昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.32 北海道最古の神社、函館市「船魂神社」

2011年10月28日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)函館市元町の街並み散策の続きです。

「船魂[ふなだま]神社」は、掲載できなかった2009年8月の旅行で参拝し、その時の思い出と、写真をまとめました。



「ハリストス正教会」から「旧函館区公会堂」へ向かうほぼ中間の道を函館山方向へ曲がると「船魂[ふなだま]神社」の鳥居が見えてきます。

函館山の上には、展望台も見えています。



函館市元町の「船魂[ふなだま]神社」周辺の地図です。

「ハリストス正教会」の北西方向の道沿いには「遺愛幼稚園」「函館西高」と続き、左折すると「船魂神社」があります。



鳥居をくぐった最初の石段です。

左手の看板に「北海道最古の 船魂神社 義経の里」とあり、石段の両側に赤い幟が続いています。

■境内入口にあった案内板です。
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船魂神社
 融通念仏宗を広めるため、良忍という高僧がこの他に来て、「ここは観音菩薩の霊跡である。」といい、保延元年(1135年)観音堂を建てたのがこの神社の始まりとされ、北海道最古ともいわれているが明らかではない。
 また、源義経が津軽から渡航したとき、遭難しそうになったところを船魂明神の加護で無事上陸したなどの伝説もあるが、もともとは観音菩薩を祭る観音堂と呼ばれていたらしい。
 江戸時代末期に船魂大明神と称し、明治12年(1879年)に村社になり、船魂神社と改称した。
 明治25年(1B92年)に改築された社殿は、同40年(1907年)の大火で消失した後、一時、谷地頭町の函館八幡宮に神体を移していたが、昭和7年(1932年)この他に本殿を築いた。現在の建物は、同37年に改築したものである。
  函館市
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最初の石段を登ると右手に手水舎がありました。

手水舎の裏手の小さな広場の向こうにある石碑に気づきました。



広場の隅に建つ石碑です。

「融通念仏宗開祖 良忍上人巡錫之跡」「融通念仏宗 管長 大僧正 尚光儘?」と刻まれていました。

良忍上人は、平安時代末期、比叡山(天台宗)に学び、「融通念仏宗」の開祖となった人です。

融通念仏宗を継承する人々がこの地での良忍上人の足跡を知り、建てた石碑のようです。

良忍より60年後に生まれた「法然」(1133~1212年)が「浄土宗」を、良忍より100年後に生まれた「親鸞」(1173~1262年)が「浄土真宗」を開く前に「良忍」は念仏によって救われる教え「融通念仏宗」を開いていました。

比叡山の境内に歴史的な高僧のパネルが並ぶ中に忍上人(1072~1132年)が京都大原「音無しの滝」で修行する姿があり、このブログ2009年01月25日掲載の<比叡山の祖師御行績の絵看板>でも紹介しています。



手水舎の前に記念写真用の鎧姿の義経人形が置かれていました。

義経伝説は、北海道の日本海沿岸や、太平洋の沿岸に広がっているようです。

源義経(1159~1189年)は、法然や、親鸞とほぼ同時代に生きた武将です。

良忍が観音堂を創建し、義経がその観音菩薩の加護で無事渡航した時代には矛盾はないようです。

北海道の海の玄関口、函館の由緒ある「船魂神社」は、北海道の各地に残る義経伝説を最初に知るにはふさわしい場所だったのかも知れません。



「弁慶岩」と名づけられた大きな岩がありました。

■下の草むらの案内板です。
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義経の里
弁慶の腰掛岩
頼朝軍の追手がこないか見張をしていた岩
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社殿に上る最後の石段の右手に「童子岩」紹介された岩がありました。

大きな岩の上にしめ縄が巻かれた小さな岩が載せられており、これが「童子岩」のようです。

童子が指差したと言う「御宣託の泉」は、どこだったのでしょうか。
(手水舎に向かって左に石があり、上がくりぬかれて水が溜まっていましたが・・・)

■岩のそばの案内板です。
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義経伝説、童子岩
蝦夷実地検考録によれば、文治の末(一一九〇)義経津軽より渡り来る洋中に、逆波起り船まさに沈もうとした時、船魂朋神の奇せき有り、つつがなく岸に着き此のあたりを、歩いている時、にわかに、咽が渇き水を探していると童子神が、惣然と岩上に現れ、指さす方をみれば、清水こんこんと涌出ていた。
後世、御宣託の泉と言伝えた。
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■岩のそばの案内板です。
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童子岩
鎌倉時代の建久年間、源義経主従は津軽の三廐からえぞ地へ渡ろうとした。その時逆浪のため船が沈みそうになったが、どうにか船魂明神の加護により上陸することができた。ようやく辿り着いた一行は喉がかわき水を探していたところ、こつ然と童子が岩の上に現われ指をさした。
ぞの方向を見るとこんこんと水が湧き出たという。
この岩を人びとは童子岩と呼ぶようになった。またその水を御宣託の泉といった。
また誤って洗濯水といわれたこともあったが冬は泉の跡すらない。
  函館観光協会
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「船魂神社」の社殿です。

建物の詳細案内はありませんが、函館の歴史的建造物に多い鉄筋コンクリート造りのようです。

船魂神社は、かつて観音堂と呼ばれていたとされ、観音堂や、観音菩薩像は、海難事故の慰霊碑や、航行の無事を祈る信仰と結び付いているようです。

良忍上人が長い航海で、はるばるたどりついたこの地で、観音菩薩の霊跡を見つけたのは、人々の航海の無事を祈るためだったのかも知れません。



社殿に向かって右手に境内社が並んでいました。

左から二番目の社殿の前にはキツネ像が置かれ、稲荷神社のようです。



社殿に向かって左手にも祭祀場があり、注連縄のある石柱には「護北神社」と刻まれています。

神社は、神様の御魂を祭る場所、朽ちかけた木造の祠などより清められた場所に建つ石柱もふさわしく感じました。

函館山の地図を見ていると、山頂から北西方向約400mに、「観音山」と呼ばれる標高約260mのピークを見つけました。

山上付近に神仏を祀った古代、良忍が創建したかつての「観音堂」は、見上げる「観音山」を祀るものだったのかも知れません。



社殿前の石段を下りて行く時の風景です。

見下ろす函館港は、かつて北前船が帆を揚げて行き交い、大いに賑わっていたものと思われます。

瀬戸内海の港町でも蝦夷地と結ぶ北前船による繁栄があり、民俗資料館などで海難よけの神様「船霊(魂)様」が展示されているのを見ます。

男女一対の紙人形、船主夫婦の毛髪、2個のサイコロ、穴の開いた銭などをご神体とし、帆柱の根元近くに穴を空け、納めていたそうです。

「船魂神社」に伝わる観音信仰の義経伝説は、厳しい北の海を航行する人々の無事を祈る切実な願いから生まれたものだったのではないでしょうか。

北海道旅行No.31 函館の街並み、坂道の教会

2011年10月25日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)函館市郊外の「四稜郭」の次は、ホテルにチェックインして、徒歩で街の観光に出かけました。

一昨年の2009年8月1日、初めての函館は、時々雨の降る天気でしたが、今回は晴天に恵まれました。



大三坂をのぼって行くと、急な坂の途中にゴシック建築の鐘楼がそびえていました。

向かって左の門柱には「カトリック元町教会」、右の門柱には「天主公教會」の名が見えます。

門を入って右手の建物の入口の上に「天主公教會」の表示がありましたが、いずれもローマ‐カトリック教会の施設のようです。

教会の創建は、1859年(安政6)フランス人宣教師メルメ・デ・カッションが来日し、小聖堂を造ったことに始まったとされています。

木造の聖堂は、数回火災で消失しため、1924年(大正13)に現在のコンクリート建築で再建したようです。

訪れた日は、建物の改修工事中で、工事車両などで落ち着かない見学でした。



「カトリック元町教会」のファサードです。

聖堂入口の上にキリストを抱くマリア像、両側に聖人の像が安置されています。

向かって左に剣を持つ像は分かりませんが、右手に鍵を持つ像は、「聖ペトロ」 のようです。

信者ではないものの、入口の前に立つと、厳粛な気持ちになります。



坂の上の道から鐘楼屋根の風見鶏がよく見えます。

鐘楼の青い屋根と、隣の聖堂の赤い屋根が美しく映えていました。



函館市元町周辺の地図です。

函館山から函館湾に向けて、何本もの坂道があります。

地図の緑色に塗られた函館西高校から港に下る「八幡坂」があり、その南の「大三坂」の両側に美しい教会が建っています。



「カトリック元町教会」の門の向かいに「亀井勝山郎生誕之地」の石碑と、文芸作品の一節が刻まれた石碑がありました。

■右手の説明板です。
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亀井勝一郎生誕の地
 亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。
 昭和12年「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年日本芸術院会員に推挙された。
 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。
 勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。
なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅[かいこう]し 開眼し 瞑目す」と刻まれた文学碑がある。
   函館市
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■写真中央の石碑に刻まれた、少年時代の街の様子を紹介した作品の一節です。
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私の家の隣はフランスの神父のいるローマカソリック教会堂であった。その隣はロシア系のハリストス正教会である。
この二つの会堂は、それぞれ高さ五十メートルほどの塔をもっているもので、船で港へはいるとすぐ目につく。
ハリストス正教会の前には、イギリス系の聖公会があり、やや坂を下ったところにはアメリカ系のメソヂスト教会がある。
私の家は浄土真宗だが、菩提寺たる東本願寺は、坂道をへだてて我が家の門前にある。
また同じ町内の小高いところには、この港町の守護神である船魂神社が祭られ、そこから一直線に下ったところには、中国領事館があって、ここは道教の廟堂をかねていた。要するに世界中の宗教が私の家を中心に集まっていたようなもので、私は幼少年時代を、これら教会や寺院を遊び場として過ごしたのである。
 ”東海の小島の思い出”の一節より
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後方の建物が「東本願寺函館別院」で、大きな入母屋造りの瓦葺き屋根や、青銅色の破風に重厚さを感じます。

この寺院も幾度かの火災で焼失・移転し、現在の建物は、1915年(大正4)日本初の鉄筋コンクリート造りの寺院として再建されたようです。

生家の周辺に次々と造られるすばらしい宗教建築は、少年時代の亀井勝一郎の心に深く刻み込まれたものと思われます。

このブログ2009年08月05日掲載の<函館旅行と、「日本最古のコンクリート電柱」>も新築した鉄筋コンクリート造りの銀行建物に調和するデザインで1923年(大正12)に作られたようで、火災の教訓から鉄筋コンクリート建築が広がる時代だったようです。



さらに大三坂を上っていくと左手にそびえる「聖ヨハネ教会」が見えてきました。

大三坂は、「カトリック元町教会」から上は、道幅が狭くなり、通りの名は「チャチャ登り」となります。

■聖ヨハネ教会の案内板です。
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日本聖公会館聖ヨハネ教会
 この函館聖ヨハネ教会は、現在、世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。明治7年(1874)英国聖公会海外伝道教会の宣教師W.デ二ングが函館に来て伝道を開始したのが日本聖公会の北海道伝道の始まりで、同派の道内における宣教活動の根拠地であつた。
 明治11年(1878)末広町に初めて聖堂を建てたが、翌年の大火で類焼し、その後も火災などのため幾度か移転した。度重なる火災による類焼の後、現在の地に再建されたのは大正10年(1921)の大火後である。
 この間、教育(アイヌ学校を始め清和女学校などの開設)、医療奉仕活動などを活発に行なつた。
現在の建物lま、昭和54年(1979)に完成したもので、上空から見ると十字の形に見えるが、これは中世紀のヨーロッパの教会に見られる建築様式を取り入れ近代的なデザインとしてのものである。
   函館市
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急な「チャチャ登り」から右手に見下ろす「函館聖ヨハネ教会」(イギリス系のプロテスタント教会)です。

屋根が十字形で、二色の簡潔な建物に宗教改革の思想が伝わってくるようです。

1874年(明治7)にデニング牧師が来函、1878年に教会を建設したものの翌年に類焼、その後も数度の火災に遭い、現在の建物は1980年(昭和55)に完成しています。

アイヌ民族の悲惨な生活を救う活動に生涯をささげ、「アイヌの父」と呼ばれるイギリス人宣教師「ジョン・バチェラー」も1877年に来日、ここを拠点に活動を始めたそうです。



上段の「函館聖ヨハネ教会」の写真と同じ「チャチャ登り」から左手に見下ろした「ハリストス正教会」です。

建物の名称は「函館ハリストス正教会復活聖堂」で、ギリシャ正教系の日本ハリストス正教会の発祥地でもあるようです。

初夏の若葉、緑青色の屋根、白い壁の聖堂は、午後の陽を浴びて優美で清楚な姿を見せていました



「ハリストス正教会」のファサードです。

1859年(安政6)ロシア領事館の中に建てた聖堂がこの教会のルーツとされ、他の教会同様火災で消失して、1916年(大正5)に再建したようです。

鐘楼には大きな窓があり、前回来た2009年8月1日(土)には鐘を鳴らす人がよく見えていたのを思い出します。

■敷地から一段下にある門の脇に案内板がありました。
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ハリストス正教会
 安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、正し<は「函館復活聖堂」という。
文久元年(1861年)青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシア正教を布教した。(明治5年〈1872年〉東京転任)
 明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。
 この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特徴である。屋根に装置された数多くの十字架と、その装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくっており、緑色の鋼板屋根は昭和43年に改装され、緑青を化学的に熟成したものである。
 再建当時の大鍾(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の建と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この撞も戦時中供出した。
 現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。
 昭和58年6日、国の重要文化財に指定された。
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緑青色のたまねぎ形の屋根が並ぶ「ハリストス正教会」です。

レンガ造りの建物に漆喰の白壁が塗られ、緑の銅板屋根の上を飾る玉ねぎ形のクーポラと、十字架が印象的です。

異国情緒あふれる「ハリストス正教会」は、元町界隈では最も心に残る建物でした。



「ハリストス正教会」の隣にアメリカンスタイルの「遺愛幼稚園」の建物がありました。

1895年(明治15)遺愛女学校付属の幼稚園で創立され、火災で焼失した後、1913年(大正2)に再建された建物だそうです。

白い柱と、窓枠、ピンクの板壁、えんじ色の屋根がとても可愛らしいイメージをかもし出し、自由で、おおらかな昔のアメリカが再現されたようです。

この写真は、2009年8月1日(土)の撮影で、お休みの日だったようです。

■門の柵にあった案内板です。
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遺愛幼稚園
 明治28年(1895)遺愛女学校併置の遺愛幼稚園として創立されたが、明治40年(1907)8月の大火で遺愛女学校ともども類焼。現幼稚園園舎は米国篤志家の寄付により大正2年(1913)に建造された。この地は学校法人遺聖学院の発祥の地である。
 米国人宣教師 M.C.ハリスは米国メソジスト監督教会より派遣され明治7年(1874)1月26日函舘に到着後、付近の子女を集め直ちに日日学校(DaySchool)を開いた。
これが遺愛学院の濫觴である。ハリスは当時の札幌農学校で、クラーク博士の依頼を受け、佐藤昌介・新渡戸稲造・内村鑑三らに洗礼を授けている。
 幾何学的なブラケットを付加し、櫛形ペディメントを見せるポーチ部は、正面をガラス張りとし、両側二方を吹き放している。外壁をピンク色、隅柱・開口部などを白色に仕上げた控えめなステイックスタイルの建物である。
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坂の下に港の風景が広がる、「八幡坂」の風景です。

函館市は、1859年(安政5)に締結された日米修好通商条約により開港されました。

前回訪れた2009年は、開港150周年にあたり、様々なイベントが開催されていたのを思い出します。

素敵な風景に感動し、妻はスケッチや、たくさんの写真を撮っていました。

油絵「秋の花」

2011年10月22日 | 妻の油絵
妻の油絵「秋の花」です。

さわやかなコスモスの季節になりました。

暗紅色のワレモコウと、名も知らない赤い実が、秋の風情を感じさせてくれます。

約2時間でサラリと描いたこの絵は、再利用のキャンパスへ重ね塗りしたそうで、色に深みが出ているようです。

これまで数え切れないほど秋を迎えてきました。

気のせいか、感じる秋の美しさにも少しづつ深みが増して来たように思われます。

北海道旅行No.30 箱館戦争の史跡「四稜郭」

2011年10月18日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)函館市「五稜郭」の北北東方向へ約3Kmにある史跡「四稜郭」を訪れました。

2009年8月の函館旅行で行った「五稜郭」の関連史跡として興味があったものの時間がなく、今回となったものです。



土塁の南側中央に開いた「四稜郭」の門です。

背の高さを越える土塁に一ヶ所開いた門の向こうにも土塁が築かれて郭内の視界が遮られています。

■門の脇の案内板の説明文です。
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史跡四稜郭
昭和九年一月二十二日史跡指定
 明治二年(一ハ六九)春、五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約三キロの緩斜面台地にも洋式の台場を急造した。これが四稜郭である。
 四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、郭内(面積約一一、三〇〇平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。
 なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約二〇〇名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約一〇〇名を動員して昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。
明治二年五月十一日、新政府軍は箱舘総攻撃を開始した。
同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩軍も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。
五月十八日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。
 函館市
 文部省
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箱館戦争の旧幕府脱走軍の主な拠点を記した地図です。

幕末になると国内の戦争も射程距離の伸びた大砲を中心とする時代となり、赤丸印の拠点には大砲が設置され、城郭は大きく様相を変えていたようです。

「四稜郭」は、「五稜郭」から北北東約3Kmにあり、すぐ南に家康を祀る「東照宮(現在は神山稲荷神社)」と、「権現台場」があります。

「四稜郭」「権現台場」は、新政府軍の総攻撃が始まった5/11にあっけなく陥落、土方歳三も同日の市街戦で戦死したようです。

函館湾を睨む「弁天台場」は江戸品川の台場を模して造られたとされ、戦艦の進入を阻止し、五稜郭を守る重要な拠点だったようです。

「弁天台場」には狭い場所に多数の守備隊員が配置され、善戦したものの食糧が尽きて5/15に降伏しています。

「五稜郭」のすぐ南西には最後の前線拠点となった「千代ヶ岱台場(千代ヶ岡陣屋)」があり、5/16守備隊長「中島三郎助」が二人の息子と共に壮絶な戦死を遂げて陥落しました。

「五稜郭」は、函館湾の戦艦からの砲撃を受け、5/17旧幕府脱走軍は降伏を決定しました。

戦艦の全滅と、「弁天台場」の陥落で、もはや戦況の回復は絶望と判断した結果の投降だったようです。



入口付近の案内板にあった「四稜郭」の案内図です。

「四稜郭」は、「稜」=かど、「郭」=囲まれた場所とされ、角が四つある土塁で囲まれた施設の意味のようです。

角の内側中央に突き出た土塁は、大砲が置かれた場所と思われます。

大鳥圭介によって造られたとされる「四稜郭」は、「五稜郭」と同様フランス式の城郭で、伝統的な日本の城郭とは異質のものと考えられます。

小高い緩やかな斜面を切り開いて造られたこの施設は、五稜郭を見下ろし、その鬼門とされる北東方向に近く、家康を祀る「東照宮」のそばから睨みをきかせようとする和魂洋才の拠点でもあったように思われます。



門の前の道から東にある駐車場方向を見た風景です。

土塁と、道の間が少し高くなっているようですが、土塁外側の斜面は深く掘られた空堀となっています。



「四稜郭」の門を入り、振返って外の方向を見た風景です。

「四稜郭」の案内図に見える、門の内側に造られた土塁の様子が分かります。



「四稜郭」の中の風景です。

門の中は、何もない草原で、意外に広く感じました。

土塁の下部に一段高くなった「犬走り?」が見られますが、土塁越しに銃撃するための場所だったように思われます。



土塁の上に上がって見た風景で、全体の様子がよく分かります。

「四稜郭」の中の四隅の対角線にはなぜか草が生えておらず、道のようになっていました。

帰りに入口の案内板を見て気が付きましたが、土塁の上に上がるなと書かれていました。

高い場所から全体を見渡せる展望台の設置が望まれます。



大砲が置かれたと思われる隅の風景です。

隅中央の土塁に坂道のような傾斜があり、大砲は斜面を押し上げられて設置されたようです。

しかし、色々調べても「五稜郭」の近くになぜ四角の「四稜郭」なのか最後までわかりませんでした。

北海道旅行No.29 中世の城舘遺跡、函館市「志苔舘跡」

2011年10月15日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)函館市「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の次に、函館市街地から車で海岸沿いの道を東へ約10Kmの場所にある「志苔舘[しのりたて]跡」を見学しました。



高い土塁の前に「志苔舘跡」の石碑と、案内板があり、向かって右手に館門への道が続いています。

「志苔舘跡」は、国道278号から志海苔川の東岸の信号を北に入った辺りにあり、観光案内サイトに「駐車場なし」とありましたが、かろうじて入口近くの広くなった路肩に駐車することが出来ました。

「志苔舘跡」は、室町時代、渡島半島南部に広がるアイヌとの交易拠点のひとつで、小林氏が築いたとされる館跡です。

当時、アイヌとの交易は津軽の十三湊(下の地図参照)を拠点とする安東氏[あんどうし]に配下されており、小林氏はその支配下にあったようです。

■案内板の説明文です。
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史跡志苔舘跡
  昭和九年八月九日史跡指定
  昭和五十二年四日二十七日史跡追加指定
志苔舘跡は、函館市の中心部から約九キロメートル離れた標高二十五メートル程の海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
 館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ二~四メートル、幅十~十五メートルの土塁で囲まれ、その外側には、壕が巡らされている。
 郭内は、東西七十八十メートル、南北五十~六十五メートルで、約四千百平方メートルの広さがある。
 また、館跡の正面にあたる西側には、二重に壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。
 松前藩の史書『新羅之記録』によると、室町時代頃、道南地方には十二の和人の館があり、志苔舘跡もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。
 この記述によれば、康正二年(一四五六)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年五月十四日志苔館が攻め落とされたといわれている。
 戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正九年(一五一二年四月十六日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。
   函 館 市
   文 部 省
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北海道南端、渡島半島の地図(上段)と、志苔館跡付近の地形図(下段)です。

15世紀中頃、渡島半島南部は和人、アイヌ混住の地だったようで、本州側の交易拠点「十三湊[とさみなと]」を支配する安東氏は、渡島半島南部に館を構える土豪たちと主従関係を持っていたようです。

安東氏は、渡島半島南部を三エリアに分割、それぞれに守護を置き、12ヶ所ある館の統治体制を整備したとされます。

守護を配置した館と地区は、花沢館-上之国、大館-松前、茂別館-下之国で、地図に赤いマークのある場所です。

又、アイヌの人々は、花沢館から北の日本海沿岸に住む「唐子」、茂別館付近から東の太平洋沿岸に住む「日ノ本」、渡島半島南端に住む「渡党」に分類されていたようで、「渡党」には和人系の人々もいたようです。

「志苔館」は、「道南十二館」の中で最も東に位置し、アイヌ圏に隣接する最前線だったようです。



坂道を登り、城門跡の前の橋の上から来た道を振り返った風景です。

右手の道の両側に壕があり、更にその両側に土塁が築かれています。



案内板にあった「志苔館跡」の平面図に施設名称を挿入してみました。

入口から門に至る道は、二重の壕に挟まれた土塁の上に造られたものでした。

「志苔館跡」は、あまり高くない土塁に囲まれており、図で見ると郭の中の建物は柵で囲まれていたようです。



門を背にして壕に架かる橋の向こうに函館山が霞んで見えています。

「志苔館[しのりたて]」があった当時、函館山の麓には守護補佐役がいる「宇須岸館[うすけしたて]」がありました。




土塁の1ヶ所を空けた門跡から郭の中を見た風景で、以外に広く感じました。

向こうの家並みは、あまり高くない土塁越しに見えるもので、郭の中は厳重に守られている感じはありません。



「郭外遺構」の案内板に館の門の付近の時代的変化を紹介する「開口部の変遷」の図がありました。

この図に並んで「壕の変遷」の図もあり、二重の壕や、土塁の形が変化していく様がわかります。

入口の案内板にある、1457年に始まるアイヌの蜂起事件は、「コシャマインの戦い」と呼ばれ、「道南十二館」の内、10館が陥落したものの、コシャマイン(渡島半島東部の首領か)が討ち取られ収束したようです。

アイヌの蜂起事件は、その後も1525年まで約70年間連続的に発生し、志苔館は、1512年に再び陥落したとされています。

志苔館の施設の変遷は、緊張状況が続く交易の最前線だったことも大きく影響しているようです。


■案内板の説明文です。
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郭外遺構
郭外には、主に外敵からの防御を目的とした壕、土塁、門、柵、それに橋、土橋等が配されている。
館の開口部に当たる西側には、二重の壕が掘られ、北、東、南側は自然の沢を利用して壕としている。
発掘調査の結果、館を構築した当時は、西側に外柵を設け、その中央の門を通過し、薬研[やげん]の二重壕に架けられた橋を渡り、さらに門を通過して郭内に入る構造であったことがわかった。
その後、郭外は郭内とともに造り替えられていった。外柵は埋められて土塁が築かれ、郭内側の壕も薬研から箱薬研へ、また橋も土橋へと移行した。
ここには、館の構築当時の姿を、できるだけ復原するとともに、その後に構築された土塁、土橋等も保護・保存し、館の変遷がわかるようにしている。
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南側の土塁の上に登り、郭内を見た風景です。

案内板と、左手の二つの石碑の間に建物跡がありました。



郭内の案内板に建物跡が時代別に掲示されていました。

上段の図は、時代区分第Ⅰa期で、下段は第Ⅱa期です。

この他に掲載していない三つの図があり、二つの図の中間の第Ⅰb期は、上から4番目の写真、緑の平面図にあります。

又、二番目の図の次となる第Ⅱb期では建物の大半が無くなり、更に第Ⅲ期になると郭内の柵も消え、小さな建物が一つあるのみとなっていました。

発掘調査の結果は、アイヌの蜂起により館が陥落し、館が廃止されるまでの歴史過程を物語っているようです。

■郭の案内板の説明文です。
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郭内遺構
 郭内には、主に14世紀末から15世紀にかけて存在していたと考えられる建物、柵、塀、井戸などの遺構が発見されている。
 建物跡は7棟分発見されているが、柱と柱の間の寸法の違いから大き<三つの時代に分類することができる。
 建築時期からみて、14世紀末から15世紀初頭頃と推定される柱間寸法7尺(約2.12m)以上のものと、15世紀中頃と推定される柱間寸法6.5尺(約1.97m)のものが掘立柱の建物である。16世紀以降と推定される柱間寸法6尺(約1.82m)のものは礎石を使用していることが明らかとなっている。
 また建物跡の周囲には、囲いや敷地割を目的とした珊と塀の跡が発見されている。当初は珊が設置され、後に塀へ変わつて行ったものと考えられる。
 これらの変遷を想定すると、右図のようになる。
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出土遺物
発掘調査による出土遺物には、陶磁器類、金属製品、石製品、木製品等の遺物がある。
陶磁器類は、舶載陶磁器(中国製陶磁器)と国産陶器に区分され、個数にして76点出土している。
舶載陶磁器は、青磁、鉄釉(てつゆ)、国産陶器は瀬戸、越前、珠洲(すず)、かわらけ等のものがある。
金属製品は、古銭22点、胴製品18点、鉄製品279点が出土している。
石製品は、硯・砥石が8点、木製品は、井戸枠、箸、曲者、桶の一部等が出土している。
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郭の奥に井戸がありました。

のぞいた様子はあまり記憶していませんが、浅いのもだったようです。

多くの人がこの館に立てこもって防戦するにはこの一つの井戸では厳しいように思われます。



函館市立博物館の案内パンフレットに「志苔館跡」付近で出土した「志海苔古銭」の写真が掲載されていました。

2009年8月の函館旅行で見学した時のものです。

撮影が出来ず、展示の様子はほとんど忘れてしまいましたが、大きな甕や、様々な古銭が展示されていた記憶がかすかによみがえります。

■函館市立博物館の案内パンフレットより
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志海苔古銭
 重要文化財
 北海道志海苔中世遺構出土銭
 昭和43年7月、函館市志海苔町の漁港付近で道路拡幅工事の際、大甕にぎっしり詰められた大量の古銭が発見されました。
内訳は、渡来銭や皇朝銭などの孔開銭が374,435枚と、越前および珠洲産の大甕3個です。古銭は判読できたものが93種類あり、上限は前漢代の四銖半両[よんしゅはんりょう](前175年初鋳)、下限は明代の洪武通宝(1368年初鋳)で、47,000枚余りの皇宋通宝をはじめとする北宋銭が全体の約9割を占めています。
大半がバラ銭の状態でしたが、中には麻紐で孔を繋げた「一緡[ひとさし]」のものも含まれています。
また大甕のうち2個は、赤褐色で口径60~65cm高さ80~85cm程の福井県の越前古窯産、残り1個は黒灰色の石川県能登半島の珠洲産で、ともに14世紀後半頃に属するものでした。
この大甕3個に詰められた備蓄銭は、ほとんど同時期かまたは連続的に埋設されたものとみられ、下限の銭の流通時期や甕の年代から、ほぼ14世紀末頃までのものということができます。
おそらくは、志海苔沿岸産の昆布を、日本海ルートで京都・大阪方面へ出荷したことによる利益と考えられますが、誰が何の目的で蓄え、かつ埋設したものなのかは明らかにはなっていません。
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郭の南側の土塁の上から津軽海峡を見下ろした風景です。

志海苔古銭が出土したのはこの風景の右手、志苔館の西を流れる志海苔川近くで、道路拡張工事の時に発見されたようです。

大量の古銭が埋められたのは、「志苔舘」が陥落した「コシャマインの戦い」の頃とされており、略奪を回避する措置だったのでしょうか。

「コシャマインの戦い」の発端は、ここ「志濃里[しのり]の鍛冶村」に来たアイヌの少年がマキリ(小刀)の取引で鍛冶職人と争いになり、殺害されたことによるものとされています。

当時、「家数百」と伝えられる志濃里の鍛冶村は、アイヌ人々から注文を聞き、鉄製品を作る鍛冶職人たちが集まった村だったように思われます。

和人からの鉄製品が不可欠な道具となり、大量の古銭に見られる貨幣経済が浸透するなど、アイヌ社会が次第に変質していく時代だったようです。

1457年「コシャマインの戦い」の後も蝦夷地への和人の進出は地域を拡大し、大規模なアイヌの蜂起も次第に道東へと移って行きました。

このブログに1669年の「シャクシャインの戦い」は、北海道旅行No.26に、1789年の「クナシリ・メナシの戦い」は、北海道旅行No.14に掲載しています。

志海苔古銭は、2008年06月21日掲載の徳島県南部海陽町の博物館で、(掲載ページ「大里出土銭」、大甕に大量の銅銭があった)で知り、いつの日か訪れたいと思っていましたが、やっとかなえられた日でした。

北海道旅行No.28 函館市「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の見学

2011年10月11日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)いよいよ旅行の大きな楽しみだった函館市「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の見学です。



「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の建物です。

「大船遺跡埋蔵文化財展示館」では函館市南茅部地区に多くある縄文遺跡が紹介されています。

館内では、係りの年配の女性の熱心な説明を聞かせて頂き、幸いでした。

建物の横にたくさんの石が置かれているのは、すべて発掘された石皿だそうです。

この地区の発掘では石皿の出土量が膨大な数になるそうで、中期には窪みが浅くなっていることから、宗教的な慣習などにより盛土遺構へ廃棄されていたのかも知れません。



北海道南部の渡島半島の地図に函館市南茅部地区の主な遺跡を記載してみました。

縄文時代後期には気温の低下のためか、道東の遺跡が減少し、温暖な渡島半島で多くの集落が営まれたようです。

南茅部地区の縄文遺跡は、背後に山地、前方に太平洋を望み、水・鮭の遡上する河川近くの海岸段丘に立地し、約90ヶ所もあるようです。

「大船遺跡」は縄文前期から晩期までの遺跡ですが、「垣ノ島遺跡」は、縄文早期から後期までとこの地区では最も古い遺跡のようで、住みやすい環境が続いていたことがうかがえます。

数千年もの間、不便な約40mの海岸段丘で営まれた住居は、大津波の災害から身を守る知恵だったのかも知れません。



最も脚光を浴びる場所に国宝「中空土偶」のレプリカが展示されていました。

左下隅の横顔の写真を見ると頭の上の左右が割れ、空洞構造が分かります。

土偶の表面は、焼き物色にも見えますが、説明では漆[うるし]が塗られているようで、更に驚きます。

ちなみに南茅部地区の遺跡「垣ノ島B遺跡」の墓から世界最古の漆塗りとされる約9000年前の縄文時代前期の漆塗りの副葬品が出土、残念ながら火災で焼失したそうです。(土に漆がにじんだ写真展示あり)

■「中空土偶」の足元にあった説明文で、国宝に指定される以前の作成と思われます。
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発見:昭和50年8月24日
発見場所:函館市尾札部町
製作年代:縄文時代後期(約3,500年前)
著保内野遺跡内で農作業中、偶然発見されたものである。
全長41.5センチ、幅20.1センチあり、国内最大級の大きさで、内部は空洞となっている「中空土偶」である。
女性を表現したものと考えられ、その製作手法は他に例のないほど精巧であり、漆が塗られていることも他の土偶にはない特徴であるため、重要文化財にしていされている。
土偶が発見された地点には、墳墓と考えられる遺構が検出されたため、副葬品または葬送儀礼に使用されたものと考えられている。
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■「中空土偶」の後方のパネルに展示されていた説明文です。
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国宝「中空土偶」
土偶は、製作の方法によって粘土塊で作られた"中実土偶"と中が空洞の中空土偶に分類され、本土偶"カックウ"は後者に属しています。
また、土偶は土器や石器などと違い実用的な道具でないことから、縄文時代の人々の精神性を象徴する"第二の道具"と言われています。
ほとんどの土偶は女性を顕してり、特に縄文時代中期までは妊娠表現など母性を強調していますが、後期には性的特徴がなくなり、性を超越した精霊のような表現となります。カックウにも女性的なフォルムと男性的な髭や眉が混在し、神秘的な表現になっています。
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1.左上の写真
色鮮やかな土器は、縄文時代後期の垣ノ島A遺跡から出土した漆塗りの土器で、パネル写真で展示されていました。

同じ「垣ノ島B遺跡」から出土した世界最古(約9,000年前)の漆塗りの副葬品とは約6,000千年もの隔たりがあり、長かった縄文時代を感じます。

■左上の土器の説明文です。
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垣ノ島A遺跡出土「漆塗り注口土器」(縄文時代後期)
縄文時代後期末(約3千2百年前)の竪穴住居の床から発見されました。高さ11.5cm、幅は最大で10.4cmあります。
ふくらんだ下部に、おそなえモチのように上部を重ねていきます。幅が最大になる部分には、4等分できる位置にコブを付けています。
縄文時代後期の漆塗り土器が、完全な形で発見されるのは珍しく、当時の漆の技術を知るうえで貴重な資料です。また、形や文様は福島県を中心に分布する土器の影響が強く、道南と道東南部の交流を考えるうえでも貴重な資料です。
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2.右上の写真
これも垣ノ島A遺跡から出土した「香炉形土器」で、館内にあったパンフレットに掲載されていた写真です。

レプリカと思われる「香炉形土器」の実物も展示されていましたが、縄文時代後期の熟成した文化が伝わってくるようです。

3.下段の写真
この二つの土器は、八木B遺跡(縄文時代後期)から出土した「注口土器と下部有孔土器」で、館内のパンフレットに掲載されていた写真です。

二つとも同じ住居で見つかったそうですが、土器の下部に孔が開いていることから日常生活の道具ではなく、宗教的な用具にも思われます。

向かって左が男性、右が女性を感じ、強烈な印象を受けますが、この縄文時代土器の模様に、どんな意味があったのでしょうか。



「垣ノ島A遺跡」の墓から出土した幼児の両足を粘土板に型取って焼き物にした遺物がパネル写真で展示されていました。

縄文時代の遺物とは思えない可愛らしい幼児の足型です。

文様と、焼け焦げた色を見るとやはり縄文の香りが漂ってくるようです。

■パネル写真の説明文です。
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用途について、様々な推測がされていましたが、この遺跡で墓から大量に発見されたことで、おおよそわかるようになりました。
形見または成長の記録として、乳幼児の足形を粘土板に型取り、炉などの弱い火で焼いた後、ヒモを通して住居内につり下げていたと思われます。
おそらく、親が死んだときに、子どもの想い出であるこの土板を一緒に副葬したのだろうと推測されます。
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ガラスケースに祭祀用と考えられる刀の形の石器が展示されていました。

隣にもスリムでよく磨かれた刀の石器がありましたが、弥生時代の青銅の刀を連想するものでした。

縄文時代から弥生時代への祭祀のつながりにも興味が湧くものでした。

■展示品の説明文です。
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青龍刀形石器
この石器は古代中国の「青龍刀」と呼ばれる刀に似ていることから名付けられました。大きさ
は約20~40センチメートルほどで、安山岩などきめの粗い石を大まかに打ち欠きながら形を整えたあと、全体を丁寧に磨いて作られています。「刀」といっても実用品ではなく、祭祀や儀礼に使われたと考えられています。
青龍刀形石器は、主に縄文時代中期後半から後期初頭にかけて広く東日本を中心に出土していますが、中でも道南地域ではひとつの遺跡から多量に見つかることもあり、生産地だった可能性もうかがえます。
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これもガラスケースに展示されていた石器です。

円柱形のこの石器の表面は、よく磨かれており、大切な道具だったことが分かります。

■展示品の説明文です。
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垣ノ島遺跡出土の石棒
これは平成20年度の発掘調査で出土した石棒です。ひとつの調査区から7点がまとまって出土しました。実用品ではなく、儀式・まつりごとに使われたと考えられ、火を受けて赤く変色したものや壊れた状態のものが多く見られることが特徴です。縄文時代中期末(約4,000年前)のものと考えられます。
縄文人の精神性をうかがい知るうえで貴重な遺物です。
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上段の写真は、縄文後期の磨光B遺跡から発見されたアスファルト工房址と、二つのアスファルト塊です。

下段の写真も、縄文後期の豊崎N遺跡の住居跡出入口付近の床面から土器に入ったアスファルト塊が発見され、アワビの貝殻痕が付いていたようです。

これらアスファルト塊は、秋田産の天然アスファルトで、道具類の接着剤として集落で使用される推定量から、道内へ流通させる中間拠点とも考えられるようです。

著保内野遺跡や、八木A遺跡からは新潟県糸魚川産のヒスイの装飾品も出土しており、シルクロードならぬ「ヒスイロード」や、「天然アスファルトロード」が浮かび上がってきます。



館内に「アスファルトの利用方法」のパネルが展示されていました。

アスファルトは、道具類の製作や、補修の接着剤として様々なものに使われていたようです。



館内には南茅部の遺跡で発掘された縄文土器が、年代順に展示されていました。

北海道南部のこの地では土器の様式に東北地方からの影響が見られます。

■上段の縄文早期の土器に添えられていた説明文です。
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早期の土器
南茅部に初めて縄文土器が使われるようになるのは9千年以上前のことです。川汲A遺跡では刻みの入った小さな棒を回転させて文様をつけた、北海道最古級の押型文土器が出土しています。この時期には、縄目文様のほかに貝殻で文様をつけたものなど色々な土器があります。
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■下段の縄文前期の土器に添えられていた説明文です。
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前期の土器
前期になると東北北部と北海道南部に円筒土器文化が栄えました。
円筒土器には、前期の下層式と中期の上層式があります。特徴は、土器の形がバケツの形を引っ張った円筒形をしていることや、粘土の中に植物繊維を混ぜて作ることです。
前期の円筒土器には条を絡めた細い棒を回転させて施文するなど、するなど、城門のバリエーションが豊富です。
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縄文中期の土器です。

前期までの簡素なデザインから上部の縁、丸みを帯びた胴、文様などに装飾性が豊かになっている様子がうかがえます。

■土器に添えられていた説明文です。
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中期の土器
中期の円筒土器は、上の方がラッパ状にやや広がる形に変形し、粘土紐などを貼り付けた文様帯も発達します。中期の後半になると、渦巻き文様や沈線文を特徴とする大木系土器が多くなり、終末には北海道南部に生まれた、大安在B式やノダップⅡ式土器が盛んにつくられるなど、土器の形が移り変わります。
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縄文後期(上段)・晩期(下段)の土器です。

土器の形が多様化、製作技術の発達や、用途の広がりが感じられます。

■上段の縄文後期の土器に添えられていた説明文です。
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後期の土器
後期には再び広範囲な土器文化圏がつくられ、土器製作でも高度な記述が発達しました。土器の種類も、土瓶やお椀のような様々な形が出現します。また、この時期には土偶も多く作られるようになります。
平成19年度、国宝に指定された著保内野遺跡出土の「中空土偶」は後期の終わり頃に作られたものです。
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■下段の縄文晩期の土器に添えられていた説明文です。
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晩期の土器
晩期には、土器製作技術がさらに発達し、いわゆる「縄文セラミックス」と呼ばれるほど薄くて丈夫な土器を作るようになりました。縄目も非常に細かくなるとともに、土器の表面に漆で赤や黒の彩色をしたり、研磨して光沢を出すなどの概観の美しい土器が多く作られるようになります。
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係りの方の熱心な説明で、南茅部地区の遺跡の素晴らしさを学ぶことが出来ました。 感謝

北海道旅行No.27 函館市南茅部「大船遺跡」の巨大住居跡

2011年10月05日 | 北海道の旅

北海道旅行5日目 6/7(火)7時頃、苫小牧のホテルを出発、函館を目指しました。

最初のスポットは、函館市北部にある縄文時代中期の「大船遺跡」と、今年完成した「大船遺跡埋蔵文化財展示館」で、国宝の「中空土偶」の展示(レプリカでした)を知り、訪れたものです。



驚くほど深く大きな竪穴住居跡の写真(上段)です。

大船遺跡現地の案内板にあった写真で、深さ2mを越える竪穴住居跡は、初めて見るものです。

屋根を直接支える柱の他にも、竪穴の底に垂直に立つ太い柱穴が見られ、巨大な住居を支える強い構造に感心しました。

■大船遺跡のパンフレット「大集落 大船遺跡」の説明文です。
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国指定史跡大船遺跡の概要
 大船遺跡は,大船川左岸の海岸段丘(標高42~47m)にあります。遺跡は縄文時代中期(約4,500年前)を中心とした集落跡で,平成8年度に調査した約3,500m2から、92軒の竪穴住居跡と盛土遺構などが発掘されました。遺跡の主体部が西側に広がっていることから,遺跡全体は非常に大規模な集落になると予想され.平成13年8月に,71,832㎡が国の史跡に指定されました。
 遺跡の特徴は,住居の規模が極めて大きいことと,集落の密度が非常に高いことです。
一般的な竪穴住居跡は,探さ0.5m,長さ4~5m程の大きさですが,大船遺跡では,探さ2.4m、長さ8~11mの大型住居も発掘されています。住居の規模から,安定した袖丈の生活が窺えます。
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下段の写真は、遺跡の全景をやはり高い場所から撮った写真で、「大船遺跡埋蔵文化財展示館」に展示されていたものです。

薄い積雪で立体感が演出され、たくさんの住居跡が発掘されている状況が分かります。

■展示館の写真に添えられていた説明文です。
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大船遺跡
縄文前期末から中期の約千年間にわたる集落跡です。これまでの調査で100軒を越える住居跡や大規模な盛土遺構、動物の骨やクリなどが発見されています。縄文時代の生活や文化を解明する上で極めて貴重な遺跡です。
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大船遺跡のある渡島半島付近の地図(上段)です。

北海道旅行後半は、函館を基点に、松前、江刺など渡島半島を回り、積丹半島を経て小樽までのコースを回りました。

函館市の北、森町から国道5号を分かれて海岸線を南下した函館市南茅部地区に大船遺跡があります。

下段の地図は、遺跡現場の案内板にあったもので、地図右下が北方向、緑の部分が遺跡の範囲、下は海です。

遺跡の周囲に密集した等高線が見られ、遺跡は海岸段丘に広がっていました。

南の大船川を溯上する鮭や、海産物などが集落の人々の生活を支えていたものと思われます。



「大船遺跡」の入口付近の風景です。

発掘され、再現された茅葺屋根の住居、木の骨組みだけの住居、竪穴だけの住居跡が見られます。

■遺跡現場入口にあった案内板の説明文です。
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竪穴住居
竪穴住居は、縄文時代につくられた住居の形態です。地面を円形や方形に掘って床とし、柱を立て骨組みを作り、その上に土やヨシなどで屋根をふいた建物で、床には炉が設けられています。
大船遺跡の竪穴住居は規模が大きく、長さ8~11m、深さ2m以上の住居が見つかっています。炉は、床そのものを火床としたものから土器を埋めたもの、石で囲んだ炉へと変化が見られます。この復元遺跡では、発掘調査の結果をもとに、クリの木を使い、竪穴住居の骨組みを再現しています。
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骨組みだけの再現住居の中の様子です。

西側の出入り口から見ると、奥に石で囲まれた炉が造られ、その手前に穴があります。

竪穴の深さは、人の背の高さを越えるもので、大きく深い巨大な竪穴がなぜここで造られたのか興味をそそられます。



少し面積の狭い茅葺屋根が再現されていました。

この住居も入口は、西側のようでした。



再現された茅葺屋根の住居の中の様子です。

竪穴の丸い底の周りに柱が建てられ、竪穴の周囲には木の枝を編んだ壁が作られています。

ここでも奥に石を敷き詰めた炉があり、その手前に床に掘られた穴が見られます。



大船遺跡のパンフレットに掲載されていた発掘調査の写真です。

向かって左は、「石組みのある住居跡」と書かれたもので、時代の違う層の住居跡に石組みの炉が見られます。

向かって右は、「貯蔵穴」と書かれた写真で、穴の底に発掘作業をする赤い服の女性が見られます。



遺跡の地面に重なった住居跡を表示した場所がありました。



上段の写真の場所付近にあった案内板に発掘作業風景の写真がありました。

■発掘現場の写真の説明文です。
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「重なり合う住居」
大船遺跡の特徴として、遺跡内の竪穴住居の密度が非常に高いことがあげられます。大船遺跡では、発掘調査の結果、縄文時代中期(約4,500年前)を中心とした竪穴住居跡が120軒以上発見されています。
この平面表示は、多くの竪穴住居が重なっている状態を示しています。
これは、数百年にわたり定住生活をしていた証であり、その背景にはこの地域が海や山野の豊かな食料資源に恵まれていたためとみられています。
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竪穴住居跡が発掘され、そのまま保存されていました。

竪穴の底の中央付近がさらに深く掘られているのが気になります。

竪穴住居跡が正確に復元されているものと考えると、この二段目の穴も謎のひとつです。

古い時代の住居跡が現れ、一段と深くなった穴だったのでしょうか。



住居跡の北側にあった案内板に「盛土遺構」と紹介された写真です。

穴投げ入れられた貝塚と異なり、地表に積み上げた遺物のようです。

■遺跡の中にあった「盛土遺構」の案内板の説明文です。
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盛土遺構
盛土遺構は、永い期間にわたり大量の土器や石器などが捨てられ、周囲より高く盛り上がった場所です。
火をたいた跡や人骨が発見されることがあることから、単なるゴミ捨て場ではなく、道具や食べ物の魂を送る場所ではないかと考えられています。
大船遺跡の盛土遺構からは、マグロ・サケなどの魚類やクジラ・イルカ・シカなどの哺乳類の骨、クリ・クルミなど植物の残りが見つかっており、当時の人々の食生活がうかがえます。
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遺跡のある海岸丘陵からは船が行く太平洋が見渡せます。

いつの時代でも地震、大津波、台風などの自然災害や、天候異変による食料不足などが襲ってきます。

縄文時代の人々の生活が実に千年もの長い間、この高台で続けられてきたことは奇跡のように思われます。

遺跡から発掘された遺構や、遺物から浮かぶ多くの謎に興味をひかれ、このブログの掲載を放置して調べたり考えたりしていたい気持ちになってしまいます。

次回は、函館市南茅部地区の縄文遺跡が展示されている「大船遺跡埋蔵文化財展示館」の見学です。

北海道旅行No.26 「英傑シャクシャイン像」と「シベチャリのチャシ跡」

2011年10月01日 | 北海道の旅
北海道旅行4日目 6/6(月)襟裳岬を出発、宿泊地の苫小牧へ向かう途中、新ひだか町の史跡「シベチャリのチャシ跡」へ立ち寄りました。

江戸時代初期の1669年、この地のオッテナ(酋長)「シャクシャイン」に率いられて、北海道のアイヌの人々が蜂起する事件がありました。

「シベチャリのチャシ跡」は、「シャクシャイン」が拠点としていた砦の一つで、「シベチャリ(静内)」は、2005年の映画「北の零年」の舞台となった地でもあります。



「シベチャリのチャシ跡」のある「真歌公園」に建つ「英傑シャクシャイン像」です。

木の棒で前方の空を指し示し、先頭に立って進軍を促す姿にも見えます。

台座には「英傑シャクシャイン像 北海道知事 町村金五 書」とあり外務大臣など歴任した現衆議院議員、町村信孝のお父さんのようです。

■シャクシャイン像の横に石碑があり、説明文が刻まれたました。
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英傑シャクシャイン像碑文
日本書紀によれば、斉明の代(西暦六五〇年代) において、すでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、 とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。
今から約三〇〇年前、シャクシャインは、ここシビチャリのチャシ(城砦)を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。
当時、自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、 交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、 松前藩政の非道な圧迫と苛酷な搾取は日増しにつのり同族の生活は重大脅威にさらされた。
茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民俗自衛のため止むなく蜂起したが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。
しかし志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文9年エゾの乱と言う。
いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、 ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがすると共に父祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、 わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。
  一九七〇年九月一五日
     シャクシャイン顕彰会
       会長 神谷与一
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「シベチャリのチャシ跡」周辺の地図です。

北海道旅行4日目は、釧路市を出発し、襟裳岬を経て苫小牧へ向かいました。

「シベチャリのチャシ跡」は、襟裳岬から苫小牧までのほぼ中間地点で、シベチャリ(静内)川東岸の高台にある「真歌公園」の中でした。



「真歌公園」の入口付近に建つ「新ひだか町アイヌ民俗資料館」と、その向こうは「シャクシャイン記念館」です。

入場可能な16:30までに到着する予定でしたが、少し遅れてしまい見ることが出来ませんでした。



公園の中に進むと「英傑シャクシャイン像」があり、その隣にそびえるのは「ユカルの塔」です。

アイヌ独特の模様が彫られた「ユカルの塔」は、アイヌの祭祀で使われるイクパスイ(捧酒箸)を模したものとされ、台座もオッチケ(膳)の形のようです。

イクパスイ(捧酒箸)は、アイヌの儀式で、カムイ(神)へ酒を捧げ、願いを伝える道具で、博物館などでトゥキ(漆椀)の上に箸のように置かれた棒(イクパスイ)を見た人も多いと思います。

シャクシャイン像の周囲には少し花を残した桜が葉を茂らせて、遅い北海道の春を感じさせていました。



「シベチャリのチャシ跡」の史跡案内板があり、小さな橋が架かっていました。

この橋は、チャシ(砦)の周囲に造られた空堀に架けられたもので、チャシの側から撮った写真です。

■「シベチャリのチャシ跡」の入口付近にあった史跡案内です。
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国指定史跡「シベチャリ川流域チャシ跡群」
シベチャリチャシ跡
(平成9年12月2日指定)
チャシは、アイヌの砦、あるいは儀式の場所といわれ、アイヌ文化を研究するうえで重要な遺跡です。海や川などに面した眺めの良い丘や崖上に、1~数本の溝を掘って築かれています。
シベチャリチャシは、「シャクシャインのチャシ」とも呼ばれ、寛文9(1669)年の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られています。
 平成10年7月
 新ひだか町
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ツツジが美しく咲く空堀を橋から見た風景です。

シベチャリ(静内)川東岸の高台で、舌状に突き出た場所が空堀で仕切られ、チャシ(砦)とされていたようです。

空堀の幅や、深さは、意外に小規模なもので、戦国時代に発達した和人社会の城ではなく、宗教性の強い沖縄本島南部のグスクに似たイメージを感じます。



橋を渡ってシャチ(砦)の奥に進んだ風景で、向こうに木造り二階建ての展望台と、その右には石碑も見えます。

公園では、係りの人が草刈に精を出していましたが、ここも手入れが行き届いています。



展望台の横にあった石碑です。

石垣の台座に「シャクシャイン城址」と刻まれた石碑を見ると、戦国時代に始まる近世の城をイメージしますが、実態は違っているようです。



展望台から見下ろした風景です。

左手に太平洋、眼下には静内の町並みが広がっています。

■「県史1 北海道の歴史 山川出版社」に記載された「シャクシャインの戦い」の概要をまとめてみました。
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1668年、シベチャリ(静内)の首長シャクシャインは、数キロメートル西にあるニイカップ(新冠)の首長オニビシと漁場などで対立、劣勢となったシャクシャインは、奇襲攻撃でオニビシを討ち取りました。
オニビシを失ったニイカップ(新冠)では松前藩へ使者を派遣して支援を求めましたが拒否され、使者が帰路に病死したことで、和人に毒殺された風説が広がったようです。
1669年、シャクシャインは、この風説を利用して反和人、反松前藩の大蜂起を各地のアイヌへ呼びかけ、アイヌ勢は和人355人を殺害、北海道南端に近い、松前を目指して進撃しました。
松前藩は鉄砲を準備し、クンヌイ(国縫※-長万部町)で迎撃して難局を切り抜け、アイヌへの工作で勢力を分断、シャクシャインを和議の場におびき出して謀殺しました。
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※北海道南部の地図に赤丸印で「国縫」を表示、苫小牧から函館に向かう途中です。

「シャクシャインの戦い」は、巧妙に蝦夷地へ進出して横暴を振るう和人への反感、一方で和人との交易に依存度を高めるアイヌ社会の情勢が背景となっていたものと思われ、日本人として余りに悲しく、心を痛める事件でした。



展望台の柵の前に見下ろした風景の解説板がありました。

合併前のものか、「静内町役場」「静内町公民館」「静内町図書館」・・・新ひだか町となった今ではなつかしい町のなごりのようです。

シベチャリ(静内)川の向こうには、河川敷を開発したと思われる静内の町の様子が分かります。



展望台から見たシベチャリ(静内)川の上流方向の風景です。

高さ約80mの高台から見下ろすと、幅広いシベチャリ(静内)川の上流方向のはるか向こうまで家並みが続いています。

川沿いに立ち並ぶビルを見ると、映画「北の零年」で見た苦難の開拓の歴史は、今では信じられない開発された風景に変っていました。



展望台から見たシベチャリ(静内)河口付近の風景です。

この砦は、シャクシャインが謀殺された直後、松前藩に攻め落とされたようです。

この事件以降、松前藩のアイヌ支配は強化され、先住民族アイヌは、和人の交易相手から漁場労働者の立場へと追いやられていきました。

「北の零年」の物語の舞台となったこの静内の地を見たいと、襟裳岬経由のコースとしたことは、このブログ07/27掲載の< 北海道旅行No.13 根室「金刀比羅神社」に立つ高田屋嘉兵衛の銅像>で書きました。

江戸時代後期、淡路島の農民の子で生まれた高田屋嘉兵衛が廻船業で財を成し、択捉島でアイヌの人々を雇い漁業を行っていた歴史は、この地の二つの物語とつながっていたようです。