昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

シャコバサボテンが咲き始めました

2007年12月30日 | 日記

先週からシャコバサボテンが開花を始めました。
今では約30ケが開花していますが、一部咲き程度です。

来週にはどんどん花が開き、お正月のリビングを彩ってくれそうです。


角度を変えて撮ったものです。
株がとても大きく広がっているのが分かります。



花に近づいて撮ったものです。
花びらの先は、真っ赤ですが、中心に向かって白っぽく変化しています。



花を拡大した写真です。
雄しべは、先端に黄色の花粉を付けた部分を「葯(やく)」と言うようです。
「葯」を支える白い柱のような部分を「花糸(かし)」と言うようです。
この「花糸」は、とても細く、白い髪の毛のようです。
又、その横にひと際長く、濃い赤色の雌しべが、貴婦人のように伸びています。
(写真では雌しべの先がピンクに見えますが、実物は濃い赤色です)

大神山神社 本社へ参拝

2007年12月26日 | 山陰地方の旅
大山の麓にある大神山神社本社に参拝しました。
大神山神社は、大山中腹にある奥宮と、米子市尾高にある本社の2ヶ所にあります。
本社の場所は、米子インターチェンジ近くにあり、佐陀川と、尾高城跡に近い平坦な場所に建っていました。
冬になると雪深い奥宮からこの本社に移り住むそうで、奥宮を夏宮、本社を冬宮・里宮とも呼ぶそうです。



大神山神社本社の参道入り口で、向かって左側に駐車場があります。
鳥居の前に狛犬がありましたが、向かって左の狛犬は、心無い人に壊されたものか元の形が分からないほどの状態でした。
しかしながら、台座に置かれ風化した狛犬の姿には長い歴史を感じさせられます。



境内にあった神社の案内板です。
「式内社大神山神社」とあります。
「式内社」とは927年(延長5年)に作られた「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」に登録されていた神社です。
「延喜式神名帳」に記載されていなかった「式外社(しきげしゃ)」もありましたが、「式内社」は、政府公認の「官社」だったようです。
又、「式内社」には「大社」、「小社」のランクがあり、「大神山神社」は「小社」の格だったようです。

「延喜式神名帳」によると伯耆國には小社が6ヶ所あり、案内板にある「宗形神社」は、会見郡にあるもうひとつの式内社です。



津和野藩主亀井氏が奉納し、現在東京国立博物館に寄託されている短刀が紹介されていました。
東京国立博物館のリストでは「銘 備州長船住兼光 南北朝時代・14世紀 鳥取・大神山神社蔵」とあり、名工「備州長船住兼光」は、後醍醐天皇や、足利尊氏が活躍していた時代の人のようです。
その作品は、足利義政や、上杉謙信などの武将の愛刀にもなっていたようです。

このような歴史的な名刀を「大神山神社」へ奉納した津和野藩主亀井氏は、非常に深い信仰があったものと考えられ、そのいきさつに強い興味を感じます。
ちなみに12月3日に掲載した「大神山神社奥宮」の末社「下山神社」の美しい建物も津和野藩主亀井氏の寄進によるものとされています。



境内の横を流れる小さな小川(溝)があり、鯉がたくさん泳いでいました。
この小川は、大山から流れ出た水でしょうか。
猫や、悪い人達に捉まえられず、よく育っていたのには感心しました。



鳥居をくぐって参道を進むと「神門」があり、その両側に神殿を囲む塀がありました。
「神門」の正面両側は、長い提灯を掛けるようになっています。
一般的には、両脇の正面には格子窓があり、格子の中に弓矢を持った随神像があります。



神門の両脇には、二番目の狛犬が座っていますが、鳥居の前の狛犬より少し時代が新しいようです。
向って右側の狛犬は、口の下から胸の辺りまで石が欠けて痛々しい姿です。



神門をくぐる時、両側が格子窓になっており、中には石の狛犬がありました。
あまり見ない狛犬で、極めて古いものと思われます。



後ろの本殿の屋根のてっぺんと、拝殿の屋根が重なり、美しい建物です。
しめ縄が、出雲大社のものとなんとなく似ています。
そういえば、この神社の祭神が、大国主命でした。

狛犬は、比較的新しく造られたものと思われ、ライオンに近い、洋風のデザインです。
隣の建物につながるアーチ型の渡り廊下が印象的です。



拝殿の奥に見える祭壇です。



拝殿に入り、上を見上げると立派な社号額がありました。
奥宮の社号額と同様、由緒あるもののようです。


横から見た大社造りの本殿です。

妖怪キャラがいっぱいの境港商店街

2007年12月23日 | 山陰地方の旅
境港駅(鬼太郎駅)から水木しげるロードを歩く途中、妖怪キャラの看板がある商店をがたくさんありました。
百種類以上の妖怪のブロンズ像も各商店の提供で置かれているものも多く、町を挙げて妖怪の街を演出しているようです。



「鬼太郎はうす あかいし家」というお店のようです。
「鬼太郎はうす」の文字と、鬼太郎と、ねずみ男、目玉おやじがなかよく並んだ看板が目を引きます。
向かって右の窓の上に「絵画まんじゅう」と書かれてありました。



「浜のごっつお屋」と言うおみせがありました。
テントの下の窓に「一反もめん焼」とメニューが掛けられています。
いったいどんな食べ物か興味をそそられましたが、なにぶん朝だったので食べられませんでした。
「鬼太郎ソフトクリーム」の看板もありましたが、何の味か分かりませんが、グレーと、白のソフトクリームのようです。



お店の端の狭い間口にお土産物の陳列がありました。
以外にもたくさんのお土産があります。

おみやげ人気ベスト5が表示されていました。
№1 お守りクッキー
№2 水木しげるのほのぼの名言クッキー
№3 ゲゲゲの鬼太郎ファミリーパイ
№4 目玉餅
№5 ゲゲゲの鬼太郎お椀クッキー

お土産は、ほとんど600~800円程度で、買い易いお値段です。
ベスト5以外のお土産の名前を写真で確認しました。
ゲゲゲの鬼太郎せんべい、ゲゲゲの鬼太郎まんじゅう、妖怪人形焼、妖怪汁(ドリンク)、ぬりかべしょうゆひら餅、ゲゲゲの鬼太郎妖怪BOX、鬼太郎の好きなビーフカリー。
色々ありますね。



まだ開店していないので中で売っているモノはよく分りませんが、お土産の雑貨のようです。



看板に「もののけ本舗」と描かれ、着物姿の女の幽霊・人玉の絵がありました。
ここもお土産物の雑貨を売っているようです。



鬼太郎の絵の描かれた大きな下駄のある履物屋がありました。
普通の商店街の履物屋さんでは、廃業に追い込まれる時代ですが、お店を続けているのは妖怪のおかげなのでしょうか?



ショーウインドウにたくさんのお面が飾られているお店がありました。



境港駅から商店街を往復する帰りになって、開店するお店が増えてきました。
このお店は、ソフトクリーム、お菓子、本など土産物なら何でも売っています。
観光地の土産物店の通りでは、同じようなものを売る店が並んでいますが、そうならないようにしてほしいものです。



「鬼太郎飴」発売元とあります。
このお店が、どこかで造らせた飴を発売元として販売しているものと思われます。
こんな小さな商店がリスクをもって自分の商品を作るのはなかなか大変なことだと思います。



「ヘアーサロン ゼント」といお店がありました。
「一反もめん」が、「鬼太郎」に追いかけられ、ハサミで切られそうな感じにも見えます。



「一反もめん」に乗った「鬼太郎」の絵がある「野々村電機工業」の看板がありました。
このお店の中にも妖怪グッズが並んでおり、得体の知れない電気店です。



「妖怪神社」がありました。
向って右の黒い板壁に「妖怪念力棒」と言う細い板がたくさん並べてかけてありました。
所々に絵馬が掛けられ、「妖怪念力棒」は、絵馬のようなものと思われます。
とにかく妖怪の世界を徹底して演出し、客を楽しませようとする姿勢を感じます。

水木しげるロードを一周しましたが、朝の開店前の時間帯で、チョット雰囲気を味わえなかったのが残念でした。

境港駅周辺の妖怪漫画の世界

2007年12月17日 | 山陰地方の旅
9/24の山陰旅行2日目、雨上がりの朝、米子駅近くのホテルを7:30頃に出て、境港市の「水木しげるロード」の見物に行きました。
時間が早すぎたようで、人がまばらでしたが、写真が自由に撮れて助かりました。



写真は、駐車場と、駅の間にある交番です。
外壁に「鬼太郎交番」の看板があり、交番の中にもタスキ掛けの鬼太郎人形が見えます。
街中が力を合わせて「水木しげる」の妖怪漫画の世界を演出しているようです。



向って左は、JR境港線の終着駅「境港駅」で、「米子駅」と結ばれています。
JR西日本は、境港駅を「鬼太郎駅」、米子駅を「ねずみ男駅」とし、その間の14駅にも妖怪の名を駅名にしているようです。
8時過ぎ、駅前を歩いていると鬼太郎や、妖怪達の絵が描かれた電車が入って来ました。

正面は、「みなとさかい交流館」で、建物の裏手に隠岐の島を結ぶ隠岐汽船の乗り場があります。
境港駅の屋根が灯台の形ですが、隠岐の島と接続しているイメージを表現しているのでしょうか。



駅前にあった「水木しげる先生 執筆中」と書かれた像です。
子供達や、大人までもドキドキ、ワクワクさせる妖怪の世界が、水木先生と、鬼太郎達との会話で創られてきたのでしょうか。

ネズミ男の足付近の黒い石の台座が鏡のように磨かれています。
「水木しげるロード」にあるたくさんの妖怪のブロンズ象の台座も同じように磨かれていました。



境港駅前にある「鬼太郎ポスト」です。
街頭にある郵便ポストに「一反木綿(いったんもめん)」に乗った鬼太郎と目玉親父が飾られているもので、投函しても特に変わったことはないようです。

しかし、「みなとさかい交流館」の1階や、妖怪神社の隣に設置されている、「妖怪ポスト」に投函すると鬼太郎や、カニの絵をデザインした「妖怪消印」が押されるそうです。
確か、漫画では「妖怪ポスト」に投函すると鬼太郎に届くはずだったと記憶しています。



写真は、境港駅前にあった「河童の三平」の像です。
「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」と並ぶ水木しげるの代表作と聞きますが、漫画の記憶がなく、ストーリーもよく覚えていません。
機会があれば読んでみたい漫画です。



駅前に「麒麟獅子」と書かれたちょっと楽しそうに踊っている像がありました。

鳥取県東部から兵庫北部では空想の動物一角獣の「麒麟」を獅子頭とした「麒麟獅子」と呼ばれる獅子舞があるそうです。
金色の獅子頭と、赤い布の胴の中で、前足・後ろ足を二人で演じているようです。
また麒麟獅子の踊りには先導役の「猩猩(しょうじょう) 」が真っ赤な仮面と衣装をつけて一緒に舞うそうです。

お祭りの「麒麟獅子」見物にも改めて来てみたいものです。



駅前から歩道に曲がる所に「ガラッパ」と書かれたスマートな河童の像がありました。
昔の週刊誌に掲載されていた漫画家「小島功」さんの描いたカッパを思い出します。
「ガラッパ」は、南九州の妖怪的なカッパのようです。



歩道の脇にある柵の杭を真上から見たものです。
「鬼太郎」がデザインされていて、ここまでやるかと感心しました。
この他に鬼太郎の顔だけのデザインの物もありました。



駅のタクシー乗り場の横にある観光案内版です。
朝でしたが、ぼつぼつ観光客が増えてきていました。



「傘化け」と書かれたとてもかわいらしい妖怪です。
昔からおなじみの代表的な妖怪で、あまり怖さを感じない妖怪です。



「口裂け女」がいました。
大きな台座に小さな穴があり、その中に立っています。

「口裂け女」の噂が、小学校などで全国的に広まったことが昔にありました。
マスクをした若い女が「私、きれい?」などと聞いて来た時に「はい」と応えるとマスクを外して口が大きく裂けた顔を見せるそうです。
そして「これでもきれい?」と尋ねられ、正直に「いいえ」と言うと切りつけられると言った話が本当らしくささやかれていました。



駅前から通りの歩道を歩き始めた辺りにあった「青女房」です。
平安時代の女性の妖怪のようですが、大きく開いた口に小銭が入れてありました。

日本人は、何かにつけてお賽銭を入れるクセがあるようです。
まったく、開いた口が塞がりません。

エジプトの「真鍮の水差し」がある静物

2007年12月13日 | 妻の油絵
妻の油絵(F10号)です。
エジプトのバザールで買って帰ったと言われる真鍮(しんちゅう)の水差しの独特の模様が、エキゾチックな味を感じさせてくれます。
水差しの真鍮細工は、実に細かい模様がたくさん彫られ、その美しさと、根気の良い仕事に感心しながら描いたそうです。

「真鍮」は、「黄銅(おうどう)」とも言われ、銅・亜鉛との合金だそうです。
五円玉にも使われ、加工しやすく錆びにくい黄色の金属のようです。

大山の「賽の河原」と、「金門」

2007年12月10日 | 山陰地方の旅

大神山神社の神門「後向き門」を下ると、左手に別れる「旧参道」があります。
案内板の写真がピンボケで、字があまり読めませんが、洪水で「旧参道」が流れてしまったようです。



あまり使われていない石段があり、とりあえず進んで行きました。



途中、道が見えなくなり、適当に進んで行くと河原に出ました。
写真は、歩いて来た草むら方向を撮ったものです。

石積みが二つ並んで、花がお供えされていました。
ここは佐陀川(さだがわ)の南光河原(なんこうがわら)で、「賽(さい)の河原」とも呼ばれているようです。



河原を川の方へ進むとたくさんの石積みがありました。

「賽の河原」とは、この世と、あの世の境にある川「三途川」の河原とされています。
「賽の河原」では親に先立って亡くなった幼い子供が、親を供養する石の塔積み重ねると、鬼が来て塔を壊すそうです。
幼い子供の霊は、その後も何度も泣きながら石の塔積み重ね、その度に鬼に壊されてしまうそうです。
しかし、その哀れな子どもに救いの手をさしのべるのは唯一、地蔵菩薩だそうです。

しかし、このたくさんの石の塔は、誰が積み上げたのでしょうか。



「佐陀川(さだがわ)」の細い流れがありました。
岩・小石・砂が灰色で、水も濁っていました。
この世と、あの世の境にあるという「三途川(さんずのかわ)」のイメージはあまりにも小さな流れです。
ちょっとまたいで渡ってしまいました。


この「佐陀川」は、ちょっと変わった川です。
大神山神社付近から始まり、2Km余り流れた後、地中に姿を消してしまいます。
ところが、約3Km下った場所(大山平原GC付近)から再び「佐陀川」の流れが出てきます。
「佐陀川」は、日野川と並行して流れ、最後には三保湾に流れ込みます。



「佐陀川」は、両側に大きな岩がある「金門」に流れ込みます。



「金門」の全景です。
高い岩山がそびえてとても雄大です。
こんな狭い岩の門があるのは不思議な景色です。

言い伝えでは、この場所に道を開こうと僧徒等が工事を行っていたが、難工事で途方に暮れて居たそうです。
その時、二羽の烏が飛来し、手伝い、程なく竣工したそうです。



金門から下流は、高い断崖になっており、下を見下ろした写真です。
予想外に、落差のある滝の口で、左右の雄大な絶壁や、巨石の見えるはるか下の河原の景色にもチョット感動しました。



金門の横に、石垣があり、大きなお地蔵さんがあります。
「賽の河原」を見下ろし、子供たちの霊を見守っているのでしょうか?



河原から上流の大山方向を見た写真です。
とても雄大なながめでした。
たまたま山頂付近のガスが晴れてきて山頂が見え始めました。



大山の荒々しい北壁が見えます。
北壁の崩壊は進んでいるようです。

我が家の「シャコバサボテン」の開花が近づきました

2007年12月06日 | 日記

今年も我が家の「シャコバサボテン」が咲く季節が近づいてきました。
ツボミは、5mm位の小さなものも多くあり、300コ以上はありそうです。

毎年、クリスマスの頃にたくさんの赤い花で楽しませてくれます。
朝日が当る室内の丸い食卓テーブルに載せて撮影しました。



近づいて撮影した「シャコバサボテン」です。
開花が近づいた大きなツボミもありますが、小さなツボミも多く付いています。

「シャコバサボテン」は、今年一段と大きな株になりました。
今年春、育て方の本を読んで、大きめの鉢に植え替えた成果です。
日当たり良いテラスに鉢を置き、時々に鉢をまわして全体に花が咲くように日に当ててやりました。

昨年12-17、このブログ「シャコバサボテンが咲きました」でご紹介しましたが、やはり本格的な開花まで10日以上かかるようです。。

「大神山神社奥宮」と、そこから遥拝したご神体

2007年12月03日 | 山陰地方の旅

「大神山神社奥宮」への最後の石段です。

この石段の下から右に曲がると「女坂」と言うもう一つの参道があります。
最後の急な石段がきつい時に利用する緩やかな坂道です。

最近、妻は自転車でフィットネスクラブに通い、しっかりと体力を鍛えています。
仕事に追われ、運動不足で体力の落ちた男の方が「女坂」を通りたいと思うのでは・・・。
いっそ坂の名を「男坂」に変えてくれたらと、横目で見ながら石段を登って行きました。



「大神山神社奥宮」に到着です。
等高線の地図で見ると、標高830メートル位です。

曇っていて方向もよく分らず、大山頂上付近がよく見えませんでした。



「大神山神社奥宮」から大山山頂にかけての地図です。

大山は、古代から「神の宿る山」として崇められ、「大神山神社奥宮」の地は、大山頂上を間近で遥拝する場所だったと考えられます。

地図の向かって左上の「大神山神社奥宮」の場所から頂上の「弥山」「剣ヶ峰」が南方向に遥拝出来るようです。
又、頂上付近には「エボシ岩」があり、各地で神の山の磐座とされている岩によく付けられている名前です。

古代の遥拝の対象は、祖霊が降臨されるという磐座の「エボシ岩」だったのかも知れませんね。



格式を感じる建物が左右に長く伸び、「権現造り」の特徴とされています。
下の説明文で、国の重要文化財に指定され、日本最大級の権現造りと説明されています。
「級」が付いているところから日本一ではないのかも知れません。

■案内板にあった神社の略由緒を転記します。
「大神山神社奥宮略由緒」
主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)
大山は太古より大巳貴命が鎮り座すお山として大神岳又は大神山と呼び此の所を神祭りの場として居ました。
奈良時代より修験道、更に仏教が入り神仏習合説のもと大神に大智明権現の稱名を奉り神官社僧により奉仕し平安時代には此の奥の宮を中心として三院百八十坊僧兵三千の西日本一の霊山となり以来時勢により盛衰を重ねて居ましたが明治八年神仏分離令に依り大神山神社奥宮となり元の様に純然たる神社となりました。
現在の社殿は重要文化財に指定され文化2年(1805)の建築で日本最大級の権現造り、内部には色彩豊に長大な柱や長押の白檀塗は日本一と云われて居ります。
正面の社号額は明治新政府の総裁であった有栖川宮熾仁親王の揮毫である。
御神徳 農耕 畜産 病気平癒 交通 開運 勝運 良縁



派手な案内板に「日本最大の白檀塗」とあり、300円で拝観出来るようでしたが、疲れ気味でパスしました。

「白檀塗」は、銀箔を貼った上に生漆を塗り、金色に変化する化学変化を利用した装飾技法だそうです。
柱・天井等、内装全体に使われ、群を抜く規模のようです。

■参道の入り口付近の案内板に「大神山神社奥宮」には三つの日本一があると案内されています。
①「自然石参道」約500m
②「権現造り社殿」神仏混交の様式を伝え、正面の長廊が両翼約50メートル
③「内部極彩色白檀塗」本殿内の大規模な装飾



拝殿の中に木製と思われる「御神馬」がありました。
馬の前の方は、通りすがりの人です。

写真では黒く写っていますが、実物は茶色でした。
御神徳を期待した妻が、馬の顔をなぜていたので写真を撮りましたが、物忘れは変わらないようです。

■張り紙を転記します。
「御神馬」
頭や、顔をなでるとボケ防止、健康増進、願望成就、牛馬安全の御神徳をいただけます。合掌



見慣れない八角形の美しい神輿がありました。

平安時代に始まり、明治18年まで続いていた大山寺の会式のひとつ「神輿行幸」で練り歩いていた7基の内、最も大きかったのがこの神輿だったそうです。
昭和62年に御幸保存会が発足し、「神輿行幸」は2基の神輿で復興されているようです。

■説明板を転記します。
「西日本一の大神輿」
八角神輿では、西日本一の大きさといわれている。
平安時代から「大山神幸行列」が行われ、常に七基が繰り出されていた。その中でもこの神輿が最大のもの。担ぎ手が40~50人は必要。
明治18年まで神幸行列が行われたがその後は行われていない。
 平成14年10月 復元修理
 形式   両部神道式
 高さ   3.2m
 重さ   1トン
 担ぎ棒  5.6m



「大神山神社」の横に「下山神社」がありました。
とても美しい建物です。
天守閣にも見られる「八ッ棟造り」の建物だそうで、江戸時代の雰囲気を感じます。

ここでも狐の石像がありました。稲荷神社でもないのに・・・よく分りません。

■本殿に建物の説明板があったので転記します。
「大神山神社奥宮末社 本殿・拝殿・弊殿」
通称「下山神社」といわれ、檜皮葺の権現造りで、俗に「八ッ棟造り」と呼ばれている。現社殿は文化二年、津和野藩主亀井矩賢により寄進造営された。


■現地の案内板を転記します
「下山神社由緒略記」
祭神 下山大明神(渡邊源五郎照政命)
元徳二年(1330)大神山神社尊信した備中郡司渡邊日向守一子照政公は参拝の帰路奇禍に遇い不慮の最期を遂げ人々これを憐れみ大山下山の地に子祠を建て下山神社と呼んだが数々の霊験あり。
後、夢のお告げにより、此の地に奉遷したもので、多くの武将の信仰があり現在の社殿は代々の信仰が篤かった石州津和野の領主亀井隠岐守矩貴公が文化2年(1805)年に再建されたもので重要文化財に指定されています。

御神徳 勝運・除災・病気平癒


大神山神社奥宮の横に「キャラボク(伽羅木)」がありました。
大山の頂上付近には他と比較しようのない大群落があり、国の特別天然記念物、鳥取県の県の木になっているようです。

キャラボクは、東北から中国山地にかけて生育する日本原産の背の低い常緑樹で、イチイ科イチイ属とされています。
キャラボクは、イチョウと同じように雌・雄の木があり、3~5月に花が咲き、秋には雌の木に可憐な赤い実がつくそうです。

表示板に「ダイセンキャラボク」と書かれているのは、以前にキャラボクから独立の種とされた時期があったため今でも名前が残っているためと思われます。

日本一長い石畳の参道「大神山神社奥宮」

2007年12月01日 | 山陰地方の旅

大山寺の山門の手前を左に曲がると「大神山神社奥宮」の鳥居が見えます。
この石鳥居は、文政三年に建てられた「石造明神鳥居」で、国の重要文化財に指定されています。


「大神山神社奥宮」の参道です。
緑の参道に静寂さがただよい「歩いてみたい道」といった感じです。

案内板に「日本一長い自然石の道 ごゆっくりとどうぞ」と書かれていました。
参道の石畳は、500m位続いているようです。


「大山寺本堂」から出てきた道と合流し、さらに進んで行くと左手に「ほほえみ地蔵」が見えてきます。
三体の「ほほえみ地蔵」には赤い手編みの頭巾が掛けられ、参道を歩く人たちを慈悲深くほほえんで見守っているようです。



「ほほえみ地蔵」のすぐ奥に「本坊西楽院水車小屋跡」の標識があり、僧兵の力石があります。
「僧兵の力石」は、石の台に置かれた円柱形の石で、見た感じで50Kg以上はあるでしょうか。
僧兵達が、この石で力を競ったとされていますが、いったいどうやっていたのか興味のあるところです。

■案内板を転記します。
「僧兵の力石」
大山寺の僧兵は約五百年の昔その数三千人と言われ、勇猛無比その勢いは大山颪(おろし)と言われ山陰を風靡(ふうび)したが、平時この力石で力を競ったと伝えられる。



とても長い石畳の参道が続いています。
「ほほえみ地蔵」をさらに進むと大きな杉の木がありました。
「夫婦杉」です。



「夫婦杉」は、隣接して生えた2本の杉が、大きく生育する過程で合体した状態になったものと思われます。
参道沿いにはこの他にも少し合体した杉が散見されました。

余談ですが、島根県松江市の「八重垣神社」の「夫婦椿」を思い出しました。
神社の門前に推定樹齢約500年の椿があり、見事に木が1本になっていました。
「神秘夫婦椿 連理玉椿」の案内板があり、東京資生堂の花椿会はこの木を神聖視して発展されたと言われています。

■案内板を転記します。
「夫婦杉」
この杉は数百年の間、自然の摂理により根が交り、夫婦杉と呼ばれている。



「夫婦杉」を過ぎた参道脇に大きな岩に彫られた石仏がありました。

■説明板を転記します。
「吉持地蔵」
江戸中期の頃会見郡の長者吉持甚右衛門が悟院住職豪堅に仲を持ってもらい寄進したもので大山寺の数多い地蔵の中で自然石にきざまれた数少ない地蔵である。



やや上り坂の石畳の道に二つ目の鳥居が見えてきました。

一見、コンクリートの比較的新しい鳥居に見えますが、天明二年(1782)に建てられた「銅製明神鳥居」だそうです。
一番目の石鳥居と合せて国の重要文化財に指定されています。



「銅製明神鳥居」の柱を拡大した写真です。
鳥居を寄進した人たちの名が貼り付けられています。

よく見ると「米子市 後藤市右衛門」と書かれています。
天明二年(1782)に建てられたとされる鳥居に昭和二年(1927)に市制施行した「米子市」と書かれているのはいったいどう言うことでしょうか。
よく分りませんが、近年の修理費用に関わる記載かも知れませんね。



参道脇に「延命長寿 御神水」と書かれた水呑み場がありました。
とてもありがたい水のように書かれていると、その気になってしまいます。

最近、大山の湧水が商品化されているようですが、ここでは飲み放題です。



参道を進むと石段の上に大神山神社の神門「後向き門」が見えてきます。
写真の右下は上の石段から見下ろした「後向き門」です。

門の扉をロックする閂(かんぬき)の裏表が、逆に建ててあることから「後向き門」と呼ばれているようです。

1857年、大山寺本坊西楽院の表門をこの場所に移築した時、そのままの向きで移転したのが後向きとなった理由と言われています。

まさか、これだけの建物の移動を考えた人は、うっかり表裏を間違えるとはないと思われます。
むしろ、門の両側は自由に歩ける山で、扉を閉じてカギを掛ける必要がなかったのではないかと勝手な推測をしています。


■大神山神社奥宮の本殿にあった建物の説明板を転記します。
「大神山神社奥宮神門」
単層・桧皮茸・四脚の向唐門で、江戸時代末期の技法が豊かな門である。
神門右側の石柱にあるように、安政四年(1857)にいまの日野郡根雨の近藤氏が寄進したことがわかる。


2007-11-12このブログ 「近藤氏」は、出雲街道「根雨宿」の町並み で掲載した、たたら製鉄の「近藤家」と思われ、根雨の町並みで「備後屋」の看板があった建物です。



大神山神社奥宮の最後の石段の下にあった狛犬です。

とても変わった狛犬で、怪獣映画のゴジラを想像してしまいます。

石段を上がるといよいよ「大神山神社奥宮」です。