昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「瓶ヶ森林道」に続く紅葉の絶景

2010年10月18日 | 四国の旅
10月16日、四国愛媛県西条市の南「瓶ヶ森林道」の紅葉を見物、標高1896.2mの「瓶ヶ森[かめがもり]」へ登ってきました。

「瓶ヶ森林道」は、愛媛県西条市と、高知県いの市に挟まれた四国山脈の尾根を縦断し、絶景が楽しめる道路です。

北海道旅行の記事を中断して掲載しました。



寒風山隧道の南から「瓶ヶ森林道」を進んだ最初のトンネルの上に紅葉が広がっていました。

少し広くなった路肩に駐車し、素晴らしい紅葉をしばし見物です。



四国愛媛県東部の地図で、瓶ヶ森林道への道は、①②③の順で走りました。

②西条市からは、国道194号を南下、寒風山トンネルを迂回するスピンカーブの旧道を通り、寒風山隧道を抜けると③瓶ヶ森林道入口の三叉路に至ります。

③寒風山トンネルからは、gooの地図で、「瓶ヶ森林道」付近の地図をご覧下さい。

地図右上には「瓶ヶ森林道」沿いにある主な山が確認できる地図です。



そそり立つ絶壁は、鮮やかに紅葉し、その向こうに「伊予富士」が見えてきました。

「伊予富士」の斜面を見ると、頂上付近の紅葉が次第に下に向って進んでいる様子が分かります。

(茶色に見える木は、濃いオレンジ色で、写真では表現出来ていません。)



「伊予富士」の下から見上げた景色です。

あまりにも鮮やかな紅葉に見とれていました。



「東黒森」が見えて来ました。

晴天に恵まれ、景色も一段と美しく、ゆっくりと走る「瓶ヶ森林道」のドライブは最高の気分です。

路肩の広くなった場所のほとんどで車を止めて美しい景色を堪能しました。



少し通り過ぎた「東黒森」を見上げた景色です。

見上げる絶壁のはるか上には笹に覆われた山頂が見え、その下に濃いオレンジの紅葉が広がっています。

ウラジロモミの濃い緑と、白く輝く白骨樹も間近に見上げると迫力のある景色でした。



「東黒森」を過ぎ、「自念子ノ頭[じねんごのかしら]」が見えて来ました。

深い谷を見おろす標高1701.5mの「自念子ノ頭」もここから見ると小さな丘のようです。

「瓶ヶ森林道」の最高地点の標高は、1690mで、この辺りは約1600m、すごい場所に来たものです。



「自念子ノ頭」を過ぎた辺りから「瓶ヶ森」周辺の山々が一望できます。

向って左に「石鎚山」、その右隣に「子持権現山」、右端には三角の「西黒森」が見え、中央付近が「瓶ヶ森」です。



「石鎚山」をズームで撮った写真です。

右手に丸い頂上の「子持権現山」、「石鎚山」の左手後方で三角にそびえるのは「二ノ森」でしょうか。



紅葉した「西黒森」です。

神鳴池[かんならしいけ]の石碑から少し東の道路脇に「自念子ノ頭」「西黒森」への登山口があり、「自念子ノ頭」方向へ少し登った辺りからの景色です。



「西黒森」を過ぎた辺りから見た「瓶ヶ森[かめがもり]」です。

南北に長い「瓶ヶ森」の頂上は、向って右の峰「女山」で、左の峰は「男山」です。

「瓶ヶ森」の斜面の紅葉も進んでいます。



林道から「瓶ヶ森」の斜面を見上げると鮮やかなオレンジ色の紅葉が輝いていました。

ウラジロモミの濃い緑が美しさを一層引き立てているようです。

「上黒岩岩陰遺跡」 1,2000年前の縄文人との対面

2009年10月14日 | 四国の旅
9月26日、四国カルストの帰り道、愛媛県久万高原町上黒岩の「上黒岩考古館」に立ち寄りました。

「上黒岩考古館」は、世界の考古学界から注目された縄文遺跡「上黒岩岩陰遺跡」の遺物展示館です。

「上黒岩岩陰遺跡」では、約12000年前(縄文時代草創期)、約10000年前、約8000年前(縄文時代早期)他の各地層から多くの貴重な遺物が発掘されています。

1961年、遺跡のすぐ隣の家に住む中学生の少年「竹口義照」さんが発見、「上黒岩考古館」の建物も遺跡を挟んですぐ隣に建てられています。

遺跡の場所は、松山市から高知市へ向かう国道33号沿いで、高知市の西に河口がある仁淀川支流の久万川川畔にあります。



「12,000年前女神石」と書かれた「上黒岩考古館」の入場券です。

この石は、約12,000年前の地層から発見された「石偶」で、最も注目された遺物のようです。

縄文時代の土偶は、よく知られていますが、この5cm弱の扁平な石に女性像が細い線で刻まれた「石偶」は他に類がない貴重な遺物だそうです。

神秘的なペンダントのようなデザインが気に入りました。



久万川の川畔に約20mの石灰岩の断崖がそびえ、下の斜面に造られた建物の中に「上黒岩岩陰遺跡」が保存されています。

遺跡を保存する建物の前は、駐車場、左手に「上黒岩考古館」、右手には民家(当時中学生だった発見者の家)があります。

石灰岩の断崖の下の窪みから見つかったことから「上黒岩岩陰遺跡」の名称が付けられたものと思われます。



「上黒岩岩陰遺跡」を保存した建物の中にある遺跡の写真です。

左手にある石灰岩の断崖と、右手の柵の間が遺跡の場所で、白い棒には年代別の地層の目盛が付いているようです。、

柵に沿った見学者用の階段から遺跡の写真を撮りましたが、入口の地面から2~3m低い所まで掘り下げられていました。



「上黒岩岩陰遺跡」付近の地図です。

国道33号が左手から右下に走り、右手の赤い部分は、景勝「御三戸嶽[みみとだけ]」です。

「上黒岩岩陰遺跡」の入口は、国道33号から久万川に架かる橋を渡るとすぐで、古民家「旧山中家住宅」も見学できます。



「面河川[オモゴガワ]」に巨大な岩がそびえ立つ「御三戸嶽[みみとだけ]」です。

国道33号から見た景色で、左手から流れ込む「久万川」と、「面河川」の合流する場所です。

「上黒岩考古館」の係の女性から聞いた話では、「上黒岩岩陰遺跡」や、「御三戸嶽」のような断崖をこの地方では「タキ」と呼ぶそうです。

「タキ」には「嶽」「滝」の他様々な漢字が使われていますが、「タキ」の名が付く場所は、古代祭祀場との関わりがある場合が多いように思います。

昔、巨大な岩の裏手の岸に「御三戸神社」があったそうで、社殿のない時代、この岩は磐座だった可能性もあります。(「御三戸神社」は「上黒岩考古館」のすぐ近くにあり、移設されたようです)

「上黒岩岩陰遺跡」の断崖も縄文時代に、祭祀の場だった可能性があるものと推察されます。



「上黒岩考古館」の建物です。

道路を左手に進むと「旧山中家住宅」があり、駐車場の後ろが「上黒岩岩陰遺跡」です。

建物は少々古びていますが、展示物の素晴らしさと、女性係員の分かりやすい説明にはとても満足しました。



「上黒岩考古館」に展示されていた遺跡の地層の図で、左手に石灰岩の断崖、右手に地層が描かれています。

1層から11層まで発掘し、主に4層(約8,000年前)・6層(約10,000年前)・9層(約12,000年前)から遺物が発掘されたそうです。



約12,000年前、縄文時代草創期の地層第9層から発掘された「石偶」で、右のスケッチは、石に描かれた女性の線画です。

「石偶」は、河原で採取されたと思われる直径5cm弱の偏平で丸っこい緑泥片岩に線を掘って描いたもので、同じような「石偶」が8個発掘されたそうです。

どんな道具化分かりませんが、堅そうな石によく線画を刻んだものだと感心します。



同じく約12,000年前の地層、第9層から発掘された「細隆起線文土器」です。

実物の写真がボケて、展示された写真を撮ったものです。

「細隆起線文土器」の模様は、細い粘土紐を表面に貼りつけ、模様を描いたとされています。

縄・貝などを押し付けた模様と違い、手間がかかそうな技法が既に縄文時代草創期にあったことに関心しました。



約10000年前の第6層から発掘された変成岩製のペンダントだそうです。

展示場の説明文に「左のは一つ穴で垂飾品 右のは二つ穴で人間の目をかたどっている?」と書かれていました。

一つ穴の石は、紐で首にぶら下げていたもの、右手二つ穴の石は、謎の物です。

しかし、この時代、一体どうやって石に穴を開けたのか興味のあるところです。

「上黒岩考古館」のパンフレットによると「弓矢がこの時代に初めてあらわれたことも明らかにされた。」とあります。

この地層から鏃[やじり]が発掘されたことによるものと思われます。



約8000年前(縄文時代早期)の第4層から発掘された成人女性の埋葬された骨です。

この人骨の保存状態が大変良いことに驚きますが、石灰岩のカルシウム分が骨の保存に効果があったと思われます。

同じ地層からは「鹿角製棒状耳飾り」「イモガイ」などの貝殻製垂飾品が発掘されており、この女性もおしゃれを楽しんでいたものと思われます。



約8000年前の第4層から発掘された成人男性の腰骨で、ヘラのような骨角製尖頭器が下部の写真のように突き刺さっています。

事故か、闘争か分かりませんが、手厚く葬られていたようです。

同じ地層から埋葬された二頭のイヌの骨が発掘されていたそうで、骨角製尖頭器と、犬を使い狩猟していた縄文人を想像します。

この「上黒岩考古館」の展示品はすばらしく、四国カルストに劣らぬスポットで、入場料100円で親切な説明もゆっくりと聞かせて頂き、とても感謝しています。

「四国カルスト」の散策

2009年10月05日 | 四国の旅
9月26日に行った、四国カルストの続きです。

前回は、姫鶴平から東の天狗荘まで、道路沿いの美しい景色を掲載しましたが、今回は、道路沿いのスポット、散策などを掲載します。



「地芳峠」[じよしとうげ]付近の道路南側に土佐藩の「唐岩番所跡」の案内板がありました。

前回掲載の地図にある⑤の場所で、国道33号から分かれ、国道440号をを南下、「地芳峠」から「四国カルスト」の道に入り、東に少し進んだ辺りです。

右カーブの先に岩の一部が見えていますが、全体はとても大きな岩でした。

東の「天狗荘」の隣にある「カルスト学習館」のビデオ説明では、「唐岩番所跡」の検問を逃れて土佐藩から脱出する者を捕えて死刑にし、見せしめに死体をこの岩に吊るしてしていたそうです。



案内板には「唐岩番所跡」の場所が書かれてなく、すぐ横の草むらだと思い写真に収めておきました。

「唐岩番所跡」は、土佐藩が伊予藩との陸路の境などに往来の検問をした施設で、18世紀の土佐藩には往来の増加もあり、番所は実に80ヶ所まで増えたそうです。

坂本竜馬たちの脱藩にもこのような番所の検問から逃れる危険な道中だったものと思われます。

■「唐岩番所跡」の案内板を転記します。
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唐岩番所跡
宝永元年(1704)唐岩番所として設けられ、厳冬積雪以外は下方の永野口番所より出張して番役を勤めた。
当時、番屋、便所、物置などがあり、庭前に池を配して防風用の樹木もあった。
現在は、敷地の一部と自然の築山も変形して少し残っている。
昭和58年度
高知県文化財保存事業
檮原町教育委員会
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姫鶴平の展望台に登る道の下に赤いトラックが駐車し、木の実の人形を販売していました。

姫鶴壮の向かいにあります。

写真右手に見える男性が店主のようで、一人の小学生を相手に手作り教室をやっているところでした。



トラック荷台に色々な木の実の人形が陳列されていました。

素朴で可愛らしい人形です。



五段城を少し東に走った道路南側に散策路があり、歩いて行きました。

ススキの散策路先の小高い丘の上にあづま屋がありますが、その左手に天狗高原の頂上が少しのぞいています。

11:30頃でしたが、次第に雲間が増えて日が陰る場面が増えてきました。

五段城と、天狗トンネルの間の道路脇に十数台の駐車場があり、散策路を南に進んだ場所です。



あづま屋から更に南に歩いた場所にコンクリートで造られた展望台があり、その下には人が入れるような場所になっていました。

鹿児島県の桜島で見た避難所を思い出しました。

左手から展望台に上がって行きます。



展望台の上から南(高知県)側を見た景色です。

コンクリートの周りは、岩で囲ってあり、転落防止の柵としているようです。

やっぱりこの下は避難所だったのでしょうか?



展望台から見下ろした景色です。

天狗荘から分かれた道が、高知県側に続いています。

四国の高い山の雄大さには感動します。



散策路から見た「五段城」で、尾根の少し手前が道路です。

右手は晴れ間、手前から左手は曇って、天気がめまぐるしく変化しています。

四国カルストの秋は、このススキが一番の景色のようです。



二人共、それぞれ一眼レフカメラを持ち、本格的に撮影されていました。

お話を聞くと絶滅危惧種の「ヒメヒゴタイ」の花が咲いていて、撮影しているとのことでした。



これが、教えられた「ヒメヒゴタイ」の花で、遠目にはアザミの花にも見えます。

一本の茎の先が枝分かれし、先端に数個の球形の花が付いていました。



天狗荘の西隣に「カルスト学習館」があり、立ち寄りました。

ここでは「四国カルスト」についてビデオや、写真などで分かりやすく説明されています。

最初にここで予備知識を得て「四国カルスト」を見て回ると分かりやすいと思います。

特にカルスト地形が出来るプロセスを図解で説明されており、理解できました。

又、ここから山中を東に歩いた場所に天然記念物の地割れ「大引割」「小引割」があることがビデオで紹介され、興味深く見せて頂きました。


「四国カルスト」で見た絶景

2009年09月30日 | 四国の旅
9月26日、愛媛県と、高知県の県境にある「四国カルスト」へ行ってきました。

「四国カルスト」は、「秋吉台」(山口県)「平尾台」(福岡県)と並ぶ「日本三大カルスト」の一つですが、その中で景色は最高です。

標高1,300mから1,400mの峰の道に沿った四国カルストの景色は、天気にも恵まれて素晴らしいものでした。

朝6:15に福山市の自宅を出発、四国カルストの道に交差する「地芳峠」に到着したのは10:00頃でした。



四国カルストの中で、妻が、一番気に入った景色です。

五段城付近から、はるか先の「姫鶴平」[めづるだいら]方向を見た景色で、なだらかなカルスト地形が広がり、赤い屋根の牛舎が見えます。

写真左上に風力発電機が見え、その横には「姫鶴荘」[めづるそう]の建物が見えます。



四国カルスト付近の地図です。

松山市から高知市まで走る国道33号のほぼ中間地点の愛媛県久万高原町の「柳谷支所」付近(地図①)から国道440号を②③④と進み、「地芳峠」から「四国カルスト」の道に入ります。

「四国カルスト」の道に入り、⑤から⑩までが今回楽しんだエリアです。

帰りの道は、⑩の天狗荘から整備された林道を走り、⑪を経由して③の地点で来た道に合流しました。

⑦から⑩までの点線で囲まれた区間は、今回掲載した景色を撮った区間です。



「四国カルスト」の道を進むと右手に「姫鶴荘」[めづるそう]がありました。

写真に見える「姫鶴荘」の建物はレストラン部分で、右手に2階建ての宿泊施設が続いているようです。

「姫鶴荘」の前まで来ると、突然素晴らしい景色が広がってきます。



標高1,300mの「姫鶴荘」の向かいの駐車場から道路左手(北)の眼下に広がる「姫鶴平」の景色です。

白い石灰岩が密集している中央の丘のはるか向こうに高い山が見えますが、方角と、形から「石鎚山」ではないかと思われます。

写真右手に広い駐車場があり、周辺は長い柵で囲った放牧場が広がっています。



「姫鶴荘」付近から東にのびる道の景色を撮った写真です。

2基の風力発電機の向こうに見える山は、五段城(地図⑧)のようです。

ここから東端の「天狗荘」まで、約4.5Kmの道のりで「四国カルスト」の絶景を楽しみました。



「姫鶴平」から東に進んだ辺りの道路わきに放牧された牛が草を食べていました。

ベージュ色の毛から「ジャージ種」の乳牛と思われます。

「ジャージ種」は、一般的な白黒の「ホルスタイン種」より濃厚な牛乳を出すようです。

四国カルストで放牧されている牛は、ほとんどツノが生えているようでしたが、妻は、ツノのあるこの牛を見て雄牛と勘違いしていました。

ツノがない牛は、小さい時にツノを除去して伸びないようにしているようです。



道路北側の斜面の下に黒毛の牛がいました。

向こうに見える山の手前には深い谷があります。

下の道路を軽四トラックが走っていますが、この後、写真左手を少し過ぎた辺りで止まって、牛を呼び集めていました。

呼ばれて小走りに集まる牛の様子は、なかなか可愛らしいものです。

栄養のある穀物飼料などを与えているのでしょうか。



上段の写真の少し東側で見た景色です。

山の斜面を見下ろし、ズームで撮った景色です。

切り立った山の斜面の手前に緩やかな起伏の草原が広がり、放牧の牛がのんびりと草を食べていました。

こんな景色をゆっくりとながめていると、心の底から和みます。



道の向こうに五段城が近づいて見えてきました。

この辺りには大小の石灰岩の岩がゴロゴロしています。

道路の両脇には柵に有刺鉄線が張られて、放牧の牛と仕切られています。



「五段城」付近から道路右手の南東方向を見た景色です。

この辺りには所々に道路脇が広くなった駐車場があり、ゆっくりと景色が楽しめます。

斜面中腹に見える道路は、上段の地図⑩「天狗荘」から高知県側(南)に向かうスピンカーブの道です。



「五段城」横の道路から見上げた景色ですが、頂上は見えません。

「五段城」の頂上は、標高1,455.6mですが、この辺りの道路の標高も1,420mと高く、四国カルストの道路では最も高い場所のようです。

以前に行った北九州市の南端にあるカルスト台地「平尾台」に「羊群原」[ようぐんばる]と呼ばれる場所があります。

「羊群原」の名の通り、遠くから見るたくさんの石灰岩は、本当に羊の群れに見えたのを思い出します。

■「五段城」横の駐車場に案内板がありました。
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五段高原
五段高原は四国カルストの中でも最も景観がすぐれており、標高は1,000mから1,456mあります。
晴れた日には、東に室戸岬、北に石鎚山が遠望できます。
車道のない時代には人々は歩いてここを越えていましたが、急な坂道を登る途中、緩い区間が五つあったことから、この名がつけられました。
近くのササ原には「巨人の踏切」と呼ばれる6㎡ほどの窪地があります。
この付近には、大小のドリーネ(石灰岩が雨水によって溶食された窪地)が集まっています。
特に大きいドリーネは直径が8m、深さは5mもあります。
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地図には「五段城」、案内板には「五段高原」とあり、違いがよく分かりません。



11:00頃、四国カルストの東端「国民宿舎 天狗荘」横の駐車場に到着、西を見た景色です。

向こうに見えるなだらかな山の頂上には散策路を歩いて登る東屋があり、左手に小高く盛り上がっている場所には展望台があります。

後ろ(東側)には天狗高原の山頂(標高1,484.9m)がそびえ、一帯には「天狗高原セラピーロード」と呼ばれる散策路があります。

今回、とりあえず、道路に沿った景色を掲載しましたが、次回には、ススキの散策路や、「カルスト学習館」などを予定しています。

見る方角で違う「石鎚山」の様々な姿

2009年07月22日 | 四国の旅
7月18日に「瓶ヶ森」の山歩きや、「瓶ヶ森林道」「石鎚石鎚スカイライン」から見えた「石鎚山」をたくさん写真に撮りました。

以前撮った写真と合わせ、色々な方角から見た「石鎚山」の写真を整理してみました。



2008-11-23 7:37 西条市壬生川[にゅうがわ]の南付近【北】から見た早朝の「石鎚山」です。

昨年秋、2008-11-26 愛媛県西条市の旅行で見た素敵な風景にも掲載した写真です。

少し積雪があり、見上げる「石鎚山」に神秘的な美しさを感じました。



2007-11-04 9:50 石鎚神社成就社【北北東】から見た「石鎚山」です。

最も近くから見た全景で、荒々しい山肌に「石鎚山」の偉大さを感じるようでした。



2009-07-18 12:06 瓶ヶ森【東北東】から見た「石鎚山」です。

天気が良く、澄み切った空気で、とても美しい「石鎚山」でした。



2009-07-18 9:43 「瓶ヶ森林道」自念子ノ頭付近【東】から見た石鎚山です。

手前に烏帽子の形をした「子持権現山」が見えます。
 


2009-07-18 13:12 「石鎚石鎚スカイライン」の土小屋付近の駐車場【南東】から見た石鎚山です。 



等高線の地図で「石鎚山」の標高1900m以上の峰(赤く塗った部分)を確認したところ、斜めの楕円形で囲んだ範囲に峰が並んでいることが分かりました。

標高1900m以上のベルト地帯が斜めに約1Km続き、屋根の棟のようです。

そのため上段の写真のように南東方向から見た最高峰の「天狗岳」は、正三角形に見えます。

■「石鎚山」の峰の標高を確認して見ました。
 弥山 1,974m、天狗岳 1,982m、南尖峰 1,982m
 矢筈岩 1846m、西ノ冠岳 1894m



2009-07-18 13:18 「石鎚石鎚スカイライン」【南南東】から見た石鎚山です。 

道路の向こうに雄大な「石鎚山」が現れ、急いでシャッターを切りました。



2009-07-18 13:39 「石鎚石鎚スカイライン」【南】から見た「石鎚山」です。

向って左の斜面にのぞいているのは「西ノ冠岳」でしょうか。 



2009-07-18 13:45 「石鎚石鎚スカイライン」の面河【南南西】から見た石鎚山です。

石鎚山の頂上が手前の山の上にのぞいています。

この方角からは、三角形だった山の形が完全に崩れできました。

標高1900mの峰が1Km続く頂上付近が、 切妻屋根の棟を斜めから見るような姿に見えます。

香川県高松市で見た一足早い満開の桜

2009年03月02日 | 四国の旅
3月1日、日帰りで四国の高松市へ行ってきました。

讃岐国の国分寺に立ち寄り、お参りしましたが、案内地図に伽藍跡があるのを知り、見に行きました。



10分の1の伽藍配置模型がありました。

実物題の築地塀も再現されており、古代にはこの付近が讃岐国の中心地だったのかと改めて周囲の景色を眺めていました。



伽藍配置模型のすぐ前の畑の端に花が咲いている小さな木がありました。

一見、梅の花かと思いましたが、どうも桜の花のようです。

向こうの家のそばには紅梅と、白梅と思われる木が弐本りました。



この花です。

雄しべが長く、よく目立ちます。

桜の品種のことは分かりませんが、早咲きの品種でしょうか。

既に満開状態で、驚きました。



アップで撮ってみました。

こうして見ると、なかなか優しそうな花です。

国分寺では「お接待です」と若い女性からつきたての草餅を頂きました。

妻には大きな草餅、私には小さな草餅でした。

肥満の私に配慮して頂いたのかもしれません。



国分寺へお参りした後、讃岐国の一宮「田村神社」へ行きました。

長い参道の途中から神社方向を見た景色です。

突当りに見えるのは神門ですが、そこをくぐると毎週日曜には参道の両脇に朝市「日曜五楽市」が開かれます。

訪れた時には、既に閉店時刻を過ぎて、2~3のお店が後片付けをしていました。



鳥居と、神門の中間地点に小さな桜の木があり、ここでも咲いていました。



この桜も長いおしべが目立ちました。

国分寺の桜と、同じ品種のようにも思えますが、違うようにも見えます。



アップで撮って見ました。

こちらの木は、国分寺よりやや日当たりが悪いのか、八分咲きといったところです。

徳島県東祖谷の「鉾神社」に参拝

2009年01月11日 | 四国の旅
10月12日 16:40頃、三好市東祖谷の「東祖谷歴史民俗資料館」を出て、大枝地区にある「鉾神社」を目指しました。

日が傾きはじめ、高い山に挟まれた東祖谷には早々と夕暮れが迫ってきました。



三好市東祖谷の大枝地区にある鉾神社の地図です。

地図の上に見える「鉾神社」は、国道439号線と平行して流れる祖谷川の対岸、A地点から約4Kmの山中にあります。

急カーブや、上り坂がうんざりするほど続く道を進んで行くと、「鉾神社」は、想像を超える高い場所にありました。



正面の広場から撮った「鉾神社」です。

この神社にある杉の大木があり、その根元に平家の落ち武者、平国盛が平家伝来の鉾を埋めたと言う伝説に魅かれて来ました。

神社には、大木が生い茂り、神秘的なイメージが漂っているようです。

この地方独特の自然石が積まれた階段の両側に、少し風化が進んだ狛犬が座っています。



神社の正面に向かってすぐ左隣に青いトタンに覆われた茅葺き屋根の農家がありました。

神社境内の端にも杉の大木が並んでおり、この集落の長い歴史が感じられるようです。

神社は、他に観光客も見えず、さびしい見物でした。



神社正面の石段の様子です。

驚くほど長い板状の自然石が、使われています。



素朴な神社の拝殿です。

すぐ横にイチョウの大木がありました。

しばらくすると、この辺りは黄色い落ち葉で覆われるものと思われます。

雨戸が閉まっていますが、お祭りにはここでどんな光景が見られるのか興味のあるところです。



拝殿の後ろに少し古くなった本殿が見えます。

床が低く、拝殿と同様、質素な建物です。



神社建物の正面に向って左側に大きな杉の大木と、小さな祠がありました。

太い杉の根っこがクネクネと伸びています。

まるで巨大な蛸の足が絡み合っているように見えます。

この杉の大木が、「鉾杉」かと勘違いしていました。



上段の杉の大木と、拝殿の間にあった石積みです。

何の施設かまったくわかりません。

一見、火を焚く神事でもする場所かと思いましたが、火の痕跡はないようです。



神社正面に向って右側の道路です。

突当りに平家の末裔と言われる「喜多家」が見えます。



■「東祖谷歴史民俗資料館」に展示されていた「鉾杉」と、武家屋敷「喜多家」のの説明文です。
「鉾杉」は、平家の末裔とされる「喜多家」のすぐ横にあったようです。
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天然記念物 鉾杉
昭和29.1.29日指定
樹周11m、樹冠20.5m、樹高35mの樹勢旺盛、樹姿整然とした樹令800年余のスギの巨木で、県内一の大きさを誇っています。
屋島の合戦に敗れ、この地に逃れてきた平国盛が、平家の守り神である鉾を祀ったといわれる"鉾神社"の境内にあり、平和を願ってこの杉を植えたという伝説を有することから「国盛杉」とも呼ばれており、武家屋敷「喜多家」のすぐ横にあります。
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道路から二段階の石垣の上に堂々とした武家屋敷「喜多家」が見えます。

藁葺[かやぶき]屋根の建物ですが、祖谷地方では最も大きな屋敷だそうです。

この屋敷のすぐ横に「鉾杉」があったようです。

見学の終了する17:00近くになっていたのであきらめて帰途につきました。



祖谷川を挟んだ対岸の山に夕日が当たっています。

標高約840mの鉾神社から見える山々は、いずれも1,000mを超えるものです。

手前の緩やかな斜面に刈取られた萱(かや)の山が、見られますが、茅葺き屋根の修復に使われるものと思われます。

この付近の民家の大半は、茅葺屋根をトタンで覆っています。

茅葺屋根の全面的な修復には大量の干した萱が必要だそうです。

毎年、少しずつ干した萱を蓄積して「喜多家」の修復に備えているのでしょうか。

東祖谷歴史民俗資料館で見た「平家の赤旗」

2009年01月02日 | 四国の旅
10月12日剣山を下山、三好市東祖谷菅生の小釆家住宅を見学した後、「東祖谷歴史民俗資料館」に立ち寄りました。



平家の落人伝説にまつわる平家の赤旗などが見られるとのことで期待して入って行きました。

■道路脇に「平家落人伝説」の案内板があり、転記します。
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「平家落人伝説」 参考文献(祖谷の語りべ) 平成五年

屋島の合戦に敗れた平国盛一族は、安徳天皇をお守りして、文治元年(1185)大晦(おおつごもり)東祖谷の大枝に入山した後、大枝名主の屋敷で勢力を伸ばし平家再興を祈願したが、ことを起こすことなく、この地に眠ったと言い伝えられている。
伝説の史跡(下記の史跡名に説明文がありましたが、省略します)
1.平家赤旗、2.七人塚、3.鉾神社、4.鉾杉、5.平家屋敷、6.剣山、7.平家の馬場、8.かずら橋、9.皇宮の太鼓田、10.装束石、11.八幡神社、12.安徳帝のご火葬跡、13.栗枝渡の地名、14.天皇森
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壇ノ浦の合戦まで安徳天皇が信じている者には、安徳天皇がこの地で亡くなられた伝説には少し違和感を感じますが、こんなにたくさんの史跡が残されていることには脱帽します。

各地に安徳天皇の伝説があり、この一帯の史跡も捏造[ねつぞう]の可能性が高いのですが、だまされる方が楽しくなる史跡だと割切って見物させて頂きました。



「東祖谷歴史民俗資料館」の入場券です。

平家の赤旗などの展示物が印刷されています。

館内には他に誰も見学者がなく、ひっそりとしていました。

かずら橋には多くの観光客が歩いていましたが、皆さんここにはあまり興味がないようです。



館内に入ると、東祖谷の農家の居間が再現されていました。

一見、情緒ある田舎の居間のようですが、標高700メートルを超える雪深い急峻な斜面に生きる生活は大変厳しいものだったと思われます。

各地の民俗資料館を見て歩きますが、このように古いものが並べられているものの、説明がほとんどなく、内容がよく理解できない施設が多くあり、残念です。



館内で、東祖谷の歴史などを紹介するビデオが放映されており、撮影したものです。

平家の末裔、阿佐家二十四代当主、阿佐愛子さんが紹介されていました。

阿佐家の建物は、一般公開されていませんが、本物の平家の赤旗が保存されているそうです。

屋島の戦いや、壇ノ浦の戦いは、1185年と伝えられており、824年前の出来事となります。

824年前の平家の落人を初代とした場合、二十四代では一代が34年平均になり長過ぎるようです。

阿佐家一代目は、落人となった時代からずっと後の時代の人だったものと推測されます。

阿佐家一代目は、今も謎のままです。

今考えると「東祖谷歴史民俗資料館」の見どころは、このビデオだったと思います。



「東祖谷歴史民俗資料館」の入場券に印刷されていた「平家の赤旗」を拡大したものです。

両方の旗には「八幡大菩薩」とかかれてありますが、赤旗とされる色はあせた黄色になっていました。(色あせたままをコピーしたレプリカでした)

「八幡大菩薩」には、戦勝を祈願する源氏のイメージがありましたが、平氏の旗にも使われていたことは意外でした。

「平家の赤旗」に説明文が添えられており、転記します。
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「平家の赤旗」
平家屋敷所蔵の大小二流の赤旗は、日本最古の軍旗といわれ国盛(教経)が屋島より奉持してきたと伝えられる。
大旗は赤と紫の二色染めで本陣用、小旗は赤一色で戦陣用であったという。ともに生絹を生地とし、アカネとムラサキを染料としているが、800年の年月は、赤を白茶に紫を黒に変色させてしまっている。所々に見える汚点は血痕である。この赤旗は、阿佐家や村人にとっては神そのものであり門外不出とされている。(現品はコピーです)
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平安時代末期頃の旗は「流し旗」と言い、写真のように旗の上部に木を取り付け、それを紐で竿にぶら下げるものだったようです。

旗が、戦国時代の映画にも見られる幟[のぼり]の形式になったのは室町時代以降のようです。

上の説明文に「大小二流の赤旗・・・」とあるように旗の数に「流」の単位がついているのも「流し旗」のなごりなのでしょうか。

平国盛(教経)は、清盛の甥で、平家一番の猛将として知られています。
又、壇ノ浦の戦いでは義経を追い詰め、八艘跳びで逃げられた話は、有名です。

平国盛(教経)が平家の総大将宗盛から安徳天皇をまかされて阿波の山中に逃げたことは、信じられないことですが、真実は分かりません。



平家の赤旗にある蝶の図を拡大した写真です。

向かい合ったアゲハ蝶が微妙にズレて描かれています。

軍を率いる武士の旗とは思えない優雅な図柄ですが、平家が家紋とした「対い蝶[むかいちょう]紋」のようです。

左右の形が、微妙に違い、デザイン化された家紋には見えませんが、これも平安時代末期との時代感覚の違いなのでしょうか。

鮮やかな赤い旗に、くっきりと描かれた当時の蝶を想像すると、大変美しいものだったと思われます。



歴史民俗資料館で頂いた落合集落のパンフレットの表紙の写真です。

対岸の山から撮影された写真で、美しい左右対称の急峻な山の中腹に造られた「落合集落」の様子が伝わってきます。

受付の女性に東祖谷落合集落を対岸から撮影出来る場所に行く道を尋ねたらこのパンフレットを頂きました。(インターネットに同様の景色の写真が掲載されていたので行きたいと思っていました)

この写真は、A3版を二つ折りにしたパンフレットの表紙で、詳しい落合集落地図も掲載されていました。(ありがとうございました)

既に日が暮れはじめていて「落合集落」の見物は中止としました。

次回の訪問では「落合集落」や、「栗枝渡の八幡神社」などの散策を楽しみにしています。

東祖谷の古民家「小釆家住宅」

2008年12月21日 | 四国の旅
剣山を下山して、祖谷地方の見物に行きました。

見の越から祖谷川に沿って国道439号線を西に走り、「奥祖谷二重かずら橋」へ立ち寄りました。

急な坂の入口にあった料金所の案内表示で、「かずら橋まで150m」とあり、登山で痛んだ足の状態を考えて、パスしました。

次に、三好市東祖谷菅生[ひがしいやすげおい]の小釆家[こうね]住宅へ行きました。



国道439号線沿いの東祖谷菅生の祖谷川に架かる橋を南に渡り、北向きの斜面を西に登って行くと「いやしの温泉郷」の駐車場があり、「小釆家住宅」は、そのすぐ近くにありました。

他に見学者はなく、ちょっとさみしい見学でしたが、高地の東祖谷の古い民家の様子がよく分かりました。

■「小釆家住宅」の案内板があり、転記します。
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重文、小釆家住宅について
                        昭和51年○月○日
旧小釆家住宅は、徳島県西部剣山地祖谷山に所在していた小規模な山村農家で、当村栗枝渡名の急斜面の山腹を切り開いた小台地に東面して建っていました。
かって天保の年号をもつ棟札があったといい当時新しく発達した構造手法が用いられている他、間取りは素朴であり、祖谷地方の民家を知るうえで好個の資料になるものとして昭和51年文化財保護法により重要文化財に指定されました。
???改造を受けて今日まで維持されてきたものの、破損甚だしく、所有者の維持管理が困難になったため昭和56年に東祖谷山村が買い上げ公有化していたものです。
このたび今後の併存活用をはかる目的で県ならびに文化庁の指導を受けて、同村菅生、青少年旅行村構内へ移築しました。
修理事業の総額費用4,200万円で、ならびに県から多額の補助金をうけ、昭和57年7月着工、工期14か月を要して昭和58年8月滞りなく完了しました。
今回の修理では創建当初の姿に復元したもので、往時を偲ぶ建物の再現を見るに至りました。
この文化財を広く世に紹介するとともに後世に伝える貴重な資料として各会界に利すること多きを期待するものです。

昭和58年8月
東祖谷山村教育委員会
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???の文字は、説明板の黒くなった部分で、読めませんでした。



建物の西側です。

藁葺き屋根は、青いビニールシートに覆われて痛々しさを感じます。

地方公共団体が赤字に悩む時代、藁葺き屋根を維持することは困難となっているようです。



建物の裏、南側です。



建物の東側です。

西側と同様、こちら側にも窓などなく、壁を竹で覆った素朴な建物でした。



北向きの斜面に建つ家の正面の様子です。

近くの国道沿いにカカシの人形がならぶ集落があり、そこにあった人形に似ています。
縁側は、太い木で剛健に造られているようです。

縁側に人形が二体置かれています。
近くの国道沿いによく似た人形がたくさん並ぶ集落があり、同じ人たちが作ったものではないかと思われます。



便所の西にある玄関を入ると土間があり、台所と、食事をする座敷がありました。

正面の座敷の上にも小さな釜戸がありますが、向かって左に大きな釜戸が並んでいました。



竹を敷き詰めた座敷です。

竹を敷き詰めた古民家は、沖縄地方の古民家で見たことがありますが、まさかここで見るとは意外でした。



台所側から見た囲炉裏のあるメインの部屋です。

天井がなく、屋根の下にある大きな梁が印象的でした。

天井のない藁葺き屋根は、なんとなく竪穴式住居を連想します。

竪穴式住居は、約1万2千年前の縄文時代初めころから平安時代末期頃まで造られ、その後掘立柱建物に変って行った歴史があります。

現代の基礎の上に立てる建物の歴史は、日本の長い歴史から見ると実に短いものと感じます。



正面から見た部屋の様子です。

台所との間の引き戸の上には壁がありません。

高地の急斜面での農業は、平地と比較して労働生産性も低く、住いの整備もこれが精一杯だったものと考えられます。

この建物から地方の人々が、厳しい自然に生き延びてきた苦労を感じます。



玄関脇の便所で、ここも竹の床です。

床の下には大きな木の樽が土に埋められていました。

大便も仕切りのない場所でしていたのでしょうか。



祖谷川を挟んだ対岸の景色です。

対岸が近くに見えて、間の谷が深い感じは受けません。


次の地図の等高線を見ると谷底が標高700m、小釆家住宅付近が780mで、谷から80mの標高差があります。

地図に「いやしの温泉郷」から「奥祖谷観光周遊モノレール」があり、標高1385m付近まで登って帰るようです。

愛媛県西条市の旅行で見た素敵な風景

2008年11月26日 | 四国の旅
11月22日・23日、愛媛県西条市の観光に行きました。

西条市は、石鎚山のふもとにあり、街の各所にきれいな湧水が流れている静かなイメージの反面、秋になると「西条まつり」があり、町中が熱くなるそうです。

福山からは「しまなみ海道」を通り約2時間で到着します。



2日目の朝7:40頃、西条市壬生川[にゅうがわ]の南付近から見た「石鎚山」の風景です。

やはり「石鎚山」には偉大さを感じます。

曇りでしたが、山頂付近は積雪で、白く光っています。

ふと、周辺を眺めると、なぜかこの田んぼだけ稲の刈入れが残っていました。



「伊曽乃神社」へ参拝しました。

西条市街の東を流れる加茂川に近く、国道11号線の加茂川橋の南、約1Kmの場所にあります。

「伊曽乃神社」は、式内社で、格式のある名神大社です。
景行天皇の皇子武国凝別命[たけくにこりわけのみこと](ヤマトタケルの兄弟)が、この地を開拓する時、天照大神を祭神として建てたと言われています。

神社の建物は、こげ茶色に、金色を基調とした個性的な建物です。
神殿は高床でしたが、拝殿は低床のため、格式を感じるものの、なんとなく親しみが持てる建物でした。

「伊予西条駅」の近くに「観光交流センター」があり、「西条まつり」の案内がされていました。

この「伊曽乃神社」の祭礼は、10月15・16日で、市内の「嘉母神社」「石岡神社」「飯積神社」でも各2日間、10月11日から17日まで勇壮なお祭りが開催されるそうです。

11/22には西条のだんじり発祥の「石岡神社」に行きましたが、写真は割愛します。



「伊曽乃神社」の駐車場を出るとすぐに子供たちの「だんじり」に出会いました。

白木の地味な「だんじり」を子供たちが担いでいます。

車を止めてカメラを向けると、一人が「ギャラリーがいるぞ」と叫んだので手を振ってやりました。

祭りは先月済んだばかりです。
もう来年にそなえての練習でしょうか??



西条市総合文化会館の横にある「うちぬき」と呼ばれる湧水の水汲み場です。

横の水路は「観音水」と呼ばれる湧水の池のようです。

「観音水」に沿って街の散策をしましたが、とても落ち着いたきれいな街です。



旧西条藩陣屋跡の正門に入る道に立って噴水を眺めていたら20羽くらいの水鳥が飛んできました。

約3m離れた場所から、ゆっくりと、しゃがんで撮りました。

この白い鳥は、あまり人を警戒しないようです。

水辺に立ち、遠くの雪山を見ていると心がなごみます。

この旧西条藩陣屋跡は、現在西条高校正門となっています。
正門は、屋根のある大きな建物で、堀に沿って左に「西条郷土博物館」「民芸館」があります。

「西条郷土博物館」を見学、地味な博物館でしたが、予想外に展示物が楽しめました。



国道194号線から見上げた「千町」の景色です。

後ろに見える「櫛ヶ峰」の中腹に造られた「千町」は、棚田で有名だそうです。

西条市から加茂川添いに194号線を南に進み、松山自動車道をくぐって2~3Kmの場所から見える景色です。

「千町」への道は、この写真の景色が見える少し手前に左折する道があります。



細い曲がりくねった山道(舗装の道)をしばらく進むと棚田のある集落があります。

これまで数ヶ所の棚田(棚田百選)を見ましたが、こんなスケールの景色は初めてです。

棚田の間にある坂道をかなり上まで散策しましたが、とても感動的な景色でした。

しかし、ここも過疎の波が押し寄せているようで、荒れた田が目につきました。

帰り道も同じ道をたどりますが、行き帰り共、途中の山道で日本猿に出会いました。



西条市から加茂川添いに194号線を南に進むと「風透トンネル」があり、すぐに笹ヶ峰登山口の案内標識が見えてきます。
標識に従って左折、右カーブしてすぐに左折するとこの「止呂橋」[とろきょう]があります。

止呂橋に曲がる手前の道端に車を置き、歩いて橋に進んでいくと素晴らしい景色が目に飛び込んできました。



「止呂峡」[とろきょう]の景色です。

急峻な高い山の上から深い谷底までダイナミックに紅葉が広がっています。

写真では紅葉の色がうまく出ていませんが、ため息が出るほどの美しさでした。
11月22日14:40頃に見たら谷底が日陰になっていて、翌日午前中に、再び見に行きました。



11月22日11:30頃の「止呂峡」の景色です。

橋の下で二つの谷川が合流し、谷底まで日が射していました。

谷底に橋の影も見えます。

緑の水がたまっている場所が「止呂淵」[とろがふち]で、合流した谷は向って左に流れています。

この「止呂淵」には「薄雲姫の伝説」があるそうです。



「止呂淵」をズームで撮った写真です。

前日午後、日陰になっていた時の色と違い、宝石アクアマリンのような素敵な色でした。

橋の上からこの美しい「止呂淵」に、しばし見とれていました。



寒風山トンネルを高知県側に抜け、しばらく進むとこんな場所がありました。

道端の桜が満開で、川端の紅葉や、向こうの山の景色が楽しめます。

たしかこの近くの道端にも数本の桜が咲いているのを見かけました。

最近、秋の桜をよく見かけます。

南の高知県側から見る山の景色は、よく日が当り、山頂に雪が見えません。

阿波南部最大の「大里古墳」

2008年06月24日 | 四国の旅
3/22の旅行、徳島県南部の海陽町の阿波海南文化村「海陽町立博物館」の続きです。



「海陽町立博物館」のパンフレットにあった館内の見取り図です。
赤い「A」の場所は、「大里古墳」の復元模型がありま、隣の「B」の位置には原寸大で、古墳の横穴石室が造られていました。
入口を入ると正面近くにあり、最初に見学しました。





「大里古墳」の復元模型です。
子供たちの歴史教育にも使える分かりやすい模型です。

■説明パネルがあり、転記します。
「大里古墳」
大里古墳(2号古墳)は、徳島県海部郡海陽町大里字浜崎34-4に所在し、海部川河口左岸に堆積した砂地状の台地の上に立地する。6世紀の終わりから7世紀の初めごろにつくられた古墳である。直径約20m、高さ4~5mの円墳で、墳丘内部に横穴式石室がつくられている。
入口は南向きである。横穴式石室の全長は11.20cmで、10m以上の横穴式石室は本古墳をふくめ、現在県下にわずか3例しか存在しない。
石室内の大きさは、遺体を置く玄室が長さ5.70m、幅1.95m、玄室に至る羨道が長さ5.50m、幅1.50mで、玄室部の高さは2.35mである。幅は玄門部が1.95m、羨門部が2.30mである。本古墳の石室上部をおおっていた天井石は玄室部が6枚、羨道部が2枚で、それぞれ推定約1~6tある巨石である。
石室の石材は砂岩が主に用いられている。「那佐石(なさいし)」といわれ、付近の那佐湾から、さらに化石漣痕のある石材は、宍喰浦付近から運ばれたのであろう。
本古墳の被葬者は、石室の規模からみて、在地の有力な首長であった。当時海部川下流域に、阿波の海を舞台とする文化のひとつの拠点が形成されていたことをうかがわせる。昭和27年に徳島県の史跡第1号として指定されている。



原寸大のジオラマ、古墳の横穴石室の一番奥にビデオ放映で、古墳造営の工事の様子をマンガで再現していました。


博物館に展示されていた「大里古墳」からの出土品です。
この遺物は、現存していない1号墳から出土したようです。



「大里古墳」の案内地図です。
「海陽町立博物館」の見学を終え、見当をつけていた大里松原の近くの道端で見つけました。



大里古墳がありました。
古墳は、写真に向かって左の奥にありました。
石碑や、古墳の説明板などがあり、古墳石室の入り口は、裏から手前の道路側に向かって造られていました。

■写真に見えている案内板を転記します。
徳島県史跡指定第一号
「大里古墳」
昭和27年6月25日指定
大里古墳(大里2号墳)は横穴式石室をもつ巨石墳である。墳丘の土は流失し、天井石が露出している。
推定高4~5m、直径約20mの円墳で、墳丘の周囲に濠をめぐらしていた。
石室は南向きに開口し、全長11.2m、羨道の長さ5.5m、棺を安置する奥の玄室の長さ5.7m、高さは2.3mほどである。石材は、地元で「那佐石(なさいし)」とよぶ砂岩である。
石室の長さは、県内では、四国最大級の横穴式石室をもつ美馬町段の塚穴古墳群の太鼓塚古墳に次ぐ。海部川流域の中心に海部地方一帯を掌握した、首長クラスの人物の墓であったと思われる。
発掘調査の結果、築造時期は6世紀であり、7世紀初めまで追葬が行われたと考えられる。大里松原の砂丘周辺には、数基の古墳が存在したと言われているが、本古墳だけが原形に近い状態を保っている。副葬品として出土した耳環や各種の須恵器をはじめ、石室の原形を復元したジオラマが海陽町立博物館に展示されている。
 平成12年6月25日 徳島県教育委員会 海陽町教育委員会


古墳石室の入り口で、戸が付けられ、カギもかけてあります。
入口のすぐ上に大木が生えています。



大里古墳の前には南西方向に向かう道があり、その先は短い下り坂があります。
道路脇に赤い椿の花が、散り始めていました。

「大里出土銭」、大甕に大量の銅銭があった

2008年06月21日 | 四国の旅
3/22の旅行、徳島県南部の海陽町の阿波海南文化村「海陽町立博物館」の続きです。



とても大きな甕(かめ)にたくさんの古銭があふれた展示がありました。
この博物館では「海部刀」と並ぶ売り物「大里出土銭」の写真です。

安心してお金を預けられる銀行などのない時代で、敷地に埋めて財産を守ったようです。
埋められていた場所は、海部川河口の北岸にある大里で、「大里の松原」や、「大里古墳」もある所です。

博物館に展示されていた年表によると刀工「初代 海部氏吉」(前回掲載)が、「海部刀」を本格的に造り始めたのが1300年代初め頃で、「大里出土銭」が埋蔵された時代は1300年代後半と推定されています。

この地方で海運が発達し、「海部刀」造りが盛んとなり、財をなした有力者が埋蔵した古銭と推察されます。


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■「大里出土銭」の案内板を転記します。
「銭甕」
この備前焼の大甕の中に70,088枚もの古銭が埋納されていた。
発見時、重機の爪で大甕は胴部より上が壊れたが、下部は土中に埋まった状態であった。古銭の埋納状態は、底部分の10cmほどが細い藁縄で通された緡(さし)であり、その上にバラ状態で古銭が入れられていた。このため、大甕内部には銭形の痕跡が無数に見られる。
この備前焼大甕の製作年代は、14世紀から15世紀半ば以前であるが、古銭の内容から察して14世紀後半と考えられる。
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■「大里出土銭」の写真左下にあった説明書きを転記します。
土中から見つかった大甕一杯の古銭
ここにならんだ銅銭は、この甕に納め、土中に埋められた古銭のうち、もっとも枚数の多かった皇宋通寶という渡来銭です。
この古銭一種類だけで9,677枚もあり、全体の約7分の1をかぞえます。中国の北宋時代に造られたお金で、初めて鋳造された年は1038年(平安時代中期)です。
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古銭の中心にある四角の穴にヒモを通して束ねられた「銭緡」(ぜにさし) が展示されていました。

この展示されていた「銭緡」1本が何枚か確認していませんが、室町時代の遺跡から97枚を1緡(さし)とした「銭緡」が多く発見され、1緡(97文)を100文とする商慣習があったと考えられているようです。
江戸時代になると1緡を96文が定着し、「九六銭」「省百」などと言われて堂々と百文で通用していたことが分かっています。

なんとも不思議な商慣習があったものですが、高額取引で、一枚づつ数える手間を省略する目的もあったようです。
現代でも硬貨で支払う場合、1種類で21枚以上なら受取りを拒否できる法律があるようで、銅銭の時代の知恵だったのでしょうね。

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■展示物に添えられている説明書きを転記します。
「銭緡」(ぜにさし)
甕の底から約10cmには、このような銭緡の状態で入れられていた。
これで5貫文分である。
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博物館に展示されていた「中世主要大量出土銭遺跡リスト」の一部です。
「大里出土銭」は全国第10位の枚数です。

写真のリストの続きには52位までがあり、我が地元の福山市「草戸千軒遺跡」は、27位の12,591枚で、やはり大甕に入れられたものが発見されています。

福山市にある「広島県立歴史博物館」に展示されています。



「大里出土銭」のコーナーに「中世主要大量出土銭遺跡リスト」の第1位、「志海苔出土銭」 の案内パネルがありました。
「志海苔出土銭」 は、北海道函館市志海苔町(しのりちょう)の中世の和人豪族が築いた館跡「志苔館跡」から出土したもので、14世紀後半に造られた越前焼(福井県)、珠洲焼(すずやき・石川県)の大甕に入れられていたそうです。

函館で、北陸地方の甕や、中国の銅銭が発見されたことを考えると交易はかなり広域で、大量に行われていたものと考えられます。
この時代は、東アジア全体に交易が発達し、琉球(沖縄)でも大交易時代が始まっています。

海部川流域でつくられた「海部刀」

2008年06月19日 | 四国の旅
3/22の旅行、徳島県南部の海陽町の続きです。



阿波海南文化村の海陽町立博物館に「海部刀」が展示されていました。
写真は、海陽町立博物館のパンフレットの一部にあった海部刀の展示の様子です。

「海部刀」は、鎌倉時代から海陽町で作られてきた日本刀だそうです。
中世には中国・朝鮮へたくさんの海部刀が輸出されたようです。

「海部刀」の特徴は、「片切刃造り」、「のこぎり刃造り」だそうです。
刃のついていない側が、のこぎり状になった刀が展示されていたのには驚きました。



海陽町立博物館に展示されていた「海部刀」の鍛冶場(推定地)が記された海部川流域の地図です。
最盛期には60人以上の刀工がいたようで、この地図にも20ヶ所以上の鍛冶場があったとしています。
河口の鞆浦港からは、大陸や、京都などへ送り出されていたものと思われます。

しかし、この海部川流域でなぜ「海部刀」が多く作られたのかよく分かりません。
原料の鉄は、砂鉄採取、たたら製鉄の工程がありますが、この海部川流域ではその形跡がないようです。
原料は、他の地から調達し、刀鍛冶だけを行ったものと思われます。



写真は、海陽町立博物館のパンフレットの一部にあった海部刀を作っている海部氏吉(うじよし)と、泰吉(たいきち)
のジオラマです。
左の顔の絵は、海部刀工の海部氏吉だそうです。

海陽町立博物館の石碑で知った小笠原諸島発見の歴史

2008年06月12日 | 四国の旅
3/22の旅行、徳島県南部の海陽町の続きです。



海陽町の「阿波海南文化村」へ行きました。
駐車場から一段高い場所に門があり、入ると「阿波海南文化村」です。



「阿波海南文化村」の案内図です。
コンサートホール、書画などの展示ギャラリーなど色々な施設がありました。
目的は、「海陽町立博物館」の見学です。
大里の古墳、中世の海部刀、出土した大量の古銭などの見学を楽しみに来ました。



「阿波海南文化村」の様子です。
正面の建物は、「工芸館」で、向って右奥の建物が「海陽町立博物館」です。



「海陽町立博物館」の入り口です。
若い男性の職員の方が、親切な案内をされています。



玄関脇に黒い石碑があり、「冥福」の文字が刻まれていました。
読んでみると驚くべき歴史がありました。

■石碑の説明文を転記します。
「冥福」
寛文10年(1670)阿波国浅川船・船頭勘左衛門・水主安兵衛・彦之丞・三右衛門等は、紀州でみかんを積み江戸へ回送中、暴風雨にあい、七十日余大海を漂流、あらゆる困難を克服して小笠原諸島に漂着。船頭勘左衛門は、疲労のため島にて死亡。小笠原の父島に冥福の碑がある。これが最初の小笠原諸島発見の史実である。
ここに浅川船・船頭勘左衛門一同の功績を後世に伝えるため、海南の地に冥福の碑を建立する。
平成十四年 秋の吉日 海南町



地図には、浅川港・小笠原諸島を黄色いポイントで表示し、水色部分に小笠原諸島の拡大地図を表示しています。
浅川船の遭難、漂着、帰還の情報をインターネットから集め、整理してみました。
①海南町の浅川港(黄色の印)の船が、紀州でみかんを積み、江戸へ向かった。
 海部地方では中世から海運が発達し、船乗り達が活躍していたようです。
②遠州灘で遭難し、漂流した。
 2月小笠原諸島に漂着し、漂流期間から推察すると12月頃と考えられます。
 お正月用のみかんを江戸へ運んでいたと思われますが、年末需要に臨時で頼まれた不慣れな航路だったのでしょうか。
③70数日漂流後の2月、小笠原諸島(黄色の印)の母島へ漂着、船頭勘左衛門は、疲労で死亡した。
 遠州灘から約1000km、真冬の太平洋の漂流は、地獄の日々だったと思われます。
 北東に向かう太平洋の海流に逆らい、冬の北風が南に運んだ可能性があります。
 それにしても広い太平洋の中で、小笠原に漂着した運のよさにも驚きます。
④小笠原諸島の母島から父島、聟島(むこじま)、八丈島を経て11月には伊豆へ生還した。
 難破船を修理して、島づたいに帰ったと思われます。
 航海経験が豊富な船乗りならではの快挙だったと想像されます。
 船の修理には道具や、材料も必要で、いったいどうやって直したのでしょうか。
⑤この話は、江戸幕府四代将軍家綱の時代で、幕府は小笠原諸島を調査し、「此島大日本之内也」と領有権を刻んだ碑を建てたそうで、当時は「無人島(ぶにんじま)」の名で呼ばれていたようです。

 船頭が亡くなったものの、故郷浅川港に帰った乗組員の家族の喜びは大変なものだったと思われます。

「鞆浦漁港」の風景と、「大式網」

2008年06月10日 | 四国の旅

鞆浦漁港の景色です。
海部川の河口側を背にして撮りました。(前回掲載の地図-①から南方向)

向こうの山裾には、鞆浦の集落が見えます。



鞆浦に関係する展示が、同じ日に行った「海陽町立博物館」にあったのを思い出しました。
展示品の各テーマの表示板で、「海の仕事」とあり、色々な漁具が展示されていました。



これが「海陽町立博物館」に展示されていた大きな網です。

■説明文を転記します。
「大式網」
この網は、正式には、鰤(ぶり)落とし網という。
400年前の江戸時代の初めに富山県ではじまる。
四国へは明治30年ごろ芸東海岸で、徳島県では、大正14年から鞆浦(ともうら)ではじまり、現在に至る。
多くの魚は、垣網(かきあみ)に当たると、沖合へ行く習性を利用し垣網に突き当たり、運動場、登(のほり)、一段箱、二段箱、へと追い込んで行くようになっている。



「鞆浦大式」の全景です。
定置網のようで、網の周りを海底に固定しているようです。

魚の習性を熟知した捕獲方式で、魚の立場になったらとても怖い仕掛けです。
とりあえず、漁師には魚を獲る苦労がなくなるようですが、獲りすぎて魚が少なくなったら新たな苦労が発生するという困った図式にならなければよいのですが・・・。



鞆浦漁港の北から西側を見た景色です。
漁業関係と思われる建物が並んでいます。

向って右の山が、海部城跡と思われます。



鞆浦漁港の北から東側を見た景色です。
漁船がさわやかな緑色に塗られ、漁港全体がとても清潔そうに感じます。
魚が腐った臭いが漂う漁港のイメージはまったく感じませんでした。

向って左側は、外海に近い所ですが、少し大きな船が停泊していました。

このこの港は、中世に海部川流域の産品を積み出し、海運で大いに栄えた歴史があり、またの掲載とします。