昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北の地で見た「弁慶」

2008年05月24日 | 東北地方の旅
岩手県奥州市「えさし藤原の郷」のつづきです。



「えさし藤原の郷」へ入場するとまもなく「義経館」があり、続いて「弁慶館」があります。
「弁慶」は、「武蔵坊弁慶」といい、最期まで「源義経」に仕えた僧兵です。



ナギナタをかまえた弁慶の人形がありました。
この人形の構えは、なんとなくぎこちない感じです。

後ろに擬宝珠(ぎぼし)のついた高欄があり、おとぎ話にある牛若丸と闘った五条の橋の場面でしょうか。



「弁慶の薙刀と鉄下駄」という体験コーナーがありました。
さっそく薙刀(なぎなた)を手に取り、鉄下駄を履いてずっしりした重さを体験しました。



安宅の関のセットがありました。
こちらは出口です。

安宅の関は、石川県小松市の海岸近くにあったとされていますが、実在を否定する説もあるようです。



有名な勧進帳の安宅関の場面です。
京都から平泉への逃避行を続ける義経一行が、安宅の関で関守の富樫左衛門に正体を見破られそうになった時の場面です。
弁慶は、山伏のリーダーとして新米の山伏「義経」を金剛杖で叩き、疑いを晴らした話は有名です。



「伽羅御所」のセットの建物の中に「笈(おい)」、と弁慶の下駄が置かれていました。
案内には「弁慶の小道具、記念撮影にお使い下さい」と書かれていました。



翌日、「中尊寺」を拝観しました。

月見坂を進んでいくと「弁慶堂」に上る石段がありました。


「弁慶堂」は、神社のような建物でした。

「弁慶堂」の正面左におみぐじの自動販売機が置かれていたのでこちらから撮りました。
消火栓の赤いボックスなら法律もあり、仕方ないのでしょうが、おみぐじの自動販売機の設置場所は、雰囲気を考慮して欲しいものです。



弁慶堂の中をのぞいてみました。
義経、弁慶、二体の木像が安置されていました。

義経はともかく、僧兵姿を見慣れている弁慶の鎧姿は、異様にも見えます。
二人は、ややうつむき、死を覚悟した場面にも見えてきます。

■入口にあった案内板を転記します。
この堂は通称辨慶(べんけい)堂という
文政九年の再建である。
藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀愛宕宮と称したそばに、義経と辨慶の木像を安置す
辨慶像は文治五年四月高舘落城とともに主君のため最後まで奮戦し衣川中の瀬に立ち往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の馨及安宅の関の勧進帳に義経主従が背負った笈(おい)がある代表的鎌倉彫である



写真に向って右側に北上川が流れ、左側には新幹線の高架が続き、その先は衣川を渡る橋になっています。

義経や、弁慶が最期を迎えた場所はこの場所から見えているものと思われます。

平泉町「無量光院」、北の地にあった極楽浄土の世界

2008年05月21日 | 東北地方の旅
昨年10月8日の旅行で行った岩手県奥州市「えさし藤原の郷」のつづきです。



「えさし藤原の郷」の「伽羅御所」の前に庭園と、池があり、その向こうに「無量光院」を再現したセットが見えています。

「無量光院」は、奥州藤原氏三代秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂をまねて造った寺院だそうで、平泉にあった秀衡の屋敷「伽羅御所」に隣接して造られた寺院だったようです。



正面から撮った「無量光院」の景色です。
建物の前の木は、小さなものを選んで植えてあるようですが、後ろの山の木が大きく見えます。
よく見ると実際の建物より小さく造られているようです。
テレビや映画の制作では、建物の背景となるこの山は、画像処理技術でカットするのでしょうか。



「えさし藤原の郷」の後、平泉町の「無量光院跡」へ行ってみました。
この写真は、「無量光院跡」の案内板にあった建物の再現図です。

下の説明文にもあるように寺院の背後に富士山の形に似た金鶏山(高さ98.6m)があり、秀衡が造らせた山とも言われているようです。(上の絵にはありません)

■現地の説明書きを転記します。
特別史跡無量光院跡
無量光院は三代秀衡が建立しました。モデルは宇治の平等院鳳凰堂。鳳凰堂は、「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供まで唄われました。無量光院もまた仮想の極楽浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像。西方に極楽あり、その主は阿弥陀如来なのです。春秋彼岸の頃、無量光院の正面に立つと、西方にある金鶏山の真上に日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったのです。



無量光院跡にある「中島の跡」とされる場所です。
上の絵にあるように池に浮かぶ島だったようです。

現在、平泉の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)を中心とした地域が世界遺産登録に申請されているようです。
この平泉が、浄土思想を基調とし、浄土の世界を具現化した史跡であることが、ユネスコ世界遺産登録を申請した趣旨だそうです。



発掘ではこの辺りに建物の礎石や、池の跡などが確認され、極楽浄土を感じさせる美しい建物があったようです。

「無量光院」の「無量」は、各地にある「無量寺」でなじみがあります。
「阿弥陀如来」の光が無限に十方世界を照らすということから「無量光如来」とも言われることに由来しているようです。

「阿弥陀如来」にちなむ「無量」と言う言葉が、日本の数字の桁の名で最も大きいのが10の68乗「無量大数(むりょうたいすう)」にも使われています。
インドから中国を経て伝わった仏教ですが、「阿弥陀如来」にちなむ名称が科学で使う最高の数字の桁名に使われることはいかにも東洋的だと感じます。



この辺りは発掘中と思われる場所です。
これまでの発掘調査では、東西約240m、南北約270mの規模で、京都の平等院を凌ぐ大きな寺院だったようです。



平泉町「中尊寺」のかっての覆堂が別の場所に移設され、その中に「無量光院」の絵が展示されていました。
背後に富士山に似た「金鶏山」が描かれていました。

「金鶏山」の麓には高館で亡くなった源義経の妻子の墓があるそうです。
最期まで義経に連れ添った妻は武蔵の国の武士の娘だったそうです。
生まれ故郷の武蔵の国から見た富士山の話を義経の妻から聞いていた人が、死を憐れみ、富士山に似た「金鶏山」の麓に葬ったのかも知れません。

■説明書きを転記します。
無量光院 及川文吾作
新御堂とも云い、藤原秀衡将軍の建立で、金容丈六阿弥陀如来が安置されました。院の結構地形に至るまで宇治の平等院をかたどったみのでしたが、天正年間に焼亡し、今は田圃に変り、残礎断石離々として其のいにしえを語るのみであります。
又、遥かに見える金鶏山の社は平泉の鎮守総社で熊野権現の遠景です。

「えさし藤原の郷」の「義経持仏堂」と、平泉町「高館」

2008年05月18日 | 東北地方の旅
岩手県奥州市「えさし藤原の郷」のつづきです。


平泉町の高館にあるお堂を模した「義経持仏堂」のセットがありました。
高欄の付いた廻り縁にナギナタをもった弁慶像が立ち、中に義経の座像があります。

源義経は、「持仏堂」で、最期を迎えたそうです。
たくさんの弓矢を撃たれた弁慶が仁王立ちを続けていた「弁慶の立ち往生」と言われる場面もこの「持仏堂」を守るとしたらすぐ近くだったと思われます。



翌日、平泉町「高館(たかだち)義経堂」へ行ってみました。
最後の石段から「高館義経堂」を見上げたところです。



「高館義経堂」は、1683年(天和3年)、仙台藩主伊達綱村(第4代)が義経を偲んで建立したものだそうです。
伊達綱村は、正宗の曾孫に当ります。
父の3代藩主綱宗が、遊興放蕩三昧で強制的に隠居させられ、綱村が2歳で藩主となった事件は「伊達騒動」として知られています。



お堂は、想像以上に小さなものでした。

■案内板にあった説明文を転記します。
「高館 義経堂」
ここ高館(たかだち)は、義経最後の地として伝えられてきた。
藤原秀衡は、兄頼朝に追われて逃れてきた義経を平泉にかくまう。
しかし、秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺言に背いて義経を襲った。
文治五年(1189年)閏四月三十日、壱台の英雄義経はここに妻子を道連れに自害した。
時に義経31歳。
吾妻鏡によると、義経は「衣河館(ころもかわのたち)」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばれるこの地は、「衣河館」だったのだろうか。
ここには、天和三年(1683年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られている。
頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてた東に束稲の山なみが眺められる。
束稲山は往時、桜山と呼ばれ、西行が山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠じた。
また、元禄二年、俳聖松尾芭蕉が、「おくのほそ道」で詠んだ「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、この場所といわれている。
平成六年四月 平泉観光協会



すぐ下の道のそばから北上川が見下ろせ、「高館展望説明図」という案内板がありました。

江戸時代、伊達綱村が義経終焉の地としたこの山は、標高66mで、平泉では風光明媚な場所のようです。


「高館」から北上川をみた景色です。
川の向こうの正面に「駒形峯」右手に「観音山」などが見えます。



北上川の上流方向(北)を見た景色です。
少し上流には、衣川の支流があります。



北上川を見下ろす平泉町の小高い丘に「高館義経堂」があります。
奥州藤原氏三代秀衡・四代泰衡が本拠としていた「柳之御所遺跡」もその南にあります。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると義経が、奥州藤原氏四代泰衡(やすひら)に攻められ、最期を迎えた場所が「衣河舘」とあります。

現在、地図の上部分に衣川の北岸に衣川遺跡群があります。
義経最期の場所「衣河舘」は、衣川遺跡群の発掘調査により、衣川の北岸と考える説が有力となりつつあるようです。

衣川の北岸は、かっての奥六郡の覇者、安倍氏、清原氏の拠点であり、奥州藤原氏の政治顧問的な藤原基成の拠点でもあったようです。
義経が身を寄せていた「衣河舘」は、その藤原基成の館だったと思われます。

義経が奥州藤原氏を頼った経緯や、再び落ち延びてかくまったことも朝廷に政治的つながりを持つ元中央貴族の藤原基成の画策であった可能性もあるようです。
「朝廷」対「鎌倉幕府」の対立する政治情勢の中で、藤原基成は、奥州藤原氏、義経の政治的価値を最大限利用しようとしていたものと思われます。

「えさし藤原の郷」で見た「江刺鹿踊」

2008年05月12日 | 東北地方の旅
「えさし郷土文化館」の見学を終え、隣の「歴史公園 えさし藤原の郷」へ行きました。
「えさし藤原の郷」にはテレビドラマで使われた奥州藤原氏や、源義経にまつわる建物や、多くの歴史的建物を模したオープンセットが作られ、残されています。



「えさし藤原の郷」の中央にある政庁のステージで「江刺鹿踊(えさししかおどり)定期公演」があり、見物しました。

これは、「第5回江刺りんご皮むき大会」「加藤茶 爆笑トークLIVE」のイベントの合間に行われていました。



「江刺鹿踊」は、地元の高校、岩谷堂農林高校の鹿踊同好会によるものでした。
手前の女子高校生は、長い鹿の角が、からんだものを直しているようです。



太鼓は、単純なリズムを繰り返してたたかれ、時折体を左右に回したり、お辞儀をして角を地面にたたきつけるように踊っていました。

旅行前の下調べで「鹿踊り」を知り、出来れば見たいと思っていました。
このブログで2008-02-08に掲載した「遠野市立博物館」玄関前の「獅子踊り」の銅像 で鹿の面をした「獅子踊り」を紹介しました。
まさか、ここで見ることができるとは思ってもいませんでした。

広い会場に太鼓の音が響き、伝統的な踊りに大勢の人が見入っていました。



伝統的なお面と、衣装の様子です。
高校の同好会では、このようなすばらしい衣装や、お面、太鼓を揃える費用は大変だと思います。

「えさし郷土文化館」でみた東北地方の蓑・ケラ

2008年05月06日 | 東北地方の旅
「えさし郷土文化館」の見学の続きです。



様々な展示品の中に、蓑(みの)が展示されていました。
なぜか、とても印象に残っていたので掲載しました。

秋田のナマハゲなど東北地方の蓑はもっと粗いイメージがありましたが、かなり繊細な作りです。
縄文時代には既に天然繊維で作られた衣服が作られていたそうですが、このケラも相当に古い時代からの伝統を続けているものと思われます。

■説明文を転記します。
ケラ(蓑)
稲藁(いなわら)や菅(すげ)などの茎や葉、藤(とう)や棕櫚(しゅろ)などの樹皮を編んだ雨具で、古事記や日本書紀の中にもでてくるほど古くから用いられています。
形式には様々なものがあり、背蓑・肩蓑・胴蓑・腰蓑・藁帽子などに分類されていますが江差地方で作られ使用されてきたものは主に肩蓑形式で「ケラ」と呼ばれました。
野外で仕事する場合には雨降りや雪降りにかかわらず着用し、現場で動き回る時は脱ぎ、昼食の際には敷物としても利用しました。ケラ作りは主に「まやけた」(馬屋の二階)などを作業場にして仕掛けておき、雨降り休みや節句休みに編み足して仕上げました。完成までおよそ2日前後かかりました。



上の写真のミノに並んでこんなものが展示されていました。
ちょっとカラフルで、民族衣装とでも呼べるような衣装です。

寒さを防ぎ、荷物を背負ったり、野外で座る時の敷物にしたりと、たいへん便利なものだったのではないかと推察しています。


「えさし郷土文化館」でレプリカ仏像の拝観

2008年05月03日 | 東北地方の旅
岩手県奥州市江刺区岩谷堂にある「奥州市 えさし郷土文化館」に行きました。
「成島毘沙門堂」と「兜跋毘沙門天立像」に続いて仏像の拝観です。



「えさし郷土文化館」で頂いたパンフレットの表紙です。
この仏像は、江刺市藤里にある「藤里毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」です。

以前、掲載した「成島毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」と同様に地天女(地母神)の手のひらに載っている毘沙門天立像です。

トチの木の一木造で、「ナタ彫り」と言われる丸ノミで粗く彫られた横縞に特色があるそうです。

この「えさし郷土文化館」には「藤里毘沙門堂」の他、この地域の「黒石寺」「極楽寺」「正法寺」等の仏像のレプリカが多く展示されています。

こちらでのレプリカ拝観で、スケジュールの時間節約になりました。
しかし、「黒石寺」の「四天王像」、本堂正面の鉄製の狛犬などは現地で見たかったのですが、平泉までの予定のため、時間がなく次の機会としました。



2006年10月、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事「東北新幹線・岩手古寺巡礼」にあったページです。

この仏像は、事前のイメージと比較して、意外に小さく見えました。
やはり成島の巨大な「兜跋毘沙門天立像」を見た後だったのかも知れません。
毘沙門天は、さすが「戦いの神」で、とても厳しい目をしています。

右上に見える金色の仏像の写真は、岩手県奥州市水沢区にある「黒石寺」の本尊「薬師如来坐像」(国指定重要文化財)です。

その下には、奥州市「黒石寺」のご住職(女性)や、四天王像の写真が見えます。


この写真も2006年10月、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事「東北新幹線・岩手古寺巡礼」に掲載されていたページです。
「黒石寺」の本尊「薬師如来坐像」が1ページ全体にアップで描かれ、当時の黄金文化と、長い歴史の隔たりを感じます。

「黒石寺」をご存じない方でも東北地方で、今年の初めにJR東日本に駅での掲示を拒否された祭りのポスターで、ヒゲのある全裸の男性が「わいせつ」かどうかでニュース報道されたことには記憶があると思います。

その祭りが黒石寺の「蘇民祭」で、日本三大奇祭のひとつと言われいるようです。
今年の祭りは、ポスターのニュースのおかげで参拝者が殺到すると予想したマスコミ関係者だけが賑わっていたそうです。



「えさし郷土文化館」で頂いたパンフレットにあった「薬師如来坐像」の全体像です。
館内では、台座の上に安置され、ガラスケース越に見ました。
この仏像は、桂の木の一木造りだそうです。
桂の木は古代から神聖な木とされ、たしか製鉄の神様が降臨する木としても知られているようです。
雑誌の写真と、記事で少し期待を膨らませていたせいか、あまり感動がなかったのが残念です。
レブレカの仏像で、ガラス越に見たせいでしょうか。



これもJR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事のページです。
中央の「銅龍頭」は、「金銅製で、北上市の「極楽寺」に残されているそうです。

「極楽寺」は、今から約1,200年前頃に造られたようです。
朝廷軍を率いる坂上田村麻呂は、蝦夷の首領アテルイを破り、アテルイの拠点だった北上川東岸に大伽藍を建てたそうです。
「極楽寺」「は、大伽藍だった「国見山廃寺」と強い係わりがあったものと思われます。


「えさし郷土文化館」の「銅龍頭」は予想と違い、ずいぶんちいさなものでした。

龍頭(りゅうとう)は、仏教の儀式の「幡(ばん)」という飾りものを吊るすために使われたそうです。

「極楽寺」は、国見山の近くで、北上川に近い場所にあります。

この地方の蝦夷を制圧した朝廷が、蝦夷の拠点であった土地に逆襲に備え、「柵」を作り厳重に防衛していたようすが伺えます。
自分たちを守ってくれる多くの仏閣を造り、「兜跋毘沙門天」の像を造り、平安を祈ったのでしょうか。
「兜跋毘沙門天」は、唐の時代に西域の町が外敵に襲われた時、「値母神=地天女」が土の中から「兜跋毘沙門天」を掌にのせて現れ、外敵を追い散らした伝説があるようです。

「樺山遺跡」の「配石遺構」(ストーンサークル)を見学

2008年04月27日 | 東北地方の旅

岩手県北上市稲瀬町の「樺山遺跡」の配石遺構を見学に行きました。
北上川を見下ろす台地に遺跡は広がっていました。

樺山遺跡は、4000年から5000年前の縄文時代の竪穴住居跡群のすぐそばで、配石遺構群が発掘され、復元されています。



頂いたパンフレットに樺山遺跡の案内図がありました。

■遺跡の端に樺山遺跡の案内板の説明文があり、転記します。
「国指定史跡 樺山遺跡」
  指定 昭和52年7月14日
  管理者 北上市
この遺跡は、縄文時代中期の配石遺構群を伴う、縄文時代末から後期にかけて(約四、五千年前)の集落跡である。
特に、配石遺構とよばれる石組み群が、兵陵西側の緩い斜面部から平坦部にかけての一帯に不規則に分布し、発掘調査によって二十数箇所が確認されている。
個々の石組みの石の並べ方にいくつかの型が認められるが、花崗岩の細長い川原石一個を立てた周りに、数個の山石を放射線状に並べたものを典型とする。
石組みの下は少しくぼんではいるが、土こう(あな)といえるものではない。
石組みに伴って出土した土器や石器から縄文時代中期のものと考えられる。
配石遺跡は、縄文時代前期から知られているが、樺山遺跡の時期以降の代表的なものとして、秋田県鹿角市の大湯環状列石がある。
これは縄文時代後期のもので、石組み群の中の日時計とよばれているものが、樺山遺跡の石組みに似ており、樺山遺跡のものをその祖源とみることができる。
このような配石遺跡は何のために造られたかについては以前から墓地とみる説と、祭り場とみる説とがあるが、北海道地方では墓地がほとんどであり、そのほかの地方では両者があって一様ではない。
樺山遺跡では、墓であるかをみるため、石組みの下の土の分析をしたが、墓としての確かな証拠が得られなかったとされている。
しかし、他の遺跡例と比較しながら、今後なお検討する必要があろう。
なお、この旧両上は、配石遺構を造った人々が生活した場所と考えられ、縄文時代中期の竪穴住居跡群がある。
  昭和62年3月
  北上市教育委員会



向こうに見える少し高い場所に縄文時代の住居跡が発掘され、住居が復元されていました。
写真の向って左側が車道で、向こうが東南東方向です。
初めて見る配石遺構です。


上の写真の逆方向の景色です。
向こうに駐車場や、遺跡の説明展示のある「縄文館」などがあり、緩やかに下っています。



丸っこい石が中央に立ち、ごつごつした石が不規則に円く並べられています。
スタンダードな形の他、色々な形の配石遺構がありましたので以下に紹介します。



立っている石がずんぐりとして、置かれている位置も、中央から外れています。



二つの丸い配石遺構がくっついています。



大きめの配石遺構のずいぶん端に石が立っています。



中央に立つ石が三角錐の形です。
この形の石は、「依り石」として祭祀場所などで見かけたことがあります。



立っている石に白い部分があります。
顔に見立てているのでしょうか。



12号配石遺構と紹介されているもので、とにかく変わっています。
立っている石が、自然石と違い、かなり手の込んだ石器のようです。
石は、平たく加工され、縄文館にも模型を再現されていました。


12号配石の位置が紹介されている地図が展示されていました。
約30の配石遺構の配置が描かれています。

この遺跡では約1000年間、人々が生活したおり、この配石遺構は、代々の祖霊を祀ったものではないかと推察しています。
色々な形の配石遺構も代々の祖先の個性に合わせた石を選んだのかも知れません。

「成島毘沙門堂」と「上代水道遺跡」

2008年04月20日 | 東北地方の旅
収蔵庫で拝観した後、坂道を下った「毘沙門堂」へ行きました。
「毘沙門堂」は、以前に「兜跋毘沙門天立像」が安置されていた建物です。



写真は、「毘沙門堂」の建物で、室町時代後期のものと考えられているようです。

■「毘沙門堂」の説明板を転記します。
国指定重要文化財「毘沙門堂」
建物は寄棟造り、鉄板葺のやや大型の三間堂で廻り縁と向拝がついています。
堂内にあった毘沙門天は保護のため現在は上の収蔵庫に安置され、建物だけが存在しています。
毘沙門堂は中世以降真言宗の成嶋寺が管理していて、この建物は延宝元年(1673)に修理をしていますが、各部の仕上げや建築手法などが室町時代後期に建立されたものと言われています。
言い伝えによると、毘沙門天は坂上田村麻呂の建立あるいは慈覚大師草創と伝えられています。
近年まで堂内には、平安時代に造られた兜跋(とばつ)毘沙門天立像(国指定重要文化財)が祀られていたことから、古くからこの地域が重要な信仰の場所であったことがうかがわれます。
県内に残る数少ない中世建造物であることから平成二年に国の重要文化財に指定されています。



「毘沙門堂」の入口から参道を振り返った景色です。
両脇に石の狛犬が見え、休憩所の建物を過ぎたところに杉の御神木が見えます。



「毘沙門堂」前の左右の狛犬です。
お賽銭を入れるためでしょうか、首に箱が結び付けられていました。
首に「しめ縄」は理解出来ますが、「箱」が結び付けられた狛犬の姿には少しみじめさが感じられます。



「毘沙門堂」に入った正面奥の様子です。
「兜跋毘沙門天立像」が安置されていた場所に鏡が置かれています。
やはり長い歴史を感じるこの建物に「兜跋毘沙門天立像」があったとしたらもっとすごい感動があったのかも知れません。

両脇にはとても大きなワラジが奉納されていました。
このワラジは、本当に兜跋毘沙門天様の足のサイズになっているのでしょうか?



「毘沙門堂」の壁の内側には多くの奉納品が飾ってあります。
「額」「剣」「ワラジ」など様々なものがあります。


「毘沙門天」の像を描いて奉納された方も見られます。
多くの奉納品に人々の様々な願いが込められていることが感じられます。



「上代水道遺跡」の案内板がありました。

拝観の受付で頂いた説明文によると、昭和42年参道工事で土管が出土し、国内最古の水道管の一つと考えられているようです。
水源から境内までの約250m全てを水道管でつないでいる例は過去なかったようです。

いよいよ「兜跋毘沙門天立像」「成島毘沙門堂」を拝観

2008年04月16日 | 東北地方の旅
小雨の中、岩手県花巻市東和町北成島の「兜跋毘沙門天立像」を拝観に、安置されている収蔵庫へ行きました。



写真は、JR東日本の雑誌「トランヴェール」に掲載されていた「兜跋毘沙門天立像」です。
この旅行で、最も見たかった仏像です。
平安時代の仏像とは思えない古さを感じない木の色でした。
激しい形相の毘沙門天が静かな顔立ちの地天女の肩に立ち手のひらで支えられていました。

■拝観の受付で頂いた「木造日本一 毘沙門堂 参拝のしおり」に説明文があり、転記します。
「兜跋毘沙門天」(重要文化財)
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、桓武天皇の命令により、東北の蝦夷を鎮撫平定し、日本国北方鎮護の守護神として、この地(成島)に毘沙門天を祀ったと伝えられ、無量の神徳が授かると信奉されている。
御丈4.73m(約1丈六尺)欅(けやき)の一木調成仏としては、国内唯一と称され、活気あふれる名大作で、平安朝中期の作品とみられ、大正九年には国宝に指定。昭和二十五年国の重要文化財に指定され、文化庁の文化財保護の方針により収蔵庫が造営され収納されている。



「兜跋毘沙門天立像」が安置されている収蔵庫に上る坂道の脇に「毘沙門天と味噌のかかわり」と、「宮沢賢治の詩碑」書かれた案内板がありました。

■案内板を転記します。
「毘沙門天と味噌のかかわり」
◎曽(か)ってひそかな民衆信仰として毘沙門天立像の脛(すね)に味噌を塗り思い思いの祈願をしたという。
この情景を見た宮沢賢治は詩碑に刻まれてある詩にあるように「・・・・毘沙門天に味噌たてまつる・・・・」とよんだ。
◎この祠に(ほこら)に納めてある脛は実物と同型で言わば分身です。
あなたも毘沙門天の脛に味噌を塗って家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全を祈願しましょう。



坂道の途中に「兜跋毘沙門天立像」の脛(すね)と同型のものが祀られている祠と、宮沢賢治の詩碑がありました。
「兜跋毘沙門天立像」の脛(すね)と同型のものが祀られている祠と、宮沢賢治の詩碑がありました。
参拝者は、「兜跋毘沙門天立像」の脛に味噌を塗りつけてお祈りをするそうです。

■宮沢賢治の詩碑を転記します。
「毘沙門像に味噌たてまつる」
アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
峡に瘧の やまひつたはる
ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて
草の峠を 越ゆる母たち
ナリトナナリアナロ 御堂のうすあかり
毘沙門像に 味噌たてまつる
アナロナビクナビ 踏まるる天の邪鬼
四方につつどり 鳴きどよむなり



坂を登りきった場所に「兜跋毘沙門天立像」の安置されている収納庫の近くに拝観受付の案内板があります。



参道に立つ「兜跋毘沙門天立像」の絵が染められている幟です。
「兜跋毘沙門天立像」がうまく描かれていますが、悪役が付けているようなヒゲが気になります。



「兜跋毘沙門天立像」の安置されている収蔵庫の中の様子を撮った写真です。
「兜跋毘沙門天立像」の足もとの両側に「二鬼坐像」があり、その両脇にも仏像が安置されています。


JR東日本の雑誌「トランヴェール」に「二鬼坐像」や、「吉祥天」などの写真が載ったにが掲載されていました。

■拝観の受付で頂いた「木造日本一 毘沙門堂 参拝のしおり」に説明文があり、転記します。
■二鬼坐像(重要文化財)
藍婆、毘藍婆と称し、毘沙門天の侍仏として左右に安置され、刻りは簡潔素朴、量感が豊かで、然も気迫のこもった仏像で、大正九年国宝に指定、昭和二十五年には毘沙門天と共に重要文化財の指定を受ける。

■伝、吉祥天(重要文化財)
御丈1.76m(約五尺八寸)頭に透かし刻りの象頭の冠をいただき、欅の木目が顔の面や胸の部分に表われ、稀にみる勝れた作品として、大正九年国宝の指定を受けた。国内においても数少ない御像と高く評価され、特に象頭の冠は類を見ないとされている。平安朝初期の名作とみられている。昭和二十五年、国の重要文化財の指定を受ける。

■阿弥陀如来(重要文化財)
胎内に、承徳二年に記された祈願文がある。
又江戸中期享保年間、頭部後補(すげ替え)の記録がある。平安朝後期の稀しい仏像で、昭和四十九年県重要文化財の指定を受ける。

遠野市宮守 銀河鉄道の「めがね橋」

2008年04月08日 | 東北地方の旅
小雨の中、遠野市綾織町の「千葉家曲り屋」を国道脇から見物した後、遠野市宮守の「めがね橋」へ向け出発しました。
国道396号から遠野市宮守町を左折、宮守川に沿って国道283号線に抜け、JR釜石線と、国道が交差する所に「めがね橋」があります。


国道283号線に架かる「めがね橋」が見えてきました。
三つのアーチが見えていますが、よく見るとその両脇にもアーチがあるようです。

JR釜石線は、国道283号線と同様に釜石市から遠野市を通り、花巻市まで結ぶ線路で、「銀河ドリームライン」の愛称で親しまれているそうです。


■「めがね橋」の駐車場に説明板がありましたので転記します。
土木学会選奨土木遺産
「通称・めがね橋」
岩手軽便鉄道(現JR釜石線)は、大正4年11月に花巻・仙人峠間を狭軌鉄道として開通し、その後、鉄道省の所有となる。昭和18年に改修された達曽部川橋梁「岩根橋」・宮守川橋梁「めがね橋」は、宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」の原風景を連想させ、宮守村のシンボル的な景観として親しまれている。
平成14年11月2日土木学会選奨土木遺産の認定を受けた「めがね橋」は、鉄筋コンクリート充復5径間アーチ橋の景観に調和した設計であり、当時の鉄道土木技術の高さを示すものである。
東日本旅客鉄道株式会社盛岡支社



駐車場から見た「めがね橋」です。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の風景は、この「めがね橋」などを参考にしたようで、アーチ型の美しさは当時の人々にメルヘンを感じさせるものだったかも知れません。



駐車場を出て、車中から撮った「めがね橋」です。
この辺りは、鉄道マニアが、撮影ポイントにするようで、電化しない線路で古いタイプの車輌が「めがね橋」を走る場面が人気だそうです。



車中から撮った通過直前の「めがね橋」です。
小さなアーチ型の穴が開いており、当時としては斬新なデザインだったものと思われます。

遠野「千葉家の曲り屋」

2008年04月06日 | 東北地方の旅
遠野市の「いわてふつかまち駅」から国道396号線を北に走っていると右手の山の中腹に「千葉家の曲り家」が見えてきました。



道路沿いにある受付・売店を兼ねた施設のようです。
小雨模様もあって、国道脇から見物させて頂きました。

道路沿いにある受付・売店を兼ねた施設のようです。
向って左の坂道から上にある「千葉家の曲り家 」へ登って行くようです。



この曲家を見て雄大さに驚きました。
昨日見た「ふるさと村」や、「伝承園」の曲家よりかなり大きく見えます。
別棟の建物が多く、下から見上げるためもあって見る者を圧倒します。



これが「千葉家の曲り屋」の拡大写真です。
約200年前の江戸時代に建てられ、使用人を含めて25人の家族が、163坪に住んでいたようです。
又、曲り屋の部分には、馬20頭が生活していたようです。



下の駐車場から建物全体を見た構図です。
とにかく雄大さには圧倒されました。



「千葉家の曲家」を見上げて瞬間的に思い浮かべた家屋がありましたので掲載します。
映画「八つ墓村」のロケ地になった岡山県の県北、高梁市成羽町中野の「広兼邸」で、数年前の春、訪れた時の写真です。
最初に見た時、「千葉家の曲家」と同様、雄大さに驚きました。
お城のような門を中心に、山の中腹に塀が雄大に広がっています。
「広兼邸」は、江戸時代後期の庄屋さんの家で、銅山経営や、ベンガラ製造で富豪となったようです。

遠野市小友の古い水車小屋

2008年04月05日 | 東北地方の旅
遠野市小友町の「巌龍神社」を後に、国道107号線から東に分かれた道を走っていました。
この道は、小友峠を経て「いわてふつかまち駅」へ抜ける近道と思い、通りました。



しばらくすると道の左側に水車小屋を見つけ、立ち寄りました。
水車がまわる様子もなく、水も流れていません。
現役を引退しているようですが、建物はまだ健在のようです。

道に向いた壁は「土壁」、水車のある側の壁は「板壁」になっており、改めてその構造に納得です。



水車小屋の藁ぶき屋根のてっぺんにチョコンと草が生えているのが印象的です。
あんな高い所では草も取れませんね。



遠野ふるさと村にも水車小屋がありましたが、やはり自然の風景の中で見る古びた水車小屋に懐かしさや、のどかさを感じます。



小友峠へ向かう見晴らしの良い上り坂の途中から走ってきた道の方を見下ろした景色です。
雨模様のためか稲刈りの済んだ田んぼが、ちょっとさびしそうに見えます。

遠野市小友町の「巌龍神社」

2008年04月03日 | 東北地方の旅
昨年10月8日朝、遠野市の民宿を出発して小友町の「巌龍神社」へ行きました。
「巌龍神社」は、遠野市内から国道283号線を西に向い、鱒沢から国道107号線を南に約4Kmの場所にあります。



「巌龍神社」は、巨大な石塔のように岩肌がむき出している「不動巌」を背にして建つ神社で、小友川に架かる赤い欄干の橋を渡り参拝します。
高さ54mの「不動巌」の周りに紅葉が始まっていました。


■参道に神社の案内板があったので転記します。
「巌龍神社」
巌龍神社創建の時代は、不明であるが、当村常楽寺の開祖無門和尚が、同寺の鎮守として、不動明王を勧進し巌龍山大聖寺として祀ったといわれ、往時は背後の奇巌(不動巌)をもって神霊とし羽黒修験源龍院が、別当職となり、六代善蔵院が元禄年間拝殿を建立するも大正七年火災により焼失する。
祭典は明暦年代に旧暦9月28日といわれているが、後に数回変更され現在8月第4土曜日と日曜日の2日間行われている。
源龍院8代の本興は、文化六年本殿を建立し不動尊の仏体を安置し、巌瀧(いわたき)神社と称し、文化八年には神輿堂を置きその後も巌瀧(いわたき)神社として源龍院の子孫が別当職を務める。
明治五年神仏混淆禁止令により祭神を日本武尊に改め巌龍神社と称し村社に昇格する。
昭和二十七年から神社庁発令により宮司制となり現在に至る。 遠野市



観光案内のサイトで「巌龍神社」には、「裸参り」の伝統行事があることが案内されていました。
最も寒い季節に裸で参加する人は、かなりの覚悟がいるものと想像します。

■境内にその案内板があり、転記します。
「小友町裸参り」(おともちょうはだかまいり)
遠野市指定文化財(無形民俗文化財)  指定昭和59年4月20日

小友町裸参りの起源は明らかではないが、修験者源龍院仙林(?~1727)が巌龍神社の別当を勤めていた時に不動講を結び、元禄年間(1688~1704)に拝殿を造営した翌年の初不動の日(1月28日)に不動講の数名を名代として裸参りを行ったのがはじまりと伝えられている。
裸参りは、不動講を中心として伝承され、古くは旧1月28日に行われていた。講中から当番の宿が選ばれ、次のような次第で行われたと言われている。
一、代表の者が神前で鈴を受け取り、振りながら宿に行く。
二、参拝者は宿に集まり身支度を整え、一列となって神社に赴く。
三、神社のそばの清水にて身を清めて礼拝し、鈴振りを先頭に待ちを歩き、長野川に至りて更に身を清め神社に戻る。これを三回繰り返す。
四、行事を終えた後、宿に集まり講中と共に酒肴を交わしながら年間行事や農事などの相談を行う。
現在では二月二八日に行われ、腰に注連(しめなわ)をしめ、頭に鉢巻をまき、草鞋(ぞうり)履きに口に護符をくわえた褌姿の男達が、神社の大鈴をもった厄男(42歳)を先頭に一列となって、各々手に「ぼんぼり」をもち、神社と上宿橋のそばの大般若供養塔の間を三往復して五穀豊穣・無病息災などを祈願する。
このような行事は遠野市内では他に例がなく、貴重な民族行事である。
遠野市教育委員会



神社側から橋と、小友の街を見た景色です。
小友地域は、江戸時代に数ヶ所の金山が開発され、藩の財政をうるおし、多くの労働者が集まり、大変繁栄した歴史があったようです。
小友の街は、周辺の金山に関係する人々の宿場町として賑わっていたと思われます。

遠野市のホームページ「ふるさと遠野」に江戸時代初期の岩手県の金山について書かれています。
岩手県では多くの金山が開発され、江戸時代初期には全国有数の金産出量を誇ったようです。



「巌龍神社」を正面から見た景色です。
「巌龍神社」は、遠野の観光スポットしては、ややマイナーな感じですが、正面の山に見える「不動巌」は、岩手三景のひとつとされた歴史があったようです。

■境内の案内板に長い案内文があり、苦労して転記しました。
「岩手三景 不動巌」
巌龍神社の背後の奇巌を不動巌と云います。大正十三年時の小友村長奥友信氏時代に、岩手日報社の県内三景十勝募集の企画に応募しましたところ次の三ヶ所が入選しました。
一、不動巌(遠野市小友町)
一、不動滝(二戸郡安代町)
一、玄武洞(岩手郡零石町)
小友村では同年九月三日、その入選報告祭が、巌龍神社に於いて盛会に取り行われ、不動巌の頂上からは国旗や提灯を吊り下げるなど里神楽、獅子舞等の奉納が乱舞し夜になっては小学校生徒、男女青年団員の提灯行列が夜の更けるのも忘れての業には村民はもとより近郷近在の見物客の人出で大変な賑いを極めたと記されております。
又、その後昭和25年十月十日日本国有鉄道釜石線全線開通を記念して再び岩手日報社の日本百景の募集ににも又々その選に入り、今尚雄大な不動巌が景勝地として多くの探訪者で賑っております。
不動巌は巌龍神社の背後にあって、直立して地を抜くかのように高さ五十四メートルで正に天を突くような偉容であります。
そして老松が點生し四季の風景格別なものがあり、その巌根に清水の湧出する池があって是れを昔から神水と命名しております。尚又池の中には嶋があって不動尊を祀っており、老樹が繁茂して一層の景を添えております。
又巌面には龍の昇降するような形状を呈していて、神社の背後にあるものを降り龍、西方小友川の淵の上にあるものを昇り龍と云ってその偉観の雄大さに観る人をして驚かしむるものであります。
 岩手三景不動巌
  仰ぎ見る不動の巌や風薫る
   巌龍神社社務所



「巌龍神社」の拝殿です。
この拝殿は、1809(文化6年)に建立されたそうです。
神社は、拝殿の後ろに本殿があるのが一般的ですが、拝殿の後ろには「不動巌(ふどういわ)」がそびえており、山や、岩をご神体とする古代信仰を思い浮かべます。
「巌龍神社」のルーツは、江戸時代に開山された「巌龍山大聖寺」と言われ、「巌龍」の名は、高くそびえる岩(巌)に龍を感じた名称のようです。


拝殿前の左右の狛犬です。
恐そうな目と、口の中が赤く塗られているのが印象的でした。



拝殿で参拝した後、上を見上げて撮った写真です。
写真の上の両端に牙のある動物の彫刻がありました。
向って右は口を開けている顔を見ると、どうも狛犬を彫ったものと思われます。
漫画に出てくるオバケのような顔にも見えます。



拝殿右前から見上げた写真です。
狛犬のような像の隣に鼻の長い木造の象さんがありました。
この象さんは、お隣の狛犬?さんも参道にある石の狛犬と同じように口の中が赤色く塗られています。
このような象は、寺院で多く見られるものです。。


拝殿の板壁に小さな「剣」が貼り付けられていました。
不動尊が手にしている剣に関連して奉納されたものと思われます。



拝殿の前から見上げた「不動巌(ふどういわ)」です。
巌の中心に地層のような縦縞があり、龍のイメージにつながったのでしょうか。



相撲の土俵と屋根が作られていました。
東北地方は、昔からお相撲さんを多く輩出した土地だけにこんな立派な土俵が造られているのかと感心しました。
どんな相撲大会があるのでしょうか?



神社に向かって左の境内の端から見た小友川の風景です。
「不動巌」から続く川沿いの山裾は、絶壁の岩山になっています。
神社の裏でも小友川の流れで岩山の裾が削り込まれていました。
長い時間の中で、小友川の流れが雄大な「不動巌」の景観を造ったことが伺えます。

遠野「郷土人形民芸村」の附馬牛人形

2008年03月30日 | 東北地方の旅
伝承園の駐車場を出て、国道340を南へ曲り、「郷土人形民芸村」へ向いました。



県道35号線を東に向かっていると左手に「郷土人形民芸村」の入口が見えてきます。
(この写真は、「郷土人形民芸村」の看板を駐車場側から撮ったものです。)

看板には「郷土人形民芸村」「附馬牛人形・佐々孝工房」と書かれてありました。



入口の表示がなく、ちょっと戸惑いましたが、正面に見える民家が、「郷土人形民芸村」でした。
看板に「佐々孝工房」とありますが、本名は佐々木孝和さんで、この家は佐々木さんの自宅のようでもありました。



これが「附馬牛(つきもうし)人形」で、佐々木さんの作品だそうです。
玄関を入り、声を掛けると佐々木さんの奥様のような女性からとても熱心に「附馬牛人形」の説明を聞せて頂きました。

説明によると、明治の始めに途絶えていた「附馬牛人形」復活の研究を確か5~6人で始められたそうです。(お話しぶりでは奥様もその中の一人だったようです)
長い間の苦労の末、「附馬牛人形」の技術を復活させることが出来たそうです。

この人形は、干支の「附馬牛人形」です。
毎年作った干支の作品を並べて展示しているようです。


落ち着いた赤色で気品のある感じを出しているようです。
「附馬牛人形」の作り方は、遠野の土と、和紙を煉合せて型取りした物を自然乾燥させ、胡粉を4~5 回重ね塗りしたものに彩色して仕上げるそうです。



黒っぽい服の方が(佐々木さんの奥さん?)、熱心な説明をされているところです。
ちょうど江戸時代から明治時代の「附馬牛人形」が陳列されており、その説明だったようです。



これが江戸時代に造られた「附馬牛人形」だそうです。
大黒様、えびす様などが見えます。



江戸時代中期の「花巻人形」が展示されていました。
「附馬牛人形」は、江戸時代末期から始り、その技術はこの「花巻人形」から伝わったものと考えられているようです。



干支の作品の下段にカッパの人形が展示されていました。
民話にまつわる人形はとても人気があるようです。

ところで、このカッパ人形の色は、赤ですが、遠野のカッパは、赤いものだと言われているようです。


愉快な招き猫が、色々と展示されていました。
作る人が、一番楽しいのではないかと思います。



岡山市金山寺にある「招き猫美術館」のポスターが貼られていました。
お話しによると「招き猫美術館」では、全国の招き猫を収集、遠野の招き猫も展示されているそうです。



招き猫をガラスケースの上に並べて熱心に説明をして頂きました。
長いまつ毛、つぶらな目、大きく手を上げている姿がとても愛嬌のある招き猫です。
帰り際に「又いらっしゃい!」と言ってくれているようにも見えます。

色々な人形の説明、人形作りのお話しをたくさん聞かせて頂き、ありがとうございました。

昨年10月7日、朝早く気仙沼の「大釜 半造」の美しい海岸見物から始まった一日もここで日が暮れてしまいました。
次は、昨年10月8日の遠野、北上市、平泉町の思い出を掲載します。

遠野 「常堅寺」と、「カッパ淵」

2008年03月29日 | 東北地方の旅
伝承園から田んぼの間の道を歩いて「常堅寺」「カッパ淵」に向かいました。



右手に「常堅寺」の参道があり、仁王門が見えてきます。



左右の大きな仁王様です。
この仁王様、まん丸い白い目の中心に、丸い黒目があり、漫画で描かれる目のようです。
又、頭も大きめで、丸い目の感じとあわせてわんぱく坊主のようにも見えます。


■案内板に仁王像の説明文があったので、転記します。
「仁王尊像」
木造寄木造り ヒバ材
制作年代 江戸時代
高さ 325cm 頭長 67cm 顔幅 47cm 肩幅 80cm 掌 36cm
もと早池峰妙泉寺の仁王門に安置されていた仁王像で、明治五年神仏分離により、常堅寺に移されたものである。
遠野市教育委員会



仁王門をくぐると正面に本堂が見えてきます。
左右に狛犬が置かれていましたが、お寺に肥満体の狛犬はいささか違和感があります。
「福泉寺」にもかわいい狛犬があったことから、この地方ではお寺にもこだわりなく狛犬が置かれているようです。



「常堅寺」の案内板がありました。



常堅寺の本堂です。
本堂入り口の左右に木彫りのカッパが鎮座しています。
これも狛犬の代わりに置かれているのでしょうか。

でも最初、カエルと間違えてしまいました。


本堂に向かって左手に十王堂があり、名物「カッパの狛犬」がいました。
かつてこのお寺に火災が起きた時、カッパが頭の皿から水を出して消火をしてくれたという言い伝えがあり、狛犬カッパの石像を作ったようです。



向って右の「カッパ狛犬」だそうです。
顔は、可愛い子犬のようにも見えます。



向って左のカッパ狛犬です。
頭のてっぺんにくぼみがある以外は狛犬そのものです。

くぼみの小銭を見て、からっぽだと次に置く人が少なくなるので置かれているのでは?と変なことを考えて見ていました。



常堅寺の横を川に橋」がありました。
「常堅寺」の横を流れる川に木の橋がありました。
橋には「かっぱぶちばし」と書かれ昭和六十二年に造られたようです。



橋のたもとで橋の番をしているような木彫りのカッパが立っていました。

■案内板があり転記します。
「河童」
馬を川に引きこむいたずらに失敗したカッパは、おわびをして許され、母と子の守り神となりました。
常堅寺の火災のさいは頭の皿から水を吹き出して消しとめ、いまでも一対のカッパ狗犬として境内にその姿をとどめています。


この辺りが、「カッパ淵」のようです。
田園のなかにお寺と林があり、きれいな小川が流れています。
水が透明で、川の周りの雑草も少ないのでカッパが潜んでいる感じはありませんでした。
カッパが、川に馬を引き込む昔話も馬のひざ下程度の深さではちょっとムリがあるようです。

テレビでも見たことがあるキュウリを結びつけたカッパ釣りの竿が置いてあり、地元の人の涙ぐましい思い入れにひかれてこの場所を訪れるのかも知れませんね。

■そばにあった案内板を転記します。
「かっぱ渕」
遠野の河童は赤いといわれその伝説は数多く残っている。
小鳥瀬川の姥子渕の辺に、新屋の家という家あり、ある日渕へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり・・・・・」
遠野物語五八話

この阿部屋敷の水ごうの流れ渕には河童駒引きの伝説を伝える河童神様を祀っている。
洞の中には乳首の縫いぐるみが奉納されており、乳の信仰に転化している興味深い民俗がある。
遠野市・遠野市観光協会
遠野ライオンズクラブ


帰りにお世話になったトイレです。
「河童の厠」と書かれています。

「厠(かわや)」は、便所の意味で、昔から川や、溝の上に小屋を作り用を足していたようです。
日本古来の天然水洗便所が「厠」の語源のようです。

この川に厠があると、河童さんに下から襲われるかも知れませんね。