南九州旅行2日目、鹿児島県志布志市「山宮神社」を参拝し、大クスを見物した後、志布志の市街地に入り、志布志港に近い「津口番所跡」を見学しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/a4/c0636aa4de0b10dc464612251f67a983.jpg)
北の入口から見た「津口番所跡」の風景です。
志布志の市街地の東を流れる「前川」の西岸、河口に近い場所に「津口番所跡」がありました。
道路から一段高くなった敷地への入口は、緩やかな斜面の道で、右手の道路沿いは長い石材の石垣です。
案内板にもあるここの住所は、「志布志市志布志町志布志」で、同じような文字が連続する面白い地名です。
■入口横にあった案内板です。
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志布志市指定文化財 津口番所跡
所在地 志布志町志布志3151番地
指 定 昭和49年10月1日史第12号
管理者 志布志市
志布志市は、「志布志津」と呼ばれ、島津荘園時代の水門として古くから栄え、中世から近世初期にかけては海外との交易も盛んであり、九州東南部における倭寇の根拠地でもあったと云われている。江戸時代に入り海外交易は禁じられたが、千石船や五百石船による大阪表への藩米や物資の輸送など国内の交易で廻船業は繁栄し続けた。さらに藩政末期になると琉球や中国との密貿易の基地として"志布志千軒まち"と呼ばれるほどの活況を極め、明治初期まで数々の豪商を輩出している。
藩政時代の志布志津は、前川河口部の湾口から宝満橋付近までを津として利用しており、番所の上流150mにあった船着き場付近には船奉行所や蔵屋敷が立ち並び、大阪表へ出荷する廻船や交易船の往来が多かったが、積み荷は全て津口番所で厳重な取り調べを受けていた。
番所には槍鉄砲等の武具が備えられ、藩よりの番士に郷の番士が加番していた。遺跡は現在東側と南側に独特の石組を施した石垣が残っているだけで、変化の激しい河口部では、旧志布志の遺跡として唯一のものとなっている。
志布志市教育委員会
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/33/f83c452ad621e6da4334a891048df2ed.jpg)
志布志港に近い「津口番所跡」付近の地図です。
「津口番所跡」は、「前川」の河口近くの西岸、国道220号の北に近い一画にありました。
「前川」の河口付近は、港湾施設の整備で埋め立てられ、かつて河口に浮かんでいた標高約32mの「権現島」も今では埋立地の小山となっています。
近世までの港の多くは、河口付近の波静かな汽水エリアに造られており、志布志港も典型的な昔の港です。
川を遡った志布志城跡付近までの前川の両岸には「志布志千軒まち」と称された賑わう町が広がり、山上の志布志城から一望できたものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/36/56c46c38ab031d8e759a83fcf57cf550.jpg)
2m以上の高さに築かれた「津口番所跡」の川沿いの石垣です。
川を上り下りする船の監視のためか、石垣には見通しを良くする穴があけられています。
カーブした石垣は、ほぼ水平に積まれていますが、途中に乱雑に積まれたような場所が見えます。
洪水などで崩れ、補修された跡だったのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/37/3310610ee26e547882a28cf756cfd471.jpg)
「津口番所跡」の敷地に入り、川沿いの石塀を内側から見た風景です。
足元に空いた塀の穴は、石垣の下をこっそり通る人を見つけることが出来るようです。
案内板に「藩政末期になると琉球や中国との密貿易の基地として"志布志千軒まち"と呼ばれるほどの活況を極め」とあります。
薩摩藩は、琉球王国から割譲された奄美大島などで黒砂糖を生産して国内で販売する他、支配下に置く琉球王国が明との朝貢貿易で入手した医薬品の多くを幕府が承認していない「抜け荷」として国内で売りさばいていたようです。
昨年の北海道旅行で、江戸時代に北海道の昆布が琉球へ流通し、そこから更に中国まで渡る「昆布ロード」の存在を知りました。
昆布がよく食べられる地方として富山・沖縄があげられます。
「近世日本海海運史の研究」(深井甚三著)によると、薩摩藩は蝦夷地の廻船問屋にパイプを持つ富山の売薬商と組み、中国で珍重される蝦夷地の昆布を入手して琉球から中国への献上品とし、下賜される漢方薬を入手していたとし、それに由来していたのでしようか。
薩摩藩内で薬の販売許可を希望し、薬(漢方)の原料を必要とする富山の売薬商と組んだ巧妙な抜け荷ルートが浮かび上がったようです。
1838年(天保9)11月23日に発生した売薬商「能登屋兵右衛門」の北前船が漂流し、米国捕鯨船に救助された「長者丸漂流事件」は、函館から薩摩へ向かう太平洋回りの房総沖で発生した難破でした。(蕃談 漂流の記録1東洋文庫より)
荒波で危険な冬の日本海を避けた航行だったのでしようか、順調な航海であれば「長者丸」は、この「志布志港」へ入港していたのかも知れません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/07/414e990f808e12f4e5be5ae46a5d74b0.jpg)
「津口番所跡」の敷地の少し奥に崩れた石材が積まれていました。
かつての施設に使われていたものと思われますが、施設の再現図が欲しいところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/27/482a3bc1778038fdf27445a1de61a37c.jpg)
近世の主な港を印した地図です。
案内板によると「中世から近世初期にかけては海外との交易も盛んであり、九州東南部における倭寇の根拠地でもあった」とあります。
倭寇の活動エリアを見ると、沖縄から更に南の中国南部から朝鮮半島までの広大なエリアに及んでおり、九州北西部の松浦党などの勢力だけでなく、ここを根拠地とする倭寇がいても不思議ではないと思われます。
14世紀に始まる中国・朝鮮半島沿岸を略奪した倭寇の活動や、16世紀に渡来したポルトガル・イスパニアとの南蛮貿易などでの接触で、日本の航海術や、造船技術は、次第に発展したものと思われます。
従来、大陸・半島との交易ルートは、都から瀬戸内海・博多を経由する安全な航路が主体でしたが、戦国時代に急速に発展した商業都市「堺」を考えると高知沖を経由して南九州に至る南蛮貿易の最短航路が浮かび、そこに有力大名島津氏の支配する志布志港が見えてきます。
室町幕府の末期、明との勘合貿易権益を争う大内氏(山口から博多を支配)と、細川氏(大阪から四国南部を支配)が明の貿易港「寧波[にんぽー・ねいは]」(上海の南)で衝突した事件「寧波の乱」では瀬戸内海を制圧された細川氏が島津氏や、堺商人と組んで高知沖から南九州を経由する航路を開いたとされています。
又、案内板には「江戸時代に入り海外交易は禁じられたが、千石船や五百石船による大阪表への藩米や物資の輸送など国内の交易で廻船業は繁栄し続けた」とあります。
薩摩藩の米や物資を「天下の台所」と称された大阪へ運ぶにも東回りの航路が想定され、薩摩藩の南東海岸にあり、都城周辺から志布志一帯にかけての集荷港でもある志布志港の重要性が伝わってきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/ec/1ec654ea6d9005c587b7a6762950a575.jpg)
「津口番所跡」から「前川」の河口方向を見た風景です。
国道220号が通る「権現橋」と、その向こうには河口の港を守るように浮かんでいた「権現島」が見えます。
この「前川」の河口から3~4Km西の「安楽川」河口までの海岸に広がる志布志港は、「東京・志布志・名瀬・那覇」「大阪・志布志」の長距離フェリーの港で知られ、南九州の海の玄関口となっています。
又、志布志港は、「国際バルク戦略港湾」に指定され、主に南九州向けの輸入飼料だそうで、鹿児島の黒豚や、宮崎牛などの餌の多くはここから供給されているようです。
訪れる前は、さびれた僻地の町をイメージしていましたが、古代からの歴史と共に、現代でも立地を生かした重要な機能を担う町であることを知りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/a4/c0636aa4de0b10dc464612251f67a983.jpg)
北の入口から見た「津口番所跡」の風景です。
志布志の市街地の東を流れる「前川」の西岸、河口に近い場所に「津口番所跡」がありました。
道路から一段高くなった敷地への入口は、緩やかな斜面の道で、右手の道路沿いは長い石材の石垣です。
案内板にもあるここの住所は、「志布志市志布志町志布志」で、同じような文字が連続する面白い地名です。
■入口横にあった案内板です。
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志布志市指定文化財 津口番所跡
所在地 志布志町志布志3151番地
指 定 昭和49年10月1日史第12号
管理者 志布志市
志布志市は、「志布志津」と呼ばれ、島津荘園時代の水門として古くから栄え、中世から近世初期にかけては海外との交易も盛んであり、九州東南部における倭寇の根拠地でもあったと云われている。江戸時代に入り海外交易は禁じられたが、千石船や五百石船による大阪表への藩米や物資の輸送など国内の交易で廻船業は繁栄し続けた。さらに藩政末期になると琉球や中国との密貿易の基地として"志布志千軒まち"と呼ばれるほどの活況を極め、明治初期まで数々の豪商を輩出している。
藩政時代の志布志津は、前川河口部の湾口から宝満橋付近までを津として利用しており、番所の上流150mにあった船着き場付近には船奉行所や蔵屋敷が立ち並び、大阪表へ出荷する廻船や交易船の往来が多かったが、積み荷は全て津口番所で厳重な取り調べを受けていた。
番所には槍鉄砲等の武具が備えられ、藩よりの番士に郷の番士が加番していた。遺跡は現在東側と南側に独特の石組を施した石垣が残っているだけで、変化の激しい河口部では、旧志布志の遺跡として唯一のものとなっている。
志布志市教育委員会
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/33/f83c452ad621e6da4334a891048df2ed.jpg)
志布志港に近い「津口番所跡」付近の地図です。
「津口番所跡」は、「前川」の河口近くの西岸、国道220号の北に近い一画にありました。
「前川」の河口付近は、港湾施設の整備で埋め立てられ、かつて河口に浮かんでいた標高約32mの「権現島」も今では埋立地の小山となっています。
近世までの港の多くは、河口付近の波静かな汽水エリアに造られており、志布志港も典型的な昔の港です。
川を遡った志布志城跡付近までの前川の両岸には「志布志千軒まち」と称された賑わう町が広がり、山上の志布志城から一望できたものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/36/56c46c38ab031d8e759a83fcf57cf550.jpg)
2m以上の高さに築かれた「津口番所跡」の川沿いの石垣です。
川を上り下りする船の監視のためか、石垣には見通しを良くする穴があけられています。
カーブした石垣は、ほぼ水平に積まれていますが、途中に乱雑に積まれたような場所が見えます。
洪水などで崩れ、補修された跡だったのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/37/3310610ee26e547882a28cf756cfd471.jpg)
「津口番所跡」の敷地に入り、川沿いの石塀を内側から見た風景です。
足元に空いた塀の穴は、石垣の下をこっそり通る人を見つけることが出来るようです。
案内板に「藩政末期になると琉球や中国との密貿易の基地として"志布志千軒まち"と呼ばれるほどの活況を極め」とあります。
薩摩藩は、琉球王国から割譲された奄美大島などで黒砂糖を生産して国内で販売する他、支配下に置く琉球王国が明との朝貢貿易で入手した医薬品の多くを幕府が承認していない「抜け荷」として国内で売りさばいていたようです。
昨年の北海道旅行で、江戸時代に北海道の昆布が琉球へ流通し、そこから更に中国まで渡る「昆布ロード」の存在を知りました。
昆布がよく食べられる地方として富山・沖縄があげられます。
「近世日本海海運史の研究」(深井甚三著)によると、薩摩藩は蝦夷地の廻船問屋にパイプを持つ富山の売薬商と組み、中国で珍重される蝦夷地の昆布を入手して琉球から中国への献上品とし、下賜される漢方薬を入手していたとし、それに由来していたのでしようか。
薩摩藩内で薬の販売許可を希望し、薬(漢方)の原料を必要とする富山の売薬商と組んだ巧妙な抜け荷ルートが浮かび上がったようです。
1838年(天保9)11月23日に発生した売薬商「能登屋兵右衛門」の北前船が漂流し、米国捕鯨船に救助された「長者丸漂流事件」は、函館から薩摩へ向かう太平洋回りの房総沖で発生した難破でした。(蕃談 漂流の記録1東洋文庫より)
荒波で危険な冬の日本海を避けた航行だったのでしようか、順調な航海であれば「長者丸」は、この「志布志港」へ入港していたのかも知れません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/07/414e990f808e12f4e5be5ae46a5d74b0.jpg)
「津口番所跡」の敷地の少し奥に崩れた石材が積まれていました。
かつての施設に使われていたものと思われますが、施設の再現図が欲しいところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/27/482a3bc1778038fdf27445a1de61a37c.jpg)
近世の主な港を印した地図です。
案内板によると「中世から近世初期にかけては海外との交易も盛んであり、九州東南部における倭寇の根拠地でもあった」とあります。
倭寇の活動エリアを見ると、沖縄から更に南の中国南部から朝鮮半島までの広大なエリアに及んでおり、九州北西部の松浦党などの勢力だけでなく、ここを根拠地とする倭寇がいても不思議ではないと思われます。
14世紀に始まる中国・朝鮮半島沿岸を略奪した倭寇の活動や、16世紀に渡来したポルトガル・イスパニアとの南蛮貿易などでの接触で、日本の航海術や、造船技術は、次第に発展したものと思われます。
従来、大陸・半島との交易ルートは、都から瀬戸内海・博多を経由する安全な航路が主体でしたが、戦国時代に急速に発展した商業都市「堺」を考えると高知沖を経由して南九州に至る南蛮貿易の最短航路が浮かび、そこに有力大名島津氏の支配する志布志港が見えてきます。
室町幕府の末期、明との勘合貿易権益を争う大内氏(山口から博多を支配)と、細川氏(大阪から四国南部を支配)が明の貿易港「寧波[にんぽー・ねいは]」(上海の南)で衝突した事件「寧波の乱」では瀬戸内海を制圧された細川氏が島津氏や、堺商人と組んで高知沖から南九州を経由する航路を開いたとされています。
又、案内板には「江戸時代に入り海外交易は禁じられたが、千石船や五百石船による大阪表への藩米や物資の輸送など国内の交易で廻船業は繁栄し続けた」とあります。
薩摩藩の米や物資を「天下の台所」と称された大阪へ運ぶにも東回りの航路が想定され、薩摩藩の南東海岸にあり、都城周辺から志布志一帯にかけての集荷港でもある志布志港の重要性が伝わってきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/ec/1ec654ea6d9005c587b7a6762950a575.jpg)
「津口番所跡」から「前川」の河口方向を見た風景です。
国道220号が通る「権現橋」と、その向こうには河口の港を守るように浮かんでいた「権現島」が見えます。
この「前川」の河口から3~4Km西の「安楽川」河口までの海岸に広がる志布志港は、「東京・志布志・名瀬・那覇」「大阪・志布志」の長距離フェリーの港で知られ、南九州の海の玄関口となっています。
又、志布志港は、「国際バルク戦略港湾」に指定され、主に南九州向けの輸入飼料だそうで、鹿児島の黒豚や、宮崎牛などの餌の多くはここから供給されているようです。
訪れる前は、さびれた僻地の町をイメージしていましたが、古代からの歴史と共に、現代でも立地を生かした重要な機能を担う町であることを知りました。