師の娘と結婚することになります。

江戸時代、碁の晴れ舞台は、将軍が開催するお城碁で、本因坊家、井上家、林家、安井家と家元四家がしのぎを削っていたようです。

秀策は、21歳時、初のお城碁から亡くなる33歳まで12年間負けなしの19連勝という素晴らしい戦歴を残しました。

碁の研鑽の他、体調や、精神状態を12年間最高の状態で対局することは天才の言葉では語れない努力と、人格を感じます。

■受付のカウンターに「秀策自筆の扇」の説明文が展示されていました。
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本文
戦罷 両 奩収 黒 白一 坪 何處 有 虧成

読み下し文
戦い止みて両奩[りょうれん]に黒白を収む
一枰[いちへい]いずれの處[ところ]にか虧成[きせい]あらん

戦いが終わり、互いに碁石を片づけた後の何もない碁盤を見渡せば、そこには戦った跡などひとかけらも残っていない。

 NHK「その時歴史は動いた」訳
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「本因坊秀策記念館」で開催中の特別展「よみがえる本因坊秀策」のパンフレットです。

何気なく訪れましたが、幸いにもこの特別展が開催されていました。

各地から本因坊秀策の資料や、遺品が集められ、本因坊秀策をよく知るにはとても良い展示だったと思います。

この秀策の像は、記憶している説明文では生前に描かれたとしており、顔が長く、上の丸い顔と明らかに違います。



「本因坊秀策記念館」の建物の裏に再現された秀策の生家です。

当時、藁葺きだった屋根は、さすがに再現出来なかったようです。

■家の中にあった案内板を転記します。
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本因坊秀策生家(再現)
本因坊秀策は、文政十二年(1829)五月五日備後国御調郡外之浦(現広島県尾道市因島外之浦町に桑原輪三の次男(幼名虎次郎)として誕生しました。
秀策の生家は、万延元年(1860年)に建て替えられましたが、この時秀策は、両親のために六十両という大金を送ったと伝えています。
この家もまた、老朽化のため昭和四十七年(1972年)に取り壊されましたが、記念館の建設に併せて、現存する生家(桑原)家相図をもとに、秀策の子ども時代を偲べるよう、できる限り当時の姿を再現したものです。
   尾道市教育委員会
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生家の案内板にあった昔の家の平面図です。

①玄関口、②土間、③土間台所、④6畳間(板張りの上り口)、⑤お茶の間4.5畳、⑥6畳間、⑦6畳間、⑧便所



「本因坊秀策記念館」で頂いた付近の地図で、本因坊秀策の墓への道も案内されています。(少し修正しています)

因島北インターから「本因坊秀策記念館」までは、分かりやすい案内標識があり、迷わずにたどり着きました。



「本因坊秀策記念館」の裏山に小さな神社がありました。

記念館の係の方に訪ねると、秀策の生家、桑原家の一族が祀る「桑原神社」だそうです。

一族の方々が、板張りの拝殿に集まり、お祭りをされるそうです。



「桑原神社」から見下ろした秀策の生家で、向って右隣が、「本因坊秀策記念館」です。

建物の手前に細長く突き出ているのは便所でした。



「本因坊秀策記念館」の手前にある「石切神社」で、生家の屋敷内に建てられたそうです。

鳥居を入り、右手奥に神社建物、左手奥に「本因坊秀策記念碑」があります。

「本因坊秀策記念館」の係の方に聞いた話では「石切神社」は、秀策の兄が実家を継ぎ、その子孫が他の地から神社を勧請し、宮司をされているそうです。

上の地図には「石切神社」、拝殿前の石柱には「因島石切神社」、両脇の提灯には「石切風切宮」と書かれ、神社名が特定できません。



碁盤の形をした台座に「本因坊秀策記念碑」が建てられています。

石碑には「本因坊秀策碑 本因坊秀哉書」と刻まれています。

本因坊秀哉は、世襲的に引き継がれた最後の本因坊(21世)で、本因坊の名跡を日本棋院へ譲ったそうです。

1939年から本因坊戦が始まり、タイトルを5回連続で保持した棋士が本因坊を名乗ることになっています。

今回の見学で、記念館の係の方に丁寧な説明を頂き、本因坊秀策の素晴らしさを教えて頂きました。 感謝

油絵「獅子柚子と、洋酒の小瓶」

2010年01月01日 | 妻の油絵
新年 あけましておめでとうございます。

年賀状にも載せた妻の油絵「獅子柚子と、洋酒の小瓶」です。

獅子柚子は、シワが多いほど福を呼ぶと言われ、1Kgほどもあるこの巨大な果物を年賀の絵の画材に選んだようです。

この獅子柚子の絵をご覧頂き、今年こそ明るい年になればと念願しています。

 2010年元旦