北海道旅行5日目 6/7(火)函館市元町の街並み散策の続きです。
「船魂[ふなだま]神社」は、掲載できなかった2009年8月の旅行で参拝し、その時の思い出と、写真をまとめました。
「ハリストス正教会」から「旧函館区公会堂」へ向かうほぼ中間の道を函館山方向へ曲がると「船魂[ふなだま]神社」の鳥居が見えてきます。
函館山の上には、展望台も見えています。
函館市元町の「船魂[ふなだま]神社」周辺の地図です。
「ハリストス正教会」の北西方向の道沿いには「遺愛幼稚園」「函館西高」と続き、左折すると「船魂神社」があります。
鳥居をくぐった最初の石段です。
左手の看板に「北海道最古の 船魂神社 義経の里」とあり、石段の両側に赤い幟が続いています。
■境内入口にあった案内板です。
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船魂神社
融通念仏宗を広めるため、良忍という高僧がこの他に来て、「ここは観音菩薩の霊跡である。」といい、保延元年(1135年)観音堂を建てたのがこの神社の始まりとされ、北海道最古ともいわれているが明らかではない。
また、源義経が津軽から渡航したとき、遭難しそうになったところを船魂明神の加護で無事上陸したなどの伝説もあるが、もともとは観音菩薩を祭る観音堂と呼ばれていたらしい。
江戸時代末期に船魂大明神と称し、明治12年(1879年)に村社になり、船魂神社と改称した。
明治25年(1B92年)に改築された社殿は、同40年(1907年)の大火で消失した後、一時、谷地頭町の函館八幡宮に神体を移していたが、昭和7年(1932年)この他に本殿を築いた。現在の建物は、同37年に改築したものである。
函館市
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最初の石段を登ると右手に手水舎がありました。
手水舎の裏手の小さな広場の向こうにある石碑に気づきました。
広場の隅に建つ石碑です。
「融通念仏宗開祖 良忍上人巡錫之跡」「融通念仏宗 管長 大僧正 尚光儘?」と刻まれていました。
良忍上人は、平安時代末期、比叡山(天台宗)に学び、「融通念仏宗」の開祖となった人です。
融通念仏宗を継承する人々がこの地での良忍上人の足跡を知り、建てた石碑のようです。
良忍より60年後に生まれた「法然」(1133~1212年)が「浄土宗」を、良忍より100年後に生まれた「親鸞」(1173~1262年)が「浄土真宗」を開く前に「良忍」は念仏によって救われる教え「融通念仏宗」を開いていました。
比叡山の境内に歴史的な高僧のパネルが並ぶ中に忍上人(1072~1132年)が京都大原「音無しの滝」で修行する姿があり、このブログ2009年01月25日掲載の<比叡山の祖師御行績の絵看板>でも紹介しています。
手水舎の前に記念写真用の鎧姿の義経人形が置かれていました。
義経伝説は、北海道の日本海沿岸や、太平洋の沿岸に広がっているようです。
源義経(1159~1189年)は、法然や、親鸞とほぼ同時代に生きた武将です。
良忍が観音堂を創建し、義経がその観音菩薩の加護で無事渡航した時代には矛盾はないようです。
北海道の海の玄関口、函館の由緒ある「船魂神社」は、北海道の各地に残る義経伝説を最初に知るにはふさわしい場所だったのかも知れません。
「弁慶岩」と名づけられた大きな岩がありました。
■下の草むらの案内板です。
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義経の里
弁慶の腰掛岩
頼朝軍の追手がこないか見張をしていた岩
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社殿に上る最後の石段の右手に「童子岩」紹介された岩がありました。
大きな岩の上にしめ縄が巻かれた小さな岩が載せられており、これが「童子岩」のようです。
童子が指差したと言う「御宣託の泉」は、どこだったのでしょうか。
(手水舎に向かって左に石があり、上がくりぬかれて水が溜まっていましたが・・・)
■岩のそばの案内板です。
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義経伝説、童子岩
蝦夷実地検考録によれば、文治の末(一一九〇)義経津軽より渡り来る洋中に、逆波起り船まさに沈もうとした時、船魂朋神の奇せき有り、つつがなく岸に着き此のあたりを、歩いている時、にわかに、咽が渇き水を探していると童子神が、惣然と岩上に現れ、指さす方をみれば、清水こんこんと涌出ていた。
後世、御宣託の泉と言伝えた。
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■岩のそばの案内板です。
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童子岩
鎌倉時代の建久年間、源義経主従は津軽の三廐からえぞ地へ渡ろうとした。その時逆浪のため船が沈みそうになったが、どうにか船魂明神の加護により上陸することができた。ようやく辿り着いた一行は喉がかわき水を探していたところ、こつ然と童子が岩の上に現われ指をさした。
ぞの方向を見るとこんこんと水が湧き出たという。
この岩を人びとは童子岩と呼ぶようになった。またその水を御宣託の泉といった。
また誤って洗濯水といわれたこともあったが冬は泉の跡すらない。
函館観光協会
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「船魂神社」の社殿です。
建物の詳細案内はありませんが、函館の歴史的建造物に多い鉄筋コンクリート造りのようです。
船魂神社は、かつて観音堂と呼ばれていたとされ、観音堂や、観音菩薩像は、海難事故の慰霊碑や、航行の無事を祈る信仰と結び付いているようです。
良忍上人が長い航海で、はるばるたどりついたこの地で、観音菩薩の霊跡を見つけたのは、人々の航海の無事を祈るためだったのかも知れません。
社殿に向かって右手に境内社が並んでいました。
左から二番目の社殿の前にはキツネ像が置かれ、稲荷神社のようです。
社殿に向かって左手にも祭祀場があり、注連縄のある石柱には「護北神社」と刻まれています。
神社は、神様の御魂を祭る場所、朽ちかけた木造の祠などより清められた場所に建つ石柱もふさわしく感じました。
函館山の地図を見ていると、山頂から北西方向約400mに、「観音山」と呼ばれる標高約260mのピークを見つけました。
山上付近に神仏を祀った古代、良忍が創建したかつての「観音堂」は、見上げる「観音山」を祀るものだったのかも知れません。
社殿前の石段を下りて行く時の風景です。
見下ろす函館港は、かつて北前船が帆を揚げて行き交い、大いに賑わっていたものと思われます。
瀬戸内海の港町でも蝦夷地と結ぶ北前船による繁栄があり、民俗資料館などで海難よけの神様「船霊(魂)様」が展示されているのを見ます。
男女一対の紙人形、船主夫婦の毛髪、2個のサイコロ、穴の開いた銭などをご神体とし、帆柱の根元近くに穴を空け、納めていたそうです。
「船魂神社」に伝わる観音信仰の義経伝説は、厳しい北の海を航行する人々の無事を祈る切実な願いから生まれたものだったのではないでしょうか。
「船魂[ふなだま]神社」は、掲載できなかった2009年8月の旅行で参拝し、その時の思い出と、写真をまとめました。
「ハリストス正教会」から「旧函館区公会堂」へ向かうほぼ中間の道を函館山方向へ曲がると「船魂[ふなだま]神社」の鳥居が見えてきます。
函館山の上には、展望台も見えています。
函館市元町の「船魂[ふなだま]神社」周辺の地図です。
「ハリストス正教会」の北西方向の道沿いには「遺愛幼稚園」「函館西高」と続き、左折すると「船魂神社」があります。
鳥居をくぐった最初の石段です。
左手の看板に「北海道最古の 船魂神社 義経の里」とあり、石段の両側に赤い幟が続いています。
■境内入口にあった案内板です。
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船魂神社
融通念仏宗を広めるため、良忍という高僧がこの他に来て、「ここは観音菩薩の霊跡である。」といい、保延元年(1135年)観音堂を建てたのがこの神社の始まりとされ、北海道最古ともいわれているが明らかではない。
また、源義経が津軽から渡航したとき、遭難しそうになったところを船魂明神の加護で無事上陸したなどの伝説もあるが、もともとは観音菩薩を祭る観音堂と呼ばれていたらしい。
江戸時代末期に船魂大明神と称し、明治12年(1879年)に村社になり、船魂神社と改称した。
明治25年(1B92年)に改築された社殿は、同40年(1907年)の大火で消失した後、一時、谷地頭町の函館八幡宮に神体を移していたが、昭和7年(1932年)この他に本殿を築いた。現在の建物は、同37年に改築したものである。
函館市
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最初の石段を登ると右手に手水舎がありました。
手水舎の裏手の小さな広場の向こうにある石碑に気づきました。
広場の隅に建つ石碑です。
「融通念仏宗開祖 良忍上人巡錫之跡」「融通念仏宗 管長 大僧正 尚光儘?」と刻まれていました。
良忍上人は、平安時代末期、比叡山(天台宗)に学び、「融通念仏宗」の開祖となった人です。
融通念仏宗を継承する人々がこの地での良忍上人の足跡を知り、建てた石碑のようです。
良忍より60年後に生まれた「法然」(1133~1212年)が「浄土宗」を、良忍より100年後に生まれた「親鸞」(1173~1262年)が「浄土真宗」を開く前に「良忍」は念仏によって救われる教え「融通念仏宗」を開いていました。
比叡山の境内に歴史的な高僧のパネルが並ぶ中に忍上人(1072~1132年)が京都大原「音無しの滝」で修行する姿があり、このブログ2009年01月25日掲載の<比叡山の祖師御行績の絵看板>でも紹介しています。
手水舎の前に記念写真用の鎧姿の義経人形が置かれていました。
義経伝説は、北海道の日本海沿岸や、太平洋の沿岸に広がっているようです。
源義経(1159~1189年)は、法然や、親鸞とほぼ同時代に生きた武将です。
良忍が観音堂を創建し、義経がその観音菩薩の加護で無事渡航した時代には矛盾はないようです。
北海道の海の玄関口、函館の由緒ある「船魂神社」は、北海道の各地に残る義経伝説を最初に知るにはふさわしい場所だったのかも知れません。
「弁慶岩」と名づけられた大きな岩がありました。
■下の草むらの案内板です。
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義経の里
弁慶の腰掛岩
頼朝軍の追手がこないか見張をしていた岩
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社殿に上る最後の石段の右手に「童子岩」紹介された岩がありました。
大きな岩の上にしめ縄が巻かれた小さな岩が載せられており、これが「童子岩」のようです。
童子が指差したと言う「御宣託の泉」は、どこだったのでしょうか。
(手水舎に向かって左に石があり、上がくりぬかれて水が溜まっていましたが・・・)
■岩のそばの案内板です。
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義経伝説、童子岩
蝦夷実地検考録によれば、文治の末(一一九〇)義経津軽より渡り来る洋中に、逆波起り船まさに沈もうとした時、船魂朋神の奇せき有り、つつがなく岸に着き此のあたりを、歩いている時、にわかに、咽が渇き水を探していると童子神が、惣然と岩上に現れ、指さす方をみれば、清水こんこんと涌出ていた。
後世、御宣託の泉と言伝えた。
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■岩のそばの案内板です。
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童子岩
鎌倉時代の建久年間、源義経主従は津軽の三廐からえぞ地へ渡ろうとした。その時逆浪のため船が沈みそうになったが、どうにか船魂明神の加護により上陸することができた。ようやく辿り着いた一行は喉がかわき水を探していたところ、こつ然と童子が岩の上に現われ指をさした。
ぞの方向を見るとこんこんと水が湧き出たという。
この岩を人びとは童子岩と呼ぶようになった。またその水を御宣託の泉といった。
また誤って洗濯水といわれたこともあったが冬は泉の跡すらない。
函館観光協会
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「船魂神社」の社殿です。
建物の詳細案内はありませんが、函館の歴史的建造物に多い鉄筋コンクリート造りのようです。
船魂神社は、かつて観音堂と呼ばれていたとされ、観音堂や、観音菩薩像は、海難事故の慰霊碑や、航行の無事を祈る信仰と結び付いているようです。
良忍上人が長い航海で、はるばるたどりついたこの地で、観音菩薩の霊跡を見つけたのは、人々の航海の無事を祈るためだったのかも知れません。
社殿に向かって右手に境内社が並んでいました。
左から二番目の社殿の前にはキツネ像が置かれ、稲荷神社のようです。
社殿に向かって左手にも祭祀場があり、注連縄のある石柱には「護北神社」と刻まれています。
神社は、神様の御魂を祭る場所、朽ちかけた木造の祠などより清められた場所に建つ石柱もふさわしく感じました。
函館山の地図を見ていると、山頂から北西方向約400mに、「観音山」と呼ばれる標高約260mのピークを見つけました。
山上付近に神仏を祀った古代、良忍が創建したかつての「観音堂」は、見上げる「観音山」を祀るものだったのかも知れません。
社殿前の石段を下りて行く時の風景です。
見下ろす函館港は、かつて北前船が帆を揚げて行き交い、大いに賑わっていたものと思われます。
瀬戸内海の港町でも蝦夷地と結ぶ北前船による繁栄があり、民俗資料館などで海難よけの神様「船霊(魂)様」が展示されているのを見ます。
男女一対の紙人形、船主夫婦の毛髪、2個のサイコロ、穴の開いた銭などをご神体とし、帆柱の根元近くに穴を空け、納めていたそうです。
「船魂神社」に伝わる観音信仰の義経伝説は、厳しい北の海を航行する人々の無事を祈る切実な願いから生まれたものだったのではないでしょうか。