昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

イタリア旅行No.3 ヴェネツィア ゴンドラから見た風景

2010年11月29日 | 海外旅行
11/10 イタリア旅行2日目、ヴェネツィア「サン・マルコ広場」の観光を終え、すぐ近くのゴンドラ乗場に移動しました。



町中の狭い通りにあるゴンドラ乗場の風景です。

添乗員さんの話では、運航するゴンドラが通常より少なく、待ち時間が長くなっているそうです。

高潮で、小さな橋の下の間隔が低くなり、通れないと判断したゴンドラの一部が運航を中止したようです。

乗船待ちの列は、カップルで乗る新婚さんを先頭に、その後ろに6人で乗る人が並びました。

妻と私は、ツアーの最後尾に並んでいましたが、最後に二人だけが残り、二人でゴンドラに乗ることになりました。



ゴンドラ後方の椅子に妻と並んで座り、前方を見た景色です。

狭い運河の所々には橋が架り、その下をゴンドラが進んで行きます。

ゴンドラは、やや右に傾いており、他のゴンドラも同様に右に重心を設定した構造になっているようでした。

ゴンドラの船頭「ゴンドリエーレ」は、右舷にあるオール(櫂[かい])を押すことにより舟を推進させており、右舷が低くなっていると体重を掛けて楽に押すことができるものと思われます。

カンツォーネを歌いながら狭い運河を優雅に航行していたゴンドラには、楽に漕げる技術が伝えられてきたようです。



ゴンドラの左右の舷に取り付けてあった馬の飾りです。

良く見ると馬の下半身は魚の形で、前の両足には水かきがついており、後足がなく魚の尾になっています。

これはギリシャ神話に出てくる海神ポセイドン(ローマ神話ではネプチューン)が乗る戦車を牽く海馬「ヒッポカンポス」と思われます。

一神教のキリスト教の本場とも思えるイタリアですが、それ以前に神々が活躍した神話にまつわる彫刻などが生活の中に溶け込んでいることも興味深いことです。

町や、舟などを観察していくと、様々な文化や、歴史が見えて来ます。



広場に面したゴンドラの乗場があり、二艇のゴンドラが客待ちをしていました。

青い縞模様のシャツ、赤いリボンを巻いたカンカン帽子は、ゴンドリエーレ達の代表的なスタイルです。

帽子を甲板に置いてかぶっていない者や、ジャンパーを上に着ているゴンドリエーレも多く、バラバラにも見えますが、一応統一された服装のようでした。

又、ゴンドラの色は黒で、舟の先端には独特の飾りが統一的に付けられていました。

前方右側の甲板を見ると様々な彫刻が施されているのが印象的でした。



二艇のゴンドラ(上段の写真のゴンドラ)の左右にも面白い飾りが付いていました。

翼のある、ラッパのようなものを吹く少年で、下半身は魚の姿です。

ギリシャ神話の海神ポセイドンの子「トリトン」のようで、神話ではホラ貝を吹いて海の嵐を静めると言われています。

写真右は、ゴンドラの先端にある「フェッロ」と呼ばれる金属製の飾りで、後方に立つゴンドリエーレと、舟前方の重量バランスを考慮して取り付けられているものと推察されます。

上段の写真でも見える通り、クシのような突起が舟の前方に向けて6本、後方に向けて1本が突き出ています。

又、前方の6本の突起の間をよく見ると3ヶ所に飾りのようなものが付いています。

一般的な説明ではヴェネツィアの6地区を表すと言われているようですが、後方の1本の突起や、6本の突起の間にある3本の飾りの意味は説明されていないようです。

形状から自分流に解釈すると、ゴンドラに乗る3組のカップルと、一人のゴンドリエーレを表すようにも考えられますが、もう少し宗教的(神話的)な意味があるのではないでしょうか。



橋の下を二艇のゴンドラが離合しています。

船の航行は右側通行ですが、この通り狭い運河では左側通行でした。

ゴンドラの右舷にあるオールを狭い運河で操作するためと推察されます。

右舷にはオールを置くための曲がった木製の器具「フォルコラ」が取り付けてありますが、すれ違う今は、オールが先端からはずされているようです。

下段の写真では舟を漕いでいる状況で、オールは「フォルコラ」の先端に置かれていました。

ゴンドラ前方の椅子に座り、この若いゴンドリエーレを観察していましたが、実によくしゃべる男でした。

スタートして間もなくこのゴンドリエーレが私に「●●● シットダウン」(前方に座れ)と言ったようで、素直に前の席に移動しました。

舟の先端が橋の下に接触する危険を和らげる目的と解釈しましたが、運休したゴンドラを考えると先端の高さにバラツキがあるようです。

事実、低い橋の下では舟の先端がギリギリ通過する場面もあり、納得せざるをえませんでしたが、二人並んで座る他のゴンドラのカップルを見るとちょっと複雑な思いでした。



めずらしく木のある運河の風景です。

写真に木製のオール受け「フォルコラ」の上にオールが置かれています。

この「フォルコラ」を見ると、どうも手作りのように見えてきます。

昔ながらの職人さんがゴンドリエーレに合わせ、工夫して作っているのかも知れませんね。

美しい運河の景色は、どこを見ても絵になると、妻もシャッターを押し続けていました。



妻が撮った写真で、すれ違うイケメンのゴンドリエーレが写っています。

添乗員さんの話では、ゴンドリエーレには女性の目の保養になるイケメンが多いとのことでしたが、やはり妻は見逃さず撮っていました。

もはや、目の保養にならない私は、舟の先端に座り、「フェッロ(先端の金属の飾り)」の重量不足を補う重しの役目を果たすしかありませんでした。



これもすれ違うゴンドリエーレの写真です。

青い縞のシャツではなく、赤い縞のシャツを着ていたので掲載しました。

ゴンドリエーレの組合の役員等、特別な人だったのでしょうか。



インド人家族と思われる客が乗ったゴンドラとすれ違った場面で、前に小さな子供が楽しそうに座っていました。

妻が手を振ると家族たちの笑顔が返ってきました。

ヴェネツィアや、イタリアの有名な観光地には世界中から様々な人種の観光客が見られます。

運河両側の建物には、玄関や窓が見え、道路側と、運河側両方を使い分けているようです。



いかにもヴェネツィアらしい運河沿いの洋服屋さんがありました。

玄関の両脇の窓はショーウインドウのように洋服が飾ってあり、高潮「アクア・アルタ」の影響で、玄関が浸水しています。

しかし、往復して見る限り運河を航行する舟は、途中下船しない観光客の乗ったゴンドラで、運河から来店する客はいないようにも思えます。



ゴンドラは、建物に挟まれた小運河から大運河に出て行きました。

ヴェネツィア本島の中央にはS字形に島を二分する大運河があり、向こうに見える橋は「リアルト橋」です。

左前方にこちらに進んで来るゴンドラが見え、狭い小運河と異なり、ここでは一般的な船舶の右側通行でした。

ゴンドラは、「リアルト橋」が見えるこの辺りで引き返しました。

「リアルト橋」は、1592年に大理石で造り直された約48mの橋だそうで、午後の自由時間に訪れた橋の上は貴金属店などが並ぶ商店街でした。

水の都ヴェネツィアを味わうゴンドラ観光には他に類の無い情緒があり、初めて見る景色は心躍るものでした。

しかし、忙しく走る水上バスや、モーターボートが行き交う大運河には昔を懐かしむ情緒は少なく、あまり歌も聞かれなくなったゴンドラも古き良き時代の情緒は次第に無くなっているようです。

油絵「倉敷川の水面」

2010年11月25日 | 妻の油絵

妻の油絵「倉敷川の水面[みなも]」です。(F100号)

今年春に展覧会へ出品した大きなサイズの作品で、水辺の風景をテーマにした最初の作品になります。

昨年から倉敷を何度も訪れ、やっと仕上げた作品ですが、緑色の表現に苦労したそうです。

倉敷川の河畔に立ち、水面[みなも]に映る町並みを見つめていると昔の倉敷の町にタイムスリップして行くような気持ちになります。

この絵の水面[みなも]に映る倉敷の町並みに、何かを感じて頂ければ幸いです。

イタリア旅行No.2 水の都ヴェネツィア サン・マルコ広場

2010年11月22日 | 海外旅行
11/10 イタリア旅行2日目、今日からヴェネツィア観光の始まりです。

撮ってきた写真と、ガイドさんの説明を思い出しながら想い出をたどっていきます。



ヴェネツィア最初の観光は、サン・マルコ広場から始まりました。

出発前日、インターネットで見たヴェネツィアの天気予報では「雨後曇り」でしたが、幸運にも晴天です。

サン・マルコ広場に入ると、「大鐘楼」が青銅色の屋根に、レンガ色と、白のおしゃれな壁がそびえていました。

広場の正面にはヴェネツィアを代表する建物「サン・マルコ寺院」が見えています。

残念ながら、「サン・マルコ寺院」の屋根の一部や、「鐘楼」の基礎部分がご覧の通り補修工事で、「世界一美しい広場」といわれる広場の美しさは今一つで、広場半分が浸水していました。

有名となったヴェネツィアの冬の高潮「アクア・アルタ(acqua alta)」が広場を襲っていたのです。



前回も掲載したイタリアの地図の下部に「ヴェネツィア本島」周辺の地図と、上部にヴェネツィアの「サン・マルコ広場」の地図を挿入しました。

「ヴェネツィア本島」は、下部の地図に橋でつながった黄緑色の島で、そこに赤い点がある付近が「サン・マルコ広場」の場所です。

「サン・マルコ広場」の地図では、「サン・マルコ寺院」の南側に「ドゥカーレ宮殿」が続き、その前が「サン・マルコ小広場」です。




「サン・マルコ寺院」の正面です。

建物の前には仮設の橋が作られ、高潮「アクア・アルタ」に備えていました。

西日に美しく映えると言われるこの建物も、朝日の時間帯では日陰となり、美しい輝きを見ることは出来ません。

私達のツアーは、正面中央の玄関横の入場口に作られた仮設橋の上に列を作り、一番の入場を待ちました。

「サン・マルコ寺院」は、「聖人マルコ」の遺骸を安置した教会で、エジプトのアレクサンドリアから二人のヴェネツィア商人が遺骸を持ち帰ったことから教会が建設されたそうです。

「聖人マルコ」は、「新約聖書」に四つある「福音書」の一つを書いたとされる1世紀頃の人です。

その遺骸が7世紀以降にイスラム勢力圏となったエジプトで、9世紀まで保存されていたことや、それを秘かに持ち帰り、莫大な費用をかけてこの建物を建設したことなど、実に驚くべき話です。



「サン・マルコ小広場」から見た「サン・マルコ寺院」です。

二段に重なった丸い屋根が、縦横中央と五連、十字にそびえ、尖った三角屋根と、豪華に装飾された外壁がそれを囲んでいます。

東ローマ(ビザンチン)帝国の勢力下にあり、広く交易を行っていたヴェネツィアは、中世西ヨーロッパのロマネスク文化や、イスラム文化の影響を受けて素晴らしい建物を造り上げたようです。

「サン・マルコ寺院」の中は、撮影禁止でしたが、高い丸屋根の下に描かれた黄金に輝くモザイク画や、荘厳な祭壇などに圧倒される感動を受けました。



「サン・マルコ寺院」を背にして見た「サン・マルコ広場」の景色です。

「サン・マルコ寺院」の見物中、次第に水位が上がり、寺院前などでは仮設橋無しでは歩けない状況になっています。

下水口から水がわき出ているのがあちこちで見られます。

向って右の建物は旧政庁、左は新政庁で、広場に面した一階は、回廊でつながれ、部分的に浸水があったものの歩ける状態でした。



新政庁建物の「サン・マルコ寺院」側に「時計塔」の建物がそびえています。

「サン・マルコ寺院」への入場を待つ行列が続き、その下には高潮の水位が上がっていました。

塔の最上部にはムーア人(アフリカのモロッコ辺りの人)のからくり人形が9時の時を告げる鐘をついています。

その下には翼のある白い獅子像が広場を見下ろしていました。

翼のある獅子像は、「聖人マルコ」の象徴として描かれたものだそうで、「サン・マルコ広場」の各所に見られます。

新約聖書の福音書を書いたとされる四人の聖者には、それぞれ象徴とする姿があり、キリストの「誕生」から「昇天」までのプロセスに対応するものだそうです。
「マタイ」=「人(天使)」(誕生)
「ルカ」=「雄牛」(死刑)
「マルコ」=「獅子」(復活)
「ヨハネ」=「鷲」(昇天)



獅子像の下にある「時計塔」の文字盤です。

ローマ数字では、I.II.III.IV.V.VI.VII.VIII.IX.Xと進みますが、時計の文字盤ではIV(4)は、IIIIと表示され、IX(9)は、VIIIIと表示されるのが一般的です。

写真ではVIIIと、VIIIIの中間に太陽のマークがあり、9時頃を指しているようです。

又、12星座を見ると24時の牡羊座から時刻とは逆方向の順に描かれており、時刻と星座の関係はよく分かりません。

普通、3時の位置に24時(XXIIII)があることも謎で、見慣れない時計を興味深く眺めていました。

ガイドさんの説明では文字盤にはヴェネツィア独特の表示があると聞きましたが、どの部分だったのかも聞き漏らしてしまいました。



「サン・マルコ寺院」を背に左手の「サン・マルコ小広場」を見た景色です。

「サン・マルコ寺院」へ入場待ちをする行列が続いていました。

鐘楼の左手の建物は「マルチャーナ図書館」、その向こうには大運河が広がっています。

仮設の橋から水面に映るレンガ色の鐘楼が美しく見えていました。

この景色も高潮「アクア・アルタ」で出来た水の都ヴェネツィアの新たなの美しさなのでしょうか。

「アドリア海の女王」と言われる美しいヴェネツィアは、地盤沈下、海面上昇などでいつの日か水没してしまう恐れがあるようです。



「鐘楼」の上に「時計塔」にもあった翼の獅子像があります。

黄金の王冠も見られ、ここにもヴェネツィアの守護神、「聖マルコ」への強い信仰心がうかがえます。

この下の階が展望台です。



「サン・マルコ小広場」に面し、「サン・マルコ寺院」の隣に建つ「ドゥカーレ宮殿」です。

この建物は、ヴェネツィア共和国の総監が政務を行った建物だそうで、内部は素晴らしい絵画、装飾などがあり、午後の自由時間に入場を勧められましたが、結局見ずじまいでした。

ヴェネツィアの主要な観光は、とても一日ではムリでしたが、観光案内の本を見ても少し実感をもって見ることができるようになった気がします。



「サン・マルコ小広場」の大運河に近い場所に二つの石柱があり、その上に興味深い像が立っていました。

左手は「聖マルコ」を表す「翼の獅子像」、右手は聖マルコ以前の守護聖人「聖テオドロス像」です。

569年ランゴバルト族の侵入で、周辺の人々がラグーナ(潟)に逃げ込み、始まったヴェネツィアの町の建造は、遠浅の海に守られ、海運・交易で次第に繁栄の道を進んで行ったようです。

かつて、この辺りにヴェネツィアを訪れる船の全てがここに係留されたと言われ、13世紀後半には父に連れられた17歳のマルコポーロもここから旅立ったようです。

海の彼方での戦いや、嵐などの危険を乗り越えて活躍したヴェネツィア人のしたたかさは、この守護聖人に見守られた自信によるものだったのでしょうか。

イタリア旅行No.1 初めての海外旅行、関西空港からイタリアへ

2010年11月19日 | 海外旅行
11/9(火)から11/16(火)までイタリア旅行へ行ってきました。

夫婦で行く初めての海外旅行で、一生の思い出になる素晴らしい旅行でした。

旅行の最後、帰国直後の関西空港で妻の体調が悪くなり、救護室で約2時間休ませて頂きましたが、無事帰宅することが出来ました。

私も旅行疲れか、風邪をひき、ブログの更新が遅くなってしまいました。

北海道旅行の記事は、残念ながら中止として、イタリア旅行へ変更させて頂きます。



パンフレットに掲載されていた今回のイタリア旅行ツアーの紹介ページです。

(株)日本旅行、ベストBUYヨーロッパのパンフレットで見つけた7泊8日のプランで、宿泊が3都市、同じホテルで各2泊と、少し落ち着いて回るコースが気に入りました。

又、北のミラノを加えた4都市宿泊のプランも各社から紹介されていましたが、寒くなる季節や、移動距離が気になったのもこのプランを選んだ理由です。

世界で一番美しいとされるシエナのカンポ広場、サン・ジミニャーノの中世都市の写真などが掲載されていますが、現地での景観は想像を超える素敵なものでした。

多くの方のお陰で、素晴らしい旅行が出来たことに深く感謝して、想い出をたどって行きたいと思います。



旅行会社で頂いた小冊子に掲載されていたイタリアの地図に旅行の行程を記入してみました。

往路は、関西空港からローマ空港乗継ぎでベニス空港へ着き、帰路は、ローマ空港から関西空港まで直行でした。

イタリア旅行の行程は、下記の通りですが、地図にも訪れた都市の順を①から⑨に記載しています。

11/ 9(火)関西空港14:10発→ローマ乗継→ベニス空港→ベニス泊
11/10(水)ベニス市内観光①→午後半日フリータイム→ベニス泊
11/11(木)ベニス発→シエナ②→サン・ジミニャーノ③→フィレンツェ泊
11/12(金)フィレンツェ市内観光④→半日フリータイム→フィレンツェ泊
11/13(土)フィレンツェ発→チビタ観光⑤→ローマ市内観光⑥→ローマ泊
11/14(日)ポンペイ⑦→ナポリ市内観光⑧→ローマ泊
11/15(月)バチカン市国観光⑨→ローマ空港15:15発
11/16(火)関西空港着→新大阪駅→福山駅



旅行一日目、ワクワクして待っている関西空港の登場口の風景です。

写真左端に立っているのはこの旅行で大変お世話になった添乗員さんです。

朝の強風で架線にビニールが掛ったとかで、新大阪駅から関西空港までの特急はるかに大幅な遅れが出ましたが、1.5時間の余裕を持って出たためギリギリの到着で、事なきを得ました。



アリタリア・イタリア航空の機内にあるモニターに飛行状況が映されていました。

赤い線の航路を見ると、関西空港から日本海に出て、サハリンの西から大陸上空に入り、シベリア上空を飛んでいます。



夕方16:30頃、大陸上空に入り、南西方向にシベリアの原野が見えてきました。

雪の積もった山地がどこまでも続き、蛇行して流れる大河が目に入ってきました。

アムール川(黒竜江)だったのでしょうか、北海道旅行でこのブログに書いた間宮林蔵の大陸探検を思い出します。

11月上旬、シベリアには、既に本格的な冬の季節が到来しているようです。



17:00頃、美しい夕焼け地平線の上に三日月が小さく輝いていました。

翼の下に細長く光っているのはバイカル湖だったのでしょうか。



22:30頃の消灯した機内の風景です。

外気は、何とマイナス60℃以下、空調はあるものの、普段使わない膝掛けがありがたいと感じる温度でした。

持参したANAで頂いたスリッパに履き替え、足はリラックスしましたが、なかなか寝付けない夜になりました。



深夜1:30頃、飛行機は、スカンジナビア半島、バルト海を横断し、東ヨーロッパ上空を飛んでいました。

この後のローマ空港ではあわただしく入国手続きを済ませ、乗換えをしてヴェネツィア空港へ向いました。

1:30頃は、イタリア時間では8時間遅れの17:30頃です。



イタリア時間22:30頃、ヴェネツィア空港に到着、ここからバスでヴェネツィア本島まで約30分でした。

ツアーの人数は40人、新婚カップルも多く参加していました。

彼らを見ていると、妻との新婚時代を思い出します。

又、40人も引連れ、旅先の状況を判断しながら案内をする添乗員さんの見事な仕事ぶりには感心しました。



バスでヴェネツィア本島の入口付近の港港に着きました。

これから船で、ホテルに近いリアルト橋横の船着き場まで移動、そこから狭い迷路のような路地を黙々と歩き、ホテルへ到着したのは深夜でした。

水の都ヴェネツィアは、船と徒歩の島で、車社会から断絶した中世が残る町であることを思い知らされました。



翌朝のヴェネツィア本島、ホテル前の景色です。

右手正面の石段の向こうがホテルです。

運河に掛けられた橋を左手に進み、建物の向こうはサンマルコ広場です。

どこを見ても中世の雰囲気が漂う景色に見とれてしまいました。



蛇足ですが、旅行に持参して意外に役立ったグッズを紹介します。

このホテルで使えるコンセントは1ヶ所でしたが、中央のC型コンセント変換(190円)と、左手の三つ又コンセント(以前から家にあった)を併用して複数の機器が使えて助かりました。

妻と二人のデジカメのバッテリーや、パソコンを使う場合、バッテリーの充電には2時間程度を要し、同時に複数を充電して安心して眠ることが出来ました。

右手の磁石(100円ショップで購入)は、地図と併用しながらヴェネツィアの迷路の街を歩けたことです。

次回は、素晴らしいヴェネツィア観光です。

北海道旅行No.45 オホーツク海にそびえ立つ聖地「北見神威岬」

2010年11月08日 | 北海道の旅
7/18 北海道旅行5日目の朝、稚内市のホテルを出発して、網走市までオホーツク海沿岸の約320Kmの旅に出発しました。

雨模様の日でしたが、北海道らしく起伏や、カーブの少ない道で、海を見ながらのゆったりとしたドライブでした。



オホーツク海沿岸の国道238号を南下していくと正面にトンネルの入口が見え、山が立ちふさがるようにそびえていました。

左手に見える岬が「北見神威岬[きたみ かむい みさき]」です。

稚内から宗谷岬の南のショートカットして走り、猿払村の「さるふつ公園」にも立寄りました。

「さるふつ公園」では、「ふるさと観光まつり」の開催中で、駐車場へ入る車の長い行列が誤算でしたが、「風雪の塔」と呼ばれるオランダ風の風車を見ることが出来ました。



全体が「北見神威岬」付近の地図で、左下の北海道全体の地図では赤い丸印付近になります。

「北見神威岬」への道は、国道238号の北オホーツクトンネルを迂回する道で、トンネルの出来る以前は、国道だったようです。

宗谷岬から平坦で、直線的な海岸が続いていますが、この辺りを境に海岸の地形が違っているように思え、地層について調べてみました。

南の「襟裳岬」から「日高山脈」「大雪山系」を通り、「北見神威岬」へ続く、「日高累層群※」が貫いていることが分かりました。(※累層群とは、複数の地層のまとまり)

「日高累層群」は、「北見神威岬」から更に海底を北へサハリンまで続いているそうです。

標高が色で表現されている地図で、サハリンから襟裳岬に続く山地をながめていると、そこを貫く山脈の様なものが見えて来ます。

同じような累層群では、「四万十累層群」があり、房総半島から南アルプス、紀伊山地、四国山地、九州山地を通り、沖縄本島までつづいているそうです。

信仰の岬「北見神威岬」は、北海道を縦断する巨大な「日高累層群」がオホーツク海に沈む場所でもありました。



道路の分岐点に近い場所から見た「北見神威岬[きたみ かむい みさき]」です。

ゴジラの背を想わせる険しい峰が続き、迫力のある景色でした。

「北見神威岬」の名は、アイヌ語の「カムイ」=神、「エトウ」=鼻を合わせ、「神の鼻」を意味する地名が元になっているそうです。

上の「北見」は、北海道南部の積丹半島にある「神威岬」と識別するため、オホーツク海岸一帯に付けられた名称「北見国」を上に付けたようです。

「北見国」は、明治維新に続く箱館戦争が終結した直後に、稚内周辺から知床半島までのエリアを日本の古代から続く、地方の国名に加えられた名称です。



道の向こうに岬の先端が見えてきました。

右手の岩山は、上にいくほど人を寄せ付けない垂直の断崖になっています。

かつて、この岬を旧国鉄の「興浜北線」が走っていたそうで、山裾に並ぶ電信柱の列にその名残りを見ることができます。



岬の先端付近ににある小さな駐車場付近から見上げた「北見神威岬灯台」です。

岬の山上にそびえる灯台と違い、岩山の中腹に立つ「北見神威岬灯台」は、神の山を意識したような控えめなたたずまいです。

灯台の白と、黒の縞模様は、「北見神威岬」の神聖なイメージへの配慮だったのでしょうか。



「北見神威岬」先端の海岸です。

おだやかな海でしたが、冬には白い流氷の世界に変わってしまうのでしょうか。



「北見神威岬」の南にある「北見神威岬公園」に来ました。

広い駐車場もあり、ゆっくりと岬の景色を楽しませて頂きました。



この後に見学した枝幸町の「オホーツクミュージアムえさし」で頂いた町の新聞です。

「北見神威岬」が国の名勝となった記事があり、紹介させて頂きます。

この記事の他、「北見神威岬」の岩山に登った記事もあり興味深く読ませて頂きました。

■オホーツクミュージアムえさし通信の記事です。
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オホーツクミュージアムえさし通信
№1192009年11月20日発行
枝幸町・浜頓別町の「神威岬」が国の名勝に!
11月20日に開催された国の文化審議会(文化財分科会)で審議・議決された結果、枝幸町と浜頓別町の「神威岬」が、新たに国の名勝として指定されることがついに決まりました(写真左下,神威岬)。
「名勝」とは、日本を代表するような素晴らしい風景を国が指定し保護するもの。美術乍品で言えば「重要文化財」に該当する重みがあります。本州では松島(宮城県)や兼六園(石川県)、金閣寺庭園(京都府)などが同じ名勝です。
 枝幸町目梨泊から浜頓別町斜内に広がる神威岬は、アイヌ語で「神の・鼻」を意味する「カムイ・エトウ」が語源です。その名の通り、アイヌ民族にとって「神様」の宿る神聖な場所として大切にされてきました。また、この地に入植した開拓者は、神威岬に龍神が宿るとして厚く敬つてきました。
 北海道の屋根とも言われる日高山脈がオホーツク海へと沈む最北端でもあり、岬先端では初夏になると様々な高山植物が咲きほこります。アイヌ文化の聖地であり、北オホーツクを象徴するような素晴らしい景観です。
 枝幸町では浜頓別町と協力しながら、指定にむけて2年越しの準備を進めてさました。アイヌ民族の伝承を調べるため江戸時代の文献を調査したり、実際に神威岬に登って植生分布を記録したりしました。調査の結果、神威岬の自然や地質、歴史に関する様々な背景が明らかになり、貴重な情報を手写ることができました。
 今回の指定は「カムイ」にまつわるアイヌ民族の伝承を重視し、岬先端から背後の山々にかけての、実に1,247,000nてを名勝として指定いただきました(ほぼ写真上の範囲)。これで神威岬の全土或を文化財として保護する体制が整ったことになります。
 残念なことですが、神威岬周辺では、観光客のポイ捨てや不法投棄がいまだに見られます。たとえば京都や金沢の人たちが、金閣寺や兼六園に空き缶をポイ捨てするでしょうか。一部の心ない人々の行動は美しい神威岬の景観を台無しにしているのです。
 今後は、白本を代表する景勝地として私たらが大切に守っていかなければなりません。
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神威岬は古代のランドマーク
 上の記事でもご紹介しましたように、神威岬はアイヌ民族の聖地として厚く敬われてきました。一万、神威岬の南側にはオホーツク文化期最大の集落の一つ、目梨泊遺跡(8世紀頃)があります。目梨泊遺跡からは大陸や本州からもたらされた数々の装飾品、武器が見つかり、古代の「交易港」として一足琶注目を集めました。なぜ、この場所に古代北方世界で最大級の「交易港」が成立したのか・‥その鍵を握っているのが、実は「神威岬」だったのです。

 神威岬の名勝指定にあたり、洋上からの写真を提出してほしいとの文化庁の指示を受け、船外機で沖合に向かいました。洋上の神威岬は、はるか彼方からでもはっきりと見える格好の目印でした(写真上)。神威岬よりも北に行くと、なだらかな宗谷丘陵が広がるだけで山らしい山はなくなります。
 古代の航海者たらは日本海の荒波を越え、宗谷海峡をまわって自梨泊へとやって来ました。神威岬は古代人にとって航海に欠かせない大切なランドマークだったのです。神威岬は、北の交易路を切り開いた歴史的な場所でもあったのです。
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「北見神威岬公園」から見た「北見神威岬」先端の岩山です。

北から見る「北見神威岬」は、怒りさえ感じる荒々しい姿に見えましたが、南から見る岩山は、姿が整い、秩序のある力を感じます。



公園から見た「北見神威岬」の全景で、左手の峰は地図にもある「斜内山」です。

「北見神威岬公園」のすぐ南の丘陵に「北見神威岬」を望む「目梨泊遺跡」がありました。

古墳時代から平安時代の長い時代にサハリンからオホーツク海沿岸の地域に栄えた海洋狩猟民「オホーツク人」の遺跡だそうです。

アイヌの聖地「北見神威岬」は、「オホーツク人」から引き継がれ、長い時代に渡って崇められたものと思われます。

「目梨泊遺跡」から発掘されたたくさんの遺物は、この後行く「オホーツクミュージアムえさし」に展示されていました。

このオホーツク海沿岸で、大陸や、本州と広く交易をした幻の「オホーツク人」に強い興味をひかれました。

油絵「ザクロと野菊」

2010年11月06日 | 妻の油絵

妻の油絵「ザクロと野菊」です。

主役のザクロを演出する後方の花瓶には薄紫の野菊、赤い実のついたサルトリイバラ※、山ブドウのツルが飾られ、秋の野山を感じさせてくれます。

背景の緑は、枯れていく前の野山の世界をイメージしたそうです。

※サルトリイバラ(猿捕茨)は、通称「柏餅」を包む葉に使われるトゲのあるツルの草です。

北海道旅行No.44 間宮林蔵の大陸探検「東韃地方紀行」の世界

2010年11月03日 | 北海道の旅
7/17 北海道旅行4日目、稚内市「北方記念館」の間宮林蔵の樺太探検コーナーの続きです。

1809年5月12日、林蔵は、樺太島の西岸「ナニヲー」まで北上、海峡の存在を確認しました。

今回は、間宮海峡を渡り、アムール川(黒竜江)下流域の探検の記録「東韃地方紀行」の展示パネルの見学です。



間宮林蔵のコーナーにあった<「北夷分界余話」と「東韃地方紀行」>と題するパネルで、探検の日程表と、ルートが書かれた地図がありました。

日程表の赤い下線の行に、1809年旧暦7月2日・新暦8月12日、間宮海峡横断とあります。

次の赤い下線の行、1809年旧暦8月2日・新暦9月11日、黒竜江河口を通過とあり、大陸での探検期間は、約1ヶ月間だったようです。

■パネルにあった説明文です。
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間宮林蔵は、2度にわたって樺太を探検しました。
 第1回目は、1808年(文化5年)4月13日(新暦5月8日)に、松田伝十郎とともに宗谷を出発。シラヌシから東海岸を探査した後、西海岸のノテトで伝十郎と合流。間宮海峡の存在を目視して、閏[うるう]6月20日(新暦8月11日)にシラヌシから宗谷lこ戻りました。

 第2回目の出発は、宗谷帰着から20日ほど後の7月13日(新暦9月3日)。単身で渡樺[とかば]した林蔵は6人のアイヌを雇い、西海岸を北上。トンナイで一冬を過ごし海峡を確認した後、交易に向かう樺太アイヌの一行に同行して大陸のデレンに渡り、その年の晩秋に宗谷に戻りました。
 林蔵の足跡は、村上貞助によって、「北夷分界余話」「東韃地方紀行」としてまとめられ、1811年(文化8年)幕府に提出されました。
この2冊は、「樺太編」「大陸編」というべきもので、前者には、樺太の地名や地勢・民俗が、後者には、清国の仮府(一時的な役所)が置かれていたデレンを中心に、黒竜江(アムール川)下流での調査が報告されており、現在でも、北方アジアを知る貴重な資料となっています。
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大陸探検の最初にあったパネルですが、大陸から樺太に渡って来て交易をする「山丹人」と紹介されています。

山丹人7人が乗る小舟には荷物が見当たりませんが、少し深い船底に交易品が積まれてるのでしょうか。

かぶっている笠は、白樺の樹皮で作った「樺皮笠」と思われます。

樺太北部から対岸のアムール川河口付近に住む民族「ニブフ」(スメレンクル)がかぶる「樺皮笠」が挿絵と共に「北夷分界余話」に紹介されていました。

「山丹人」とはどんな民族なのでしょうか。

■この絵の説明文です。
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山丹人の舟
樺太の人々は、山丹人と日常的に交易している。しかし、彼らから交易に行くのではなく、山丹人が来て交易を行う。島の人々はシラヌシで交易した斧・小刀や自分で獲った獣皮を、山丹人の木綿・錦・玉・煙管・煙草・針などと交易する。(「北夷分界余話」巻之五交易)
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林蔵は、海峡を渡り、先ずアムール川(黒竜江)の河口から遡った「デレン」の交易場所へ行ったようです。(絵の下の地図に赤い丸印がある場所)

「東韃地方紀行 巻之中 満州仮府」に「満州仮府」の名で描かれている絵ですが、展示パネルには「デレンの仮府」とされています。

■パネルの説明文です。
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デレンの仮府
清(中国)が満州に設けた臨時の役所で、元々この土地に住んでいる人はいない。
西は朝鮮半島、東はロシア国境付近から集まってきた人たちがつくった何百という仮屋が、仮府の周りにある。彼らは持参した品物を交換するのに5、6日滞在して帰る。林蔵が行ったときも5~600人が集まっていた。(「東韃地方紀行」中巻)
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「北方記念館」で頂いた資料に掲載されていた「諸夷雑居」と書かれた絵です。

デレン仮府の周りに交易に来た人々が仮屋でくつろぐ風景です。

「北方記念館」の資料にはデレン仮府の交易場所に集まる周辺の民族「サンタン(山丹)」が紹介されていました。

■資料「サンタン」の説明文です。
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サンタン(ウリチ、オロチ「土地の住民」の意)
 ロシアの少数民族で、ハバロフスク地方のアムール川支流トゥムニナ川下流とその支流、およびフンガリ川、アムール川、キジ湖他に居住しました。
 江戸時代、日本では黒竜江[こくりゅうこう](アムール川)下流地方を「サンタン」とよぴ、そこに住む人々を「サンタン人」とよびました。漢字では山野、山里、山丹、三靼などと書きます。おもにその地方に住むウリチ(ウルチャ、オルチャともいう)をさしたようですが、同地方のニヴフも含めていうこともあります。
ニヴフは区別されてスメレンクルとよばれるのが通例でした。サンタン人のなかには、借財のかたにとられたり人身売買されたアイヌもいました。
 主な生業は狩猟(ジャコウジカ、ヘラジカ、クマ)で、沿岸部では漁業も行ないました。木彫りまたは板張りのポートで川へ出て漁を行ない、アザラシやトドを求めて間宮海峡やその湾へもでかけました。文化的にも熊送り儀礼や装飾など、アイヌ民族との共通点・類似点がおおく、シャーマニズムの影響が色濃く残ります。
 古くからアイヌ民族との交易に、装身用のガラス玉、ワシやタカの尾羽、中国の衣服、布地などをもって樺太のアイヌ集落まできて、キツネ、テン、アザラシなどの毛皮、日本の鍋やヤスリなどの鉄類をもち帰りました。これはサンタン交易とよばれ、衣服、布地などの交易品はアイヌから和人へと渡りました。しかし、この交易はアイヌに大きな借財を負わすことになり、文化年間(1804~1818)、幕府はアイヌの借財を整理し、幕府公認の交易に変えています。
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デレン仮府が造られているアムール川(黒竜江)河畔の景色です。

「東韃地方紀行」には「マンコー河」とあり、現地で同行した樺太アイヌの呼称だったのでしょうか。

河には帆柱のある船が停泊し、帆柱の先端には三つ又のヤリと、その下に鳥の形の飾りが付けられています。

デレン仮府は、冬には閉じられるようで、大勢の役人達はこの船で移動しているようです。

■パネルの説明文です。
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デレン仮府の北側河岸
仮府の前はマンコー河(黒竜江)で、背後は樹木がうっそうと生い茂る荒野。このあたりは広々とした大河だが、川の中に小島が2つあるので、波風が立つ心配もなく穏やかで、舟をとめておくには都合のいい場所である。(「東韃地方紀行」中巻)
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上の絵は、デレン仮府の建物で、二重の柵の中央に仮府役人のいる建物が見えます。

下の絵は、中央の建物の中で仮府の役人たちが交易に来た人々から進貢の品を受取り、賞賜の品を与える様子です。(ガラスケースに展示、影あり)

役人への「進貢の儀」は、笠をぬぎ、地上にひぎまづき、三回頭を下げた後、毛皮一枚(筒抜状の黒テンの皮皮)を差し出す場面が描かれているようです。

この儀式で仮府での交易を許されたものと思われます。

■パネルの説明文です。
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仮府の全景
26~27m四方に、丸太[まるた]で2重の柵を作る。柵内の右左と後方の三方に交易所を作り、中央に柵を回して仮府としている。中央の仮府で貢物を受け取り、褒美の品物を渡す。出入り口はそれぞれの柵に1か所あるが、丸太に穴を開け横木を通しただけの粗末なもので、長さもまちまち。カンナをかけたあともなく、大工が作ったものとは思えなかった。(「東韃地方紀行」中巻)
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上の絵は、外側の柵と、内側の柵の間で数百人が交易をする様子です。

この狭い施設で、数百人が交易する様は、盗みあり、ケンカありで、収集がつかない状況だったようです。

下の絵は、交易の交渉場面で、着ていた服を脱いで毛皮と交換を求めている場面のようです。

■上の絵の説明文です。
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デレン仮府内の騒がしい交易
仮府内の騒がしさはたとえよえがない。「毛皮が盗られた」とさわぐ者や、「抱えていた毛皮を切り取られた」とさけぶ者。値段が合わないと衣服を脱いでまで交渉するが毛皮を入手できない役人、けんかをして殴りあう者、走って転ぶ者もいれば、布地を手に入れて帰る者、木綿を返して酒をくれとさけぶ者、鐘を叩いて騒ぎを静めようとする役人、「役所の物が盗まれた」とドラが鳴り、門を閉められると柵をよじ登って屋根に上がる者など、どうなっているのか分からなかった。(「東韃地方紀行」中巻)
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■下の絵の説明文です。
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交易の様子
脇にかかえた獣皮を酒・煙草・布地・鉄器などと交換する。交易が終わっても、毛皮の残りがあると少しでも高く売ろうとしてなかなか交換に応じない。満州人は何とか毛皮を手に入れようと、さまざまな物を出すが、それでも交換に応じないときには自分の着ている衣服まで脱いで交換しようとする。(「東韃地方紀行」中巻)
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上の絵は、「廬船」の文字があり、役人が住居とした船です。

又、左手には「檣頭」[しょうとう]の文字があり、帆柱の先端の飾りが描かれています。

鳥の飾りの上にヤリのようなものが二本と、三本の二種類描かれており、乗船する役人のランク表示だったのでしょうか。

下の絵は、林蔵が上級役人の船を訪ね、歓待された場面です。

座敷でりは役人達が虎の毛皮に座り、右手奥の林蔵が座っているのは熊の毛皮でしょうか。

船内で見た筆・硯・墨・紙や、食器類は、毎年清から長崎にくる物と同様だったとしています。

林蔵の観察は、実に細部に渡り、絵と、文章で表現されています。

■上の絵の説明文です。
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上級役人の船
上級役人が宿泊する船は、幅約3m、長さ約13~14m、積荷は約百石。造りは粗末で舳先[へさき]には波を切るミヨシがなく、両側より板を並べただけで、継ぎ目には白土を塗りこんである。船の3分の2は荷物を積む場所でムシロがかけてあり、残りの部分に小屋を建てて居住区域としている。船尾は白樺の樹皮で屋根をつくった台所。(「東韃地方紀行」中巻)
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■下の絵の説明文です。
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船中での仮府役人との会談
仮府に滞在する上級役人の船を訪ねると、彼らは大変喜んでアルカという焼酎のような酒をすすめ、酒の肴に豚肉・鶏肉・卵・川魚や野菜などを出してくれた。他に、そうめんのようなものをたべさせてくれたが、日本では食べたことのないものだった。(「東韃地方紀行」中巻)
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右の絵は上段の絵から間宮林蔵を部分拡大したもので、左手の写真は「北方記念館」のパンフレットにある間宮林蔵です。

役人の船で食事をする林蔵は、無精ひげを生やし、刀も差さず、みすぼらしい浪人のような姿です。

宗谷岬に立っていた旅姿の銅像や、北方記念館のこの銅像などで、さっそうとした武士のイメージを描いていましたがもろくも崩れてしまいました。

鎖国時代、隠密で外国を調査する実態は、なりふり構わず、命がけで情報を収集する厳しい仕事だったものと思われます。



アムール川河口近くの風景が描かれ「サンタンゴエ地図」の題名で、展示されていました。

右手の丘の上の石碑、左手の山、中洲の家などには名称も付けられています。

林蔵達は、交易場所のデレンからアムール川を河口近くまで下って行ったようです。

ロシアと、清は、このアムール川(黒竜江)周辺で国境紛争を続けていた歴史があり、下の説明文のロシア山賊の話もその歴史の一こまだったのでしょうか。

明治維新から約60年前の林蔵の探検記録は、村上貞助によって「北夷分界余話」「東韃地方紀行」にまとめられ、幕府に報告されました。

幕末、北方の地は、早くから脅威を受け、林蔵は、その前線で命がけの探検を行い、その後の北方領土に大きな影響を与えたものと思われます。

北方領土問題の解決に手をこまねいている現代の私たちは、もっと歴史を知り、林蔵に学ぶことも多くあるような気がしてきました。

■絵の説明文です。
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サンタンゴエ
1809年(文化6年)7月26日(新暦9月5日)に通過。昔ロシアの山賊がホンコー河を下って来て住み着いたという。山賊たちは、ここの人たちから生産物を奪い、土地を支配しようとして満州族と戦ったが、敗れてロシアに逃げ帰ったそうだ。河岸の高いところに2基の石碑があったが、遠く船中から見ただけなので文字までは分からなかった。(「東韃地方紀行」下巻)
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