昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.14 利尻水道に立つ「石崎灯台」

2010年08月30日 | 北海道の旅
7/16 北海道旅行3日目 9:25、利尻島鰊泊の白い鳥居の神社を後に、頂上が見え始めた利尻山気にしながら島の東岸を南進して行きました。



鬼脇に近づくと、道路脇に「石崎灯台」が見えて来ました。

紅白の縞模様は、ノシャップ岬の「稚内灯台」や、「宗谷岬灯台」と同じです。

岬とは思えないこの海沿いの道路脇に、なぜ灯台があるのか理解できませんでした。

灯台のすぐ横には二階建の小さな白いビルが見えています。



近づくと、なかなか大きな灯台です。

驚いたことに「石崎灯台」は、塔高32.23mで、日本第7位でした。

対岸のノシャップ岬の「稚内灯台」が、塔高42.7mで日本第2位ということは有名です。

北海道で塔高第1・2位を占めるこの二つの灯台が、利尻水道を挟んで建っていることを知り、実に興味深く思いました。

「石崎灯台」が造られたのは1943年(昭和18)10月で、太平洋戦争開始2年後のことだったようです。

この「利尻水道」が、かつて最北日本領土だった「南樺太」を結ぶ重要航路と考えられたことによるものだったのでしょうか。

何気なく通り過ぎそうなこの「石崎灯台」は、実に意外な灯台でした。



利尻島と、利尻水道を挟む北海道の北西端の地図です。

「石崎灯台」は、利尻島の最東端「石崎岬」に立つ灯台でした。

地図で利尻水道を見ていたら、対岸の稚内市抜海村夕来にあった記念碑「稚内~利尻(利尻水道)遠泳達成記念」を思い出しました。

このブログ「北海道旅行№5」の記事に掲載していますが、記念碑にはここ石崎岬が遠泳の出発地で、直線距離 19.5Kmを9時間56分09秒で泳いだことが書かれていました。



写真は、利尻富士町鬼脇にある「利尻島郷土資料館」の入場券です。

巨大なヒグマを前にして、中央で猟銃を持って誇らしげに立つ男性を見ると、クマ仕留めた猟師の記念写真のようです。

しかし、事実は違いました。

ヒグマのいない利尻島でヒグマの足跡が発見され、島民が警戒していた矢先、利尻海峡を泳ぐ巨大なヒグマが発見されたそうです。

漁師達は、ヒグマを追い、舟で囲み、斧で仕留めたそうで、「漁師」が「猟師」になった物語でした。

前述の稚内市抜海村夕来の遠泳達成記念碑には、確か1980年代の遠泳と書かれていました。

それに先立ち、灯台もなかった明治時代、利尻水道の遠泳をしたヒグマさんの記念碑も建ててあげてほしいものです。

■「利尻島郷土資料館」で展示されていた北海道新聞夕刊の切抜き記事の一部です。
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1989年(平成元年)2月14日(火)
「利尻・礼文にヒグマはいなかったか」
・・・「遊泳にも巧み」 さて、ヒグマが遊泳にも巧みなことを示す事例に利尻島にまつわる話がある。それは明治四十五年(1912年)五月二十四日、北海道本島から利尻島鬼脇まで約十九キロの海上を泳ぎ渡り、再び海に泳ぎ出たのを、漁師が舟で追い殺獲した雄クマの例である。・・・
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北海道旅行No.13 利尻島に綿の付く不思議な大木

2010年08月24日 | 北海道の旅
7/16 北海道旅行3日目、利尻島の姫沼展望台付近と、鰊泊付近の神社で大きな白い綿[わた]のようなものがついた木を見つけました。

とても不思議に思い、ネット検索や、植物図鑑を調べても見つからず、何か分からないまま掲載しました。

9/18追記
利尻島のガイドさんのブログ<利尻はなガイドブログ 「本日の利尻」♪ : 秋のおとずれ>のコメント欄で、お尋ねした処、この木の名を教えて頂きました。
「ドロノキ」(別名ドロヤナギ)だそうです。



「姫沼展望台」から「姫沼」へ数百メートル上った道の右手の木に白い綿[わた]のようなものがついているのを見つけました。



姫沼見物の後、帰りに車を止め、道路脇から撮った写真です。

かなり高い木で、いたる所に細長い白い綿のようなものが、ぶら下がっています。



綿[わた]のようなものが付いた木を拡大した写真です。

木の葉には虫に喰われた様子は、見当たりませんでした。



足元の笹の葉に綿[わた]のかたまりが、落ちていました。

周囲には綿[わた]の固まりがくずれ、散らばっていました。

風雨などで、綿のかたまりが崩れているようです。



笹の葉の上に落ちていた綿[わた]のようなものを近くから撮ったほぼ実物大の写真です。

細く白い繊維の中に小さなゴマの実のようなものが見えます。

さわっても柔らかい綿のようでした。



道路の反対車線の歩道の端にも綿[わた]のようなものが、連なっていました。

風に吹かれて行ったようです。



野塚展望台から約5Km南東に走った「観音岩」を過ぎた辺りで、利尻山の山頂が見え始め、鳥居の上にかすかに見える山頂を撮りました。

この辺りを地図で調べると地名が「鰊泊」で、この神社は「鰊泊神社」とでも呼ぶのでしょうか。

白い鳥居が珍しく、神社建物にも興味があり、参拝することにしました。



白い鳥居をくぐったすぐ右手にも綿[わた]のようなものが付いた木を見つけました。



そばから見上げた木です。

姫沼展望台付近の木よりだいぶ小さな木でしたが、元気よく生長しているようです。



綿[わた]が付いた部分を拡大した写真です。

この木の葉にも虫に喰われた様子は見当たりません。

二ヶ所の木の葉を見る限り、同じ種類の木のように思われます。

しかし、この綿[わた]のようなものが、別の生物による可能性もあります。

いったいこの綿[わた]は、何なんでしょうか?



神社の建物です。

建物全体が赤レンガ色で塗られ、正面の白い柱との配色が個性的です。

又、極寒の地の建物らしく煙突があるのも珍しい光景です。



鰊泊の神社の前から参道を振返った景色です。

鳥居の先には日本海が広がり、かつては鰊漁が威勢よく繰り広げられていたのでしょうか。

北海道旅行No.12 利尻島野塚で知った幕末の物語

2010年08月23日 | 北海道の旅
7/16 利尻島の「姫沼」では利尻富士がまったく見えず、少し物足りない気持ちで、次の「野塚展望台」へ着きました。



「野塚展望台」から「鴛泊港」方向に美しい夏の利尻島の景色が広がっていました。

向こうには「ペシ岬」へ近づく白い船、手前には静かに昆布漁をする漁船が浮んでいます。

「姫沼展望台」とほぼ同じ方向の景色ですが、断崖の下に広がる海の景色がきれいでした。

赤い模様のある白い船は、稚内港から鴛泊港へ向う9:10着の便のようです。



利尻島の地図です。

利尻島を時計回りで進み、9:00時過ぎに「野塚展望台」に到着しました。

8:10鴛泊港着のフェリーから、レンタカー会社、姫沼展望台、姫沼を経由した割には早いペースのようです。

13:10発の礼文島行きフェリーに乗るまで、時間のある限り利尻島を楽しみたいと、走りまわりました。



「野塚展望台」の広い駐車場から南西方向を見た景色です。

ここでも利尻山は上部を雲に覆われていました。

雄大な利尻富士の姿を早く見たい気持ちがつのります。



ラベンダーの花が咲く「野塚展望台」の駐車場から道路進行方向を見た景色です。

利尻島の道路の各所には大きな島の地図が設置されています。

どこからでも見える利尻山と、海岸沿いを一周道路が分かり易く、レンタカーにはカーナビもありませんでした。



駐車場と道路を挟んだ「野塚展望台」の中央付近の様子です。

「利尻島野塚展望台」の案内板、右手に白い船、左手にペシ岬、その向こうには礼文島が見えていました。



「野塚展望台」から下の海を見ると、小さな漁船が止まっていました。

長い棒を持った人が海の中をのぞいているようで、海底の昆布を採っているようです。



妻は、「野塚展望台」からの美しい景色を見て、さっそくスケッチを始めました。

向って左の石碑には、「国立公園利尻島」と刻まれ、中央の石碑には英文が刻まれていました。

読めない英文の石碑に興味をひかれました。 この土地で何かがあったようです。



英文の石碑の隣に、海を背にした二つの石碑がありました。

石碑によると幕末の頃、この野塚の地にアメリカ人が上陸した事件があったようです。

これらの碑文は、その事件の顛末を小説「海の祭礼」に書いた吉村昭さんによるもののようです。

■外国人の顔が刻まれた左の碑文です。
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嘉永元年六月二日(一八四八年)
日本に憧れたアメリカ人
ラナルド・マクドナルドが
捕鯨船から単身この地に上陸し
長崎に護送され、日本人に初めて
英会話を教えた
これによって英会話に習熟した者たちが
列強と日本との外交交渉に貢献し
日本を滅亡の危機から救った
この利尻島の上陸地は
歴史上、大きな意義を持つのである
 吉村 昭
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■向かって右手の碑文です。
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かれは 磯にむかって手をふった
磯に集まった者たちは しばらくの間
動かずこちらを見つめているようだったが
そのうちに二艘の小舟が
海におろされるのが見えた
小舟は 白い海鳥の群れにつつまれながら
こちらにむかって進んでくる
マクドナルドは はげしく手をふった

 吉村昭作<海の祭礼>文藝春秋社刊より
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石碑にあったラナルド・マクドナルド像です。

あごヒゲが印象的で、いかめしい感じです。



「利尻島郷土資料館」のパンフレットの表紙の一部です。

表紙には島に停泊する帆船や、「ラナルド・マクドナルド」の顔写真も見られます。

資料館には吉村昭さんの小説「海の祭礼」も展示され、「ラナルド・マクドナルド」は、島の歴史の大きな1コマになっているようです。

■「利尻島郷土資料館解説シート」にラナルド・マクドナルドの記述がありました。
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利尻の近世史Ⅲ ラナルド・マクドナルド
 ペリー来航の5年前にあたる1848【嘉永元】年、1人の24歳のアメリカ人青年が利尻島野塚に上陸します。その名はラナルド・マクドナルド、1824年アメリカ合衆国オレゴン州アストリア生まれです。
では、マクドナルドは、なぜ、どのようにして遠い鎖国下の日本を日指して利尻島の地を踏んだのでしょうか。
1845年頃から捕鯨船プリマス号に乗り込み、日本に上陸することを夢みていたマクドナルドは、1846年に『フレンド』誌に掲載された記事「クーパー船長日本訪問談」を目にし、いっそう日本への思いを強くしたと考えられます。その内容は、アメリカの捕鯨船マンハッタン号が小笠原諸島で救助した日本人漂流民22名を乗せて浦賀に行き帰還させたという記事です。ここから彼は、日本上陸へのヒントを得たのでしょう。
 そしてついに、1848年6月、思い描いていた夢の瞬間が訪れます。3ケ月間日本ミ毎で捕鯨をしていたプリマス号が、宗谷海峡を通り捕鯨基地のあるホノルルに戻ることになっていました。マクドナルドは、単身上陸することを船長に告げ、ボートに乗り込み陸地を目指します。最初の上陸地、焼尻島で数日を過ごした後、とうとう利尻島野塚で遭難を装いアイヌの人びとに救助されるかたちで上陸します。彼が、利尻という「島」を目指した理由としては、本土へ直接上陸することを避ける、あるいは利尻山を目印として海流にのり北上しやすかったことが考えられるでしょう。
 では、彼の島での滞在はどのような状況だったのでしょうか。彼は、上陸して10日ほどは野塚で過ごし、島民タンガロ(多次郎?)と身ぶり手ぶりでやりとりしながら互いに心を通わせていました。しかし、当時運上屋のあった本泊に移送されてからは、不自由の身となり20日ほど拘束されます。その後、宗谷・松前に2カ月弱拘束され、長崎へ移送されてしまいます。
 移送された長崎では、外国人という境遇でありながら、しだいに彼の人あたりのよい温厚な性格に周りの日本人も心を許していきます。座敷牢の中ではあったものの、オランダ語の通詞(通訳)であった森山栄之助(後にペリー来航の際、通詞を務める)ら14名に英語を教え、そして自らも積極的に日本語を学ぽうとしました。
1849年4月に日本を去るまでの約7カ月問を長崎で過ごした彼は、晩年も『日本回想記』を著すなど日本に対する熱い思いを持ら続けていたようです。
 こうした日本での約150年前に行われた国の違う人同士のことばの壁を越えた交流は、勇気ある1人のアメリカ人青年と異国日本で彼を受け入れた人々がもたらした歴史として再認喜哉されるべき出来事といえるでしょう。
 現在、野塚展望台には、彼の半生を描いた小説『海の祭礼』の害者吉村昭氏の文学碑とマクドナルドの功績を称えた顕彰碑・英文銅板が建てられています。
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「利尻島郷土資料館」のパンフレットにあったラナルド・マクドナルドの白黒写真にセピア色を付けてみました。

よく見ると、まだ初々しさを感じる青年です。

命を掛けて上陸した彼の日本への興味は、いったいどのようなものだったのでしょうか。

小説「海の祭礼」を読んでみたいと思います。

北海道旅行No.11 利尻島の絶景スポット「姫沼」

2010年08月20日 | 北海道の旅
7/16 北海道旅行3日目、8:10に利尻島へ到着、8:30前に鴛泊港近くのレンタカー会社を出発しました。

いよいよ利尻島観光のスタートです。



鴛泊港から東に進んだ鴛泊湾の海岸に利尻昆布が干してありました。

意外に小さな昆布ですが、天日干しには絶好の晴天です。

向こうにペシ岬が見え、まさに利尻島の風景です。



利尻島の地図で、今回は赤い字の「鴛泊港」「姫沼展望台」「姫沼」を訪れました。

島の一周は、レンタカー会社のお奨めで、時計回りで走りました。

利尻島を一周すると約60Kmあり、時計の文字盤をイメージして現在地を確認すると、走るとペースが分かり易いと教えられました。



姫沼入口から急な舗装道路をひた上る途中からの展望がとてもよく姫沼展望台と名付けられています。

一周道路から姫沼方面に右折し、急な坂道を進むと道路脇に駐車場があり、立寄りました。

北西方向のはるか向こうに「ペシ岬」が見え、「姫沼展望台」の標識がありました。



「姫沼展望台」にあった案内図です。

左手に「ペシ岬」「夕日ヶ丘」、右手に北海道本島の「ノシャップ岬」「サロベツ原野」とあり、その間には「礼文島」「サハリン」が見渡せる場所のようです。

しかし、柵で囲まれた展望台の周囲には木が茂り、視界は大きくさえぎられていました。



「姫沼展望台」から見えた「ペシ岬」で、山の上に灯台も見えます。

「ペシ岬」の左手向こうに小さな「夕日ヶ丘」が見え、沖には「礼文島」の島影が広がっています。

「鴛泊港」には先程下船した「フィルイーズ宗谷」が見え、8:40の出発の直前だったようです。



姫沼の駐車場から歩いて行くと吊橋形式の「想い出橋」がありました。

木が茂って見えませんでしたが、橋の下から小さな滝のような水音が聞こえいました。



姫沼の湖畔に環境省の案内板に「姫沼探勝路案内」と書かれた地図(右が北です)がありました。

駐車場からオモベツ川を渡る「想い出橋」を渡り「姫沼」に向う道が描かれています。

「姫沼」の周囲には所要約20分の「姫沼探勝路」が造られ、姫沼の湖畔から見える「ポン山」などへ至る道もここから分岐しているようです。

■環境省の案内板にあった説明文です。
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「利尻礼文サロベツ国立公園」
姫沼と探勝路
大正6年に、点在する小沼と湧き水を利用して造られた湖で、ヒメマスを放流したことから名付けられました。
原生林に囲まれた湖面には「逆さ富士」が映り、静寂な森のなかに幻想的な風景を作り出しています。
一周約1Kmの探勝路では、梢を飛び交う野鳥の姿も多く、美しいさえずりが絶え間なく聞こえてきます。
北麓野営場に至る「ポン山姫沼探勝路」は、雄大な自然林の中を草花を楽しみながら歩く、自然豊かなコースです。
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湖面に美しい緑が映える「姫沼」です。

妻は、感激してさっそくスケッチを始めています。



「姫沼」の南方向の景色です。

運が良かったら利尻富士が見え、湖面に逆さ富士も映る方向と思われますが、まったく曇って見えません。



右手に広がる南西方向の景色です。

向こうに「小ポン山」と思われる山が見え、こちらはよく晴れています。



「姫沼」の周囲をめぐる「姫沼探勝路」を途中まで歩いてみました。

美しい水辺の木道が続き、気持の良い散策でした。



視界が開けた「姫沼探勝路」から見た南西方向の美しい景色です。

最も期待していた「利尻富士」の絶景スポットに来て、見えなかったのが非常に残念でした。

北海道旅行No.10 稚内港から利尻島へ

2010年08月18日 | 北海道の旅
7/16 北海道旅行3日目、いよいよ利尻島・礼文島を目指して稚内港を出発です。

隔日で宿泊する稚内のホテルで、レンタカーと、大きなスーツケースを預って頂くことが出来、安心して島へ出発できました。



5:50頃に稚内港に到着、フェリー乗場2階の改札口で行列待ちをしている風景です。

6:30発・8:10着の利尻島 鴛泊港[おしどまりこう] 行きと、6:20発の礼文島 香深港[かふかこう]行きの行列が出来ていました。

6時過ぎには礼文島行きの改札・乗船が始まり、利尻島行きも6:10頃に始まりました。



最果ての島とは言え、意外に大きな船でした。

船体に「フィルイース宗谷」とあり、ハートランドフェリーのサイトによると全長95.7m、巾15mの船で、旅客定員は632名と紹介されていました。

乗客数は、定員には遠く及びませんが、冬季は日本海の厳しい荒波を越えなければならず、やはりこの大きさの船は必要なのでしょうか。



離岸したばかりの港を船の後部から見た景色です。

山の上には「開基百年記念塔」がそびえています。



稚内港の北側にたくさんの柱が並ぶ長い風変りな防波堤が続いています。

この防波堤は、長さ427m、海面からの高さ14mで、柱が72本も並ぶ世界に例のない建築物だそうで、稚内の名所だそうです。



一段高い通路から見た「稚内港北防波堤ドーム」で、島の観光から帰った7/17夕方に撮ったものです。

すぐ前に階段があり、断面の形や、ドーム後方の様子を見ることが出来ます。

この防波堤のなかった昭和初期までは、強烈な高波で乗船客の転落事故が続いていたようで、安全な防波堤は、稚内港関係者の悲願だったようです。

■防波堤の端に黒い石板に刻まれた説明文です。
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稚内港北防波堤ドームの由来
この防波堤は 戦前 稚内~樺太との定期船発着所として築設されたもので アーチ型構造物として立案され 昭和6年に着工し 昭和11年に完成したものであるが 激浪のため老朽が進み 昭和53年より改良施行し 完成は昭和55年である この構造物の名称は 古代ローマの柱廊を思わせる独特の外観から通称「ドーム」と呼ばれ世界で唯一のものである
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稚内港を出港して約20分、北西から見たノシャップ岬の景色です。

丘の上に球形の自衛隊のレーダーが見え、左手にはかすかに稚内灯台も見えます。

この辺りは利尻富士が見える場所ですが、相変わらず曇って見えませんでした。



ノシャップ岬付近を航行していた時、船の後方デッキの座席からすぐ近くを飛ぶカモメを見つけました。

近くの女性が、船べりに行き、お菓子を投げるてやると上手にキャッチして食べていました。



船のすぐそばを飛ぶカモメを妻が撮った写真です。

カメラ目線で写るこのカモメさんは、やはりエサを期待しているようです。



船内の通路の壁に「フェリー航路 サハリンへの道」と書かれたポスターが貼られていました。

稚内港からサハリン観光とは意外で、複雑な思いでした。

以前から最果ての島、礼文島・利尻島へあこがれ、やっと実現しようとした時、同じ稚内港から更に北のサハリンの宣伝に出会うとは・・・。



利尻島へ近づきいて来ました。

好天にもかかわらず、利尻山(利尻富士)は、いぜんとして雲に隠れています。



船が利尻島の鴛泊港[おしどまりこう]に入り、北側に見えた「ペシ岬」です。

この岬の山の形がとても印象的でした。

鴛泊港は、丸い形の利尻島の北東に位置し、「ペシ岬」が北を囲む鴛泊湾にあります。

ちなみに鴛泊の「鴛」は、鴨の仲間「オシドリ」ですが、ここにも「オシドリ」が飛来するのでしょうか。



正面に鴛泊港の接岸場所が見えて来ました。

予定の8:10頃下船、予約していた地元のレンタカー会社の人が迎えてくれました。

いよいよ利尻島観光の始まりです。

北海道旅行No.9 雄大だった宗谷丘陵

2010年08月14日 | 北海道の旅
北海道旅行2日目、7/15の陽が傾いた18時前、稚内のホテルへの帰り道は、岬の南にある「宗谷丘陵」を通りました。



「宗谷岬平和公園」から広大な草原が見え始め、車を止めてシャッターを押しました。

草原に黒い牛が遊び、道ははるか先の山、「丸山」方向へ続いています。



宗谷岬周辺の地図です。

宗谷丘陵を通った経路は、宗谷岬から南に走り、A→B→Cと進み西の宗谷湾を通る国道238号線へ抜けました。

紫に塗られたエリアは「宗谷岬肉牛牧場」のようで、途方もない広さです。

上段の写真は、A地点から南の「丸山」方向の景色でした。



道路の脇に「宗谷岬肉牛牧場」の大きな建物が並ぶ敷地へ入る道がありました。

敷地の入口には白い消石灰が撒かれ、小さな案内板に「家畜伝染病予防のため関係者以外の立入りを固くお断り致します」とあります。

4月から宮崎県で始まった口蹄疫問題は、日本最北端のこの宗谷でも強い警戒態勢をとっているようです。

その後、7/27に終息宣言が出されましたが、昨年からの鳥インフルエンザ騒ぎに続いて家畜伝染病の怖さを思い知らされました。



たくさんの黒牛が、忙しそうに草を食べています。

妻が声をかけると、少し近づいてこちらを見つめていました。

このかわいい牛たちも、いずれ肉になってしまうのかと思うと複雑な気持ちです。

■「とるぱ」宗谷丘陵駐車場の案内板にあった「宗谷黒牛」の説明文です。
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宗谷岬肉牛牧場 宗谷黒牛
【宗谷岬肉牛牧場ひとくち紹介】
①日の出と日の入り両方が水平線に見える日本唯一の牧場です。
②日本で最初に、無農薬、無化学肥料の牧草栽培と、同時に非遺伝子組替原料だけの飼料で牛肉生産を始めました。(1998~)
③日本で最初に出荷牛前頭の個体情報や飼料内容などの生産情報を公開するトレサビリティシステムを導入しました。(2000~)
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地図B地点から振返り、右折して来た東方向を見た景色です。

この道には、宗谷岬から南下する道には無かったセンターラインがある整備された道路です。

道の先に青い交差点の案内板があり、丘の上に大きな牧場の建物が見えます。



地図B地点から南の「丸山」を見た景色です。

「丸山」の頂上には白い建物が見え、右手にはたくさんの風力発電の風車が並び、実に壮観です。

ここは道路から放牧場に入る道で、2本の線が道路と放牧場を仕切っています。



「丸山」の頂上付近をズームで撮った写真です。

白い壁の建物に丸い塔があり、イスラム教のモスクのようにも見えます。

この建物は、自衛隊の施設「丸山レーダー」で、約30年前から稼働しているようです。

山の中腹に道路が見えますが、残念ながら一般者は立入禁止です。



地図C地点の道路脇にあった「とるぱ」宗谷丘陵駐車場です。

宗谷丘陵の道で見た唯一の駐車場で、道の向こうには「丸山」が見えています。

右手の丘の上にもたくさんの牛が草を食べていましたが、やはり牛は野宿するのでしょうか。



地図C地点の駐車場からA地点の牧場建物付近を見た景色です。

なだらかな草原が果てしなく続く、ため息が出るような広大な景色でした。

何と! この地形は「周氷河地形」と言われ、氷河によって出来たそうです。

■「とるぱ」宗谷丘陵駐車場の案内板にあった宗谷丘陵の説明文です。
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北海道遺産 -宗谷丘陵周氷河地形-

周氷河地形
 この宗谷丘陵は、稜線も谷も丸みのある形をしています。このなだらかな地形は、今から約2万年前の氷河時代の末期に、氷河の周辺に形成された特徴的なものであることから、「周氷河地形」と呼ばれています。
 周氷河周辺部が凍結と融解を繰り返す内に出来たものだですが、国内でこのように明瞭な周氷河地形が観察できる地域は他になく、日本列島や北海道の生い立ちを伝える貴重な遺産として、大切に引き継いでいこうではありませんか。
   財団法人 太陽北海道地域づくり財団助成事業
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宗谷湾を右に見て国道238号線を稚内へ走っていると「利尻富士」の山影が見えて来ました。

今日は、天塩町から稚内市まで日本海側の長い道を走り、見えなかった「利尻富士」を、日の沈む直前にやっと見ることができました。

明日早朝、いよいよ稚内港からあの利尻島へ出発です。

北海道旅行No.8 日本最北端の「宗谷岬」に立つ

2010年08月12日 | 北海道の旅
7/15 17:10、今日最後の目的地「宗谷岬」に到着です。



海岸沿いにある広い無料駐車場に車を止め、国道238号の最北端の信号と、南方向の丘の景色です。

信号付近から丘に登る道があり、右手の丘の上には紅白のストライプの「宗谷岬灯台」が見えます。

白一色の灯台が多い中、「稚内灯台」や、利尻島の南部の灯台も同じ紅白のストライプでしたが、なぜでしょうか??

紅白の建物と言えば、以前、漫画家の楳図かずおさんの自宅「まことちゃんハウス」も紅白の建物で、付近の住民から景観問題で訴えられていましたが、問題なしの判決だったようです。

逆の判決だったらこの灯台の壁の色も変わっていたのかも知れませんね。



海岸近くに立つ三角形の塔が、「日本最北端の地の碑」です。

階段のある円形の台に三角形のモニュメントが立っています。

手前に立つのは「間宮林蔵の銅像」で、以前は2~3Km西の「間宮林蔵渡樺出航の地」に建っていたものを移設したようです。



宗谷岬の信号から少し東にある給油所で頂いた「日本最北端給油証明書」と、記念品です。

旅行の下調べで、この「日本最北端給油証明書」を知りましたが、想い出グッズになりました。

この付近は、何もかもに「日本最北端」が付き、観光協会の「日本最北端到着証明書」も販売されているようです。



「日本最北端の地の碑」の東側に「宗谷岬音楽碑」があり、近づくと音楽が流れて来ます。

■黒い石板に楽譜と、歌詞が白い文字で刻まれていました。
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「宗谷岬」
吉田弘作詞、船村徹作曲

流氷とけて 春風吹いて
ハマナス咲いて かもめも啼いて
はるか沖行く 外国船の
煙もうれし 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬

吹雪が晴れて 凍れがゆるみ
渚の貝も 眠りがさめた
人の心の 扉を開き
海鳴りひびく 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬

幸せ求め さいはての地に
それぞれ人は 明日を祈る
波もピリカの 子守のように
思い出残る 宗谷の岬
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
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この詩を見ながら音楽を聴いていると、とても懐かしい気持ちになってきます。



国道の南に沿って「宗谷岬神社」が建っていました。

祭神や、由緒書がなく、賽銭箱も見当たらなかったので、参拝に少し躊躇しました。

よく見ると正面の引き戸に郵便受けの穴があり、内側に賽銭箱が置かれていました。

日本最北端の賽銭泥棒を警戒した対策だったのでしょうか。



宗谷岬の信号から坂道を上がった所にある「宗谷岬平和公園」から見下ろした景色です。

おぼろげに見えるサハリンの島影や、岬の先端に建つ「日本最北端の地の碑」を見ていると、最北端の地に来た実感が込み上げて来ます。



向かって左の二枚の黒い石板が立つ石碑を見て、宗谷海峡の国際的名称が「ラ・ペルーズ海峡」であることを初めて知りました。

1787年(江戸時代中期)にフランスの探検家ラ・ペルーズが、欧米人として初めて日本海を航行し、宗谷海峡を通過したことから名づけられたようです。

この「ラ・ペルーズ顕彰記念碑」にはラ・ペルーズが横を向いた胸像が見られます。

向かって右にスタイルの良い男女のブロンズ像「あけぼの像」があります。

昭和46年7月に北海道の牛乳生産量100万トン突破、飼育乳牛50万頭突破を記念するモニュメントだそうですが、この南に広がる「宗谷岬肉牛牧場」に関係するものでしょうか。

この施設の南に「宮沢賢治文学碑」もあり、宗谷岬周辺は記念碑であふれています。



「宗谷岬平和公園」の東側には、昔の戦争に関わる施設や、記念碑がありました。

左手から「旧海軍望楼」、「平和の碑」、「宗谷海域海軍戦没者慰霊碑」と並び、右端の標識は、国内外の友好都市や、姉妹都市などの方角が示されています。

「平和の碑」は、四角錐の台に茶色の玉が載せられ、太平洋戦争で、宗谷岬沖で撃沈されアメリカ合衆国海軍の潜水艦ワフー号の戦死者80名と、それ以前ににワフー号が撃沈した5隻の日本船舶の戦死者696名の遺族、関係者によって設立されたようです。

■「平和の碑」の横に建つ説明板を転記します。
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平和の碑
1943年10月11日 宗谷海峡において5時間に及ぶ日本海軍とアメリカ合衆国海軍との間で悲痛な戦いが繰り広げられた。
この場所より、北東12マイルの宗谷海峡にアメリカ潜水艦ワフーSS238号乗組員80名のアメリカ人が眠っている。また、この戦いより多くの日本人の戦死者が日本海に眠っている。
この碑は、日本側の人々とワフー号に眠る乗員の家族とによって設立されたものである。
かつての敵は、今日、兄弟として出会い、両国の平和が尽きることのないよう、また、我々が今あたためている友情が決して再び壊れることのないよう、献身したい。
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向かって右の石碑「宗谷海域海軍戦没者慰霊碑」は、太平洋戦争の時、宗谷の防備で殉職した人々を慰霊するものだそうです。

特に、稚内港と樺太間を航行する宗谷丸を海防艦第112号が護衛中、米軍潜水艦の攻撃を宗谷丸の身代わりとなって殉職した152名の慰霊が中心となっているようです。



「旧海軍望楼」の階段を二階へ上がってみました。

石造りの円形の壁に窓が並び、宗谷海峡を双眼鏡で監視する旧日本海軍を彷彿とさせます。

「旧海軍望楼」は、ロシアとの緊張が高まる日露戦争開戦の前々年、1902年(明治35)に宗谷海峡を監視する施設として造られた施設のようです。

その後、1920年(大正9)の尼港事件(アムール川河口)の時は、無線通信基地で使用、太平洋戦争では対潜水艦監視基地として使用されたようです。

■建物の横に白い案内板がありました。
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稚内市指定文化財第十九号
  史跡 大岬旧海軍望楼
明治七年、樺太千島交換条約が成立し、樺太はロシア領となりましたが、宗谷海峡における日露のの緊張は高まるばかりでした。当時の日本海軍はこうした情勢下で、明治三十五年(1902)宗谷岬に望楼を建設しました。この望楼は、宗谷海峡を一望のもとに見渡せる位置にあり、その形も船のブリッジを形づくる異色のもので、石材をコンクリートで固め、いかにも国境の備えにふさわしい監視所でした。
建設以来、風雪に耐えて当時のおもかげを今につたえる貴重な文化財です。
大切にしましょう。
  稚内市
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公園の南側を見ると、真白な鶴が両羽根を広げ、空に向って長い首を伸ばしているような折り紙風のモニュメント「祈りの塔」が目に飛び込んできました。

現在のロシアがソビエトだった時代にあった「大韓航空機撃墜事件」で亡くなった人々の慰霊碑です。

広い花壇に盛りを過ぎたアルメリアの小さな花が咲いていました。

■「祈りの塔」の横にあった案内板です。
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大韓航空機撃墜事件
1983年9月1日ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行き大韓航空機007ボーイング747型旅客機は定められた航路を大きくそれ ソビエト領空を侵犯しソビエト戦闘機のミサイル攻撃によりサハリンモネロン島付近で撃墜された 日本時間9月1日午前3時26分頃 同機に乗っていた乗客240名と乗員29名計269名の全員が死亡した
 日本人の犠牲者は28名 在日韓国人1名 乗客の国籍は16ヶ国に及び 平時の民間航空の参事としては史上最大級のものであった
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「祈りの塔」の左手に茶色のモニュメント「大岬中学校跡地の碑」も見えています。

地元にあった中学校が閉校になり、造られたモニュメントのようです。



「祈りの塔」の南に二つの鐘の施設が並んでいました。

赤い柱の鐘楼には、「世界平和の鐘」があり、鐘をつく撞木[しゅもく]もあります。

同じ鐘が三つ造られ、1号鐘が国連本部、2号鐘がここに、3号鐘が沖縄県石垣市に設置されているそうです。

■鐘楼そばに説明板がありました。
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世界平和の鐘
この世界平和の鐘は、平和を願う世界八十一カ国の協力により提供されたコインやメダルをもって鋳造したものです
世界平和はすべての国の国民の永遠の祈願であります
当会は、思想・信条・政治的立場を超え平和を願う全世界の国民と共に、各国の首都にこの鐘と同じ鐘を設置し、世界平和の日に打ち鳴らす鐘の響きにより、未来永劫にわたり恒久平和を祈願しようと言う目的で運動を進めています
この度世界平和の鐘の栄えある第一号が稚内市の協力により日本最北端のこの地に設置されるに当り、当会より鐘を寄贈し、鐘楼は遠別町出身の鹿野光雄氏より寄贈していただきました
   一九八八年六月吉日
 ワールドピースベルアソシエイション(世界平和の鐘の会)
       会長  久保文苗
   協力 稚内市長 浜森辰雄
 世界平和を祈願して
   一つ打つと世界平和の響きあり・・・・・
   二つ打つと日本の平和の響きあり・・・・
   三つ打つとあなたの平和の響きあり・・・
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左手の白いモニュメントに吊り下げられた鐘は、「子育て平和の鐘」だそうです。

隣の鐘と同様にお寺にあるタイプの鐘で、稚内市民が十円玉募金で建立したそうです。

■鐘の前に説明板がありました。
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子育て平和の鐘
稚内市は、家庭平和・地域の平和・国の平和・世界の平和・を願うとともに、未来の平和な国際社会に大きくはばたく子供達の健やかな成長を希んで、国際平和年の昭和六十年六月に子育て平和都市を宣言した。
これまでの市民ぐるみの子育て運動と平和を希求する取組みの灯が、より一層輝くことを永遠に願い、開基百十年・市制施行四十年・子育て平和運動十年の記念すべき年に、稚内市民の総意に基づく十円玉募金によって、ここに子育て平和の鐘を建立する
  昭和六十三年六月吉日
    稚内市長 浜森辰雄

この鐘をうつときの
    三つのねがい
 一つ 子どもの健やかな成長を願って
 二つ 家庭と地域の平和を願って
 三つ 日本の平和・世界の平和を願って
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「宗谷岬平和公園」から更に坂道を上った所にオランダの風車を模した建物がありました。

■稚内市の観光案内のパンフレット「来ないば稚内!」の説明文です。
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ゲストハウスアルメリア
岬の展望台にあり、宗谷海峡と宗谷丘陵を一望する展望台からの眺めは雄大そのもの。
レストランでは、地元のブランド牛・宗谷黒牛のステーキが食べられます。
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18:00近くになり、宗谷岬の南にある雄大な宗谷丘陵を見ながら稚内のホテルへ帰ることにしました。

北海道旅行No.7 宗谷岬「間宮林蔵渡樺出航の地」

2010年08月10日 | 北海道の旅
7/15 稚内市のホテルにチェックインし、16:30頃から国道238号を東へ約30Kmの場所にある宗谷岬へ向かいました。

国道238号は、稚内市から網走市までのオホーツク海沿岸を走っています。



稚内の市街地を出ると、宗谷湾に沿った信号の少ない道路です。

道の先に「宗谷丘陵」が広がり、おびただしい数の風力発電の風車が見えてきました。

北海道旅行№3に掲載した幌延町浜里地区の「オトンルイ風力発電所」の28基をはるかに超える規模です。



宗谷周辺の地図です。

地図右下部分が、北海道の北端部分の地図で、全体は宗谷岬付近を拡大しています。

右下の広域地図にある赤丸印の稚内市街地から、宗谷岬をめざして走っています。



宗谷岬の2~3Km手前にあった「間宮林蔵渡樺出航の地」です。

右にカーブした道路のすぐ左に小さな駐車場と、石碑がならんでいました。

■広場の中央にあった案内板を転記します。
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間宮林蔵渡樺出航の地
 ロシアの南下政策に驚いた幕府は文化5年4月13日(1808)間宮林蔵と松田伝十郎を北蝦夷(きたえぞ・カラフト)の調査に向かわせた。
 流氷は去ったものの、なお酷しい寒気と荒波の宗谷海峡をのりこえて人情、風俗の異なる北蝦夷に渡り、東海岸を調べた。
 この年、林蔵は再び北蝦夷に渡り越冬、翌年文化6年春、西海岸を北上し北蝦夷は大陸と海峡をへだてた島であることを確認した。夏には大陸交易に赴くギリヤーク人に同行しアムール下流の満州仮府デレンを訪れ、この地方の情勢を調査し、「東韃(とうだつきこう)」として報告された。
 後にシーボルトは「間宮の瀬戸」と名付けて世界に紹介した。
                     稚内市教育委員会
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背が高く、真新しい石碑に「間宮林蔵渡樺出航の地」とあり、側面に「文化五年樺太探検の功績を讃え之を建るものなり」と刻まれています。

約200年前、間宮林蔵たちは、まさにこの後方の海岸から樺太へ向けて出航したようです。

向かって右の石碑に「宗谷アイヌ 柏木ベン」の名で、以下の碑文が刻まれていました。

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此地は吾が祖先の樺太と
逓送を行える地なり
間宮林蔵渡樺を記念し
石標を建てのすべてが
毎年の祭を行えり此石
は当時をしのぶ唯一のもの也
  宗谷アイヌ 柏木ベン
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伝承によると間宮林蔵は、最初の樺太探検の時、海岸に自分の墓石を建て悲壮な覚悟で出航したそうです。

又、この地に住む宗谷アイヌ最後の文化伝承者だった柏木ベンさんの証言では、集落でこの石を祀り、林蔵祭が毎年行われていたようです。

碑文にある「間宮林蔵渡樺を記念し石標を建て、のすべてが毎年の祭を行えり此石は」とは、上記の伝承によるものと思われます。



「稚内市北方記念館」に「柏木ベン」と紹介された年老いた女性の写真が展示されていました。

この写真の下には男性の「柏木ベンタ」と、女性の「柏木シマ」と紹介された写真がありましたが、3人の関係が書かれておらず、柏木ベンさんのご両親か、ご兄弟かとも思われます。

■柏木ベンさんの写真の横にあった説明文です。
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宗谷アイヌ
ソウヤ(現在の稚内市宗谷)を中心に居住していたアイヌの人びとを宗谷アイヌといいます。
19世紀はじめには400人規模の人びとが住んでいました。
北海道アイヌの文化と樺太アイヌの文化の接点をなす重要な場所に位置しているにもかかわらず、その文化的実態はよくわかっていません。
1961年(昭和36年)の柏木ベンさんの逝去により宗谷アイヌの文化の伝承者は絶えました。写真はありし日の柏木ベンさんです。
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かつての宗谷アイヌ400人規模の集落は無くなり、その文化の伝承は途絶えてしまったそうです。

弱肉強食の帝国主義が広がる時代、アイヌ民族の悲劇がここにもありました。



同じく「稚内市北方記念館」に展示されていた「間宮林蔵」のブロンズ像です。

「稚内市北方記念館」の展示では林蔵たちの二度の樺太探検、さらに大陸へ渡って調査した現地の風景・風俗等の絵など多くの資料が展示され、とても興味深いものでした。

展示を見終わってこの像を見ると、極寒の地へ命がけの探検に旅立つ林蔵の覚悟が伝わって来るようでした。

「間宮林蔵渡樺出航の地」を訪れる前に「稚内市北方記念館」を先に見るべきだったと、少し悔やまれます。



海を背にして並ぶ石碑です。

両端の石碑をよく見ると、歌碑のようでした。

■向って右の石碑です。
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海峡に大きく
  昇る今日の月
      古竹
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■向って左の丸い石碑です。
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歌 碑
噫宗谷海峡
  東海林義夫
暮色蒼然 掩樺太
幾万同胞 再不帰
茫洋咽頻 悲憤情
一片残光 照海峡

 還らざる
 友の面影
  偲びつヽ
 宗谷岬に
  一人佇む
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二つの歌碑と、間宮林蔵渡樺出航との関係も分かりませんが、参考のため、刻まれた文字を転記しました。



石碑のある海岸から宗谷岬の方向を見た景色です。

海に小さな岩礁が見えます。

地図で見ると「平島」のようです。



「間宮林蔵渡樺出航の地」から宗谷岬の方向へ少し走った辺りから北に見える「弁天島」です。

島にはおびただしい数の鳥が島を覆い、その向こうにはサハリン(樺太)の島影がぼんやりと見えていました。

地図では「平島」と共に宗谷岬の西北西にあり、「宗谷岬」が最北端と思っていましたが、どうもこの「弁天島」が最北端のようです。

「弁天島」は、別名「ソウヤ岩」と言われ、アイヌ語の「ソ・ヤ=磯岩の岸」が語源だそうです。

日本最北端の地は「宗谷」岬ではなく、この「ソウヤ」岩だったのです。

しかし、正式な日本最北端の地は、ロシアから返還されず、実行支配されていない北方領土の択捉島にあります。

今回の北海道旅行では、知床周辺も訪れ、北方領土問題を少し実感した旅でもありました。

北海道旅行No.6 ノシャップ岬へ

2010年08月08日 | 北海道の旅
7/15 15:30頃、「こうほねの家」を後に106号線を北へ進み、ノシャップ岬を目指しました。



道路脇に草の斜面が延々と続いていました。

北海道北部の海岸一帯ではよく見た地形です。

冬の厳しい寒さや、強い風で、木が育たない点は、本州の高い山の頂上のようです。



北海道北端部分の地図です。

左下の「浜勇地」にある「こうほねの家」から北に進み、「野寒布[ノシャップ]岬」を目指して進みました。

その後、稚内港近くのホテルにチェックイン後、「宗谷岬」見物に行きました。

北海道の地理になじみのない私は、「ノシャップ岬」を見て、「ノサップ」の間違いでは?と疑問に思い、地図を調べてみました。

「納沙布[ノサップ]岬」は、北海道東部の根室半島の先端で、ここは「野寒布[ノシャップ]岬」でした。



道路脇の空き地で昆布を干す風景に出合いました。

この季節は収穫期のようで、利尻島、礼文島の各所の海岸でも同じ風景が見られました。

ところで、利尻島で土産の昆布を買った時、「ミミコ」と呼ぶ海草を見つけ、みそ汁の具に良いと聞いて、買って帰りました。

「ミミコ」は、「ギンナンソウ」の別名で、「なめこ」のようなヌルヌルした食感がとても気に入りました。

収穫量が少ないそうで、地元だけで消費されているのでしょうか。



昆布は、一枚づつていねいにのばしているようです。

昆布店の話によると、天然物の昆布はほとんど小さく、大きいものはたいてい養殖物だそうです。



「ノシャップ岬」に近づくに従って道路脇に建つ家が増えて来ます。

ほとんどの家は、内陸側の少し高い場所に建ち、海岸側には倉庫などが建っていました。

相変わらず草に覆われた斜面が続いています。



「ノシャップ岬」に到着です。

日本で二番目の高さ(42.7m)とされる「稚内灯台」は、よく目立紅白の模様で、まるで火力発電所の煙突のようでした。

最北端の宗谷岬と並ぶ北の岬で、水族館などもありましたが、なんとなく感激のないスポットでした。



広場に「ノシャップ岬」の案内板がありました。

晴れた日には後方に利尻富士が美しく見えるようですが、残念です。



広場にイルカのオブジェがありました。

イルカの鼻先に4時前を指す丸い時計があり、曲芸をする水族館のイルカにも見えます。



「ノシャップ岬」の西に面した「恵山泊漁港」です。

船の出入りも見えず、実に静かで、のんびりとした気持ちになりました。

岬の南方向にはなだらかな丘が広がっています。

地図を見ると日本最北端と思われる自衛隊の基地があります。

この辺りには飛行場もなく航空自衛隊の基地を疑問に思いましたが、レーダー基地で北方監視が任務のようです。



礼文島から稚内港に帰るフェリーから撮った「ノシャップ岬」です。

2日後の7/17午後2時頃で、利尻富士が見えない同じ様な天気でした。

船から紅白の模様の「稚内灯台」が見えた時、なぜか懐かしさを感じました。

北海道旅行No.5 「こうほねの家」付近で見つけた巨大な謎の骨

2010年08月06日 | 北海道の旅
7/15 15:00頃、道道106号を幌延町、豊富町と北上し、稚内市の南、抜海村夕来に入りました。


1
日本海の海岸を走る道道106号沿い、稚内市抜海村夕来の利尻富士のビュースポットです。

後方の海の向こうに美しい利尻富士が写っているはずだったのですが、残念ながらここでも曇って見られませんでした。

道路脇に小さな駐車場が整備され、「利尻礼文サロベツ国立公園 環境省」と書かれた案内板と、白い祠、白い柱の記念碑が並んでいます。

●白い柱の記念碑に書かれていた内容です。
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稚内~利尻(利尻水道)遠泳達成記念
 ■出発地/利尻町石崎岬 ■到着地/稚内市夕来
 ■直線距離/19.5Km ■所要時間/9時間56分09秒
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2
環境省の案内板に「利尻礼文サロベツ国立公園」と地図が描かれていました。

左上の細長い島が「礼文島」、隣の丸い島が「利尻島」、右上隅が「宗谷岬」、その左の半島が「ノシャップ岬」です。

「利尻島」の東、ゆるやかに突き出た場所に二つの赤い点があり、下側の点がこの場所で、上の点は、次に立寄る「こうほねの家」です。



3
道路の黄色い案内板に「地吹雪多発区間 走行注意」と書かれているのを発見しました。

前々回掲載の<北海道幌延町、道道106号の雄大な景色>で紹介した「浜里パーキングシェルター」は、どうもこの「地吹雪多発区間」ゆえの避難施設だったようです。

青森の地吹雪は、聞いたことがありますが、北海道の北端に近い場所ではもっと激しいのかも知れません。



4
道道106号沿いの利尻富士のビュースポットを出てすぐに「こうほねの家」と書かれた看板に興味をひかれて、立寄ってみました。

「こうほねの家」は、駐車場が整備され、二階が展望台になっている無人の休憩施設のようでした。



5
駐車場の脇にあった「利尻礼文サロベツ国立公園浜勇知園地案内図」です。

この案内図から察すると小さな「コウホネ池」とその周辺の海岸が「浜勇知園地」で、建物の名称が「こうほねの家」と思われます。

スイレンの一種「コウホネ」がこの池で繁殖していることが名称の由来のようです。



6
「こうほねの家」の中の壁に「西海岸より利尻富士を望む 稚内市」と書かれた大きな写真が掛けられていました。

雪景色の海岸の向こうに海に浮かぶ真っ白な利尻富士です。

残念ながらここからも利尻富士は、かすんで見えませんでした。



7
「こうほねの家」の二階が展望台から、先程走って来た南方向の景色です。

何もない広大な平野の海岸が続いています。

この辺りから道道106号の内陸側が一段高い丘陵になってきました。



8
「こうほねの家」の二階が展望台から見た、北方向の景色です。

右手の海の先に見えるのは「納寒布岬」で、右手下の駐車場の脇には先に紹介した「浜勇知園地案内板」があります。

植え込みの中に緑がかった自然石に刻まれた森繁久弥さんの歌碑が立っています。

■森繁久弥の歌碑に刻まれた歌です。
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浜茄子の
  咲きみだれたる サロベツの
 砂丘の涯の
     海に立つ富士
           森繁久弥
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■歌碑の足元にあった黒い石碑の文です。
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砂丘に燃える真っ赤な
ハマナス空と海をカンバスに
そびえ立つ名峰利尻富士
厳しい氷雪に耐え
美しく花開く北國の春を
三十一文字に託した
昭和の名優森繁久弥氏の
一首を利尻礼文サロベツ
國立公園指定十五周年
記念としてここに建立する
   平成元年六月二十九日
     稚内市長浜森辰雄
===============================



9
「コウホネ沼」から「こうほねの家」方向を見た景色です。

「こうほねの家」の向こうに一段高くなった丘陵地が見えますが、この地形は、宗谷岬を越えてオホーツク海岸まで見られました。

「コウホネ沼」には水辺から突き出た葉の「コウホネ」と、水面に浮かぶ「ネムロコウホネ」などが生えています。

前回のサロベツ原野でも「コウホネ」や、「ネムロコウホネ」などの写真を掲載していますが、ここでも同じように混生していました。

ほとんど流れのない池の水がきれいだったのが意外でした。



10
池のそばにこの海岸に生える水生植物の案内図がありました。

乾燥地、湿地、水辺それぞれに適応する植物が微妙に変化していくことを知り、ダーウィンの進化論を感じさせられます。

■水生植物の案内図の説明文です。
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水生植物
砂丘間には様々な大きさの沼が点在していますが、比較的面積が小さく浅いため、沼から湿原へ移り変わって行く様々な段階のものを観察できます。
沼の水生植物は、岸から深い方へ、右図のように住み分けしています。
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海岸に近い遊歩道に巨大な二つの骨が横たわっていました。

恐竜の骨か?!



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後方から見たら骨の一部が割れていましたが、やはり流木ではなく、骨のようです。

組織から見てクジラなど海獣の骨のようにも思えます。

「こうほねの家」に謎の骨があったという誰かのタジャレ的いたずらに付き合わされたのでしょうか。

北海道旅行No.4 「下サロベツ原野」の景色

2010年08月02日 | 北海道の旅
北海道旅行2日目の7/15、道道106号を北上、幌延町の交差点から右折して「幌延ビジターセンター」へ向いました。

前回紹介した「オトンルイ風力発電所」の少し北から右折します。



サロベツ原野には延々と木道が続き、辺りは低温湿地帯の草原です。

向こうに見える建物は、「幌延ビジターセンター」で、観光する人もまばらでした。

木道の両脇に「ヤマドリゼンマイ」の青々とした葉が生茂っています。

クルクルと巻いた芽を茶褐色の毛で覆っている姿から山鳥の名が付いたのでしょうか。



幌延ビジターセンターの建物正面です。

向って右手にサロベツ原野への木道が続いています。

一階ではサロベツ原野の動植物の説明パネルや、映像を見て、二階ではサロベツ原野の展望室がありました。

西に見えるはずの利尻富士が見えないので、管理人さんに外で方角を教えて頂きましたが、やはり霞んで見えませんでした。



幌延ビジターセンターで展示されていたサロベツ原野の地層です。

地層は、円筒状に切取られ、気候変動の歴史から地層区分が出来るためか、その脇に年代の目盛と、各時代のイラストが描かれていました。

一番上が現代、次が2,000年前、次いで2,500年前、3,700年前、4,500年前、5,000年前、5,400年前、一番下が5,700年前となっていますが地層の時代区分の意味は分かりませんでした。

■地層の横に説明パネルがありました。
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泥炭地 やわらかな大地
サロベツ原野は、天塩川の下流にあり、東西およそ5~8Km、南北およそ27Kmにわたって広がっている。ほとんどが海抜5m以下で面積約20,000ha、その70%の14,600haが泥炭地となっている。ミズゴケ、ヌマガヤなどの湿原植物が低温多湿のため完全には腐らず、長い年月の間に厚く積み重なりスポンジ状になった柔らかな土壌、それが"泥炭"である。1年に平均1㎜位しか成長しない。つまり1mの泥炭が堆積するには、およそ1,000年くらいかかることになる。サロベツ原野の泥炭層の厚さは3~7mである。最大層厚はおよそ8mである。
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サロベツ原野付近の地図です。

「幌延ビジターセンター」の他、北の豊富町には「サロベツ原生花園ビジターセンター」があります。

「幌延ビジターセンター」の説明パネルによるとサロベツ原野は、かつて湾だった場所が次第に泥炭で積り、現在の湿地となったようです。

サロベツ原野には蛇行して流れるサロベツ川があり、海岸に並行して2~3Km辺りを北から南に流れ、天塩川に合流しています。

等高線のある地図を見ると国道40号や、函館本線から西側は低地となっており、農地に向かない湿地を避けて開発された歴史があるものと思われます。



「幌延ビジターセンター」の2階展望室から見た「サロベツ原野」です。

手前の建物横入口から左上の長沼まで木道が続き、所々に観光客の歩く姿が見えます。



「幌延ビジターセンター」横の案内板にあった「下サロベツ原野園地」の案内図です。

幌延ビジターセンター付近は、「下サロベツ原野」と言われ、特別保護地区になっているようです。

一方、「上サロベツ原野」は、北の豊富町にある「サロベツ原生花園ビジターセンター」付近と思われます。

■案内板に「下サロベツ原野園地」の説明文がありました。
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下サロベツ原野園地
春から秋にかけ、高層湿原と低層湿原をとおる木道のそばでは美しい高山植物・湿性植物・水生植物が咲きそろい、草原の野鳥たちがさえずります。
下サロベツ原野園地では、このすばらしい自然のメッセージを体感し、親しみながら自然とふれあえるよう、「自然学習歩道」として観察施設や木道などを設置しています。
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木道を歩いて行くとカキツバタと、タチギボウシが群生している場所がありました。

「サロベツ原野」は、美しい花が咲き誇る原野のイメージがありましたが、その時には花は少なく、広い草原と池が目立つ地味な印象的でした。

タチギボウシ[立擬宝珠]は、ユリ科ギボウシ属の植物で、ツボミが膨らんだ形が、橋の欄干の上などに飾られる擬宝珠に似ていることから名づけられた薄紫の花です。



長沼の南端にある「水生植物観察デッキ」から見た景気です。

池の水面には水草が浮かんでいます。

長沼は、北東方向に細長く伸びる池で、左手の岸辺には木道が続いていました。



長沼の岸にあった案内板です。

冒頭に「今、沼ではこんな花が咲いています。」と書かれていました。

■同じく長沼の岸にあった案内板のコウホネの説明文です。
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コウホネ(スイレン科)は北海道から九州の沼や池で普通に見られる水生植物ですが、サロベツ湿原にはこのほかにオゼコウホネとネムロコウホネが自生しています。この2種は、北海道の北部・東部の一部と、本州のごく限られた場所でしかみることのできない貴重な植物です。
全国で3種とも自生しているのはサロベツ湿原だけかもしれません。

コウホネの名前の由来
コウホネは河骨と書きます。
白く細長い根茎(こんけい)が骨のように見えることからつけられた名前です。
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長沼に浮かぶ水草に、黄色い花が咲き始めていました。

サロベツ原野には日本にあるコウホネ・ネムロコウホネ・オゼコウホネの3種類が育つとされています。

写真後方に見える茎や葉が水面から上に立ちあがっているのが全国で見られる「コウホネ」と思われます。

写真手前の水面に浮かぶ葉は「ネムロコウホネ」か、「オゼコウホネ」のようで、この二種は本州北部から北に育ち、ごく近い品種のようです。



長沼の岸辺に野鳥を撮影していると思われる人達がいました。

カメラには巨大な望遠レンズが付けられ、長い時間シャッターチャンスを待っているようでした。

この物々しく武装?したような集団には野鳥も警戒してなかなか近づいて来ないのではと思います。



野鳥と言えば幌延ビジターセンターに水鳥「アカエリカイツブリの親子」の模型が展示されていました。

自然には様々な外敵がおり、警戒したヒナは親鳥の背に隠れるそうですが、首から下がスッポリ隠れているのには驚きです。

サロベツ原野の池沼には様々な鳥が紹介されていましたが、野鳥を撮影する大勢のカメラマンが、野鳥の生活環境の破壊にならないか心配です。

■展示の「アカエリカイツブリの親子」の説明文です。
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アカエリカイツブリの親子
サロベツ原野には100個以上の池沼が点在しミコアイサ、キンクロハジロなど北方向の水鳥類で我が国最大の繁殖地となっている。代表種、アカエリカイツブリは水草などで浮巣をつくりオスとメス共同で子育てをするのが特徴。ヒナは危険を感ずると親鳥の背中に隠れる。
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