昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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油絵「トルコ桔梗とガーベラ」

2010年02月26日 | 妻の油絵
妻の油絵「トルコ桔梗とガーベラ」です。(F6号)

白と、ブルーのトルコ桔梗、ピンクのガーベラが、落ち着いた華やかさを感じさせてくれます。

妻は、この絵の出来に少し不満足のようでした。


白のトルコ桔梗は、花びらが幾重にも巻き、頭に巻くターバンに似ています。

「トルコ桔梗」の名前は、トルコ人のターバンのイメージから名づけられたようですが、アメリカ原産のリンドウ科の植物でした。
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尾道市因島の「因島水軍城」

2010年02月20日 | 山陽地方の旅
1月3日の尾道市因島観光の続きです。

今回の「因島水軍城」が、因島最後のスポットです。



「因島市史料館」の横に「因島水軍城」へ登る道があります。

カラフルな武将姿の記念撮影用の人形が置かれていました。

大きな貝の飾りの付いた兜の下には顔を出す穴があり、村上水軍の大将の気分で撮影出来ます。

そう言えば、山頂の水軍資料館にも大きな貝の飾りの付いた本物の兜が展示されていました。



記念撮影用の武将人形のそばに因島中庄地区の案内図がありました。

中央の山の上に「因島水軍城」があり、その山の中腹に「因島市史料館」「金蓮寺」があります。

かっては深い入江だったものが、埋立てられて耕地になったようです。

■案内図と並べて立てられた案内板の説明文です。
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中庄地域のうつりかわわり
今から約700年昔京都加茂神社の荘園で、中御荘と呼ばれた中庄は、古くから因島の中心として発達し、南北朝期から戦国期にかけて村上水軍の本拠地として広く海外に名をとどろかせました。
往時の中庄は入江が深く入っていて浜床(現在外浦)付近や地蔵鼻から宝大寺の石灯籠、山口の常夜灯あたりまで海岸であったといわれて。います(灯籠は他へ移動している)
関ヶ原の合戦後、村上氏が防長に移ってからは平和な一農村としての歩みを続けました。まず農村経営の基礎になる土地について、天正元年(1573年)土生新開を始め鼠功新開貞享2年、前新開元禄年間、油屋新開元禄年間、蘇功新開文政年間など次々海面を埋立て耕地を開拓して来ました。時代は移りその土地に学校や工場、民家ができ現在に至っております。
 尾道市教育委員会
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「因島水軍城」への坂道を登り始めた山の斜面に船の錨が展示され、植え木を刈り込んだ文字が造られていました。

植え木の文字は、丸の中に「上」、下段に「水」「軍」です。

中世のイメージの水軍城に「ストックアンカー」と案内された近代的な錨の展示には少し違和感があります。

水軍時代の錨の絵や、造船の島「因島」の説明が欲しいところです。

■中央の錨の説明板です。
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ストックアンカー 4,590Kg
船舶用(1万トンクラス)
タンカー・コンテナ船数隻に使用。
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■向かって左にある小さな錨の説明板です。
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ストックアンカーA型 2,000Kg
船舶用及び港湾用・作業船に使用(3,000トンクラス)
マストの高さ、●の重さなどにより、いかりの重さが違ってくる。
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坂道の途中に城門がありました。

水軍城に向う雰囲気が出てきます。



頂上に近い急な石段です。

丸に上の字のマークが付いた村上水軍の赤い幟がありました。



櫓の中は、船の資料館で、古代から近代までの世界の船の模型が展示されていました。

宇宙戦艦ヤマトや、美しい帆船などが印象的でした。



櫓の最上階から見た「因島水軍城」の本丸です。

山頂に建つ櫓の窓からは、周囲の中庄の集落や、周囲の山々の景色がよく見えます。

■本丸の入口付近に説明板がありました。
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因島水軍城
この水軍城は昭和五十八年十二月一日に築城された全国でただ一つの水軍城です。
水軍のふるきと因島にふさわしいものと歴史家奈良本辰也氏の監修により再現したものです。
二の丸(六十六平米)は展示室、隅櫓(一二四平米)は展望台、本丸(二七一平米)は水軍資料館として一般に公開されています。
水軍資料館には大塔宮令旨(重要美術品)村上家相伝の由緒ある台紫緋糸段縅巻、村上家伝来文書、金蓮寺在銘瓦、源平合戦屏風、水軍船の模型、相伝の太刀、水軍旗、甲等水軍に縁りのある品が展示してあります。
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頂いた「水軍資料館」のパンフレットにあった大阿武船[おおあたけぶね] の写真です。

水軍資料館の入口付近の中央に展示され、村上水軍が実際に使っていた船を再現、その1/12模型だそうです。

1997年に因島で再現された大阿武船は、全長25m、幅約10m、重量約100トンで、NHK大河ドラマ毛利元就でも登場して話題になったようですが、2006年には解体されています。



これも「水軍資料館」のパンフレットにあった因島村上氏の第6代当主「村上吉充[よしみつ]」の写真です。

「村上吉充」は、厳島の戦いで毛利元就に味方して勝利に導いた他、木津川口の戦いで織田信長の九鬼水軍と戦うなど村上水軍が天下に名を馳せた時代の当主です。

又、このブログ<白滝山「観音堂」と、開山の由来>でも書きましたが、因島の白滝山に観音堂を建立したのもこの「村上吉充」でした。

この他、「水軍資料館」には多くの展示物がありましたが、撮影禁止で、ほとんど記憶に残っていません。

文化財などを撮影禁止コーナーに切り分けて、その他は撮影を許可して欲しいものです。



「水軍資料館」の隣の建物を覗いてみると、座敷に5体の武士の人形がありました。
(後方に座る二体の人形がかくれています)

絵図面を見て、戦いの作戦を考えているようにも見えます。

建物を造り、特別に作った人形を展示していますが、説明書もなく、何の場面かまったく分からない謎の展示でした。



「因島水軍城」から山の尾根に沿って「金蓮寺」まで続く、のどかな遊歩道があり、歩いて行きました。

振りかえって撮った景色ですが、山の斜面にたくさん黄色いミカンが輝いています。

お正月休みの因島観光は、天気に恵まれて良い想い出になりました。
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因島村上水軍の菩提寺「金蓮寺」

2010年02月14日 | 山陽地方の旅
1月3日に行った尾道市因島の続きです。

「尾道市因島史料館」の隣に因島水軍家村上氏の菩提寺「金蓮寺」がありました。

正式には「宝鏡山金蓮寺」[ほうきょうさんこんれんじ]と呼ばれているようです。



金蓮寺」の参道です。

境内は立派な塀で囲まれ、突当りの石段を登ると山門です。

参道の両脇には珍しい仁王の石像が見えます。

参道の植木が葉を茂らせる季節には折角の仁王像は、ほとんど見えなくなってしまうと思われ、残念です。



境内に入り、横から見た山門です。

とても立派な建物で、ちょっと見とれていました。

後ろに見える建物は、鐘楼です。



金蓮寺の境内から山頂にそびえる「因島水軍城」がよく見えます。

参道入口に「因島八景 金蓮寺から見る因島水軍城」と書かれた石柱があり、ここは「因島八景」の一つのようです。

正面の坂道を登ると「因島水軍城」で、左手の民家の軒下には野菜の無人販売所がありました。



民家の前では、付近の畑で採れた野菜が売られていました。

この季節は、柑橘類が大半です。

因島の各所でも道路端に野菜の無人直売所があり、新鮮で安い買い物が楽しめます。



「はれひめ」「レモン」を買いました。

因島のレモンは、果汁が多く、とても重宝しました。

初めての「はれひめ」は一見ミカンのようでしたが、食べるとオレンジのようでした。

柑橘類も品種改良が進んでいるようです。



ひっそりとした金蓮寺本堂です。

写真にはよく見えませんが、立派な瓦屋根が印象的でした。

■森本繁著「村上水軍全紀行」にあった金蓮寺の説明文の一節です。
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金蓮寺
 宝鏡山金蓮寺[ほうきょうさんこんれんじ]は因島水軍家村上氏の菩提寺である。
『因島村上家文書』の金蓮寺棟札写によると、文安六年(一四四九)八月吉日に宮地妙光[みょうこう]と子息大炊助資弘が願主となって建立したことがわかる。
宮地妙光は備後鳴滝城主宮地弘躬[ひろちか]の嫡男で、鳴滝城が木頃[きごろ]石見守経兼[つねかね]に攻められて落城したとき、因島に逃れて村上備中守吉資を頼ったことはすでに述べたが、宮地氏は主君吉資のために村上氏の菩提寺の建立を思い立ち、外浦[とのうら]にあった金蓮廃寺を現在地に移して再興したのである。したがって水軍時代には寺域も広大で立派な堂宇が建ち、近郷随一の寺格を誇っていた。~
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宮地氏は、尾道市吉和町の海に近い山城「鳴滝城」を居城とし、当時から海運などに影響を持つ一族だったと言われています。

因島村上水軍の傘下となって瀬戸内海の海運や、明との貿易などで活躍し、近郷随一の金蓮寺を造る財力を得るまでに成長したようです。



本堂の前に木がそびえていました。

白い案内標識に「尾道市天然記念物」「金蓮寺のモッコク」と書かれていました。

モッコク(木斛)は、ツバキ科のようですが、ツバキの葉を細長くした感じです。

モッコクは、非常に成長が遅いため、この大きさでも珍しい大木とされるようで、市の天然記念物です。



金蓮寺の裏に村上水軍の墓とされる石塔が並んでいました。

向って左側に金蓮寺建物があり、山の斜面に墓地が造られています。



最前列と、次の列の石塔は、「宝篋印塔」と呼ばれているものです。

後ろ三列目からは「五輪塔」と呼ばれる石塔です。

「五輪塔」は、五個の石から構成され、下段から四角い地輪、丸い水輪、屋根のような火輪、半球形の風輪、丸い宝珠形の空輪が重ねられています。

■最前列の「宝篋印塔」の前に案内板がありました
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村上水軍の墓地
かって深い入江であった中庄町の北、因島村上氏の菩提寺金蓮寺にある。かって金蓮寺は中庄町の東南、外浦町ま谷間にあったが、その後現在地に移りそれまで分散していた石塔類を金蓮寺裏山に集めたと伝える。
そのため各石塔について誰の墓塔であるかはわからなくなっている。
瀬戸内海地域における中世の武将が宝篋印塔をその墓石とした例は多いが、この墓地には宝篋印塔十八基のほか五輪塔が多数ある。因島村上氏の一族及びその家臣を含めた墓石群と伝えられている。
尾道市教育委員会
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裏山の頂上にある村上水軍城から金蓮寺を見下ろした景色です。

中央に見える金蓮寺は、三方を山で囲まれています。

約400年前、因島村上水軍は、関ヶ原で敗れた毛利氏に従い、山口に移って行きました。

かっては多くの堂宇が建ち、村上水軍の栄華を見つめてきた金蓮寺も、今は静かにたたずみ、歴史を伝えています。
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油絵「水仙と静物」

2010年02月10日 | 妻の油絵
妻の油絵「水仙と静物」(F6号)です。

少しまぶしい白の花瓶に清楚な水仙の花が開いています。

さりげない黄色のリンゴの存在が、洋酒の瓶と、水仙だけでは堅苦しそうな絵に柔らかさを出しているようです。


水仙は、いかにも日本的な花のようですが、地中海沿岸が原産地のヒガンバナ科の植物で、花ことばは、「うぬぼれ」だそうです。

清楚で、おとなしそうなこの水仙の花に「うぬぼれ」の花ことばは、意外です。

花の少ない冬の花壇に咲き誇る様を「うぬぼれ」と感じたのでしょうか。

12月31日に掲載した益田市鎌手海岸の「唐音水仙公園」を思い出しました。

益田市鎌手海岸の一帯に百万個の水仙の球根が植えられ、遊歩道から水仙の花が楽しめるようです。

11月末~2月末頃に花が咲くと案内されていましたが、天気の良い日に奇岩の絶景と、水仙を見に行くのもいいでしょうね。
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油絵「ストックとネコヤナギ」

2010年02月06日 | 妻の油絵
妻の油絵「ストックと、ネコヤナギ」(F4号)です。

最近では一番気に入った作品になったと言っています。

白と、ピンクの花「ストック」の華やかな雰囲気を、グレーのネコヤナギが少し引き締めているようにも見えます。

「ストック」は、南ヨーロッパ原産、油菜科の植物で、豊かな香りのする冬の花です。

古代ギリシャ・ローマ時代から薬草として栽培されている歴史ある花と聞き、ちょっと気品が増して見えるようです。

今年は雪の多い年でしたが、ぼつぼつ川辺にネコヤナギが咲く季節になりました。

そういえば、ここ数年、川辺のネコヤナギを見ていません。
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「因島市史料館」で見た様々な民衆の祈り

2010年02月02日 | 山陽地方の旅
「尾道市因島史料館」の続きです。



「因島史料館」の玄関脇に石灯籠と、白い立札がありました。

■白い立札の説明文です。
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盃状穴[はいじょうけつ]
此の灯明台は、盃状穴のあるものです。
この穴の発生は古代からで、再生・子宝・安産・豊作・病気平癒などを願ったものとされ、庶民の呪術、信仰を知る重要な民族文化財です。
右下に置いてある盃状穴も同様なものです。
(元重井町一本松にあったものです。)
 尾道市教育委員会
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石灯籠の台石にいくつかの丸い「盃状穴」が彫られていました。

中央に見える二つの大きな穴以外に、浅い穴、小さな穴も見えます。

これらの穴は、石灯籠の広い笠から見ても、雨だれの穴ではなく、やはり人の手で彫られたものと思われます。

「盃状穴」については様々な説があるようで、「盃状穴」を彫る風習が途絶えた現代では謎の穴となっているようです。



灯篭の脇にも盃状穴が見られる石が置かれています。

こちらの穴はかなり深く彫られているようです。

「盃状穴」は、神社の手水鉢[ちょうずばち]の縁や、参道の石段などでも見かけたことがあります。

「盃状穴」のある様々な場所から推察すると、神官・僧侶によるものではなく、参拝者が彫ったものと推察されます。



広島県福山市新市町戸手にある「素盞嗚神社」の参道入口です。(2008年10月26日撮影)

「百度石」と書かれた石柱の横に、ここにも「盃状穴」が彫られた石があります。

「百度石」は、様々な強い願いを神仏にお願いする時、この石から本殿(堂)まで百回(又は百日間)往復して祈る「百度参り」の起点となる石です。



石を上から撮ったもので、大小無数の「盃状穴」が彫られ、雨水がたまっていました。

「百度石」と並ぶこの石を見ていると、この石の穴も百度参りと同じように強いお願いを神仏にする時、彫られた穴ではなかったのではないかと思いはじめました。

貧しかった昔の民衆が、病気が治るよう、子宝を授かるよう、その他様々な願いを神仏に強く真剣に願っている証しとして、このような穴を削る風習があったのではないかと推察しています。

その昔、「百度参り」と、「盃状穴」を彫る風習が、合わせて行われていたのか、並行して行われていたのかは分かりません。

しかし、堅い石にあれだけの穴を彫る風習は、信仰の形が次第に簡略化される歴史を考えると、先に消滅する運命にあったのかも知れません。



「因島史料館」に風変りなものが展示されていました。

板の額に広島県福山市鞆町「沼名前神社」[ぬなくまじんじゃ]のお札、「龍神」と書かれた札、赤い着物の紙人形、古銭、髪の毛の束が飾られています。

人型の紙人形は、現在でも神社などで配られますが、名前を書いて身体をこすり災難の身代わりとなってもらう風習と思われます。

昔、藁人形に人の名を書いて釘を打ちつけて呪い殺す風習と少し似ているようですね。

下の説明文では「奉納された髪の毛」とされていますが、この額が絵馬として奉納されていたものかどうかよく分かりません。

■額の下にある説明文です。
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奉納された髪の毛
弁財船の航行中、海が荒れたとき、乗組員全員が断髪して海の平安を祈願する風習があった。
無事帰港の際、切った髪を絵馬にして奉納した。
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しめ縄に様々な貝が、吊るされ、魔除けとされているようです。

この魔よけが、実際にどのような場所にどのように飾られていたのか説明が欲しいところです。

■額の下にある説明文です。
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魔よけの貝
漁家の戸口につるす。はやり病や災難を、とげのある貝で退散させるという魔除け。
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■魔よけの貝の少し下に「海の信仰」の説明文がありました。
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海の信仰
板子一枚、下は地獄といわれる海の男たちは、いつも生命を張って海に出る。
波静かな海もいつなん時、波乱地獄となるかも知れない。たえず不安にさらされているのが海の男たちである。
ワラをもつかむ心境は、有名無実の神仏に加護を祈るのである。
一見たわいない海の男たちの信仰は、見栄や体裁とは無縁の海のきびしさと生活に根差しているのである。
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石垣島「八重山民俗園 旧牧志邸」の南側の軒先に魔よけとして吊り下げられていた「クモ貝」の貝殻です。

2007年05月07日、沖縄の「魔よけ」 軒下に吊るされた「クモ貝」でも掲載しました。

沖縄本島から更に南の石垣島と同じような風習が、因島にあったことに驚きました。

弥生時代・古墳時代の遺跡でも沖縄地方の貝殻が発掘されており、これら類似の風習も交流があったことによるものでしょうか。
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