昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

イタリア旅行No.11 シエナ大聖堂

2010年12月29日 | 海外旅行
11/11 イタリア旅行3日目15:00頃、シエナの「カンポ広場」から大聖堂(ドゥオーモ)を見に行きました。



「シエナ大聖堂」の全景です。

建物正面(ファサード)が、コシック建築、全体後世はロマネスク建築様式だそうです。

華麗で、荘厳なファサードに感動です。

右手にそびえる鐘楼の白と黒の横縞模様にエジプトのツタンカーメンのマスクを連想してしまいます。



美しい絵が描かれた建物正面(ファサード)の上部です。

てっぺんにヤリを持った天使が立ち、左右の塔の壁に白い狼の彫刻がたくさん取り付けられてました。



「シエナ大聖堂」の正面に向かって左の建物「」の前にシエナのシンボル「雌狼」の像がありました。

シエナの町の各所にも同様の像が見られ、カンポ広場の「ガイアの泉」の水の出口にも狼の像が使われていました。

■雌狼のお腹の下には乳を飲む人間の双子が見られ、これには伝説がありました。
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ローマ建国の伝説によると、雌オオカミに育てられた双子「ロムルス」と「レムス」が争い、勝った「ロムルス」の名にちなむローマを建国したそうです。
これが双子に授乳する雌オオカミの像を紋章としたローマの伝説ですが、負けた「レムス」には二人の息子があり、この地にのがれてシエナを建国、これが同じ紋章を使っている理由のようです。
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大聖堂の中央付近の天井です。

とてつもない壮大さに圧倒されました。

冒頭の外観写真で、鐘楼の左手にそびえているドームを中から見上げたもので、中央には六角形の塔が更に高く伸びています。



長椅子が並び、その奥に祭壇がありました。

数名の人が座り、祭壇を見つめています。

ここにもドームを支えていると思われる白・黒の横縞模様の柱が高い天井まで伸びています。



長椅子に座って見た祭壇です。

キリスト教の信者でなくても強い神聖さを感じさせられます。

祭壇の周りや、アーチ型の壁の彫刻にたくさんの天使の像が舞い、天国の素晴らしさを教えられるようです。



横に伸びた通路にも白・黒の横縞模様の柱が立ち並んでいました。

床には素晴らしい大理石の模様が描かれています。



豪華な大理石の床の装飾です。

広い大聖堂の床に延々と続く床の装飾は、繁栄して勢いのある時代のシエナを感じされられます。

幾何学的な模様や、古代ローマ時代を感じる女性像など素晴らしい床の装飾でした。



奥の祭壇に続く両側の壁面には多くの像や、絵が飾られ、何の絵か分かりませんが、この絵もその一つです。

うす暗い建物内部ではフラッシュ無しの撮影が許されていましたが、失敗した写真が多く、悔やまれます。



大聖堂を出てファサードに向かって右手に建築を中断した建物がありました。

かつてシエナ大聖堂の大規模増築計画があり、断念された姿が残されているものです。

シエナでは1346年に市庁舎と、カンポ広場が完成、1348年にはマンジャの塔を完成させ、この頃がシエナの最盛期だったようですが、大聖堂の大規模増築計画案は、その前の1339年に決議されていました。

1348年、ペストが大流行し、シエナで80%の人口が失われた結果、急速に弱体化してしまい、遂に1555年のシエナ戦争でメディチ軍に敗れてしまいました。

その結果、シエナはトスカーナ公国に併合され、大聖堂の大規模増築計画も無くなったようです。



町の北西「サン・ドメニコ教会」付近からシエナ大聖堂の丘を見た風景です。

シエナ大聖堂の鐘楼と、ドームが重なって見え、右手にファサードがそびえています。

丘の上に続く街並みが、傾きはじめた夕方を浴びて輝きはじめていました。



1465年に造られたゴシック様式の「サン・ドメニコ教会」です。

大聖堂からほど近い場所から見えた風景で、古い家並みが続く道の向こうに素朴な教会が見えていました。

この「サン・ドメニコ教会」の前を通り、城門を出て約3時間の中世の町「シエナ」の観光が終わりました。

イタリア旅行No.10 シエナ カンポ広場と、名物料理

2010年12月26日 | 海外旅行
11/11 イタリア旅行3日目12:40頃、イタリア中部の町「シエナ」へ到着しました。



今回の主要スポット、「カンポ広場」の風景です。

シエナの町の中央にある「カンポ広場」は、半円形の広場で、一面にレンガが敷かれ、美しい建物に囲まれていました。

やはり「世界で最も美しい広場」と称賛される美しさでした。



バスがシエナに到着、丘の上に広がる町が見えはじめたところです。

窓から見える町の上にはひと際高くドゥオーモの鐘楼がそびえています。

丘の上に城壁で囲まれた町を造ったのは、防衛上の理由と思われます。

ヴェネツィアでは広い浅瀬に囲まれた砂州を埋め立てた島が自然の要塞となって、城壁の無い町でしたが、やはり大陸の町ではこのような形態になるようです。



シエナの町の西側に観光客用と思われる入口がありました。

建物の中には丘の上に上っていく数本の長いエスカレーターが接続し、上の町に入ることができます。



シエナの町は、古いレンガ造りの建物が続き、中世にタイムスリップしたようです。

斜面に造られた町の街路は、アップダウンが続き、「中世の坂の町」といった感じです。

壁や、石畳などは、この地方で産出する赤褐色の土が原料で、焼成レンガの色「バーントシェンナ」は、シエナの名に由来した色の一般名称になっています。



街路を曲がると、「カンポ広場」が見えてきました。

ゴシック建築の「市庁舎(プッリブリコ宮)」の横に「マンジャの塔」がそびえ、感動の瞬間でした。

塔の上部や、窓の上の飾りが白い石で造られ、レンガ色の建物に気品のある美しさを醸し出しているようです。

まだ11月中旬というのに、左右の建物をつなぐクリスマスの飾りが早々と飾られていました。



「カンポ広場」の市庁舎の向かい当りの風景です。

半円形の「カンポ広場」は、円の中心が市庁舎で、こちらは向かい側になります。

広場の外周道の脇に地下水の湧き出る「ガイア(歓喜)の泉」がありました。



美しい彫刻が飾られた「ガイアの泉」です。

丘の上に広がるシエナの町は、水の確保に苦労した歴史があり、1348年、地下水を導く工事を完成させた式典で、集まった人々が歓喜の声を上げ、この名称の由来とされています。
(その後、初期ルネッサンスの彫刻家により現在の様な施設が完成したのは15世紀だったようです。)

シエナの町の地下には中世に造られたおびただしい数の地下水路(ボッティーノ)が延べ25Kmにも及び、地下水脈を掘り当て、地下水路を通し、泉や、井戸から利用する高度な技術があったようです。

ラグーナに築かれた天然の要塞「ヴェネツィア」も水の確保に苦労し、雨水を地下に貯める井戸の技術を考えだしたことと通じるものがあるようです。



レンガで舗装されたカンポ広場に「市庁舎(プッリブリコ宮)」から放射線状に出たグレーの石のラインがありました。

広場の外周道路の内側をラインで扇型に仕切り、放射線状のラインで九つに分割されています。

カンポ広場の概要が建設された時期が、13世紀後半から14世紀前半の九人の執政官体制の頃で、これが九つに分割された理由のようです。



シエナを案内して頂いた日本人ガイドさんが、カンポ広場の説明をしている場面です。

手に持っているのはこの広場で年2回行われる祭り「パリオ」の資料(新聞?)で、裏面の広場全体の説明しているところです。

こちらの面にも「パリオ」の写真が掲載され、勇壮な競馬の風景が見られます。

「パリオ」は、裸馬に乗り、広場の外周を三周する競馬で、シエナを構成する17の地区組織(コントラーダ)の内、交代・抽選で10チームが出場するようです。



シエナの町にある17の地区組織(コントラーダ)と、主要街路を記した地図です。
(「シエナ 夢見るゴシック都市」池上俊一著 中央公論新社発行の地図を参考)

シエナは、三つの丘に広がり、それが三分区(テルツォ)の行政区域になっています。(三色区分)

三分区(テルツォ)は、更に街区(コントラーダ)に分割された合計17の地区組織となっています。

街角の壁には動物をかたどった街区(コントラーダ)のシンボルマークが掲げられ、「パリオ」の応援旗でも使われているようです。

カンポ広場は、三つの丘の間の谷間に造られ、三分区(テルツォ)の主要街路が集まっています。

ローマ門からカモッリーア門へ抜ける道は、かつてローマから北ヨーロッパを結ぶ「フランチジェーナ街道」で、シエナは宿場町として栄えることとなったようです。



昼食で入ったシエナのレストランの入口上に飾られた看板です。

カラフルな衣装を着てさっそうと裸馬で走る「パリオ」の絵がありました。

毎年、7月2日、8月16日、の祭りには町中が熱気にあふれ、違う街区(コントラーダ)の夫婦は出身のコントラーダへ帰り、対抗意識を燃やすまで熱狂するようです。



昼食で頂いたシエナ名物の手打ちパスタ「pici(ピチ)」です。

「さぬきうどん」にケチャップを掛けたようにも見えます。

パスタは、中国の麺が伝わったとされていますが、この麺も一本ずつ手延べするようです。

大勢のツアーのためか、麺がのびていたり、固ゆでだったりで、好評ではなかったようですが、イタリアの個性的な地方料理を知ることができました。

シエナの参考資料です
「シエナ 夢見るゴシック都市」池上俊一著 中央公論新社発行


イタリア旅行No.9 ヴェネツィアからシエナへ バスから見た風景

2010年12月21日 | 海外旅行
11/11 イタリア旅行3日目、ヴェネツィアのホテルを7:30頃出発、イタリア中部の町「シエナ」を目指しました。



イタリアの地図です。

旅行会社で頂いた小冊子に掲載されていたイタリアの地図に旅行の行程を記入したものです。

北部の「ヴェネツィア」から「フィレンツェ」の南にある「シエナ」へは、バスで大半の行程が高速道路でした。

ホテルから「シエナ」へ到着した12:40頃まで30分の休憩を含めて約5時間でした。



朝霧のかかった向こうに「リアルト橋」を望む乗船場です。

ホテルで、スーツケースを運搬船に託し、細い路地を歩いてこの桟橋へ到着しました。



小さなキャビンのある船に乗る場面です。

大運河の航行は、比較的おだやかなものでした。



ローマ広場の東岸で下船、その場でバスを待っているところです。

これからバスに乗り、ヴェネツィア本島と、大陸を結ぶ「リベルタ橋」を通り、シエナへ向かいます。



バスに乗車、ローマ広場で見た交通整理をする女性警官です。

広場には他にも数名の女性警官が立っていましたが、いずれもスタイルの良い女性でした。



ひたすら高速道路を走るバスの中から見た教会の塔です。

小さな町にこんな素敵な教会の塔があるとは、ちょっと驚きです。

平地から10m以上高く造られた高速道路から、珍しいイタリアの風景が次々と見えて来ます。



朝霧のかかる河畔に水に浮かぶ2棟の家がありました。

何の建物かまったく分かりませんが、土手の方から柵のある歩道が続き、ポプラのある河川敷には数台の乗用車が駐車しています。

流れがゆるやかで、この家が洪水で流失する心配はないようです。



ヴェネツィアから約2時間走った頃、高速道路のサービスエリアに立寄りました。

建物にはレストラン、コンビニ、有料トイレ等があり、早速、50セントで有料トイレの初体験です。

コンビニで買ったペットボトルのオレンジジュースがとても美味しかったのが印象に残っています。



山の中腹を走る道から向こうの丘に、のどかな景色が見えて来ました。

太陽に照らされた草原には小さな集落があります。



丘の上に面白い形の松の木がある屋敷がありました。

幹の上の部分に枝と、葉が茂り、笠を開いたような形の松です。

イタリアの各地でこんな形の松をよく見かけましたが、どこか親しみを感じる木でした。

ローマからナポリに向かう道では、ローマ時代の街道跡に延々と続くこんな形の松の並木がありました。



小高い山の斜面の所々に畑があり、家屋がまばらに建っています。

頂上に固まって建つ家屋は、中世の農家のたたずまいのようです。



道中で見た送電線の鉄塔の写真を並べてみました。

日本でよく見る送電線は、向って右のタイプですが、二本の角がある形が印象的です。

一番好きな形は、中央の鉄塔で、ニックネームをつけてやりたい気持ちになります。

国内旅行では気にもとめなかった鉄塔の形が気になるのはなぜなのでしょうか。

今年もシャコバサボテンが咲きました

2010年12月18日 | 日記
2週間前からシャコバサボテンが咲き始めました。

今年は、クリスマスの飾りを添えて撮ってみました。

頂いたクリスマスカードに組立て式のクリスマスツリーがあり、一緒に飾りました。

昨年書いたシャコバサボテンの記事を見ると、今年の開花状況は少し遅いようです。

猛暑の年は、寒い冬になると聞きましたが、天候の影響でしょうか。

このペースならお正月に満開の花を楽しめそうです。

イタリア旅行No.8 ヴェネツィア 魚市場と、カナル・グランデの風景

2010年12月17日 | 海外旅行
11/10 イタリア旅行2日目、ヴェネツィアでの午後の自由時間で、リアルト橋から大運河(カナル・グランデ)に沿って西にあるリアルト魚市場へ向かいました。



ブログ作成の参考にさせて頂いたヴェネツィアの歴史の本の表紙です。(図説ヴェネツィア「水の都」歴史散歩 ルカ・コルフェライ著、田中悦子訳、河出書房新社発行)

表紙の絵は、かつて木製だった頃の「リアルト橋」を描いた絵画「十字架の奇跡」(ヴィットーレ・カルパッチョ作 1494年)です。

この橋は、現在の石橋の前の木製の橋で、中央がはね橋となっています。

500年以上も前の風景ですが、現在と同様に3~4階の建物が林立し、屋根には多くの煙突がそびえているのが印象的です。

ヴェネツィアは、14世紀の後半になると石造りの都市となったとされ、15世紀末のこの絵も現在と同じ3~4階の建物が大運河(カナル・グランデ)に立ち並んでいたようです。

ゴンドラは、当時には貴族の乗り物だったようで、座席に小さな屋根が付いています。



左手の建物は、リアルト橋の西岸、北側に見える「カメルレンギ(財政監理官)の館」です。

1528年に完成した三階建ての建物で、財政を司る諸委員会と牢獄がおかれていたようです。

約500年前に運河沿いの軟弱な砂州の上に造られた建物が、今日まで残っていることに驚きます。

この建物の壁面には多くの窓が造られ、壁の重量を軽減させる工夫が見られます。

写真を見ると、建物の床は高潮(アクア・アルタ)で浸水していますが、大運河(カナル・グランデ)がカーブした内側に建っているだけに地盤沈下は避けられなかったようです。

浸水した建物も行き交うゴンドラで、詩的な風景にも見えて来ました。



右手の建物は上段の写真と同じ「カメルレンギ(財政監理官)の館」で、北側から大運河(カナル・グランデ)の対岸を見た景色です。

対岸の建物は、リアルト橋東岸、北側に建つ「元 ドイツ人商館」(現 中央郵便局)で、これも16世紀の建物とされています。

「元 ドイツ人商館」は、かつてドイツ商人が宿泊施設兼倉庫として利用していたもので、一階の大運河(カナル・グランデ)に面した五連のアーチがある船着場が玄関で、交易品なども搬入していたようです。

この大運河(カナル・グランデ)には多くの商館が並び、共和国時代の繁栄を彷彿させます。



大運河(カナル・グランデ)に沿って建つ建築物の基礎構造の図で、「イタリア海洋都市の精神」(興亡の世界史(8)陣内秀信著 講談社発行)にあった図を参考に作成したものです。

基礎造りの過程は、以下のようです。
(1)カラマツまたはカシの木の杭をカラント層(粘土と砂の堆積層で比較的固い)へ打ち込む。
(2)杭の上にカラマツの板材を並べたテーブル状の台を置く。
(3)その上に海水に強いイストリア産の石材で土台を築く。
(4)基礎の石の上に壁や柱を立ち上げる。

イストリア石は、アドリア海の北、ヴェネツィアの東にあるイストリア半島で算出される石灰石で、海水に耐える唯一の石材だそうです。

ヴェネツィア島に立ち並ぶ歴史的な建物が、類を見ない技術で、しかも島外から運び込まれた莫大な量の石材や、木材で造られたことを知り、驚くばかりです。



大運河沿いの道を進むと市場らしき広場があり、野菜のお店が並ぶ場所だったようです。

午後3時を過ぎ、魚市場は終了、八百屋の店舗がわずか2~3軒が開き、閑散としていました。

野菜の種類も特に珍しいものは見当たりません。

珍しかったのは、店員の方で、イタリア人ではなくアフリカや、中東の人が立っていました。



野菜売場を過ぎ、右手の大運河沿いの道は建物の中を進んでいきます。

両側の建物は、魚市場のようで、中はほとんど何もない石造りの建物でした。

本にあった写真では、商店ごとにたくさんのテーブルが並べられ、その上で魚を売っている風景がありました。

正面のアーチを出ると大運河に面した道です。




魚市場の建物を出て、左手を見た景色です。

この小運河は、すぐ後方の大運河へ続き、左手の魚市場の建物と便利につながっているようです。

今は閑散としていますが、朝には外洋や、ラグーナで採れた魚が船から陸揚げされ、仕入れた商店の人達が船で持ち帰る風景があるものと思われます。

小運河の先にレストランが見えます。



小運河の畔にある美しく飾られたレストランです。

日本人の若い女性二人が、入口付近に立っています。たずねてきたようです。

水辺の風景画を描く妻は、この景色が気に入り、写真を採っていました。



魚市場の対岸に建つ「カ・ドーロ(黄金の館)」の建物で、名称は、かつて外壁が金箔で覆われていたことによるものだそうです。

繊細な装飾が施されたこの建物は、1440年に造られた貴族の邸宅で、ヴェネツィアのゴシック建築では最高のものと言われているようです。

現在は、美術館になっているそうで、この後リアルト橋へ戻り、歩いて近くまで行きましたが、日暮れと雨で断念しました。



「カ・ドーロ」の少し西にあった建物で、珍しく庭に木のある邸宅です。

高い四階建ての建物に挟まれていますが、大運河に面してゆとりを持たせた建て方も和みを感じさせてくれるようです。

この風景も妻のお気に入りのようでした。

ヴェネツィアの自由時間は、2時から4時過ぎまであっという間に過ぎ、日暮れと雨で終わりとしました。

このブログを書くために、夢中で撮った写真を何度か見直し、ヴェネツィアの歴史の本を興味深く読むことができました。

ヴェネツィアを見て素晴らしかったと思う反面、まだ沢山の素晴らしいヴェネツィアがあることを教えられました。

イタリア旅行No.7 ヴェネツィア リアルト橋の風景

2010年12月13日 | 海外旅行
11/10 イタリア旅行2日目、ヴェネツィアでの午後の自由時間で、サンタ・マリア・フォルモーザ広場からリアルト橋へ向いました。



細い路地を進み、リアルト橋に近いサン・バルトロメオ広場に出ると、銅像が立っていました。(下段の地図Aの付近)

銅像の土台に刻まれた文字「CARLO GOLDNI」から18世紀、ヴェネツィアが生んだ偉大な劇作家「カルロ・ゴルドーニ(1707~1793年)」の銅像のようです。

「カルロ・ゴルドーニ」は、イタリアのみならずヨーロッパで高い評価を受けた劇作家で、ヴェネツィアの大衆的な即興仮面劇を芸術的な喜劇に発展させた人です。

1762年にはブルボン王朝期のフランスへ招かれ、大いに活躍したようですが、不幸にもフランス革命の混乱の中で1793年に亡くなったとされています。

「カルロ・ゴルドーニ」が活躍した時代、リアルト橋の南には現在も残る「フェニーチェ劇場」「サン・ルカ劇場(現ゴルドーニ劇場)」の他、周辺に7ヶ所の劇場があったようで、この一帯は、オペラ・演劇が興隆した中心的場所でもあったようです。

ヴェネツィアの人々は、「カルロ・ゴルドーニ」の銅像に輝かしい共和国時代を思い起こし、偉大な芸術家の功績を語り継いでいるものと思われます。

インターネットで調べると、「カルロ・ゴルドーニの家」と称するホームページ(日本語ページもあり)があり、ヴェネチアでの絶頂期と思われる1748年(41才)から約12年間住んだ家を貸し出す案内が掲載されていました。

4人・1週間で、料金が700~1300ユーロで、クラシックな部屋の写真が掲載され、滞在型の観光には素敵な宿のように思われます。



「リアルト橋」付近の地図で、左上部分にヴェネツィア本島全体の地図を添えています。

橋にある矢印は、幅20mの中央通路、その両側に店舗の軒が並び、橋の両端には3mの通路を表現しています。

ヴェネツィアのシンボル「リアルト橋」は、島の中心に位置し、島を二分する大運河(カナル・グランデ)の両岸を結んでいます。

このリアルト地区は、共和国時代には国家機関があり、広く地中海貿易を牛耳る交易拠点でもあったようで、一都市となった現在でも役所、市場などがある中心地区です。



ゴンドラから見たリアルト橋南側の風景です。

約420年前の1591年(日本は桃山時代)に完成した「リアルト橋」は、「白い巨象」とも呼ばれ、長さ48m、幅22.1mで、高さ7.5mの中央から見渡す大運河(カナル・グランデ)の景色はすばらしいものでした。

「リアルト橋」が最初に造られたのは1180年で、舟を並べた簡単なものだったようです。

次に1265年には杭で支える木造の橋が作られましたが、1444年に水上パレードを見物する群衆が殺到し、壊れてしまいました。

その後、すぐに大型の木造の橋が造られ、中央部分が開閉して帆船を航行させる跳ね橋で、橋の上には店舗が並んだものだったとされています。

現在、大運河(カナル・グランデ)には四つの橋が架かっていますが、1854年にアッカデミア橋が完成するまでの674年間、「リアルト橋」は、唯一の橋だったようです。



上の写真同様、リアルト橋の東岸、南側から見た景色です。(地図B付近から撮影)

景色を楽しむ観光客で賑わい、橋の下のアーチにはゴンドラも浮かんでいます。

橋の中間には中央・両端の階段をつなぐ通路がありますが、見上げると実に雄大な橋でした。



リアルト橋の東岸、南側のたもとの写真です。(地図B付近から撮影)

欄干の下に線路の枕木のように石が並び、橋の土台は、アーチ中央からの重量を支える方向に石が積まれているようです。

この巨大な石橋を支える土台には12,000本のニレの杭と、カラマツの板が使われたそうで、石材と合わせると膨大な資材だったことがうかがわれます。

又、この場所が選ばれたのも比較的地盤が固く、高い場所だったことによるものだったようで、「Rialto(リアルト)」の語源が、「rivo alto(高い小川)」であると橋の東岸にある「ホテル・リアルト」のサイトに掲載されています。

橋の壁面に文字が刻まれた石板も見えますが、翻訳が出来ませんでした。



リアルト橋の南から見た大運河の東岸の景色です。

建物に沿って仮設橋が続いており、少し前まで浸水していたようです。

岸辺に並ぶ船の向こうにある黄色い壁の建物は、ヴェネツィアの水上バス(ヴァポレッ)のリアルト乗場(地図Cの場所)です。

前日深夜、船でここまで来てサン・マルコ広場近くのホテルへ歩いて行ったのを思い出します。



リアルト橋の南から見た大運河の西岸の景色です。(地図Dの場所)

赤いテントの下の水辺の席に座りのんびりとコーヒーを飲む観光客の姿が見られ、レストランの店員から呼び込みの声を掛けられます。

運河の美しい景色を楽しみながら、おしゃれな店が並ぶ通りを散策しました。



リアルト橋の北から見た大運河(カナル・グランデ)の景色です。

東岸にそびえる塔は、サン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会のものと思われます。

この景色に見とれ、しばらくの間、立ち止まっていました。

ところで、写真左手(西岸)の建物が浸水しているのが見えます。

東岸南側も浸水対策の仮設橋が見えていましたが、この一帯が比較的高い場所であるとの記述とは少し違うようにも感じます。



リアルト橋の中央通路から西岸方向へ下りていく風景です。

リアルト橋にも仮面の他、ヴェネツィアングラス製品、貴金属などのお土産物店が並び、お土産を選ぶ観光客で賑わっていました。




サン・ジャコモ・リアルト教会の横からリアルト橋を見た景色です。(地図F付近)

右手の商店街の先にはリアルト橋の中央階段が続き、左の階段は橋の北側の階段です。

この辺りのお店も多くの観光客で賑わっていました。

向こうにそびえる塔は、東岸のサン・バルトロメオ教会のものです。




リアルト橋の西岸の仮面が飾られたショーウインドウです。

何の仮面か、まったく分かりませんが、見ていると楽しくなります。

写真を見ていると、謝肉祭(カルネヴァーレ)を見に行きたくなりました。



正面の建物は、リアルト橋西岸にあるサン・ジャコモ・リアルト教会です。(地図Fの場所)

サン・ジャコモ・リアルト教会は、ヴェネツィア最古の教会と言われているようです。

ここからリアルト橋の階段、対岸の、東岸のサン・バルトロメオ教会の塔が望め、左手には古い公共の水道が見えます。

この教会の時計も24時間時計で、針の中心の太陽の顔もサン・マルコ教会等のものと類似し、それぞれに長い歴史があることを感じさせられます。


この後、リアルト橋西岸の大運河(カナル・グランデ)沿いを西に進み、魚市場辺りから対岸のカ・ドーロの風景を見に行きました。

参考文献
図説ヴェネツィア「水の都」歴史散歩 ルカ・コルフェライ著、田中悦子訳、河出書房新社発行

油絵「ばら」

2010年12月11日 | 妻の油絵

妻の油絵「ばら」です。

白い花瓶と、カラフルな花を意識してか、背景は薄い色を選んだようです。

中央のピンクの花がヒロイン、その横の黄色い花がヒーローと、花の色には少女まんがの世界を彷彿とするようなアクセントが見られます。

長年、油絵をデジカメで撮影し、画像・印刷共に実物の色が出せませんが、この絵の画像では少し近づけたようです。

芸術的な写真を撮る趣味はありませんが、妻から時々たのまれる絵の印刷で、実物の色を出すのは長年のテーマです。



先日、購入した新しいデジカメSONY Cyber-shot DSC-HX5Vです。

今回の写真からこのカメラで撮影し、画像も良く、ちょっとうれしくなって掲載しました。

このDSC-HX5Vには、GPS・コンパス機能が搭載され、撮影場所の緯度・経度・方位が記録されて地図上で確認できることや、ビデオ撮影がフルハイビジョン画質で、パノラマ写真も撮影出来るなど、低価格のデジカメではかなりのスグレモノです。

これまで旅行や、山歩きでたくさんの写真を撮りましたが、どこで撮ったのか分からず、ブログ作成などで調べるにも時間がかかることがありました。

インターネットで、最近のデジカメをながめていて、このDSC-HX5Vを知り、すぐに欲しくなりました。

これからは、地図を見ながら歩く町や、山などで、液晶画面に表示されるコンパスは重宝しそうです。(これまでは100円ショップのコンパスを利用していました)

上段の写真に見えるストラップは、付属品の白いストラップに、別購入した長めのストラップをつなぎ、落下防止のため、首に掛けて使っています。

これまのデジカメは、FUJIFILM FinePix F100fdで、マニュアル機能も使い撮影してきましたが、油絵の写真では、実物より黄色が弱く写るのが悩みでした。

今度のDSC-HX5Vも黄色にやや弱さは残るものの、FinePix F100fdほどでなく、編集が楽になりました。

しかし、DSC-HX5Vは、オート撮影では、画像が明る過ぎ、晴れの日のマニュアル撮影や、事後の画像編集の手間がかかっています。

旅行で多くの写真を撮り、スライドショーで見る私には少し気になる点です。

画像編集は、以前からフリーソフト「GIMP」を利用させて頂いていますが、すばらしく豊富な編集機能に、とても満足しています。



100円シヨップ(ダイソーではない)で購入したケースにCyber-shot DSC-HX5Vを入れ、ケースの表・裏の写真を並べてみました。

これまでのFinePix F100fdは、純正のヨコ型ケースでしたが、出し入れはこのタテ型が楽で、車の運転でも特にじゃまにはなりません。

素材は、クッション性のある生地で、裏にベルト通しがあり、ベルト右側に付けて歩いていますが、保護機能はまずまずと思っています。

このケースの色は、グレーの他に黒色・紺色もありましたが、良く見ると縫製が雑で、斜め縫われたものや、ベルト通しの位置がずれているものが多く見られました。

105円の商品に、しっかりした品質を望むのは無理があると思いますが、品質管理レベルを考慮し、チェックして買うことも必要と思われます。



デジカメの予備バッテリー(プラスチックケース入)と、それを入れている小銭入れです。

この小銭入も100円ショップ(ダイソー)で購入したもので、横に2個並べたサイズがちょうど良く、バックスキンの柔らかい手触りも気に入っています。

バッテリーにはマジックでA・B・C・Dの文字を書き、順番に使うようにしています。

ついでながら私のケチな写真環境も紹介させて頂きました。

イタリア旅行No.6 ヴェネツィア サンタ・マリア・フォルモーザ広場

2010年12月08日 | 海外旅行
11/10 イタリア旅行2日目、ヴェネツィアングラス工房を終えて、近くのレストランで「イカスミパスタ」を食べた後、14時頃から自由行動になりました。

食事をしたレストランの入口のネオンの看板には、「RISTORANTE PLANET PUB PIZZERIA」とあり、帰って調べるとホームページが見つかり、地図も掲載されていました。(googlの翻訳で見ると簡単に読めます)



「サンタ・マリア・フォルモーザ教会」と、その横にそびえる鐘楼です。

下段のgoogl地図の航空写真の[A]の辺りの風景です。

レストランから大運河の「リアルト橋」を目指して路地を歩き始めたらこのフォルモーザ広場に来たものです。

「サン・マルコ広場」から徒歩で、10~15分程度の場所でしょうか。

ガイドブック「地球の歩き方」では、「サンタ・マリア・フォルモーザ教会はヴェネツィアで最も古いもののひとつ」で、「昔は野外劇場や牛狩りなどの舞台にもなっていた」とあります。



「サンタ・マリア・フォルモーザ広場」の航空写真(左)と、周辺の地図(右)です。(googlの地図を利用させて頂いています)

航空写真の左の小運河に面した小さな広場と、右手の大きな広場全体が「サンタ・マリア・フォルモーザ広場」のようです。

右の地図に示した「ラグーナ・ムラノ・グラス」→「レストランプラネット」→「サンタ・マリア・フォルモーザ広場」と歩いてきました。



レストランから来た「サンタ・マリア・フォルモーザ広場」の南西にある橋です。(googl地図・航空写真[B]の場所)

水面に映る橋や、建物が素敵で、妻の風景画になるのではと、撮った景色です。

橋の上に若いカップルが見え、赤いコートの女性に、皮ジャンの男性が異常接近中でした。

イタリアの男性は、おばあさんを見ても口説くと聞されていましたが、この積極的な男性の国籍は分かりません。



小運河に面した「サンタ・マリア・フォルモーザ教会」の玄関です。(googl地図・航空写真[C]の場所)

教会の玄関は、冒頭の写真の玄関と合わせ、二ヶ所ありました。

運河側の玄関には案内板の掲示が多く、少しにぎやかな感じです。

水の都ヴェネティアの教会だけに、結婚式を終えたカップルが、大勢の人に祝福されながらこの玄関を出て、ゴンドラで運河を進む光景が浮かんできます。

玄関の上の壁に棒を持って立つ男性像がありました。

まさか門番の像とも思えず、聖人にも見えず、謎の像です。



運河に面した鐘楼の扉の上に、ゆがんだ顔の像がありました。(googl地図・航空写真[D]の場所)

大きな口が左にゆがみ、左のまぶたは腫れ、白目になった右目を見ると、誰かに殴られたような顔です。

ガイドブックに記述もなく、この顔の像も謎です。

もしかして教会の玄関の上にある像の男に棒で殴られた伝説があるとか、勝手に鐘楼に登るとこんな顔にされるぞ!などと、見せしめのために飾られた像なのでしょうか??

とにかく、この顔の像は、前を通る観光客に強烈な印象を与えているようです。



ゆがんだ顔の像の前から見上げた鐘楼です。(googl地図・航空写真[D]の場所)

上に見える時計をよく見ると、針が一本で、「サン・マルコ広場」の時計塔と同じ24時間の時計のようです。

針の中心の黒い部分には、太陽の顔がデザインされ、目・鼻・口と、その周りは光りを表現した形で、「サン・マルコ広場」の時計と共通点があります。

時計の裏側の壁にも時計がありましたが、左右の側面は丸い飾りの壁です。

従って、左手に回り込んだもう一つの玄関横に見える鐘楼には時計はありません。

やはり時計の見える位置の運河側の玄関が正式なものではないでしょうか。



運河のほとりから運河北側を見た風景です(googl地図・航空写真[E]の場所)

水辺の風景画を描く妻にはこの景色も、魅かれる風景のようでした。

運河沿いの歴史的な建物や、水面に映る風景は、ヴェネティアならではのものです。



広場には仮設店舗の八百屋さん、ガラス製品の土産屋(右端)がありました。

八百屋は、近所の人が買いに来るお店のようで、大運河の向こう岸に市場があり、船で運んで来るのでしょうか。

いずれの店舗の横にも二輪車(荷車)が置いてあり、夕方には店を片づけるようです。

二つの店舗の間に古めかしい水道施設があり、拡大写真を左上に貼り付けています。(googl地図・航空写真[G]の場所)

本土から送水される水道の施設で、上に向けて水が出て、直接口で飲むタイプのようでした。

水道は、1884年に敷設されており、1872年蒸気船の航行など19世紀末の技術革新の波は、1866年にイタリア王国に編入されたヴェネツィアにも押し寄せていたようです。(日本の明治維新と同時期ですね)

ガラス製品の土産屋の後方にも井戸がありましたが、うまく撮影出来ていませんでした。(googl地図・航空写真[J]の場所を見ると井戸が確認出来ます)



大きな広場の北の景色で、白い建物の屋根には古風な二本の煙突が見えます。(googl地図・航空写真[H]の場所)

炊事や、暖房で煙の出る燃料を使わなくなった現代でも、不要となった煙突は壊されることなく昔の建物の外観がそのまま残されているのが町の各所で見られました。

建物の手前に大きな丸い井戸が見えます。(googl地図・航空写真[I]の場所)

井戸の上は網でふさがれ、今では使われていないようです。

砂州の上に建設されたヴェネツィアでは地下水を汲む井戸はなく、貯水型の井戸が多く造られたようです。

川の無いこの小さな島に、中世には10万人以上の人々が住んでおり、この貯水型の井戸は非常に重要なものだったと思われます。

水の都ヴェネツィアは、水を渇望する都でもあったようです。



広場に面した「サンタ・マリア・フォルモーザ教会」の玄関前の風景で、玄関前の井戸は、上段の写真の井戸を反対側から見たものです。。(googl地図・航空写真[I]の場所)

ヴェネツィアの歴史の本によると、渇水期には井戸の水が特に不足し、舟で本土の川へ行き、汲んで来ていたようですが、井戸への依存率は70~80%だったとあります。

又、川から水を汲む業者は、川をさかのぼってきれいな水を汲むよう義務付けられていましたが、河口付近の水を汲む業者が跡を絶たず、疫病の原因となっていたようです。

井戸の横に赤いペンキで書かれた"CAZZO"の落書きがあり、調べてみるとワイセツな言葉でした。

どこの国でもこんな落書きを書く人がいますよね。



前回掲載のヴェネツィアングラス工房「ラグーナ・ムラノ・グラス」の中庭の風景です。

ここにも井戸がありました。

グラス工房のホームページによると、この屋敷は「かつてドージェ(総督)や貴族たちの住居だった美しいカッペッロ宮殿」と紹介されています。

この中庭や、屋根に降った雨が全て貯まったと思われるこの井戸で利用した一人当たりの水量は、公共の広場の井戸に依存する大勢の庶民と比較してかなり多かったものと考えられます。



この図は、以前読んだヴェネツィアの歴史の本に掲載されていた「井戸の構造図」を思い出しながら描いたものです。(確か図書館の本でした)

井戸の構造は、地下に防水の粘土を敷詰め、その上に水をろ過する砂を入れて貯水槽とし、中央に水を汲む筒を設置して、石が敷き詰められた地面の複数個所に吸込口がある構造でした。

雨水は、少し傾斜をつけて吸込口に集められ、地下の砂の層に分散して流れていきます。(上段の中庭の写真でも吸込口のようなものが見られます。)

多くの人々が、わずかな水で生活していたヴェネツィアでは、降った雨をいかに無駄なく利用するか、町の切実なテーマだったようです。

14世紀になると、新しい法律が出来、全ての屋根に樋[とい]の設置を義務づけ、公共広場の地下には大規模な井戸が整備されていったようです。

砂州の上に築かれたヴェネツィアでは、多くの石の建造物を支える木の杭の技術と共に、生活用水がほとんど無かった環境を貯水型井戸の技術で克服し、輝かしい繁栄の時代を創り上げたことをこの井戸で学びました。

何故このような厳しい環境に町を造り、輝かしい歴史を創ることが出来たのか、ヴェネティアにはまだ多くの秘密がありそうです。

イタリア旅行No.5 ヴェネツィアグラス工房の見学

2010年12月06日 | 海外旅行
11/10 イタリア旅行2日目、ヴェネツィアのゴンドラ観光を終えて、ヴェネツィアングラスの工房へ向いました。



ヴェネツィアングラスの工房へ向う途中、サンマルコ広場南岸の様子です。

高潮「アクア・アルタ」」の影響で、ゴンドラ乗場は水没し、休業状態です。

沖に浮かぶ小さな島に建つ美しいサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会を見ても、大洪水の被害現場の風景に見えてきました。



ドゥカーレ宮殿の南の広場を東に進んだ小運河に架かる橋にさしかかりました。

橋のたもとは浸水しています。

左手にドゥカーレ宮殿があり、この橋から左手の運河上に「ため息の橋」が見えてきます。



小運河に架かる橋から見た「ため息の橋」です。

16世紀に作られたこの橋は、左手の「ドゥカーレ宮殿」で行われた裁判で有罪となった人が、右手の牢獄の建物に連れて行かれる時に渡った橋だそうです。

しかし、訪れた時は、本格的な工事中で、左右の壁は、青い工事の壁で覆われ、橋の上にも大きな白い看板が取り付けてありました。(青空も見えています)

罪人が橋を渡る時、思わず絶望のため息をつくことから「ため息橋」と名付けられたようですが、16世紀の雰囲気がまるで無くなった工事中の場面に落胆し、「ため息」が出てきそうな心境でした。



「ため息の橋」の橋を過ぎた辺りを歩く様子です。

海岸の広場には多くの土産物屋が並んでいましたが、一面の浸水では買い物客も近寄れず、土産物屋も水位が下がるのをしかたなく待っているものと思われます。

子供の頃、雪が降るとうれしくなっていましたが、この高潮の景色にどこか同じ様な気持ちが湧いていました。



サンマルコ広場周辺の地図です。[googlの地図を使わせて頂きました]

ゴンドラ乗場からヴェネツィアングラス工房「LAGUNA MURANO GLASS(ラグーナ・ムラノ・グラス)」まで赤い矢印で歩いた道を描いています。

又、赤い破線の矢印はサンマルコ広場で浸水がなかった場合に通ったと思われる道です。

写真を整理し、地図で工房の場所を確認すると、遠回りして広場南の海岸を迂回したことが分かりました。

又、緑の星印の場所に宿泊したホテルがあり、「サンマルコ寺院」「ゴンドラ乗場」「ヴェネツィアングラス工房」をまわる便利な場所にあったことも分かりました。



12時前、ヴェネツィアングラス工房へ到着、花瓶作りの実演を見せて頂きました。

ヴェネツィアングラスは、古代ローマ時代から続く吹きガラス成形の伝統技術を発展させたものだそうです。

鉄パイプの先端に高熱で溶かしたガラスを巻きつけ、シャボン玉のように息を吹いて膨らませる成型方法です。

ハサミや、ペンチのようなもので細工を加えて作品を仕上げていました。

実演の部屋には階段状の立見席があり、20人のツアーで満席状態、デジカメの撮影はほとんど失敗でした。



次第に花瓶が出来ている様子です。

実演は、手際良く短時間で仕上げられましたが、日本のガラス工房を見たことがあり、特に珍しいものではありませんでした。

この後、売り場へ移動し、案内の男性から流暢な日本語で、ジョークを交えた商品の案内がありました。

毎日、連れて来られるツアー客に同じ説明を繰り返しているように思われ、面白いジョークをしゃべる姿に少し同情の気持ちも湧いてきます。

店内には様々な美しい商品が陳列されていましたが、事前の買物予定もなく、観光初日から割れ物の土産を買う気にもならず出口のベンチで待っていました。

帰国してこのガラス工房「LAGUNA MURANO GLASS[ラグーナ・ムラノ・グラス]」の日本語のホームページを見つけました。

お店の場所もここで知りました。

旅行前に閲覧し、買物を楽しむのも良いと思います。



ヴェネツィア本島と、周辺の島の地図で、サンマルコ広場付近に赤い丸印をつけています。[googlの地図を使わせて頂きました]

地図の上部に世界的に名高いヴェネツィアングラスの本拠地「ムラーノ島」が見えます。

ヴェネツィアングラス工房は、頻発する火災対策などから13世紀頃に「ムラーノ島」へ移転させたようです。

■「図説ヴェネツィア 水の都 歴史散歩」にムラーノ島の記述がありました。*********************************************************************************
【ムラーノ島とガラス】
 ヴェネツィアでは建国当初から吹きガラス製造が行われていた。もともとガラスの技術は紀元前一世紀頃シリアで生まれ、のちにローマで高度に発達、中世初期を通じてはビザンツ帝国で保たれた。
 名高いヴェネツィアのガラス工芸は、ヴェネツィア本島のすぐ北にある、ムラーノ島の歴史に結びついている。ガラス工房の窯からしばしば出火があったため、一三世紀に入って一部が、一二九一年の法令以降は全工房がムラーノ島に移転し、ここがガラスの製品や芸術品制作の中心になった。
 造船のアルセナーレ、商業のリアルト、国家機構のサン・マルコなどの地域分担にならい、ムラーノにはヴェネツィアの貴重な製品、ガラスが当てられたのである。これには都市の中枢を火事から守るほか、ヴェネツィアから近く、ガラスに関する製造・商業活動のすべてを集中して管理できるなど、さまざまな利点があった。経験こそがすべての時代であったから、一島集中はガラス技術の秘密を守るのにも適し、親から子へ代々受け継がれる形で発展した。
 ムラーノのガラスが一八世紀にいたるまで優位を誇ることができたのは、職人の技術はもとより、質の高い原材料にもよる。交易支配の強みから、ヴェネツィアは良質の原料を安価に入手できた。良質の砂はラグーナやアディジェ川から、窯にくべる木材はフリウーリ、イストリアから、また透明ガラスに欠かせないソーダ灰はシリアから取り寄せられた。
 ムラーノのガラス職人は芸術品ばかりか日用品の製造にも優れ、グラス、大杯、大小のガラス瓶、窓用のガラス板、鏡、眼鏡レンズ、砂時計、ランプなど、透明度を誇る製品が作られていた。また真珠や宝石などのみごとな模造も行われた。
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河出書房新社 ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳



水に浸かった道を簡易的な長靴で歩いています。

ガラス工房「LAGUNA MURANO GLASS[ラグーナ・ムラノ・グラス]」を出ると、道は水に浸かり、とても歩いて行ける状況ではありませんでした。

添乗員さんの計らいで10ユーロの簡易長靴を購入、レストランまでこの長靴で移動しました。

この長靴は、プラスチックの靴底の上に厚手のビニール袋を貼りつけたもので、靴底から足の甲を止める二本のベルトが付いていました。

よく考えられたものだと感心していましたが、プラスチックのベルトは食事の後、水位が下がり、脱いだ時には壊れかかっていました。

サンマルコ広場周辺を歩く多くの観光客がこの長靴を履いており、冬の高潮「アクア・アルタ」を逆手にとったヴェネツィアの新しい観光収入源になっているようにも思われます。



ガラス工房からレストランまで浸水した路地を長靴を履いて歩いている様子です。

レストランで食事(イカ墨のパスタ)を終え、自由行動になりましたが、既に水位が下がっていて、長靴はすぐに脱ぎ、履き換えました。

脱いだ長靴は、捨てる場所も分からず、町を持ち歩き、ホテルまで持ち帰りました。

やっぱり荷物になる割れ物のヴェネツィアングラスを買わなくて良かったようです。

高潮シーズンの秋冬のヴェネツィア観光ではこのような問題は、当分解決される様には思われませんが、素敵な景色にあこがれて来る観光客も減るように思われません。



水に浸かった路地の風景です。

長靴のない人は、立ち往生して待つ人、普通の靴で歩く人、靴を脱いで歩く人様々で、想定範囲内でした。

しかし、日本なら路地のあちこちに長靴を販売する店の風景が見られると思いますが、意外に見当たりませんでした。

世界遺産の京都の町で、同じような問題が発生したら日本人ならどう対処するのか、考えてみるのも面白いテーマになりそうです。

イタリア旅行No.4 ヴェネツィア ゴンドラから見えた「マニン広場」

2010年12月02日 | 海外旅行
11/10 イタリア旅行2日目、ヴェネツィアのゴンドラ観光の続きです。

ゴンドラで小運河を航行中、気になる広場がありました。



前回掲載の、「トリトン」の飾りを付けた二艇のゴンドラがあった広場です。

二人のゴンドリエーレ達が客待ちをする広場の中心には歴史を感じさせる風格のある銅像が立っていました。



広場の中央に立つ銅像と、足元で翼を広げる獅子像です。

ヴェネツィアの守護聖人サン・マルコの象徴とされる翼の獅子像を足元に従える銅像の人物はいったい誰で、この広場はどこにあったのでしょうか。

この謎を考え始めた時、ゴンドラが通ったコースや、この広場などの場所もまったく分かっていなかったことに気付きました。

早速、ゴンドラのスタート地点から探してみました。



サン・マルコ広場から比較的近い場所にあり、スタート地点の手前にあったホテルと、運河に浮かぶゴンドラです。

ゴンドラは、次の航行に備えて運河が広くなったこの場所でUターンしていたのでしょうか。

建物の壁にある「Best Western」「HOTEL CAVALLETTO」の文字が場所を知る手掛かりです。

googlの検索と、地図で調べてみました。



googlの地図右下角にサン・マルコ広場があり、運河が広くなった岸辺に「HOTEL CAVALLETTO」を見つけました。

上の画面は、地図上のホテル名をクリックした時のもので、上段のホテルの写真と似た写真が出て来ます。

ホテルの対岸の道を進むと、その先の橋の向こうがゴンドラ乗場と分かった訳です。



次に、ゴンドラ乗場の少し先にあった運河脇のこのお店の写真が手掛かりです。

店先の赤いテントに「Ivo RISTORANTE」の文字が見え、「Ivo」と名付けられたレストランのようです。

googlのヴェネツィアの地図で「HOTEL CAVALLETTO」の近くにあると思われる「Ivo」を探してみました。



googlの地図を拡大し、運河沿いの登録スポットをチェックして行くとすぐに「Ivo」が見つかりました。

赤いテントのある店先の写真も登録されていました。

googlの地図にはホテルや、レストランがたくさん登録されており、デジカメで撮影しておくと撮影時刻も記録され、場所確認の可能性が高くなるようです。

googlの地図では日本語の表示や、スポットの説明文の翻訳まで出来て、イタリア語の分からない私でも地図上の場所を確認出来ました。

googlの地図は、建物の様子が見える航空写真にも切り替えられ、海外の様々な情報が簡単に得られることを実感しました。



ゴンドラの乗船場所を赤い丸印で、往復の航行ルートを赤い矢印で、googlの地図に描いてみました。

「HOTEL CAVALLETTO」「Ivo RISTORANTE」の位置を記した緑の丸印と、「リアルト橋」から推測したものです。

又、ルート上の赤い星印の場所に「マニン広場」が見つかり、そこにある銅像がイタリア独立の英雄とされる「ダニエーレ・マニン」のものでした。

約千年続いたとされるヴェネツィア共和国は、1797年にナポレオン率いるフランス軍により制圧され、崩壊したそうです。

その後オーストリア帝国の支配も受けたヴェネツィアは、1848年3月から翌年8月までの短期間、「ダニエーレ・マニン」が指揮する勢力により共和国が再興されたようです。



「1875年、ダニエレ・マニンの銅像の除幕式」と説明された写真を偶然見つけたました。

まさに135年前の「マニン広場」で、銅像の周りに大勢の人々が立っています。(冒頭の広場の写真と同じ場所)

この写真は、ヴェネツィアの歴史の本「図説ヴェネツィア 水の都 歴史散歩」(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社)に掲載されていたものを拝借させて頂きました。
(写真が多く、簡潔にまとめられ、ヴェネツィアの歴史を知るにはてもよい本でした)

写真の説明文では「ヴェネツィアは、すでにイタリア王国の一部になっており、独立運動の英雄たちを祝した(1875年)。写真提供Filippi Editore」とあります。

1861年、イタリア王国が誕生、1866年ヴェネツィアも、イタリア王国に統合され、フランスや、オーストリアの支配から脱却することとなりました。

「ダニエーレ・マニン」によるヴェネツィア共和国の短期的な再興から約17年後のことだったようです。

「ダニエーレ・マニン」は、祖国の独立を見ることなく1857年に他界しましたが、独立運動の英雄としてヴェネツィアに銅像が作られ、盛大な除幕式となったようです。

写真の銅像の背後にある建物は、「ダニエーレ・マニン」の生家だそうで、現在では近代的な銀行の建物になっています。

イタリアの歴史をほとんど知らない私も、この広場の銅像に興味を持ったことで、少し歴史を知ることが出来ました。



11:30頃、ゴンドラ観光を終えてサンマルコ広場に戻ってみると、朝より水位が上がり、広場は湖(サン・マル湖??)のようになっていました。

高潮「アクア・アルタ」の影響は、この後もまだ続いていました。



サン・マルコ寺院のそばに立つ長い鐘楼が水面に映っています。

水の中に残っているのは土産物店の屋台ですが、お店の人はどこかで休憩中だったのでしょうか。

こんな美しい景色を見せてくれる「アクア・アルタ」は、今やヴェネツィアの風物詩になっているようです。

ツアーは、これからヴェネツィアン・グラスのお店に行き、その後が昼食の予定でした。

12:45頃、ヴェネツィアン・グラスのお店を出て、食事に向かった時の高潮の様子は次回とします。