昔に出会う旅

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長崎旅行-8 「原城跡」島原の乱の最後の舞台

2013年01月26日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、長崎県島原市のホテルを出発し、「島原まゆやまロード」から雄大な普賢岳の風景を見た後、南島原市の「原城跡」へ向いました。

「原城跡」は、天草地方と、島原地方の民衆が蜂起した「島原の乱」の最後の舞台となった城で、今回の長崎旅行の目的の一つとなったスポットです。



島原半島の東岸、国道251号を南下して行くと入江の向こうに「原城跡」の高台が見えてきました。

海に突き出た先端近くに原城温泉の大きな建物があり、その付近から高台に向かう細い道を走ると「原城大手門跡」がありましたが、草の生茂った場所で、何も見つけることができませんでした。



「原城文化センター」に展示されていた「一揆勢の動き」と題する島原・天草周辺の地図で、右上に原城周辺地図を加えています。

原城周辺地図では城郭のあった辺りを黄色に塗っており、「島原の乱」では国道251号の西側には幕府軍12万の大部隊が陣を張っていました。

■地図にある「一揆の動き」(10月~12月)の状況が南島原市発行の小冊子「南島原歴史遺産」にありました。
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3カ月の籠城農民と12万余の幕府軍
1637(寛永14)年(10月)、年貢を納めきれない口之津の庄屋の妊婦を水責めにして殺したこと、代官が聖画を破いたことなどに、キリシタンたちが腹を立て、代官を襲った。
領民たちは次々とキリシタンであると表明し、わずか15、16歳の少年の天草四郎を総大将に、島原半島の村々で蜂起し、松倉氏の居城森岳城(島原城)を攻めた。
(翌11月)、天草でも同じように富岡城を攻囲した。1638年1月(寛永14年12月)城を落とせなった民衆約3万7千人は、すでに廃城となっていた原城に立て籠もった。
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■資料を総合して島原の乱の原因や、背景をまとめてみました。
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1.藩主松倉氏の苛政
2.過酷を極めるキリシタン弾圧
3.三年も続く飢饉の原因をキリシタンを棄教したこととし、立ち返れ(再入信)ば救われるとの風評が広がる。
4.終末予言(最後の審判?)が流布され、キリシタンに改宗しなければ地獄に落ちると言われていた。
5.26年前に追放された伴天連が書き残した予言に、26年後に幼い善人(天の使い?)が現れるとし、利発で、様々な奇蹟を行う天草四朗が比定され、布教グループが組織された。
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本丸のそばの駐車場横の一段高くなった場所に「ホネカミ地蔵」が立ち、その左手に本丸正門があったようです。

地元願心寺の注誉上人が一揆側、幕府側の区別なく骨を拾い集めて慰霊した地蔵とされ、1637(寛永14)年の島原の乱から約130年後の建立だったようです。

原城跡には約3万人にのぼる島原の乱の死者が埋められたようで、当時も農地利用などで掘り出される人骨を見かねて慰霊したのかも知れません。

命を懸けて宗教を守ろうとしたキリシタンの人々を想うと、異教の地蔵菩薩に慰霊されている様子に戸惑いを感じますが、厳しいキリシタン禁制の江戸時代に注誉上人が行うことが出来た最大限の慰霊だったと考えられます。

■現地の案内板より
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ホネカミ地蔵
寛永十五年(一六三八)二月二八日、島原の乱は終わりを告げた。
ホネカミ地蔵は、明和三年(一七六六)七月十五日有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で葬れた人々の骨を、敵、味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。
八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花あげろ三万人も死んだげな小さな子供も居たろうか骨かみ地蔵に花あげろ」とうたっています。
「ホネカミ」とは、「骨をかみしめる」の意味で、その事から「自分自身のものにする」更に「人々を済度する」(助ける、救う)と、理解すべきだと言われる。
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上段の航空写真による原城本丸の案内図は、駐車場にあったもので、下段の地形図は原城全体の案内図となっています。

見学は、駐車場から案内図(6)池尻口門跡へ向かい、(5)(4)(3)の順で歩きました。

案内図では、有明海を上に描かれていますが、正しい方角は記事の二番目に掲載した原城周辺地図と対比してご覧下さい。

■現地の案内板より
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原城は、戦国時代の有馬氏の重要な城であり、1637(寛永14)年に勃発した島原・天草一揆の舞台となった城である。城は、海岸に突き出した丘に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、鳩山出丸などから構成されていた。周囲は約4km、東は有明海、西と北は一部をのぞいて低湿地に囲まれた天然の要害であった。
本丸は石垣で囲まれ出入口は桝形となり、織田信長や豊臣秀吉の時代に完成された石積み技術が用いられ、近世城郭の特徴をもった。その特徴は、高い石垣、建物に瓦を使用、建物を礎石上に備えていた点である。一方、二の丸、三の丸は自然の地形を活かした土づくりであった。
原城の工事は、1599(慶長4)年にはじまり、1604(慶長9)年に完成したとされる。イエズス会宣教師の報告書は、文禄・慶長の役後に有馬晴信が居住している日野江城よりもー層適地にして、堅固で防御できるような新しい城を築城中であるとし、城内には晴信の屋敷のほか、家臣の屋敷、弾薬や食糧を蓄えた三層の櫓があったと記した。
1614(慶長19)年に晴信の子、直純は日向国臼杵郡(宮崎県延岡市)に転封となり、原城は、翌年に発令された一国一城令によって廃城となった。
1992(平成4)年から実施している発掘調査によって、本丸地区から多くの遺構・遺物が出土した。特に、十字架、メダイ、ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物は、島原・天草一揆にまつわる資料である。また、一揆後、幕府軍により壊され埋められた出入口や櫓台石垣、本丸の正面玄関に相当する出入口などが検出され、原城築城時の遺構や島原・天草一揆に対した幕府の対応を示す資料を発見した。
原城跡は1938(昭和13)年5月30日、国指定史跡となった。
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駐車場から(6)池尻口門跡へ向かう途中の風景です。

突き当りの石垣に沿って左に進むと池尻口門跡ですが、右手前方に石垣の角が見られます。

左上に見える十字架の塔は、池尻口門跡を入ると前方にそびえているものです。



上段の写真は、東端の池尻口門跡から本丸へ入り、振り返った風景です。

右手の池尻口門跡は、約6m、5段の石段が発掘され、遺跡保護のためか、手すりの付いた木道が整備されています。

正面の小さな石碑は、「佐分利九之丞の碑」とされ、原城への最期の総攻撃に幕府軍に志願し、先陣を切って勇敢に戦死した因幡藩の武士の墓でした。

下段は、案内板にあった「原城絵図」で、江戸初期までの領主有馬氏の資料「藤原有馬世譜」にあったようです。

原城は、有馬氏が居城だった「日の江城」の支城と思っていましたが、駐車場の案内板では新たな居城として築城した本格的な城郭だったようです。

城の中央の四角の中に「本丸」とある場所は、案内板にある「弾薬や食糧を蓄えた三層の櫓」だったのでしょうか。

■現地の案内板より
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池尻口門跡
この虎口(出入口)は、島原の乱後幕府の現地処理による徹底的な破壊により、石垣の築石やグリ石などで埋め尽くされ、さらに土を被せて隠されていました。
発掘調査で検出し、開口部は東西に開き約6m、奥行は南北に約12mで5段の階段を有する虎口であることが分かりました。
階段の平場部分に門柱の基石があり、建築物としての門があったことがうかがえます。
この虎口は、本丸の裏門にあたり「池尻口」と明記してある絵図もあります。
  南有馬町教育委員会
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■「佐分利九之丞の碑」の案内板です。
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佐分利九之丞の碑
佐分利九之丞は、因幡藩(鳥取県)・池田侯の家臣で、島原の乱の時、慰問使として差遣された人であります。
 寛永15年(1638)2月27日、幕府軍の総攻撃にあたり、九之丞は細川軍の先陣を承って進撃したが、本丸において遂に斃れました。彼は刀を採り、傍らにあった自然石に己の姓名と年月を彫り込んだものと伝えられその自然石がそのまま彼の墓碑となっています。
 佐分利家は、彼の勇戦奮闘の功績により一千石の加増がありました。
 「墓碑」と並んで建っている「副碑」は、九之丞の子孫である「軍平」という人が、祖先の霊を供養するため、口之津町玉峰寺の僧を招き建てられたものであるといわれています。
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右手に池尻口門跡を望む本丸内の風景です。

中央に建つ白い像は、地元南島原市出身の彫刻家北村西望作「信念にもゆる天草四郎」です。

左端には大きな字で「原城跡」と刻まれた石碑があり、この下に碑文を書いています。

■「原城跡」の石碑の碑文です。
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 徳川幕府のキリスト教徒弾圧。
 同時に、松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪政によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四朗時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。
 天然の要害、原城は、たちまちにして、修羅の巷と化した。
 時は、寛永十四年十二月(一六三七年)。
 幕府の征討将軍板倉内膳重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、総攻撃を加えること実に三回。
 しかし、信仰に固く結束した信徒軍の反撃に惨敗、繁昌、自らも戦死した。
 思わぬ苦戦にあせった幕府は老中松平伊豆守信綱を急派。
 陸海両面より城を包囲。
 やぐらを組み、地下道を掘り、海上からは軍船の砲撃など、四たびの総攻撃。
 遂に信徒軍の食糧、弾薬ともに尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、本丸と相次いで落城。
 主将四朗時貞をはじめ、老若男女、全信徒相次いで古城の露と消えた。
 これ寛永十五年二月二十八日である。
 その数、三万七千有余。
 思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。
 強大な武力と、権勢に立向ったその団結と情熱、信仰の強さ。
 遂に悲憤の最期を遂げたとはいえ、この戦乱は、当時の国政の上に痛烈な警鐘となり人間の信仰の尊さを内外に喧伝した。
 史家をして
 「苛政に始まり、迫害に終わった。」
 といわしめた島原の乱。
 優美にして堅固。
 かつては、日暮城とまで讃えられた原城。
 いま、古城のほとりに立って往時をしのべば、うたた、感慨無量。
 信仰に生き抜いた殉難者のみたまに対し、限りない敬意と、哀悼の念を禁じ得ない。
 ここに、三百二十年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め、遺跡を顕彰する次第である。
  昭和三十二年五月二十五日
    長崎県知事 西岡竹次郎
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上段は、池尻口門跡を入った正面にあった「天草四朗時貞の墓碑」です。

墓碑の前には小さなマリア像が置かれ、花や水が供えられ、埋葬のない墓ですが、墓前に立つと厳粛な気持ちになります。

下段に並ぶのは、天草四朗像で、向かって左は、本丸に立つ北村西望作「信念にもゆる天草四郎」で、目をつむり、両手を組んで祈る表情は、澄み切った心を映しているようでした。

向かって右は、墓碑の案内板に「天草四朗肖像 画柴田美術館蔵」と紹介されていたもので、大きく膨らんだ南蛮風のズボン、長いマントに二本の刀を差した姿が印象的です。

中央は、原城文化センターで頂いた小冊子「南島原歴史遺産」に掲載されていた「天草四朗の図 島原市蔵」と紹介されていたもので、「南海の美少年」と称されたイメージに近いようです。

■現地の案内板より
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天草四朗時貞の墓碑
 天草四朗
 小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本名益田四朗時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれています。
比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明です。
島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。
一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。
四朗はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。

この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。
 南有馬町教育委員会
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上段は、本丸西側にある「櫓台跡」で、池尻口門跡の案内板に掲載の「原城絵図」にも石垣が突出た部分です。

下段は、案内板にあった島原の乱最後の総攻撃場面「島原の乱図屏風」(秋月郷土館蔵)の一部です。

「櫓台」の石垣を登る幕府軍や、上から攻撃する一揆軍の姿が活き活きと描かれていますが、石垣の上から下をのぞいき、当時の壮絶な戦いを思い浮かべて見るのも一興です。

■現地の案内板より
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櫓台石垣
 島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に破壊され埋め込まれた石垣張り出し部分であります。この場所は、築城当時天守相当の重層のの櫓があったと推定され、口之津、天草方面を見渡せる絶好の場所であります。
 写真の絵図は島原の乱の張り出し部分はこの場所と推定されます。幕府軍は石垣をよじのぼろうとしているが、一揆軍は塀の上から石などを投げ落とし必死で防戦しています。
  南有馬町教育委員会
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本丸正門跡に近い場所で行われていた発掘調査の風景です。

大きな石が掘り出されているのは、幕府軍によって破壊された石垣でしょうか。

9月の炎天下で黙々と行う発掘作業は、つらいものと思われます。



上段の写真は、発掘された人骨がバンジュウの中に入れられていたものです。

もしやと思い、現場の人にたずねるとやはり人骨とのことで、破壊した石垣と共に多くの遺骸が埋められていたようです。

ここは、約2万7千人とする一揆軍が、幕府軍の総攻撃でほぼ全員が殺される地獄のような光景が繰り広げられた場所でした。

下段は、発掘現場近くの案内板にあった遺物の写真で、発掘された代表的な物が紹介されているようです。

この後訪れた「原城文化センター」には発掘された様々な遺物が展示されていました。

「原城文化センター」でも散乱する人骨が発掘された状態のレプリカや、有馬にあったとされる「セミナリオ(キリシタンの中等教育機関)」の建物の絵などが印象に残っています。

■現地の案内板より
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原城発掘
平成4年度(1992)から実施した本丸地区の発掘調査により、多くの出土遺構・遺物がありました。特に「島原の乱」にまつわる十字架・メダイ・ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物の出土は歴史的意義付けの上で貴重な研究資料であります。他に火縄銃の鉛玉、輸入陶磁器、瓦など、原城築城当時から乱で封印されるまでの原城を物語る資料が出土しています。
 出土遺物は、「原城文化センター」で展示しています。
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有明海に面した本丸の中ほどに「白洲」と題する案内板があり、海を見下ろす視界が開けた場所がありました。

300mの断崖から見下ろす有明海は青色に輝き、血しぶきが飛び散る壮絶な殺戮があった古戦場の風景とは思えない美しさです。

案内板に旧暦の8月の大潮の干潮に「白洲」が見えるとされていますが、沖の海面に帯状に輝く場所があり、撮影したものです。

下段にあるのは原城周辺の地形図で、南の海中に細長い浅瀬が見られ、おそらくここが「白洲」と思われます。

赤い海藻が、死骸となると白い石灰質の小石になるそうで、それが堆積して浅瀬となったのが「白洲」のようです。

司馬遼太郎は、「街道をゆく島原・天草の諸道」の最期にこの「リソサムニューム」について次のように語っています。

~この世界的にも珍奇な水生植物について考えるとき、赤い色の海藻がべつに接点はないにせよ、十字架の旗のもとで死んだ三万の霊とつい気分として重なってしまう。
原城の死者が生者に弔われることなく、死者自身が弔わざるをえなかったことと、どこか白い石は詩的に似通っているのだろうか。~

心に残る原城跡の見学でした。

■現地の案内板より
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白洲
ここ原城本丸の南、約300メートル沖合に東西約1000メートルに亘る浅瀬がある。
旧暦3月と8月の最干潮時にもっともよくその姿を見せ、この地では「白洲」とよんでいる。
これは「リソサムニューム」という学術的にも極めて珍しい植物が繁殖しているもので、世界にはイギリス海岸、インド洋、ここ「白洲」の3ヶ所にしかみられない。
  南有馬町教育委員会
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参考文献
「島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起」中央公論新社発行、著者:神田千里
「長崎県の歴史 県史」山川出版社発行、著者:瀬野精一郎・佐伯弘次・小宮木代良・新川登亀男五・野井隆史

油絵「ピンクのシンビジュウム」

2013年01月17日 | 妻の油絵

妻の油絵「ピンクのシンビジュウム」(F4号)です。

今年初めての絵は、フランスの女性画家「マリー・ローランサン」の名が付けられたシンビジュウムの絵です。

花の名も知らず描いたそうですが、淡いピンクの花の雰囲気は、どこか「マリー・ローランサン」の美人画を彷彿とします。

濃いオレンジのドレスを着た淡いピンクの肌の女性が静かに語りかけてくるようです。

長崎旅行-7 雲仙普賢岳噴火の被災遺構 「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」

2013年01月15日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、長崎県島原市の「島原城」の次は、雲仙普賢岳の火砕流で被災した 南島原市「旧大野木場小学校校舎」と、南島原市「道の駅みずなし本陣」に併設された「土石流被災家屋保存公園」など雲仙普賢岳噴火による被災遺構の見学です。



1991年(平成3)9月15日、雲仙普賢岳からの火砕流により全焼した「旧大野木場小学校被災校舎」正門からの風景です。

死者行方不明者43名、損壊家屋49戸の大惨事となった1991年(平成3年)6月3日の火砕流から約3ヶ月後に被災しており、生徒や、近隣住民は避難して無事だったようです。

火砕流による全焼建物とされていますが、黒煙ですすけた感じはなく、これは高温の火砕流による火災の特徴なのでしょうか。

雲仙普賢岳の火砕流や、土石流による被害は、1993年(平成5) 8月まで続き、その後の死者は1名に留まったものの、火砕流による損壊家屋271戸、土石流等による損壊家屋581戸と、この地域が壊滅的な状況に陥ったことがうかがえます。

後方にそびえるのは眉山で、約200年前の1792年(寛政4)、火山性地震により東斜面の大崩壊が起こり、有明海沿岸全体に大津波を発生させ、14,920人以上の死者を出す「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれる大災害を起こしたことで知られています。



「島原まゆやまロード」から見下ろした「旧大野木場小学校被災校舎」付近の風景です。

校舎の隣の建物(写真右端)は、雲仙普賢岳の監視を行う「砂防みらい館(大野木場砂防監視所)」です。

左手に大きな砂防ダムが造られ、校舎と手前の眉山の間は火砕流や土石流を流すと思われる幅の広い谷となっていますが、この辺りは火砕流により多くの家屋が焼失した北上木場町と思われ、その後の防災整備で大きく地形が変わったのかも知れません。

「島原まゆやまロード」は、眉山の西を通り、「平成新山」を間近に見上げるルートにあり、翌朝に島原市を発つ途中に撮った写真です。



「砂防みらい館(大野木場砂防監視所)」の展示室にあった航空写真で、雲仙普賢岳噴火による被災地域の全景です。

写真には平成5年9月6日とあり、災害発生がほぼ終結した頃の様子と思われます。

普賢岳、平成新山から水無川河口付近まで火砕流の跡と思われる白くなった地域が被災と思われますが、全焼したとされる「旧大野木場小学校」の辺りには緑が見られ、災害は隣接した範囲にも及んだようです。



「土石流被災家屋保存公園」の案内板にあった航空写真に補足説明を加えたものです。

写真上段は、「土石流被災家屋保存公園」の場所を案内するものと思われ、公園となった水無川のすぐそばの家屋が水無川からあふれた土石流により被災したことがうかがえます。

写真下段は、公園の拡大写真で、被災家屋を保存展示する白いテントの建物を中心に周囲に数棟の被災家屋が保存されています。

航空写真は平成10年9月の撮影とされ、災害の終結から約5年を経て次第に復旧が進んでいる様子が見られます。



大きなテントの建物の中に土石流で埋まった家屋が並んでいます。

雨で押し流されて来た大量の土石流で無残な姿になってしまったようです。

大自然の圧倒的な驚異になすすべもなく被災した家屋に人間の無力さを痛感させられます。

向こうの二階建ての建物は、近くから移設されたもので、一階の玄関付近には土砂がなく、屋内の被災状況をのぞくことができました。

■公園の案内板です。
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土石流被災家屋保存公園の概要
 土石流被災家屋保存公園は、土石流災害のすさまじさと防災の重要性を来園の皆様へ知っていただく目的で作られたものです。
 公園内のすべての家屋は、平成4年8月8日~14日の土石流により被害にあったもので、平均で約2.8メートル埋没しています。
 ●敷地面境:約6.200m2  ●保存家屋:11棟
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屋外に保存された被災家屋です。

向こうの白壁の建物は、道の駅みずなし本陣の施設「大火砕流体験館・火山学習館」のようですが、手前の被災家屋の高さと比べると、一階分の高さに埋まった土砂の上に建てられたことが分かります。

■公園の案内板です。
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土石流被災家屋保存公園
 雲仙普賢岳の平成噴火では、火山の山麓lこ大きな土石流が何度も発生しました。1992年(平成4年)8月8日~14日にかけ、水無川でも大規模な土石流が続発しました。ここではそのときに埋没した家屋を当時のまま保存しています。これらの家屋に住んでいた人たちは避難していたため、人的被害はありませんでしたが、私財が失われ、移転を余儀なくされてしまいました。

 土石流で大きな被書を受けた水無川流域。1992年8月8日の深江町の降水lは最大時間雨量37mmと少し強い雨でしたが、非常に大規模な土石流が発生して周囲の家屋を襲いました。
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案内板にあった写真で、よく晴れた水無川の上流に溶岩ドームが盛り上がる普賢岳の風景です。

写真に見える日付は92.8.7で、この一帯を埋め尽くした土石流の前日でした。

既に普賢岳からの火砕流で、水無川の上流の多くの家屋が火災に遭い、雨で押し流される土石流を警戒して多くの住民が避難していたようです。



上段の写真の翌日1992年8月8日、雨で押し流されてきた土石流で水無川の風景は一変しています。

水無川には大きな岩に混じって壊れた家屋の一部と思われるものも見られます。

大量の土石流は、水無川流域の様々な物を呑み込んで有明海方向へ流れていったようです。



島原半島の地図に「仁田(にた)峠循環道路」の「仁田峠第二展望台」や、「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」の場所を表示してみました。

雲仙岳頂上に近い「仁田峠第二展望台」には「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」を見学した翌日に訪れたもので、普賢岳・平成新山の頂上や、火砕流が流れ落ちた有明海方向が一望できる場所です。

あいにくガスに霞んで、ハッキリとした風景を見ることができませんでしたが、雄大な大自然の風景の片鱗を味わうことが出来ました。

■仁田峠循環道路を通った時に頂いたパンフレットの説明文です。
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・仁田峠第二展望台~島原半島随一の絶景ポイント~
国道57号線を島原市から雲仙温泉の方に向かい、雲仙ゴルフ場の近くで右折すると仁田(にた)峠循環道路に入ります。この道路沿いにあるのが、仁田峠第二展望台です。
この展望台からは、平成新山溶岩ドームと、そこから海に向かって延びる水無川上流の急斜面が、荒涼とした景観を作っています。水無川の下流域では、火砕流や土石流の被災域と、川の両岸に造られた導流堤が有明海まで続きます。平成噴火で噴出した土砂が、眉山を避けるように堆積していることから、約200年前には大災害を引き起こした眉山が、平成噴火の時には島原市街を土石流や火砕流から守ったようにも見えます。天気の良い日には、さらに遠方に阿蘇火山や霧島火山が見える事も。
視線を右手に移すと、深江(ふかえ)・布津(ふつ)・貝崎(かいざき)といった断層が、細長い森となって海まで続いています。さらに右手には海に突き出た原城跡、そして、島原半島の南端にある岩戸山(いわどさん)が見える事も。晴れている日に一度は訪れたい、島原半島随一の絶景ポイントです。
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「仁田峠第二展望台」の案内板にあった展望写真(上段)と、火砕流を説明するイラスト(下段)です。

火砕流は、写真左側の「平成新山」の溶岩ドームが崩壊、右側の斜面を火砕流が流れ落ち、冷えて固まった土砂が雨により土石流となって「水無川」河口付近の海を埋めてしまったようです。

噴火した山頂や、流れ落ちた斜面、海岸までの被災地を一望しながら見る案内板は、説得力のあるものです。

■仁田峠第二展望台の案内板
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平成新山と被災地の遠望
 地下から上がってきた高温の溶岩は、粘り気が強いため、山頂付近でこんもりと盛り上がった地形をつくりました。これが溶岩ドームです。溶岩ドームは山の急斜面に張り出すように流れたため、溶岩が部分的に崩れ落ちて火砕流が発生しました。平成新山の裾野には、火砕流の流れた跡を見ることが出来ます。また、有明海まで達した土石流の跡も眺められます。
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案内板に「幻の雲仙岳」と書かれた不思議な図がありました。

「雲仙岳」(普賢岳、国見岳、妙見岳などの総称)全体に多くの断層があり、山が沈下しているようです。

もしも沈下しなかったら2,000mを超える山となるとして、「幻の雲仙岳」のタイトルを付けたようです。

「雲仙地溝」と呼ばれる地殻構造に興味が湧いてきます。

■仁田峠第二展望台の案内板
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沈みゆく雲仙火山
 雲仙火山は北側に千々石断層、有価に市井・深江断層と、多くの断層によつて切られています。そのため内側が沈み込むように落ち込んでいます。このような地質構造を「地溝」と呼びます。雲仙地溝の中央部では、火山噴火で積もった噴出物の量が膨大に溜まつています。もし沈み込んでいなければ、普賢岳は二千メートルを超える九州一の山だったと考えられます。
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図書館で、やっと見つけた雲仙地溝の図です。

「雲仙・普賢岳大噴火 寛政と平成の記録」(村山磐著 東海大学出版会出版)に掲載され、「雲仙地溝帯(伊藤和明「地震と火山の災害史」から」と補足が付けられていました。

調べていくと地溝は、九州を横断して別府湾へ突き抜け、さらに四国、紀伊半島へ伸びているようです。

又、「島原半島世界ジオパーク」のパンフレットによると地溝の北にある千々石[ちぢわ]断層は、「島原半島を南北に引き裂く大地の動きがつくった半島内最大の大地の裂け目です。約30万年の間に大地は最大450mもずれ、断層の南側の地面は今も年間1.5mmの割合で沈降を続けています。」とあります。

又、下記の資料では島原半島や、九州が南北に引き裂かれ、年間1.4cm拡大ているとは・・・まったく知りませんでした。

日本列島は、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、北アメリカプレートがせめぎあっていることは知っていましたが、これらの地殻変動を理解するにはもう少しお勉強が必要のようです。

■「雲仙・普賢岳大噴火 寛政と平成の記録」(村山磐著 東海大学出版会出版)より
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雲仙火山群は雲仙地溝内に噴出したのであるが、この雲仙地溝は今もなお年間一・四cmの速度で南北に拡大し、沈降を続けている。地溝の北は千々石断層、南は深江断層の二つの正断層によって画されている。千々石断層は、西側では断層崖となっているが、東側では普賢岳や眉山を構成する溶岩類で覆われているので明確な位置は明らかでない。深江断層は、深江.布津両町境付近を流れる深江川に沿った西北西~東南東方向の断層である。
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長崎旅行-6 「島原城」の散策

2013年01月07日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、長崎県島原市の「武家屋敷」の次は「島原城」の見学です。



「西の櫓」の前から見上げた「島原城」天守閣です。

堂々とそびえる天守閣は、飾り破風のない簡素な姿です。



「島原城」のある長崎県島原半島周辺の地形図です。

1624年(寛永元年)「島原城」は、約7年の歳月をかけて松倉氏によって築城され、藩主の転封が相次いだのの幕末まで島原藩主の居城となっていました。

半島南部の「日野江城」は、鎌倉御家人で、キリシタン大名でもあった有馬氏の居城で、1614年有馬氏が延岡へ転封され、1616年に大和から転封してきた松倉氏が「島原城」へ移るまで居城としていたようです。

「原城」は、有馬氏が築城した支城で、「島原城」の築城の頃に廃城となっていましたが、島原の乱(1637年12月~1638年4月に)で、一揆軍が立て籠もったことで知られており、翌日訪れました。

■「長崎県の歴史散歩」(山川出版社出版、長崎県高等学校教育研究会編)
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島原城跡と武家屋敷跡
 島原駅におりると、真正面に島原城(森岳城)の天守閣がみえる。
この城は、有馬直純(晴信の子)が延岡に転封されたのち、この地にはいった松倉重政によって、1618(元和4)年から7年余をかけて築かれた。以後、有馬の日野江城にかわって、島原が政治・経済・文化の中心となり、高力氏・松平氏・戸田氏、再び松平氏と4氏19代の譜代大名が交代して支配した。島原の乱(1637~38年)では、城の外郭部の大手門(現在の裁判所の地)と桜門(島原第一中学校玄関付近)で攻防戦があった。
 城は、内郭の本丸・二の丸と三の丸(藩主の邸宅。現、島原第一小学校と県立島原高校)、外郭の家中屋敷からなり、規模は壮大である。城の特徴は、鉄砲戦に対応する築城法で、建物は装飾のない層塔風総塗込式となっている。1964(昭和39)年に復元された天守閣のなかには、キリシタン史料館があり、南蛮貿易時代から島原の乱までを中心に、多くの貴重な史料を展示している。
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「島原城」の案内板にあった案内図です。

向かって右の大手門から入り、堀に沿って二の丸の左手から本丸へと入って行くようです。

三の丸は、この図から更に左にありますが、省略されています。

丑寅の櫓、巽の櫓、西の櫓の名称は、天守閣からの方角から名付けられており、

■「島原城」の案内図に添えられた案内文です。
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島原城由来
 この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。一六一八年(元和四年)着工、四~七年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配して、要所を三層櫓で固め、外郭は四キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取囲みました。
 四万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。
 以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と四氏十九代の居城として輝きました。その間、一六三七年(寛永十四年)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、一七九二年(寛政四年)島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。
 明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました。一九六四年(昭和三九年)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります。
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案内板に「ありし日の島原城(島原市立第一小学校蔵)」と紹介された絵(?)がありました。

明治の初め頃まで残っていたとされる築後約250年の「島原城」の雄姿です。

高い石垣、周囲2,220mの城郭、33の櫓を備えた島原城の築城には延べ100万人の動員があったとされ、民衆への負担は過酷を極め、13年後の島原の乱につながったと言われています。

南東方向からの風景で、既に再建されている左端の「西の櫓」、中央の「巽の櫓」、右端の「丑寅の櫓」の間にも多くの建物が見られます。

右下に見える茅葺の屋根は、堀を囲むように建ち並ぶ上級武士の屋敷です。



「島原城」本丸東南から蓮の茂った堀りを見下ろした風景です。

上段の「ありし日の島原城」の風景は、向かって右手の辺りからと思われます。

街の向こうに穏やかな有明海が広がり、対岸の熊本の山並みは「熊ノ岳」でしょうか。



「西の櫓」の前に二つの大きな「籠城用の梅干かめ」が展示されていました。

城外の武家屋敷の案内では「梅・柿・密柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果物は自給できるようになっていた」とあり、籠城に備えた大切な食料の一つだったと思われます。

数千人の籠城を考えると、他にも様々な対策があったものと思われます。

■「籠城用の梅干かめ」の案内文です。
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籠城用の梅干かめ
旧藩時代この城の本丸に置いてあったもので籠城用としての梅干を入れてあったかめであります。
明治八年この城が解体されるとき市内中町の喜多氏が譲り受け保存していたものであります。
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これも「西の櫓」の前にあった「キリシタン墓碑」です。

400年以上前の墓とは言え、墓碑が持ち去られて展示されていることが気になりますが、住民約3.7万人が亡くなったとされる島原の乱で、弔う人のいなくなった墓も無数にあったものと思われます。

自国の強化を図る戦国大名有馬氏は、南蛮貿易の利権と引替にキリスト教の布教を許し、自らも洗礼を受けた結果、島原半島にもキリシタンが広がったようです。

しかし、豊臣政権が国内を統一すると、地方での覇権争いが終結、更に中央政権による貿易の独占や、禁教政策が進むと、もはや地方にはキリシタンを擁護する力も必要性も無くなっていったと考えられます。

ポルトガルや、スペインなどが世界各地を征服して、植民地化していたことや、連動して布教するイエズス会の活動情報などから警戒感が高まり、キリシタンには禁教政策による苦難の時代となります。

■「キリシタン墓碑」の案内文です。
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キリシタン墓碑
 永禄五年(一五六二)領主有馬義直キリスト教の布教を許す。
寛永十四年(一六三七)島原の乱起る。
 現在、島原半島で発見されている墓碑は約百二十基で蒲鉾型、箱型、庵型、九庵型、平庵型、平型、薄型、自然石型等があります。
【右側の墓碑:島原市指定有形文化財】
市内三会亀の甲で発見蒲鉾型表の右側に慶長八年十二月二十二日、中央に干十寺が刻まれてあり刻みは判読できない。
【中央の墓碑:島原市指定有形文化財】
南島原市西有家町で発見蒲鉾型干十字が記されています。
【左側の墓碑】
市内大手旧島原藩家老職奥平氏宅の庭から発見されたものです。
碑面の部分が削り取られて手洗盤として再利用されていました。
         島原市教育委員会
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「西の櫓」の前に丸い穴をくりぬいた円柱形の「石の水道管」が展示されていました。

案内板では「島原城桜門外の水源と、城内三の丸に敷設してあった」とし、前回の長崎旅行-5の冒頭の写真で掲載した「史跡 御用御清水」から武家屋敷一帯へ水道の設置を行ったと書かれていた水道管と思われます。

「史跡 御用御清水」の案内板では水道の実態がまったく理解できませんでしたが、この水道管を見てようやく分ってきました。

「史跡 御用御清水」の案内板によると水道の敷設は、1669年に福知山から転封してきた松平忠房公によるものとしていますが、下記の「石の水道管」の案内文では敷設は、「十八世紀末以降といわれています」とあり、年代説明に差異があるようです。

■「石の水道管」の案内文です。
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石の水道管
 島原城桜門外の水源と城内三の丸に敷設してあったもので中央をくりぬいた石を漆喰で管状に接合し、この一本約七〇センチの石棺をさらに接合して水道管にしたものです。
 敷設したのは城主松平氏の後期、十八世紀末以降といわれています。
    島原市教育委員合
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前回の長崎旅行-5でも掲載した江戸時代の「島原藩士屋敷図」です。

赤い線で囲んだ図の左下は、桜門付近の拡大図で、桜門のすぐ外の場所に「御用御清水」があったことが分かります。

島原の乱で、攻防戦があったとされる桜門のすぐ外の水源から城内へ生活用水を引込む工事の際、「石の水道管」を地下に敷設して破壊から守る配慮だったのでしょうか。

又、水道の設置が武家屋敷一帯とあり、「石の水道管」は、広い城内にひしめく武家屋敷全体に敷設されていたものか興味が湧いてきます。

2010年のイタリア旅行で、紀元前1世紀のポンペイ遺跡に現代と変わらない形の水道管(鉛製)に蛇口が取付けられていたことを思い出し、余りに大きい文明のギャップを痛感しました。

油絵「シクラメン」

2013年01月01日 | 妻の油絵

あけまして おめでとうございます。

妻の油絵「シクラメン」です。

年賀状に載せるための絵でもあったので、来年こそ良い年になるよう願いを込めて明るい色で描いたそうです。

さりげなく並べたレモンは、ラッキーカラーの黄色を意識したものでしょうか。

お正月を飾る絵ということで、額縁に入れた画像を作ってみましたが、妻から好評だったので掲載しました。

やはり絵は額縁に入れて鑑賞して頂くのが良いようです。

今年もよろしくお願いします。