昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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竹富島で象形文字「カイダー字」が使われていた

2007年04月30日 | 沖縄の旅
 
写真1段目は、「竹富島ゆがふ館」で開催中の「金斗鉉絵画展」で「喜宝院蒐集館」を描いた水彩画です。
フェリー乗り場の隣にある「竹富島ゆがふ館」の観光案内映画を見る部屋に素敵な水彩画が十数点展示されていました。
金斗鉉さんは、竹富島の魅力にひかれ島の絵をたくさん描かれているそうです。

写真2段目は、「喜宝院蒐集館」に展示されている「板札象形文字(いたふだカイダージ)」です。
竹富島、与那国島で江戸時代まで使われていた絵文字(象形文字)だそうで、「カイダー字」or「カイダー文字」と言われています。

先日掲載の「喜宝院蒐集館」に展示されている家門(やばん)も「カイダー字」の一種とされており、ハジチ(針突)や、ミンサー織の模様も「カイダー字」に関係するのではないかと推察しています。

写真3段目は、「喜宝院蒐集館」に展示されていた新聞の切抜きで、7,000年前の象形文字が、中国で発見された記事です。
中国雲南省などに住む少数民族ナシ族にも象形文字「トンパ文字」約1400文字が今に伝えられているようです。
「トンパ文字」は、文字の色でも意味が変わるユニークな文字だそうです。
最近、携帯電話で絵文字が使われていますが、「トンパ文字」も日本でパソコン用フォントがありました。

沖縄本島では、昭和8年に北谷町で象形文字が刻まれた石が発見され、その後も嘉手納町・北谷町から11点が発見され「沖縄のロゼッタストーン」と言われているそうです。

日本本土では、古代文字と称する文字があり、ホツマ文字・豊国文字・サンカ文字などが代表的です。
古代文字は、学会では認められていないようですが、「ホツマ文字」の「ホツマツタエ」は日本書紀・古事記の原書とも言われているようです。

中国雲南省と言えば「黄河文明」により滅んだ「長江文明」の民が逃げていった土地です。又、日本の弥生時代は、同じ「長江文明」の民によるものと考えられます。

沖縄の創生神話に稲作の話もあり、竹富島・与那国島の「カイダー字」、本土の古代文字、中国の象形文字などには、かって同じルーツがあったのではないかと想像されます。

昨日掲載の「藁算」と、南米の古代文明との関係などなど、八重山地方には、まだ未知の魅力がたくさんあるようです。
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竹富島の「藁算」は、古代インカ帝国にもあった

2007年04月29日 | 沖縄の旅
 
写真1段目は、「喜宝院蒐集館」の隣の建物の風景です。
竹富島を訪問した日は、日射しはありましたが雲が多く、天気の良かった一昨年の写真を掲載します。(建物は上勢頭館長のご自宅でしょうか)

上勢頭(うえせど)館長から「藁算(わらざん)」の本を紹介されました。
写真2段目は、紹介された本「藁算 琉球王朝時代の数の記録法」です。
(著者:栗田文子、出版社:慶友社(2005年11月)

上勢頭館長のお話では栗田文子さんは、「喜宝院蒐集館」の資料をヒントに沖縄中を歩いて研究されたそうで、「喜宝院蒐集館」横のお土産店でも売っていますよと紹介されたものです。

写真3段目は、「喜宝院蒐集館」に展示されている「藁算」の一部です。
又、上勢頭館長から「実は、南米にも藁算があった」とおっしゃられ、沖縄と南米のつながりはまだ分かっていないとのことです。

「藁算」を調べてみると、計算と言うより情報の記録や、伝達の機能が中心だったように思えます。
人類が文字を考え出す前の初期段階に使われていたものと考えられ、それが近代まで使われ続けていたと思われます。

■在ペルーの旅行会社「カントゥータトラベル」のサイトで、ペルーのカラル遺跡で「藁算」と似た「キープ」(結縄)とよばれるものが発見されていると記述があり、紹介させて頂きます。
http://www.cantutatravel.com/peruruins.html

<カラル遺跡>
「 キープ(結縄)と呼ばれる紐を組み合わせて、情報伝達に使用した文字の代わりの道具も出土している。キープは4500年以上後のインカ帝国時代まで、貴重な情報伝達手段として南米大陸全土で活用されていた。」

「カラル遺跡」は、南米ペルー共和国の首都リマから北約200Kmにあり、約5000年前(紀元前3000年頃)の遺跡とされ、解明が進むと南米大陸最古の文明となる可能性があるようです。

■国立民俗博物館のサイトでインカ帝国の時代のキープ(結縄)の写真が掲載されています。
http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/language/02.html

「藁算」が、5,000年以上の昔から続いていた文化だったとは驚きです。
ペルー以外でも南米全体にキープ(結縄)が使われていたようです。
同じ古モンゴロイドの南米インディオと、アイヌの人のDNAが似いてるそうで、沖縄もかっては同じ文明を持つ兄弟だったのかも知れません。

次回は、竹富島で使われていた「象形文字」を掲載します。
島には気の遠くなるような古代の文化が残っていますよ。
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竹富島の「喜宝院蒐集館」で見た「ハジチ」

2007年04月28日 | 沖縄の旅
 
八重山旅行の一番の想い出は4月25日にも掲載した竹富島の「喜宝院蒐集館(きほういん・しゅうしゅうかん)」の「上勢頭(うえせど)館長」のお話と、コレクションです。
美しき南の島「竹富島」を島の住民が力を合わせて地道な努力で守っておられるお話に敬服しました。

この美しき南の島にも琉球王朝-薩摩藩-江戸幕府支配の時代に奴隷のように扱われた時代があり、過酷な人頭税が課せられていたようです。
又、太平洋戦争の時代苦しみ、米軍による占領時代を乗り越えてきた歴史があります。

美しい風景、ゆったりした島の雰囲気と合わせて、島の生活や、島の歴史を語る「喜宝院蒐集館」のコレクションを見せて頂いたことで「竹富島」に来て本当に良かったと思います。

写真1段目は、喜宝院蒐集館・喜宝院です。
先日掲載の「藁算」(わらざん)をはじめ、約4,000点のコレクションがあり、「上勢頭館長」のご説明は名物となっているようです。

写真2段目は、竹富島にある「人頭税廃止百年記念之碑」です。
人頭税は、1902年(明治35年)まで続き、島々の民衆を苦しめていたようです。

写真3段目は、「喜宝院蒐集館」に展示されていた「針突(ハジチ)」の写真です。
説明書きには「入墨の老婆 手に弓矢の入墨して結婚式を行った○○イサミさん 明治八年生(九五才)」とあります。
4月5日に掲載した「名護博物館」に展示されていたハジチとくらべてご覧下さい。

写真4段目は、石垣市登野城「みんさー工芸館」の二階に展示されていた沖縄の島々のハジチの模様から一部を撮ったもので、島により模様が違うようです
上の写真と、竹富島の模様は同じで、石垣島の模様と似ています。
沖縄本島の模様は少し違い、「名護博物館」のハジチの写真に見える模様と一致するようです。

沖縄ではハジチを施す「針突師(はじちゃー)」という職業があったそうです。
沖縄の島々を歩いては各地で女性にハジチをしていたようです。
貧しい庶民にはハジチの費用はかなりの負担だったようですが、結婚前までに少しずつ完成させ、嫁入り道具のような価値があったのだろうと想像しています。
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八重山旅行の間に咲いた「君子蘭」

2007年04月27日 | 日記
 
八重山旅行から帰ってみると、鉢植えの「君子蘭」が咲いていました。
「やっと咲いてくれたか」と、うれしくなりました。

テラスに咲く花を見つめると、鮮やかな色にハットさせられます。
朱色の花びらと、その奥にある白い模様、白い雄しべの先などで、気品のあるイメージが創られているようです。

旅行に出発する朝は、ツボミが少し開きかけていましたが、5つの花が開き、ツボミが2つ付いています。
肥料が不足しているためか花の数が少ない感じです。(今年はちゃんとやります)

「君子蘭」は、ヒガンバナ科クンシラン属の植物で、ランの仲間ではないようです。
ヒガンバナ科と聞くとなんとなく「彼岸花」に似ているなと思います。

「君子」と聞くと孔子の言葉で「君子危うきに近寄らず」を想像し、固い男性のイメージを持ちます。
日本名の由来は、イギリスの公爵夫人を讃えた名前「クリビア」にちなんだ「高貴な花」の意味から名付けられたそうです。
イギリス貴族の夫人と、「君子」のイメージはとても結び付くとは思えないのですが個性的な名前には違いありませんね。

南アフリカ原産の多年草で、我家でも育つようにとても育てやすい植物です。
花言葉は、「情け深い」、「誠実」だそうです。

次回は、情け深い、誠実な人々が住む八重山5日間の旅行の想い出を掲載させて頂きます。
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幸運の灯台 「琉球観音崎灯台」と、海岸の地層

2007年04月26日 | 沖縄の旅
 
八重山旅行も昨日が最後の日、石垣島を半日レンタカーで周りました。
事前の天気予報ではほとんど雨でしたが、幸運にも最後まで傘を使うことなく、無事帰ることができました。

写真1段目は、石垣の町から西海岸約5Km走った場所にある「琉球観音崎灯台」で、最後に観光したスポットです。
この岬一帯は、「冨崎(フサギィ)」又、「観音崎」と呼ばれ、「フサギィ」とは、幸運を意味するそうで、「幸運の灯台」と勝手に名付けてしまいました。
(最後に灯台の案内板を転記しています)

灯台は、円柱形が一般的ですが、この灯台は四角柱で、とても新鮮な印象を持ちます。

写真2段目は、灯台から下を見下ろした景色です。
この付近は、夕陽のきれいなスポットで公園になっています。
そういえば石垣島のきれいな夕陽を見落としていました。
(曇りが続くとダメですね)

写真3段目は、北東方向の名蔵湾方向の海岸の風景です。
どんよりした天気にもかかわらず海の色はとてもきれいでした。

写真4段目は、「琉球観音崎灯台」のすぐ下の海岸の岩場です。
2cm前後の厚みの堆積岩の地層で、とても珍しく写真に撮りました。
よく見ると、少し緑かかった石がかけ落ちていたので、1コ拾ってきました。

愛媛県の佐田岬や、大分県の関崎でも同じような地層だったのを思い出しました。
民家の石垣にも平たい石が使われ、独特の風景だったと記憶しています。

地質マップを調べると、観音崎付近は、沖縄本島北部に広がる「古生期石灰岩」と同じ色がついています。
又、ゆっくりと調べてみたいと思います。

<琉球観音崎灯台>
此の灯台は、昭和28年7月米軍によって建設され、同47年5月の本土復帰とともに海上保安庁に引き継がれたのち、数回改良されて現在の形になりました。
この岬一帯は、通称、冨崎(フサギィ)と呼ばれ岬の東方600メートル付近に冨崎観音堂ががあることから観音崎とも呼ばれています。
民謡「小浜節」にも謡われているフサギィとは、幸運を意味し、航海の安全をもたらす岬の名称とも言われていますが、岬に建つ灯台は、この名称にふさわしく沖を航海する船舶の安全を守っています。
灯台の状況は、電話回線でいつも把握し、事務所からも定期的に職員が巡回し機能の保全に努めています。
施設の概要
位     置 北緯 24度21分57秒
        東経124度06分42秒
塗装および構造 白色 塔形 コンクリート造
灯     質 等明暗白色 明3秒暗3秒
光     度 3500カンデラ
光 達 距 離 11.5海里(約21キロメートル)
高     さ 地上~頂部 11メートル
        水面~灯台 20メートル
管 理 事 務 所 第十一管区海上保安本部 石垣海上保安部
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竹富島で「ワラ算」に出会った

2007年04月25日 | 沖縄の旅
 
今日も、天気予報はみごとに外れ、竹富島はお昼前から晴れ、屋根瓦に座るシーサーと、赤いハイビスカスの花が、まぶしい太陽に輝いていました。

3年前の秋、初めての八重山旅行で念願の竹富島の「種子取祭」を見せて頂きました。
その時、「喜宝院蒐集館」が年1回の休館だったので、今日やっと見ることが出来ました。


「八重山民俗園」で見つけたワラ細工品です。旅行1日目、石垣島の「八重山民俗園」を入場して正面の「旧牧志邸」の展示物を見学していた時、床の間の棚で不思議なワラ細工品を見つけました。


「八重山民俗園」の施設「旧牧志邸」で「家遊び(やーあしび)」の三線を弾くオジサンです。
ワラ細工品をオジサンにたずねると、「昔沖縄にあったソロバンのようなもので、ワラの先を結んだりして生活の記録をしていた[ワラ算]というもので竹富島に行くと教えてくれますよ」と、教えて頂きました。


竹富島の「喜宝院蒐集館」(きほういんしゅうしゅうかん)に展示されていた「藁算」(わらざん)です。
見学を始めようとしたら、「上勢頭(うえせど)芳徳館長」から展示品の概要と、「藁算」を分かりやすく説明をして頂きました。
教育を受けられない琉球王朝時代の庶民が考え出したワラを使った記録方法で、品物やその数をワラの結び方で表現したそうです。

「藁算」のひとつに慶弔などで近所からの頂き物を記録した「到来算」(とうらいざん)の説明を聞かせて頂きました。
「あるお家から泡盛を2本もらった」表現は、お酒のビンに似せた結びのワラと、ワラ2本、その家の屋号の記号を描いたもの(乾燥した草の葉?)を一ヶ所の結び目で軸の縄に結び表現したそうです。

詳しくは、「喜宝院蒐集館」 「全国竹富島文化協会」 のホームページをご覧下さい。


「喜宝院蒐集館」の上勢頭芳徳館長が来館者へ「藁算」の説明をされている様子です。
竹富島を愛してやまない気持ちが伝わってくる説明で、来場者の方々が聞き入っています。


「喜宝院蒐集館」に展示してあった竹富島の各家の屋号の記号です。

展示されていた新聞の切り抜きも説明して頂きました。
竹富島は、島の文化を大切に守り、人口が15年連続で増加しているそうです。
1年間に子供が5人誕生、新聞のニュースになったようです。

竹富島の皆さんのご活動については、後日あらためて紹介させて頂きます。
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西表島祖納の古民家「新盛家住宅」「前泊穀御嶽」

2007年04月24日 | 沖縄の旅
昨日は、石垣島から西表島の南東にある大原港に渡り、レンタカーで夕方まで島を周りました。
ほんの少し小雨が降る時もありましたが、曇り時々晴れのまずまずの天気でした。


西表島の北西部、祖納地区にある古民家「新盛家住宅」です。
沖縄県では最古(140年以上前)の建物といわれ、平たいサンゴ石を丁寧に積上げた石垣と、木造茅葺き屋根が個性的なたたずまいを醸し出しています。

各地の旅で石垣を見てきましたが、その土地の石材、風土、土地の人々の気質がそれぞれ特徴のある石垣を創ってきたことを感じます。


「新盛家住宅」の隣のお家の門です。
門を入ると平たいサンゴ石を積上げた「ヒンプン」(まよけ・目隠しの塀)が、正面にに見えます。
その家と道をはさんで向いには一段高くなった屋敷跡があり、同じような石垣が積まれています。


海岸の道に面してあった「前泊穀御嶽」です。
鳥居を入ると左右にクバの木が見え、御嶽の裏手には石垣に囲まれたイビ(御嶽の聖地の本体)が見えます。
又、鳥居の前には祖納地区の「節祭(せち)」の文化財指定記念碑があり、500年の歴史をもつお祭りが国の重要無形民俗文化財に指定されたことが書かれています。


県道沿いの「子午線モニュメント」の横にある「竹富町子午線ふれあい館」でビデオ放映していた「節祭(せち)」の一こまです。
横に置かれた本によると、「婦人のアンガー行列」と紹介され、顔を黒い布で覆った2人の女性を先頭にした行列の場面です。
「前泊穀御嶽」の前に砂浜があり、そこがお祭りの舞台になっていることが分かりました。

本土の祭りと比較すると幟(のぼり)などには中国文化の強い影響を感じます。(台湾に近い土地ですからね)
3年前、念願だった石垣島の隣にある竹富島の「種子取祭り」を見物しましたが、少し内容が違うようです。
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巨大な津波石 「石垣島の観光」2日目

2007年04月23日 | 沖縄の旅
 
昨日は、一日中曇りでしたが、午後に時々太陽が見えました。
気象庁の週間予報も4/22・23は「晴れ時々曇り」に変えてくれました。

昨日のコース8:00出発~17:30ホテル帰着
石垣島最北端の平久保から南の白保までゆっくりと観光しました。


大浜小学校の隣にある「オヤケアカハチの像」です。
石垣島・西表島を中心とする八重山地方の歴史上の人物といえば、「オヤケアカハチ」を思い出します。
琉球王朝の最盛期「尚真王」の時代、琉球王朝に抵抗して八重山地方で立ち上がった英雄として語り継がれています。
「オヤケアカハチ」は、波照間島の出身で、石垣島南東部の案司(地方豪族)となり、大浜のフルスト原遺跡(城=グスク)を拠点としていました。


アカハチ祭のポスターです。
今でも大浜地区の人たちは、かっての地元の英雄をたたえ、語り継いでいるようです。


大浜の津波石」です。
妻が横に立っていますが、とにかく巨大な岩でした。
1771年(明和8)年4月朝、八重山・宮古両諸島は、津波に襲われ、石垣島南部(真栄里・大浜・宮良・白保)壊滅的被害を受け、石垣島の人口は、約半数になったそうです。
海から数十メートル離れた場所に、この巨大な岩が運ばれてきたのかと思うと津波の恐ろしさが実感できます。


「大浜の津波石」を別な角度から撮ったものです。
巨大な石の上に登るコンクリートの階段があり、登ってみましたが、石の頂上には白いお花と、線香がお供えされており、まるで御嶽のような雰囲気でした。


白保のおばーが海岸で海草「アーサ」を採っている様子です。
たずねると、朝のお汁に入れて食べるそうで、乾燥させて保存するようです。

今日は、西表島の観光を予定しています。
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「石垣島の観光」1日目

2007年04月22日 | 沖縄の旅
昨日は、天に祈ったお陰でしょうか気象庁様の雨の予報はみごとに外れて曇天、石垣島の西部をゆっくりと見物できました。
レンタカーパックの宿泊プランで、数年ぶりに軽四に乗っての観光です。

昨日のコース
石垣空港13:00→「八重山民俗園」14:00→「電信屋」16:20→「御神崎」16:50→ホテル18:00


那覇上空から空港近くの海を撮ったものです。
那覇は、よく晴れて海の色がとても素敵でした。


写真は、沖縄の楽器「三板(サンバ)」です。
「八重山民俗園」では三線を弾き、島唄をうたうオジサンが「三板」を教えてくれました。
左手で写真のように「三板(サンバ)」を持ち、右手の親指を除く4本の指の爪を小指から人差し指へ順に「三板」に当てて板が当る音を出します。


「八重山民俗園 旧牧志邸」の軒に吊るされていた「虫かご」です。
案内のオジサンの話しでは、子供の頃、ソテツの葉を編んで、虫かごをつくっていたそうです。
写真の虫かごは、三つの部屋に分かれていますが、こわれにくく別々の虫を入れることもできるそうです。


石垣島の最西端「屋良部岬」の南にある大崎にある「電信屋」です。
1897(明治30年)に建設した日本本土~沖縄本島~石垣島~台湾間の海底通信ケーブルの中継地だったそうです。


「御神崎灯台」(うがんざきとうだい)に行ってきました。
絶壁の海岸に立ち、テッポウユリの花が満開でした。
海岸には巨大な岩がそりたって男性的な荒々しい景観です。

今日も石垣島の観光を予定していますが、天気は曇りのようです。
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今日から八重山旅行です。

2007年04月21日 | 沖縄の旅

今日から4泊5日の八重山旅行に出発です。
天気予報は5日間連続雨、なんともひどいことになりそうです。

とりあえず、一昨年の八重山旅行の晴れた日の写真を掲載します。

写真1段目は、岡山空港から離陸し、上空から撮った風景です。

写真2段目は、「川平湾」を望む風景で、見晴らしのよい駐車場から撮ったものです。

写真3段目は、竹富島の「種子取祭」で見た踊り「ジッチュ」です。
踊り手が「シチュー」「シチュー」と、かけ声をかけて踊るのがとても気に入りました。
その日は一日中、竹富島の祭りと風景を満喫しました。

写真4段目は、西表島の「星砂の浜」です。
とりあえず、景色もそっちのけで、星砂探しに熱中しましたが、収穫は数粒でした。
船で河を上り、山奥のカンピレーの滝、マリュードの滝へも行ってきましたが、11月はじめでもセミがしきりに鳴いていたのは驚きでした。

過去、何度も外れている気象庁の天気予報ですが、今日からの雨の予報もこれまでと同様、ぜひ外れて下さるよう天に祈っています。
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今帰仁城「平郎門」と、落城の物語

2007年04月20日 | 沖縄の旅

再び、昨年9月の沖縄旅行の思い出を掲載します。
9/3 お昼過ぎに今帰仁城跡の「平郎門」(へいろうもん)へ行きました。

写真上段は、今帰仁城跡の「平郎門」(正門)の正面から撮ったものです。
「平郎門」の入口の左右にタテ長の窓が各二つ開いており、見張りのためのものと思われます。

今帰仁城の城壁は、自然石をあまり加工しないで積む「野面積み(のづらづみ)」の工法で造られているようです。
向かって左の城壁は、一段と高くなっており、自然石をしっかりと組み合わせている技術には感心させられます。

この石は、沖縄本島北部に広がる「古生期石灰岩」で、1億9000万年~6500万年前(中生代-ジュラ紀~白亜紀)に出来た硬くて浸食にも強い堆積岩だそうです。
沖縄の石のイメージは、沖縄本島中南部に広がる「琉球石灰岩」で、新生代第4期(約40万年前頃?)に珊瑚礁から出来た堆積岩だそうです。

写真2段目は、門を裏から撮ったもので、門の入口や、門入口の裏の両脇にある「狭間」(見張りの場所)の天井には平たい大きな石で支える構造になっています。

写真3段目は、門の内側にある階段を登り、門の入口方向を撮ったものです。
階段の上は物見台で、城内外が広く見渡せます。

沖縄が三地域(北山・中山・南山)に王がいた時代の物語があります。
1416年難攻不落を誇った北山・今帰仁城も、首里城を拠点とする中山軍約3,000人により落城しました。

北山王「攀安知」は粗暴で、周辺の按司(あじ=地方の豪族)から反感を持たれ、戦いの前に周辺の按司が中山側についたことで圧倒的な軍勢となったようです。

戦いが始まり、中山軍は3日間攻め続けても、今帰仁城はなかなか落城しませんでした。
中山王「尚巴志」は、北山王の腹心の部下を裏切らせ、城を出て逆襲するよう北山王にけしかけさせたようです。

武勇を誇る北山王は、先陣を切って城から討って出て、その隙に中山軍は今帰仁城に攻め込み落城しました。
裏切りを知った北山王「攀安知」は、今帰仁城の霊石を叩き斬り、自害してしまったそうです。

栄華を誇った北山はついに滅び、中山王は、今帰仁城に「北山監守」を置き、初代監守に「護佐丸」が任命されたようです。

写真4段目は、物見台から城の内側を見た風景です。
場内に登る長い階段が続いています。
1月中旬には道の両側にたくさんの寒緋桜が咲き始めるそうです。
ぜひその頃に来て見たいと思います。
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「蒜山郷土博物館」「四つ塚古墳群」を見学

2007年04月19日 | 山陽地方の旅
4/14 桜見物の日に見学しました。
国道482号線を通り、蒜山盆地の東にある「蒜山郷土博物館」「四つ塚古墳群」に行きました。
博物館・古墳公園付近の桜はまだツボミで、4/20~末頃には咲くのではないでしょうか。

「蒜山郷土博物館」には他に入場者はなく、貸切状態の見学をさせて頂きました。
親切な受付の女の子に博物館の概要の説明をしてもらい、館内と古墳の見学を始めました。

「四つ塚古墳群」は、紀元約500年頃の古墳時代後期に造られようです。
東西一列に並んだ直径30m前後の大きな4基の円墳(1号墳~4号墳)の他、15の古墳が造られ、蒜山盆地では最大の古墳群だそうです。

現在、1号墳・13号墳の発掘調査が行われ、13号墳のみ埴輪が発見されているそうです。
横穴式石室が普及する頃に埴輪を飾る風習が失われており、「四つ塚古墳群」は、過渡期の古墳群と考えられています。

写真1段目・2段目は、四つ塚13号墳から発掘された、鶏型埴輪、馬型埴輪、家型埴輪だそうです。
あの世に行っても不自由なく生活できるようにと墳墓に並べていたのでしょうか。

写真3段目の向かって左側は、古墳の石室で、向かって右側は、副葬品の鏡板付きクツワだそうです。

写真4段目の向かって左側は、馬具を飾る金具で、その形から「杏葉」(いちょう)とよばれています。
向かって右側は、勾玉と首飾りで、高い山にとざされた蒜山盆地にこの立派な副葬品があったことは実に意外なことでした。

博物館の説明板に蒜山高原の成り立ちが書かれてありました。
太古の昔には蒜山盆地は湖だったそうで、火山活動と、その後の地形変化で盆地となったようです。

■説明板を転記します。
-蒜山高原-
東西20Km、南北10Kmの蒜山高原盆地は、その昔、南の中国脊梁(せきりょう)山脈から日本海へ傾いていたころ、約100万年前頃から火山により誕生した蒜山山群が北側を遮(さえぎ)り、更に大山噴火によって西側が堰き止められて蒜山原湖が誕生、15万年前頃以来、南からの谷頭(こくとう)侵食で旭川の源流となって乾化し、現在の蒜山盆地となった。(以下省略)

博物館の裏口を出た辺りにツクシがたくさん芽を出していました。
妻がツクシを採っていると、受付の女の子が親切にもポリ袋を持ってきてくれました。

博物館の周辺には、白いこぶしの花が満開でした。
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真庭市蒜山「茅部神社」の日本一の大鳥居と桜並木

2007年04月18日 | 山陽地方の旅
4/14 桜見物の4番目です。
県境の宿場町「新庄村」から県道58号線を北上し、国道482号線に入り蒜山へ行きました。

写真4段目は、大鳥居の前にある唐獅子の銅像で、「日本一の大鳥居」にふさわしい風格のある唐獅子でした。
向かって右は、口を開けた「獅子」で、向かって左は、口を閉じて角がある「狛犬」を配置しているのが、日本独特の基本的な形式です。
台座も高く、3m以上の見上げる高さですが、上の鳥居の写真では鳥居の柱の後ろに隠れています。

写真3段目は、日本一の大鳥居で、説明板には1863年(文久3年)建造、地上の高さ10.65m(当初11.4m) 横幅14.2m 柱の直径1.2mと書かれています。
滋賀県の多賀大社に参拝した氏子二人が多賀大社の石鳥居が日本一と聞き、茅部神社の岩倉山の花崗岩で造らせた明神型鳥居だそうです。

鳥居をくぐり直進した先は突き当たりの道になっていますが、大山道(出雲街道の久世から分岐して大山までの道)の宿場町として栄えた郷原で、「郷原漆器」の産地で知られています。
「郷原漆器」は、郷原に繁栄をもたらし、日本一の大鳥居を建造につながったものと考えられます。

享保5年(1720)開市された「伯耆大山牛馬市」は「備後久井牛馬市」「杵築市若宮八幡社境内の日本三大牛馬市」とともに「日本三大牛馬市」と言われ、大山道の宿場町郷原の往来も盛んだったと思われます。

写真2段目は、「日本一の大鳥居」から「茅部神社」までの参道 約1km続く桜並木です。
桜は、樹齢約70年のソメイヨシノで、比較的低い木が両側に並んでおり、下を歩くと花のトンネルようです。(車でも走り抜けます)

写真1段目は、「茅部神社」の正面で、主祭神は、天照大神、御年神とされています。
創建は、不詳ですが、神社の後ろに「天岩戸」と呼ばれる大岩などのある「岩倉山」があり、古代信仰の歴史を持つ神社と考えられます。

神社の横には三階建ての「展望塔」があり、蒜山三座が望まれ、サヌカイト(香川県産の石器の材料の一種)の石琴があり、いやしの音が聞けます。
この付近は、古墳が多く、東の元「八束村」にある「四つ塚古墳」と並び長い歴史のある地区です。

当日は、「天の岩戸 桜祭り」が開催されていましたが、混雑を避けて3時過ぎて行き、ゆっくりと見物させて頂きました。

次回は、「蒜山郷土博物館」と「四つ塚古墳」を掲載します。
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岡山県新庄村の「がいせん桜並木」

2007年04月17日 | 山陽地方の旅
 
4/14 桜見物の3番目です。
岩井畝から国道181号線を通り、鳥取県との県境の宿場町「新庄村」へ行きました。
道の駅が満車で、付近の国道沿いまでも車が駐車して「がいせん桜並木」見物の人出はかなりなものでした。

写真上段は、新庄村の出雲街道の「がいせん桜並木」の風景です。
翌日の4/15に「凱旋桜まつり」が予定されていましたが、前日でこの賑わいです。
古木の桜並木、古い町並み、人の賑わいで、昔にかえったような楽しい散策でした。

写真2段目は、新庄宿の本陣だった家だそうです。
はす向かいに脇本陣もあり、古い建物と、樹齢約100年の古木が歴史を感じさせてくれます。

写真3段目は、江戸時代に造られた石積みの水路で、生活用水で利用されているようです。
そのせせらぎの清涼感のある音で「日本の音風景百選」の一つになっているそうですが、溝が塞がれているところが多く、残念に思いました。

写真4段目も、通りの風景で、露天がたくさん出店しています。
名物ヒメノモチ、地酒、たい焼き等の他、熊本名物「いきなり団子」の店までありました。

江戸時代、物資の運搬は安来(島根県)と勝山(新庄村の南東)を陸送、勝山から岡山は旭川を高瀬舟で運んでいたようです。
ここから鳥取県への道は、四十曲峠トンネルがありますが、昔は名前の通り険しい峠道を往来していたようです。
四十曲峠を越えると日野町根雨(ねう)で、ここも本陣などがある宿場町で、古い町並みが残っています。

■通りのあちこちに案内板があり、転記します。
-がいせん桜並木-
明治38年(1905年)12月の村会(村議会)で、戦勝の永き記憶、地方風致を保ち、衛生上も利するとして、桜の植樹が議決された。
御幸橋より町尻まで、200間(360m)の長さ、3間(5.4m)間隔に、137本の桜が植えられ、がいせん桜とよんで、みんなで守ってきているのです。
がいせん桜並木は、春らんまんと花が咲き、夏の緑に秋の紅葉、冬は雪の花となり、四季折々に風情を変えて、旧出雲街道新庄宿の町並みを、美しく引き立てているのです。

-出雲街道 新庄宿-
国境い山地の宿場
ここは出雲街道一の難所である四十曲峠をひかえた宿場町でした。
江戸初期より家が建ち始め、元禄二年(1689年)には47軒、江戸末期には100軒ばかりの町並みとなり、その頃の宿場町はこのようでした。(以下省略)

-出雲街道-
陰陽を結ぶ道
古代はヤマトとイズモを結ぶ道でした。奈良時代は運脚の道であり、出雲国造の神賀詞奏上の道でした。慶長九年(1604年)には、出雲街道に一里塚がつくられ、慶安元年(1646年)には、播州境いの万能乢まで整備されて、このを道通る人々は増えていったのです。松江藩主の参勤交代や、公儀諸役人や公家息女の輿入れの道でした。また、東参り(伊勢参宮)西参り(出雲大社)への旅人も通り、江戸と松江を結ぶ「七里飛脚」の通る回数も多かったのです。(以下省略)

次回は、蒜山を望む「茅部神社」と、「日本一の石鳥居」の参道約1kmに続く樹齢約70年の桜並木を掲載します。
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真庭市の「岩井畝の大桜」と「大椿」

2007年04月16日 | 山陽地方の旅
 
4/14 桜見物の2番目です。
「醍醐桜」の駐車場係りの地元のおじさんに帰り道を聞いたところ「岩井畝の大桜」が近くにあるとすすめて頂き、さっそく見に行きました。

写真上段は、駐車場側から歩いて行き、初めて見えた「岩井畝の大桜」です。
ちょうど満開で、花の見ごたえは「醍醐桜」以上でした。
風格のある桜の大木の下にお堂があり、のどかな田舎のたたずまいの中に、歴史を感じさせられる風景です。

■桜の正面にある案内板の転記です。
-岩井畝の大桜-
一、目通り周囲  5.5m
一、高さ    14.0m
一、枝張 東西  20.5m
     南北  23.0m
一、推定樹齢  800年
樹種はアズマヒガンで平家の落ち武者が京都より苗を携え植えたものと伝う。本種のものでは県下二番目の大樹である。
-勝山市教育委員会-

■お堂の中にあった手書きの案内板の転記です。
-岩井畝ノ大桜-
この桜は、平治の乱(1159年12月)による平家の落ち武者が京都より三本の桜の苗木を持ち帰り、一本をここに植え、辻堂と氏神の岩正明神の境内に植えられ。他の二本はすでに枯れ、その跡地を偲ぶのみである。
800年をこえて、ひっそりと咲き続けてきたこの大桜は人々の働く姿、喜び、悲しみ、・・・子供達が元気に遊ぶ声、姿を幾度となく見つめてきたことであろう。
長い年月を積み重ねてきたものだけが持つこの「おおらかさ」は私達に今、何を語りかけているのでしょうか。
私達は、この大桜の生命力の強さを温かく静かに見守っていきたいものです。
※この大桜も長い年月の向うに傷みが激しく、勝山町に於いて平成七年に大治療と公園整備が行われ十六年に補修の手が加えられました。
-大桜保存会-

写真2段目は、後ろから見た「岩井畝の大桜」です。
木の幹に補修痕が見えますが、根元のコブにコケが生えて樹齢の長さを感じます。
「醍醐桜」と同じ品種(アズマヒガン)ですが、花の時期は日当たりなどのためか、だいぶ違っています。

写真3段目は、向かいの山の中腹から見た「岩井畝の大桜」と、その隣にツバキの大木が見えます。
赤い花をたくさん咲かせているツバキの大木は、幹の太さから樹齢百年ちかくになるのかも知れません。

写真4段目は、ツバキの木の下に赤い花がたくさん落ちているところです。
ツバキは満開を少し過ぎた頃のようで、花はまるごと「ボトッ」と落ちていました。
桜の花の散り方がいさぎよく、武士道に通じると言われていますが、ツバキの散り方はもっとスッパリとしていますね。

こちらは駐車場が無料で、花も満開だったのでとても得をした気持ちになりました。
明日は、鳥取の県境の新庄村にある満開の「がいせん桜並木」を掲載します。
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