昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

イタリア旅行No.37 ヴァチカン美術館「タペストリーのギャラリー」「地図のギャラリー」

2011年04月24日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】


11/15 イタリア旅行7日目、 ヴァチカン美術館の長い廊下の始まりにある「燭台のギャラリー」に続き、「タペストリーのギャラリー」「地図のギャラリー」を見学しました。



うす暗い「タペストリーのギャラリー(Galleria degli Arazzi)」です。

廊下の両側の壁に大きな「タペストリー」が展示されています。

「タペストリー」は、織物の太い緯糸(よこいと)に絵画を染付け、布に織ったもので、変色しやすい「タペストリー」の絵を光線による脱色から守るため、うす暗い環境にしているようです。

鮮やかな色彩の天井画で飾られた「燭台のギャラリー」と違い、気品のある地味な天井画も見ものです。



ヴァチカン市国の南東部の地図です。

地図のやや上の青い矢印に沿って「タペストリーのギャラリー」「地図のギャラリー」が続いています。

地図に向って右が北になります。



「幼児の虐殺(Strage degli innocenti)」と思われるタペストリーです。(作品リストから推察しました)

進行方向の左手の壁にはラファエロとその弟子達の下絵で、ブリュッセルの工房で織られた聖書の場面が描かれたタペストリー(1524年~1531年制作)が並んでいます。

「幼児の虐殺」は、新約聖書「マタイによる福音書」に出てくるキリスト誕生にまつわる恐ろしい事件の物語です。

ユダヤの支配者ヘロデ大王は、ベツレヘムの地にユダヤの新しい王(イエス・キリスト)が誕生したことを伝えられたそうです。

それに怯えたヘロデ大王は、ベツレヘムの地で王の可能性がある2歳以下の男の幼児全てを探し出し、虐殺しようとしましたが、イエス・キリストは奇跡的に難を逃れたとされます。



「復活(Resurrezione)」と思われるタペストリーです。(作品リストから推察しました)

これもラファエロ派の下絵を、ブリュッセルの工房で織り上げた作品で、聖書ではよく知られた場面です。



天井の中央にあった絵です。

教皇ピウス6世(在位:1775年~1799年)の時代の1789年、教皇統治の栄光を讃える寓意像とされる絵が天井一面に配されていました。

これらの絵は、彩色によらず、凹凸による陰影で立体感を表現する「キアロスクーロ(単彩明暗画)」の技法だそうです。



これも天井に描かれた「キアロスクーロ(単彩明暗画)」です。

天井の壁にひび割れが走り、補修した跡が帯状に黒ずんで見えます。

ヴァチカンには計り知れない数の美術品があり、補修費用も膨大なものと思われます。



「地図のギャラリー( Galleria delle Carte Geografiche)」に進んできました。(長いギャラリーの途中で撮った風景で、全体の長さは表現できていません)

ここにはグレゴリウス13世(在位:1572年~1585年)が、1580年から1583年にかけて描かせた40の地形図が展示され、ギャラリーの名となっているようです。

廊下の左右の壁にタテ3.2m、ヨコ4.3mのフレスコ画が32点並び、少し小さなものが8点あります。

このフレスコ画の地形図は、イタリア各地と、所有地を描いたもので、その下絵は、当時最高の天文学者の一人「イニャーツィオ・ダンティ」によるものです。

これらの地図は、美術品としてではなく、当時の地誌と地図作製法を知る極めて重要な資料でもあるようです。



イタリア半島を中心とする地図です。

織田信長や、豊臣秀吉が活躍した時代のヨーロッパ、もっと幼稚な地図しかないと思っていましたが、これだけの正確な地図が制作されていたとは驚きです。

グレゴリウス13世は、この地図が描かれた頃の1582年、日付にズレが拡大していた「ユリウス暦」を改め、「グレゴリオ暦」を制定したことでも知られています。

正確な地図や、日付・時刻は、その後の経済活動や、日常生活の発展に大きく寄与したものと思われます。



「地図のギャラリー」最後の辺りにヴェネツィアの地図がありました。

網の目のように造られた細い運河も描かれています。

イタリア半島の平面図的な地図と異なり、南から見下ろす鳥瞰図の表現で、南北の距離を縮めて描かれているように思われます。

鳥瞰図のためか、ヴェネツィアの島々が身近に感じられるようです。



「地図のギャラリー」に続く、美しく豪華な丸天井は、とても印象的でした。

この建物は、地図が描かれる直前の1578年から1580年にかけてオッタヴィアーノ・マスケリーノによって建設されたそうです。

残念ながら「燭台のギャラリー」から続く長い回廊の建物全体が造られたプロセスは手元の資料を見ても理解できませんでした。



豪華な丸天井が続く長い廊下の最後の壁の上に豪華な装飾がありました。

二人の戦士が紋章を挟んで向き合い、紋章には翼のあるドラゴンが描かれています。

この紋章は、教皇グレゴリウス13世のもので、代々の教皇にはそれぞれのデザインの紋章が定められていたようです。

ドラゴンの紋章の上にはバチカンの国旗・国章にも見られる法皇の冠と、「天の国の鍵」とされる二つの鍵があります。

「天の国の鍵」は、イエスがペテロに授けたとされるもので、聖・俗の支配権を意味するようです。

爬虫類に翼がある姿のドラゴンですが、その伝説をたどるのもおもしろい趣味になるのかも知れません。


参考文献
「ヴァチカン・ガイド 美術館と市国」石鍋真澄監修
「地球の歩き方 南イタリアとマルタ」地球の歩き方編集室著


イタリア旅行No.36 ヴァチカン美術館「ピーガの間」「燭台のギャラリー」

2011年04月21日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】


11/15 イタリア旅行7日目、 ヴァチカン市国「ピーニャの中庭」の次にヴァチカン美術館の見学が始まりました。




です。

「ピーニャの中庭」から階段を二つの階段を上り詰めると「ピーガの間」がありました。

部屋の中央に古代ローマ時代の「二頭立て戦車」(紀元1世紀頃の作品)が展示されており、「ビーガ」とは「二頭立て戦車」のことと思われます。

左下部分の写真は、説明パネルにあった戦車の写真で、左上は窓際に立つ円盤投げの石像(紀元1世紀頃の作品)の拡大写真です。

古代ギリシアに始まるオリンピックの円盤投げ競技が、紀元1世紀のローマで行われていたようです。

1794年に完成したとされる「ピーガの間」から真直ぐに続く長い廊下で、その両側に多くの美術品が展示されていました。



ヴァチカン市国の南東部の地図で、向かって右が北方向です。

「ピーニャの中庭」の右上に「ピーガの間」があり、青い矢印に沿って進んで行きました。

コースは、ピーガの間~燭台のギャラリー~タペストリーのギャラリー~地図のギャラリー~システィーナ礼拝堂~サン・ピエトロ大聖堂と北から南に進み、最期がサン・ピエトロ広場と、最短の見学コースだったようです。

旅行会社の資料には見学コースの記載は無く、広く複雑な美術館の中をどう歩いたのか写真と資料を照合するまでよく分かりませんでした。

幸いだったことは「システィーナ礼拝堂」以外の場所の写真撮影がフラッシュ照明なしで、許可されていたことです。



「ピーガの間」に続く「燭台のギャラリー(Galleria dei Candelabri)」です。

長い廊下の所々(5~6ヶ所か?)にアーチのある仕切り壁があり、仕切り壁の両側に燭台が置かれていることから「燭台のギャラリー」の名が付けられたようです。

又、この長い廊下は、「ピーニャの中庭」の西側に面し、1761年頃までは壁のない柱廊だったようで、美しい中庭を見下ろす建物だったようです。

「燭台のギャラリー」には古代ローマ時代の美術品が長い廊下の両側に延々と陳列されていました。

ツアーの人数が多いため、ガイドさんの近くで説明が聞けなかったので、個々の美術品の内容が分からず、印象的な作品の写真を羅列します。



左の大きな石像は、古代ギリシア、ローマの神話に出てくる女神「ディアナ(ギリシア神話:アルテミス)」のようです。

ポンペイの「アポロ神殿」でも見られましたが、この像には胸にたくさんの乳房があり、豊穣の女神の姿で作られています。

乳房の下にはヤギなど数種類の動物が刻まれていました。



中央の像は、足にトゲでも刺さっているのでしょうか。(足をくすぐられているようにも見えますが・・・。)

その他の像も何をしているのか分かりませんが、約2000年前の人々を身近に感じられる作品です。

下のテーブルの三本の脚のデザインスタイルもアンティーク家具で見かけるもので、古代ローマの美術品を見ると現代の西洋文化とのつながりを実感します。



蓋のある容器の下部に人や、ライオンの面が彫られていました。

ヴェネツィアで毎年行われるイースター(復活祭)のカーニバルで使われる仮面とよく似ています。

幻想的なカーニバルを演出する仮面は、中世のヴェネツィアで創られたものと思っていましたが、これを見ると古代ローマ時代に源流があったように思われます。



柱のようなものに浮彫りがされています。

絵には大きな鍋にイノシシを押し入れて火を焚いている人が描かれているようです。

その上でも動物のようなものを持つ人が見えます。

その周囲にも意味の分からない絵がありますが、全体として何かの物語を伝えようとしているものと思われます。



中央の像には翼があり、足元の小さな像は鬚の男が酒を飲んでいるように見えます。

向かって右の像の足元の動物は犬でしょうか、左手に持つのはブドウの房にも見えます。



子供の石像が並んでいます。

中央の子供の像には飼い慣らした鷹のような鳥が見られます。

これを見ると古代ローマ時代には鷹狩りの技術があったものと推察されます。



廊下の壁の上部、天井との境に美しい絵が並んでいました。

柱廊に壁が作られた18世紀後半のものと思われ、地味な古代の石像が並ぶ廊下では強く眼を魅かれるものでした。

絵の背景にサン・ピエトロ大聖堂のクーポラや、コロセッセオ(闘技場)の遺跡が描かれています。



これも廊下の壁の上部、天井との境にあった絵です。

翼のある美しい女性が、ひざまずくナイト(騎士)にペンダントのようなものを授けているようです。

ガイドさんの説明が記憶になかったのは、美女が並ぶ天井画に気をとられていたためだったのかも知れません。



廊下の天井中央にあった絵です。

頭上にはこのような美しい絵がたくさん続いています。

「燭台のギャラリー」は、古代彫刻ばかりでなく、美しい天井画がとても印象的でした。


参考文献
「ヴァチカン・ガイド 美術館と市国」石鍋真澄監修
「地球の歩き方 南イタリアとマルタ」地球の歩き方編集室著

イタリア旅行No.35 ヴァチカン市国「ピーニャの中庭」

2011年04月17日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】


11/15 イタリア旅行7日目、ヴァチカン市国の「ピーニャの中庭」の観光です。



「ピーニャの中庭」の入口から入ろうとしているところです。

前回掲載した「サン・ピエトロ大聖堂」のクーポラが見える屋上の東隣になります。



向って右が北になっているヴァチカン市国の地図です。

「ピーニャの中庭」は、地図右下辺りに名称を赤枠で囲んだ場所で、庭の右上辺りに入口があります。

南側にも、ルネサンス時代の「べルヴェデーレの中庭」、その南に「システィーナ礼拝堂」、更に「サン・ピエトロ大聖堂」と続いています。



「ピーニャの中庭」の北側にある巨大な「壁龕[へきがん]」のある建物です。

「壁龕」の中央に置かれたブロンズ製の大きな松ボックリから庭の名称「ピーニャ(松ボックリ)」と名付けられました。

「壁龕」を「ニッチ(niche)」と呼び、小さなスペースのイメージがありますが、これは度肝を抜く大きさです。



ブロンズ製の松ボックリ(Pigna bronzea colossale)が壁龕の中央にそびえていました。

1~2世紀頃に鋳造されてカンポ・マルツィオ地区に置かれていたもので、かつては鱗片の穴から水が噴き出す噴水設備だったようです。

8世紀の終りに旧サン・ビエトロ大聖堂の玄関前の中庭に移設、現在の場所に移設されたのは1608年と、驚くような長い歴史を持っていました。

松ボックリの下の石の台座は、資料に「競技者や審判者などが彫られている」とされるアレクサンデル・セウェルス帝(在位222~235年)の浴場の柱頭だったものです。

台座に設置したのはローマ教皇クレメンス11世(在位1700~1721年)の時代だったようです。

ブロンズ鍍金(メッキ)の二羽の孔雀は、ハドリアヌス帝(在位117~138年)が139年に建設した霊廟「サン・タンジェロ城」にあったもので、宇宙の不滅の象徴とされています。

様々な遺跡からの寄せ集め品のようですが、不思議に調和のある芸術的なモニュメントになっています。



松ボックリの下の壁に大きな顔の噴水がありました。

写真の左上に顔の拡大写真を載せましたが、資料を調べても記載がなく、これも古代遺跡の遺物だったのかもしれません。

又、松ボックリの両脇の階段を設計したのはミケランジェロとのことで、ミケランジェロの作品とも考えられますが・・・。



松ボックリの下の両脇にライオン像がありました。

一見、ブロンズ像にも見えますが、花崗岩製だそうです。

ローマ、カンポ・マルツィオ地区にあった「イシスとセラピスの神殿」から発掘された像で、古代エジプト第30王朝の王「ネクタネボ1世」(在位前308~前362年)時代の作品とされています。

ピーニャの中庭の主役、「松ぼっくり」よりも更に数百年古く、風格を感じます。

発掘された「イシスとセラピスの神殿」は、古代ローマで古代エジプトの神「イシス」「セラピス」への信仰が流行し、エジプト産の建材で建てられたエジプト風の神殿だったとされています。

日本の神社によくある狛犬の原型は、紀元前のエジプトにあったようです。



ピーニャの中庭の入口付近にあったスフィンクスの像です。

写真左上の像は、松ボックリの後方の壁に数体並べられていたもので、これらも古代エジプト文化の遺物と思われます。

スフィンクスは、エジプトでライオンの体にファラオの頭が付いた聖なる動物で、頭巾(ネメス)と、顎鬚[あごひげ]を付けているとされています。

このスフィンクスには顎鬚がないようです。



「ピーニャの中庭」中央付近の風景です。

長方形の「ピーニャの中庭」には芝生に「田」の字の形の通路が作られ、この球体のオブジェは通路が交差した中央に置かれています。

向こうに見える建物は、「ピーニャの中庭」の東側で、大きな顔の像が立っています。



「ピーニャの中庭」の中央に置かれたオブジェ「球体のある球体(Sfera con sfera)」です。

直径4mのブロンズ製の球体のオブジェは、イタリア生まれのアルナルド・ポモドーロ(Arnaldo POMODORO)の作品で、1990年にヴァチカン美術館のために制作されたそうです。

球体の中に小さな球体が衝突してめり込み、地球の未来を暗示するような衝撃的な作品です。

ノストラダムスの大予言で、「空から恐怖の大王が来て人類が滅亡する」とした1999年7月より9年前の作品であることを考えると、予言を意識した作品だったのでしょうか。

同作家のこれに似た作品が地元「ふくやま美術館」のロビーにも置かれていました。

「ふくやま美術館」のサイトに写真と下記の解説がありました。
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アルナルド・ポモドーロ 1926-
《球体》は主要なテーマのひとつで、地球のような球が中央部で裂け、メカニックな部品のような要素がそこにのぞく。優美と優美ならざるものとの出会いが新鮮なショックを与える作品である。
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東側の壁の中央付近に置かれた「アウグストゥスの巨大な頭部(Tessta colossale di Augusto)」です。

ヴァチカン市国の南東、テヴェレ川東岸の「アヴェンティーノの丘」で発見された大理石の像で、巨大な像の一部と考えられているものです。

「アウグストゥス」は、初代ローマ皇帝(在位紀元前27年~14年)と思われ、皇帝の偉業を讃えて造られた像だったのかも知れません。



「ピーニャの中庭」の南側の風景です。

中央に古代の神殿のような建物が見え、その上に「サン・ピエトロ大聖堂」のクーポラが少しのぞいています。



「ピーニャの中庭」の南側の神殿の風景です。

大理石の太い柱が並び、その間に人物の石像が立っています。

この神殿の情報は、資料に見当たりませんが、古代の遺跡から移設されたものと思われます。

カトリックの総本山とも言えるヴァチカンには遺跡から発掘された古代の宗教(異教)的施設の遺物が蒐集・展示されています。

中庭の名称となった大きな松ボックリに代表されるように、様々な遺物を組み合わせて新たな芸術的価値を創造しており、キリスト教の成立や、変遷の過程にも通じているようです。



参考文献
「ヴァチカン・ガイド 美術館と市国」石鍋真澄監修
「地球の歩き方 南イタリアとマルタ」地球の歩き方編集室著

イタリア旅行No.34 ヴァチカン市国の観光

2011年04月14日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】


11/15 イタリア旅行7日目、いよいよ最終日のヴァチカン市国の観光です。



ホテルのテラスから見えた「サン・ピエトロ大聖堂」です。

巨大なクーポラが朝日を浴びて美しく輝いています。

2泊したローマのホテルは、ヴァチカン市国のすぐ南にありました。



ローマ市の地図です。

テヴェレ川西岸に「ヴァチカン市国」があり、その南にある「スターホテル」に宿泊しました。

「フォロ・ロマーノ」や、「コロッセオ」は、この地図外の南東方向にあります。

古代ローマ時代には、市街地はテヴェレ川東岸の範囲でしたが、共和政時代の終わり頃から西岸にヴィッラ(別荘)が建ち始めたようです。



ホテルからバスに乗り、テヴェレ川に架かる橋を渡る時の風景です。

地図で見るとサンピエトロ広場の東にある「ヴィットリオ・エマヌエレ2世橋(Ponte Vittorio Emanuele II )」のようです。

1870年、イタリアを統一し、初代国王となったヴィットリオ・エマヌエレ2世の偉業を讃えて名付けられたと思われる橋には大きな石の彫刻もありました。

ホテルは、「ヴァチカン市国」のすぐ南でしたが、入場口が北にあるため、バスで向かいました。



町の交差点を通過する時の風景です。

信号待ちの車列に数台のバイクが見えています。

イタリア各地でもよくバイクを目にしましたが、ローマでも同じようです。



「ヴァチカン市国」の地図です。

「ヴァチカン市国」の面積は、約44万m2(13.3万坪)と世界最小の主権国のようですが、入口付近で手荷物検査を受ける以外には国境を意識する感じではありません。



バスを降りて、刑務所のような高い塀に沿った道を歩いて行くと、石造りの門がありました。

ヴァチカン市国の地図に「出口」と記載されている門です。

門の上にはすがすがしい朝日に映える笠松がそびえていました。

門に向って左に進むと「入口」です。



門の上の彫刻です。

何の像か分かりませんが、見上げると深い歴史を感じる気分です。



「ヴァチカン美術館」の入口です。

塀を見上げると街を守る城壁であったことを実感します。



記念に残している「ヴァチカン美術館」の入場券です。

この絵は、ヴァチカン美術館のラファエロのスタンツェ ウルバヌス8世の礼拝堂 第三室「署名の間」にあるラファエロ作「アテネの学堂」の中心部分です。

二人の人物は、聖堂から、論議をしながら出て来るプラトンと、アリストテレスで、「プラトンはイデアの世界である天上を指さし、アリストテレスは、天と地の間に広げた手をかざす」姿とされているようです。

プラトンの顔はレオナルド・ダ・ヴィンチ、アリストテレスの顔は、ミケランジェロを描いたとされます。

又、全体の絵には古代ギリシアの人物が上下二段に50人以上描かれる中にラファエロ自身の顔も登場しているようです。(下段の向って右端から2番目)

興味のある方は以下のサイトに大きな画像がありますのでご参考にして下さい。

参考サイト:壁紙Link アテネの学堂(ラファエロ・サンティ) 壁紙



「ヴァチカン美術館」の入口付近で手荷物検査を終えるとかなり長いエスカレーターで上の階へ上って行きました。



エスカレーターで上ると「サン・ピエトロ大聖堂」のクーポラが見える屋上がありました。

時間待ちで、ちょっと見物です。



東にそびえる「サン・ピエトロ大聖堂」のクーポラです。

朝日の影になったクーポラの風景は今ひとつ良くありませんが、向こうにいる人と比べてご覧頂くとクーポラの巨大さを感じて頂けるものと思います。


参考文献
「ヴァチカン・ガイド 美術館と市国」石鍋真澄監修
「地球の歩き方 南イタリアとマルタ」地球の歩き方編集室著

イタリア旅行No.33 ナポリのバス車窓観光

2011年04月12日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】


11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。



ポンペイからナポリへ向かう途中の土産物店で見たナポリ名物カメオの制作風景です。

古代ローマ時代から続くカメオの制作過程の写真が並ぶパネルや、素材となる大きな巻貝が展示され、職人さんによりカメオが彫られる場面を見物しました。

この店は、商売上手な日本人の奥さんによって繁盛しているそうで、日本人好みのお土産品を企画販売していました。

バスは、トイレ休憩を兼ねて往復立寄りましたが、お店を案内するガイドさんたちの熱心さもこの店の奥さんの商売上手な根回しによるものだったのでしょうか。



ナポリの町の南サンタ・ルチア地区の地図です。

100万人都市ナポリは、ヨーロッパにおいて中世から19世紀までパリに次ぐ規模の国際都市だったそうで、南にナポリ湾、東にヴェスヴィオ山を望む美しい町です。

地図南の「パルテノペ通り」の名は、紀元前6世紀、古代ギリシア人が造った植民都市「パルテノペ(小惑星)」に由来するようです。

又、「ナポリ」の名は、ギリシア語「ネアポリス(新都市)」に由来し、「パルテノペ(小惑星)」に近い場所の、新設の都市だったことによるものと思われます。



バスの窓の景色が開け、巨大な石造りの円筒がそびえる中世の城が見えてきました。

ムニチビオ広場(市庁舎前広場)に立つ中世の城「カステルヌオヴォ(ヌオヴォ城)」です。

城の前面に三つ、後方に二つある円筒を壁でつながれた初めてみる城の形です。

「カステルヌオヴォ(ヌオヴォ城)」は、13世紀末、イタリア南部を支配していたフランスのアンジュー家により、フランスのアンジェ城を模して造られたとされています。

アンジュー家が居城としていた「卵城」と、北東に離れて建つ「カプアーノ城」の中間に防衛上の配慮で造られたようです。



石造りの円筒の間に造られた「ヌオヴォ城の凱旋門」です。

シチリア島を支配していたスペイン、アラゴン家のアルフォンソ5世が、1442年にアンジュー家の支配するナポリを攻略、首都を移転してナポリ王アルフォンソ1世となった記念の施設です。

大理石の凱旋門には下からアルフォンソ王の凱旋行進を描いた浮き彫り、「節度、剛毅、公正、雅量」を表す四体の寓意像、一番上は大天使聖ミカエル像だそうで、南イタリアのルネッサンス芸術の代表的作品とされています。



「ヌオヴォ城」の正面から西に進むと「ウンベルト一世のガレリア」の入口がありました。

バスの窓から見ると、美しいガラス屋根に覆われた十字形に交差したアーケード街で、中央には高さ58mのドームが輝いているようです。

道路を挟んで向かいはミラノ「スカラ座」、ローマ「オペラ座」と並ぶイタリア三大歌劇場の一つ「サン・カルロ劇場」があります。

1884年、ナポリでは約7千人が亡くなるコレラの大流行があり、荒廃したスラム街を撤去して造られたものです。

当時のイタリア王国のウンベルト1世(在位1878年~1900年)は、1861年イタリアを統一したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の後を継いだ国王です。



中央のロータリーに噴水がある「トリエステ・エ・トレント広場」です。

左手に見えるのはナポリ王宮、建物の向こうには「プレビシート広場」が見えます。

ここはナポリの中心地のようです。



バスの車窓から「トリエステ・エ・トレント広場」に面したカフェが見えてきました。

天気に恵まれ、ナポリの町をゆっくりと楽しんでいるようです。



海岸に面した「パルテノペ通り」です。

この辺りに古代ギリシアの町「パルテノペ」があったのでしょうか。

通りには5つ星クラスのホテルが建ち並び、向こうには「ヴェスヴィオ山」が見えていました。

右手には「卵城(カステル・デッローヴォ)」の門があり、その先を左折すると「サンタ・ルチア通り」です。

「サンタ~ル~チ~ア~!」子供の頃歌ったナポリ民謡が浮かんできます。

バスの車窓観光も、ここでちょっと下車、海岸から「卵城」の見物です。



門の向こうには海に突き出た「卵城(カステル・デッローヴォ)」が巨大な姿で建っています。

かわいらしい「卵城」の名とは違い、いかめしい要塞です。

門の道の左手には大勢の客で賑うレストランが並び、その先は白いマストが並ぶ「サンタ・ルチア港」でした。

再訪し、ナポリ湾で獲れるおいしい魚料理を食べたいものです。



「パルテノペ通り」から見た、海中にそびえる「卵城(カステル・デッローヴォ)」です。

1139年に南イタリアを征服したノルマン王ルッジェーロ二世がによって築かれた「卵城」は、ナポリでは最も古い城です。

「卵城」には不気味な伝説がありました。

「卵城」の基礎に卵が埋め込まれており、その卵が壊れると、城と共に町も滅びるといわれ、城の名称になったようです。

「卵城」の建つ場所は、古代「メガリス島」と呼ばれ、紀元前1世紀には古代ローマの大富豪リキニウス・ルクッルスの別荘があったとされ、5世紀には修道士が住んでいたようです。



「卵城」の見物を終え、「パルテノペ通り」を東に進んだバスの車窓から海岸を背にして建つ「インマコラテッラ(無原罪の聖母)の噴水」が見えてきました。

google地図には「フォンターナ・デル・ジガンテ(巨人の噴水)」とあります。

両端に若い女性の像、左右のアーチの下に噴水の出る水瓶を持つ像が見えますが、聖母マリアの像は見当たりません。

ルネッサンス時代の作品のようですが、よく分からない彫刻でした。



ナポリ湾の東に長い裾野を持つヴェスヴィオ山が見えていました。

好天に映える青い海の風景を楽しむ人達が海岸あちこちで見られました。

ガイドさんから「フニクリフニクラ」の歌は、ヴェスヴィオ山の登山電車の歌だと聞き、山に電車が走っていることに驚きました。

頂上からナポリ湾を一望する風景はすばらしいものと思われます。

これでイタリア旅行6日目の観光が終わり、バスはローマへの帰途につきました。


参考文献
「ナポリと南イタリアを歩く」小森谷賢二・小森谷慶子著
「地球の歩き方 南イタリアとマルタ」地球の歩き方編集室著

油絵「菜の花と静物」

2011年04月10日 | 妻の油絵

妻の油絵「菜の花と静物」です。

野辺で摘んできた菜の花が、静物を春の暖かさで包んでいるようです。

とりわけ寒かった冬も終わり、やっと水温む頃となりました。

菜の花は、時の刻みを忘れず、寒さに耐えて育んできたツボミを一斉に開花させ、春のメロディーを奏でています。

イタリア旅行No.32 ポンペイ遺跡の見学(6) 秘儀荘

2011年04月06日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】


11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。

ポンペイ遺跡の最後、「秘儀荘」の見学です。



ポンペイ遺跡北西にあるヘルクラネウム門(エルコラーノ門)を出て、しばらく石畳の道を歩くと、やがて未発掘地帯を通る未舗装の道になってきました。

向こうには、なだらかな裾野を持つヴェスヴィオ山がそびえています。

写真に向って左の芝生の上に「秘儀荘(Villa dei Misteri ヴィッラ・ディ・ミステリ)」の赤い屋根だけが見えて来ました。



「秘儀荘(Villa dei Misteri ヴィッラ・ディ・ミステリ)」の建物の鳥瞰図です。

ポンペイ遺跡の売店で、本を購入した時に頂いた地図の一部です。

南側の入口から入り、西側の出口まで進んで行きました。



「秘儀荘」の鳥瞰図Aの辺りの風景です。

建物はさらに写真右手に広がっていますが、修復されている屋根はごく一部のようでした。

未発掘の場所から見下ろすと、高さ6~7mの火山灰層の下に屋敷が埋もれていた状況がよく分かります。

写真左手に見える駐車場は、「秘儀荘」横から入場するためのものでしようか。

駐車場の手前に見える通路から降りて行きました。



「秘儀荘」の鳥瞰図の入口からBの辺りの風景です。

上段の建物の西に続く風景で、東西の全長はかなりの長さになるようです。

左手の壁が大きく開いた建物から海を見下ろす美しい風景が広がっていたものと思われます。



「秘儀荘」の建物をめぐる途中にブドウ圧搾機が復元されていました。

動物の顔が彫られた丸太を引き下ろすと、右手の箱に入れられたブドウが圧搾されるようです。

搾られた果汁は、大きな壷に入れて中庭で発酵させた後、保存・運搬用の陶器「アンフォラ」に詰め替えられていたようです。

秘儀荘の壁画がワインの神「ディオニユソス」への信仰の儀式を描いており、ディオニュソスへ山羊を生贄とすることからこの丸太に彫られた動物を山羊[ヤギ]として関連付ける資料がありました。

しかし、この動物の角の形は耳の前で先端を上に向けており、牡羊[オヒツジ]のように見え、釈然としません。



ガイドさんに案内されて天窓のある広間「アトリウム」(鳥瞰図-D)に来ました。

中央の床には水盤があり、天窓からの雨を貯めていました。

「アトリウム」は、社交場としての機能の他、広間に面した部屋を明るくし、雨水を有効に利用するものだったようです。



「アトリウム」から「中庭」(鳥瞰図-C)の方向を見た風景です。

中庭にはパンを焼く石窯(オーブン)や、地下室へ下りて行く階段などもあり、この屋敷のスケールの大きさを感じさせられました。

写真左下は、床のタイルの写真です。(この部屋のものではなかったと思いますが・・・)

黒い帯状の部分は部屋の端に並行しており、美しいタイルの床でくつろぎの空間を創り出していたようです。



入室が禁止され、入口から見学した「秘儀の間」です。(鳥瞰図-Eの辺りか?)

部屋の壁には「ポンペイの赤」と呼ばれるやや黄味がかった赤色を背景に29人の等身大の人物が描かれたフレスコ画があります。

壁画には、ワインの神「ディオニユソス」への信仰の儀式が描かれている説もあり、向って左の壁から右に向って絵巻物のように場面が展開しているようです。



向かって左の壁に描かれた壁画です。

ディオニュソス信仰への入信儀式の準備をする場面で、中央で椅子に座って背を向けているのが女祭司と考えられている説があります。

右から二番目の男性の前に二匹の羊[ヒツジ]が描かれていますが、ツノの先端は、頭上の後方に尖っていました。



壁の右手に背に翼のある女性が立ち、右手の壁に描かれた女性の背中をムチで打っていると考えられている絵です。

その左で、床に座り込む女性は、ムチで打たれる女性に両手を伸ばし、心配の余り取り乱している母親のようにも見えます。



椅子に座った女性の膝にすがって泣き伏している若い女性が主役の絵と思われます。

後ろを向いて立つ裸の女性の両手には小さな楽器のようなものが見え、踊っているのでしょうか。

これら一連の絵を見ていると、入信の儀式が描かれている説にもうなづける気がします。



入口からすぐ右手の壁画です。

髪を整える女性のためにキューピッドが鏡を持って見せているようです。

諸説のあるこれらの絵の解釈はさておき、有翼の人物三人描かれていることからもキリスト教が普及する以前の宗教が変遷する一過程を表しているようにも思われます。

ポンペイの見学はこれで終了、近くのレストランで食事の後、ナポリに向かいました。


参考文献
「ポンペイの歴史と社会」ロジャー リング著、堀 賀貴訳
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著
「世界の生活史ポンペイの人々」ピーターコノリー著
「ポンペイの遺産」青柳正規・監修


油絵「クリスマスローズ」

2011年04月03日 | 妻の油絵
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】





妻の油絵「クリスマスローズ」です。(F4号)

ちょっと、おしゃれに描こうとしたようにも見えます。

2月頃に咲く花ですが、花もちが良かったのか、3月初め頃に描いたようです。

しかし、クリスマスには咲かない「クリスマスローズ」とは、どうなっているのでしょうか。

又、バラには似ていない「クリスマスローズ」の名前にも異論のあるところですが、花の少ない2月に美しく咲いてくれるこの花にとっては関係のないことでした。

イタリア旅行No.31 ポンペイ遺跡の見学(5)墓場通り

2011年04月01日 | 海外旅行
【東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。】

11/14 イタリア旅行6日目、オプション旅行で行った「ナポリ・ポンペイ日帰りツアー」の続きです。

ポンペイ遺跡の「マリーナ門」から入り、北西の「ヘルクラネウム門」までの見学を終え、城門を出て秘儀荘へ向かいました。

意外にも途中の道路脇にはとても変わった古代の墓が見られ、とても興味深いものでした。



町の側から見たヘルクラネウム門(エルコラーノ門)です。

中央に馬車道、両脇に歩道があり、歩道のアーチを見ると、馬車道の上にもアーチがあったものと推察されます。

この門からの道は、ポンペイから海岸沿いをナポリ~ローマに向かう街道で、町の表玄関のような門だったものと思われます。

この門の名称「ヘルクラネウム門」「エルコラーノ門」は、古代、ナポリに至る海岸沿いの街道の途中にあった小さな港町「ヘルクラネウム」に向かう門と言うことから名づけられたようです。

「ヘルクラネウム」は、ポンペイと同様にヴェスヴィオ火山の噴火で地中に埋まり、1709年、井戸を掘る工事で、20mの地下から発見されました。

「エルコラーノ」の名は、ギリシア神話の英雄ヘラクレスにちなむ古代の「ヘルクラネウム」を現代表現したものです。



ポンペイ遺跡全体の地図です。

左上に赤い線で囲っている場所は、下段に掲載した詳細地図のエリアです。



「ヘルクラネウム門」を出て「秘儀荘」に向かう途中の地図です。

ポンペイ遺跡の売店で、本を購入した時に頂いた地図の一部です。

発掘された遺跡をかつての建物などをイメージできるイラストも描かれています。



ガイドさんが、「ヘルクラネウム門」のすぐそばにあった看板を説明している場面です。

左上に載せた拡大写真にある男性のシンボルは、火山灰の熱で黒く焦げてしまったのでしょうか。

諸説のあるこの看板の議論はさておき、日本の神社でもよく見かける造形で、時代・民族を超えて親しまれてきたことが分かります。



門を出てすぐ左手に石のベンチを半円形に並べた「マンミアのスコラ」と呼ばれる施設がありました。

門のそばだけに旅人や、旅人を送迎する人達のために造られたとも考えられます。

道路脇に下をのぞき込んでいる人がいます。

地面には露出した水道管が見えており、2000年前のものかと見ているのでしょうか?



一段高い「マンミアのスコラ」に上がってみました。

この半円形のベンチは、巫女マンミアの墓とされ、詳細地図のイラストによると、かつて2ヶ所並んでいましたが、現在はこの1ヶ所だけになっています。

巫女マンミアは、「フォロ(公共広場)」の東にある「ゲニウス・アウグストゥス神殿」(ヴェスパシアヌスの守護神を祀る神殿)を建立したことでも知られ、碑文では墓地は町から与えられたとされています。

紀元1世紀初期に造られたとされるこの石のベンチの目的にはマンミアの名誉を讃え、公共の福祉で休息を提供する二点があったようです。

ポンペイ南側の「スアピアエ門」付近に別の人によって同じ様なスコラが寄贈されており、この施設形式はポンペイ独特のようです。



石のベンチの向かって左の部分です。

左右の端に肘掛のような飾りがありました。

背もたれにはアルファベットのような文字が刻まれています。

2000年前の遺跡であることと、お尻が冷える寒い時期だっただけに、座らず見て行きました。

かつて詩人ゲーテなども観光に来訪し、ベンチの後方、南西方向に広がるソレント半島の眺望を堪能したとされていますが、石のベンチしか目に入りませんでした。



「マンミアのスコラ」の後方に「イスタキディの霊廟」と呼ばれる墓がありました。

復元された三本の柱(イオニア式)は、建物のごく一部で、元は円形に柱が並ぶ建物だったようです。

イスタキディ家は、次回に紹介する大きな邸宅「秘儀荘」で、ワインを生産する裕福な住人だったようです。



「マンミアのスコラ」を過ぎて「ヘルクラネウム門(エルコラーノ門)」を振り返った風景です。

この道の名は「ヘルクラネウム(エルコラーノ)通り」ですが、「ヴィア・ディ・セポルクリ(墓地通り)」とも呼ばれています。

ローマや、ナポリに通じる玄関口には故人、家系を讃えるモニュメントとしての墓が数多く造られ、この別名となったようです。

道を歩く老人は、イタリア人ガイド(資格者)で、現地在住の日本人ガイド(無資格)とは別に同行が義務付けられていると聞きました。

イタリア政府は、イタリア人のガイド資格者を認定して国内の雇用確保を図っているようです。

向かって左の大きな石の施設も調べましたが、分からずじまいでした。

興味深い施設が多い反面、これら道沿いの施設の情報は非常に少なく感じました。



通りを進んでいると左手の高い場所に立派な墓が二基並んでいました。

その向こうに見える廃墟の建物が「ディオメデース荘」と呼ばれる別荘です。

資料によると、「ディオメデース荘」の庭園は、プール・墳水・つる棚などがあり、ポンペイ随一の広さを誇るとされています。

2000年前にこんな素晴らしい別荘があったとは驚きます。

しかし、地下柱廊で18人もの遺体が見つかり、当時の悲惨な状況が伝わってきます。



高い場所に二つ並んだ一つ目の墓(記念碑)です。

両脇に三角に尖った門柱のようなものが備えられ、道から見上げる祭壇とも思える施設です。

ここも情報が見当たらず、文字や、横面・正面下の図柄の意味などは分かりませんでした。



二つ目の墓、ネイヴォレイア・テュケーと、夫のC.ムナティウス・ファウストゥスの墓と考えられている施設です。

正面のレリーフの上にはファウストウスの胸像、下にはファウストウスが多くの人々に小麦を施している様子が描かれているものとされています。

写真にはありませんが、向かって右の側面には船のレリーフがあり、ファウストゥスが海上交易により、富を蓄えたと考えられているようです。

石に刻まれた文字が、2000年の時を超えて当時の生活の様子や歴史を現代に伝えていました。


参考文献
「ポンペイの歴史と社会」ロジャー リング著、堀 賀貴訳
「POMPEI RICOSTRUITA」Maria Antonietta Lozzi Bonaventura著
「世界の生活史ポンペイの人々」ピーターコノリー著