昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

能登旅行 茅葺屋根の寺「阿岸本誓寺」

2011年05月29日 | 中部地方の旅
ゴールデンウィークに行った北陸の旅行の続きです。

5月2日、能登地方の「気多大社」に続いて「阿岸本誓寺[あぎしほんせいじ]」に行きました。



「阿岸本誓寺」の山門前の風景です。

門の脇の石碑に「能登阿岸 新巻山本誓寺」とあり、真宗大谷派の寺院です。

向かって左の立て札には石川県や、輪島市に登録された文化財などが案内されています。

冒頭には県指定古文書として阿岸本誓寺古文書471点が記載されており、歴史的に高い価値を持つ数百年前の古文書が伝わってきたようです。

向かって右に道路が広くなった駐車場スペースがあり、静かな集落の中に建つ寺院でした。



能登半島の地図です。

「阿岸本誓寺」は、赤丸の場所で、能登半島の海岸を一周する国道249号から右折し、約1Km進むと右手に見えて来ます。

山沿いの小さな集落の中に大きな茅葺の屋根を見つけ、路地を右に曲がると山門の正面でした。



山門の脇に珍しい「鼓楼」がありました。

かつては時を告げる太鼓の音が響いていたものと思われます。

山門を入ると「鐘楼」もあり、それぞれの役割がどうなっていたのか興味があるところです。

老朽化したためか、二階の板壁に白いボードが立て掛けられ、少し痛々しい感じです。(雪害対策だったのかも知れませんが・・・)



山門の門扉に二つの家紋がありました。

徳川家の「三つ葉葵」、二条家の「二条藤」と言われる下がり藤の紋です。

「二条藤」の紋は、1839年(天保10)関白左大臣の二条家の息女「五百姫」が本誓寺住職家に嫁いでいることによるものと思われます。

「三つ葉葵」の紋は、1610年(慶長15)、「阿岸本誓寺」が鳳至郡(能登半島北西部)の触頭[ふれがしら]寺院となり、徳川幕府や、加賀藩の宗教統治の一翼を担うようになったとされ、そのことによるものでしょうか。



山門を額とした風景画のように茅葺の本堂の堂々とした姿が現れてきました。

5月にもかかわらず左手に満開の桜も見え、すばらしい風景にしばらく立ち止まって見ていました。

五木寛之さんの「百寺巡礼」のDVDで、「阿岸本誓寺」を見て北陸の旅を思いつきましたが、実物の風景には格別な思いがこみ上げてきます。



山門を入ると、左手前方に鐘楼と、枝を広げた満開の桜がありました。

桜の前の石碑には、「石川県指定 アギシコギクザクラ」とあり、毎年4月中旬から5月上旬を開花時期とするのようです。

阿岸本誓寺の「アギシコギクザクラ」は、二条家から花嫁と共に当地に持ち込まれた原木の子孫のようです。

■鐘楼前に桜の案内板がありました。
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石川県指定天然記念物 アギシコギクザクラ
指定年月日 昭和四十三年八月六日
指定理由  天然記念物基準植物の部 第一種
山桜系の一種で一花に八十枚~百四十枚の花弁をつける。つぼみは始め桜赤色を呈するが開くに従い外輪の花冠から淡色となりほとんど白色になる。
   石川県教育委員会
   輪島市教育委員会
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前回掲載の「気多大社」の「気多の白菊桜」が、山桜系で、花びらも多くあり、開花時期も同じであることから、同じルーツの桜だったのかも知れません。



たくさんの花びらがつく「アギシコギクザクラ」の花です。

前回掲載の「気多の白菊桜」の写真と比較しても違いはよく分かりません。



山門を入り、右手に建つ庫裏です。

高い身分の二条家と姻戚関係になった歴史を持つ阿岸住職の住まいは、やはり格調の高い玄関です。

民衆の信仰に支えられて、守り続けられた素朴な茅葺屋根とは対照的ですが、時代をしっかりと生き延びてきたことがうかがえます。



庫裏から本堂への渡り廊下がありました。

建物をつなぐ渡り廊下は、福井の永平寺や、金沢市の大乘寺などでも見られましたが、雪の多い地方では特に必要だったものと思われます。

渡り廊下の向こうに見える建物は書院のようです。



茅葺の本堂が美しく見えると思われるポイントを探して撮った風景です。

全国でも最大級の大きさを誇る茅葺屋根の建物ですが、瓦葺の建物にない素朴なやさしさが感じられます。



本堂の前には苔生した石段が印象的でした。

大勢の人が出入り出来るように石段や、建物の入口はかなりの広さで造られています。

しかし、驚くほど苔生したこの石段は、過疎が進む地方の苦しい実態を映しているようです。

五木寛之さんの「百寺巡礼」のDVDでは大勢の地元の人が集い、住職の説教に耳を傾け、五木さんの飛び入りの講話もありました。

■本堂石段横に案内板がありました。
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 石川県指定有形文化財 建造物
阿岸本誓寺 本堂
  本堂   一棟
  附 棟札 二棟

一、指定年月日 平成四年十月九日
二、指定の理由
   阿岸本誓寺本堂は、文永五年(1268)善了法師の創建と伝えられ、鳳至郡百六ヶ寺の触頭[ふれがしら]をつとめた県下有数の真宗大谷派寺院で有り、大規模建造物にもかかわらず、豪快な茅葺き屋根を保持していることは県内はもとより全国的にも稀有な文化財である。
三、説明
   本堂は、入母屋造り、平入り、総茅葺きで、正面に四本柱の三間向拝を設ける。
   規模は、正面桁行柱間九間(24.12m)梁行柱間十間(23.95m)棟高22.5mの大規模な建物である。
   本堂内部は、畳130帖を敷きつめた外陣、中央後方に須弥壇[しゅみだん]を安置する内陣、外陣の正面及び左右に広縁をめぐらしている。
   棟札には、越後国三嶋郡間瀬村の大工篠原嘉左衛門藤原副重を棟梁として、 安永九年(1780)に起工し、十二年間の歳月をかけ寛政四年(1792)に棟上げしたことが記されている。

平成六年三月三十一日
  石川県教育委員会
  輪島市教育委員会
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本堂に向かって左側の風景です。

小さな建物は「和合堂」と名付けられた納骨堂で、その前にしだれ桜が美しく咲き乱れていました。

さびれを感じる境内の風景ですが、この周囲だけは華やいだ雰囲気に支配されていました。

能登旅行「気多大社」参拝

2011年05月24日 | 中部地方の旅
ゴールデンウィークの4/29~5/3の4泊5日、北陸の旅行に行きました。

今回は、特に印象に残った4日目、能登地方の「気多大社」です。



能登国一宮「気多大社[けたたいしゃ]」の鳥居です。

金沢市内のホテルを出発、約1時間後の8:20頃到着しました。

両脇の鳥居の柱を支える小さな稚児柱がある両部鳥居[りょうぶとりい]ですが、白木のためか清楚な感じです。

両部鳥居と言えば、海に映える宮島の大鳥居が浮かびますが、「気多大社」の名に似た若狭国一宮の「気比神宮」の鮮やかな鳥居も思い出します。

■鳥居の横に案内板があり、説明文を転記します。
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気多大社
当大社の御祭神は、大国主命(またの御名大己貴命)と申し、能登の地を開いた大神と仰がれています。
創立年代は、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、延喜の制では、名神大社に列しています。
本殿背後約1万坪の社叢(入らずの森)中央の奥宮には素盞嗚命、奇稲田姫が祀られています。
伝統的な特殊神事としては、新年の門出式(1月1日未明)をはじめ、平国祭(3月18~23日)、蛇の目神事(4月3日)、鵜祭(12月16日未明)等が有名です。
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能登半島の地図(Map Fan)です。

能登半島の南西部にある赤丸印の付近が「気多大社」です。

「気多大社」は、七尾市の「能登生国玉比古神社」(気多本宮)から分祀された伝承があり、毎年3月には「気多大社」から「気多本宮」までを6日間で往復する「平国祭」が行われているようです。

かつて羽咋市から七尾市市街地近くまで深く入りこんだ邑智潟があり、それを埋め立てた幅3~4kmの低地(邑知地溝帯)が続いています。

驚くほど波静かな富山湾側の七尾市の地から大和への海路の起点としやすい羽咋市の地へ移ることは不自然な話ではないと思われます。

■気多大社には以下の伝承があるようです。
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同社の縁起によれば、上古、大己貴命が出雲国より因幡の気多崎に至り、そこから能登に渡ってこの地を平定、やがて所口に鎮座し、孝元天皇のときに社殿の造営があった。気多とは気多崎によるもので、それから百有余年を経た崇神天皇の御宇に大己貴命は鹿島路湖水の毒蛇を退治して竹津路に垂述したのが一の宮(気多大社)である。
(「日本の神々 神社と聖地」 谷川健一編より)
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この文献から、出雲大社が思い浮かんできました。

出雲大社は、出雲平野の北に横たわる島根半島の西北端にあり、能登半島の付け根、邑智潟の西北端にある気多大社と類似しているように思われます。

又、「邑智潟」「邑知地溝帯」の珍しい名から島根県出雲市の南西にある「邑智郡」を思い浮かべます。

島根県松江市や、出雲市には越の国にちなむ「古志」の地名があり、日本海で結ばれた古代からの交流の歴史が感じられます。



一段高い場所にシルエットが美しく、苔生した檜皮葺き[ひわだぶき]の屋根の神門が見えて来ました。

1584年(天正12)の建立と伝えられ、国の重要文化財にも指定された由緒ある門のようです。

この門は、両部鳥居と同じ様に左右の門柱の前後に控柱がある四脚門様式とされています。



神門を見上げる参道の左手に数株の水芭蕉が咲いていました。

花屋さんで似た花はよく見かけますが、自然の水芭蕉を見るのは初めてです。

この後、能登半島の先端に近い禄剛崎灯台への遊歩道でも水芭蕉を見かけました。

水芭蕉の日本での自生地の南限が兵庫県の高地とされ、今回の旅行で見たかった花です。

この後の予定で、二千株の水芭蕉が咲く名所「来入寺」(能登有料道路の上棚矢駄IC付近)を訪れるつもりでしたが、これだけで満足して止めにしました。



神門の脇の塀の前に遅い満開の桜があり、その下にも赤いつつじが咲き始めていました。(花の拡大写真を付けています)

ほとんどが散っていた北陸地方の桜ですが、たくさんの花びらがある珍しい桜が満開で、水芭蕉と合わせてちょっと得をした気分になりました。

赤いつつじには「能登キリシマ(ツツジ科)」の前に立て札があり、能登島北東エリアで多く植栽されているようです。

■桜の前の立て札や、境内にあった案内板の説明文を転記します。
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【桜の前の立て札】
 「気多の白菊桜[ケタノシロギクザクラ]<県指定天然記念物>花弁数(花ビラ)が150枚~300枚になる珍しい品種です

【案内板】
石川県指定天然記念物 ケタノシロギクザクラ
1.指定年月日 昭和43年8月6日
2.指定理由  このキクザクラは、ヤマザクラ系ながら菊咲きする珍しい品種である。県内では他に数本が認められる。
3.説明事項
 花はおおむね一段咲きで、その名の示すように白色八重咲きである。花弁は50~160枚、花径は2.3~3.0cmあり、4月下旬から5月上旬に開花する。めしべは筒状のがく筒の底から生えていて、完全なものが多く、2個から6個の実をつける。
 幹の直径は15~25cmほどあるが、原木は数十年前に枯死し、現在のものは株から生じ5幹にわかれている。
 学名は右記のとおり Prunus jamasakura SIEBOLD cv. Haguiensis
4.保存上注意すべき事項
 (1)柵内に立ち入らないこと。(2)みだりに枝葉の伐採をしないこと。
        石川県教育委員会 / 羽咋市教育委員会
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前方の拝殿建物は、神々しさを感じる入母屋造妻入りで、1653~54(承応2~3)年、加賀藩3代目藩主前田利常により再建されたようです。

拝殿後方の「気比大社」本殿は、11代目藩主前田治脩により1787(天明7)年に再興された建物で、庇が前方に伸びた「流造」様式を、後方にも庇を伸ばした珍しい「両流造」様式です。

本殿後方の奥宮への礼拝を意識した様式だったのでしょうか。

本殿の右隣りにある建物は、摂社「白山神社」の本殿(三間社流造)で、気比大社本殿と同じ1787(天明7)年に再建されたようです。

写真では見えませんが、本殿に向かって左隣に1569(永禄12)年に能登守護畠山義綱により建造された最も古い建物、摂社若宮神社の本殿(一間社流造)がありました。

「気比大社」の祭神は、「大己貴命」、左の「若宮神社」の祭神は、「事代主命」、「白山神社」の祭神は、「菊理姫命」です。

神門をくぐって拝殿の美しさに足を止めていると、宮司さんに声を掛けられ、神社の説明を聞かせて頂きました。

印象的だったのは、宮司さんが年末、裏山の「入らずの森」で行う年1回の神事の話でした。

今では奥宮に信者の名を書いたものを奉納するそうですが、かつては新たな年のために神様の新御魂をお迎えする神事だったのかも知れません。



神門前にあった境内の案内図です。

本殿の背後に「気多大社入らずの森」とよばれる約3万平米とされる社叢が見られ、境内の広さと、さほど違いないことに気が付きます。

又、奥宮と云うには余りにも近く、その祭神も本殿の大国主命と異なる素盞嗚命、奇稲田姫とされており、その位置が本殿後方左と考えると、出雲大社本殿後方にある「素鵞社[そがのやしろ]」と類似しているように思われます。

又、出雲国の中心が出雲大社の東にある松江市にあったことと、七尾市の気多大社本宮の位置関係も似ているように思われます。

ところで、「気多大社入らずの森」の裏には、「昭和堤」と名付けられた灌漑用と思われる人口池が見られます。

裏山に広がる神聖な森は、時代と共に開発され、次第に狭くなってきた歴史があったのかも知れません。

昭和天皇が行幸され、社叢をご覧になって詠まれた歌がありました。
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■境内の案内板と、石碑に刻まれているものです。
案内板「昭和58年5月22日気多大社御行幸 昭和天皇御製碑」
石碑「斧入らぬ みやしろの森 めづらかに からたちばなの 生ふるを見たり」
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拝殿から右手奥に進んだ場所の風景です。

右手の鳥居の奥は、案内図では「楊田神社」とありましたが、なぜか社殿は見当たりませんでした。

気多大社の縁起に大己貴命が出雲国から能登に渡ってこの地を平定したとあり、旧来から祀られていた神様だったのでしょうか。

石段の上の建物は、境内案内図によると「神庫」とあり、建物前の立て札に「あぜくら造り 県指定重要文化財 約二百年前」と書かれています。

奈良の正倉院の建物を小さくした様な造りですが、山の湿気が多い環境が気になります。

石段の右手にあるタテ長の白い案内板に「気多大社入らずの森」とあり、石段の上にある「神庫」方向へ案内するようにも見えます。



国土地理院の地形図で、気多大社付近を調べてみました。

海岸近くのなだらかな斜面に水田が広がり、その上の高台には水田に水を供給するための池が驚くほどたくさん見られます。

「昭和池」の奥には「宮の池」と名付けられた池があり、かつては「気多大社入らずの森」が及んでいたエリアだったものと思われます。



境内右手奥にある「太玉神社」で、社殿後方から当たる朝日で、神々しい風景でした。

祭神は、天活玉命[あめのいくたまのみこと]とされ、神話では高皇産霊神[タカミムスビノカミ]に連なる神様のようです。



参道の脇にあった「養老大黒像」です。

小さな社殿に個性的な風貌の大黒様が鎮座されていました。

その後、出雲からこの地に来た大国主命の一族にどんな歴史があったのでしょうか。

様々な想像をかき立てられる神社でした。

イタリア旅行No.40(最終回) ヴァチカン市国「サン・ピエトロ広場」

2011年05月19日 | 海外旅行

【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】


11/15 イタリア旅行7日目、 「サン・ピエトロ大聖堂」内部の見学を終え、「サン・ピエトロ広場」へ出て行きました。



「サン・ピエトロ大聖堂」から「サン・ピエトロ広場」へ下りて行く時にスイス衛兵を目にしました。

意外にも、二人は姿勢を崩して雑談にふけっているようです。

派手な制服だけにとても目立ちますが、ざっくばらんで陽気なイタリア人達は、とりたてて問題にはしていないようです。



「サン・ピエトロ大聖堂」と、「サン・ピエトロ広場」付近の概略図です。

大聖堂を出て、図Aから図の下方向に進んで行きました。



図Aの場所で、入口付近を警備するスイス衛兵です。

私語を止めてこちらを向いています。

両手を後ろで組んだり、前で組んだりと、二人にはあまり緊張感はないようですが、カメラを向けると、それなりのポーズで対応してくれました。



図Bの位置に立つ「聖ペテロの像」(ジュセッペ・デ・ファブリス作)です。

前回掲載した聖堂内の聖ペテロの像と違い、精悍な姿が印象的です。

「サン・ピエトロ大聖堂」のファサードの上にキリストと弟子達の像が並んでいますが、「聖ペテロの像だけはここに安置されているため外されているようです。

やはり、キリストの一番弟子の聖ペテロの墓だった土地に建つ大聖堂だけに身近に感じる場所が選ばれたものと思われます。

図の向かって右の階段角にも「聖パウロの像」(アダモ・タドリーニ作)があります。

キリスト生前の弟子ではなかった聖パウロと、一番弟子聖ペテロの二人は、キリストの後を受けて布教をリードし、正教会では「首座使徒」として尊敬されているようです。



「サン・ピエトロ大聖堂」のファサードです。

一段高いファサードの玄関に上る階段の左側に「聖ペテロの像」が見えます。

ファサード左端のアーチの下にスイス衛兵が立っていました。

ギリシア神殿風の太い柱と、上にそびえるクーポラが調和のある堂々とした景観をつくっているようです。



「サン・ピエトロ大聖堂」ののクーポラ(大円蓋)が美しくそびえていました。

このクーポラは、1591年に頂塔が完成し、1593年に十字架136mの高さに据えられたそうです。

約150年前の1436年に完成したフィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」は、茶色のクーポラでしたが、縦に少し長く、ブルー系のこのクーポラは、スマートな神聖さが感じられます。



「サン・ピエトロ広場」の中央(図Dの場所)に立つ「オベリスク」です。

「オベリスク」は、古代エジプトの神殿に造られたモニュメントで、その多くが戦利品としてヨーロッパへ移設されているようです。

この「オベリスク」は、キリスト教徒が迫害された古代ローマのネロ帝の時代、この地に造られた戦車競技場の中央に旋回場所の目印に建てられていた石柱だそうです。

長い歴史は感じますが、征服した異民族の宗教的モニュメントが、なぜカトリックの総本山の広場中心に移設されているのか、不明です。



広場の東端(図の下部)を「ヴァチカン市国」からイタリアへ出国する場面です。

入国時には手荷物検査があり、少し緊張したましが、柵の間を歩いて出て行く出国はあっけないものです。

イタリア観光はこれで全て終わり、バスでローマ空港へ向かいました。



往復で載せて頂いた「アリタリア イタリア航空」の飛行機です。

日本の航空会社と違い、男性の接客乗務員が多かったのが印象的でした。

イタリアのおいしいオレンジジュースや、缶ビールも楽しむことが出来て、機中泊もさほど苦になりませんでした。



ローマ空港を出発し、しばらくした機内のモニターです。

飛行機は、ローマからイタリア半島を東に横断して行きました。

日本までのルートはヨーロッパの南部を東に進み、中国の遼東半島付近から朝鮮半島を横断して関西空港へ着きました。



イタリア半島を横断する途中に見えたちょっと感動の風景です。

半島の中央からやや東で、南北に伸びる山脈があり、高い山頂には雪が積もっています。

北部のアルプスは別にして、11月のイタリア半島中部にこんなにも雪の積もる高い山があったとは知りませんでした。

イタリアの歴史スポットを楽しみましたが、アルプスなど大自然を楽しむ旅行もいいでしょうね。



旅行会社で頂いた小冊子に掲載されていたイタリアの地図に旅行の行程を記入したものです。

改めてイタリア旅行の行程を紹介します。(上の地図にも訪れた都市の順を[1]から[9]に記載しています)
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2010年
11/ 9(火)関西空港14:10発→ローマ乗継→ベニス空港→ベニス泊
11/10(水)ベニス市内観光[1]→午後半日フリータイム→ベニス泊
11/11(木)ベニス発→シエナ[2]→サン・ジミニャーノ[3]→フィレンツェ泊
11/12(金)フィレンツェ市内観光[4]→半日フリータイム→フィレンツェ泊
11/13(土)フィレンツェ発→チビタ観光[5]→ローマ市内観光[6]→ローマ泊
11/14(日)ポンペイ[7]→ナポリ市内観光[8]→ローマ泊
11/15(月)バチカン市国観光[9]→ローマ空港15:15発
11/16(火)関西空港着→新大阪駅→福山駅
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以上、2010年11月9日~16日の8日間の旅行の想い出を11月19日から40回に分けて掲載しました。

素晴らしいイタリアの風景に感動した記憶が薄れる中、写真を見て思い出しながら書き綴ったものです。

ヨーロッパ文明の中核をなすイタリアの史跡や、美術品の多くは、キリスト教信仰が基礎となっているようで、異教徒の私には理解しずらいものでした。

終わってしまうと短い8日間のイタリア旅行でしたが、多くの歴史を学ぶことが出来ました。(でも、ほんの一部ですね)

この素敵な旅行をサポートして頂いた旅行会社の方々、添乗員さん、ガイドさん、旅行をご一緒したツアーの皆様に改めて感謝申し上げます。

ありがとうございます。

イタリア旅行No.39 ヴァチカン市国「サン・ピエトロ大聖堂」

2011年05月16日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】

11/15 イタリア旅行7日目、 「システィーナ礼拝堂」の見学を終え、いよいよ最後の「サン・ピエトロ大聖堂」です。



広い「サン・ピエトロ広場」から見た「サン・ピエトロ大聖堂」のファサード(建物正面)の風景です。

「サン・ピエトロ大聖堂」は、信徒10億人以上と言われるカトリックの中心地で、高さ約120mのそびえるクーポラの風景は素晴らしいものです。

1626年に完成した現在の建物の前には、ペトロの墓の上にローマ皇帝コンスタンティヌス帝(272~337年)が建設したとされる最初の建物(349年頃完成)があったそうです。

キリスト教を初めて公認し、信仰の中心となる大聖堂を建設したコンスタンティヌス帝は、分裂したローマ帝国を再統一し、コンスタンディヌポリス(トルコのイスタンブール)へ首都を移転した歴史的な皇帝でもありました。



「サン・ピエトロ大聖堂」の平面図です。

図に向かって右手(北側)の「システィーナ礼拝堂」からアトリウム(玄関)へ入ってきました。

図の下には「サン・ピエトロ広場」が続いています。



アトリウム(玄関)北側の風景です。

向かって右手に進むと「サン・ピエトロ広場」、左手には五つの扉が並び、一番右にある「聖年の扉」です。

アトリウムにある五つの扉は、平面図左から「死の扉」「善と悪の扉」「フィラレーテの青銅の扉」「秘蹟の扉」「聖年の扉」と並んでいます。

中央の「フィラレーテの青銅の扉」は、旧サン・ピエトロ大聖堂から移設された扉で、エウゲニウス四世(在位1431~1447年)の頃に作られたものです。

フィラレーテ(1400~1469年頃)は、フィレンツェ生れの彫刻家で、フィレンツェ「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」の門扉「天国の門」を製作したロレンツォ・ ギベルティの弟子とされています。

また、エウゲニウス四世は、亡命中のフィレンツェで建築家ブルネレスキによって完成した巨大ドームのある「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母大聖堂)」の献堂式に列席した教皇でもありました。

初期ルネサンスの作品にはフィレンツェにちなむ人々が多く関わっています。



フィレンツェ「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」の門扉を彷彿とする「聖年の扉」です。

普段、この扉は閉じられており、カトリック教会で「聖年」とされる25年ごとのクリスマスに開かれ、ローマに巡礼した人々に特別な赦しが与えられるそうです。

パネルには罪・赦し・人類の救済など聖書の物語が描かれ、最後のパネル(右下)には設置された1949年のクリスマス、ピウス12世(在任1939~1958年)が「聖年の扉」を開く場面が描かれているようです。

タイムマシーンで完成後の未来の式典を見に行き、描いた訳ではないと思いますが、ピウス12世の心をくすぐるパネルだったと思われます。



荘厳なサン・ピエトロ大聖堂の中に入ると、右手にミケランジェロ(1475~1564年)の傑作「ピエタ(慈悲)」(1500年頃の作品)がありました。

磔の十字架から下ろされた息子キリストを抱く聖母マリアの姿が美しく表現され、神々しさが感じられます。

25才頃の若きミケランジェロの作品で、その非凡さに驚かされます。

平面図では「聖年の扉」の上にあります。



サン・ピエトロ大聖堂の身廊(回廊中央)から主祭壇方向を見た風景です。

サン・ピエトロ大聖堂は、長さ192.76m、回廊の幅58mと、世界最大の聖堂だそうで、うす暗い聖堂内の柱や壁には多くの彫刻や絵画で飾られ、その荘厳さに興奮して夢中で歩き回っていました。

中央に黒い門のように立つのはベルニーニ作(598~1680年)「パルダッキーノ(天蓋)」(1633年)で、その上には巨大なドームがあります。



主祭壇の後方にある黒い四本の柱で支えられた「パルダッキーノ(天蓋)」です。

「サン(聖)・ピエトロ(ペトロ)大聖堂は、キリストの一番の弟子「聖ペトロ」の墓の上に建てられたとされ、「パルダッキーノ」の地下には、まさに約二千年前に殉教した「ペトロ」の墓があります。

ブロンズ製の四本の柱には、らせん状に彫刻で飾られ、奇抜にも思えるモニュメントのようですが、神聖な場所を強く意識させられます。

これは、「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と称賛されたジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598~1680年)による1633年の作品です。



「パルダッキーノ」の前には柵で囲まれた地下の階があり、地下の主祭壇へ下りて行く階段もありました。

この地下の発掘調査では丁寧に埋葬された1世紀の遺骸や、石碑なども発掘されたそうで、「聖ペトロ」の墓の伝説が2000年の時を越えて伝わってきたことに驚かされます。

「サン・ピエトロ大聖堂」には多くの素晴らしい彫刻や、絵画などに翻弄されますが、ここが最も感動すべき場所のようです。



主祭壇の近くに「聖ペトロ像」がありました。

新約聖書によると「聖ペトロ」は、イスラエル北部の大きな湖「ガリラヤ湖」で弟の「聖アンデレ」と漁をしていた時、対岸に渡ろうとするイエスに声をかけられ、最初の弟子になったそうです。

又、「聖ペトロ」は、イエスから「天の国の鍵」を授けられたとされ、カトリック教会ではペトロを初代ローマ教皇としています。

それ以降約2000年間、現在の第265代ベネディクト16世までローマ教皇が続いていることにも改めて感心します。



主祭壇の上に四本の太い柱に支えられた巨大なドームが輝いていました。

太い柱に造られた壁龕には17世紀の作品、「聖アンデレ像」(ペトロの弟)、「聖ヴェロニカ像」(女性)、「聖ヘレナ像」(ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母)が見上げる高さに置かれていました。

平面図にあるように十字の形に造られた「サン・ピエトロ大聖堂」は、このドームの位置で交差し、上から降ってくる光が最も神聖な場所を演出しています。



身廊を進んだ主祭壇の最後部の後陣に「玉座の祭壇」があります。

祭壇の中央上部に明るく輝く楕円形の窓があり、その中心に聖霊の鳩が描かれています。

きらびやかな祭壇や、輝く丸い天井を大勢の人が見上げています。



「玉座の祭壇」には「聖ベトロ」が座って説教したと伝承のある象牙板で飾られた椅子が置かれています。

「聖ペテロの椅子」は、東方、西方の教会博士の巨大なブロンズ像(5.35m)に囲まれています。

前列は、西方の「聖アンプロシウス」(左側)、「聖アウグステイヌス」(右側)、後列は、東方の聖アタナシウス(左側)と聖ヨハンネス・クリュソストモス(右側)だそうです。

「聖ペテロの椅子」の調査によると、アカシアの木の骨組み部分は当初の物である可能性が高いとされているそうです。

墓の発掘調査や、椅子の調査結果は、架空の伝説のようにも思えた約2000年前の新約聖書の世界が現実の出来事だったことを強く感じます。

イタリアの歴史は、本当にすごい!

長かったイタリアの旅の最後に古代ローマ時代の世界を実感する見学が出来てとても満足でした。

多くの素敵な風景にも感動しましたが、やはりこの歴史の重みを感じる「サン・ピエトロ大聖堂」の見学は格別のものでした。


参考文献
「ヴァチカン・ガイド 美術館と市国」石鍋真澄監修
「地球の歩き方 南イタリアとマルタ」地球の歩き方編集室著

油絵「ばら」

2011年05月14日 | 妻の油絵
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】



妻の油絵「ばら」です。

最近は、年中色とりどりのバラの花が栽培されていますが、いよいよ本格的なバラの季節になりました。



昨日の夕方、散歩で訪れた「ばら公園」の風景です。

いよいよ今日から福山市の「ばら祭り」が始まりましたが、かろうじてバラの開花が間に合った感じです。

一週間前の開花状態は、ほとんどツボミでした。



毎年、道路側のフェンスに咲く赤いツルバラもだいぶ咲いていました。



バラのお店近くで毎年一番に満開となるバラです。

ばら祭りには散り始めることがよくありますが、今が見頃です。



美しい咲き始めの花です。

咲き始めた園内は、満開の時期に多くある萎れた花が少なく、すがすがしい風景でした。



道路の歩道沿いのフェンスに咲くツルバラです。

今日から二日間、よく晴れた天気になり、イベントも楽しくなりそうです。

イタリア旅行No.38 ヴァチカン市国「システィーナ礼拝堂」

2011年05月07日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】


11/15 イタリア旅行7日目、 ヴァチカン美術館の見学を終え、ミケランジェロの大作「最後の審判」「天井画」などのある「システィーナ礼拝堂」へ向いました。



「サン・ピエトロ広場」から見た「サン・ピエトロ大聖堂」です。

「サン・ピエトロ大聖堂」のすぐ右手の屋根(赤い星印)が「システィーナ礼拝堂」で、切妻の屋根の端に避雷針のようなものが見られます。

「システィーナ礼拝堂」は、シクストゥス4世(在位:1471~1484年)により1481年に作られた東西に長いシンプルな長方形の建物です。

又、「システィーナ礼拝堂」は、ローマ教皇を選出する選挙「コンクラーヴェ」が行われる場所でも有名です。

ここから見える新教皇の決定を知らせる白い煙には世界が注目します。



ヴァチカン市国の地図です。(向かって右が北)

赤丸印の場所が、「システィーナ礼拝堂」で、向って右の「ビーガの間」から「地図のギャラリー」まで続く長い廊下の展示室を歩いてやっとたどり着きました。



ヴァチカン市国で最初に見学した「ピーニャの中庭」で「システィーナ礼拝堂」の解説を聞いている風景です。

「システィーナ礼拝堂」の中では写真撮影や、ガイドが禁止されており、入国直後に案内される広い「ピーニャの中庭」にこのような解説場所が約10ヶ所設置されていました。

3枚の解説パネルの中央でサングラスをかけている女性は、現地ガイドさんです。



「ピーニャの中庭」にあった「システィーナ礼拝堂」解説パネルの一つで、三枚セットの中央にあるものです。

左上の写真は、西側から東側を見た礼拝堂の風景で、正面には「最後の審判」があります。

右上の写真は、礼拝堂の南北の壁面の様子で、上部にアーチのある窓、その下には初期ルネサンスの画家による「モーセ伝」(南壁)、「キリスト伝」(北壁)が描かれています。

このパネルにある12枚の絵は、「モーセ伝」が左列上から下、中央列の上から二番目まで6枚、「キリスト伝」が中央列三番目(キリストの洗礼)から右列下(最後の晩餐)まで6枚と、二人の生涯の有名な場面です。

実は、かつて「最後の審判」が描かれる前の東壁には「モーセ伝」、「キリスト伝」の一番目の絵「モーセの発見」「キリストの降誕」があったそうです。

■参考
【モーセ伝】南壁
(モーセの発見)(東壁にあった)
1.モーセの旅 ペルジーノ作
2.モーセの生涯の出来事 ボッティチェッリ作
3.紅海渡渉 ビアジオ・ディ・ダントーニオ作
4.十戒の石板の授受 コシモ・ロッセッリ作
5.コラー、ダタン、アビラムの天罰 ボッティチェッリ作
6.モーセの遺言 シニョレッリ作
7.モーセの遺体をめぐる論議(西壁面にあり) マッテオ・ダ・レッチェ作

【キリスト伝】北壁
(キリストの降誕)(東壁にあった)
1.キリストの洗礼 ペルジーノ作
2.キリストの誘惑 ボッティチェッリ作
3.最初の使徒たちのお召し ギルランダーイオ作
4.山上の垂訓 ロッセッリ作
5.天国の鍵の授与 ペルジーノ作
6.最後の晩餐 ロッセッリ作
7.復活(西壁面にあり)ヘンドリック・ファン・デン・グレック作 



「システィーナ礼拝堂」の西側から東側を見た風景です。(中央パネル左上)

正面の壁一面に「最後の審判」が描かれ、その下に祭壇があります。

部屋の大きさは、長さ40.23m、幅13.41m、高さ20.70mで、左右の壁にアーチのある窓がそれぞれ6ヶ所あります。

入場は、祭壇に向って右のドアから入りましたが、本来の出入り口は西側にあるドアだそうです。

この写真では窓が開放されて部屋が明るく見えますが、実際は薄暗い感じの部屋でした。

「システィーナ礼拝堂」の床一面には色大理石の美しい模様が見られます。

左右の壁には「モーセ伝」「キリスト伝」の絵が続いています。



南壁に描かれた絵の一例で、「モーセ伝」の「紅海渡渉」(ビアジオ・ディ・ダントーニオ作)です。

エジプト軍に追われたイスラエルの民は、モーセの祈りで紅海の海水が二つに分かれ、道が出来て紅海を渡った後、追って来たエジプト軍が元に戻った海水に溺れている劇的な場面です。



北壁に描かれた絵の一例で、「キリスト伝」の「最後の晩餐」(ロッセッリ作)です。

黒い服でテーブルの中央付近に座るのがキリストでしょうか、レオナルド・ダ・ヴィンチの構図とはだいぶ違っています。

上段には、「オリーブ山のキリスト」「キリストの逮捕」「礫刑」が措かれています。



「ピーニャの中庭」にある「システィーナ礼拝堂」解説パネル3枚の向かって右にある天井画(ミケランジェロ作)の写真です。

天井画は、ミケランジェロが40代の1508年から1512年の4年間で製作されたもので、中央に並ぶ9つの長方形の画には天地創造からノアの方舟など壁面のモーセ伝、キリスト伝以前の旧約聖書の世界が描かれているようです。



天井画の中央列、天地が創造された後の第4画面「アダムの創造」です。

ミケランジェロは、左手のアダムに生命が吹き込まれた場面を神が指先を伸ばした姿で表現しています。

右下の写真は、アダムの部分を例とした絵の修復状況を説明するものと思われます。

1982年~1994年、「日本テレビ放送網株式会社」の費用支援で天井画の本格的な修復工事が行われた時のものと思われます。

その左は、天井画の修復作業の様子と思われ、天井の下に階段状の足場が組まれていたようです。



「ピーニャの中庭」にある「システィーナ礼拝堂」解説パネル3枚の向かって左にある「最後の審判」(ミケランジェロ作)の写真です。

この壮大なフレスコ画が完成したのは1541年、ミケランジェロが66才になった時で、天井画を描いた約20年前と比べても衰えない驚くような力強さを感じます。

新約聖書の「ヨハネの黙示録」には世界の終末と、その直前に最後の審判があると予言されています。

様々な解釈があるようですが、世界の終末が近づく時、キリストが再臨し、過去の死者を含む全ての人が裁きを受けて永遠の命を授けられて天国へ行く者と、地獄へ落される者に分けられるようです。

その時、死者だった者は肉体が復活し甦るとされ、この絵の向って左下には復活して天使に導かれ天国に召される人の姿が見られます。



上段のパネルの下部左の二つの写真がある辺りの部分です。

向って左上に最後の裁きを行うキリスト、その左隣に聖母マリアが描かれています。

キリストの右下にはローマの守護聖人「聖バルトロマイ」が人間の皮を持ってキリストを見上げています。


生きたまま皮を剝されて殉教したとされる「聖バルトロマイ」の持つ人間の皮の顔は、ミケランジェロの自画像と言われているようです。

既に肉体が復活した「聖バルトロマイ」に持たせたミケランジェロの皮は、罪深く再生出来ない自分自身を表現したのでしょうか。



「最後の審判」の向かって右下隅に描かれているミノス像です。

ミノスは、ギリシア神話に登場するクレタ島の王で、冥界で死者を裁くとされています。

大蛇に巻きつかれ、股間に咬みつかれたミノスの顔は、製作中にこの絵を酷評した当時の教皇パウルス3世の式部長官「ビアジョ・ダ・チェゼナ」の顔に似せたと言われているようです。

祭壇の背景に約400人もの全裸が描かれた絵の異常さを指摘した常識的な「ビアジョ・ダ・チェゼナ」に理解出来ますが、負けず嫌いな天才「ミケランジェロ」が思い浮かんできます。

よく見ると、この忌わしいミノスの股間の下に「システィーナ礼拝堂」を見学する私たちが通るドアがありました。

ミケランジェロの恨みが、とんだトバッチリになっていたようです。


参考文献
「ヴァチカン・ガイド 美術館と市国」石鍋真澄監修
「地球の歩き方 南イタリアとマルタ」地球の歩き方編集室著

油絵「弓削島の風景」

2011年05月05日 | 妻の油絵


妻の油絵「弓削島[ゆげしま]の風景」です。

春の穏やかな海に船が行き交い、「弓削大橋」の向こうには白い採掘跡が印象的な「石灰山[せっかいやま]」がそびえています。

久しぶりに油絵で描く風景画ですが、うららかな瀬戸内海の雰囲気がでているようです。

「弓削島」は、瀬戸内海の西の「しまなみ海道」の途中「因島」から南東方向へ船で渡った愛媛県の島です。

「弓削島」から弓削大橋でつながった西隣の「佐島」の海岸から描いたそうで、海岸近くには弓削商船高専の練習船も浮かんでいます。

今年2月、「佐島」の西に長く工事中だった「生名橋」が完成、「生名島」「佐島」「弓削島」三つの離島がつながったニュースがありました。

中世、製塩で栄え、「塩の荘園」で知られる弓削島の歴史を学びに船で訪れるのもいいですね。