昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

南九州旅行No.28 「鵜戸神宮」参拝と、「鬼の洗濯岩」の生成過程

2012年10月26日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市宮浦の「鵜戸[うど]神宮」参拝の続きです。

前回は、参道の風景でしたが、いよいよ本殿への参拝です。



最後の階段を下った「鵜戸神宮」本殿のある洞窟入口の風景です。

鳥居の最上部「笠木」の下の「島木」が白く塗られ、そこに並ぶ三つの菊のご紋が印象的です。

神門前にも同様の鳥居がありましたが、赤い柱と、白壁の鮮やかな神門、楼門に連動させた配色に思えます。

又、笠木や、社殿の屋根は、岩と調和させる中間色とし、その下に清らかさを感じさせる白を配すると、聖域を感じさせる効果があるのかも知れません。

■神社由緒が書かれた案内板が楼門のそばにありました。
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鵜戸神宮御由緒
主祭神 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊※[ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと]
 当宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ、その後第五十代桓武天皇の延暦元年には、天台宗の僧光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜った。
 また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外、本堂には六観音を安置し、一時は西の高野とうたわれ、両部神道の一大道場として、盛観を極めていた。
 そして明治維新とともに、権現号・寺院を廃して後に官幣大社鵜戸神宮にご昇格された。
母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房を御神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」は、いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産、育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。
又、霊石亀岩の背中に運玉を投げ見事にはいると願い事が叶うという伝えがある。
このほか、念流、陰流の剣法発祥の地として、厄除・漁業・航海の守護神としての信仰は愈々篤く、今後とも神秘的な霊気によって人々の魂を高めていくであろう。
  鵜戸神宮社務所
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※主祭神の神名が古い文字のため正しく表示できませんでした。



鵜戸神宮の本殿です。

著名な神社にもかかわらず、拝殿や、幣殿のない単一建物の社殿です。

向かって左が参拝を行う本殿正面で、写真下段には本殿奥に置かれた丸い鏡に妻と私が映った風景です。

天井が低く、深い洞窟には暗闇が続き、押しつぶされるような恐さも感じますが、暗い本殿奥の鏡に映された自分たちの姿を見ると、神様に見つめられているような錯覚を覚えます。

■案内板より
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県指定建造物 鵜戸神宮本殿
宮崎県教育委員合 (平成7年3月23日指定)
                                             
 鵜戸神宮本殿は、鵜戸崎の日向灘に面した岩窟内に建てられている。
 本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると祭神天皇の代に創建し、桓武天皇の勅命により、光喜坊快久が神殿及び、仁王護国寺を再興した、と伝えている。中世には、「鵜戸六所大権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から厚い信仰を得ていた。
 現在の本殿は、正徳元年(1711)に飫肥藩五代藩主伊東祐実が改築したものを明治23年(1890)に大修理を行い、さらに昭和42年(1967)に修理したものである。平成9年度(1997)には屋根や内装等の修理が行われた。このように幾度の改修を実施したものの、岩窟内に見事に収めた権現造風の八棟造は、往時のまよであり、その文化的価値は高い。
                         説明板管理者/日向市教育委員会
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本殿に参拝し、左手奥に進んだ「皇子神社」の風景です。

祭神「彦五瀬命[ヒコイツセノミコト]」は、神武天皇の御兄君とされ、神武天皇東征の軍団に同行し、戦いで亡くなった皇子とされています。

第一皇子で、東征の軍団に同行していたことを考えると、亡くならなかった場合は、天皇となった皇子かも知れません。

■案内板より
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皇子神社
御祭神:彦五瀬命[ヒコイツセノミコト]
鸕鷀草葺不合尊※[うがやふきあえずのみこと]の第一皇子
第一代天皇 神武天皇の御兄君
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※主神名が古い文字のため正しく表示できませんでした。



「皇子神社」の隣にある「九柱[ここのはしら]神社」です。

古事記によると、伊邪那岐命は、亡くなった妻の伊邪那美命を追って黄泉国[よみのくに]へ行き、逃げ帰った後、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎ祓えをし、その時に多くの神様が生まれた物語があります。

この社伝に祀られた九柱の神様は、最後に生まれる三貴子、「天照大御神」「月読命」「建速須佐之男命」の前に生まれたとされています。

■案内板より
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九柱[ここのはしら]神社
伊邪那岐命が、日向の楠の小戸の阿波岐原で禊[みそぎ]祓ひし、身を洗い清めなされたとき、御生まれになられた九柱の神のお社です。
御祭神
一、神置日神 二、大直日神 三、伊豆能売神 禍を吉事(福)になおすおはたらきをお持ちの神々。
四、津綿津見神 五、中津綿津見神 六、上津綿津見神 彦火火出見尊(山幸彦・当宮主祭神の御父神)は綿津見神から二つの霊珠(塩盈珠・塩乾珠)を授けられる。海を守る神々。海神。
七、底筒之男命 八、中筒之男命 九、上筒之男命 海路を守られる神、墨江[すみのえ]の大神。航海安全の神々。
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洞窟の奥に進むと「御霊石」があり、隣には「撫でうさぎ」と名付けられたウサギの人形が置かれていました。

それぞれに賽銭箱が置かれ、神社の涙ぐましい経営努力が垣間見られるようです。

■洞窟内の案内板
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御霊石(ごれいせき)
この御霊石は、室町時代中頃より祀られており、鵜戸山大権現仁王護国寺の信仰のなごりと思われる。願い事は諸願成就し、国家安泰を祈祷して、霊験あらたかと伝えられている。
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上を指さす絵と、「御乳岩」と書かれた案内板の上に乳房の様なふくらみがある岩がありました。

古事記では、祭神の母「豊玉姫命」が大きな鰐[わに]の姿となってお産をしている姿を父「彦穂穂出見命」に見られ、海神の国へ帰ってしまったとされます。

天皇家の先祖が鰐を母とする神話から、その母が乳房を岩にくっつけて去ったとする荒唐無稽な話も、神社が売る「おちちあめ」の由来となっており、おもしろがって買った参拝者の思い出になっているようです。

■案内板より
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霊石「おちち岩」
当神宮ご祭神の母君「豊玉姫命」が、洞窟に造った未完成の産屋でご出産の際、父君「彦穂穂出見命」がのぞいてしまいました。
そのため母君は故郷の海の国へ帰らなければならず、その際お生まれになったご祭神への愛情と健やかな成長を願い、ご自分の両乳房を洞窟にくっつけていかれたといわれています。
現在も絶えず石清水がしたたり落ちる神秘の岩。
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鵜戸神宮の普通車駐車場から国道220号までの海岸に「鬼の洗濯岩」が広がっていました。(潮がよく引いていない状態か)

道路脇に案内板があり、ここの場所の名が「鵜戸千畳敷奇岩」、地形の正式名称が「隆起海床と奇形波蝕痕」とのことで、1200万年前から現在までの生成過程が以下の段階の図で説明されました。

「鬼の洗濯岩」の名は、昔、修学旅行でバスガイドさんから教えられ、その珍しい風景に驚いたことを思い出します。

■案内板
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県指定天然記念物 鵜戸千畳敷奇岩
 宮崎県教育委員会(昭和8年12月5日指定)
 この鵜戸千畳敷奇岩は、鵜戸神官の鎮座する鵜戸崎の南面にある。
 今から約1200万年前から600万年前にかけて堆積した地層(新第三系宮崎層群)で、砂岩と泥岩が交互に堆積してできている。この地層は、10度から20度傾いて日向灘に面しており、長い年月にわたって日向灘の激しい波浪や風雨にさらされ、浸食されて現在の姿となった。
 こうしてできた波状岩は別名「鬼の洗濯岩」(正しくは、隆起海床と奇形波蝕痕)と呼ばれ、とりわけ鵜戸千畳敷奇岩は、その広さから県指定の丈化財に指定された。
                〔管理者〕日向市教育委員会 社会教育課
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説明図1、「1200万年前」
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今から約1200万年前、川によって運ばれた砂・泥・れき(礫)が海底に堆積しました。
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説明図2
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一度堆積した砂や泥は、地震などの揺れによって再び動かされ、乱泥流となって海底斜面に砂と泥の層をくり返し堆積しました。
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説明図3
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フィリピン海プレートの北上によって大地は隆起し、海面は低くなりました。
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説明図4、「現在の日南」
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その後、浸食を受け、れき岩や砂岩の地層は突出した地形となりました。
砂岩と泥岩の互層は、泥岩層が削られ、砂岩層が突き出た波状岩をつくりました。この波状岩が鵜戸千畳敷奇岩と呼ばれています。
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曲がりくねった日南の海岸線に広がる鬼の洗濯岩は、直線の縞模様が一定方向(南北?)に伸び、海岸の曲線に連動していないことが不可解です。

曲がりくねった海岸近くの海底に砂や、泥が堆積したものの、フィリピン海プレートによる圧縮が堆積物を堆積岩に変え、長い直線的な地層に変化させたと言うことでしょうか。

1200万年前からの出来事が丁寧に描かれていますが、余りに長い年月の複雑な出来事で、実感できないのが正直な感想です。

この後、日南海岸を北上し、「青島」の「鬼の洗濯岩」の上を歩いて大自然の不思議な風景を満喫しました。

南九州旅行No.27 日南市「鵜戸神宮」参道の風景

2012年10月23日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市宮浦の「鵜戸[うど]神宮」の参拝です。

日南市の旅行記事の順は地図上のルートで記載していますが、実際の「鵜戸神宮」の参拝だけは朝一番でした。

日南市の飫肥城周辺や、油津の観光は朝9:00以降からの施設が多く、都城市のホテルから8:30頃「鵜戸神宮」へ参拝したものです。

「鵜戸神宮」でも参拝者の受入れ準備が一部出来ていない時間帯だったようですが、返って普段見られない風景を見ることが出来ました。



「鵜戸神宮」の案内図です。

間違えて入った国道近くの観光バスの駐車場にあった案内図で、下の図は海岸沿いの社殿付近を拡大表示したものです。

参拝経路は、国道220号から図左上の小さな鳥居をくぐり、海岸沿いの道を普通車駐車場まで走ってきました。



駐車場から神門へ向かう途中に「神犬石[いぬいし]」がありました。

海岸のそばで日向灘を見つめて立つ姿です。

岩の上に突き出た部分を犬の耳に想定しているようですが、私にはカエルの目に見えます。

■案内板より
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(神犬石)八丁坂から、御本殿を御守護するように見えることから神犬石と呼ばれている。
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「鵜戸神宮」の「神門」が見えてきました。

朱塗りの立派な門で、左手に見える建物は、社務所です。

開かずの門かとも思いましたが、まだ朝8時半頃で、門が開く時間ではなかったようで、門の脇から入りました。

■門前の立札より
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御祭神 ウガヤ葺不合尊[ふきあえずのみこと](神武天皇の御父君)
旧官幣大社
  鵜戸神宮[うどじんぐう]
例大祭 二月一日
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「神門」を過ぎると、高くそびえる「楼門」が見えてきました。

楼門の二階に大きな絵が掛けられ、その下に「古事記編纂1300年ゆかりの地」と書かれた横断幕が見られます。

写真右下の絵は、今年の干支「龍」です。

「龍」の絵には古事記から引用されたと思われる書がありますが、残念ながらその意味は分りませんでした。

■楼門の干支「龍」の絵に書かれた書
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古[いにしえ]を稽[かむが]へて今に照らす
  古事記序
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楼門を過ぎた左手に門があり、「吾平山上陵」と書かれた案内板がありました。

案内図ではこの門を入ると「稲荷神社」で、更に上ると「ウガヤ葺不合尊[ふきあえずのみこと]」の陵墓とする「吾平山上陵」があるようです。

■門の前の案内板です。
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吾平山上陵[あひらやまのうへのみささぎ]
 鵜戸陵墓参考地
本宮御主祭神ウガヤ葺不合尊[ふきあえずのみこと]を葬[おさ]め奉ると伝う
 此處[ここ]より仰ぐ神域の最高地速日峰[はやひのみね]の頂[いただき]に在り
 此處より約三百五十米自然林の中青苔を踏んで登る
 宮内庁書陵部の管轄で陵墓守部[りょうぼしゅぶ]が置かれている
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「千鳥橋」を渡り、休憩所の建物を過ぎた参道の左手に続く石灯籠です。

気にも留めず歩いていると、案内板があり、江戸時代初期に藩主から寄進されたものと分りました。

一見して石燈籠には古さを感じませんが、潮風の当たる海岸で360年以上立ち続けていることに驚きます。

明治時代の石碑や、狛犬などがひどく風化しているのを見かけますが、これは良質の石材だったのでしょうか。

写真右上は、灯籠の「中台」に彫られた飫肥藩主伊東家の家紋「九曜紋」です。

■案内板より
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奉寄進 燈籠十基
飫肥藩主 伊東祐久[すけひさ]公
慶安元年八月吉日
(江戸時代初期、西暦一六四八年 九曜紋あり)
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写真上段は、参道の右手に北原白秋の歌が書かれた案内板があり、その隣にしめ縄の掛けられた二本の赤い柱が立っていたものです。

しめ縄の向こうは東の方角で、伊勢神宮を遥拝する場所なのか? それとも朝日を遥拝する場所なのか?疑問に思いながら参拝に向かいました。

■写真上段の案内板より
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鵜戸の海 夕虹明し まさしくぞ 神降り立たす 天の浮橋
北原白秋
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写真下段は、参拝の帰りに同じ場所を見た風景です。

「福注連縄」の陳列台が設置され、横の遥拝場所と思われた場所に「福注連縄」を奉納する台が置かれていました。

朝の準備前と、開店後の違いだったようです。

説明文を読むと「福注連縄」は、100円を出してすぐ隣の台に置くことで願いがかなうと言う実によく考えられたシステムです。

この台の「福注連縄」が減ると、横の台から戻せばよく、「福注連縄」は人々の願い事を隣の奉納台まで乗せて運ぶためのツールと解釈できるようです。

しかも「福注連縄」には大方の人々の願い事と思われる「無病息災 健康長寿 開運招福」と印刷された紙がセットされているという周到さです。

■写真下段「福注連縄」の案内板より
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福注連縄[ふくしめなわ]
 ようこそ鵜戸神宮においで下さいました。
 この玉橋より先は、古来より清浄とされ、足を洗い、身を清めてから参拝をしていました。
 この福注連縄で自分の身体を清め、開運招福・身体健全のご神威をいただいて下さい。
 福注連縄は、左の机上にお納め下さい。
   御初穂料 100円
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参道を進むと冒頭の案内図に「玉橋」と書かれた赤い橋がありました。

案内板によると「玉橋」は、「神橋」「霊橋」「鵜戸の反橋」とも言われているようで、橋の向こうは「神域」「霊域」とすることから名付けられたものと思われます。

橋を渡り、急な石段を下ると本殿のある岩屋です。

■案内板より
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神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋)
この神橋は神仏習合時代には金剛界三十七尊の御名が書かれた三十七枚の板が配してありました。
この神橋を渡ると御本殿に至る急な石段です。
これより先は古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。
かつては、橋の手前から履物を脱ぎ、跣[はだし]でお参りをしていました。
今はその習慣はなくなりましたが、その心は生きています。
お参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され。御加護を受けられるといわれています。

 ようこそおいで下さいました。
この神橋と急な石段、どうぞ足元に注意して下りられごゆっくり御参拝下さい。
  鵜戸神宮社務所
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「玉橋」の辺りから参道を振り返る方向を見下ろすと、海岸近くに大きな岩が並んでいました。

冒頭の案内図に向かって右から「夫婦岩」「雀岩」「扇岩」と名づけられているようです。

「扇岩」は、何となく形から分りますが、他の岩の名はどうもピンときません。



「玉橋」の辺りから本殿前の海岸を見下ろした風景です。

特徴のある大きな奇岩が並び、荒波が砕け散る豪快な風景ですが、なぜか案内図ではこれらの岩には名前がありません。



赤い柵のある急な石段が神社本殿のある岩屋入口へと続く風景です。

今回で三度目の参拝となりますが、この独特の風景には魅かれます。

岩屋の上の分厚い岩盤を見ると、崩れる心配は感じられませんが、巨大津波にはひとたまりもない場所です。

日向灘には巨大津波の歴史が見当たらないだけに、東北の三陸海岸などと比較して油断も大きいように思われてなりません。

2007年秋に訪れた宮城県気仙沼市の東端、唐桑半島にある標高約30mの御崎神社で見た、津波の避難誘導表示の用心深さには驚きましたが、2011年3月の大津波ではその地域での被害は、まぬがれなかったようです。



鵜戸神宮本殿前の海岸に大きな「亀石」(ベージュ色の岩)が横たわる風景です。

「亀石」の上部に四角形の枡があり、神社が売る「運玉」を投げ入れて、ゲーム感覚で運試しをするものです。

素焼きの「運玉」が5個で100円、「亀石」周辺に散らばる「運玉」の掃除にも労力が必要と思われることから、それなりにコストが掛けられているようです。

投げた「運玉」が枡に入らなくても参拝者がワイワイと楽しんで帰って行く様子は、ありふれたオミクジの自動販売機を置く神社とは一味違う個性を感じます。

「亀石」を横から見て気付いたのですが、巨大な「亀石」は上の山の岩盤が崩れて落下したように思われ、山から生まれた亀さんとも言えます。

「海幸彦」との神話で有名な「山幸彦[やまさちひこ]」(火遠理命[ほおりのみこと])を父君とする「鵜戸神宮」の御祭神「ウガヤ葺不合尊[ふきあえずのみこと]」と、どこか通じているようです。

次回は、本殿の参拝風景です。

■案内板より
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運玉
初穂料 一人 百円 五個
男は左手、女は右手で投げる
運玉を1個ずつ願いを込めて下の亀石の枡形に投げ、玉が入ればもちろん亀の背中にあたれば願い事がかなえられると言い伝えられています。
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油絵「コスモス」

2012年10月17日 | 妻の油絵

妻の油絵「コスモス」です。

毎年のようにガラスの花瓶に挿して描くコスモスですが、今年も相変わらずです。

花瓶の背景に印象的な緑のストライプのパネルが置かれていたので、下のテーブルを無視して全体に緑のストライプを描いたそうです。

花瓶から透けて見えるコスモスの緑の茎が元気そうで、花全体にみずみずしさが出ている感じです。


つたない作品ですが、過去に掲載したコスモスの作品を下記のリンクからご覧頂くことができます。

興味のある方はどうぞ。

2011年10月22日
2010年10月13日
2009年10月21日
2008年10月11日
2007年10月22日



先週土曜日から奈良と、高野山へ旅行してきました。

高野山の紅葉が少しづつ始まっていて、緑のモミジとの美しいコントラストをちょっぴり楽しむことができました。

「芸術の秋」と言いますが、こんな美しい秋の風景を見て制作意欲が湧いてくると言うことでしょうか。

南九州旅行No.26 日南市油津「堀川運河」の散策

2012年10月10日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市飫肥城下町の町並みを見物の次は、酒谷川沿いの国道222号を走り、太平洋に面した油津港へ向いました。

日南市油津の「天福球場」では毎年春には広島カープのキャンプが行われ、キャンプシーズンには期待を膨らませているのですが・・・。

油津の町は、カープの選手もなじみがあると思い、ちょっと立ち寄ってみました。



最初に訪れた「堀川資料館」で頂いた案内地図です。

「堀川資料館」の向かいに小さな観光駐車場があり、ここを起点として散策しました。

「天福球場」の北にはJR九州の「油津駅」があり、宮崎市から鹿児島県東南端の志布志市を結ぶ日南線のほぼ中間に位置するようです。

「堀川資料館」で「あぶらつ散策 ウォーキングガイド」というパンフレットを頂き、読んでみると、興味深い歴史があることを知りました。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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堀川運河
「堀川」は飫肥伊東藩第5代藩主祐実の命により、天和3年(1683)から2年4カ月をかけ難工事の末完成された。その主な目的は藩の一大収入である木材を川流しの方法で広渡川から直接堀川運河に入れ込み「油津港」へ出すためであった。その結果木材を安全にしかも安く港へ出せるようになり、それらは上方などへ移出され藩の財政を大いに潤した。この運河は全長約1km、両岸を石組し、水門、石段、スロープ等を設け、船倉堀や三角、四角堀(タンポ)も築いて「油津港」の補助港の役目を果たした。そのゆったりと蛇行する姿は三百石余年の歴史を秘めて人々に長い間多大な恩恵を与えた。
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「堀川運河」周辺の地形図です。

広瀬川河口のすぐ上流の「広渡川石堰堤[ひろとがわいしえんてい]」から「油津港」へ向けて「堀川運河」が開削された地形がみられます。

かつて広渡川河口から太平洋を南下して油津港へ向かっていた飫肥杉の水運が、堀川運河によって大きく改善されたことが分かります。

■「堀川資料館」の展示パネルより
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堀川運河を眺めてみよう!
 堀川運河は、飫肥杉を広渡川から油津港まで運搬するために江戸時代に開削されました。当時は、飫肥杉を運ぶために、一度広渡川から海に出て大節鼻を回って油津港まで運ばなければならず、天候に左右される危険なものでした。そのため、広渡川河口から油津港までの約900mが、開削されました。特に、吾平津神社周辺は硬い岩盤のため、工事が難航をきわめ人柱をたてたと伝えられています。
 堀川運河の完成により、木材の積み出しが飛躍的に向上し、造船材として飫肥杉が大きな需要を生み、鉄肥藩に莫大な利益をもたらしました。明治期になると商業の中心地として、堀川運河周辺は繁栄しました。
また、昭和の初期には、「マグロ景気」にわきました。
そんな、堀川運河周辺の歴史が、これらの資料には詰まっています。
 これらの貴重な資料は、「堀川運河 埋蔵文化財発掘調査報告書 CD」の中のデジタル資料です。掲示資料の作成は、宮崎県埋蔵文化財センターと日南市教育委員会の協力で行っています。
 ぜひ、この機会に堀川運河とその周辺の歴史に目を向け、当時の人々の生活に思いをめぐらせてみてください。
  平成20年4月 宮崎県立図書館
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写真左は、パンフレットに掲載されていた「堀川資料館」の二階建ての建物で、後方は「堀川運河」に面しています。

右の写真は、「堀川資料館」2階の風景で、部屋の右側には油津港の町並みの大きな模型、周囲の壁には映画「男はつらいよ」の寅さんシリーズの全ポスターや、昭和の堀川運河の風景写真などが展示されていました。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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堀川資料館
堀川沿いに地元の飫肥杉を使って建てられている。館内には、各種観光パンフレットがあり、二階には堀川橋周辺で撮影された映画「男はつらいよ~寅次郎の青春」の写真や出演者のサイン、シリーズポスター等が展示されている。
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「堀川資料館」の2階に展示されていた寅さんのポスターや、ロケ風景の写真です。

当地が舞台となった作品は、「男はつらいよ 第45作 寅次郎の青春」で、1992年(平成4)12月26日に封切られています。

ロケ風景の写真には飫肥城や、堀川運河周辺で撮られた在りし日の渥美清さんのなつかしい姿が見られます。



「堀川資料館」の2階テラスから「堀川運河」の南側を見下ろした風景です。

「堀川運河」には明治の情緒を漂わせる石橋「堀川橋」が架かり、西岸には「吾平津神社」の鳥居が見えます。

上記の展示パネルによると、運河の開削工事で「吾平津神社周辺は硬い岩盤のため、工事が難航をきわめ人柱をたてたと伝えられています」とあるのはこの辺りだったようです。

恒久的な石橋「堀川橋」が架けられたのは、「堀川運河」が開削された1686年(貞享3)から200年以上経った1903年(明治36)で、飫肥杉で造られていたと考えられるかつての橋が消えて、油津が新たな時代に踏み出す時期だったのかも知れません。

この運河に飫肥杉の筏が浮かび、運河沿いの町並みが活気にあふれていた時代を彷彿とします。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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堀川橋
別名「乙姫橋」ともいう。明治の中頃までは「油津板橋」といわれ風波に弱い橋であつた。ひとたび破壊されると「堀川」によって切り離された旧油津はあたかも陸の孤島となった。そのため永久橋が懇望され、明治32年、名石工石井文吉が石橋に着手し、明治36年8月ようやく完成した。平成4年には、渥美清主演の映画寅さんシリーズ「男はつらいよ青春編」がこの堀川橋を中心に撮影された。
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「堀川資料館」の2階テラスから「堀川運河」の北側を見下ろした風景です。

向こうに見える橋は「油津大橋」で、内陸の都城市へ至る国道222号が橋の東岸を起点としています。

「油津大橋」の西岸に小型船が係留されていますが、冒頭の案内地図に「チョロ船係留所」と記載した場所です。

遠くでよく見えませんでしたが係留されている数隻の船の中にチョロ船があったのでしようか。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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油津チョロ船
昭和40年頃までシピ、マピキ、カジキマグロ漁などで活躍していた木造帆走船。
飫肥杉が使つてあり船の長さは8m、幅約2.4mあり、大小2本のマストが特徴。現在復元され、まつりの時などには体験試乗ができる。
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「堀川資料館」を出て「堀川橋」の西岸を見た風景です。

正面には「吾平津[あびらつ]神社」の鳥居が建ち、向かって左手の四つの窓がある家は「男はつらいよ 寅次郎の青春」で、マドンナ役の蝶子(風吹ジュン)の理容店だったように思われます。



「吾平津[あびらつ]神社」参道口です。

鳥居の脇に立つ銅像は、神武天皇の后「吾平津媛[アヒラツヒメ]」で、神武天皇の東征に同行されず、この地に残られたとされています。

神武天皇との間に生まれた「手研耳命[たぎしみみのみこと]」は、神武天皇の崩御の後、神渟名川耳尊[かむぬなかわみみのみこと](綏靖天皇)との皇位争いに敗れて悲惨な最期を遂げたとされます。

合掌する「吾平津媛」の銅像は、神武天皇の無事を祈り、東征を見送る姿とも思われますが、悲惨な最期を遂げた息子「手研耳命」を悼む姿にも見えてきます。

南九州には神武天皇東征に関わる伝説が各地に残り、次第に史実だったように思えてきました。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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吾平津神社
和銅2年(709)元明天皇御代に創建されたと伝えられている。元は乙姫大日月神だったが、合祀し平野神社と称した。その後現在の名称に改められた。通称で乙姫神社ともいう。
吾平津神社の御祭神・アヒラツヒメは、吾田(アタ)の小椅(オバシ)の君の娘として生まれ、十五歳で皇太子となったカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)と結婚し、子供(手研耳命(タギシミミノミコ卜))にも恵まれ、幸せな暮らしを送つていた。やがてカムヤマトイワレヒコは、よりよく国を治めるために、兄等と相談され、日向の美々津から東に向けて旅立つが、吾平津媛は同行されず、この地よりその成功をお祈りしたという。
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堀川運河の東岸から南に見えた風景です。

向こうに見える国道220号の「港大橋」をくぐると油津港です。

人気のない町でしたが、どこか心和らぐ町並みでした。



堀川運河沿いの道から路地を東に折れると「油津赤レンガ館」が見えてきました。

写真左下は、パンフレットに掲載されていた「油津赤レンガ館」の正面の風景です。

河野家の倉庫として建てられたとありますが、当時どんな物を保管し、油津の繁栄とどう関わっていたのか知りたいものです。

■現地にあった文化庁登録文化財の案内板です
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油津赤レンガ館
大正10年頃に河野家の倉庫として建てられたみのである。レンガ造瓦葺3階建てで約22万個のレンガを使用している。中央通路部分はアーチ型をしており、大正時代の面影をそのまま伝えている。面積132.23㎡。
 (所有者 日南市)
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■パンフレット「あぶらつ散策」より
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油津赤レンガ館
大正11年頃建てられた倉庫。レンガ造りで中央にアーチ型の通路がある。平成9年に市民出資の「合名会社油津赤レンガ館」が買い取り、平成16年に市に寄贈された。平成22年3月に耐震改修工事と一部増築工事が完了し、油津のにぎわい拠点としはて活用されている。
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油津の美しい観光スポットの写真が展示された「油津赤レンガ館」の内部の風景です。

黒いはすかいは、大正時代のレンガ造りの建物に耐震補強工事を施したようです。

耐震補強なしで約90年持ち堪えてきたのは幸運だったのかも知れません。

特別興味を引く展示もなく、建物内部を一周して帰りました。



通りの左手は「杉村金物本店」の建物、右手は「油津赤レンガ館」です。

赤レンガの建物が向かい合い、その先に古い「杉村金物本店」の店舗が続いています。

案内パンフレットにはまだ古い建物などが紹介されていましたが、予定時刻を過ぎ油津を後にしました。

江戸時代初期の「堀川運河」の開削と、飫肥杉による繁栄の歴史や、神武天皇の東征を見送る「吾平津媛」の伝承など興味深い町でした。

■パンフレット「あぶらつ散策」より
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杉村金物本店
春日地区から油津港へ向かう国道沿いにある。明治より続いている商家「杉村金物本店」の店舗兼住宅として昭和7年建築された。木造3階建ての外装は銅板張り、窓は洋風のシャレたデザイン、アンティークな雰囲気を持つ建物である。今も昔風の金看板をかかげ現役の店舗として利用されている。
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南九州旅行No.25 日南市飫肥の町並み見物

2012年10月03日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市飫肥の「小村寿太郎記念館」の見学を終え、飫肥城下町の町並みを見物しました。



飫肥の観光パンフレットにあった観光マップの一部です。

「旧山本猪平家」(MAP5)、「商家資料館」(MAP6)、「旧高橋源次郎家」(MAP7)と進んで行きます。

大手門通り西の「飫肥城観光駐車場」で、有料観光施設の全入館と、食べあるき商品券5枚のセットを勧められ、地図で探しながらの町歩きでした。

■「重要伝統的建造物群保存地区」の案内板より
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重要伝統的建造物群保存地区 昭和五十二年五月十八日 国選定
日南市飫肥伝統的建造物群保存地区
 飫肥城下は飫肥藩五万一千石の城下として、明治時代から昭和三十年代にかけても、南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えた。城下の形成は、大正十五年(一五八七)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられる。現代においても、江戸時代始めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されている。
 城下は飫肥城の為に、三方を酒谷川に囲まれた東西八百五十メートル、南北九百メートルの範囲で、南北三街路、東西七街路で方形に区画されている。
飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっている。
各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生け垣に囲まれ、格式に応じた門を設けている。屋敷地の広さは上級家臣の二千坪から下級家臣でも、二百六十坪ぐらいまでさまざまである。
昭和五二(一九七七)年、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
保存地区の範囲は横馬場通り、後町通り、前鶴通りを中心に約十九.八ヘクタールである。
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「小村寿太郎記念館」から大手門通りを南に進み、最初の信号を過ぎたあたりの風景です。

鯉の泳ぐ路地は、すぐ先を横切っています。

更に進むと左手に「旧山本猪平家」、「小村寿太郎誕生の地」と続き、その先には国道222号です。



屋根の付いた高い塀が印象的な「旧山本猪平家」の門の風景です。

案内板によると、敷地の南半分(写真に向かって右側)は、小村寿太郎の実家だったとされる敷地で、山本猪平は、隣家の小村寿太郎とは同年代だったようです。

案内板に山本猪平が「この建物は小村寿太郎が飫肥に帰って来た時のために建てた」という言い伝えがあるのも小村寿太郎の活躍を喜び、とりわけ敬意を感じていたことがうかがわれます。

■「旧山本猪平家」の案内板より
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市指定文化財  平成十一年八月十九日指定
建造物 旧山本猪平家
 この建物は、飫肥の豪商であった山本猪平が明治四〇年(一九〇七) 頃に建築した商家の本宅である。敷地面積約一千一百平方メートルの中に、主屋、離れ屋、台所、浴室、便所等がほぼ建築当時のまま保存されており、飫肥本町の商人本宅を現代に伝える遺構として貴重である。
 屋敷地は大手門通りに面して高い塀と門を構えている。門の南側は部屋と収納庫となっており、主屋と奥座敷、離れ、台所、浴室、便所とが庭を囲むように有機的につながり、当時の町家の配置をよく残している。このうち主屋は入口に格子戸を設けて、数寄屋風の天井を持つ通り土間を通って玄関に至る。通り土間の両側には収納庫を設けている。
 主屋は、座敷の十畳に次の間の十畳が並び、その奥が居住の場となっている。奥座敷は、昭和二年(一九二七)に山本緒平が隠居したのに伴い、昭和四年(一九二九)に増築された。
 本来奥座敷便所の東隣は隠居の出入ロになっていたとみられる。また、屋敷地内の通路や床下土間に陶磁器のタイルを使用しており、当時の流行の一端を知ることができる。
 なお、この屋敷地の南半分はもともと町役人であった小村寿太郎の父・小村寛の屋敷地であった。小村寛が飫肥商社事件で没落したために、山本緒辛が買収してこの建物を建てたのである。山本家には、「この建物は小村寿太郎が飫肥に帰って来た時のために建てた」という言い伝えが残されている。
 この建物は昭和五十二年(一九七七) の伝統的建造物群保存地区の選定時に保存物件として指定されていたが、平成九年 (一九九七) に空家となったため、市で公有化して修理した。修理に際しては建築当初に戻すことを原則としたが、一部耐震強度の確保のため、壁を新設している。
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「旧山本猪平家」の玄関の風景です。

案内板に当時の流行していたとされる足元の緑のタイルがひと際目を引きます。

奥に続く座敷には五月の節句の飾り付けが並び、楽しい雰囲気を感じさせています。



案内板にあった「旧山本猪平家」の敷地と建物配置図です。

向かって右に門や、玄関があり、上に突き出た敷地が小村寿太郎の実家があった場所と思われます。

母屋の上に突き出た奥座敷は、山本猪平の隠居に伴い増築されたとされ、小村寿太郎没後18年のことだったようです。



バス停の前から見た国道222号の風景です。

観光駐車場では平日に関わらず次々と観光客が来ていましたが、町並みの人では比較的静かで、ゆっくりと見物できました。



観光パンフレットにあった「商家資料館」の建物風景です。

江戸時代末期の慶応大火で全焼した後に建てられたとされ、白漆喰の土蔵造りは、強い防火意識が背景になっているものと思われます。

熱い日差しの通りから館内に入り、食べ歩きの商品「姫アイス」を頂きながらしばらく休憩させて頂きました。

■「商家資料館」の案内板より
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 市指定文化財  昭和五十八年十月一日指定
建造物 商家資料館
 本町は飫肥城下町における約四百年前からの商人町である。
 とりわけ、明治時代以降は飫肥杉の取引や南宮崎の政治、経済の中心地として栄えてきた。その繁栄を今に伝えるのが商家資料館である。
 この建物は、慶応ニ年 (一八六六) の本町大火後、明治三年(一八七〇)に本町の商人で山林地主であった山本五平が建てた。木造一部二階建ての白漆喰の土蔵造りで、樹齢二百年以上の飫肥杉がふんだんに使用されている。
本町の町屋は一般に間口が狭く、奥行きが深い。この建物も玄関口は商売用で、奥に居住空間があり、通路としての土間が奥まで続いている。
 明治二四年(一八九一) には本町の素封家高橋源次郎の所有となり、「正誼館」と名付けられて青年商工会の集会所や泰平踊りの練習所として使用された。
 昭和三年(一九二八)妹尾家がこれを買取り、金物屋を開いたが、昭和五八年(一九八三) に本町通りの拡幅に伴い、市が寄贈を受けて、旧所在地から約六十メートル離れた反対側に移築、復元して商家資料館とした。
 館内には、江戸時代以降の本町商人が使用していた道具約二百五十点を展示しており、商人の生活習慣を知る上で貴重な資料である。
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「商家資料館」の館内の風景です。

「樹齢200年以上の飫肥杉がふんだんに使用されている。」と案内板にあるように、建築には山林王「山本五兵衛」が「飫肥杉」の素晴らしさを最大限アピールするよう建てたことが伝わってくるようです。

様々な展示物がありましたが、歩き疲れてしまい、眺めるだけに終わってしまいました。

■「商家資料館」の館内にあった説明板です。
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  商家資料館について
本町第二回目の慶応大火で本町通りは全焼しました時に本町居住の山林王、山本五兵衛が豪壮な家の建築にかかり、明治初年に出来たのがこの家(商家資料館)であります。その後本町の素封家、高橋源次郎(後の貴族院議員)が買いとり、明治24年「正誼館」と名づけ、本町区商交会泰平踊りの集会場に提供しました。そして昭和の初めに四国から来た商人妹尾がこの家を買い、妹尾金物店を開いて現在に至り、本町拡幅を期に、市に寄贈し、本町唯一つの古い商家が残りました。
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観光パンフレットにあった「旧高橋源次郎家」(MAP7)の建物の写真です。

町並みにある家では最も風格のある門構えで、家の中と共に品格のある建物でした。

国道沿いの邸宅で、国道の向こう側に渡って全景を撮ることも考えましたが、歩き疲れたので止めました。

■「旧高橋源次郎家」の案内板より
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国登録有形文化財
旧高橋源次郎家
【沿革】
 高橋家住宅は、飫肥城下町の町家筋である本町通りのほぼ中央に南面して立地している。飫肥の実業家で貴族院議員にもなった高橋源次郎が建築した。
 昭和50年代の本町通り拡幅工事により、幅3.18mの土地が道路用地となったが、本来間口11間、奥行き25間の敷地に、主屋、隠居部屋、氏神、蔵2棟、納屋、炊事場、便所等が配置されていた。
 現在は取り壊されているが、主屋の南東に、道路に面して2階建ての店があった。主屋は明治中期に建てられ、大正4年に修理されたと伝えられる。
【意匠的特徴】
 本町に面して屋根付き塀があり、当初は玄関近くに入口となる腕木門があった。
 主屋は玄関から入つて6畳、次の間、ざしきと続く、また各部屋のふすまや廊下の坂戸には日本画が描かれている。
 敷地の中に庭を囲むように主屋・離れ・納屋・蔵が並ぶが、座敷から見える庭は屋根付きの塀で仕切られ、その奥の離れや納屋は見えなくなっている。このことから、接客本意の造りであることがうかがえる。
 主屋の屋根は寄せ棟で、飫肥地区において、それまで茅葺きであった民家が瓦葺きへ転換していく初期の建築としても価値が高い。
平成22年9月10日、主屋や蔵等の5件が国の登録有形文化財(建造物)となった。

 出典:「宮崎県の近代和風建築 -近代和風建築総合調査報告書」
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写真右は、門を入り左手に見えた「旧高橋源次郎家」母屋の風景です。

写真左にある建物配置図を見ると東西の間口が狭く、奥行きの長い敷地で、配置図右下の門から入り、Sカーブのアプローチを通り母屋の玄関に入ります。

表の通りから見えた堂々とした屋敷の雰囲気とは違い、母屋は意外に小さく感じますが、案内板では道路に面した敷地南東に二階建ての店があったとしており、当時の風景とはだいぶ違っているようです。



「旧高橋源次郎家」の建物に入り、見学した襖絵です。

上の絵は、竹林に七人が集い、語り合う場面で、有名な「竹林七賢図」でしょうか。

下の絵は、何の絵か分かりませんが、松の木の下で家族がくつろぐ場面に思え、絵の前に鮮やかな振袖が展示されて豪華な雰囲気でした。

廊下の坂戸に描かれたクジャクの日本画も印象的でした。



国道222号に面したファミリーマート日南飫肥本町店の風景です。

江戸時代の城下町のたたずまいを壊さないよう「なまこ壁」の特別仕様で造られ、全国でも例のない建物だそうです。

食べ歩きで訪れたファミリーマート向いの「厚焼き玉子 あらたけ」のご主人に教えて頂いた話です。

又、伝統的建造物群保存地区で一般家屋を造る際、武家屋敷風に造ると多額の補助金が支払われるそうで、美しい町並みの景観も昔ながらの建物だけではなく、周囲の一般住宅からも雰囲気作りの協力を得ており、そこにも相当のコストがかけられている現実を知りました。

「厚焼き玉子 あらたけ」のおいしい「プリン風厚焼」を頂いて、飫肥の観光も終わりです。