昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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鳥取県大山町の「角磐山 大山寺」

2007年11月29日 | 山陰地方の旅

大山寺の参道の入り口付近です。
長い参道の両脇には旅館、食堂、土産物店などが並んでいますが、少しさびれているようです。

道のはるか向こうに大山の峰のひとつ「宝珠山」が見えています。
上の参道の写真で見えた「宝珠山」があたかもご神体の山のように見えますが、ご神体として崇められている峰は、「弥山」のようです。



参道の坂道を登って行くと大山寺の山門があります。
上り坂の上に高い建物が見えて来るとなかなかの迫力を感じます。

山門の左右の格子の中には大きな仁王像が立っています。
ここで「参拝志納金」300円(大山寺宝物館入場料含む)を払います。

「大山寺宝物館」は、山門の少し手前の向かって右手にあります。
又、山門の脇には「角磐山 大山寺」の石碑があります。



最初の階段を登った所に「下山観音堂」があります。
向って右の出入り口横に「大山寺本坊」「大山寺法務所」の看板がありました。

■大山寺のパンフレットの説明を転記します。
「下山観音堂」
御本尊は十一面観音菩薩。白鳳期の金銅仏で国の重要文化財に指定され、現在霊賓閣に安置されている。下山観音堂の御本尊はその控仏です。



下山観音堂にあった狐の石像で、玉と、巻物をくわえているようです。
観音堂と、狐の組合せが珍しく、狐の足元に子狐が置いてあります。
向かって左には子狐が2匹いますが、右には子狐が1匹しかいませんが、いったいどこに行ったのでしょうか?



参道をはさんで「下山観音堂」の向いに小さな「護摩堂」があります。
お堂の向こうには「大山」の頂上付近と思われる山が見えています。

■大山寺のパンフレットの説明文を転記します。
「護摩堂」
10月24日に行われる山伏の修験問答や天地四方に矢を放つ儀式「採灯大護摩法要」は迫力満点で賑わっています。



「下山観音堂」と、「護摩堂」の間に次の石段の上り口があり、大きな杉の木と、お地蔵が立っています。
伝説のある「灯明地蔵」「灯明杉」だそうです。
「灯明地蔵」は、新しく造られたお地蔵さんのようです。

■説明板があり、転記します。
「灯明杉」
その昔、日本海を航行する船が難航の折り、この杉の頂きから、一大せん光を発し、方向を教えたために難をのがれたといわれる霊木で、この名がある。



「下山観音堂」から更に石段を上がると本堂のある広場です。
すぐ前に牛の銅像「宝牛」があります。

■大山は、牛馬の守り神として信仰されていますが、「大山寺縁起」に牛にちなんだ説話があります。
「大山寺縁起」は大山寺に伝わる写本で、43の説話があるそうです。

「大山へ連れて来られた牛の説話」
昔、法隆寺に民連法師という僧がいた。不思議なことに法華経の第八巻がどうしても暗唱できなかった。
稲荷・長谷寺・熊野山・住吉の各社寺に参詣してお告げを受け、伯耆大山へ来て一夏精進し、権現のお告げを得た。その結果、前世は美作国から大山参詣する人の糧米を背負って来た牛であった。大山の宿坊で法華経の八巻を聞かずに出発したために暗唱できなかった。三業に誠をいたして法華経を読唱せよと教えられた。

■現地の案内板を転記します。
「宝牛」
牛の霊を慰めるために鼻ぐりの銅をもって鋳造し、岡山県岡山市の宗教団体「福田海」より寄進された像で、別名を撫牛ともいい、一つの願いだけを心に念じてこの牛を撫でると願いを叶えてもらえるという縁起のよい牛である。



鎌倉時代の作と言われる「開運鐘」と書かれた「鐘」がありました。
天空に舞う天女の絵が描かれていたのが印象に残っています。



大山寺本堂です。
大山寺は、養老2年(718年)金連上人が創建、地蔵菩薩を本尊として祀ったのがはじまりとされています。
貞観7年(860年)天台宗第4代座主慈覚大師により天台宗となったそうです。
その後、鎌倉~室町時代に最盛期を迎え、100を越す堂塔伽藍に、僧兵3000人を抱える大寺となり、中国地方屈指の修験道場だったようです。

■「大山寺縁起」に大山寺が始まった説話がありました。
「大山寺の起こり」
出雲国玉造の猟師「依道」は、三保の浦を通り過ぎようとした時、海底から金色の狼が出現したそうです。
追いかけて大山まで追いつめ、矢を射ろうとした時、地蔵菩薩が現れ、狼も老尼に変身して地蔵の御利益を説いたそうです。
猟師「依道」は、金連上人となって長年修行、釈迦を祀る「南光院」阿弥陀を祀る「西光院」を開いたそうです。
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大山の火山活動と、国引き神話

2007年11月25日 | 山陰地方の旅

鳥取県大山町「大山自然歴史館」に手書きの資料が掲示されていました。
火山活動で大山が出来る前、「大山自然歴史館」や、「大山寺」の真下は海だったようです。
向って左上の図で、大山の中腹にある「大山レークホテル」でのボーリング調査の結果、海抜460mから掘り下げ、現在の海水面より更に150m下に基盤岩があったことが分かります。(実に600mの地下に基盤岩があり、海岸線がかなり南にあったようで、噴火により島根半島との間が狭まったようです)
中国地方では最も高い「大山」の大半の部分が火山活動で噴出した溶岩で出来ていたことを初めて知り、改めて火山活動のすごさを感じました。



「大山火山の層序」という大きなパネルの下に古い順に4枚展示されていたパネルで、タイトルが「大山火山(爆発)形成以前の地形」とあります。

蒜山は、大山が噴火活動を始める約200万年以上前に噴火し、蒜山三座が出来たようです。
噴出した溶岩が蒜山高原の溶岩台地を作り、堰止湖となっていたようです。
その後、堰止湖から旭川に水が抜けて現在のような蒜山高原の形になったそうです。



大山が噴火を始めた図で、タイトルは「古期大山形成期」とあります。
古期大山は、約180万年前から噴火が始まり、50万年前頃までの噴火活動で出来た成層火山だそうです。
現在の大山は、古期大山のカルデラの上に「新期大山」と言われる溶岩ドームが出来たものだそうです。



パネルのタイトルには「船上山溶岩流出」とあります。
マグマの噴出が両脇からもしているようです。
火山活動による地層も描かれていますが意味がよく分りません。



最後のパネルのタイトルは、「大山中央火山・弥山の形成以降の地形」です。
「新期大山火山活動」は、約30万年から1万年前頃までの火山活動を言うようです。(5万年前から1万年前の活動とする資料も見られ、素人にはよく分りません)
最後に溶岩ドームが盛り上がり、「弥山」「剣ヶ峰」「天狗ヶ峰」などの山頂部分が出来たようです。
又、この時期に大山の側火山も数々出来、北の「孝霊山」に向けて連なる側火山列、北東の「船上山」に向けて連なる側火山列、南にある「烏ヶ山」も側火山のようです。



昨年9月島根県の三瓶山にある「三瓶自然館サヒメル」で見た島根半島の地形変化のパネルです。
三瓶山では、3500年前までの噴火が確認され、島根半島西部との間が、神戸川や、斐伊川が運ぶ火山灰・土砂で陸続きとなった図です。
島根半島東部は、1万年前まで大山の噴火が続き、陸が北に拡大、島根半島との距離大きく縮まったようです。
パネルの2000年前頃には弓ヶ浜半島が綱のように島根半島まで伸びています。
国引き神話では八束水臣津野命が、杭の代わりに大山・三瓶山に綱をつないで土地を引き寄せたとされていますが、何となくイメージが合うようです。
縄文時代まで噴火していたこの二つの山が、島根半島と本土がつながったことに大きく影響していたことが分かります。
スケールの大きな国引き神話の誕生がなんとなく分かるような気がしました。
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大山の姿と歴史

2007年11月22日 | 山陰地方の旅

前々回掲載の鳥取県大山町「大山自然歴史館」を見学した続きです。
館内にあったこのパネルの写真は、大山を西から見た景色と思われます。
春の初め頃、菜の花畑の向こうに雪の残る「大山」が美しくそびえています。
「伯耆(ほうき)富士」とか「出雲富士」と呼ばれるこの山は特に西側から見た姿です。



このパネルは大山の地図で、向って左上が北のようで、45度右に廻すと上が北を指します。
「弥山(みせん1709.4m)」「剣ヶ峰(けんがみね1729m)」「槍ヶ峰(やりがみね1692m)」が東西一列に並んでいます。
パネルの向かって左下の西側から見た大山の峰が富士山のように美しく見えるのも見る方角によるものと思われます。
各地に「○○富士」がありますが、これぼど見る角度で姿が変わる地方富士も珍しいと思います。


今年3月26日、広島空港から千歳空港への機中から撮った「大山」です。
南から見た「大山」で、大山の向こうには日本海の海岸線が横たわっています。
「弥山」「剣ヶ峰」「槍ヶ峰」が横一列に並び、頂上が台座のような形状です。



東南の上空から見た「大山」です。
積雪の山頂の手前に見える白い峰は、「烏ヶ山(からすがせん1448m)」です。
写真に向って左上は、米子市の街が広がり、その先に境港市がある「弓ヶ浜半島」が見えています。



東南東の上空から見た「大山」です。
写真の大山の山頂から向って左手前に「烏ヶ山」があります。
又、向って右に伸びている峰々は、「東大山」とも言われ、三鈷峰(さんこほう1516m)・野田ヶ山(のだがせん1344m)・矢筈ヶ山(やはずがせん1358.4m)・甲ヶ山(かぶとがせん1338m)・勝田ヶ山(かつたがせん1149.1m)と続き、先端に船上山(せんじょうさん616m)があります。

船上山は、鎌倉時代末期に地元の豪族「名和長年」が隠岐の島から脱出された後醍醐天皇を擁して立てこもり、幕府軍と戦った場所です。

「大山」の山々には「山」を「せん」と呼ぶものが多くあり、約10Km東にある「蒜山(ひるぜん)」も同様の呼び方になります。

奈良県吉野山には「金峰山(きんぷせん)」があり、「金峰山寺」は修験道の中心地の一つです。
金峰山寺や、大山寺は、修験道の開祖「役小角(えんのおずぬ)」(飛鳥~奈良時代)が深く関わっているようです。

普通「山」の音読みは「さん」ですが、なぜ「せん」と読ませるのでしょうか。
漢字は、中国から伝えられた時代により読み方も変化したようです。
漢字の音読みには、時代順に「呉音」「漢音」「唐音」「宋音」があります。
「せん」の読み方は、「呉音」のようです。
「呉音」は、奈良時代の遣隋使・遣唐使の交流以前に伝わっていた最も古い漢字の読み方だそうで、仏教用語に多く残っているようです。

奈良時代の出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」「火神岳(ほのかみのたけ)」の名で登場しますが、「大山」の呼び名の変遷はよく分りません。
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2007 卜部俊孝展に行きました

2007年11月18日 | 妻の油絵

今日、お昼前「卜部俊孝展」に行きました。
この絵は、案内はがきに掲載されていた油絵20F「静物」です。
卜部先生が得意とする静物画で、とても魅力的です。



「卜部俊孝展」の案内はがきを写したものです。
会場の前に3~4台の駐車場があり、入場は無料です。
とても気軽に鑑賞させて頂きました。

昨年も同じ会場で、「卜部俊孝・広田和典二人展」がありましたが、今年は一人の展示会でした。


「展ギャラリー」のショーウインドウに掛けてある静物の細密画ですが、ポスターのような感じもします。
天気が良く、絵に日が当っています。



ショーウインドウに掛けてあった水彩画「大山大平原」という作品です。
卜部先生の水彩画を見たのは初めてです。



ショーウインドウに掛けてある静物画「恵み」という作品です。
蓮根を題材にした静物画にちょっと新鮮さを感じました。
ザクロの色、グラスのブルー、バックのグリーンがなぜか蓮根と感じよくなじんで、とて魅力ある作品です。



会場入り口付近の展示風景です。
静物画や、花の絵があります。



会場の奥付近の展示風景です。
静物画が多く展示されていました。
向って一番左には案内はがきに掲載されていた絵も見えます。



小さなサイズSM(サムホール)の絵が数点展示されています。
お値段も安く、ちょっとした狭い壁にも飾ることができる絵です。
小さな画面にセンスの良さが凝縮している感じです。



向って左の作品は、「バラ」です。
はなやかで、センスの良い花の油絵です。

向って右の風景画は、「漁村鞆港」です。
港と、船が絵の上部の狭い範囲に集約して描かれ、広い下部には何とも言えない透明感のある海が描かれています。



この風景画は、「鞆港」です。
上の作品の構図と似て、上下が逆のバランスです。
高い場所から見下ろした景色の雄大さを表現する構図ですね。

絵心がまったくない素人の私にとっては、魔術師のような卜部先生の表現力に感心するばかりです。
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大山博労座牛馬市

2007年11月16日 | 山陰地方の旅
9月23日お昼過ぎ、大山寺、大神山神社への参道下の駐車場へ着きました。
少し曇って大山の 山頂がよく見えませんでした。



広い駐車場から階段を上がると参道です。
階段の左側に草原が広がっていました。



階段を登る途中に案内板がありました。
「博労座」とあり、大規模な牛馬市があったことが書かれています。



階段を上り、参道の入り口に「大山自然歴史館」がありました。



参道脇にあった大山寺、大神山神社周辺の地図です。
下の赤く塗られた場所が「大山自然歴史館」、その少し下に「博労座」と書かれています。



「大山自然歴史館」に入ると「大山牛馬市展」開催中の案内板がありました。



写真は、館内の「大山牛馬市展」のメインパネルです。

説明書きを転記します。
■市の様子
 市に参加するものは、まず入場料を支払う
 (横手道にある石の鳥居に番所があった)
     ↓
 売買が成立し手数料を支払う
 (現在の八橋警察署大山寺駐在所あたりに中番所があった)
     ↓
 売り手と買い手双方拍手を打ち、飲食をして売買終了

特に春の祭り(旧4月24日)には神輿行事もあり、非常に賑わった。当時のエピソードとして「大山の大糞流し」がある。例年梅雨の前触れの大雨が降り、牛馬の糞を流すというものであった。
市では露天商の出店があった。ただし、商人の把握・場所割りは大山寺領の大庄屋の任務であった。

■大山関係の年表から抜粋したものです。
 1726(享保11年)博労座に牛馬市がおかれる
 1884(明治17年)博労座牛馬市の取引が12000頭にのぼる
 1937(昭和12年)博労座牛馬市廃止


メインパネルの左上にあった昔の牛馬市の様子を撮った写真です。
帽子に着物姿の男たちが牛を引いています。

説明書きを転記します。
■牛馬
大山牛馬市に来る牛馬は、出雲、伯耆、隠岐からが全体の8割、備中・美作・因幡からが残りの2割であった。隠岐からの牛は、淀江沖で海中に追い落とし陸揚げしていた。したがって、最初に陸地に着いた牛が真っ先に売れ、残りを大山にあげていたようである。

■博労(ばくろう)
博労とは牛馬の取引の仲介者であり、数十人の追子(おいこ)を抱えていたといわれる。
その取引は袖中取引で、博労は袖の中で相手の手の指を握って値ぶみをする。例えば、指1本握れば1、全部握って5、親指を握れば6、3本の指を折れば7、1本を折れば9という具合である。単位はその時の情勢次第であった。
中には悪徳博労もいたようで、中間利益を独占したり、手数料や酒食を要求するなどしていた。
「博労は手の裏をかく」「ばくち、ばくろう、ばではてる」「ばくち、ばくろう、ばか、ばばあ」などは、そういった博労を風刺したものである。



牛の飼育関連グッズが展示されていました。
「はなぐり」
鼻の両穴の間を貫通する穴を開け、この器具を鼻先に取り付けて牛を扱っていたようです。

「餌筒」
竹筒に餌や、薬を入れて牛の口に差し込み、強制的に食べさせる道具のようです。

「金櫛」
ギザギザ部分で牛の毛並みを整えてやる器具のようです。




牛の飼育関連グッズ展示の続きです。
「鼻さし」
鼻の両穴の間にハナグリを通す穴を作る道具のようです。
材料は、鹿の角に見えます。

「靴」
ワラで作った牛のわらじだそうです。



歌川広重(1797-1858)の作と伝えられる「大山博労座牛馬市図」が展示されていました。
江戸時代の末期、牛馬市の賑わう様子が描かれています。

説明文にある「日本三大牛馬市」には複数の説があり、「大山博労座」の他、広島の「久井の牛馬市」、福島「白河の馬市」、大分の杵築「若宮の市」の四市場の組合せの違いですが、「大山博労座」だけはどの説にも含まれています。

2007/4/18掲載の真庭市蒜山「茅部神社」の日本一の大鳥居と桜並木で大山道の宿場町郷原が牛市場の往来で賑わっていたことなどをご紹介しています。


「大山博労座牛馬市図」の一部を拡大したものです。
上の鳥居に通じる参道の左で牛馬市に人や馬・牛があふれかえっている様子がよくわかります。
参道を陣傘をかぶった武士と思われる行列が描かれています。

大山の大智明権現は、牛馬の守護神として鳥取県・島根県・岡山県・広島県に及ぶ広い地域で信仰されていたようで、日本三大牛馬市の一つ、広島県久井の牛馬市でも大山信仰があったようです。
久井(三原市)の牛馬市は、平安時代中期の963(応和3年)に牛馬市が創設され、江戸時代に始まった大山博労座と比較し、はるかに長い歴史があるようです。

「田植歌にみられる大山信仰のひろがり」という展示資料の中に広島県東城町、岡山県哲西町に伝わる田植歌の歌詞がありました。
農耕や、牛馬と、大山信仰が民衆に深く根付いていたことが分かります。
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出雲街道「根雨宿」の町並み

2007年11月12日 | 山陰地方の旅
鳥取県日野町の「金持神社」を後にして国道181号線を180号線の分岐する「根雨(ねう)」の町に立ち寄りました。
日野町は、人口4,136人、1,555世帯 の町です。


「旧出雲街道 根雨宿」の大きな看板があり、旧道が分岐していました。
旧出雲街道は、かっては松江藩主の参勤交代の道筋でした。
参勤交代の経路は、米子から根雨を通り、岡山県新庄村、真庭市勝山、津山に至る道で、参勤交代は兵庫県佐用から、姫路に出て行ったようです。。
又、一般的に別の経路では真庭市の勝山から旭川を下り、岡山市までの高瀬舟のルートもあったようです。

今年の4月17日、このブログに掲載した岡山県新庄村の「がいせん桜並木」を訪問して素晴らしい桜並木見物でしたが、根雨の隣の宿場になります。



国道181号線から分岐した細い旧道を進むと右手に石碑と、石仏が並んでいました。
かって新庄宿から根雨宿との間には出雲街道一番の難所「四十曲峠」がありました。いまではトンネルが出来て峠の道を通る人もほとんどいなくなっているようです。
向って右の石碑には「鳥獣供養塔」とあり、次の石碑には「南無妙法蓮華経?」「国土安全」「五穀○○」「○○○大士」とあります。
花がお供えされているところはお墓のようでもあり、石仏と合せて興味のあるところです。
昔、新庄宿から根雨宿にたどりつくまでに倒れた旅人も多くいたと考えられ、その供養で作られたものではないかと推察します。


昔この土地で「たたら製鉄」を経営して繁栄した「近藤家」の屋敷が旧出雲街道沿いにあります。
根雨の町並みを代表する建物の一つです。


「近藤家」の屋敷前に「備後屋」と表示されており、調べてみました。
「根雨近藤家の歴史」木村時夫著(早稲田大学名誉教授)によると近藤家の始祖伝兵衛は、鉄関係の商人で、江戸時代初期に備後(広島県東部)から転住してきたようです。
始祖伝兵衛から四代目の喜兵衛が製鉄業を創業し、製鉱所2ヵ所、錬鉄製造所4ヵ所まで発展させたようで、近藤家の最盛期になると日野郡内に61カ所の鉄山と、78ヵ所の製鉄工場に及んだようです。



屋敷の正面から南方向を見ると高い塀が続いています。
現在空家のようですが、かっては多くの人が働く活気のある屋敷だったことがうかがえます。
旧街道は、人通りがほとんどなく、さみしさを感じます。



「近藤家」の屋敷の向かいに「日野町公舎」とされる建物がありました。
「日野町公舎」の中は畳部屋で、自治会の集会などに利用されているようです。



「日野町公舎」の前に掲げられていた「案内板」です。


「日野町公舎」を少し前から撮った写真です。



「日野町公舎」から旧街道を約200m進み右折すると「日野町歴史民俗資料館」があります。
無人で、見学できませんでした。


「日野町公舎」の案内板です。


「日野町公舎」の前に変な石が展示されていました。
たたらの施設に使われていた「坊主石」だそうです。



「坊主石」の案内板です。

根雨には参勤交代の宿舎「本陣」や、オシドリ見物もあるようですが、次の機会に訪問したいと思っています。
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参拝すると宝くじが当るという「金持神社」

2007年11月09日 | 山陰地方の旅
9月23~24日、鳥取県の西部地域を1泊2日で旅行しました。
最初、鳥取県日野町金持にある「金持神社」に行きました。



中国自動車道新見ICから国道180号線が国道181号線に突き当たった所です。
右に曲がり約1Km行くと「金持神社」があります。
左に行くと、伯備線の根雨駅で、線路沿いに南西に行った日野川でシベリアから越冬に来たオシドリがたくさんいるそうです。



国道181号線を南東に約1Km行くと右手に「金持神社」の看板のあるお金持神社売店がありました。
売店の手前の道を右折すると橋があり、更に数十メートル直進した所が「金持神社」です。

売店の駐車場にあった神社の案内板の一部を転記します。
■御祭神
天之常立尊(あめのとこたちのみこと)
八束水臣津努命(やつかみずおみずぬのみこと)
淤美豆奴命(おみずぬのみおと)

天常立尊を御祭神とする全国でも数少ない神社。国土経営、開運、国造りの神様をお祀りしています。

■由来
810年出雲の神官の次男が、伊勢神宮参拝のためこの地を通りかかったところ、お守りとして身につけていた神前の目付の玉石が急に重くなりました。そして、この地に宮造りするよう神夢があったので、宮造りしたと伝えられています。

金持郷は、昔、黄金より勝ると言われた「玉鋼」の産地で、原料の砂鉄が採れる谷を多く所有し、金具の文字で表されているように、鉄(てつ)のことを金(かね)と読んでいた事から、金の採れる谷を多く持つ郷「金持」と呼ばれるようになったと伝えられています。

「金持景藤公が必勝祈願」
この地の豪族、金持景藤は、1333年、隠岐を脱出された後醍醐天皇を奉じて討幕の軍に参加し大活躍しました。その際、金持神社に必勝祈願し、神前の戸帳を御旗にしたと伝えられています。京都への遷幸の折には、天皇の右側に名和長年公・左側が金持景藤公で「錦の御旗」を持ち上洛しました。金持大和守景藤公のお墓と伝えられている宝篋印塔が金持地内に現在も残っています。

■開運伝説
「長谷部信連公の再起」 平家物語や源平盛衰記など多くの古書で快男児としてうたわれている長谷部信連公。1180年、後白河法皇の第二皇子の平氏追討計画が事前に発覚、信連公は密かに皇子を宮殿から脱出させ、孤軍奮闘しました。そのため七年間、金持郷に流刑の身となりました。その間に日野町にとって大切な延暦寺、長楽寺、祇園神社などを残しています。平氏滅亡後、源頼朝御家人七人衆の一人として、安芸国宮島の検非違使、能登国の地頭職として山中温泉の発掘等を手がけ、のちに加賀百万石前田家の筆頭家老職(穴水城主)として明治まで続く長氏の始祖となりました。



道の右手に「金持神社」の鳥居がありました。
道をはさんで左手に駐車場もあります。



「金持神社」鳥居をくぐって進むと長い石段が続いています。
写真の右上に神木と思われるしめ縄が張られた大木がありました。



この神木は、「チャンチン」という珍しい木だそうです。
境内に上がる少し手前にもう一本違う神木があり、案内板の説明文を次の写真のコメントでまとめて記載しています。



石段を登った境内の少し下の段の左手に「サワラ」といわれる神木がありました。

売店の駐車場にあった案内板の神木に関する部分を転記します。
■境内の銘木
金持神社境内には、鳥取県銘木100選中、サワラ、チャンチンの2本があり樹齢600年位と云われています。サワラは神社の遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために植えられたものと考えられています。チャンチンはセンダン科の薬木で、実は目薬に用い、先人が鉄生産の予防薬として、中国より取り寄せたものと考えられています。 県内では、このチャンチンの木、1本しか確認されていません。



「サワラ」の木のそばに石段をはさんでキツネの石像が左右にありました。
石段の下と、上に登った境内にそれぞれ一対の狛犬がありましたが、このキツネの石像は、まるで稲荷神社です。
何かいわれでもあるのでしょうか?



狭い境内にこじんまりした神社がありました。

境内にあった案内板の説明文を転記します。
■金持神社由緒
天常立尊・八束水臣津奴命・淤美豆奴命を祭神とし、近世までは「三体妙見宮」といわれていた。
社伝によると、出雲国薗妙見宮から勧進されたという。勧請された年代は不明である。
明治維新後に現社名に改称された。「金持」という景気のよい地名はタタラか鍛冶に係わるカヌチ・カナジの語から出た地名だろうといわれる。
また、「太平記」に登場する金持景藤をはじめ、「吾妻鏡」「愚管抄」「大山寺縁起」などに名が出る金持氏の本拠地であったと思われる。
この「金持」という縁起の良い名前から、昭和後期から注目されはじめた。「当社に祈願してから宝くじを買ったら大当たりした」とか、その真偽は別として、噂が噂を呼んで今様流行神となりつつある。 以上


古事記によると「天常立尊」は、天地創発の時に出現した5柱の神様(別天津神)の1柱のようです。
その後、神世七代(国常立尊から伊邪那岐神・伊邪那美神まで)の神が現れたとあります。
日本書記本文では、国常立尊が最初に現れた神としており神話の世界はよくわかりません。

八束水臣津野命は、出雲風土記にある国引き神話の神様です。
島根半島を朝鮮・能登半島など4ヶ所から綱で土地を引っ張ってきた巨人の神様です。
出雲を最初に創った神様のようです。



拝殿の中をのぞくと「龍神之図」という絵が掛けられていました。
なかなか迫力のある龍の絵です。

神社売店の駐車場にあった案内板の説明文を転記します。
■指画「龍神之図」
当地、日野町根雨出身の濱田壽峰さんにより平成十五年八月吉日奉納されました。
中国、唐時代から伝わる珍しい画法で、筆を一切使わず、手、指、爪などで描き日本では唯一の画家です。
五十歳の折り、中国天津へ留学し、著名な画家達から花鳥雨月を学び、これまで伊勢神宮を初め、奈良・三輪明神、近くでは大山・大神山神社など多くの神社に「龍」を奉納されております。
ここに奉納された「龍神之図」は横二.五米、縦〇.六五米の作品で「皆さんに福が訪れ、町の発展に役立つように」との願いと共に掲げられました。



拝殿の後ろにある本殿の壁にはおびただしい数の絵馬が掛けられていました。



写真左の絵馬には「おかげさまで宝くじが当りました」と書かれているではありませんか。
しかも続いて「年末ジャンボ宝くじも当りますように・・・」と続いています。
何という欲のある人でしょう。
何度買っても当らない私からみるとあきれてものも言えません。



絵馬に書かれている内容は、宝くじ、ロト6、パチンコ、競馬、商売繁盛などなど願い事のオンパレードです。
しかも西日本の他府県の人がたくさん絵馬を奉納しています。

宝くじの願い事が最も多く、こんなに大勢の人がお願いしても当る人は限られます。
金持神社が有名になればなるほど「ごりやく」が薄れてしまうと心配しながら神社を後にしました。
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油絵「工房のシーサー」

2007年11月05日 | 妻の油絵

妻の描いた油絵(S20号)です。

焼き物の工房で出来上がったイメージで描いたものです。

シーサーの組合せの着想をなんとか絵に出来たようです。
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