昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

遠野「郷土人形民芸村」の附馬牛人形

2008年03月30日 | 東北地方の旅
伝承園の駐車場を出て、国道340を南へ曲り、「郷土人形民芸村」へ向いました。



県道35号線を東に向かっていると左手に「郷土人形民芸村」の入口が見えてきます。
(この写真は、「郷土人形民芸村」の看板を駐車場側から撮ったものです。)

看板には「郷土人形民芸村」「附馬牛人形・佐々孝工房」と書かれてありました。



入口の表示がなく、ちょっと戸惑いましたが、正面に見える民家が、「郷土人形民芸村」でした。
看板に「佐々孝工房」とありますが、本名は佐々木孝和さんで、この家は佐々木さんの自宅のようでもありました。



これが「附馬牛(つきもうし)人形」で、佐々木さんの作品だそうです。
玄関を入り、声を掛けると佐々木さんの奥様のような女性からとても熱心に「附馬牛人形」の説明を聞せて頂きました。

説明によると、明治の始めに途絶えていた「附馬牛人形」復活の研究を確か5~6人で始められたそうです。(お話しぶりでは奥様もその中の一人だったようです)
長い間の苦労の末、「附馬牛人形」の技術を復活させることが出来たそうです。

この人形は、干支の「附馬牛人形」です。
毎年作った干支の作品を並べて展示しているようです。


落ち着いた赤色で気品のある感じを出しているようです。
「附馬牛人形」の作り方は、遠野の土と、和紙を煉合せて型取りした物を自然乾燥させ、胡粉を4~5 回重ね塗りしたものに彩色して仕上げるそうです。



黒っぽい服の方が(佐々木さんの奥さん?)、熱心な説明をされているところです。
ちょうど江戸時代から明治時代の「附馬牛人形」が陳列されており、その説明だったようです。



これが江戸時代に造られた「附馬牛人形」だそうです。
大黒様、えびす様などが見えます。



江戸時代中期の「花巻人形」が展示されていました。
「附馬牛人形」は、江戸時代末期から始り、その技術はこの「花巻人形」から伝わったものと考えられているようです。



干支の作品の下段にカッパの人形が展示されていました。
民話にまつわる人形はとても人気があるようです。

ところで、このカッパ人形の色は、赤ですが、遠野のカッパは、赤いものだと言われているようです。


愉快な招き猫が、色々と展示されていました。
作る人が、一番楽しいのではないかと思います。



岡山市金山寺にある「招き猫美術館」のポスターが貼られていました。
お話しによると「招き猫美術館」では、全国の招き猫を収集、遠野の招き猫も展示されているそうです。



招き猫をガラスケースの上に並べて熱心に説明をして頂きました。
長いまつ毛、つぶらな目、大きく手を上げている姿がとても愛嬌のある招き猫です。
帰り際に「又いらっしゃい!」と言ってくれているようにも見えます。

色々な人形の説明、人形作りのお話しをたくさん聞かせて頂き、ありがとうございました。

昨年10月7日、朝早く気仙沼の「大釜 半造」の美しい海岸見物から始まった一日もここで日が暮れてしまいました。
次は、昨年10月8日の遠野、北上市、平泉町の思い出を掲載します。

遠野 「常堅寺」と、「カッパ淵」

2008年03月29日 | 東北地方の旅
伝承園から田んぼの間の道を歩いて「常堅寺」「カッパ淵」に向かいました。



右手に「常堅寺」の参道があり、仁王門が見えてきます。



左右の大きな仁王様です。
この仁王様、まん丸い白い目の中心に、丸い黒目があり、漫画で描かれる目のようです。
又、頭も大きめで、丸い目の感じとあわせてわんぱく坊主のようにも見えます。


■案内板に仁王像の説明文があったので、転記します。
「仁王尊像」
木造寄木造り ヒバ材
制作年代 江戸時代
高さ 325cm 頭長 67cm 顔幅 47cm 肩幅 80cm 掌 36cm
もと早池峰妙泉寺の仁王門に安置されていた仁王像で、明治五年神仏分離により、常堅寺に移されたものである。
遠野市教育委員会



仁王門をくぐると正面に本堂が見えてきます。
左右に狛犬が置かれていましたが、お寺に肥満体の狛犬はいささか違和感があります。
「福泉寺」にもかわいい狛犬があったことから、この地方ではお寺にもこだわりなく狛犬が置かれているようです。



「常堅寺」の案内板がありました。



常堅寺の本堂です。
本堂入り口の左右に木彫りのカッパが鎮座しています。
これも狛犬の代わりに置かれているのでしょうか。

でも最初、カエルと間違えてしまいました。


本堂に向かって左手に十王堂があり、名物「カッパの狛犬」がいました。
かつてこのお寺に火災が起きた時、カッパが頭の皿から水を出して消火をしてくれたという言い伝えがあり、狛犬カッパの石像を作ったようです。



向って右の「カッパ狛犬」だそうです。
顔は、可愛い子犬のようにも見えます。



向って左のカッパ狛犬です。
頭のてっぺんにくぼみがある以外は狛犬そのものです。

くぼみの小銭を見て、からっぽだと次に置く人が少なくなるので置かれているのでは?と変なことを考えて見ていました。



常堅寺の横を川に橋」がありました。
「常堅寺」の横を流れる川に木の橋がありました。
橋には「かっぱぶちばし」と書かれ昭和六十二年に造られたようです。



橋のたもとで橋の番をしているような木彫りのカッパが立っていました。

■案内板があり転記します。
「河童」
馬を川に引きこむいたずらに失敗したカッパは、おわびをして許され、母と子の守り神となりました。
常堅寺の火災のさいは頭の皿から水を吹き出して消しとめ、いまでも一対のカッパ狗犬として境内にその姿をとどめています。


この辺りが、「カッパ淵」のようです。
田園のなかにお寺と林があり、きれいな小川が流れています。
水が透明で、川の周りの雑草も少ないのでカッパが潜んでいる感じはありませんでした。
カッパが、川に馬を引き込む昔話も馬のひざ下程度の深さではちょっとムリがあるようです。

テレビでも見たことがあるキュウリを結びつけたカッパ釣りの竿が置いてあり、地元の人の涙ぐましい思い入れにひかれてこの場所を訪れるのかも知れませんね。

■そばにあった案内板を転記します。
「かっぱ渕」
遠野の河童は赤いといわれその伝説は数多く残っている。
小鳥瀬川の姥子渕の辺に、新屋の家という家あり、ある日渕へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり・・・・・」
遠野物語五八話

この阿部屋敷の水ごうの流れ渕には河童駒引きの伝説を伝える河童神様を祀っている。
洞の中には乳首の縫いぐるみが奉納されており、乳の信仰に転化している興味深い民俗がある。
遠野市・遠野市観光協会
遠野ライオンズクラブ


帰りにお世話になったトイレです。
「河童の厠」と書かれています。

「厠(かわや)」は、便所の意味で、昔から川や、溝の上に小屋を作り用を足していたようです。
日本古来の天然水洗便所が「厠」の語源のようです。

この川に厠があると、河童さんに下から襲われるかも知れませんね。

伝承園「御蚕神堂(おしら堂)」の神秘的な赤の世界

2008年03月25日 | 東北地方の旅
遠野市「伝承園」の続きです。



南部曲り家「旧菊池家住宅」の母屋の部屋からトンネルのような暗い渡り廊下の入り口がありました。

■案内板があり、転記します。
「オシラ堂」
馬と娘の恋物語で知られているオシラ様には、曲家(まがりや)の常居(じょい)よりお入りください。
「遠野物語」の世界へお誘いします。 伝承園



薄暗い廊下を進むと「御蚕神堂(おしら堂)」の入り口に突き当たります。
入り口の上にはしめ縄が飾られ、御蚕神が祀られている神聖な場所と感じられます。

又、廊下の壁に「遠野物語」の世界を演出するような写真が展示されていました。



伝承園のパンフレットにあった「御蚕神堂」の写真を拝借しました。
中央に太い柱があり、周囲の壁に沢山のオシラ様が飾られていました。
ここは、ロマンと神秘に満ちあふれた赤の世界です。



壁の高い場所までびっしりと「おしら様」が飾られています。
「おしら様」は、ちょっと神秘的な中にも色とりどりの美しい衣装で飾られ、楽しませてくれます。


赤い照明にも演出されているせいか、千体もあるというたくさんの「おしら様」に圧倒されます。

下の方にお坊さんの袈裟にも使われる金襴の生地で作られた着物のオシラサマが見えます。
写真の下部に案内文があり、「青森のオシラサマ」の題で津軽地方のオシラサマ信仰が紹介されており、このオシラサマは、津軽地方で作られたオシラサマのようです。
オシラサマを祀る「おしら講」は、東北、関東地方で広く行なわれているようですが、青森県弘前市の久渡寺の「大白羅講(おしらこう)」は、オシラ様信仰が最も盛んな場所ともいわれているようです。



おしら堂を出る途中にこんなお飾りがありました。
木の枝に沢山の蚕の繭(まゆ)が付けられ、繭(まゆ)は、赤・緑・黄の三色に染められています。
お正月に繭の豊収を願う「繭玉飾り」のようです。



「御蚕神堂(おしら堂)」を出て、その土蔵を外から撮った写真です。
土蔵の横にトンネルのような渡り廊下が見えます。

表に出てなぜかホットした気持ちになりました。

「伝承園」 (佐々木喜善の短い生涯)

2008年03月23日 | 東北地方の旅
遠野市土淵町の伝承園を見学させて頂きました。



「伝承園」の入場券(裏表)です。
上段は、券の表で、オシラサマのイメージをデザインしたようです。
下段は、伝承園の入り口の写真です。



「伝承園」の入り口付近にあった園内の案内図です。



「佐々木喜善記念館」です。
玄関脇に銅像がありましたが、少し写真のイメージと違う感じです。



「佐々木喜善記念館」の玄関にあったパネルです。
遠野物語誕生のシーンではないかと思います。
パネルの三人は、右から「柳田国男」「水野葉舟」「佐々木喜善」と書かれてあるようです。



「柳田国男」の写真です。
「佐々木喜善」が遠野物語を自分で書いていたら今日の「柳田国男」の存在はかなり変わったものと思われます。



佐々木喜善の生い立ちです。



佐々木喜善です。
青春時代の頃でしょうか。

その後、村長になった佐々木喜善は、自分・家族の病気、経済的な困窮、新しい村づくりの挫折などで、仙台へ移ったそうです。
「河北新報」で連載小説の場や、仙台NHKではラジオ放送での土俗講座などの場が与えられ、東北民族の体系化を試みた研究誌「民間伝承」を発刊した直後、48歳で生涯を閉じてしまったようです。
詳しくは分かりませんが、大きな希望を抱き、その結果、挫折を繰り返す人生だったのではないかと、勝手な想像をして同情してしまいました。



「伝承園」にある曲り家「旧菊池家住宅」です。
この家には「南部曲り家」の文化が生まれる過程が残っているそうです。

■説明板を転記します。
国指定重要文化財「旧菊池家住宅」
指定  昭和51年2月3日
所在地 遠野市土渕町第六地割五番三
この住宅は、市内小友町高木から移築した南部曲り家の一つです。この地方(旧南部藩領)は県内でも南部曲り家が数多く分布していた地域で、なかでもこの住宅は、遠野の代表的な曲り家の形式を残しています。建てられたのは十八世紀前半と推定されています。
当初は直ご家(すごや=曲り家の部分がない家)として建てられました。
その後、台所部分が拡張され、8.1mに18mの母屋となり、7.2mに8.1mの馬屋が付け加えられ、曲り家の形になりました。
おのや、ちょうな削りの桂を使った開口部(窓など)の少ない閉鎖的なつくり、火打梁をかけた古い例、それに直ご家から曲り家へ変わっていった過程などを知る上で貴重な構造を数多く残しています。


台所の拡張、うまやの拡張と、二回の増築で建物が変化したようです。

遠野「福泉寺」で見た「早池峰山妙泉寺」再興の夢

2008年03月20日 | 東北地方の旅
「遠野ふるさと村」の帰り、観光案内地図に載っていた「福泉寺」に立ち寄りました。



福泉寺の拝観受付所付近にあった案内図です。
下中央の道から第1駐車場、第2駐車場と進んでいきます。

駐車場付近を足早に拝観させて頂き、右上の「五重塔」「毘沙門堂」「白衣観音」などは時間の関係で省略してしまいました。



受付で頂いたパンフレットです。
下から仰ぐ「五重の塔」と、水平方向から眺める「五重の塔」の2枚の写真が表紙を飾っています。
ご住職の「五重の塔」に対する思い入れが感じられます。
水平方向から撮った「五重塔」は、建物の美しさがストレートに感じられ、屋根の面の美しいカーブがとても印象的です。

第2駐車場の上にある大観音堂から少し小さく見える「五重塔」を眺めましたが、今思えばこの角度で眺められなかったことが残念です。

案内図によるとお遍路さんでおなじみの「四国八十八カ所」や、近畿から岐阜に跨る「西国三十三番霊場」を模したミニ霊場めぐりがあるようです。



一番上にある第2駐車場から「大観音堂」へ石段を上がっていきました。
左右に狛犬が見えてきました。



「大観音堂」の正面にある石段脇に立派な台座に乗った狛犬がありました。
口の開け方と、目がとても可愛い狛犬で、子犬が吠えているようにも見えます。



狛犬や、仁王さんは、向って右の口が開いている方を阿形、向って左の口が閉じている方を吽形といいます。



「大観音堂」です。
前にベンチがあり、おばあさんが座っていました。



「大観音堂」の軒下の彫刻が素晴らしく、写真を拡大してみました。



横から撮った「大観音堂」です。
この建物の感じは、神社でよく見られる「権現造り」に似ています。



「大観音堂」前から見上げた多宝塔です。
風格のある素晴らしい建物です。



緑の屋根の「福泉寺」本堂が見えてきました。

「福泉寺」ホームページにあった由緒の概要です。
明治維新政府から布告された「神仏分離令」と、「廃仏毀釈」運動により「早池峰山妙泉寺」から「早池峰神社」に改宗されことから「法門山福泉寺」開山の物語が始まるようです。
初代住職の祖父「佐々木紋右衛」は、当時、妙泉寺檀家信徒総代で、「妙泉寺」の再興を強く願っていたそうです。
祖父の意思を継いだ「佐々木宥尊師」(当時は佐々木源吉)は、仏門に入り厳しい修行の上、1912年(大正元年)8月、法門山福泉寺を開山されたそうです。



「福泉寺」本堂にお参りしました。
今や6万坪の敷地にたくさんの仏教施設がある「福泉寺」もこの本堂から始まり、初代住職が祖父から引き継いだ「早池峰山妙泉寺」復興の夢は実現したようです。

明治維新の混乱した時代におこった一部民衆の「廃仏毀釈」運動により、多くの仏教施設が破壊されたそうです。
奈良時代、聖武天皇が、東大寺大仏の前で「三宝(もほとけ)の奴と仕へ奉・・・」と言われ、天皇自ら熱心に仏教に帰依した時代もありました。

2001年アフガニスタンの国宝だったバーミヤンの巨大な石仏が、厳格なイスラム原理主義を唱えるタリバンによって爆破された事件がありましたが、明治維新後の日本で全国的におこった「廃仏毀釈」では、バーミヤン以上の破壊があったものと思われます。

バーミヤンの遺跡も、日本をはじめとして世界的な支援で修復が始まっているようですが、私たちもこのような事件が二度とおきないよう改めて「廃仏毀釈」の歴史を学ぶ必要があると思います。



出口付近にあった「仁王門」です。
時間がなく、残念ながら裏側の仁王さんを見ずに帰りました。

遠野ふるさと村の「曲り家」

2008年03月17日 | 東北地方の旅
「遠野ふるさと村」には江戸時代から明治時代に作られた6軒の「南部曲り家」を移築して昔の村を再現していました。



曲り家「大工どん」のすぐ裏にある「川前別家」です。
遠野市土淵町にあった江戸末期(安政年間)築の曲り家だそうです。
曲がった柱や桁梁等が多く使われ、腕の良い大工さんが建てたと言われています。



曲り家「大野どん」です。
地元の大野集落の上層農家の家だったそうです。
この家は、NHKの朝ドラ「どんと晴れ」で柾樹の父が住む家で使われたそうです。

■説明板があったので転記します。
炉端の家「大野どん」
明治初期築
集落の上層農家の曲り家
奥座敷・表座敷・中の間・茶の間・寝部屋・常居(居間)・台所土間・小厩・厩 すべて昔そのままのつくりになっている。



縁側でお年寄りが民具作りをされていました。
上にぶら下がっている細長い籠や、柄ザルが陳列されていました。
何に使うのでしょうか。



炭を積んだ馬車が曲り家の軒下に置かれてありました。
この家の横に炭焼き小屋もありました。



江戸時代末期に造られた曲り家「肝煎りの家」です。
「肝煎」とは「 庄屋」のことだそうで、「遠野ふるさと村」では最大の曲り家です。
向って左に厩(うまや)があり、人だかりが出来ています。



この馬もNHKの朝ドラ「どんと晴れ」に出演したそうです。



「小昼(こびる)の家」がありました。
「味噌にぎり」「やきもち」「かねなり※」「串団子」などの軽食があるようです。

又、遠野市は、どぶろく特区で、ここで「どぶろく」を製造しているそうです。

この建物は江戸時代中期の1762年(宝暦12)に造られた「曲り家」でない「直家(すごや)」で、納屋、土蔵、厩は別棟になっているようです。
「直家(すごや)」は、この地方では苗字帯刀を許された家の形だったそうで、遠野市上郷町赤川集落の旧菊池善右エ門家だったそうです。

 ※「かねなり」は、米の粉を練って小判の形にし、くるみ醤油を付けて焼いた遠野名物だそうです。



「肝煎りの家」の横にある土蔵です。
壁を保護するためでしょうか、変った板壁が作られていました。


江戸時代の曲り家「弥十郎どん」です。
とても感じのよい曲り家でした。

■説明板があったので転記します。
そばの家「弥十郎どん」
文化9年(1812年)築
典型的な上層農家
人目にふれるところは天井が高く
家人の住むところは低くして2階をつくり、隠し部屋として仕切り板を工夫する等、武家屋敷以上に防備した
※そばつくりの体験ができます(予約必要)



屋根の部分を拡大した写真です。
模様が付いて格調の高い屋根です。
なぜかカラスまでカッコよく見えます。



明治時代中期に造られた曲り家「水乃口(みなくち)」です。
「草木染め体験」や、展示ギャラリーでは草木染め、陶芸、木工などの作品を展示しているようです。
向って左側や、中央にも玄関があり、家の間取りをかなり改造したものと思われます。
何となく住みやすそうな家でした。

「水車小屋」と、「バッタリ小屋」

2008年03月16日 | 東北地方の旅
昨年10月、東北旅行の「遠野ふるさと村」見物の続きです。



わらぶき屋根の大きな水車小屋がありました。
屋根のてっぺんに草がびっしりと生えていました。



修理中なのでしょうか、水車の一部が外されて下に置いてありました。
水車の構造はなかなか複雑そうで、素人が日曜大工で作れるものではないようです。


水車小屋の中の様子です。
水車の回転を杵に伝える丸木が水平に取り付けられ、一列に並んだ6本の杵が臼の穴に順番に落ちるカラクリのようです。



田んぼのあぜ道にコスモスが咲き、のんびりと見物しながら歩いていました。
わら葺でトンガリ屋根の変った建物がありました。
初めて見るもので、不思議に思いながらも離れた場所から写真を撮っただけで通り過ぎてしまいました。



違う場所から撮った写真で、円錐形のわら葺屋根の建物でした。
藁葺の建物の横にシーソーのような構造物があり、その一部は小屋の中に入っています。
又、木の樋(とい)から水が流れて来て、木をくり抜いた穴に水が貯まるようになっていました。



「遠野ふるさと村」の案内地図中央の田んぼの場所にこの小屋が「バッタリ」の名前で載っていました。



「バッタリ」を調べてみました。
この図は、庭園に竹で作られている「ししおどし」「添水(そうず)」と呼ばれるものです。(手作りの図です)
右の注ぎ口から竹に水が入り、支点から右の節に水が溜まると下にさがり、水が流れ出ます。
その左が勢いよく下がり、音が出るカラクリです。
(この図で、支点から左の長さをもう少し長くしなければバランスが悪かったようです)

「バッタリ」は、この原理で穀物をつく装置と分かりました。
「水車」と同じような働きをするようです。



帰り際に南方向から「ばったり小屋」を見た景色です。
遠野の田舎の風景によくなじんでいます。

「遠野ふるさと村」の南部曲り家「大工どん」

2008年03月13日 | 東北地方の旅

「遠野ふるさと村」の最初の曲り家に着きました。
すぐ横に倉があります。
倉の横の軒下が、格子状に木材で囲われており、初めて見るものです。
この地方の人には分かるのかも知れませんが、雪対策にでも使われるのでしょうか。



倉の正面の軒下も木材で囲われています。
この倉の入口にの「山里の暮らし館」の看板がありました。
昔ながらの山里の民具を展示しているようでしたが、建物の周囲にの囲いに気を取られて通り過ぎていました。



南部曲り家が見えてきました。
見るのが初めてですが、民家としてはかなり大きな家です。

■入口に説明板があったので転記します。
「南部曲り家の特徴」
飛騨の合掌造りと並んで日本を代表する茅葺き民家
茅葺き民家には直家(すぐや)と曲り家が多くみられた。

人の住居空間と厩が鍵型(L字型)に曲がっていて居間台所から常に馬の様子を見ることができ馬が一つ屋根の下で家族の一員として大切に扱われていた。
曲り家は例外なく正面を南向きで建てられ厩のある曲り部分は冬の季節風を除ける役割を果たした。



秋の日差しが当たる南向きの縁側にわら細工の鶴や、民芸品などが並べて置いてありました。
縁側近くにいたおばさんが、製造直売しているのでしょうか。

■この家「大工どん」の説明板を転記します。
おもてなしの家「大工どん」
292.4㎡ 明治中期築
上流階級の民家(この曲り家は大工の棟梁の住居だった)
作りは母家・厩・土間となっており、土間には厩に馬を飼っていた時のままの「馬釜」が据えられています。



わらぶき屋根の民家にはめずらしい二階建てで、屋根の切り込みがおもしろいデザインになっています。
窓に格子があり、昔にしてはセキュリティーを考えた造りのようです。



縁側の奥が、表座敷で、かなり広い部屋があります。
さすが大工どんの家です。



建物の間取り図と、説明書きが掲示されていました。

家の全景は、かなり立派な建物ですが、よく見ると正面玄関がありません。
これも特徴なのでしょうか。

■説明書きを転記します。
遠野の曲り家と間取り 2002.01.21
遠野の曲り家は、一般に南部曲り家と称されている。
1600年代の遠野地方の民家は直家(すごや)であったが、馬産の隆盛とともに曲りの部分を補充し、それが定着したのが南部曲り家である。1700年代になってほほこの構造になったと推定されている。
建築様式は寄せ棟造り(突出部分の一部は入母屋造り)で茅葺き平屋建てで、屋根もL型に葺き、突出部を厩として利用し、厩として利用し、厩と住居の接合部に台所を配して、居ながらに馬のようすを観察できるようになっている。
土台を用いるようになったのは一般的に明治時代以降のことで、それまでは地面に置いた石の上に直接柱を建てる「カノコ(鹿の子)建て」という方式で建てられた。
壁は寒さを防ぐため、柱や貫などを塗りつぶした大壁が原則になっているが、これは激しい冬を過ごしてきた遠野の人々の暮らしの知恵から生まれたものである。
人と馬が一緒に住めるように設計された建築様式や、厩の入り口に貼られる絵馬やお蒼前(そうぜん)様の守札からも、馬のすこやかな成長を祈った遠野の人々の馬に寄せるこまやかな愛情がうかがわれ、遠野の曲り家の大きな特徴になっている。



家に上り、見物をさせて頂きました。
ここは、表座敷の北側で、襖絵や、床の間が非常に立派でした。



床の間の飾りです。
中央に「おしらさま」、向って左にわら細工の馬があり、右に素朴な木彫りのカッパが置かれています。



茶の間の奥にある部屋「常居(じょうい)」に大きな囲炉裏がありました。
こんな大きな囲炉裏を見ると、大家族だった昔の生活がイメージされます。



大きな釜がありました。
給食の台所の釜を思い出します。

■案内板があったので転記します。
「馬釜」
冬は特に寒さがきびしいので餌を与えたりあたためたりして馬に温かい食事を与えた
豆腐や味噌をつくる豆を煮たり蕗などの山菜を湯がいたり蚕のまゆをほぐして糸つむぎをしたり麻を蒸して繊維をと

るなどに使った。
燃料に生木を用いて煙を出し茅葺き屋根に虫がつかないようにいぶして長期間保存に役立てた。
煙は厩の上を通って外にでるため冬のきびしい寒さから馬を守ることができた。



獅子踊りの装束や、わら細工の馬がたくさん置かれていました。

■この写真の右手に2.5m以上もあるような男の藁人形があり、説明板がありました。
この人形にはとてもデカイ男性のシンボルが付いていて、観光客のおばさんにとても人気でした。
「雨風祭のワラ人形」
雨風祭は、二百十日前の8月下旬に行われる行事です。等身大のワラ人形を、男女2体作り「二百十日雨風祭まつるよ。おおきたのはてまで送るよ。」と唱えて、村境まで持っていき、人形を納めます。
二百十日ごろは台風が襲来します。被害から農産物を守るための厄除け行事です。遠野の各地で、雨風祭の行事が見られましたが、現在では、ワラ人形を省略して、旗だけを村境にさしているところもあります。
似たような行事に「虫祭」(旧暦6月)と「春風祭」(旧暦2月)があります。
このワラ人形は、雨風祭の人形をモデルに作ったものです。高さが、3メートルでこのような大きいワラ人形は、全国でも珍しいものです。

「遠野ふるさと村」門前までの風景と、植物

2008年03月09日 | 東北地方の旅
昨年10月7日の東北旅行の続きです。



岩手県遠野市附馬牛町の「遠野ふるさと村」に到着しました。
駐車場から入口方向の広々した景色です。



受付場所にあった「遠野ふるさと村」の案内図です。

「遠野ふるさと村」は、昔から岩手県にあった農家の建築様式「南部曲り家」の建物が数棟移設され、自然な姿で見ることができます。
「南部曲り家」は、母屋と馬屋が一体となったL字型の住宅です。



受付で購入した「入村券」です。
「南部曲り家」と、馬の写真が印刷されています。



受付で頂いた「遠野ふるさと村」の地図です。
左下のビジターセンターを入り村内を右回りで一周しました。



受付を済ませて、右手に見える「蛇石川橋」を渡ると「自然資料館」が見えてきます。
この地方で見られる、動植物の写真パネルや、標本などが展示されていました。



「自然資料館」の横に面白い実が付いた木を見つけました。
赤い実が四つに割れ、その中に黒い実が見えます。
名前は分りませんが、親しみを感じる秋の木の実です。



この花も「自然資料館」の横に咲いていました。
初めて見る花で、一見「葉のないチューリップ??」の感じでした。

調べるとこの花は、「イヌサフラン」でした。
花は、秋になると球根を土に植えていなくても咲くようで、球根の生命力がとても強いようです。
葉は、開花後に出てくるようで、彼岸花を連想します。
又、ユリ科だけにこの花の雄しべは、ユリのものとよく似ている感じです。



村の案内地図に「門前(カドマエ)」と書かれた場所で、ここが本当の村の入り口のようです。
門前の道端に白い花が満開でした。



門前に咲いていた白い花で、「秋明菊」のようです。
道側に花の裏側が向いていたので花の正面が撮れていませんが、花の中心にある黄色い雌しべが印象的です。
花の周りに丸い小さなつぼみが元気よく風にゆれていました。

「秋明菊」は、菊ではなくキンポウゲ科アネモネ属で、花びらが退化し、がく片が花びらのようになったそうです。



「秋明菊」のすぐ隣にこんな花も咲いていました。
ほとんどの花の中心は、あずき色でしたが、黄色のもの(写真右上)もありましたが、調べても、名前が分りませんでした。



門前を入るとこんな景色が見えてきました。

移設された農家の建物が、周囲の野山と調和して人為的に作った観光スポットとは思えない自然な風景が広がっています。
いよいよ「南部曲り家」の見物です。

油絵「トルコ桔梗」

2008年03月06日 | 妻の油絵
昨年の夏に妻が描いた油絵「トルコ桔梗」です。
最近の作品を写真に撮っていないので以前の作品を掲載しました。

気品のあるブルーの花を優雅なピンクの花が取り囲んでいます。
一重の花ですが、開きかけのブルーの花は、八重咲きの感じを受けます。
ブルーの花と、その茎や葉を見ると、野山に咲く桔梗(ききょう)に少し似ている感じです。

前回の絵と同様、3時間余りで勢いよく描き上げた絵です。

「トルコ桔梗」は、アメリカ(南北)原産のリンドウ科ユーストマ属の多年草だそうです。
キキョウ科の桔梗とは違う「リンドウ科」で、トルコには無縁のアメリカ原産の花でした。

正確に言えば「アメリカリンドウ」と言うことなってしまいますが、どうもイメージが壊れてしまいますね。

遠野盆地の秋の景色

2008年03月03日 | 東北地方の旅

遠野市博物館から北の方向にある「遠野ふるさと村」へ向う途中で見た景色です。
しばらく車を止め、この景色を楽しんでいました。

この写真の景色は、北西の方角だったと思います。



やや西の方向の景色です。
少し高い山が見えます。


一面に黄金色の田んぼが広がり、その向こうに山が連なる景色は、どこでもあるようですが、その中に遠野盆地の独特の美しさがあるように思えます。



南西方向の景色です。
なんとなく懐かしさを感じました。

「遠野市博物館」の様々な展示

2008年03月02日 | 東北地方の旅
昨年10月7日の東北旅行の続きです。


遠野市博物館で頂いたパンフレット(1)です。
会場の配置図があり、見学の様子を思い出します。



遠野市博物館で頂いたパンフレット(2)です。
会場の配置図の向って左側の展示第一室の二つのフロアーでは映像で「遠野物語」や、遠野の昔話の紹介されていました。

とてもワイドなスクリーンで、遠野の不思議な物語の世界を知りました。



写真は、展示第一室にあるジオラマの「おしらさま」で、とても悲しい物語でした。
この二つの人形の背景に照明の色や、映像を映し、物語を聞かせてくれます。

向って左側が馬、右側が娘の人形で、「おしらさま」は養蚕の神様です。
養蚕の神様にちなんで「おしらさま」の顔は、桑の木で作られるようです。

他にも面白いカッパの物語もジオラマで、紹介されていました。



これも「おしらさま」で、神様は、赤い布の下だそうです。
「おしらさま」にはこのような「包頭型」と、一つ上の写真で、服の上に顔が見えるのが「貫頭型」の二つのタイプがあるようです。



遠野市博物館で頂いたパンフレット(3)です。
遠野地方の暮らし、信仰、芸能等、多くの展示がありました。



馬市の模型が展示されていました。
説明書き転記します。
■遠野の馬市
馬を育てるのに適した広大な牧草地や高原性の気候をそなえ、古くから馬の改良飼育につとめたため、遠野は南部駒の産地として知られ、とくに粗食で耐久力の強い軍馬の供給地としても評判でした。
毎年、秋の8日間ひらかれる馬市掫(おせり)は、遠野郷にとっては最大の年中行事でした。
陸軍省や農林省の購買官をはじめ全国から集まった人びとから値段が呼びかわされる馬検場、その外の馬繋場では飼い主の家族と馬との惜別のドラマがみられます。



曲り家の模型に説明文がありました。
■住まいとウマ
遠野に最も多く分布している南部の曲り家は日本の民家の代表的な建築様式で、ウマの飼育管理にはきわめて適した構造といえましょう。正面の母屋からL字形に厩(うまや)が突き出し、その間に設けられた土間にはウマの飼育をつくる大釜をすえたカマドがあります。
通風・採光にめぐまれた厩の入口には、絵馬や各地のお蒼前様の守札がはられ、ウマに寄せるこまやかな愛情を物語っています。



遠野市博物館で頂いたパンフレット(4)です。



遠野生まれの人類学者「伊能嘉矩(いのう かのり)」のパネルが展示されていました。
日本の人類学の先駆者「坪井正五郎」に人類学を学び、台湾文化の研究をされたようです。

久しぶりに「鳥居龍蔵」の名前を見ました。
「鳥居龍蔵」は、このブログで2007-05-29に掲載した石垣島の川平湾の近くにある「川平貝塚」を発掘した考古学者として紹介したことがあります。