2012年9月13日長崎旅行4日目、「平戸市生月町博物館・島の館」の古式捕鯨に続き、生月島に今でも続く「隠れキリシタン」の展示資料の見学です。
「島の館」の展示パネルでは「隠れキリシタン」の名称の大半は、「カクレキリシタン」で表示されており、以下ではそれに従って記載します。
「カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音」(宮崎 賢太郎著、長崎新聞出版)によると、「カクレキリシタンとは、キリシタン時代にキリスト教に改宗した者の子孫である。一八七三年禁教令が解かれ、信仰の自由が認められた後もカトリックとは一線を画し、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を組織下にあって維持し続けている人々を指す。・・・」としており、当館の名称表示も同様の考え方と思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/48/b75d6a847cb2a8cb6d0e54803bbba917.jpg)
「カクレキリシタン」展示コーナーの最初の展示、屏風絵「生月」です。
右手に数珠を持ち、うつむき加減に正座する女性は、かすかな煙がゆらゆらと立ち上る香炉を見つめ、深い悲しみに沈んでいるようにも見えてきます。
御神体の掛け軸には右手に剣、左手に綱を持つ眼光鋭い不動尊が描かれていますが、隠し文字「デウス」(キリシタンの神)は、見つかりませんでした。
■展示の説明文です。
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屏風絵 生月
小山硬[おやまかたし]氏作・寄贈
障子が閉じられたほの暗い納戸の中で、デウスの文字が隠された掛軸の御神体を見つめて正座する婦人。その容色は、この世のものとは思えないほど白い。
小山硬氏は昭和九年生まれ。 東京芸術大学で日本画を学び、若き日再会を歩き、キリシタンに想を得た一連の作品を制作し、昭和五十二年、「洗礼」で日本美術院賞を受賞された。
「生月」は、この地のかくれキリシタンの御神体に接した印象をもとに、平成八年に制作されたが、本町出身で横浜美術館館長(当時)の陰里鉄郎先生の御仲介によって、平成十三年二月二十四日に当館に寄贈された。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/9e/6d4af156f53e74cd433af3a818410d42.jpg)
展示されていた「キリシタン時代の生月島周辺(16世紀後半)」と題する地図の写真が不鮮明で、作り直したものです。
地図の赤く塗られたエリアは、1560年頃の平戸松浦氏の重臣籠手田氏と、一部氏の勢力圏で、かつての教会の場所や、現代まで続くカクレキリシタンの集落が同一エリアに見られます。
又、緑の印は、「セミナリヨ」(小神学校)と、「コレジヨ」(大神学校)があったとされる場所で、展示パネル「生月島キリシタン関係年表」には
-1587年(天正15)豊臣秀吉、博多でバテレン追放令を出す。日本中の宣教師が生月島へ集合。セミナリヨ、コレジオも一時的に生月に移る。-
とあり、バテレン追放令により、山口からコレジオが山田へ、安土からセミナリヨが壱部へ一時移設され、短期間ながらも生月島が日本のキリシタン布教の中心地だったようです。
■展示パネルより
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生月島キリシタンの歴史
天文18年(1549)に宣教師ザビエルが鹿児島に上陸した後、九州を中心にキリシタン(カトリック、)の教えが広まります。当時貿易港だった平戸でも、当地を治める大名・松浦氏の重臣・籠手田[こてだ]氏と一部氏が入信し、その領民の多くがキリシタンとなりました。
しかし豊臣秀吉が天正15年(1587)に発令した伴天連[ばてれん]追放令以降、キリシタンに対する禁教圧力は次第に強まります。慶長18年(1613)幕府は全国的な禁教令を出し、その後はキリシタン禁制の高札が立てられ、寺への檀家帰属を強制する宗門改寺請制度や、踏み絵の行事も行われるようになりました。
生月島でも慶長4年(1599)には、棄教を拒んだ籠手田氏・一部氏が多くの信徒を引き連れ長崎に退去しますす。慶長14年(1609)には島内に残った信徒の指導者ガスパル西玄可[にしげんか]が処刑され、元和8年(1622)と寛永元年(1624)にはカミロ神父の潜行布教を助けた信徒と家族達が中江ノ島などで処刑されます。
しかし、多くの信徒は、表向き神仏を祀りながら、キリシタンの信仰形態を続けました。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/fc/b2dab148c43d3b59c668376120fd29a8.jpg)
上段の写真は、「カクレキリシタン」展示コーナーの奥に「御前様」(納戸神)を祀る昭和初期のカクレキリシタンの民家が復元展示されていたもので、下段は、その間取り図です。
ニワ(土間)から見た奥の「ザシキ」には集落の信徒の役員が行事の時に座る位置が表示されており、向かって右から「親父役 御爺役・役中・先役・二番役・三番役・四番役・据役」と書かれていました。
「ザシキ」では季節ごとに様々な行事が行われていたようで、かつての信徒の役員が並ぶ写真も展示されていました。
右手奥の部屋「ナンド」にはごカクレキリシタンの神体「御前様(納戸神)」が祀られています。
■展示の説明文です。
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住まい
昭和初期のカクレキリシタンの住まいを復元したものです。三方の壁を石垣に持たせかけた内側に、アダ・ヨコザ・ザシキ・ナンドの四間とニワ(土間)から成っています。ナンドには御前様(納戸神)をおまつりしていますが、これは堺目地区でのまつり方を参考にしています。住まいの中には、御前様とともに神棚、荒神様、お大師様、仏壇などがまつられていることに注目してください。家は、食事や夜なべ仕事など日常の生活を営む場ですが、同時にさまざまな信仰や行事の舞台であることが分かります。
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■ザシキ部屋の説明文です。
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行事に使われる座敷
カクレキリシタンの行事は、おもに座敷で行われる。まず一同でオラショを唱える。
その後、酒肴の膳が出てく、神様に届けてからいただく。
行事の中で、納戸の御前様に参拝することはない。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/c0/ed8292529003e596235b204acc53f950.jpg)
左の写真は、「御前様」(納戸神)が祀られた右手奥の部屋「ナンド」の風景で、右は、別のコーナーに展示されていた同じご神体の絵の掛け軸です。
部屋の入口の案内板には「垣内(組)の御前様」とあり、小集落単位のカクレキリシタンの組織「垣内(組)」のご神体の一例として展示されているものです。
「垣内(組)の御前様」の掛け軸には和服を着て、子供を抱く女性の絵ですが、キリストを抱く生母マリア像が元となったようです。
■展示パネルより
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お掛け絵の種類
垣内(津元)の御前様(主要な御神体)の多くは、お掛け絵といわれる掛軸仕立ての画像です。お掛け絵のモチーフは、もともと聖母子、キリスト教の聖画に由来しています。なかにはキリシタン時代に制作された聖画がそのまま今日まで伝わったと思われるものもありますが、多くは、数度にわたって「お洗濯」と呼ばれる描き替えが行われており、様相がかなり変わってしまったものもあります。
数が多いのは聖母子で、聖母子のみを描いたものの他に、数珠に囲まれた「ロザリオの聖母子」、ロヨラとザビエルを加えた「聖母子と二聖人」、受胎告知やエジプトへの逃避途上の場面を描いたものもあります。また聖母子と一緒に、聖ヨセフや、聖母の母・聖アンナを描いた聖家族図と思われるものもあります。キリスト像では「荊冠のキリスト」などがあります。聖人では、洗礼者聖ヨハネ、聖セバスチャン、聖ヨアキムと聖アンナと思われるものがあります。
これらのお掛け絵は、長い禁教時代の間に教義が失われたため、本来、誰を描いたものか分からなくなっており、単に男神様、女神様として、または地元の殉教者として信仰されていました。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/71/9e75ca8d62f28013311735d402b6f189.jpg)
展示コーナーにあった「垣内(組)の御前様」の掛け軸です。
他にも様々な掛け軸が紹介されていましたが、左の「ダンジク様」は、かつて島で殉教した家族で、島の南端近くの道に殉教地の案内標識があり、車で行ける史跡の案内板の場所で引き返しました。
■向かって左の掛け軸の説明文です。
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ダンジク様(聖家族図)
旧館浦ダンジク講の御神体
ダンジク様とは、島の南西岸の暖竹の藪影に隠れていたが、船で捜索していた役人に発見され処刑された親子3人のキリシタンで、山田や舘浦には彼らを祀る講がいくつか存在する。キリスト教絵画との比較研究によって、キリスト、マリア、ヨセフの聖家族を描いた絵の影響が認められる
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■右の掛け軸の説明文です。
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聖母子と二聖人
旧山田垣内の隠居御前様
上部に、雲上の三日月に座る左抱きの聖母子を、下部に左右から仰ぎ見る二人の聖人を配している。二人の聖人は、イエズス会の創始者であるロヨラ(左)しザビエル(右)である。
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■「ダンジク様」の史跡の近くの案内板に悲しい殉教の物語がありました。
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生月町指定史跡 だんじく様
昭和四十六年三月二十九日指定
正保二年(一六四五)平戸藩は押役を置きその下に宗門目付、下目付、宗門改め役を置いて切支円の取締りにあたらせた。
この頃、捕吏に追われた弥市兵衛と妻マリア、その子ジュアンは、この断崖の下のだんしくの繋みに隠れていたが子ジュアンが磯に遊びに出たところを海上から役人に発見され殉教した。
以来、海上からのお詣りは忌みきらわれている。
いまもなお旧一月十六日の命日には信者が集まり、信仰を守りつつ殉教していった人々をしのび祈りを捧げている。
アーしばた山 しぱた山ナーアー
今は涙の谷なるやナー
先はナ一助かる道であるぞやナーアー
殉教の悲しみと、神の救いを希[ねが]う心情のほとばしるしみじみとした歌である。
この歌は昭和五十二年七月立教大学の皆川達禾教授によって招介され、東京国立劇場で生月かくれキリシタン歌オラショと共に発表された。
平成三年三月二十五日設置
生月町教育委員会
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/11/0342672f56228803635c6210112335a2.jpg)
これもご神体として祀られていたとされる「大型メダイ 無原罪の聖母」です。
色あせて、修復され、日本的な姿になった絵と違い、錆びないように大切に伝えられてきたものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/36/7c7f1f6aa59b059453910f90af4351f3.jpg)
ご神体が祀られた「ナンド」の前の部屋「ヨコザ」の風景です。
四種類の祭壇があり、左から「お大師様(弘法大師)」、「先祖様(仏壇)」、右上段の「家の御前様」、下段の「小組のお札様」と案内され、昭和初期の信仰の様子がうかがえます。
右の上下段は、「カクレキリシタン」の祭壇のようですが、以外にも仏教の祭壇が大きな場所を占めています。
「カクレキリシタン」は、一途に一神教のキリスト教を信じ、表向き仏教や、神道に帰依していたと思っていましたが、信教が自由となった昭和の信仰の様子は、宗教が融合した独特の姿でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/87/cd66e2c1bc7bd64b54c071f597d2f05b.jpg)
「オテンペンシア(オテンペシャ・お道具)」とされる宗教用具です。
説明文にあるように苦行の鞭として使われていたものが、神道の「御幣[ごへい]」の影響か、祓いの道具に転化したとされています。
密かに信仰を守っていた数百年の時代は、日常的に僧侶や、神主との関係もあり、元のキリスト教から大きく様相を変えてしまったようです。
■説明文です。
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オテンペンシア
オテンペンシア(オテンペシャ・お道具)は、元は苦行の鞭だったものが、祓いの道具に転化したもの。
地区によって形態が若干異なるが、一文銭などを加工した十字型金属を紐につけているものが多い。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/a0/d1eda7788b8cf5bc072db1b5d91f66c4.png)
展示パネルにあった「生月の殉教地と殉教伝説」と題する地図の写真が不鮮明だったので作り直したものです。
生月島には御崎、壱部在、堺目、元触、山田と五集落があり、十字架のマークの殉教地に名称を表示しています。
生月島でのキリシタンの布教を積極的に受け入れたのは南蛮貿易の利益を平戸の領主「松浦隆信」の重臣「籠手田安経」と、その実弟「壱部勘解由」でした。
ガスパル様とされる「西玄可」は、平戸に在住する籠手田氏に代る生月島籠手田領の奉行であり、生月島全体のキリシタンの総責任者でもあった人で、籠手田氏・壱部氏が長崎へ退去した10年後に処刑されており、生月島でのキリシタン弾圧の最も大きな事件だったようです。
■パネルの説明文です
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生月の殉教地と殉教伝説
生月には多くの殉教地があり、キリシタン殉教の伝説が語り伝えられています。またロサマ(死霊様)としてまつられているものも、多くはキリシタン殉教に関わりがあるものとされています。このように祖先が受けた苦難がつたえられたことが、困難に耐え、現在に至るまで信仰が受け継がれてきた理由のひとつだと考えられます。
●ガスパル様
籠手田氏追放後の生月信徒の指導者だったガスパル西玄可は、慶長14年(1609)妻子とともに捕えられ、黒瀬の辻で処刑されました。ガスパル親子の亡骸は信徒の手によって教会の儀式にのっとり葬られたといわれています。
●中江ノ島
元和8年(1622)五島・平戸地方での潜伏布教を試みたカミロ神父を助けたという理由で、ジョアン坂本左衛門、ダミヤン出口才吉など多くの信徒がここで処刑されました。現在のカクレキリシタン信徒にとっては、聖なる「お水」を得る聖地になっています。
●ダンジク様
弾圧の際に逃れた夫婦と子供一人の家族が、島の裏側のダンジクの藪陰に隠れていました。
しかし、子供が海岸に出て遊んでいる所を、船で見回る役人に発見され処刑されてしまいました。ここでは正月16日を命日として行事がおこなわれています。
●サンパブロー様
幸四郎様とも言われます。幸四郎は元々キリシタンの禁教のために派遣されてきていましたが、失明の危機を信者の手厚い看護により回復したため信徒になりました。しかし、最後は捕えられ、殉教したといわわれています。
●焼山
布教が盛んにおこなわれていた頃、教会堂が建っていたと伝えられており、一時はセミナリヨもここに置かれていたそうです。焼山の名は教会堂が火を掛けられて焼かれたからだとも、また信徒を切ったあと穴に放り込んで火をかけたからだとも言われています。
●千人塚
正保2年(1645)生月に残存するキリシタンを根絶やしにすべく、熊澤作右衛門を隊長とする一隊が上陸し、多くのキリシタンを処刑しました。千人塚はその際殺された多くのキリシタンを埋葬した場所だと言われています。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/23/2a413402bc39a1975eadba520a508e9a.jpg)
「お水瓶」が展示されていました。
上段の地図にある殉教地「中江ノ島」で汲む聖なる「お水」を入れていたのでしょうか。
■展示の説明文です。
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お水瓶
オーソドックスな形のお水瓶(堺目)
一般的に行事に用いるお水瓶は、高さ20センチ程度の鶴首の壺で、口は紙などで蓋がされ、行事の時にお水をつけて祓うイズッポと呼ばれる木の棒が付いている。
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集落の多くがある生月島島の東岸から見える「中江ノ島」では、多くのキリシタンが処刑されており、信仰を守って殉教した人々によせる想いが「中江ノ島」を神聖な島としたのかも知れません。
平戸島から生月島大橋が見えてくると、その東に浮かぶ小さな島が「中江ノ島」でした。
今でも続く「カクレキリシタン」の信仰や、古式捕鯨で栄えた生月島島の歴史を紹介する 「平戸市生月町博物館・島の館」の展示には大いに魅力を感じました。
<参考資料>
「カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音」(宮崎 賢太郎著、長崎新聞出版)
「島の館」の展示パネルでは「隠れキリシタン」の名称の大半は、「カクレキリシタン」で表示されており、以下ではそれに従って記載します。
「カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音」(宮崎 賢太郎著、長崎新聞出版)によると、「カクレキリシタンとは、キリシタン時代にキリスト教に改宗した者の子孫である。一八七三年禁教令が解かれ、信仰の自由が認められた後もカトリックとは一線を画し、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を組織下にあって維持し続けている人々を指す。・・・」としており、当館の名称表示も同様の考え方と思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/48/b75d6a847cb2a8cb6d0e54803bbba917.jpg)
「カクレキリシタン」展示コーナーの最初の展示、屏風絵「生月」です。
右手に数珠を持ち、うつむき加減に正座する女性は、かすかな煙がゆらゆらと立ち上る香炉を見つめ、深い悲しみに沈んでいるようにも見えてきます。
御神体の掛け軸には右手に剣、左手に綱を持つ眼光鋭い不動尊が描かれていますが、隠し文字「デウス」(キリシタンの神)は、見つかりませんでした。
■展示の説明文です。
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屏風絵 生月
小山硬[おやまかたし]氏作・寄贈
障子が閉じられたほの暗い納戸の中で、デウスの文字が隠された掛軸の御神体を見つめて正座する婦人。その容色は、この世のものとは思えないほど白い。
小山硬氏は昭和九年生まれ。 東京芸術大学で日本画を学び、若き日再会を歩き、キリシタンに想を得た一連の作品を制作し、昭和五十二年、「洗礼」で日本美術院賞を受賞された。
「生月」は、この地のかくれキリシタンの御神体に接した印象をもとに、平成八年に制作されたが、本町出身で横浜美術館館長(当時)の陰里鉄郎先生の御仲介によって、平成十三年二月二十四日に当館に寄贈された。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/9e/6d4af156f53e74cd433af3a818410d42.jpg)
展示されていた「キリシタン時代の生月島周辺(16世紀後半)」と題する地図の写真が不鮮明で、作り直したものです。
地図の赤く塗られたエリアは、1560年頃の平戸松浦氏の重臣籠手田氏と、一部氏の勢力圏で、かつての教会の場所や、現代まで続くカクレキリシタンの集落が同一エリアに見られます。
又、緑の印は、「セミナリヨ」(小神学校)と、「コレジヨ」(大神学校)があったとされる場所で、展示パネル「生月島キリシタン関係年表」には
-1587年(天正15)豊臣秀吉、博多でバテレン追放令を出す。日本中の宣教師が生月島へ集合。セミナリヨ、コレジオも一時的に生月に移る。-
とあり、バテレン追放令により、山口からコレジオが山田へ、安土からセミナリヨが壱部へ一時移設され、短期間ながらも生月島が日本のキリシタン布教の中心地だったようです。
■展示パネルより
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生月島キリシタンの歴史
天文18年(1549)に宣教師ザビエルが鹿児島に上陸した後、九州を中心にキリシタン(カトリック、)の教えが広まります。当時貿易港だった平戸でも、当地を治める大名・松浦氏の重臣・籠手田[こてだ]氏と一部氏が入信し、その領民の多くがキリシタンとなりました。
しかし豊臣秀吉が天正15年(1587)に発令した伴天連[ばてれん]追放令以降、キリシタンに対する禁教圧力は次第に強まります。慶長18年(1613)幕府は全国的な禁教令を出し、その後はキリシタン禁制の高札が立てられ、寺への檀家帰属を強制する宗門改寺請制度や、踏み絵の行事も行われるようになりました。
生月島でも慶長4年(1599)には、棄教を拒んだ籠手田氏・一部氏が多くの信徒を引き連れ長崎に退去しますす。慶長14年(1609)には島内に残った信徒の指導者ガスパル西玄可[にしげんか]が処刑され、元和8年(1622)と寛永元年(1624)にはカミロ神父の潜行布教を助けた信徒と家族達が中江ノ島などで処刑されます。
しかし、多くの信徒は、表向き神仏を祀りながら、キリシタンの信仰形態を続けました。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/fc/b2dab148c43d3b59c668376120fd29a8.jpg)
上段の写真は、「カクレキリシタン」展示コーナーの奥に「御前様」(納戸神)を祀る昭和初期のカクレキリシタンの民家が復元展示されていたもので、下段は、その間取り図です。
ニワ(土間)から見た奥の「ザシキ」には集落の信徒の役員が行事の時に座る位置が表示されており、向かって右から「親父役 御爺役・役中・先役・二番役・三番役・四番役・据役」と書かれていました。
「ザシキ」では季節ごとに様々な行事が行われていたようで、かつての信徒の役員が並ぶ写真も展示されていました。
右手奥の部屋「ナンド」にはごカクレキリシタンの神体「御前様(納戸神)」が祀られています。
■展示の説明文です。
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住まい
昭和初期のカクレキリシタンの住まいを復元したものです。三方の壁を石垣に持たせかけた内側に、アダ・ヨコザ・ザシキ・ナンドの四間とニワ(土間)から成っています。ナンドには御前様(納戸神)をおまつりしていますが、これは堺目地区でのまつり方を参考にしています。住まいの中には、御前様とともに神棚、荒神様、お大師様、仏壇などがまつられていることに注目してください。家は、食事や夜なべ仕事など日常の生活を営む場ですが、同時にさまざまな信仰や行事の舞台であることが分かります。
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■ザシキ部屋の説明文です。
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行事に使われる座敷
カクレキリシタンの行事は、おもに座敷で行われる。まず一同でオラショを唱える。
その後、酒肴の膳が出てく、神様に届けてからいただく。
行事の中で、納戸の御前様に参拝することはない。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/c0/ed8292529003e596235b204acc53f950.jpg)
左の写真は、「御前様」(納戸神)が祀られた右手奥の部屋「ナンド」の風景で、右は、別のコーナーに展示されていた同じご神体の絵の掛け軸です。
部屋の入口の案内板には「垣内(組)の御前様」とあり、小集落単位のカクレキリシタンの組織「垣内(組)」のご神体の一例として展示されているものです。
「垣内(組)の御前様」の掛け軸には和服を着て、子供を抱く女性の絵ですが、キリストを抱く生母マリア像が元となったようです。
■展示パネルより
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お掛け絵の種類
垣内(津元)の御前様(主要な御神体)の多くは、お掛け絵といわれる掛軸仕立ての画像です。お掛け絵のモチーフは、もともと聖母子、キリスト教の聖画に由来しています。なかにはキリシタン時代に制作された聖画がそのまま今日まで伝わったと思われるものもありますが、多くは、数度にわたって「お洗濯」と呼ばれる描き替えが行われており、様相がかなり変わってしまったものもあります。
数が多いのは聖母子で、聖母子のみを描いたものの他に、数珠に囲まれた「ロザリオの聖母子」、ロヨラとザビエルを加えた「聖母子と二聖人」、受胎告知やエジプトへの逃避途上の場面を描いたものもあります。また聖母子と一緒に、聖ヨセフや、聖母の母・聖アンナを描いた聖家族図と思われるものもあります。キリスト像では「荊冠のキリスト」などがあります。聖人では、洗礼者聖ヨハネ、聖セバスチャン、聖ヨアキムと聖アンナと思われるものがあります。
これらのお掛け絵は、長い禁教時代の間に教義が失われたため、本来、誰を描いたものか分からなくなっており、単に男神様、女神様として、または地元の殉教者として信仰されていました。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/71/9e75ca8d62f28013311735d402b6f189.jpg)
展示コーナーにあった「垣内(組)の御前様」の掛け軸です。
他にも様々な掛け軸が紹介されていましたが、左の「ダンジク様」は、かつて島で殉教した家族で、島の南端近くの道に殉教地の案内標識があり、車で行ける史跡の案内板の場所で引き返しました。
■向かって左の掛け軸の説明文です。
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ダンジク様(聖家族図)
旧館浦ダンジク講の御神体
ダンジク様とは、島の南西岸の暖竹の藪影に隠れていたが、船で捜索していた役人に発見され処刑された親子3人のキリシタンで、山田や舘浦には彼らを祀る講がいくつか存在する。キリスト教絵画との比較研究によって、キリスト、マリア、ヨセフの聖家族を描いた絵の影響が認められる
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■右の掛け軸の説明文です。
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聖母子と二聖人
旧山田垣内の隠居御前様
上部に、雲上の三日月に座る左抱きの聖母子を、下部に左右から仰ぎ見る二人の聖人を配している。二人の聖人は、イエズス会の創始者であるロヨラ(左)しザビエル(右)である。
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■「ダンジク様」の史跡の近くの案内板に悲しい殉教の物語がありました。
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生月町指定史跡 だんじく様
昭和四十六年三月二十九日指定
正保二年(一六四五)平戸藩は押役を置きその下に宗門目付、下目付、宗門改め役を置いて切支円の取締りにあたらせた。
この頃、捕吏に追われた弥市兵衛と妻マリア、その子ジュアンは、この断崖の下のだんしくの繋みに隠れていたが子ジュアンが磯に遊びに出たところを海上から役人に発見され殉教した。
以来、海上からのお詣りは忌みきらわれている。
いまもなお旧一月十六日の命日には信者が集まり、信仰を守りつつ殉教していった人々をしのび祈りを捧げている。
アーしばた山 しぱた山ナーアー
今は涙の谷なるやナー
先はナ一助かる道であるぞやナーアー
殉教の悲しみと、神の救いを希[ねが]う心情のほとばしるしみじみとした歌である。
この歌は昭和五十二年七月立教大学の皆川達禾教授によって招介され、東京国立劇場で生月かくれキリシタン歌オラショと共に発表された。
平成三年三月二十五日設置
生月町教育委員会
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/11/0342672f56228803635c6210112335a2.jpg)
これもご神体として祀られていたとされる「大型メダイ 無原罪の聖母」です。
色あせて、修復され、日本的な姿になった絵と違い、錆びないように大切に伝えられてきたものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/36/7c7f1f6aa59b059453910f90af4351f3.jpg)
ご神体が祀られた「ナンド」の前の部屋「ヨコザ」の風景です。
四種類の祭壇があり、左から「お大師様(弘法大師)」、「先祖様(仏壇)」、右上段の「家の御前様」、下段の「小組のお札様」と案内され、昭和初期の信仰の様子がうかがえます。
右の上下段は、「カクレキリシタン」の祭壇のようですが、以外にも仏教の祭壇が大きな場所を占めています。
「カクレキリシタン」は、一途に一神教のキリスト教を信じ、表向き仏教や、神道に帰依していたと思っていましたが、信教が自由となった昭和の信仰の様子は、宗教が融合した独特の姿でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/87/cd66e2c1bc7bd64b54c071f597d2f05b.jpg)
「オテンペンシア(オテンペシャ・お道具)」とされる宗教用具です。
説明文にあるように苦行の鞭として使われていたものが、神道の「御幣[ごへい]」の影響か、祓いの道具に転化したとされています。
密かに信仰を守っていた数百年の時代は、日常的に僧侶や、神主との関係もあり、元のキリスト教から大きく様相を変えてしまったようです。
■説明文です。
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オテンペンシア
オテンペンシア(オテンペシャ・お道具)は、元は苦行の鞭だったものが、祓いの道具に転化したもの。
地区によって形態が若干異なるが、一文銭などを加工した十字型金属を紐につけているものが多い。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/a0/d1eda7788b8cf5bc072db1b5d91f66c4.png)
展示パネルにあった「生月の殉教地と殉教伝説」と題する地図の写真が不鮮明だったので作り直したものです。
生月島には御崎、壱部在、堺目、元触、山田と五集落があり、十字架のマークの殉教地に名称を表示しています。
生月島でのキリシタンの布教を積極的に受け入れたのは南蛮貿易の利益を平戸の領主「松浦隆信」の重臣「籠手田安経」と、その実弟「壱部勘解由」でした。
ガスパル様とされる「西玄可」は、平戸に在住する籠手田氏に代る生月島籠手田領の奉行であり、生月島全体のキリシタンの総責任者でもあった人で、籠手田氏・壱部氏が長崎へ退去した10年後に処刑されており、生月島でのキリシタン弾圧の最も大きな事件だったようです。
■パネルの説明文です
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生月の殉教地と殉教伝説
生月には多くの殉教地があり、キリシタン殉教の伝説が語り伝えられています。またロサマ(死霊様)としてまつられているものも、多くはキリシタン殉教に関わりがあるものとされています。このように祖先が受けた苦難がつたえられたことが、困難に耐え、現在に至るまで信仰が受け継がれてきた理由のひとつだと考えられます。
●ガスパル様
籠手田氏追放後の生月信徒の指導者だったガスパル西玄可は、慶長14年(1609)妻子とともに捕えられ、黒瀬の辻で処刑されました。ガスパル親子の亡骸は信徒の手によって教会の儀式にのっとり葬られたといわれています。
●中江ノ島
元和8年(1622)五島・平戸地方での潜伏布教を試みたカミロ神父を助けたという理由で、ジョアン坂本左衛門、ダミヤン出口才吉など多くの信徒がここで処刑されました。現在のカクレキリシタン信徒にとっては、聖なる「お水」を得る聖地になっています。
●ダンジク様
弾圧の際に逃れた夫婦と子供一人の家族が、島の裏側のダンジクの藪陰に隠れていました。
しかし、子供が海岸に出て遊んでいる所を、船で見回る役人に発見され処刑されてしまいました。ここでは正月16日を命日として行事がおこなわれています。
●サンパブロー様
幸四郎様とも言われます。幸四郎は元々キリシタンの禁教のために派遣されてきていましたが、失明の危機を信者の手厚い看護により回復したため信徒になりました。しかし、最後は捕えられ、殉教したといわわれています。
●焼山
布教が盛んにおこなわれていた頃、教会堂が建っていたと伝えられており、一時はセミナリヨもここに置かれていたそうです。焼山の名は教会堂が火を掛けられて焼かれたからだとも、また信徒を切ったあと穴に放り込んで火をかけたからだとも言われています。
●千人塚
正保2年(1645)生月に残存するキリシタンを根絶やしにすべく、熊澤作右衛門を隊長とする一隊が上陸し、多くのキリシタンを処刑しました。千人塚はその際殺された多くのキリシタンを埋葬した場所だと言われています。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/23/2a413402bc39a1975eadba520a508e9a.jpg)
「お水瓶」が展示されていました。
上段の地図にある殉教地「中江ノ島」で汲む聖なる「お水」を入れていたのでしょうか。
■展示の説明文です。
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お水瓶
オーソドックスな形のお水瓶(堺目)
一般的に行事に用いるお水瓶は、高さ20センチ程度の鶴首の壺で、口は紙などで蓋がされ、行事の時にお水をつけて祓うイズッポと呼ばれる木の棒が付いている。
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集落の多くがある生月島島の東岸から見える「中江ノ島」では、多くのキリシタンが処刑されており、信仰を守って殉教した人々によせる想いが「中江ノ島」を神聖な島としたのかも知れません。
平戸島から生月島大橋が見えてくると、その東に浮かぶ小さな島が「中江ノ島」でした。
今でも続く「カクレキリシタン」の信仰や、古式捕鯨で栄えた生月島島の歴史を紹介する 「平戸市生月町博物館・島の館」の展示には大いに魅力を感じました。
<参考資料>
「カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音」(宮崎 賢太郎著、長崎新聞出版)