昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

南九州旅行No.15 志布志市 「津口番所跡」 江戸時代の海の玄関口

2012年07月29日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、鹿児島県志布志市「山宮神社」を参拝し、大クスを見物した後、志布志の市街地に入り、志布志港に近い「津口番所跡」を見学しました。



北の入口から見た「津口番所跡」の風景です。

志布志の市街地の東を流れる「前川」の西岸、河口に近い場所に「津口番所跡」がありました。

道路から一段高くなった敷地への入口は、緩やかな斜面の道で、右手の道路沿いは長い石材の石垣です。

案内板にもあるここの住所は、「志布志市志布志町志布志」で、同じような文字が連続する面白い地名です。

■入口横にあった案内板です。
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志布志市指定文化財 津口番所跡
 所在地 志布志町志布志3151番地
 指 定 昭和49年10月1日史第12号
 管理者 志布志市
 志布志市は、「志布志津」と呼ばれ、島津荘園時代の水門として古くから栄え、中世から近世初期にかけては海外との交易も盛んであり、九州東南部における倭寇の根拠地でもあったと云われている。江戸時代に入り海外交易は禁じられたが、千石船や五百石船による大阪表への藩米や物資の輸送など国内の交易で廻船業は繁栄し続けた。さらに藩政末期になると琉球や中国との密貿易の基地として"志布志千軒まち"と呼ばれるほどの活況を極め、明治初期まで数々の豪商を輩出している。
 藩政時代の志布志津は、前川河口部の湾口から宝満橋付近までを津として利用しており、番所の上流150mにあった船着き場付近には船奉行所や蔵屋敷が立ち並び、大阪表へ出荷する廻船や交易船の往来が多かったが、積み荷は全て津口番所で厳重な取り調べを受けていた。
 番所には槍鉄砲等の武具が備えられ、藩よりの番士に郷の番士が加番していた。遺跡は現在東側と南側に独特の石組を施した石垣が残っているだけで、変化の激しい河口部では、旧志布志の遺跡として唯一のものとなっている。
  志布志市教育委員会
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志布志港に近い「津口番所跡」付近の地図です。

「津口番所跡」は、「前川」の河口近くの西岸、国道220号の北に近い一画にありました。

「前川」の河口付近は、港湾施設の整備で埋め立てられ、かつて河口に浮かんでいた標高約32mの「権現島」も今では埋立地の小山となっています。

近世までの港の多くは、河口付近の波静かな汽水エリアに造られており、志布志港も典型的な昔の港です。

川を遡った志布志城跡付近までの前川の両岸には「志布志千軒まち」と称された賑わう町が広がり、山上の志布志城から一望できたものと思われます。



2m以上の高さに築かれた「津口番所跡」の川沿いの石垣です。

川を上り下りする船の監視のためか、石垣には見通しを良くする穴があけられています。

カーブした石垣は、ほぼ水平に積まれていますが、途中に乱雑に積まれたような場所が見えます。

洪水などで崩れ、補修された跡だったのでしょうか。



「津口番所跡」の敷地に入り、川沿いの石塀を内側から見た風景です。

足元に空いた塀の穴は、石垣の下をこっそり通る人を見つけることが出来るようです。

案内板に「藩政末期になると琉球や中国との密貿易の基地として"志布志千軒まち"と呼ばれるほどの活況を極め」とあります。

薩摩藩は、琉球王国から割譲された奄美大島などで黒砂糖を生産して国内で販売する他、支配下に置く琉球王国が明との朝貢貿易で入手した医薬品の多くを幕府が承認していない「抜け荷」として国内で売りさばいていたようです。

昨年の北海道旅行で、江戸時代に北海道の昆布が琉球へ流通し、そこから更に中国まで渡る「昆布ロード」の存在を知りました。

昆布がよく食べられる地方として富山・沖縄があげられます。

「近世日本海海運史の研究」(深井甚三著)によると、薩摩藩は蝦夷地の廻船問屋にパイプを持つ富山の売薬商と組み、中国で珍重される蝦夷地の昆布を入手して琉球から中国への献上品とし、下賜される漢方薬を入手していたとし、それに由来していたのでしようか。

薩摩藩内で薬の販売許可を希望し、薬(漢方)の原料を必要とする富山の売薬商と組んだ巧妙な抜け荷ルートが浮かび上がったようです。

1838年(天保9)11月23日に発生した売薬商「能登屋兵右衛門」の北前船が漂流し、米国捕鯨船に救助された「長者丸漂流事件」は、函館から薩摩へ向かう太平洋回りの房総沖で発生した難破でした。(蕃談 漂流の記録1東洋文庫より)

荒波で危険な冬の日本海を避けた航行だったのでしようか、順調な航海であれば「長者丸」は、この「志布志港」へ入港していたのかも知れません。



「津口番所跡」の敷地の少し奥に崩れた石材が積まれていました。

かつての施設に使われていたものと思われますが、施設の再現図が欲しいところです。



近世の主な港を印した地図です。

案内板によると「中世から近世初期にかけては海外との交易も盛んであり、九州東南部における倭寇の根拠地でもあった」とあります。

倭寇の活動エリアを見ると、沖縄から更に南の中国南部から朝鮮半島までの広大なエリアに及んでおり、九州北西部の松浦党などの勢力だけでなく、ここを根拠地とする倭寇がいても不思議ではないと思われます。

14世紀に始まる中国・朝鮮半島沿岸を略奪した倭寇の活動や、16世紀に渡来したポルトガル・イスパニアとの南蛮貿易などでの接触で、日本の航海術や、造船技術は、次第に発展したものと思われます。

従来、大陸・半島との交易ルートは、都から瀬戸内海・博多を経由する安全な航路が主体でしたが、戦国時代に急速に発展した商業都市「堺」を考えると高知沖を経由して南九州に至る南蛮貿易の最短航路が浮かび、そこに有力大名島津氏の支配する志布志港が見えてきます。

室町幕府の末期、明との勘合貿易権益を争う大内氏(山口から博多を支配)と、細川氏(大阪から四国南部を支配)が明の貿易港「寧波[にんぽー・ねいは]」(上海の南)で衝突した事件「寧波の乱」では瀬戸内海を制圧された細川氏が島津氏や、堺商人と組んで高知沖から南九州を経由する航路を開いたとされています。

又、案内板には「江戸時代に入り海外交易は禁じられたが、千石船や五百石船による大阪表への藩米や物資の輸送など国内の交易で廻船業は繁栄し続けた」とあります。

薩摩藩の米や物資を「天下の台所」と称された大阪へ運ぶにも東回りの航路が想定され、薩摩藩の南東海岸にあり、都城周辺から志布志一帯にかけての集荷港でもある志布志港の重要性が伝わってきます。



「津口番所跡」から「前川」の河口方向を見た風景です。

国道220号が通る「権現橋」と、その向こうには河口の港を守るように浮かんでいた「権現島」が見えます。

この「前川」の河口から3~4Km西の「安楽川」河口までの海岸に広がる志布志港は、「東京・志布志・名瀬・那覇」「大阪・志布志」の長距離フェリーの港で知られ、南九州の海の玄関口となっています。

又、志布志港は、「国際バルク戦略港湾」に指定され、主に南九州向けの輸入飼料だそうで、鹿児島の黒豚や、宮崎牛などの餌の多くはここから供給されているようです。

訪れる前は、さびれた僻地の町をイメージしていましたが、古代からの歴史と共に、現代でも立地を生かした重要な機能を担う町であることを知りました。

南九州旅行No.14 志布志市「山宮神社」の大楠と、天智天皇巡幸伝説の謎

2012年07月23日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、鹿児島県曽於市大隅町「道の駅 おおすみ弥五郎伝説の里」の巨大な「弥五郎どん」を見物した後、大隅半島の東、志布志[しぶし]市の「山宮[やまみや]神社」へ行きました。

「山宮神社」は、天智天皇と、その皇妃、皇子、皇女などを祭神とし、境内の大楠にも天智天皇お手植えの伝説が伝わる実に興味深い神社です。



「山宮神社」前の広場から見た風景です。

大きなクスノキの左手にも中国原産「広葉杉」と案内された針葉樹の大木がそびえており、神社の長い歴史を演出しているようです。

鳥居脇の木道を歩き、「志布志の大クス」に近づくと、巨大さへの驚きと共に、なぜかなつかしい感情が込み上げてきたのを思い出します。

「環境省全国巨樹・巨木林データベース」によると、日本の巨樹第1位は、鹿児島県姶良市蒲生町の「蒲生の大クス」<目通り24.22m>で、「志布志の大クス」<目通り17.1m>は第14位とされています。

「蒲生の大クス」は、2006年秋の鹿児島旅行で訪れ、このブログにも掲載しましたが、その圧倒的な大さは今でも忘れられません。

■「志布志の大クス」の前にあった案内板です。
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国指定天然記念物
志布志の大クス
天然記念物指定 昭和十六年十一月十三日
 この大クスは天智天皇の御手植と伝えられており、我が国の大クスの中でも樹形正しく樹勢盛んなことで知られ日本一と称されています。
樹 令 約一、三〇〇年
樹 高 二三・六メートル
絶後り 三二・二五メートル
目通り 一七・一メートル
樹上植物 一八科二四種

ふるき葉をふるいおとしてもえさかる
 楠の大樹をうちあおぐかな  暁鳥敏

いく年も雨や嵐にもまれけむ
雄々しくもあるか千枝の大楠 水取川猪肋

  志布志町教育委員会
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■写真の向かって左手の大木、「広葉杉」の案内板です。
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樹名  広葉杉(杉科)
樹齢  三百年(推定)
樹高  223m 目通り 3.26m 根回り4.5m
原産地 中国中部(広東省)他南部地方
由来  江戸時代庭園樹として移入され主に南九州の有名神社などに植樹された。
特性  材名は淡泊色で白蟻などの虫害に強い
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山宮神社の鳥居前から見た風景です。

左手の手水舎から鳥居へ進み、赤い柱の神門をくぐると、その先に赤い柱の拝殿が見えてきます。

大クスの周囲や、鳥居から神門の先までの参道には木道が整備され、大切な大クスの根が保護されているようです。



鳥居の横、東側から見た「志布志の大クス」です。

太い支柱が幹を支え、切断された枝の切り口が二ヶ所見えるものの、全体としては強い勢いのある姿です。

境内入口の案内板によると、和銅2年(709年)創建の山宮神社の大クスに天智天皇(626~672年)御手植の伝説が残っていると書かれています。

九州南端に近いこの地に天智天皇が行幸され、崩御から37年後の創建とされる山宮神社の場所になぜお手植えの楠の木があるのか余りに理解できない伝説にとまどいます。

20歳頃、蘇我本宗家を滅ぼす乙巳の変(622年)を主導した後も、常に政権の中枢にあり、大化の改新、白村江の戦い、大津京への遷都など激動の時代を生きた天智天皇の46年間の人生にここ志布志で過ごした一コマが本当にあったのでしょうか。

■境内入口付近に「志布志の大クス」の詳細な案内板がありました。
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国指定天然記念物 志布志の大クス
指定日 昭和16年ll月13日
所在地 志布志町安楽1519番地2
管理者 山宮神社
 山宮神社境内にそびえるこの大クスは、樹齢が古いこと、樹姿が正しいこと、樹勢が旺盛であることにより、植物学上の貴重な標本として、昭和16年に天然記念物として国の文化財指定を受けています。
 山宮神社は和銅2年(709年)の創建と伝えられ、祭神は天智天皇を含む六神であり、この大クスも天智天皇の御手植との伝説を残しています。又、明治26年に境内南側にあった対の大クスが枯死した時、その根元より中世の墳墓と思われる造物が出土していることは、この巨木の年齢推定にも参考になる事と考えられます。
 幹形は、不整で凹凸が多く、根は浮き上がった様に見えます。幹内部は大きな空洞で大人が10人以上入れる広さとなっています。
 大クスは永年にわたり台風等の被害を受けてきました。特に昭和24年のデラ台風襲来の際は、西に伸びた大枝が折れる損傷を受け、大きく開いた穴を軽量コンクリートで塞ぐ処置が施されました。しかし、後に、この部分から下方が樹根まで枯死してしまい、主幹も傾いたようです。さらに、この傾斜を防ぐため支柱の設置も行われましたが、歳月と共に軽量コンクリートの断裂や、樹皮の支柱への食い込み等も見られ、また腐朽箇所周囲の回復も進展が見られませんでした。
 志布志町では、平成11年に樹木医の診断を受けましたが、その結果、樹勢回復に悪影響となる様々な問題が明らかになりました。
 このため、町では、文化庁の指導の下に、植物学者・樹木医・神社や地元の代表者等で構成された「志布志の大クス保護対策検討委員会」を設置し、平成14年度から3年間、国・県の補助を受けて、大クスの保護増殖事業並びに保存修理事業を実施しました。この事業では、樹木治療だけではなく、周辺の土壌改良・参拝者による踏庄の防止対策・排水対策等の工事も行いました。
 今、地元の安楽小学校では、児童の手によってこの巨木の実生苗が育てられており、子供達と共に成長しています。約1000年にわたって、地域を見守り続けたこの巨木が、地域の宝として、いつまでも大切に保護されていくことを祈りたいものです。

 推定樹齢 800~1300年  斡周り 17.1m
 樹  高 23.6m     根廻り 32.3m

  平成17年2月
  志布志市教育委員会
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神門をくぐり、社殿を背に西側から見た大クスです。

上段の案内板に「幹内部は大きな空洞で大人が10人以上入れる広さ」とあり、根元の中央付近と、向かって左手にも大きな穴が見られ、根の中央が洞窟のようになっているようです。

又、幹のやや左手に樹皮が無く、表面が黒くなっているのは、案内板にある「昭和24年のデラ台風襲来の際は、西に伸びた大枝が折れる損傷を受け、大きく開いた穴」の部分と思われます。

台風の多い南九州で、南の海岸から2~3Kmの場所にそびえる「志布志の大クス」は、山に囲まれた「蒲生の大クス」以上に、台風の猛威による様々な傷跡が刻み込まれていました。



神門の南側に明治26年に枯れてしまったとされる大クスの跡がありました。

かつては、大クスが鳥居の両脇にそびえていたようです。

上段の案内板に明治26年に枯死したこの大クスの根元から「中世の墳墓と思われる造物が出土」とあり、天智天皇お手植え伝説の信憑性は少しあやしくなってきました。。

■案内板に枯れた大クス跡と、「玉上げ祭」の様子が案内されていました。
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 この霊域は、往古の昔より、天智天皇に由緒ある御神木と崇められし大クスが生息していたが、明治二六年に枯死した、其の跡地なり。
 大昔より.毎年「旧暦時代は五月九日午の日」、現在は二月の第二土曜と第二日曜日の両日に当山宮神社と安楽神山社に於いて、春の太祭が行なられている。当社の祭りが前日で、翌日御輿が安楽神社に御下向のまえ、この霊域に向いタマゲマツリ(玉上げ祭)か行なわれる。
 祭式はまず神殿にて、神官が御幣を持ち「花花袖の花」と唱え、左右交互に三回舞う、楽所(楽役の神官も同時に舞いながらあとの句「幾世の花もつもりあるらん」と唱える。そして、神官は盆に盛った白餅を捧げ楽所は太鼓の撥を捧げる。
次に、ここの霊域で同様の舞をする。神官玉玉袖の玉」と唱え、楽所は後の句「幾世の玉もつもりあるらん」と唱える。
 最後に神官は右記の白餅に「霊餅は霊餅」と唱え、集える付近の童たちに与えてタマゲマツリ(玉上げ祭)が終わる。
 それより御輿が猿田彦神の先導で行列を従え安楽神社に御下向される。
 (尚この霊域の委細等は当神社社務所でお聞き下さい)
   山宮神社
   志布志文化財愛護会
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「山宮神社」社殿正面の風景で、建物正面の左右に案内板が見えます。

案内板では「山宮神社」の祭神は、天智天皇とその親族6柱で、創建された時期は、天智天皇の第4皇女である「元明天皇(661~721年)」が即位した翌年の和銅二年(709)のことだったようです。

天智天皇が崩御され、第1皇子の「大友皇子」が天智天皇の弟「大海人皇子(天武天皇)」により大津京で滅ぼされた「壬申の乱」以来、天智天皇・大友皇子に関係した人々を追悼し、祀ることが許された最初の頃の出来事だったのかも知れません。

天武天皇崩御の後、天皇となったのはその皇后「持統天皇」(天智天皇の第2皇女(鸕野讃良皇女)・元明天皇の異母姉)で、「元明天皇」は、天武・持統の皇子「草壁皇子(662~689年)」の正妃となったようです。

持統天皇の即位は、息子の草壁皇子が早世し、孫の成長までの在位でしたが、やっと孫の文武天皇(草壁皇子・元明天皇の皇子)に譲位したものの、その文武天皇も若くして崩御、その母「元明天皇」が即位した時期が「山宮神社」の創建でした。

「元明天皇」は、もはや天武天皇・持統天皇にはばかることなく父「天智天皇」や、壬申の乱で滅ぼされた兄「大友皇子」をはじめとする人々の追悼と、祭祀が可能となった時期だったのかもしれません。

又、「元明天皇」は、夫「草壁皇子」や、息子「文武天皇」の早世から、死後を懸念して崩御した父「天智天皇」や、大津京で滅ぼされた皇后「倭姫」、皇太子「大友皇子」の慰霊には異論の無い時期でもあったのかも知れません。

■向かって左の案内板に書かれていた「神社の御祭神」です。()内は補足です。
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山宮神社祭神
天智天皇 (626~672年、在位668~672年)
大友皇子 (648~672年、天智天皇の皇子)
持統天皇 (645~703年、在位690~697年 天智天皇の皇女=天武天皇の皇后 )
倭 姫  (天智天皇の皇后)
玉依姫  (天智天皇の妃、薩摩国頴娃[えい]の豪族の娘)
乙 姫  (天智天皇の皇女(生母 玉依姫)
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■向かって右の案内板には「御由緒」が書かれていました。
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山宮神社御由緒
 当神社の創建は元明天皇の和銅二年と伝えられ、大同二年(八〇七)山口大明神・若宮神社・鎮母神社・安楽神社・蒲葵御前社を合祀し山口六社大明神として現在地に祀られた。安和元年(九六八)神領五百首町歩、最盛時には御祭百二十四度と記録にありその後新納・肝付・島津氏等の武将により社領の寄進、社殿の造営修理が行われ、藩政時代には、その規模の大きさは当国随一と称された。明治にいたり郷社山宮神社となり、当地方の宗廟として郷民の強い崇敬を受けている。
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■境内入口付近にあった案内板に「山宮神社の概要」が書かれていました。
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山宮神社 所在地 志布志町安楽1519-2
管理者 山宮神社
山宮神社の概要
社伝によると和銅2年(709)の創建と伝えられ、大同2年(807)6月に6社(田之浦山宮神社=天智天皇・山口社<安楽山宮神社>=大友皇子・鎮母神社=倭姫・安楽神社=玉依姫・若宮神社=持統天皇・批椰神社=乙姫)を合祀して山口大社大明神と称していた。明治維新後、山宮神社と改められた。祭神は上記六座で、神鏡が御神体である。
 奉納された多数の懸け仏から、鎌倉時代にはすでにこの地方の尊崇を集めていたようで、このことは明治時代枯死した入口左側にあったもう一つの大楠の根元から出土した古墳の副葬品に中国宋代の蔵骨品等があることからも判る。さらに藩制時代には志布志郷の宗廟として郷民の氏神信仰の中心となった。
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鹿児島県志布志市志布志町安楽の「山宮神社」と、関係すると思われる場所を印した地図です。

案内板では、「山宮神社」創建から約百年後の大同2年(807)、「田之浦山宮神社」や、天智天皇にちなむ他の五社もこの地に遷宮され、合祀されたとあり、神社・祭神を整理してみました。

・田之浦山宮神社=天智天皇
・山口社<安楽山宮神社>=大友皇子
・鎮母神社=倭姫(地図では該当場所がありませんでした)
・安楽神社=玉依姫
・若宮神社=持統天皇
・批椰神社(蒲葵御前社)=乙姫

しかし、慰霊とも考えられる天智天皇・倭姫・大友皇子はともかくとして、持統天皇までがなぜこの地に祀られているのでしょうか。

ここが終焉の地ならまだしも三人は大津京で崩御されており、しかも持統天皇がこの地に祀られる特別な理由があるとは思われません。

ふと、江戸幕府に気を使った各地の大名が家康を祀る東照宮を創建したことが浮かんできました。

この地の有力豪族が、同じような発想で一連の神社を創建したとすれば、何とか理解できそうです。



「山宮神社」の北東に「御在所岳」があり、天智天皇が登られて「開聞岳」を望まれたとされる伝説があり、地形図に印してみました。

「日本の神々 神社と聖地」(谷川健一編・白水社発行)に天智天皇巡幸伝説の記述では、「薩摩の頴娃[えい]開聞の地に行幸の途中、安楽の浜に着き御在所岳に登って開聞岳を望まれた」とあります。

しかも、「御在所岳」に天智天皇を祀ったとし、その麓にある「田之浦山宮神社」にはその後に遷宮されていたものと推察されます。

又、「天智帝の妃倭姫を祭神とする鎮母神社があり、これが現在の安楽神社である」とし、不明だった「鎮母神社」の場所は、安楽神社の地で、「玉依姫」と同じ場所に祀られていたようです。

地形図に赤い破線で結んだ「御在所岳」と、「開聞岳」の間の地形を調べてみましたが、高い山もなく、「御在所岳」から直線で約70Kmの「開聞岳」は好天ならハッキリと望めるものと思われます。

ちなみに広島県福山市の我が家から約100Km離れた徳島県の「剣山」の稜線がハッキリと見える日があります。

■日本の神々 神社と聖地1より「山宮神社・安楽神社」の一節です
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天智帝巡幸伝説によれば、天皇は薩摩の頴娃[えい]開聞の地に行幸の途中、安楽の浜に着き御在所岳に登って開聞岳を望まれたといい、この御在所岳の山上に山宮をたてて帝を祀った。
また周辺に帝ゆかりの神を祀る神社があったので、それらを集めて大同二年(八〇七)に安楽の地に山口六社大明神を建てたという。それが山宮神社で、祭神はしたがって六座、天智天皇・倭姫・玉依姫・大友皇子・持統天皇・乙姫である。
この山口六社の一つに天智帝の妃倭姫を祭神とする鎮母神社があり、これが現在の安楽神社である。
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拝殿前の風景です。

参道の両側の石像は、一般的に神門の左右に安置される随身像と思われ、拝殿前に向かい合って坐る随身像を見るのは初めてです。

向かって左が阿形[あぎょう]、左が口を閉じた吽形[うんぎょう]ですが、一般的とは逆に置かれています。

何となく南国のおおらかな土地柄を感じられます。



社殿を左(南)から見た風景です。

右手に拝殿、左手に一段高い本殿、その間に白い幣殿があります。

天智天皇が、ここ志布志に立ち寄り、薩摩の頴娃開聞の地に行幸された経緯が気になり調べていると「鹿児島県神社庁」の志布志市の23ページに「鎮母神社」を除く5社の記述があり、次第に謎が解けてきました。

鹿児島県神社庁の「安楽神社」のページによると御祭神は、倭姫、玉依姫の2柱で、「天智天皇の大后倭姫が大津の宮で崩御された後、天皇大后に供奉した臣等が、和銅年間此所に姫の霊を勧請して霊社を創建した」とあり、大后倭姫に供奉した臣等が「元明天皇」の世になり創建したことがうかがわれます。

又、同ページには「天皇が頴娃へ御滞留中、二の后玉依姫は妊娠され、翌年当所にて女子が御降誕、乙姫と名付けられた。玉依姫は故郷の頴娃へ帰られたが、姫の崩御の後、和銅年間此所に霊社を建立した」とあり、開聞岳の麓「頴娃[えい]」の地は、妃とされた「玉依姫」の住む地でした。

「批椰神社」のページには二人の間に生まれた「乙姫」が安楽の地に取り残され、悲しさの余り海中に身を投じられ、志布志湾に浮かぶ枇榔[びろう]島に祀られた悲しい物語がありました。

「安楽神社」の地は、「天智天皇」が滞在され、「玉依姫」が「乙姫」を産み、皇后「倭姫」を祀る「鎮母神社」を創建した場所と分りました。



本殿の横にしめ縄で囲まれた不思議な場所がありました。

長い歴史のある「 山宮神社」には宝物や、興味深いお祭りが残されているようで、この施設もお祭りに関係するものと思われます。

鹿児島県神社庁「田之浦山宮神社」のページには天智天皇が志布志から「侍女玉依姫を尋ねて開聞へ発たれた」とあり、行幸の目的は、玉依姫に会うためとされています。

天皇の権威があれば玉依姫を都に呼ぶことが出来、唐・新羅との緊張関係が続いていた時代、半年近くを女性目的の行幸に費やすとは考えづらいことです。

「白村江の戦い」の敗戦後、大宰府を防衛するため大きな水城を造営し、都までの西日本各地に山城や、烽[とぶひ](狼煙台)が造られたとされる時代に、南九州の防衛も重要な課題だった可能性があります。

開聞岳の頂上から海上を監視し、発見した異常を大宰府や、都に知らせる狼煙が「御在所岳」で中継される防衛体制と考えたとしたら天皇の行幸の可能性も現実味を帯びてくるのかも知れません。

天智天皇が薩摩国頴娃への往復で「御在所岳」へ登られ、頂上へ宮の造営を指示されたとする伝承もこの仮説なら説明できるように思われます。

■境内入口付近にあった案内板です。
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国指定重要文化財 銅鏡唐草鴛鴦文様一面                [大正7年4月8日 指定]
 日本の鋳鏡は三世紀~四世紀頃から、中国渡来の鏡を模した彷製鏡が造られており、奈良時代になると唐鏡の優れた作品にも劣らないものを模造するようになっている。しかし平安時代になり唐との交流が中断してしまうと、次第に優雅な純日本風の図柄を示すょうになり、やがて鎌倉時代にかけて草花に飛鳥を配した絵画的な作品を残し、我が国の鋳鏡技術の頂点を極めるのである。
 国の重要文化財に指定されているこの銅鏡は、平安末期(1100年頃)藤原時代の作品と想定され直径24.4cmの中型で、和鏡の頂点を示す作品と見られているものである。外区に雲形と花を描き内区に唐草群と二羽の鴛鴦を配した文様は極細彫りで、日本的な簡潔さの中に優麗典雅な趣を持った名品である。
 また山宮神社にはこの他にも、平安時代から江戸時代にかけての和鏡21面、中国の唐・宋・元・明代の鏡18面、朝鮮鏡4面、懸鏡(神仏習合により御正体として、鏡の表面に神像や仏像を線刻したり半肉彫りの鋳造を取りつけ、社寺に奉納、礼拝した)43面が宝蔵されている。

県指定無形文化財 山宮神社春祭りに伴う芸能(カギヒキ、正月踊)
管理者・安楽正月踊保存会 [昭和37年10月24日 指定]
 山宮神社の春祭りは2月17日に行われ、翌2月18日御神輿が安楽神社に下り打植祭が行われ、これが終わると山宮神社に御神輿は帰るという一連の行事である。
これは、その年の豊作を祈願する祈念祭であり、社人によって伝承されでいる神舞と共に、極めて古い起源を持つ民俗行事である。
 山宮神社の春祭りの主な行事は次の通りである。稲に似せた竹串を境内に植える「御田植行事」、神官が大楠の周りを回りながらハナとタマを供える「玉上祭(タマゲマツリ)」」田之浦山宮神社の御神霊を迎える「浜下り」等がある。
 安楽神社では、境内を田に見立てて木鍬で耕す「田打」、牛面を被ってモガを引く「牛使い」、豊穣を祈って種籾を蒔く「種蒔」、田の清浄と害虫駆除を表し豊作豊漁を賭けてカシ木のカギ枝を引き合う「カギヒキ」、拝殿の中で神職がモロムギの穂を特って舞う「田植舞」、田之神夫婦と豊凶についての滑稽問答を交わす「田ノ神の参拝」、「手拍子(正月踊り)」等がある。

【正月踊り】<出端・お市従家女・一つとの・帖佐節・爺さん節・塩屋判官・坊様節・五尺・安久節>
 古くはこの春祭りに、近郷近在から踊りを奉納に来ていたが、明治以降地元の青年によって受け継がれている。正月踊りは現在9つの踊りが残されているが、本来は、各地の夏祭(水神祭集)で踊られる風流系の踊りであった。
踊り服装は、下に股引きを着け、上からは黒の紋付き、博多帯を締め、頭は黒の御高祖頭巾で、三角の白布を後ろから前に結ぶ。水色の手甲に黒の脚絆、黒足袋、カップリ、左腰に手拭、右腰こサルノコ人形をぷら下ける珍しい服装である。
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神門や、「蒲生の大クス」を南から見た風景です。

気持ちよく掃除された境内を散策していると、南国のゆったりした時間が漂ってくるようで、もう一度訪れてみたい、親しみを感じる神社でした。

「天智天皇巡幸伝説」の謎は、少し解けてきましたが、この「大クス」に天智天皇お手植えか否かの謎も残っていました。

「鹿児島県神社庁」の安楽神社のページに「ここに仮殿を営み置かれ」とあり、天智天皇が滞在されたのは「安楽神社」の地で、やはり「山宮神社」での可能性は見当たりません。

又、枯死した大クスの根元から出土した中世の墳墓と思われる造物と合わせて、中世に植えられたクスの木と思われます。

もう一つ、志布志の地形図で、「御在所岳(標高530m)」の北数キロ、国道222号が大きく南にカーブした場所に「安楽川」と「大淀川」が約500mまで接近する珍しい場所があります。

「安楽川」は、南の志布志湾に注ぎ、「大淀川」は、都城を経由して宮崎市で太平洋に注いでいますが、狼煙では次の伝達先へ伝えられない場合に川の流れを利用して早く伝達する方法があったとしたら「御在所岳」の立地評価はもっと高くなると考えられます。

「御在所岳」の北約10Kmの国道222号沿いに、「御所谷」の地名が見え、気になるところです。

南九州旅行No.13 「大隅弥五郎伝説の里」で知った弥五郎どん祭りの歴史

2012年07月15日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、鹿児島県曽於市大隅町「岩川八幡神社」を参拝の次は、国道269号を挟んだ「道の駅 おおすみ弥五郎伝説の里」へ行きました。

ここには前回掲載の「岩川八幡神社」で行われる「弥五郎どん祭り」をアピールする施設が整備され、積極的な情報発信が行われていました。



「大隅弥五郎伝説の里」の丘にそびえる高さ15mの堂々たる「弥五郎銅像」です。

前回掲載の「岩川八幡神社」の案内板では、高さ4.85mとあり、「弥五郎どん」人形の風貌にも見えず、レプリカでもないようです。

「弥五郎どん」と知らずに見る人は、威厳のある清朝時代の中国人の銅像に見えるかも知れません。



「道の駅 おおすみ弥五郎伝説の里」の案内図と、リーフレットに掲載されていた全景写真です。

訪れたのは開店間もない9:30頃でしたが、手前に見える「物産館」は盛況でした。

とりあえず、丘の上の「弥五郎銅像」と、白い帽子をかぶったような建物の「弥五郎まつり館」の見物に向いました。

「弥五郎まつり館」の左隣は、浴場や、岩風呂など「弥五郎の湯」がある「健康ふれあい館」で、広いクラウンドもあり、道の駅としてはとりわけ巨大な施設でした。

■「大隅弥五郎伝説の里」のパンフレットの説明文です。
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大隅弥五郎伝説の里
 大隅弥五郎伝説の里は、旧大隅町が平成3年から7年までに総工費29億円をかけて、健康増進と伝統文化の継承を目的として整備した複合施設(多目的公園)です。
 公園のシンボルは、高さ15メートル、重さ約39トンの弥五郎銅像で、約20ヘクタールの園内とまち全体を見守っています。
 約1,200本のソメイヨシノが公園全体をさくら色に染め上げるころには、県内外からたくさんの方々が訪れ、誰もが集える憩いの場として喜ばれています。
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「弥五郎銅像」の前にはスペインのマタデペラ[Matadepera=バルセロナから北へ約50Km]で開催された巨人博へ弥五郎どんを出展した記念碑が建てられています。

写真上のSpanish Commemorative Monument(スペイン記念碑)と刻まれた黒い石碑の右横に、写真下の「碑文」が並べて建てられていました。

碑文には、多くの人々から多額の支援を受けて出展を果たした感謝の気持ちと、弥五郎どん祭りを世界に伝えたすばらしい歴史が刻まれています。

■記念碑の碑文です。
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弥五郎どんスペイン遠征
(史実)
 弥五郎どんは1992年7月、スペインのマタデペラで行われた「AMICS DELS GEGANTS(巨人博)」に出展を果たした。 しかし、商工会青年部がこの事業を実現するにあたって、資金の目処がつかず、一時断念をせざる得なかった。だが、地元メディアに取り上げられた事により、県内外からの多数の人々に多額の支援金を受け、出展することができた。この記念碑は、その県内外多数の人々からいただいた浄財を財源とし、皆さんの「心」を「形」として、また、郷土の誇りである弥五郎どんが海を渡った事実を広く後世に伝えるために、ここ「弥五郎伝説の里」に建立するものである。
 1996年(平成8年)11月吉日
 大隅町商工会青年部
 大理石施工 西村石材店
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大きな弥五郎どんのレプリカが展示された「弥五郎まつり館」の風景です。

見上げる「弥五郎どん」の上に柔らかい自然光がふりそそぐドームの天井がそびえ、迫力のある展示でした。

瓦屋根から白い帽子のように突き出た屋根の下が大きなドームの天井になっているとは想像できませんでした。

■「弥五郎まつり館」で頂いたパンフレットの説明文の一節です。
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現在の弥五井どん
 弥五郎どんは,曽於市のシンボルとして欠かすことの出来ない存在です。弥五郎伝説の里(道の駅)敷地内の高さ15mの巨大な弥五郎どん銅像のほか,街中の至る所に弥五郎どんの姿があります。あちこちの看板や.橋の欄干,信号機などなど。
 銅像の前には「弥五郎まつり館」があり,弥五郎どんの説明を聞いたり,11月3日の祭りの最適慮韻が出来ます。
 また,弥五郎どんは全国各地へ出張して曽於市を宣伝しています。昭和45年には大阪万博へ参加しました。最近では大阪御堂筋パレードや北海道旭川等に参加し,スペインはパルセロナの巨人博にも参加しています。このように弥五郎どんは、国内はもちろん世界に向けて情報発信を行っています。
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二階の展望フロアーへ上がる通路の壁に「昭和の弥五郎どん 提供者:野口久夫氏」と案内された昔の写真がたくさんの展示されており、その中の写真を撮らせて頂きました。

昭和8年と書かれたこの写真にも現在とほぼ同じスタイルの弥五郎どんが写っていますが、縦に持った槍が、両手の袖に隠れていない点が現在と違っているようです。

後方の神社拝殿と思われる切妻造りの建物正面に二つの妻が並び、現在の「岩川八幡神社」の拝殿「入母屋造り・平入り」とは違っていたようです。

ここ数十年前の昭和時代からでも小さな変化が見られ、古代の隼人の乱の鎮圧に起源があるとされる「弥五郎どん祭り」の昔の姿からはもっと大きな変化があったものと思われます。

■「弥五郎まつり館」で頂いたパンフレットの説明文の一節です。
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大正~昭和初期の弥五郎どん
 弥五郎どん祭りはいつ頃から行われていたのでしょう。昔から行われていたのは確かですが,はっきりとしたことは分かりません。右の写真は、弥五郎どんが写っている写真としては一番古い大正13(1924)年のものです。太平洋戦争終戦時も祭りは実施しました。終戦後,米軍の政策により、腰に刀を差していない時(昭和21~24年)もありました。
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二階の展望フロアーから見た「弥五郎どん」です。

頭部の前に鳥の頭、後に尾と思われる羽の飾りがあり、どことなく古代の雰囲気を感じさせられます。

しかし、二本差しの刀や、着物には江戸時代を感じ、全体的には古代から近世までの地層の断面を見るような不思議な雰囲気です。

足元に置かれたワラジを見ると、腰から足元までの長さはあり、いくらなんでも大き過ぎるようですが、そばで見上げる弥五郎どんと見比べると意外に違和感がありませんでした。

■「弥五郎まつり館」で頂いたパンフレットの説明文の一節です。
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弥五郎どんとは何者か
 弥五郎どんは大きな巨人です。しかし,何者なのかは様々な説がありはっきりしません。一般的には.朝廷に抵抗した隼人族の首領とも.朝廷側の武内宿禰祢とも言われています。
 武内宿禰は.仲哀天皇・神宮皇后丁応神天皇とともに岩川八幡神社の祭神の一人です。当神社では.この3人の天皇に仕えた武内宿禰が先年を務めているとの説を採っています。
 他方.養老4(720)年の隼人の抗戦の時.大隅国守陽侯史麿[やこのふひとまろ]が殺害されますが、この時の隼人族の首領が大人弥五郎と呼び伝えられております。
 弥五郎どんは.伝説と史実が混交[こんこう]しており、時代や人により、各様に説明されていると言えるでしょう。
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「岩川八幡神社」の弥五郎どんと、他地域の弥五郎どん2体が並んだ写真が展示され、「長男が山之口、次男が大隅、三男が飫肥の弥五郎と言われています」と紹介されていました。

パネルの説明文によると、向かって左が日南市妖肥の「田ノ上八幡神社の稲積弥五郎さん」で、「身の丈約7m、幅4mもある巨大な人形なので、現在は引くことができず、小型の弥五郎が巡行しています」とあります。

又、向かって右は、三兄弟の長男とされる都城市山之口町「的野正八幡神社」(明治4年から平成14年まで「圓野神社」)の「弥五郎どん」で、説明文によると「お酒と賭け事が好きで、身代をつぶしたので、ボロ着姿で登場します」と書かれていました。

同じ弥五郎でも地域が少し離れただけで、言い伝えがかなり違っているようです。

■「弥五郎まつり館」で頂いたパンフレットの説明文の一節です。
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他地域の弥五郎どん
 岩川の他にも弥五郎どんがいます。それは,都城市山之口町にある的野[まとの]神社の弥五郎どんと、日南市飫肥にある田ノ上八幡神社の弥五郎どんです。的野神社の弥五郎どんは、身長4m・顔は赤く.黒髭をたくわえ,麻布の着物に大小の刀を差し,頭に鉾を付けています。祭りは・岩川と同じで毎年11月3日に行われています。田ノ上八幡神社の弥五郎どんは,稲積弥五郎とも呼ばれ,身長7m.山伏のような姿をしています。巨大であるために,現在は引くことは出来ません。毎年11見23月の御神幸の際にその姿を現します。また、他に湧水町の勝栗[かちぐり]神社には弥五郎面があり、面の裏には大和朝廷に関する墨書があります。その他日置市に大王[デオ]ドンというのがありますが.これも弥五郎どんと同系ではないかと思われます。
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鹿児島県日置市日吉町(鹿児島市の西、東シナ海沿岸)の日置八幡神社の祭りに登場する「大王[デオー]どん」の写真が展示されていました。

岩川八幡神社の弥五郎どんと同様、台車に乗せられ、高さ約2.5mとやや小ぶりな巨人の人形ですが、こちらは秋祭りではなく、お田植え祭りに登場するそうです。

「大王[デオー]どん」は、古代の大隅国の伝統的な権力者を感じさせる名称で、弥五郎どんの起源に関係する可能性があようです。

■大王[デオー]どんの展示写真に添えられた説明文です。
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日置八幡神社と大王[デオー]どん
【日置市日吉町】
ここは弥五郎どんではなく大王どんですが、浜下りの時神輿の後ろに従って行きます。
御旅所で神事があり、ますが、その横の田で「セッペトベ」が行われます。
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鹿児島県姶良郡湧水町(九州自動車道えびのJCから鹿児島方面最初の栗野インター近く)の勝栗神社に伝わる「弥五郎面」と呼ばれる古い「面」の写真が展示されていました。

この「面」が何を伝えるものか分りませんが、これも弥五郎どんの起源に関わる可能性があるようです。

■弥五郎面3体の展示写真に添えられた説明文です。
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正若宮八幡(現在 勝栗神社)の弥五郎面
【栗野町】
奉納面が三面あります。地元ではこの面を弥五郎面と言うそうです。面が傷んで来ると新しく奉納したのでしょうか、新面は天文12年(1543)年のものですが、裏に「神兵人之面再興之事」とあります。神兵人は隼人を征伐する側の兵と思われます。弥五郎は隼人の首領と言われますが岩川八幡では朝廷側の武内宿禰[すくね]とも言われます。征伐する側とされる側の両方が混ざり伝承されていることは非常に興味あることです。
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上段の写真は、同じ大隅町の「投谷八幡宮」の祭りの風景で、面や、鏡の付いた鉾を持った人たちが並んでいます。

下段の写真は、鉾に付けられた「面」の写真だそうです。

顔に付ける「面」ではなく、鉾に付けられていることに重要な意味があるように思われます。

■上段の8人が並ぶ写真に添えられた説明文です。
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投谷八幡神社の王子神幸
【大隅町大谷】
 昔は十体の王子を馬で二手に分かれ、伊屋松と大迫の御旅所まで供奉しましたが、今は六王子と四鉾を二手に分け御旅所まで供奉します。
 弥五郎どん祭りの原型と思われます。
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柄に取り付けられた「面」を持った人が先導する祭りの行列の絵が展示されていました。

上段の絵は、鹿児島市の「荒田八幡宮」の行列で、二つの「柄付きの面」が見られます。

下段の絵は、開聞岳の麓、北東側にある開聞[ひらきき]神社の祭りの行列で、一つの「柄付きの面」が先導しています。

弥五郎どん祭りの原型と思われる「柄付きの面」は、鹿児島県各地の神社の祭りにあったことがうかがわれます。

■絵に添えられた説明文です。
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昔の神輿の御神幸の例
 浜下りなど神輿の御神幸には柄付きの面などが先導しました。
 この面が弥五郎どんにつながってくると思われます。
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「岩川八幡神社」の浜下りの一場面で、弥五郎どんが大鳥居をくぐる風景です。

下の説明文では「柄付き面」が、巨大な弥五郎どん祭りにつながってきたとしていますが、「柄付き面」の背景は謎のままです。

逆賊として征伐された隼人の首が鉾の先に付けられ、凱旋する古代兵士の行列の風景が浮かんできました。

■展示写真に添えられた説明文です。
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八幡神社と弥五郎どん
 養老4(720)年大隅国で反乱が起こり、多数の隼人が殺されました。朝廷では隼人征伐の罪滅ぼしのための放生会[ほうじょうえ]を石清水八幡で行いましたが、宇佐八幡や大隅正八幡(鹿児島神宮)でも継承されました。
この神事に浜下りがあり、騎馬武者が神輿の友をしたそうですが、投谷八幡では今も王子神幸の神事があります。昔は荒田八幡の浜下りに柄付き大面の先導があり、開聞[ひらきき]神社にも同じような神事があります。これらの神事が巨人偶像へ発展し、弥五郎どんにつながってきたと思われます。又放生会が農村のホゼ祭りとも重なりますが、八幡神社と弥五郎どんはこのような関係にあります。
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南九州旅行No.12 巨人「弥五郎どん」が練り歩く「岩川八幡神社」

2012年07月11日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、都城市の「今町一里塚」から国道269号を南下し、鹿児島県曽於市大隅町の「岩川八幡神社」を参拝しました。

「岩川八幡神社」では巨大な「弥五郎どん」人形が練り歩く珍しい祭りがあることを知り、訪れたものです。



「岩川八幡神社」の「弥五郎どん祭り」の看板です。(看板が長いため、下部を割愛しています)

「道の駅おおすみ弥五郎伝説の里」の「弥五郎どん祭り」の展示場にあったもので、巨大な「弥五郎どん」人形が町を練り歩く風景です。



宮崎県南部と、鹿児島県東部の地図です。

都城市から大隅半島の南端佐多岬へ向かう国道269号を約20Km走ると曽於市大隅町で、「岩川八幡神社」は国道から西へ数百メートルの場所でした。

巨大な「弥五郎どん」人形が登場するお祭りは、「岩川八幡神社」以外に都城市山之口町「的野正八幡神社」、日南市妖肥「田ノ上八幡神社」の2ヶ所あり、地図に表示しました。

「岩川八幡神社」「的野正八幡神社」の「弥五郎どん」は、常設展示場があり、この後で見学させて頂きました。



「岩川八幡神社」の駐車場から境内に上る坂道と、「弥五郎どん祭り」を紹介する案内板です。

冒頭の写真にある大鳥居まではこの坂道から左折(写真右手方向へ)して下って行く坂道があります。

道の両側に階段、中央に車道があり、車輪の付いた「弥五郎どん」の行列の上り下りに配慮した珍しい坂道でした。

観光案内に「駐車場あり」と書かれ、大鳥居をくぐった坂道の上に駐車場があると察して、上り始める時にはちょっと勇気がいりました。



「弥五郎どん祭り」の案内板です。

台車に乗った弥五郎どん人形が子供たちにひかれている様子が描かれています。

■案内板の説明文です。
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この祭りは、毎年11月3日に開催される、大隅町岩川八幡神社の大祭をいい、この日名物の弥五郎どんの浜下りが行われる。
弥五郎どんは、武内宿祢、あるいは隼人の首領を象って作られたという人形で、高さ4.85m。
25反の反物を使って縫い合わされた梅染めの衣を着て、腰に長さ4.25mと、2.85mの大小刀を帯び、木車に据えられて街中を練り歩く大隅町独特の祭りで、当日は遠近から約10万の見物客でにぎわう。
(弥五郎どんの面は、郷土館に展示してあります)
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境内に上がると、赤い柱と、白壁の「岩川八幡神社」の社殿と、その左手に社務所がありました。

小さな社殿ですが、この神社には約千年の長い歴史がありました。

■「日本の神々―神社と聖地」(白水社出版、谷川健一編)の一節です。
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 岩川八幡神社は万寿二年(一〇二五)に京都の石清水八幡宮を勧請して創建されたという。石清水八幡の祭神は品陀別命・息長帯姫命・比め大神の三座。
 その後、岩川八幡は兵乱のために神宝などを失い社殿もすたれていたのを、天文四年(一五三五)に地頭の伴兼豊が再興したという棟札が残されている。
 祭日は旧暦十月五日であったというが、現在は新暦十一月五日になっている。秋の大祭だが、薩摩・大隅では大きい神社の秋祭をホゼと呼ぶ。ホゼは方祭(方限という地域の祭)とか豊祭(豊年祭)との説があるけれども、実は放生会の訛った名称であることがわかっている。放生会とは言うが期日は八月十五日のものほほとんどなく、九月から十一月の例が大部分である。ホゼは一般には浜下りの行事と神舞[かんめ]とよぶ神楽が舞われる例が多く、氏子の家々でも自家製の甘酒やこんにゃく料理で客をもてなす習慣が広くみられる。
 岩川八幡の場合は浜下りの行事に大人形が出るので有名で、その大人形を「弥五郎ドン」とよび、ここのホゼを弥五郎ドン祭と通称している。
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「岩川八幡神社」の社殿を横から見た風景です。

拝殿の奥に玉垣に囲まれた本殿が並び、美しい社殿でした。

駐車場脇の案内板に書かれた祭りの日程「11月3日」と、上段の「日本の神々―神社と聖地」の文中にある「11月5日」に違いがあり、気になって調べてみました。

「鹿児島県の歴史散歩」(山川出版社・鹿児島県高等学校歴史部会編)では「大隅半島最大の祭りである弥五郎どん祭り(県民俗)は、11月3~5日に行われる岩川八幡神社の例祭で、3日の前夜祭に弥五郎どんの浜下りという形で挙行される。」と書かれていました。

前夜祭的な11月3日の「弥五郎どんの浜下り」がメインイベント化し、その後2日間の祭礼が霞んでしまったようです。

又、肝心の巨大な弥五郎どん人形の始まりは謎とされており、巨大な人形に目を奪われ、その歴史も霞んでしまったのかも知れません。



境内の奥に高い屋根の小屋がありました。

高さ4.85mとされる弥五郎どん人形を組み立て、安置する場所だったのでしょうか。

誰もいない境内でしたが、祭りでにぎわう境内にまだ見ぬ巨大な「弥五郎どん」が立つ姿が浮かんでくるようです。

南九州旅行No.11 今に残る江戸時代の「今町一里塚」

2012年07月06日 | 九州の旅
南九州旅行2日目、「関之尾滝」の次は、「今町一里塚」です。

この後、都城市から約40Km南の志布志市へ向かう予定で、立ち寄ったものです。



都城市街地から国道269号を進むと道の両側に「今町一里塚」が見えてきました。

「一里塚」は、江戸時代の初頭、幕府が命じて全国の街道に造った施設で、江戸日本橋を起点に一里(3.927Km)毎の道の両側に塚が築かれ、旅人の目印としたものです。

又、塚の横には榎[えのき]や、松が植えられたとされ、木陰で旅人が休憩できるよう配慮されていたようです。

街道の両側に残っていることでも珍しい「今町一里塚」ですが、昔の街道が、そのまま現代の国道で続いていることも珍しいのではないでしょうか。

■「今町一里塚」の案内板より
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種  別 国指定史跡
名  称 今町一里塚
指定年月日  昭和十年十二月二十四日
一里塚[いちりづか]は江戸時代の街道一里(約四キロメートル)ごとに設けられた道しるべである。これは十七世紀の初めに徳川幕府が、江戸日本橋を起点に東海道などの主街道に築いたのが始まりといわれる。薩摩藩では十七世紀の前半に設けられたようである。今町の一里塚は、今町街道と呼ばれた都城・末吉・松山・志布志を結ぶ道筋(現国道二六九号線)にある。
この街道は上使(幕府巡検使)一行の、薩摩藩から飫肥藩への通り道にもなっており、昭和十年頃まで緑の松並木が続く美しい光景をかもしだしていた。その街道の両側に土盛のように残されていたこの塚が、国の指定を受け保存されることとなった。現在はその松並木もなくなっているがこの塚だけは残っており、一里塚としては九州で唯一の国指定史跡となっている。
  平成七年一月
  都城市教育委員会
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「今町一里塚」周辺の地形図に江戸時代末期の「天保国郡図」から街道筋の地点を探し、赤い直線(破線)で結ぶ方法で書き加えたものです。(一部の地名は現代の地図では見つからず推察で記入しています)

案内板によると「今町一里塚」は、都城・末吉・松山・志布志(地図に赤丸で記した)を結ぶ「今町街道」の一里塚だったとされています。

このルートを「天保国郡図」で見ると「佐土原」(宮崎市の北)から「都城」を経由し、鹿児島へ至る「日向街道」(現代の国道10号)でもあったようです。

又、案内板に「上使(幕府巡検使)一行の、薩摩藩から飫肥藩への通り道」とあり、都城から飫肥を結ぶ国道222号のルートかと思いましたが、違っていました。

「天保国郡図」には国道222号ルートの街道が無く、「鹿児島」から末吉に入り、都城~八良加納(八郎ヶ野?)~福島(串間?)~秋山を経由して「飫肥」へ至るルートが書かれていました。

当時の街道が末吉から北上して都城へ向かい、再び南下する回り道のコースとなっているのは不自然で、上使(幕府巡検使)が重要拠点「都城」へ立ち寄るための配慮でもあったのでしょうか。



国道269号の西側にある一里塚です。

高さ約1mの石垣の上に塚が築かれ、「榎[えのき]」と思われる大きな木がそびえています。



近くから見た西側の塚の風景です。

塚の形が道路に沿って細長く、円形の塚が国道側の裾の部分を削られたように見えてきました。

かつての街道が現在の広さの国道へ拡張される時、塚が削られて、断面に石垣が造られたのかも知れません。

塚の上には「今町一里塚」と刻まれた石碑が立っていました。



国道269号の東側の一里塚です。

こちらは、小さな塚の上に榎が植えられていました。

初めて見る一里塚に、チョンマゲ姿の人々が行き交う風景が浮かんでくるようでした。

南九州旅行No.10 世界最大の「関之尾甌穴群」、「関之尾滝」と、用水路の歴史

2012年07月02日 | 九州の旅
南九州旅行2日目朝7:00頃、都城市のホテルを出発し、都城市関之尾の「関之尾滝」へ向かいました。

「関之尾滝」は、都城市市街地から北西へ直線距離で約8Kmの場所にあります。



「関之尾滝」の正面に吊橋が架けられ、見上げるように眺めた風景です。

勢いよく落下する滝からは霧雨のようなしぶきが下流約60~70mの吊橋まで飛んできていました。

観光案内では「滝の高さ18m」と紹介され、低いと思っていただけに、この滝の迫力は予想を大きく超えるものでした。



関之尾公国の案内図です。

図の上部の「現在地」と書かれた場所の右上に駐車場があり、そこから赤い矢印のルートを一周しました。

滝の上には「長さ600m・最大幅80m」と紹介された「関之尾甌穴群」が続き、散策路から見ることが出来ます。

図右下に散策コースの距離・時間が書かれていますが、7:20頃から8:00頃までゆっくりした約40分間の散策でした。

■関之尾公園の案内板です。
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関之尾公国の滝と甌穴
 昭和三年   国の天然記念物指定(甌穴)
 昭和三十三年 宮崎県立母智丘関之尾自然公園
 平成元年   日本の滝一〇〇選 入選
関之尾公園には、大滝(幅四十メートル高さ十八メートル)男滝、女滝の三つの滝があります。滝の上流へ六百メートル幅八十メートルにわたって広がる甌穴があります。この甌穴(小さい瓶のの様な穴)は、約三十四万年前に形成された床の大きな溶結凝灰岩(火砕岩の一種)の割目に砂や石ころが入り水の力と長い年月をかけて出来上ったもので現在も進行中てす。大きいものは三メートルを越えるものなど、一帯に数千個の穴が散在しています。日本では、木曽川やこの庄内川の上流に小さいものはあリますが、こんなに大規模なものは世界でも類がないといわれ、フランスにあるホンデスールより大きく世界一であると地質学の権威者は、称賛されておられます。
 また、昭和五十四年には 緑の村(宿泊施設・売店・テニスコート・プール・を開設するなど、四季を通じ自然を満喫できる公園として整備を施しています。
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公園案内図の「現在地」とある庄内川の西岸から下流を見た風景です。

人影のない朝の公園は、せせらぎの音と、5月の新緑に包まれ、すがすがしい散策になりました。

「庄内川」は、高千穂峰南麓の流れを集めた勢いのある清流で、太平洋にそそぐ「大淀川」の支流になるようです。

地図で、「大淀川」の河口のある宮崎市から都城市周辺の流域一帯をたどって見ると、意外も流域面積では「筑後川」に次ぐ九州第2位の河川であることを知りました。

少し下流には東岸に渡る橋(遊歩道)が見えます。



橋の上から見た甌穴群[おうけつぐん]の様子です。

甌穴は、川底の岩盤に出来た円柱状(球状)の穴で、岩の窪みなどに小石が留まり、水流で回転することにより底が削られて出来るようです。

「関之尾甌穴群」では、円柱状の穴も見られますが、たくさんの甌穴が更に削られて連続した状態になったと思われます。

■公園内に「関之尾甌穴」の案内板がありました。
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国指定天然記念物
 関之尾甌穴
 指定年月日 昭和三年二月十八日
霊峯高千穂の南裾に沸く清流を集めて走る千足川[せだらし]と溝口川とが合流し一大飛瀑となって庄内川とかわるここが関之尾の滝で滝の高さ十八メートル巾四十メートルの溶結凝灰岩の柱状節理の断崖である
この滝から上流六百メートル 巾四十メートルにわたる河床に水の力で出来た大小無数の壺穴がある これが「甌穴」である
この甌穴はシラスの底にある溶結凝灰岩が川床に露出しその川床が水の力で流される礫の回転運動でえぐり取られて出来たもので直径は一メートルないし三メートルである甌穴の造成は今も進行中であるがその起源は姶良カルデラ造成以前であるといわれている
国は地質学上貴重な天然物として指定した
昭和五十九年七月一日
 都城市教育委員会
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東岸に渡り、川辺の遊歩道を下流に進んで行くと、用水路の取水口が見えてきます。

そばの案内板に「田園空間博物館 北前用水路取水口」とあり、下流の水田に水を供給する施設のようです。



取水口から下流方向の「北前[きたまえ]用水路」の風景です。

「関之尾公国の案内図」に「北前用水」と記した辺りの風景で、対岸にも同様の水路「南前[みなみまえ]用水」が見られました。



更に下流に進み、「関之尾滝」の横を過ぎた辺りに「北前[きたまえ]用水路」の余剰の水を川に戻す施設がありました。

右手に水門があり、余剰の水はここから下の断崖に流れ落ち、「男滝」と名づけられていますが、滝の全景は割愛しています。

■「男滝」を紹介する案内板です。
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「田園空間博物館 北前用水路」
この男滝は北前用水路の余水吐[よすいは]きです。
明治の人が岩を掘り抜いてつくりました。
余水吐きは大雨のときなどに余分な水を川に流して水路を守る働きをします。
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「関之尾滝」周辺の地形図で、左上は拡大図です。

「関之尾滝」の上流側には三つの用水路が造られたとされ、拡大図にある「A・B・C」の場所はその取水口です。

「北前用水の取水口は、「B」の場所ですが、地形図には上流の両岸「A・C」の場所にも取水口が見られます。

旅行の下調べで読んだ「宮崎県の歴史散歩」(山川出版社)ではこの「北前用水路」は紹介されておらず、A「南前[なんまえ]用水」と、B「前田用水」が紹介されていました。

江戸時代に造られたとされる最初の用水路「南前用水」は、「庄内川」の南岸「川崎・平田・乙房地区」の農地を潤しており、「北前用水路」「前田用水路」は、北岸「庄内地区」下流を潤しているようです。

■「宮崎県の歴史散歩」(宮崎県高等学校社会科研究会歴史部会 編集)の一節です。
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 関之尾滝を取水口として二つの用水路がつくられている。
その一つ南前[なんまえ]用水は、薩摩藩家老川上久隆[かわかみひさたか]が、主命により滝の上流300mの右岸の岩山を掘り抜いたもので、現在の川崎・平田・乙房[おとぼう]地区190haを灌漑した。
もう一つの前田[まえだ]用水は、当初1889(明治22)年、庄内の坂元源兵衛が滝の上流350mの左岸から取水して、20haを開田したが、資金不足で失敗した。のち鹿児島出身で農商務次官となった前田正名が、辞官後引き継ぎ、1901年、完成した。これにより庄内・山田・志和地の3村(現在の都城市・山田町)にわたる264haの開田に成功した。用水路は幹線13.5km、トンネル13ヵ所の大規模なものである。
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<参考>
・南前用水 1685年(貞享 2)完成 水路の長さ7.2Km 水田灌漑面積170ha
・北前用水 1889年(明治22)完成 水路の長さ5.1Km 水田灌漑面積 68ha
・前田用水 1901年(明治34)完成 水路の長さ7.0Km 水田灌漑面積278ha



「男滝」から更に下流へ歩き、「関之尾滝展望台」を過ぎた場所に不思議な形の「川上神社」がありました。

建物の埴輪で見たような形にも見え、馬の鞍を模したものでしょうか。

川上神社の創建は、最初の「南前用水路」の開削を命じた都城島津氏当主「島津久理」(1657~1727年)を祀ったことに始まるようです。

その後大正時代に、「北前用水路」を完成させ、「前田用水路」の開削に尽力した「坂元源兵衛」(1840~1918年)と、「前田用水路」を完成させた「前田正名」(1850~1921年)が合祀されたようです。

神社名「川上神社」の名から推察すると、創建当時に都城島津氏当主「島津久理」から命じられ、工事を指揮した家老「川上久隆」も主祭神だったのかも知れません。

「関之尾滝」の下流域の人々が用水路の恩恵に感謝し、雄大な滝を見下ろすこの場所に社殿を建てたものと思われます。



「男滝」から少し下流に歩いた前方に関之尾滝の展望台が見えてきて、すぐ下には吊橋に降りていく階段がありました。

切立った岩の断崖を見ると、水路や散策路が岩を削って造られていることがうかがわれます。

■展望台に不思議な物語が書かれた案内板がありました。
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関之尾公園に伝わる物語
今から六百年前、時の都城主北郷資忠公が家臣を引き連れてここで月見の宴を行いました。こうこうたる月に映える滝の美しさ、甌穴の不思議な流れに一行は酔っていました。この宴に庄内一の美女十八才の通称お雪(おしず)がよばれ、殿様にお酌をしますが、緊張のあまり酒をこぼしてしまいました。
 それを苦にしたお雪は宴の終わった後滝つぼに身を投げました。お雪の恋人経幸[つねゆき]は日夜悲嘆にくれて滝の上から声を限りにお雪の名を呼び続け泣き悲しみ、槍の穂先で岩に思いをこめた一首の歌を刻み残し、行方が分からなくなりました。
  書きおくも かたみとなれや 筆のあと
   また会うときの しるしなるらん
この経幸[つねゆき]の想いが通じて、毎年名月の夜になると朱塗りの盃が滝つぼに浮かんでくるのでした。
二人を偲んで恋人同志で男滝、女滝に酒を流すと必ず結ばれるという。
 都城市
 都城観光協会
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100m以上離れた展望台から眺めた「関之尾滝」の絶景です。

大きな轟音をたてて大量の水が落下する滝の迫力に圧倒されました。

日本の滝100選の中では高さ18mは、最低クラスですが、この迫力は意外でした。

滝の上には川一面に甌穴が続き、岸辺には帰りに歩いた散策路の柵が見えます。



案内板の物語で、殿様にお酌をしたお雪が身を投げたのはあの岸辺からだったのでしょうか。

案内板では600年前(南北朝時代)の物語に続き、「二人を偲んで恋人同志で男滝、女滝(男滝の下流)に酒を流すと必ず結ばれるという」とあります。

1889年(明治22)完成の「北前用水」から落下する流れに男滝・女滝と名づけ、600年前の恋人による縁結びのご利益を語る都城市と、観光協会のたくましい商魂にも大いに感動したスポットでした。