昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

水彩スケッチ「塔が見える街」

2011年03月29日 | 妻の油絵

【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】



妻の水彩スケッチ「塔が見える街」です。

イタリア中部の町、サン・ジミニャーノの街並みの風景です。

サン・ジミニャーノの南の城門「サン・ジョヴァンニ門」を入り、北に進むと中世の高い建物に挟まれた暗い通りが続いていました。

正面にそびえる塔は、町で二番目に高い「ロニョーザの塔」です。

高い塔を間近で見ようと、歩いて行きました。

かつてサフランで財をなした町の有力者達は、競って高い塔を建てたそうです。

今でも数多く残る塔は、旅人を中世へタイムスリップさせてくれます。



イタリア旅行No.30 ポンペイ遺跡の見学(4)居酒屋・パン屋

2011年03月26日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】

11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。

ポンペイ遺跡の「フォロ(フォルム)浴場」を出て、向かいの「悲劇詩人の家」の玄関の見学です。



「悲劇詩人の家」(下の地図-16)の玄関床にあった番犬のモザイクです。

白い地に黒の線で描かれたもので、陽のあたる玄関の鉄柵の外から撮った写真です。

日陰でよく見えませんが、首輪だけは赤いタイルで描かれ、絵のアクセントの他、注意を引く効果をねらったものと思われます。

絵の手前の文字は、「CAVE CANEM(カーヴェ・カーネム)」とあり、「犬に注意」の意味だそうです。

このモザイクの実物は、「ナポリ国立博物館」にあり、これはレプリカです。



「テルメ通り(Via delle Terme)」に面した「悲劇詩人の家」の風景です。

通りを挟んで向かいに「フォロ(フォルム)浴場」(下の地図-12)があり、向かって右手には次にご紹介する居酒屋の白いカウンターが見えています。

資料によるとこの「悲劇詩人の家」は、「規模的にはさほど広くはない、ポンペイ史晩年期に富を得た中間社会階級の典型的な家屋の-例である。」とあります。

又、家の壁に悲劇詩人など演劇を主題としたモザイク画が描かれていることから「悲劇詩人の家」の名称となったようです。

ポンペイの中央付近には最大5000人収容の大劇場があり、様々な(悲劇・無言劇・喜劇・笑劇・茶番劇)演劇が上演されていたと考えられています。

特に悲劇は、紀元前6世紀末に古代ギリシアで始まった最も伝統のある演劇だったようです。



見学で歩いたポンペイ遺跡西端の地図です。

ポンペイ遺跡の見学は、マリーナ門(地図-A)からヘルクラネウム門(地図-B)を通り、北西の「秘儀荘」まで歩いて回りました。

今回は、「悲劇詩人の家」から赤い丸印や、赤い四角印辺りまでの様子です。



「フォロ(フォルム)浴場」の向かいの風景です。

白い大理石製のカウンターがある居酒屋が2軒並んでいました。

午後の入浴で賑わう「フォロ(フォルム)浴場」の向かいは、居酒屋(テルモビリウム)にとっては最高の立地だったと思われます。



居酒屋のカウンターの後方から見た店内の様子です。

U字型のカウンターの上に7つの穴が開いています。

この穴にはテラコッタ(素焼き)のドリウム(壷・容器)が埋め込まれ、木の実、果実、野菜などを入れて売られていたようで、丸い石のフタなども使われていたとされています。

又、カウンターの付近に湯沸かし器を置き、蜂蜜などを入れたワインのお湯割りが販売されていたそうです。

ポンペイの主要産品は、ベスヴィオ山麓で採れたブドウで造るワインだったとされ、ご当地自慢の味だったと思われます。



カウンターと並行して通路の反対側の店内にもカウンターがあり、6つの穴が開いています。

表のカウンターにはモザイク状に大理石を張ってありましたが、上面だけのモザイクです。

通りでよく見かけた他の居酒屋は、L字型のカウンターが大半で、ここはかなりの繁盛店だったことがうかがわれます。

かつての賑わいとは裏腹に野良犬がのんびりと昼寝をしていました。

捨て犬が多く、エサを与えられて保護されているそうで、ガイドさんは顔見知りになっていたようです。



通りで見かけた居酒屋と思われる店です。

上の写真の店のカウンターは、複数の色の大理石が側面にまで張られています。

三叉路に面した比較的立地の良い店だったようです。

下の店は、目立たない店で、カウンター上面だけに一色の大理石が張られ、店の奥行きも短いようです。

居酒屋でも良く見ると色々違いがあったようです。



上段の写真で紹介した三叉路の居酒屋の前に水道がありました。

サルノ川の水を引き、貯水タンクに引いた水を鉛製のパイプで町に供給していたようです。

資料によれば水道の無い大邸宅も多く、水道の整備後でも雨の貯水に頼った状況が続いていたようです。

公共の水道は、地図-15・16の付近の赤い四角印(両方三叉路)の場所に設置されているのを見かけましたが、大変貴重なものだったと思われます。



水道の拡大写真を見ると、石の穴に蛇口が取り付けられています。

石材をつないだ金具も2000年前のものだったのでしょうか。

左下は蛇口の拡大写真ですが、近代にもあったような形で、現代ならゴムで作るパッキンの材料なども自然の材料で作っていたものと思われます。

下水道が無かったポンペイでは下水は、車道を流れていたようで、交差点近くの道路に水道があるのは、排水や、道路の清掃目的でもあったのかも知れません。



二番目の三叉路にあった水道の後ろ側です。

地面から鉛製の水道管が出て、石の裏側の蛇口につながっていました。

飾り気のない水道施設ですが、石材は全て金具で接続され実に堅牢に作られています。

すぐそばを馬車が走ることもあり、しっかりとした構造にしていたようです。



水道のすぐ近くにあったパン屋の石臼(カルティッルク)です。

お店には三基の石臼や、石窯があり、小麦の製粉から石窯で焼き上げるまでの一貫生産だったようです。

写真左下に石臼の断面図の概略図を自作して載せました。

臼中央の四角い穴に臼を回す木の棒を差し込み、その横の小さな穴にピンを差して固定させる構造です。

小麦は、上のホッパーに入れ、下から粉になって出るもので、木の棒水平に回す作業は、ロバや、奴隷だったとされています。

円柱形の石を二段に重ねて回す日本の石臼と違い、石の接触面が広く、処理能力が大きい分、多くの労力がかっていたと思われます。

ポンペイにはこのようなのパン屋が約20軒あったとされ、通りをあるくと石窯や、石臼をよく見かけます。

本に石臼が1時間に約5Kgの小麦を挽くと書かれており、石臼の稼働時間を計算してみました。
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1.食パン1斤に小麦250gを使用、1人・1日0.5斤食べるとした小麦の必要量は、125g/人・日です。
人口約15,000人のポンペイでは1,875Kg/日と推定。
2.ポンペイのパン屋20軒に平均3基の石臼があるとしたら合計60基、石臼の処理能力を平均5kg/時と仮定したら、町の合計処理能力は、300Kg/時と推定。
3.1,875Kg/日(町の小麦の必要量) ÷ 300Kg/時(町の処理能力) = 6.25時間/日(石臼の推定平均稼働時間)
●この仮定では、準備・休憩・後片付けを考慮すると、ほぼ1日中動いていたことになりますね。
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パンを焼いていた石窯(オーブン)がありました。

レンガで造られた窯の入口を見ると、その奥にも入口があり、奥の燃焼室は二重の壁に囲まれた構造になっているものと思われます。

左上の窯(オーブン)は、ローマのピザ屋さんで撮った現代の窯の写真ですが、ポンペイの窯とほぼ同様、二重の構造になっているようです。(パンや、ピザは、燃焼室に入れて焼き上げられます)

現代の窯(オーブン)の基本的な構造が2000年前に出来ていたことには驚きです。

ポンペイ遺跡の見学は、現代と古代で、何が変わり、何が変わらなかったのか考えさせられるものでした。


参考文献
「ポンペイの歴史と社会」ロジャー リング著、堀 賀貴訳
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著
「世界の生活史ポンペイの人々」ピーターコノリー著


水彩スケッチ「サンタ・クローチェ教会」

2011年03月25日 | 妻の油絵
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】




妻の水彩スケッチ「サンタ・クローチェ教会」(フィレンツェ)です。

アルノ川から路地を歩いて行くと、突然右手に視界が開け、大きな「サンタ・クローチェ教会」が見えてきました。

三色の大理石に彩られたファサードや、高い鐘楼がそびえ、その美しさにしばらく立ち止まっていました。

フィレンツェの街を一望するミケランジェロ広場から見下ろした「サンタ・クローチェ教会」は、とりわけ長く横たわる建物と、鋭く天を突く鐘楼で、ひと際目立った存在です。

ふと見つけたゼンマイのような街灯と、広場を歩きまわるハトたちが可愛らしく、教会の風景に描き込んだそうです。



イタリア旅行No.29 ポンペイ遺跡の見学 (3)フォロ浴場

2011年03月23日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】

11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。

ポンペイ遺跡の「フォロ(公共広場)」の周辺を見学し、次は広場の北側にある「フォロ(フォルム)浴場(Terme del Foro)」です。



「フォロ浴場(Terme del Foro)」の中の男性用施設、脱衣室「アポディテリウム」(下の図-A)です。

保温性を考慮したためか、ほとんど窓明りのない、うす暗い部屋でした。

右手の壁の顔の高さに、直径約10cmの穴が見られ、部屋の奥まで続いていました。

この穴は、衣服を掛けるためのクギがあった跡だそうです。

「フォロ(フォルム)浴場」は、ポンペイに三ヶ所あった公衆浴場の一つで、ローマの植民都市となった紀元前80年に造られた最も古い施設です。



「フォロ(フォルム)浴場(Terme del Foro)」の男性用施設の平面概略図を作ってみました。

A:脱衣室(アポディテリウム)
B:冷浴室(フリギダリウム)
C:微温浴室(テピダリウム)
D:高温浴室(カルダリウム)、上に温水浴槽、下に丸い噴水

この男性用浴場の西隣には、女性用浴場があり、南には入浴前に汗を流す運動場(パラエストラ)もあったようです。



脱衣室の奥にある冷浴室「フリギダリウム」(図-B)で、二段の大理石製の冷浴槽が設置されていました。

入浴の順は、脱衣室→微温浴室→高温浴室→冷浴室と進むものと思われますが、隣接の運動場で汗をかいた後や、夏場には冷浴室が先になったことも考えられます。

天井は、クーポラ(円蓋)のような半球形になっており、天窓から差し込む光で明るい部屋になっていました。

冷浴室の壁に半円形に彫り込まれたの「壁龕(ニッチ)」が周囲四ヶ所にあり、実用的な目的は分かりませんが、ゆとりの空間でもあったようです。

資料によると、「フォロ浴場」が造られた当初、ここは「ラコニクム(蒸し風呂)」だったとされ、その後の水道整備により冷浴室に変更されたのかも知れません。



中央の部屋、微温浴室「テピダリウム」(図-C)で、部屋の空気が熱せられ、浴槽はありません。

資料では「巨大な火鉢で浴室全体を暖めた」とあり、蒸し風呂ではなく乾式のサウナに似たものだったと思われます。

この部屋の室温は、適度に汗を流したり、次の高温浴室(図-D)との急激な温度変化を和らげる設定だったようです。

天井は、脱衣室(図-A)と同じアーチ型ですが、ここには美しい模様が描かれた漆喰で飾られています。

これらアーチ型天井は、ローマ時代に始まるコンクリート製だそうで、木製天井と比較して湿気にも強く、柱を省いた広い空間を造る建築技術だそうです。



微温浴室(図-C)の片隅に青銅製の大きな火鉢が置かれていました。

中にある白い灰の上に木炭を燃やして部屋を暖めたようです。

ここから東南方向にある「スタビア浴場」では床下暖房(ヒュポカウストゥム)が整備され、火鉢は使われなくなったようです。



アーチ型天井の下に男の立像が上の屋根を支えるように並んでいます。

立像の間の空間(これも壁龕)は、脱衣置き場で、冷浴室を使用しない場合にはこの部屋も脱衣室となっていたようです。

棚のように突き出した脱衣置き場の下の空間には長イスが設置され、座って休む場所だったようです。

脱衣室では盗難が多く、金持ちは見張りの奴隷を伴っていたされ、この部屋で汗を流したり、次の高温室の順番を待つ間、見張ることもできたと思われます。



最期の高温浴室「カルダリウム」(図-D)で、正面には温水浴槽があります。

入口のある右手の壁が破損し、空洞のある壁の構造が見えていました。

タンクの水を温めるボイラーの排気熱は、部屋の床、壁、天井に張巡らせた排気口を通り、浴室の暖房を行っていたようです。



高温浴室(図-D)は、タイルの床でした。

脱衣室、微温浴室もタイルの床で、白の地に黒い線が描かれたものでした。

見学用の通路には床を保護するじゅうたんが敷かれて、一部しか見られませんでした。

又、資料には床暖房の浴室で足をやけどする危険もあり、木のサンダルを履いていたようです。



高温浴室(図-D上)にあった大理石製の温水浴槽です。

ポンペイの市民は、午前中に仕事を終え、昼寝から夕食までの間、公衆浴場でのんびりとした時を過ごしていたようです。

公衆浴場は、この「フォロ(フォルム)浴場」の他、「スタビア浴場」があり、噴火の時には第三の「中央浴場」が建設中だったとされています。

市内二ヶ所の施設を15,000人の市民(奴隷を含む)が利用したら非常に混雑したものと思われます。

意外に小さかったこの温水浴槽を見ると、高い室温で汗をかくサウナ風呂的な利用が中心だったように見受けられます。



高温浴室(図-D下)の端に半円形に突き出したスペース「アプス(後陣)」に水盤が置かれたコーナーがありました。

ここは天窓が多く、一番明るい場所でした。


水盤が置かれたコーナーの天井にある窓です。

中央の丸い窓にはタテに一本の格子、向かって右の窓には十文字の格子が見えます。

もしかしてこれが「世界最古のガラス窓」だったのでしょうか。

高い室温を維持する高温浴室の天窓にはガラス窓が最も有効と考えられます。



中央に噴水が出ていたとされる大理石製の水盤です。

ここで水を飲んだり、熱くなった顔や、体を冷やしたものと思われます。

水盤の縁にアルファベットの文字が刻まれています。

ガイドさんの説明では選挙での投票を期待してこれを寄付した有力者の名前が刻まれているようです。

居心地の良い場所に置かれた半永久的な設備だけに、大きなイメージアップを期待したのでしょうね。

2000年前のポンペイ、安い入浴料で、誰にでも利用できる公衆浴場には多くの人々が集まり、様々な情報交流があったものと思われます。


参考文献
「ポンペイの歴史と社会」ロジャー リング著、堀 賀貴訳
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著
「世界の生活史ポンペイの人々」ピーターコノリー著

水彩スケッチ「天空の町 チヴィタ全景」

2011年03月22日 | 妻の油絵
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】





妻の水彩スケッチ「天空の町 チヴィタ全景」です。

驚くほど切り立った断崖の上に中世の街がそびえています。

次第に崩壊していく地形に「滅びゆく町」とも名付けられた町の中には、心和む素朴な風景があふれていました。

尾根沿いにあった道は崩れ去り、今では高い断崖を登って行く一本の橋でつながれています。

はるか向こうの山並みに漂う朝霧が、この不思議な風景を一層引き立てていたようです。




イタリア中部の町「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」は以下のページでご紹介しています。
イタリア旅行No.22 天空の町チヴィタ・ディ・バニョレージョ(1)
イタリア旅行No.23 天空の町チヴィタの素敵な風景(2)



イタリア旅行No.28 ポンペイ遺跡の見学 (2)

2011年03月20日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】

11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。



ポンペイ遺跡の地図です。

見学コースがあった遺跡の西エリアの地図と、右上隅は遺跡の全体図です。

前回は、左下の料金所からA「マリーナ門」を入り、「アポロ神殿」(地図2)、「フォロ(公共広場)」(地図4)までを書きました。

今回は、地図9~6の施設の見学です。



「フォロ(公共広場)」(地図4)の南東に面して「エウマキア館」(地図9)と名付けられた建物の入口がありました。

実は、紀元79年のヴェスヴィオ山の噴火より前の紀元62年、ポンペイは大地震に見舞われていました。

この建物も大地震で大きな被害を受け、ヴェスヴィオ山の噴火まで修理は、ほとんどされていなかったようです。

入口の両脇の壁にある長方形の窪みは、壁龕[へきがん]だったとされ、中世以降の教会で見る壁龕が、1世紀のポンペイにあったとは驚きです。

資料によると、この両脇四ヶ所ある壁龕にはカエサルに始まりローマ皇帝を多く輩出したユリウス家にまつわる像が安置されていたとあります。



入口に向かって左の壁龕[へきがん]の下に碑文がありました。(読めないのが残念です)

資料によれば「この建物は、アウグストゥスの融和と皇帝への忠誠を誓い、巫女エウマキーアによって献納された」とあります。

又、別の碑文には建物奥の中廊にあった「エウマキア」の石像が毛織物関係の職人たちにより安置されたとあるそうです。

これらにより、この建物はフッロネス(羊毛職人)組合に関係する施設と推測されているようです。



「エウマキア館」(地図9)入口の縁にある大理石に刻まれた浮彫りです。

ガイドさんが指さして説明している場面です。

残念ながらガイドさんの説明は忘れてしまいましたが、透明板で保護された白い大理石の浮彫りは、とても美しいものでした。



入口から見た「エウマキア館」の敷地の中の風景です。

突当りの壁に祭壇のようなものが見えますが、かつての建物内の様子は想像がつきません。

両脇の壁龕[へきがん]や、大理石の浮彫りから破壊される前のファサードを想像すると、この建物の用途は、神聖な宗教関係のものだったとも考えられます。

ユリウス家(カエサル~アウグストゥス帝~)との関係があるとされる「エウマキア館」は、なぜか気になる建物でした。



「ヴェスパシアヌスの守護神を祀る神殿」(地図8)です。

「エウマキア館」(地図9)の北隣にあり、白い祭壇の後方にレンガで造られたチェッラ(聖像安置所)が見えます。

ウェスパシアヌス帝(在位 69年~79年)は、それまで皇帝を輩出してきたユリウス家が断絶し、その後の混乱を収拾した皇帝で、ヴェスヴィオ山が噴火した西暦79年8月の2ヶ月前に亡くなっています。

しかし、この建物もヴェヌパシアヌス帝に捧げられた説の他、前時代のアウグストゥス帝(ユリウス家)の守護神神殿説もあるようです。



「ヴェスパシアヌスの守護神を祀る神殿」(地図8)の奥にある祭壇です。

生け贄の儀式のレリーフ(浮き彫り)が白く輝いていました。

現役の皇帝をたたえる儀式に雄牛を生け贄として奉げている場面とされています。

ハンマーは牛を殺すものでしょうか、中央付近にラッパを吹く人、左に皿や、壺を持つ人も見えます。

レリーフの登場人物、一人一人に儀式の役割があるものと思われます。

「~守護神を祀る神殿」とは、皇帝を祀るのではなく、皇帝の「守護神(祖霊神?)」を祀る神殿と解釈され、日本の公的な古代祭祀とも似ているようです。



「パブリック・ラレス(ララリウム)神殿」(地図7)と考えられている建物です。

ラレスとは、古代ローマ時代の地域や、家庭などで祀られるの守護神的な神々だそうで、ここではパブリックとあり、公的に祀られた地域の守護神の意味でしょうか。

後方の壁の両脇に壁龕のような物が見え、中央には祭壇らしき跡が見えますが、全体的に印象の薄い建物でした。

仏教が伝来する前の様々な神を崇める古代日本と同様、キリスト教が広がる前の古代信仰が息づく社会だったことが感じられます。



食料品の取引がされていたとされる紀元前1世紀の建物「マケルム」(地図6)です。

12本の石柱が円形に並び、一見「ストーンサークル」とも思える施設がありました。

これはクーポラ(円蓋)のある小さな建物跡で、下水道設備のある水槽があったようです。

そこからは、魚の骨や、ウロコが多く発掘され、魚の洗浄などに利用されていたと考えられているようです。

奥にも小さな神殿があり、ここもユリウス家の皇帝のためのものだったようです。

ユリウス家の皇帝は、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ(治世:紀元前27年~68年)と5代続き、79年に滅んだポンペイの施設に色濃く影響をのこしていました。



「マケルム」(地図6)の北西角に屋根のある場所があり、ガイドさんが壁画を指さして説明をはじめています。

下には遺骸の石膏像二体がガラスケースに展示されています。

出土した果実、木の実、穀物や、壁画に描かれた魚、肉で当時の取引の内容がうかがえるそうです。

「マケルム」の敷地には東側の神殿を除き、西南北の三方には食料品を扱う店舗が並んでいたとされています。



ガイドさんが屋根の下のガラスケースの遺骸の石膏像の説明をしています。

積もった火山灰の中に残った遺骸の空洞に石膏を流し込んで固めた像で、苦しんだ様子が伝わってくるようです。

有名な「ポンペイの赤」を多用した背後の壁画には魚類、鳥、ワインの壺などが描かれているとの話がありましたが、よく分かりませんでした。

海と、川のそばにあったポンペイでは多様な魚が食べられていたようで、カキの養殖まであったようです。

豊富な農産物と合わせて、現代の日本の食生活のレベルと大差が無かったのかも知れません。



「マケルム」(地図6)の北隣の道端におもしろい看板がありました。

二人で棒に吊るされた荷物を運ぶ姿の絵は、「運び屋」さんの看板だそうです。

大量輸送する馬車では運べない中量の荷物を担いで運ぶサービスだったようです。

食料品の取引で、販売する荷物の持ち込みや、購入した荷物の持ち帰りなどを担ったものと思われます。

終戦後の日本で、荷車で運送会社を創業した会社の話を思い出しました。

参考文献
「ポンペイの歴史と社会」ロジャー リング著、堀 賀貴訳、発行所:同成社
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著

イタリア旅行No.27 ポンペイ遺跡の見学 (1)

2011年03月16日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】

11/14 イタリア旅行6日目早朝、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の記録です。

イタリア旅行では、ポンペイ遺跡が最も見たかった所で、紀元79年に滅んだ街に期待がふくらみます。



ローマからバスに乗り、ポンペイへ向かう途中、車窓から見えた古代ローマ時代の「アッピア街道」です。

古代からの街道には笠松の並木が延々と続いていました。

馬車のワダチが残る石畳の「アッピア街道」は、ローマから西海岸を通り、ナポリや、ヴェスヴィオ山の北を迂回してイタリア半島東海岸のブーツのかかと近くまで続いていました。

ポンペイは、この「アッピア街道」と海路をつなぐ商業都市として栄えたと言われています。



イタリア全土と、ポンペイ周辺の地図す。

現在、ポンペイの場所は、海から約2Km離れ、遺跡の南をサルノ川が流れていますが、ほぼ隣接していた海岸線や、サルノ川がヴェスヴィオ山の噴火によって遠ざかったようです。

ポンペイ遺跡は、16世紀にサルノ川から水路を造成する工事で、壁画のある建物が掘り出され発見となったそうです。

土地の人々は、その場所を「チヴィタ(街)」と呼んでいたようで、約1,500年前に消えた街の伝承は、何気なく地名に残っていました。



料金所付近から見たポンペイの西の城門「マリーナ門」です。

「マリーナ門」の右手の大きなアーチは、馬車道、左は歩道で利用されていたようです。

意外に急な石畳の坂道が門の前後に続いていました。

かつてポンペイの町は、周囲約3Kmの城壁で囲まれ、15,000人が住んでいたようです。

サルノ川河口の港から地元の魚、塩の他、各地から様々な交易品がこの「マリーナ門」から運び込まれ、賑わっていたものと思われます。



「マリーナ門」への坂道から左手に見えた風景です。

斜面一帯には倉庫の建物跡が並び、町の物流拠点だったようです。

又、ポンペイでは魚を塩蔵・発酵して作られた古代ローマ時代のソース(調味料)「ガルム」の職人が多くいたとされています。

「ガルム」製造では魚の発酵臭が出ることから町の中ではなく、この辺りで作られていたのかも知れません。

秋田県の「しょっつる」など日本でも魚醤(魚の発酵調味料)が作られていますが、古代のヨーロッパ各地では「ガルム」作りがさかんだったようです。

醤油は、大豆のたんぱく質を発酵させて旨味のアミノ酸を作りますが、「ガルム」や「魚醤」は、魚のたんぱく質を発酵させて旨味のアミノ酸を作るものです。



ポンペイ遺跡の地図です。

遺跡の西エリアの地図と、右上隅は全体図です。

遺跡の見学は、左下の料金所からA「マリーナ門」を入り、左上のB「エルコラーノ門」を出て「秘儀荘」までのコースでした。

見学した施設の説明は、この地図の番号を記します。



「マリーナ門」を入り、坂道を登った辺りの風景です。

石畳の道は、中央の馬車道と、両脇の歩道に段差が付けられています。

何と、馬車道置かれた三つの石は、横断歩道でした。

馬車の車輪は、中央の石の両側を通っていました。

突き当りは「フォロ(公共広場)」(地図4)で、左の石塀の切れた所を入ると「アポロ神殿」(地図2)です。



「アポロ神殿」(地図2)です。

後方に標高1,281mのヴェスヴィオ山がそびえています。

古代の日本でも姿の良い山を神山として崇める神社も多く見られ、この風景に古代信仰の共通性を感じます。

この「アポロ神殿」は、紀元前6世紀の建立されたポンペイ遺跡最古の遺構と考えられているようです。

神殿に向かって左前方に建つ白い円柱は、イオニア式の大理石製で、日時計の役割を持っていたようです。



神殿の広場に入り、右手に立つブロンズ像「矢を射るアポロ像」です。

突き出した左手に弓、右手には矢を持っていたようです。

「アポロ(ギリシア神話:アポロン)」は、ローマ神話に登場し、全能の神「ジュピター(ギリシア神話:ゼウス)」の子供です。

しかし、主祭神の「アポロ神」の像が、なぜ入口近くに置かれているのでしょうか。

「矢を射るアポロ像」の背後の壁の向こうは「フォロ(公共広場)」(地図4)です。



神殿前の広場に入り、左手に立つ「ディアナ像」のブロンズ像です。

左手が痛々しく壊れていました。

「ディアナ(ギリシア神話:アルテミス)」は、アポロとは双子の兄妹になります。

神殿の広場入口の左右に像が置かれ、日本の神社の狛犬を思い浮かべました。



幅38m、長さ142mと、南北に長い「フォロ(公共広場)」(地図4)です。

北の端には「ジュピター(ユーピテル)神殿」(地図5)があり、背後に雄大な姿の「ヴェスヴィオ山」が見えています。

写真左端に二段の柱の列が見えます。

再現図では二階建の開廊描かれ、その前に見えるレンガ色の台座には馬に乗る人々の像が並んでいたようです。



広場の北、「ジュピター(ユーピテル)神殿」の風景です。

「ジュピター(ユーピテル)神殿」の両脇のアーチの門は、「凱旋門」だそうです。

兵士たちが人々の祝福を受けながら、神殿へ戦勝報告に向かうイメージを持ちますが、凱旋門が神殿両脇にあるのは極めて不自然に思われます。

「ヴェスヴィオ山」には左右二つのピークが見えます。

ポンペイを滅ぼした大爆発前の「ヴェスヴィオ山」の標高は、約3,000mだったそうです。

遺跡の中央付近にある「百年祭の家」で見つかった壁画「バッコス神とヴェスヴィオ山」には正三角形に近い角度でそびえる山が描かれています。

あの二つのピークの間に現在の2倍を超える高さの山がそびえていたことを想像すると、やはり古代には神の山として崇められたことが分かる気がします。



広場から東に伸びる「アボンダンツァ通り」です。(地図9、10の間)

広場入口まで来た馬車は、ここで終点、車止めが置かれています。

さながら「フォロ(公共広場)」は、歩行者天国だったようです。

車道と、歩道に分けられて、横断歩道まであった古代ローマ時代の文化には驚きます。

しかし、馬車1台が通る幅の道、すれ違う時にはどうしていたのでしょうか。

ポンペイ遺跡の見学は、不思議なことばかりです。


参考文献
「古代ポンペイの日常生活」本村 凌二著、講談社出版
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著、ARCHEOLIBRI S.R.L出版



水彩スケッチ「リアルト橋の風景」

2011年03月14日 | 妻の油絵
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】
昨日、広島県福山駅前でも募金が始まっていました。
被災地では非常に困難な状況とおもわれますが、復興に向けた最大限の支援に国民が立ち上がる時ですね。



妻の水彩スケッチ「リアルト橋の風景」です。

ヴェネツィアのゴンドラに揺られ、大運河を進むと正面に「リアルト橋」が見えてきます。

大運河の両岸には数百年前からの様々な建物が並び、水辺の風景を彩っていました。

ゴンドラを漕ぐゴンドリエーレの縞のシャツは、なぜか大運河の風景になじんでいるようです。

イタリア旅行No.26 夜の「トレビの泉」「スペイン広場」

2011年03月12日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】

11/13 イタリア旅行5日目「コロッセオ」の見物を終え、「トレビの泉」へ行きました。



通りを進むと広場があり、一段低くなった場所に「トレビの泉」が見えてきました。

土曜日の夜、あたりは観光客であふれています。

すぐ前に「自由の女神」の仮装した人がいますが、チップ目当ての新商売でしょうか。



泉の背後の壁面中央に大きな海神ネプトゥヌス像(英ネプチューン)と、向かって左に豊饒の女神ケレース像、右に健康の女神サルース像が並んでいます。

その下には海馬(ヒッポカンポス)と、それを操るトリトンが二対配置され、向かって左の暴れる海馬は荒れた海を表現しているようです。

ライトアップされた「トレビの泉」の風景は、とても神秘的です。



泉を見下ろす広場から見た夜の「トレビの泉」の風景です。

泉に背を向けて肩越しにコインを投げる人、記念写真を撮る人、泉の周囲は大勢の人があふれていました。

「トレビの泉」は、無名の建築家ニコラ・サルヴイにより、1762年に完成しました。

「トレビの泉」は、紀元前19年の水道施設を起源とし、異民族により破壊された施設の再建は1453年に始まったものの棚上げとなっていたようです。

ローマ教皇庁の財政を立て直した教皇クレメンス12世(在位1730~1740年)は、泉の再建に着手、コンクーを開催して若い建築家ニコラ・サルヴイを選出しました。

クレメンス12世は、フィレンツェのコルシーニ家の出身で、アルノ川河畔に建つ「コルシーニ宮殿」を思い出しました。

又、施設建設のコンクールは、「サン・ジョヴアン二洗礼堂」の天国の門の制作で対決したギベルティと、ブルネッレスキの物語を思い出します。



「トレビの泉」から「スペイン広場」にやって来ました。

ここも大勢の観光客で賑わっていました。

階段の上にライトアップで白く輝く「トリニタ・デイ・モンティ教会」が見え、スペイン広場の夜の景色を美しく飾っています。

下の広場には舟のようなオブジェの噴水がありましたが、あふれる人で撮影を断念しました。



階段の風景です。

多くの人が階段に座り、名所の風景を楽しんでいます。

映画「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーン扮するアン王女がジェラートを食べていたのはこのあたりだったのでしょうか。



階段の途中から見下ろした風景です。

下のスペイン広場から正面に進んだ有名ブランドの店が並ぶ「コンドッティ通り」にも人波みがあふれています。

階段途中の踊り場を見ると、警官が楽器を持つグループに何か話していました。



階段の上に「トリニタ・デイ・モンティ教会」が見えてきました。

二つの鐘楼がそびえる珍しい建物で、教会の前に高い石柱「オベリスク」が建っています。

「オベリスク」は、古代エジプトで造られて神殿などに置かれた石のモニュメントですが、これはローマで造られた模造品のようです。



137段の階段を上りつめた「トリニタ・デイ・モンティ教会」の前にある「トリニタ・デイ・モンティ広場」です。

広場は、スペイン広場を見おろす観光客と、似顔絵を描く画家で賑わっていました。



「トリニタ・デイ・モンティ広場」から見上げた「トリニタ・デイ・モンティ教会」です。

土曜日18:00頃でしたが、教会に入って見るとミサが行われており、荘厳な讃美歌が聞かれました。



「トリニタ・デイ・モンティ教会」の玄関への階段から見た「トリニタ・デイ・モンティ広場」や、その向こうの風景です。

左端の「オベリスク」の向こうに「コンドッティ通り」の街灯が続き、その右にライトアップされた「サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ聖堂」のファサードと、クーポラが美しく輝いていました。

ツアーは、「オベリスク」で集合し、再びバスで「カンツォーネディナー」へ向かいました。



ヴァティカンの「サン・ピエトロ広場」前から見た夜の「サン・ピエトロ大聖堂」です。

青く輝くクーポラ(円蓋)は、フィレンツェのクーポラをお手本にミケランジェロによって造られたものです。

「カンツォーネディナー」を終え、近くのホテルまでの途中、バスの運転手さんの好意で立寄って頂いたと記憶しています。



「サン・ピエトロ大聖堂」の右手にある法王庁の建物です。

明りがついている最上階の二つ窓の辺りが、ローマ法王の部屋だそうです。

窓から「サン・ピエトロ広場」に集まった人々に語りかける法王の映像が浮かんできました。

ここから数百メートルのホテルへ宿泊、窓から見えたクーポラにもちょっと感動しました。

イタリア旅行No.25 ローマ「コロッセオ」周辺の見物

2011年03月07日 | 海外旅行
11/13 イタリア旅行5日目 「ヴェネツィア広場」からガイドさんの案内を聞きながらバスは「コロッセオ」へ到着しました。



バスの前方の窓に巨大な「コロッセオ」が見えて来ました。

約2000年前の貴重な遺跡「コロッセオ」のすぐ近くまで道路が迫っていることに、危なかしい感じを受けます。

一帯に古代ローマ時代の遺跡が密集する場所で、世界から観光客が押し寄せるローマだけに遺跡の間に道路を造るのはやむを得ないのかも知れません。



ローマ市内の地図です。

バスは、赤い字の番号(2)「ヴェネツィア広場」から古代ローマの中心地「フォロ・ロマーノ」を右手に見ながら(3)「コロッセオ」へ向かいました。



バスを降り、赤い服のガイドさんを先頭に歩いて行くと「コンスタンティヌスの凱旋門」が見えてきました。

右手に「コロッセオ」がそびえ、左手の小高い場所に「ウェヌスとローマの神殿」が見えます。

「コンスタンティヌスの凱旋門」は、ローマ帝国末期の四分割統治時代、西方副帝コンスタンティヌスが、西方正帝マクセンティクスと対立、312年に「ミルウィウス橋の戦い」で勝利したことを記念して建造されたものです。

324年、コンスタンティヌス帝は、分割統治のローマ帝国を再統一、330年にローマからビザンティオン(現イスタンブール)に遷都した皇帝でもあります。

395年、ローマ帝国は東西に分裂して行きますが、その前に登場した最後の強い皇帝だったようです。

又、この凱旋門の碑文には「ミルウィウス橋の戦い」での勝利はキリスト教の神の加護によるものと刻まれ、ローマ帝国で初めてキリスト教が公認された時代でもありました。



「コンスタンティヌスの凱旋門」の三つのアーチから丘の向こうの風景が見えていました。

参考資料には高さ25mとか、21mと書かれてさだかではありませんが、ローマ最大の凱旋門のようです。

凱旋門に装飾された彫刻の多くが、それ以前にあった施設から集められた再利用品だったとされ、ひっ迫した財政事情によるものか、戦いが終了して凱旋式までの短い期間によるものだったのか分かりません。



コロッセオの北西の丘に建つ「ウェヌスとローマの神殿」の遺跡です。(左端は凱旋門)

「女神ウェヌス(ヴィーナス)」と、「女神ローマ」の二つの神殿が背中合わせに造られた珍しい建物で、古代ローマ時代の神殿では最大のものとされています。

「ウェヌスとローマの神殿」は、ローマ帝国全盛期の第14代ハドリアヌス帝(在位117年~138年)の時代に計画・着工され、第15代アントニヌス・ピウス帝(在位:138年~161年)の時代135年に完成したようです。

中央にそびえる塔は、神殿が廃墟となった後世に造られた「サンタ・フランチェスカ・ロマーナ聖堂」の鐘楼のようです。



巨大な「コロッセオ」に近づいてきました。

左手の外壁が途中で崩れ、断面のアーチが現れています。

外壁の高さは48m、楕円形の直径は188m~156mで、一周約5分で歩けます。

「コロッセオ」は、72年ウェスパシアヌス帝により着工され、80年にティトゥス帝(第10代・在位:79年~81年)の時代に完成しました。

100日間も続いたとされる「コロッセオ」のこけら落の興行で、5,000頭に及ぶ猛獣が殺されたとされ、多くの市民は、刺激的な興業に酔いしれたものと思われます。

ティトゥス帝の実質2年間の短い在位期間には、ローマの街で3日間も続く大火災が発生、ヴェスヴィオ火山の噴火でポンペイの町が壊滅した激動の時代だったようです。



古代ローマ時代の赤いマントの兵士姿の男たちがたむろしていました。

ガイドさんからの注意では、「ナカタ! ナカタ! 日本語話せます!」と近づいて来て、一緒に写真を撮ると、10ユーロをぼったくる人達だそうです。

最初1人が始め、よく儲かることが知れて、次第に増えてきたようです。

ハッキリと断れない日本人観光客は、彼らにとって大切なお客様です。

そう言えば「ヴェネツィア広場」にもいましたが、営業エリアも拡張しているのでしょうか。



見上げると、歓声をあげたくなるほど雄大なコロッセオの風景です。

コロッセオの外壁の断面が補修され、柵のある展望台のようになった場所から大勢の人が周囲の景色を見下ろしていました。



外周一階のアーチの一つからコロッセオの内部が見えていました。

建物の内部は、地下施設のある中央の闘技場の周囲に四階層の観客席があり、下から元老院議員階級、騎士階級、平民、最上階は女性、その上の立ち見席に奴隷と決められていたとされています。

又、座席は木製、天井には開閉式の日除けの布製の屋根がドーナツ状に付いていたようで、現代の競技場施設などと比較しても驚くような良い環境だったようです。

ガイドさんの話では、イケメンの剣闘士には未亡人などのファンがついて、近隣の都市へ戦いに行く時には追っかけで見に行ったそうで、現代とほとんど変わらないことに驚くばかりでした。



南から見たコロッセオの風景です。

外壁の高さ約48m、楕円形の直径188m~156m、この巨大な闘技場の収容人員は、45,000人で、広島の「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム」の33,000人をはるかに上回っています。

1世紀初頭のローマの人口は約100万人、広島市とほぼ同規模の都市でした。

当時、コロッセオの興業は、無料で開催され、その費用を負担していたのは数少ない特権階級で、その影に周辺国の負担や、市民の貧富の差もあったようです。



コロッセオの周囲を歩いていると壁がドス黒く汚れていました。

ガイドさんの説明では自動車の排気ガスによる汚染で、きれいにするにはたくさんの費用が必要となっているようです。

ローマ市のジャンニ・アレマンノ市長は、地元の優秀な高校生を同行して広島市を訪問、厳しい財政事情を訴えて日本へ遺跡整備の寄付を要請したそうです。

広島市のサイト「主な出来事」では2010年4月12日にローマ市長及び高校生代表団が訪問されたことが記載されていました。

広島市長のオリンピック開催都市立候補の資金案も世界各国からの多額な寄付に依存するもので、ローマ市長さんの寄付の要請がヒントになったのかも知れませんね。


参考文献:「ローマ古代散歩」小森谷慶子・小森谷賢二著、新潮社

水彩スケッチ「チヴィタの街角」

2011年03月04日 | 妻の油絵

妻の水彩スケッチ「チヴィタの街角」です。

この建物は天空の町「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」の中心「サン・ドナト教会」の横にある「ワインセラー・キャンティーナ」の店先の風景です。

向かって左にある黄色い物はバイクだそうです。

実は、店先にあったバイクは、緑でしたが、絵の感じを考慮してアレンジしたそうです。

階段の周辺に花の鉢植えが飾られ、ちょっと立寄りたい居心地の良さそうなお店でした。

チヴィタのサイトを見ると、地下にワインの樽が貯蔵されている写真が掲載されていましたが、きっと旨いワインが飲めるのでしょうね。




イタリア中部の町「チヴィタ・ディ・バニョレージョ」は以下のページでご紹介しています。
イタリア旅行No.22 天空の町チヴィタ・ディ・バニョレージョ(1)
イタリア旅行No.23 天空の町チヴィタの素敵な風景(2)



イタリア旅行No.24 車窓から見たローマ「ヴェネティア広場」

2011年03月02日 | 海外旅行
11/13 イタリア旅行5日目 11:30頃、天空の町チヴィタを出発、ローマで遅い食事を終え、15:00前から市内観光がスタートです。

バスの中程、通路側から撮ったため、少し見づらい写真になりました。



バスの窓から見えてきた共和国広場(地図-1)の「ナイアディの噴水」です。

共和国広場は、ローマの中央駅「テルミニ駅」から近い大きなロータリーの交差点で、丸い「ナイアディの噴水」は、その中央にあります。

中央の像は、ギリシア神話の海神グラウコスが抱え上げたイルカの口から勢いよく水が噴き上がる躍動感あふれるすばらしい石像でした。

周りにも特徴のある四つの像があり、20世紀初頭に造られた施設のようですが、なかなかの力作のようです。

広い円形のロータリーの外周に沿って回廊のある大きな建物が印象的でした。
(この写真にはありませんが・・・)



ローマ市内の地図です。

赤い字の番号順に観光をし、1~3の移動は、バスの車窓からの観光です。

トレビの泉(地図-4)や、スペイン広場(地図-5)では夜になり、写真で見る昼の風景とはまったく違うものでした。



バスの窓から「ヴェネツィア広場」が見えて来ました。

正面の白い壮大な建物は、1870年にイタリアを統一した「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世」を讃える記念堂で、1911年に完成した建物です。

「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世」は、統一の過程で首都をトリノ、フィレンツェ、最期にローマへ遷都しました。

イタリアが統一された時期は、日本で明治維新による新たな国づくりが始まった頃で、親しみを感じます。

交通量の多い中、すぐ近くを前時代的な馬車が走っているのには驚きです。

又、横断歩道のない広い車道を平気で横断している人にも驚きました。



建物中央の柱の上にさっそうと馬に乗る「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世」の巨大な銅像がそびえていました。

その下に杖のような棒を右手に持つ白い像は、「ローマの像」と呼ばれているようです。



「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」に向かって左にそびえるこの群像は、観光案内では「労働の勝利」とされています。

バスが近づいた時、撮った写真で、像全体はよく分かりませんが古代ローマ時代の彫刻を彷彿とします。



「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」に向かって左側にあるホテルの建物です。

建物の壁に翼のある獅子像は、ヴェネツィアの守護聖人「聖人マルコ」の象徴で、広場の名前ヴェネツィアにちなんだものと思われます。

サン・マルコ広場で見た有翼の獅子像をなつかしく思い出します。

その向かいには「ヴェネツィア宮殿」がありましたが、写真が撮れませんでした。



「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」の前から東方向を見た風景です。

ヴェネツィア広場の東に面してクーポラ(円蓋)がある「サンタ・マリア・ディ・ロレート教会」があり、鐘楼の屋根も小さなクーポラになっています。

このクーポラの向こうにも同じ様なクーポラ(円蓋)が少しのぞいています。

東隣にある「サンティッシモ・ノーメ・ディ・マリア・アル・フォロ・トライアノ教会」のようです。

ファサード側の南から二つの教会を見ると、よく似た建物のようですが、由来など特筆する情報は見つかりませんでした。

この教会付近から右手(東南方向)は、古代ローマ帝国時代の諸皇帝が増設した公共広場「フォーリ・インペリアーリ」があり、地図-2から地図-3コロッセオまでの道は、「フォーリ・インペリアーリ通り」と呼ばれています。



サンタ・マリア・ディ・ロレート教会の前に大きな柱が立ち、その上に銅像が乗っていました。

この柱は、「トラヤヌスの記念柱」[CoIonna Traiana]で、古代ローマ帝国の黄金期の第13代皇帝トラヤヌス(在位:98-117年)のダキア戦争(ルーマニア・トランシルヴァニア地方)での勝利を讃え、113年に皇帝の墓として造られた施設とされます。

「トラヤヌスの記念柱」は、高さ約40mの巨大な大理石19個を積み重ねたもので、円柱内部には、らせん階段を彫り、頂上の見晴らし台まで歩いて登れるようです。

トラヤヌス帝によるダキア戦争の勝利は、ローマ帝国へダキアから産出する多量の金銀をもたらし、ローマの繁栄は絶頂期になって行きます。

トラヤヌス帝の時代、ローマ帝国の支配地域は、地中海沿岸を中心にイギリスからカスピ海西岸に及び、史上最大となったとされています。

柱表面には下かららせん状に絵巻物を巻きつけたように2度に渡るダキア戦争の様子が浮彫りで描かれ、当時の様子が生々しく伝わってくるそうです。
(とは言え、実際に見ることが出来るのは、地面から眺める範囲と思われますが・・、作ることが目的でもないはずで、信仰的な理由でもあったのでしょうか・・・。謎の絵です。)

2世紀に造られた高さ40mの「トラヤヌスの記念柱」が現代まで残ったことは、奇跡的とも思えますが、頂上にあったトラヤヌス帝の像は、聖ビエトロ像に取り換えられています。



「ヴェネツィア広場」(地図-2)からフォーリ・インペリアーリ通りを「コロッセオ」(地図-3)へ走るバスの窓から風変りな建物が見えて来ます。

141年建造の「アントニヌスとファウスティーナの神殿」を11世紀に改築し、「サン・ロレンツォ・イン・ミランダ教会」としているようです。

「アントニヌスとファウスティーナの神殿」は、第15代ローマ皇帝(在位:138~161年)が、亡くなった皇后ファウスティーナのために建造し、その後に皇帝も祀られたものです。

ファサード(建物正面)は、見えませんが、観光案内の写真を見ると、前面に高さ17mのコリント式の柱10本の古代神殿があり、後方に改築された教会が組合わされ、歴史の変遷を感じる建物です。

この辺りは、古代ローマの中心地「フォロ・ロマーノ」の遺跡が続く場所でした。

ガイドブックを見ながら、ゆっくりと歩いて見たかった場所です。

バスは、陽が傾き始めた「コロッセオ」へ向かいました。