昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「樺山遺跡」の「配石遺構」(ストーンサークル)を見学

2008年04月27日 | 東北地方の旅

岩手県北上市稲瀬町の「樺山遺跡」の配石遺構を見学に行きました。
北上川を見下ろす台地に遺跡は広がっていました。

樺山遺跡は、4000年から5000年前の縄文時代の竪穴住居跡群のすぐそばで、配石遺構群が発掘され、復元されています。



頂いたパンフレットに樺山遺跡の案内図がありました。

■遺跡の端に樺山遺跡の案内板の説明文があり、転記します。
「国指定史跡 樺山遺跡」
  指定 昭和52年7月14日
  管理者 北上市
この遺跡は、縄文時代中期の配石遺構群を伴う、縄文時代末から後期にかけて(約四、五千年前)の集落跡である。
特に、配石遺構とよばれる石組み群が、兵陵西側の緩い斜面部から平坦部にかけての一帯に不規則に分布し、発掘調査によって二十数箇所が確認されている。
個々の石組みの石の並べ方にいくつかの型が認められるが、花崗岩の細長い川原石一個を立てた周りに、数個の山石を放射線状に並べたものを典型とする。
石組みの下は少しくぼんではいるが、土こう(あな)といえるものではない。
石組みに伴って出土した土器や石器から縄文時代中期のものと考えられる。
配石遺跡は、縄文時代前期から知られているが、樺山遺跡の時期以降の代表的なものとして、秋田県鹿角市の大湯環状列石がある。
これは縄文時代後期のもので、石組み群の中の日時計とよばれているものが、樺山遺跡の石組みに似ており、樺山遺跡のものをその祖源とみることができる。
このような配石遺跡は何のために造られたかについては以前から墓地とみる説と、祭り場とみる説とがあるが、北海道地方では墓地がほとんどであり、そのほかの地方では両者があって一様ではない。
樺山遺跡では、墓であるかをみるため、石組みの下の土の分析をしたが、墓としての確かな証拠が得られなかったとされている。
しかし、他の遺跡例と比較しながら、今後なお検討する必要があろう。
なお、この旧両上は、配石遺構を造った人々が生活した場所と考えられ、縄文時代中期の竪穴住居跡群がある。
  昭和62年3月
  北上市教育委員会



向こうに見える少し高い場所に縄文時代の住居跡が発掘され、住居が復元されていました。
写真の向って左側が車道で、向こうが東南東方向です。
初めて見る配石遺構です。


上の写真の逆方向の景色です。
向こうに駐車場や、遺跡の説明展示のある「縄文館」などがあり、緩やかに下っています。



丸っこい石が中央に立ち、ごつごつした石が不規則に円く並べられています。
スタンダードな形の他、色々な形の配石遺構がありましたので以下に紹介します。



立っている石がずんぐりとして、置かれている位置も、中央から外れています。



二つの丸い配石遺構がくっついています。



大きめの配石遺構のずいぶん端に石が立っています。



中央に立つ石が三角錐の形です。
この形の石は、「依り石」として祭祀場所などで見かけたことがあります。



立っている石に白い部分があります。
顔に見立てているのでしょうか。



12号配石遺構と紹介されているもので、とにかく変わっています。
立っている石が、自然石と違い、かなり手の込んだ石器のようです。
石は、平たく加工され、縄文館にも模型を再現されていました。


12号配石の位置が紹介されている地図が展示されていました。
約30の配石遺構の配置が描かれています。

この遺跡では約1000年間、人々が生活したおり、この配石遺構は、代々の祖霊を祀ったものではないかと推察しています。
色々な形の配石遺構も代々の祖先の個性に合わせた石を選んだのかも知れません。

沖縄県北中城村の「中村家住宅」

2008年04月23日 | 沖縄の旅
東北旅行の思い出は、1回お休みします。
2008-04-17沖縄県北中城村の「中村家住宅」(18世紀の建物で国の重要文化財)のホームページにブログが開設された案内を頂きました。
以前、「中村家住宅」サイトの掲示板に妻の油絵「中村家住宅」のページ(当ブログ)を紹介させて頂いたことがあり、新設のブログに油絵の写真が掲載された案内でした。
沖縄の歴史的な建物で、妻の画材でもある「中村家住宅」をこの機会に紹介することにしました。



ゆったりとした駐車場から「中村家住宅」の門に向かう場所から見た景色です。
門の左右に長い立派な石塀があり、その上にはフクギの垣根が見えます。
向って左側に受付と、売店のある建物があります。
2匹のシーサと花を背景にして妻と、記念写真を撮りました。



写真は、「中村家住宅」の門で、沖縄の伝統的な形をしています。
つき当りの石壁は、「ヒンプン」で、外から家の中が直接見えないようにするためと、魔除けの意味もあるようです。



正面の建物は、母家(ウフヤ)で、向って右の部屋から「一番座」「二番座」「三番座」と呼ばれ、次に台所があるのが一般的ですが、「中村家住宅」ではその間に板の間が設けられています。
「一番座」から「三番座」の裏側にも部屋があり、「裏座」と呼ばれるようです。
向って右の建物は、離れ座敷(アシャギ)で、6畳が2間あるそうです。

江戸時代、武家屋敷は、身分によりの間取りや、屋根の葺き方などを細かく規定されていたようです。
琉球王朝下の家屋にも身分による規定があり、豪農とはいえ「中村家」では6畳以上の部屋は造れなかったようです。

母家の正面を見ると軒は深く、柱で支えられ、その空間は、雨端(アマハジ)と呼ばれています。
雨端は、日差しを遮り、家に上がる玄関を兼ねた場所で、「一番座」「二番座」の入口を守るようにシーサーが鎮座していました。



母家(ウフヤ)の屋根にある顔だけのシーサーです。
母屋の前にある「高倉」の軒下から見上げた写真で、ちょっと恐いシーサーの顔がとても印象的です。



母家(ウフヤ)に米軍統治下で発行された切手のコレクションが展示されていました。
初めて見た時、改めてこの沖縄が悲惨な戦争に巻き込まれ、長い間米軍の軍政下で苦しんでいたことを思い浮かべました。
二度とこのような切手が使われる時代にならないことを願うものです。
しかし、首里城などが戦争で壊滅的な被害を受けたことを思うと、この歴史的建物「中村家住宅」がよく今日まで残されたものだと感心します。



高倉を東から見た様子です。
古い生活用具や、高倉の模型、建物の模型などが展示されていました。
元は、高倉には一階部分がなく、屋根のすぐ下の二階部分が倉庫として使われていたようです。



門を入り、塀に沿ってすぐ左に歩くと井戸(カー)があります。
妻が、赤瓦の建物を背景に赤い花の植えられた井戸の景色が、とても気に入って、このブログでも油絵を掲載しています。



05年3月、外人の親子が「中村家住宅」の井戸の西から石段を下ていました。
その横に「中村家住宅」の人が立っています。



「中村家住宅」の裏山、敷地西北にあるフール(豚小屋)の上にハナチョウジ(花丁字)が咲いていました。
母家、台所、家畜小屋(メーヌヤー)の赤い屋根が連なり、離れ座敷、高倉の屋根も見えて壮観です。



裏山から母家と、離れ座敷を見下ろした景色です。
裏庭に面しても雨端(アマハジ)が見え、風通しがよく心地の良い涼しさを感じる場所です。



「中村家住宅」の受付、売店の建物です。
帰りに立ち寄り、お茶を頂きました。

「成島毘沙門堂」と「上代水道遺跡」

2008年04月20日 | 東北地方の旅
収蔵庫で拝観した後、坂道を下った「毘沙門堂」へ行きました。
「毘沙門堂」は、以前に「兜跋毘沙門天立像」が安置されていた建物です。



写真は、「毘沙門堂」の建物で、室町時代後期のものと考えられているようです。

■「毘沙門堂」の説明板を転記します。
国指定重要文化財「毘沙門堂」
建物は寄棟造り、鉄板葺のやや大型の三間堂で廻り縁と向拝がついています。
堂内にあった毘沙門天は保護のため現在は上の収蔵庫に安置され、建物だけが存在しています。
毘沙門堂は中世以降真言宗の成嶋寺が管理していて、この建物は延宝元年(1673)に修理をしていますが、各部の仕上げや建築手法などが室町時代後期に建立されたものと言われています。
言い伝えによると、毘沙門天は坂上田村麻呂の建立あるいは慈覚大師草創と伝えられています。
近年まで堂内には、平安時代に造られた兜跋(とばつ)毘沙門天立像(国指定重要文化財)が祀られていたことから、古くからこの地域が重要な信仰の場所であったことがうかがわれます。
県内に残る数少ない中世建造物であることから平成二年に国の重要文化財に指定されています。



「毘沙門堂」の入口から参道を振り返った景色です。
両脇に石の狛犬が見え、休憩所の建物を過ぎたところに杉の御神木が見えます。



「毘沙門堂」前の左右の狛犬です。
お賽銭を入れるためでしょうか、首に箱が結び付けられていました。
首に「しめ縄」は理解出来ますが、「箱」が結び付けられた狛犬の姿には少しみじめさが感じられます。



「毘沙門堂」に入った正面奥の様子です。
「兜跋毘沙門天立像」が安置されていた場所に鏡が置かれています。
やはり長い歴史を感じるこの建物に「兜跋毘沙門天立像」があったとしたらもっとすごい感動があったのかも知れません。

両脇にはとても大きなワラジが奉納されていました。
このワラジは、本当に兜跋毘沙門天様の足のサイズになっているのでしょうか?



「毘沙門堂」の壁の内側には多くの奉納品が飾ってあります。
「額」「剣」「ワラジ」など様々なものがあります。


「毘沙門天」の像を描いて奉納された方も見られます。
多くの奉納品に人々の様々な願いが込められていることが感じられます。



「上代水道遺跡」の案内板がありました。

拝観の受付で頂いた説明文によると、昭和42年参道工事で土管が出土し、国内最古の水道管の一つと考えられているようです。
水源から境内までの約250m全てを水道管でつないでいる例は過去なかったようです。

いよいよ「兜跋毘沙門天立像」「成島毘沙門堂」を拝観

2008年04月16日 | 東北地方の旅
小雨の中、岩手県花巻市東和町北成島の「兜跋毘沙門天立像」を拝観に、安置されている収蔵庫へ行きました。



写真は、JR東日本の雑誌「トランヴェール」に掲載されていた「兜跋毘沙門天立像」です。
この旅行で、最も見たかった仏像です。
平安時代の仏像とは思えない古さを感じない木の色でした。
激しい形相の毘沙門天が静かな顔立ちの地天女の肩に立ち手のひらで支えられていました。

■拝観の受付で頂いた「木造日本一 毘沙門堂 参拝のしおり」に説明文があり、転記します。
「兜跋毘沙門天」(重要文化財)
坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、桓武天皇の命令により、東北の蝦夷を鎮撫平定し、日本国北方鎮護の守護神として、この地(成島)に毘沙門天を祀ったと伝えられ、無量の神徳が授かると信奉されている。
御丈4.73m(約1丈六尺)欅(けやき)の一木調成仏としては、国内唯一と称され、活気あふれる名大作で、平安朝中期の作品とみられ、大正九年には国宝に指定。昭和二十五年国の重要文化財に指定され、文化庁の文化財保護の方針により収蔵庫が造営され収納されている。



「兜跋毘沙門天立像」が安置されている収蔵庫に上る坂道の脇に「毘沙門天と味噌のかかわり」と、「宮沢賢治の詩碑」書かれた案内板がありました。

■案内板を転記します。
「毘沙門天と味噌のかかわり」
◎曽(か)ってひそかな民衆信仰として毘沙門天立像の脛(すね)に味噌を塗り思い思いの祈願をしたという。
この情景を見た宮沢賢治は詩碑に刻まれてある詩にあるように「・・・・毘沙門天に味噌たてまつる・・・・」とよんだ。
◎この祠に(ほこら)に納めてある脛は実物と同型で言わば分身です。
あなたも毘沙門天の脛に味噌を塗って家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全を祈願しましょう。



坂道の途中に「兜跋毘沙門天立像」の脛(すね)と同型のものが祀られている祠と、宮沢賢治の詩碑がありました。
「兜跋毘沙門天立像」の脛(すね)と同型のものが祀られている祠と、宮沢賢治の詩碑がありました。
参拝者は、「兜跋毘沙門天立像」の脛に味噌を塗りつけてお祈りをするそうです。

■宮沢賢治の詩碑を転記します。
「毘沙門像に味噌たてまつる」
アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
峡に瘧の やまひつたはる
ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて
草の峠を 越ゆる母たち
ナリトナナリアナロ 御堂のうすあかり
毘沙門像に 味噌たてまつる
アナロナビクナビ 踏まるる天の邪鬼
四方につつどり 鳴きどよむなり



坂を登りきった場所に「兜跋毘沙門天立像」の安置されている収納庫の近くに拝観受付の案内板があります。



参道に立つ「兜跋毘沙門天立像」の絵が染められている幟です。
「兜跋毘沙門天立像」がうまく描かれていますが、悪役が付けているようなヒゲが気になります。



「兜跋毘沙門天立像」の安置されている収蔵庫の中の様子を撮った写真です。
「兜跋毘沙門天立像」の足もとの両側に「二鬼坐像」があり、その両脇にも仏像が安置されています。


JR東日本の雑誌「トランヴェール」に「二鬼坐像」や、「吉祥天」などの写真が載ったにが掲載されていました。

■拝観の受付で頂いた「木造日本一 毘沙門堂 参拝のしおり」に説明文があり、転記します。
■二鬼坐像(重要文化財)
藍婆、毘藍婆と称し、毘沙門天の侍仏として左右に安置され、刻りは簡潔素朴、量感が豊かで、然も気迫のこもった仏像で、大正九年国宝に指定、昭和二十五年には毘沙門天と共に重要文化財の指定を受ける。

■伝、吉祥天(重要文化財)
御丈1.76m(約五尺八寸)頭に透かし刻りの象頭の冠をいただき、欅の木目が顔の面や胸の部分に表われ、稀にみる勝れた作品として、大正九年国宝の指定を受けた。国内においても数少ない御像と高く評価され、特に象頭の冠は類を見ないとされている。平安朝初期の名作とみられている。昭和二十五年、国の重要文化財の指定を受ける。

■阿弥陀如来(重要文化財)
胎内に、承徳二年に記された祈願文がある。
又江戸中期享保年間、頭部後補(すげ替え)の記録がある。平安朝後期の稀しい仏像で、昭和四十九年県重要文化財の指定を受ける。

岩手旅行に誘ってくれた「兜跋毘沙門天立像」

2008年04月13日 | 近畿地方の旅
昨年10月の東北旅行の続きです。



遠野市から猿ケ石川に沿って花巻市東和町北成島の「三熊野神社」にある「成島毘沙門堂」へ到着しました。
ちょうど予定通りの朝9:00でした。
遠野市の民宿を朝早く出発して小友町の「巌龍神社」「千葉家の曲り屋」「宮守のめがね橋」と、駆け足の見物でした。



2006年10月、東北新幹線の中でJR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事で「東北新幹線・岩手古寺巡礼」「仏像が語る歴史の道」が掲載されているのを目にしました。
表紙には「成島毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」のイラストがありました。
今回の岩手旅行は、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事にあった岩手県の仏像の不思議な魅力にひかれ、一年後にやっと実現したものです。



特集記事のトップにも「兜跋毘沙門天立像」の写真がありました。
大きな毘沙門天を見上げた迫力のある写真でした。



記事には、(写真左から)二戸市天台寺の聖観音立像(桂泉観世音)・十一面観音立像、奥州市黒石寺の増長天・持国天などの平安時代の仏像が紹介されていました。
都の仏像にはない縄文時代を感じる力強さ、素朴さを感じ、岩手へ旅立つきっかけとなりました。



入口の石柱に「熊野神社」「毘沙門堂」の名が見えます。



入口の横にあった案内標識です。
「泣き相撲の宮 三熊野神社 表参道」「木造日本一 毘沙門堂 入口」とあります。

インターネットの観光案内サイトでも「三熊野神社」「成島毘沙門堂」の名で紹介されており、「熊野神社」「毘沙門堂」との違いはよく分りません。

又、「木造日本一」とありますが、ケヤキの一木造りで日本一のようで、他の木の一木造りではもっと大きな仏像があるようです。



緑色の屋根の「三熊野神社」の拝殿と、その後方に本殿が見えます。

■拝殿前に神社の説明板があり、転記します。
岩手県指定有形文化財 「三熊野神社」(みくまのじんじゃ)
三熊野神社の本殿は、向拝流棟造りで、御祭神は熊野の三神で、伊弉冉之命、事解男之命、速玉男之命を祀っています。
言い伝えによると、延暦年中(782~806)征夷大将軍坂上田村麻呂がエミシ征伐の時、この地で紀伊の熊野三山の神威(しんい)を崇(とうと)び熊野の神三を勧請し、三熊野神社を建立したと伝えられています。康平(こうへい)5年(1062)に源義家が安部貞任を追撃しここに立ち寄った時、熊野神社に鏑矢を収めて戦勝祈願をしたところ安部を破り奥羽を兵隊する事ができたと伝えられています。
中世には、和賀領主より社領七十石を寄進され、元和四年(1618)に南部利直公より社領二十三石をいただいています。
県内では数少ない古代建築様式をもつ建造物であることから昭和54年に県の有形文化財に指定されています。



拝殿の前にしめ縄で囲われた大木の切り株がありました。
御神木が枯れてしまったのでしょうか。



拝殿のすぐ横に相撲の土俵がありました。
小雨で、土俵の屋根が光っています。

■土俵の前に「泣き相撲」の説明板があり、転記します。
東和町指定無形民俗文化財
熊野神社十二番角力式(泣き相撲)
ここで行われる泣き相撲は、古くから三熊野神社の特殊神事で、正式には九月の例祭に行う十二番角力の式の事を言います。
言い伝えによると、延暦年中(782~806)坂上田村麻呂がこの地で部下に相撲を取らせたのが始まりと伝えられています。
その後、猿ケ石を境とした南・北成島の青年(二十二歳)による相撲は、勝利した方に豊作をもたらすという占いが流血の争いとなったことから宝永三年(1706)神社氏子の長男で、数え二歳の幼児による泣き相撲にかわり、南北にわかれ六組で取り組みを行い、先に泣き出した方が負けと決められています。現在は幼児成長と豊作を祈る行事として続けられています。
江戸時代から続く民族行事であることから平成五年に町の無形民俗文化財に指定されています。



土俵の中に祭壇がありました。
良縁・子授・健康祈願・安産・学業などのごりやくが書かれています。

神社の奥に坂道があり、いよいよ「兜跋毘沙門天立像」などを納めた収蔵庫に登って行きます。

上空から見下ろした「富士山」

2008年04月09日 | 中部地方の旅
4月5日(土) 17:55頃、飛行機から見えた富士山の写真を掲載します。



羽田空港を17:30出発の便で広島空港へ向かう飛行機から見た富士山です。
運よく前方左側窓側の座席から撮ることが出来ました。

以前、南から見た富士山は、何度かありましたが、この角度は初めてです。

撮影の直後に飲み物のサービスで来たスチュワーデスさんの話では、羽田を離陸して約15分すると富士山が見えるそうです。
ANAの機内誌に掲載されている航路地図では、富士山の北側をかすめるように東西に航路の線が描かれています。



眼下に後方に離れて行く富士山が見えます。
西方向に航行する機体が、夕陽に照らされています。

地上から見る富士山は、思わず手を合わせて拝みたくなる神聖さを感じますが、真上に近い位置から見下ろした気持はちょっと複雑でした。
富士山を見ることができた嬉しさと同度に、どこか神を冒とくしているのではと言った罪悪感を持ちました。



富士山が見えなくなり、雲の広がる景色の中に斜め前方を並走する飛行機が見えました。
同じ方向に横を並んで飛ぶ飛行機は、初めてです。

少しすると、追いつき、やがて左方向に離れて見えなくなりました。
富士山からやや南に向く知多半島を経由するコースの便だったようです。

遠野市宮守 銀河鉄道の「めがね橋」

2008年04月08日 | 東北地方の旅
小雨の中、遠野市綾織町の「千葉家曲り屋」を国道脇から見物した後、遠野市宮守の「めがね橋」へ向け出発しました。
国道396号から遠野市宮守町を左折、宮守川に沿って国道283号線に抜け、JR釜石線と、国道が交差する所に「めがね橋」があります。


国道283号線に架かる「めがね橋」が見えてきました。
三つのアーチが見えていますが、よく見るとその両脇にもアーチがあるようです。

JR釜石線は、国道283号線と同様に釜石市から遠野市を通り、花巻市まで結ぶ線路で、「銀河ドリームライン」の愛称で親しまれているそうです。


■「めがね橋」の駐車場に説明板がありましたので転記します。
土木学会選奨土木遺産
「通称・めがね橋」
岩手軽便鉄道(現JR釜石線)は、大正4年11月に花巻・仙人峠間を狭軌鉄道として開通し、その後、鉄道省の所有となる。昭和18年に改修された達曽部川橋梁「岩根橋」・宮守川橋梁「めがね橋」は、宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」の原風景を連想させ、宮守村のシンボル的な景観として親しまれている。
平成14年11月2日土木学会選奨土木遺産の認定を受けた「めがね橋」は、鉄筋コンクリート充復5径間アーチ橋の景観に調和した設計であり、当時の鉄道土木技術の高さを示すものである。
東日本旅客鉄道株式会社盛岡支社



駐車場から見た「めがね橋」です。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の風景は、この「めがね橋」などを参考にしたようで、アーチ型の美しさは当時の人々にメルヘンを感じさせるものだったかも知れません。



駐車場を出て、車中から撮った「めがね橋」です。
この辺りは、鉄道マニアが、撮影ポイントにするようで、電化しない線路で古いタイプの車輌が「めがね橋」を走る場面が人気だそうです。



車中から撮った通過直前の「めがね橋」です。
小さなアーチ型の穴が開いており、当時としては斬新なデザインだったものと思われます。

遠野「千葉家の曲り屋」

2008年04月06日 | 東北地方の旅
遠野市の「いわてふつかまち駅」から国道396号線を北に走っていると右手の山の中腹に「千葉家の曲り家」が見えてきました。



道路沿いにある受付・売店を兼ねた施設のようです。
小雨模様もあって、国道脇から見物させて頂きました。

道路沿いにある受付・売店を兼ねた施設のようです。
向って左の坂道から上にある「千葉家の曲り家 」へ登って行くようです。



この曲家を見て雄大さに驚きました。
昨日見た「ふるさと村」や、「伝承園」の曲家よりかなり大きく見えます。
別棟の建物が多く、下から見上げるためもあって見る者を圧倒します。



これが「千葉家の曲り屋」の拡大写真です。
約200年前の江戸時代に建てられ、使用人を含めて25人の家族が、163坪に住んでいたようです。
又、曲り屋の部分には、馬20頭が生活していたようです。



下の駐車場から建物全体を見た構図です。
とにかく雄大さには圧倒されました。



「千葉家の曲家」を見上げて瞬間的に思い浮かべた家屋がありましたので掲載します。
映画「八つ墓村」のロケ地になった岡山県の県北、高梁市成羽町中野の「広兼邸」で、数年前の春、訪れた時の写真です。
最初に見た時、「千葉家の曲家」と同様、雄大さに驚きました。
お城のような門を中心に、山の中腹に塀が雄大に広がっています。
「広兼邸」は、江戸時代後期の庄屋さんの家で、銅山経営や、ベンガラ製造で富豪となったようです。

遠野市小友の古い水車小屋

2008年04月05日 | 東北地方の旅
遠野市小友町の「巌龍神社」を後に、国道107号線から東に分かれた道を走っていました。
この道は、小友峠を経て「いわてふつかまち駅」へ抜ける近道と思い、通りました。



しばらくすると道の左側に水車小屋を見つけ、立ち寄りました。
水車がまわる様子もなく、水も流れていません。
現役を引退しているようですが、建物はまだ健在のようです。

道に向いた壁は「土壁」、水車のある側の壁は「板壁」になっており、改めてその構造に納得です。



水車小屋の藁ぶき屋根のてっぺんにチョコンと草が生えているのが印象的です。
あんな高い所では草も取れませんね。



遠野ふるさと村にも水車小屋がありましたが、やはり自然の風景の中で見る古びた水車小屋に懐かしさや、のどかさを感じます。



小友峠へ向かう見晴らしの良い上り坂の途中から走ってきた道の方を見下ろした景色です。
雨模様のためか稲刈りの済んだ田んぼが、ちょっとさびしそうに見えます。

遠野市小友町の「巌龍神社」

2008年04月03日 | 東北地方の旅
昨年10月8日朝、遠野市の民宿を出発して小友町の「巌龍神社」へ行きました。
「巌龍神社」は、遠野市内から国道283号線を西に向い、鱒沢から国道107号線を南に約4Kmの場所にあります。



「巌龍神社」は、巨大な石塔のように岩肌がむき出している「不動巌」を背にして建つ神社で、小友川に架かる赤い欄干の橋を渡り参拝します。
高さ54mの「不動巌」の周りに紅葉が始まっていました。


■参道に神社の案内板があったので転記します。
「巌龍神社」
巌龍神社創建の時代は、不明であるが、当村常楽寺の開祖無門和尚が、同寺の鎮守として、不動明王を勧進し巌龍山大聖寺として祀ったといわれ、往時は背後の奇巌(不動巌)をもって神霊とし羽黒修験源龍院が、別当職となり、六代善蔵院が元禄年間拝殿を建立するも大正七年火災により焼失する。
祭典は明暦年代に旧暦9月28日といわれているが、後に数回変更され現在8月第4土曜日と日曜日の2日間行われている。
源龍院8代の本興は、文化六年本殿を建立し不動尊の仏体を安置し、巌瀧(いわたき)神社と称し、文化八年には神輿堂を置きその後も巌瀧(いわたき)神社として源龍院の子孫が別当職を務める。
明治五年神仏混淆禁止令により祭神を日本武尊に改め巌龍神社と称し村社に昇格する。
昭和二十七年から神社庁発令により宮司制となり現在に至る。 遠野市



観光案内のサイトで「巌龍神社」には、「裸参り」の伝統行事があることが案内されていました。
最も寒い季節に裸で参加する人は、かなりの覚悟がいるものと想像します。

■境内にその案内板があり、転記します。
「小友町裸参り」(おともちょうはだかまいり)
遠野市指定文化財(無形民俗文化財)  指定昭和59年4月20日

小友町裸参りの起源は明らかではないが、修験者源龍院仙林(?~1727)が巌龍神社の別当を勤めていた時に不動講を結び、元禄年間(1688~1704)に拝殿を造営した翌年の初不動の日(1月28日)に不動講の数名を名代として裸参りを行ったのがはじまりと伝えられている。
裸参りは、不動講を中心として伝承され、古くは旧1月28日に行われていた。講中から当番の宿が選ばれ、次のような次第で行われたと言われている。
一、代表の者が神前で鈴を受け取り、振りながら宿に行く。
二、参拝者は宿に集まり身支度を整え、一列となって神社に赴く。
三、神社のそばの清水にて身を清めて礼拝し、鈴振りを先頭に待ちを歩き、長野川に至りて更に身を清め神社に戻る。これを三回繰り返す。
四、行事を終えた後、宿に集まり講中と共に酒肴を交わしながら年間行事や農事などの相談を行う。
現在では二月二八日に行われ、腰に注連(しめなわ)をしめ、頭に鉢巻をまき、草鞋(ぞうり)履きに口に護符をくわえた褌姿の男達が、神社の大鈴をもった厄男(42歳)を先頭に一列となって、各々手に「ぼんぼり」をもち、神社と上宿橋のそばの大般若供養塔の間を三往復して五穀豊穣・無病息災などを祈願する。
このような行事は遠野市内では他に例がなく、貴重な民族行事である。
遠野市教育委員会



神社側から橋と、小友の街を見た景色です。
小友地域は、江戸時代に数ヶ所の金山が開発され、藩の財政をうるおし、多くの労働者が集まり、大変繁栄した歴史があったようです。
小友の街は、周辺の金山に関係する人々の宿場町として賑わっていたと思われます。

遠野市のホームページ「ふるさと遠野」に江戸時代初期の岩手県の金山について書かれています。
岩手県では多くの金山が開発され、江戸時代初期には全国有数の金産出量を誇ったようです。



「巌龍神社」を正面から見た景色です。
「巌龍神社」は、遠野の観光スポットしては、ややマイナーな感じですが、正面の山に見える「不動巌」は、岩手三景のひとつとされた歴史があったようです。

■境内の案内板に長い案内文があり、苦労して転記しました。
「岩手三景 不動巌」
巌龍神社の背後の奇巌を不動巌と云います。大正十三年時の小友村長奥友信氏時代に、岩手日報社の県内三景十勝募集の企画に応募しましたところ次の三ヶ所が入選しました。
一、不動巌(遠野市小友町)
一、不動滝(二戸郡安代町)
一、玄武洞(岩手郡零石町)
小友村では同年九月三日、その入選報告祭が、巌龍神社に於いて盛会に取り行われ、不動巌の頂上からは国旗や提灯を吊り下げるなど里神楽、獅子舞等の奉納が乱舞し夜になっては小学校生徒、男女青年団員の提灯行列が夜の更けるのも忘れての業には村民はもとより近郷近在の見物客の人出で大変な賑いを極めたと記されております。
又、その後昭和25年十月十日日本国有鉄道釜石線全線開通を記念して再び岩手日報社の日本百景の募集ににも又々その選に入り、今尚雄大な不動巌が景勝地として多くの探訪者で賑っております。
不動巌は巌龍神社の背後にあって、直立して地を抜くかのように高さ五十四メートルで正に天を突くような偉容であります。
そして老松が點生し四季の風景格別なものがあり、その巌根に清水の湧出する池があって是れを昔から神水と命名しております。尚又池の中には嶋があって不動尊を祀っており、老樹が繁茂して一層の景を添えております。
又巌面には龍の昇降するような形状を呈していて、神社の背後にあるものを降り龍、西方小友川の淵の上にあるものを昇り龍と云ってその偉観の雄大さに観る人をして驚かしむるものであります。
 岩手三景不動巌
  仰ぎ見る不動の巌や風薫る
   巌龍神社社務所



「巌龍神社」の拝殿です。
この拝殿は、1809(文化6年)に建立されたそうです。
神社は、拝殿の後ろに本殿があるのが一般的ですが、拝殿の後ろには「不動巌(ふどういわ)」がそびえており、山や、岩をご神体とする古代信仰を思い浮かべます。
「巌龍神社」のルーツは、江戸時代に開山された「巌龍山大聖寺」と言われ、「巌龍」の名は、高くそびえる岩(巌)に龍を感じた名称のようです。


拝殿前の左右の狛犬です。
恐そうな目と、口の中が赤く塗られているのが印象的でした。



拝殿で参拝した後、上を見上げて撮った写真です。
写真の上の両端に牙のある動物の彫刻がありました。
向って右は口を開けている顔を見ると、どうも狛犬を彫ったものと思われます。
漫画に出てくるオバケのような顔にも見えます。



拝殿右前から見上げた写真です。
狛犬のような像の隣に鼻の長い木造の象さんがありました。
この象さんは、お隣の狛犬?さんも参道にある石の狛犬と同じように口の中が赤色く塗られています。
このような象は、寺院で多く見られるものです。。


拝殿の板壁に小さな「剣」が貼り付けられていました。
不動尊が手にしている剣に関連して奉納されたものと思われます。



拝殿の前から見上げた「不動巌(ふどういわ)」です。
巌の中心に地層のような縦縞があり、龍のイメージにつながったのでしょうか。



相撲の土俵と屋根が作られていました。
東北地方は、昔からお相撲さんを多く輩出した土地だけにこんな立派な土俵が造られているのかと感心しました。
どんな相撲大会があるのでしょうか?



神社に向かって左の境内の端から見た小友川の風景です。
「不動巌」から続く川沿いの山裾は、絶壁の岩山になっています。
神社の裏でも小友川の流れで岩山の裾が削り込まれていました。
長い時間の中で、小友川の流れが雄大な「不動巌」の景観を造ったことが伺えます。