昔に出会う旅

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トルコ旅行 9 ヒッタイト帝国の都「ハットゥシャ」-1

2014年12月28日 | 海外旅行
トルコ旅行3日目(10/1 )、ヒッタイト帝国の聖地「ヤズルカヤ遺跡」の次は、帝国の都「ハットゥシャ(トルコ語でハットゥシャシュ)遺跡」の見学です。

ヒッタイトの歴史は、古代メソポタミアから伝わった楔形文字を記した粘土板の発見から解り始めたようです。

この地に文字を伝えたのはメソポタミア北部のアッシリア商人によるもので、ヒッタイト時代以前の紀元前1950〜1750年頃、金・銀・銅などの入手を目的にやってくるようになり、各地に植民商館を造って活動拠点としていたようです。

植民商館のひとつ「カネシュ(現キュルテペ)」1925年から「カッパドキア文書」と呼ばれる大量の粘土板(アッシリア商人の商取引記録)が発掘され、ヒッタイト以前の時代が歴史時代となったようです。

ヒッタイト王国の歴史は、ここハットゥシャ遺跡の「大城塞」にあった王室文書館から1万枚に及ぶ粘土板が発見されたことで解明が始まったようです。

ハットウシャの中核施設と思われる「大城塞」の見学は、残念ながら見学は出来ませんでした。



ヒッタイト帝国時代のオリエントの地図で、「ハットウシャ」は赤丸印の場所です。

「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘著 山川出版社)に掲載されていた地図「ヒッタイト帝国時代のオリエント」を参考に現代の国境(破線)の描かれた白地図をベースに自作したものです。

「ハットゥシャ」は、ヒッタイト古王国が建国された紀元前1680頃からヒッタイト帝国終焉した紀元前1200年まで約480年間続いた都の地で、ヒッタイト帝国の最盛期の領土は、現代のトルコ共和国からシリアにまたがっていたようです。

特に「ヒッタイト帝国主要部」は、大きく湾曲したクズルウルマック川(赤い川)に囲まれたエリアで、帝国が拡大する過程に川を防衛や、国境として利用していたなごりかもしれません。



「ハットゥシャ」の概略地図です。

現地の案内板や、複数の観光案内の地図を参考に自作したもので、東西を谷で挟まれた地形に造られた城壁に囲まれたエリアをピンク色に塗っています。

又、大神殿や、大城塞のある「下市」と表示した北のエリアは、建国頃からの市街地で、南のエリアは「上市」は、紀元前14世紀に外敵に備えて拡張されたとされます。

ヒッタイトの歴史は、紀元前1680年頃建国された古王国時代、紀元前1430年頃再建された新王国(帝国)時代に分けられ、その間の紀元前1500年頃から70年間を中王国時代とされているようです。

ハットゥシャは、中王国がミタン二(オリエント地図参照)の侵攻により崩壊したとされ、現在の遺跡の大部分は、新王国(帝国)時代に造られた施設と思われます。

周囲6Kmにおよぶ城壁跡は、紀元前の規模としては最大級と思われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。

見学は、大神殿、ライオン門、スフィンクス門、王の門と左回りで進んで行きました。



上段は、「大神殿」の復元イメージ図、下段は、その平面図で、遺跡の案内板に展示されていたものです。

この神殿は、天候神「テシュプ」と、配偶神「へパト」に捧げられたものだそうで、日乾レンガの巨大な建物(短辺130×長辺165)があったようです。

神殿の北西には復元された城壁があり、神殿との間に倉庫群の基礎石が並んでいました。

■古代アナトリアの遺産(立田洋司著、近藤出版社)より
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たった一人の守衛が見守る入口から少し行くと、右手にまず大神殿跡が見える。この大神殿跡はまことに大きな遺構である。まず中庭状の大神域があり、その周りを40以上の部屋が囲み、さらに少しの間隔をおいて外側を80余りの細長い部屋がとり巻いている。どうやらこれらの部屋は、さまざまな物資を貯蔵するのに使用されたらしい。現在は土台の石灰石しか残っていないが、当時はこの上に粘土を乾燥させたいわゆる日乾レンガ【この地は夏の太陽光線が強いので、これでもかなりの強度を持った建材となり得る】で厚い壁が造られ、さらにその上には木で支えられながら同じ日乾レンガ製の屋根が載っていた。この大神殿、長さを測れば、短辺で130メートル、長辺で165メートルもあるという。
大神殿跡のすぐ南側には、ごく近年の発掘(1967~1968年)で地上にその姿をあらわした古代の道路(幅8メートル)があり、さらにその向うには、貯蔵用や住居用と目される大きな建物の跡がある。
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上段は、大神殿の駐車場近くにあった石の遺物で、下段は、案内板にあったその復元イメージ図と思われるものです。

案内板の撮影で、ガイドさんの説明を聞きもらし、何か分かりませんが、前後4頭のライオンが守るデザインから王の棺桶にも思えます。



写真上段は、大神殿の門にガイドさんが立つ風景です。

建物の復元イメージ図にあるようにここから建物に入って行ったようです。

ガイドさんの足元に遺跡調査の人が置いた測量器具のようなものが見られ、付近では今も発掘調査が続けられている風景が見られました。

写真下段は、石段を上がった門の地面の風景です。

ガイドさんの話では、ここには二つの秘密の井戸(赤い矢印の場所)があったそうで、昼間の開門時間帯は、石で蓋をされ、夜間の閉門時間帯には蓋が外され、外部からの侵入を防ぐ落とし穴としていたようです。



門から神殿内を進み、振り返った風景です。

通路には石が敷かれていますが、盛り上がっていびつになっている部分は地震などの影響でしょうか。

向こうに門や、駐車場が見えますが、遺跡内はバスで移動して行きます。



門を直進した辺りにあった石で、ガイドさんが建物の基礎石に開けられた穴の説明をしている場面です。

ガイドさんの分かりづらい日本語を私なりに解釈すると、いち早く鉄器を利用していたヒッタイトは、鉄の棒と、石に開けた穴を門の開閉に利用していた意味の説明でした。(この石が何に利用されていたのは理解できていませんが・・・)

付近に散らばっていた建物の基礎と思われる四角柱の石にも等間隔で同様の穴が見られ、基礎の石をつなぎ合わせていた可能性も考えられます。



穴の開いた石の少し南につやのある緑色の石がありました。

冗談なのか、ガイドさんから「宇宙から落ちた石」で、石に手を置き、石を左回りすると願い事がかなうと紹介されていました。

座るのにちょうど良い高さだったように記憶していますが、上部が平らで、神殿にあったことから祭礼などで使われていたものかもしれません。

廃墟のように殺風景な遺跡の中で、美しく磨かれた緑の石には不思議な存在感がありました。



穴の開いた石の近くに、ガイドさんからヒッタイトの王が入った風呂と紹介された水槽のようなものがありました。

深さは確か1.5メートル位で、お湯を沸かして入れるには、大き過ぎるようにも思われます。

「世界の歴史2 古代のオリエント」(小川英雄著、講談社)によると、様々な民族を統治していたヒッタイトは、それぞれの伝統宗教を許容し、自分達の信仰に受け入れて多くの神を信仰していたとされます。

そして、メソポタミアの影響もあり、神を人のように考える擬人神観を持ち、神々は、住居である神殿で、食事、入浴、娯楽の供養まで受けていたとされます。

この風呂も神様が入浴するためのもので、井戸から水を汲み、神様の体を洗う儀式をしていたのかも知れません。

大神殿の外観の再現イメージ図をながめ、更に建物内部の様子や、当時行われていた様々な儀式を私が想像するには余りに情報が足りないようです。

中庭のある神殿、倉庫群、再現された城壁などは、次回とさせて頂きます。


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