昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.3 幌延町 道道106号の雄大な景色

2010年07月29日 | 北海道の旅
北海道旅行2日目、旭川から稚内まで、ひたすら約250Kmの長い道を走りました。

旭川から稚内まで内陸部を通る国道40号を途中から外れ、天塩町から稚内市まで日本海沿いを走る道道106号(68Km)を通りました。

天塩川河口のある天塩町には「天塩川歴史資料館」があり、立寄る計画でしたが、駐車場が閉まっていたので断念しました。

日本の川の長さで第4位の天塩川に関する歴史資料館で、明治から昭和初期までは内陸部奥地まで手漕ぎの「長門船」が活躍していたこと等を知り、見学したかったのですが残念です。



天塩町から天塩河口大橋を渡り、幌延町を少し進むと風力発電の風車がたくさん並んでいるのが見えて来ました。

広大な草原には信号のない道路が延々と続いています。



北海道幌延町の「オトンルイ風力発電所」の場所を示す地図です。

国立公園に指定されている「「サロベツ原野」もすぐ北にあります。

サロベツ原野のビジターセンターで頂いた「ほろのべガイドブック」に「オトンルイ風力発電所」の案内文がありました。

■以下は「ほろのべガイドブック」の説明文です。
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北緯45度の風を利用したオトンルイ風力発電所
日本海に面した浜里地区は年間を通じて安定した電気を造ることができる風に恵まれています。総出力21,000kwの風力発電設備を用い、発電量は年間約5千万kw時にのぼり、約1万世帯の電力を賄うことができます。自然エネルギーを利用することで、二酸化炭素の削減効果は年間約5,400トンになり、石油換算では年間約12,000kℓ(ドラム缶換算で約6万本)の節減に相当し、地球温暖化防止に寄与できます。幌延の風力発電設備は、支柱の高さが約74m、3枚の羽根が描く円の直径は50m。巨大な風車が(28基)、一直線に並んでいるのは日本でここだけです。

オトンルイ風力発電所【設備概要】
・所在地   :幌延町浜里地区
・基数    :28基
・総出力   :21,000kW(750kW×28)
・タワー高  :74.0m
・ローター直径:50.0m
・発電開始風速:3.0m/s
・定格風速  :12.5m/s
・発電停止風速:25.0m/s
・定格出力  :750kW
・耐風速   :60m/s
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地平線が広がる草原に延々と並ぶ風車に感動しました。

道路から少し離れた場所にはるか先まで一直線に並んでいます。

中央付近で車を止めて数えてみましたが、パンフレットの記載通り28基でした。

道路を北に進んだ道路脇に北緯45度のモニュメントがありました。



とても高い風車がそびえています。

道路から脇道を入り、近付いて見ました。

地平線の上に遠く山並みが見えていますが、実に雄大な眺めでした。

これまで各地で見た風力発電機より高く感じます。

タワー高が74m、ローター(羽根)の直径が50mなら羽根の最高部が99mとなるはずです。



道路脇の草原あちこちに球状で、やさしそうな白い花が咲いていました。

「エゾノヨロイグサ(蝦夷鎧草)」でしょうか。

今回の北海道旅行で、初めて見た花です。

調べると、同じセリ科の「エゾニュウ」もよく似た花のようで、見分けがつきませんでした。



あきれるほど直線道路が延々と続く道道106号です。

内陸側のはるか向こうに牧場の建物が所々に見えていましたが、周囲には人家がありません。

信号のない直線の一般道路は、気楽に走れ、おまけに燃費も良好です。




「オトンルイ風力発電所」を北に少し走っていると突如トンネルのような施設が見えて来ました。

トンネルの縁の上に「浜里パーキングシェルター」と書かれています。

「シェルター」の名称から避難場所のようで、暴風雪の避難場所と思われますが、こんな施設を見るのも初めてです。



「浜里パーキングシェルター」を通過中撮った写真です。

両側が意外に広く、ゆとりがあるようですが、トラックが何台か駐車すると全長は短いような感じです。



日本海側に下りていく道があり、ちょっと立寄りました。

正面の海のやや右手は、利尻富士が見える場所ですが、雲に隠れて見えません。



海岸、南方向の景色です。

途方もなく長く続く砂浜でした。

大陸から流されてきたと思われる様々な物が砂浜に打ち上げられています。



海岸、北方向の景色です。

水辺に近付くと、ゴミはほとんどなく、黒い砂浜に根の付いた流木が印象的でした。

向こうに見えるのは稚咲内漁港の堤防でしょうか。



道路脇に「ハマナス」の赤い花が咲いていました。

海岸沿いの道道106号にはたくさん見かけます。

日常では見なかった花ですが、今回の旅行では各所で見かけ、すっかり馴染みの花になりました。

北海道旅行No.2 「神居古潭」散策

2010年07月26日 | 北海道の旅
北海道旅行2日目、今日は旭川市から稚内市までの約250Kmをレンタカーで走り、明日の利尻島、礼文島観光に備える予定です。

とは言え、せっかく旭川に泊ったので、朝から自由に行ける「神居古潭[かむいこたん]」に行きました。



旭川市街地から石狩川沿いに約10Km下った「神居古潭」に着いたのは朝早い7:15頃でした。

白く塗られた吊り橋「神居大橋」が石狩川に架かり、向こう岸に「旧神居古潭駅舎」が見えます。

「神居古潭」は、石狩川沿いの景勝地で、近くに「神居古潭竪穴住居遺跡」もあります。

「神居古潭竪穴住居遺跡」は、擦文時代(北海道の歴史区分、7世紀・飛鳥時代~13世紀・鎌倉時代後半)の集落遺跡で、9世紀後葉から12世紀頃の家の跡219軒が残っているようです。

ちなみに9世紀後葉は、菅原道真や、坂上田村麻呂が活躍していた時代で、ここでどんな生活が営まれていたのか大変興味のあるところです。

■旧神居古潭駅舎裏のプラットホームに「神居古潭」の説明板がありました。
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神居古潭
Kamui-Kotan
 神居古潭は、アイヌ語で「魔神が住む所」という意味です。両側から山が迫り、石狩川の川幅が急速に狭まるこの地では、川は渦を巻く激流となり、最深部は70メートル以上になります。古く、人々の交通手段が川を下る舟であった頃、ここでは多くの舟が激流にのまれ、このため、魔神が住んでいると怖れられていました。
 旭川地方に伝わるアイヌの伝説では、この魔神はニチエネカムイといい、様々な災いを起こして人々を苦しめたため、英雄神サマイクルによって滅ぼされたということです。また、神居古潭を中心に南北にのびる「神居古潭変成岩帯」は、大昔、北海道が形成されたとき、北海道の西半分と東半分がここで衝突し、つながったことを示すものとして、地質学上、世界的に貴重なものとされています。
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「神居古潭」周辺の地図です。

「神居古潭」は、国道12号の神居古潭トンネルを迂回する石狩川沿いにあり、駐車場も道沿いにありました。

石狩川に架かる「神居大橋」の右手が上流で、左手の下流側と比較して川幅が狭く表現されています。

石狩川は、大雪山系を源にし、鮭など豊かな恵みと、全国第3位の長さを誇る河川です。

地図左下隅に「穴居跡」とあるのが「神居古潭竪穴住居遺跡」のある場所と思われます。



「神居大橋」の上流側です。

両岸には、岩の岸が続き、流れも速いようです。

■「神居古潭」の駐車場にアイヌ語地名表示板がありました。
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アイヌ語地名表示板
カムイ・コタン 神居古潭[かむいこたん]
Kamui-Kotan
神 ・ 村
 舟が唯一の交通手段だった時代、両岸から奇岩怪石が迫る激流のこの地は、神(カムイ)に祈りを捧げて通らなければならない所でした。
 アイヌ民俗にとっては、大地も水も火も動植物もすべてが神様を宿す存在でしたが、通行人を苦しめる難所だったことから、ここでのカムイは魔神(ニッネ・カムイ nitne-kamuy)を意味するという説も有力です。
  旭川市教育委員会
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「神居大橋」の下流側です。

川幅が広く、流れもゆったりとしています。。

■「神居大橋」のたもとにアイヌ語地名表示板がありました。
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アイヌ語地名表示板
パラ・モイ
Para-moy
 広い ・ 湾

  旭川市教育委員会
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「神居大橋」のたもとの柱に「神居大橋」の銘板や、鳥の飾りがありました。

向こうの山の頂上付近には「神居岩」の岩壁が見えます。

■「旧神居古潭駅舎」の中にあったアイヌ伝説をガラス越しに見たものです。
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神居古潭のアイヌ伝説
神居古潭には、多くのアイヌ伝説が残されており、10数話ほどもありますが、ここではそのなかでも代表的な「サマイクル伝説」をご紹介します。 むかし、神居古潭にニッネカムイという凶悪な魔人が住んでおり、アイヌの人々を苦しめていた。あるとき、この魔人が、大岩を石狩川のいちばん狭いところに投げ込み、アイヌの人々を溺死させようと企む。これを見ていたヌプリカムイの熊は、アイヌの人々を救おうと岩を取り除いて水を流した。魔人は怒って熊に襲いかかるが、文化神サマイクルが現れ、格闘となる。遂に魔人がは力尽き、逃げ出すが、足を泥に取られたところをサマイクルの刀で切倒される。
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「神居岩」です。

地図には233mの標高が表示され、「旧神居古潭駅」の少し西から登山道が始まり、周囲を一周する道もあるようです。

「神居岩」は、「神居古潭竪穴住居遺跡」からも望めるものと思われ、古代から祭祀場となっていたものかも知れません。



「神居大橋」を渡り、坂道の途中に石碑がありました。

案内板によると大正時代の歌人「九条武子」さんが詠んだ「神居古潭」の歌碑とあります。

九条武子さんのことを少し調べてみました。
<1887(明治20)年~1928(昭和4)年>
浄土真宗西本願寺の第21代宗主の次女で、九条男爵へ嫁いだ後、歌人としての活躍以外に慈善活動や、現京都女子大の創設など幅広く活躍され、42歳の太く短い生涯だったようです。

又、「大正三美人」の一人と言われ、ここを訪れ神居古潭の急流を詠んだ姿は、気品ある美しいものだったと思われます。

■石碑の横にある案内板を転記します。
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九条武子 歌碑
 九条武子(明治20年~昭和3年)は大正期を代表する女流歌人のひとりで、九条良致[よしとも]男爵夫人として貧しい人々の巡回施療などに尽くした名流婦人として知られています。主な歌集として「金鈴」「白孔雀」等があります。
 旭川には大正11年と昭和2年に訪れ、神居古潭でこの歌を詠んでいます。
 書は、上田桑鳩によるものです。

 たぎつ波 ましろう白う 岩にちる
      神居古潭の くもれる真昼
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坂道を上ると「旧神居古潭駅舎」が見えて来ました。

蒸気機関車の車輪が展示され、明治の中央に便所の建物もあります。

茶色の屋根、黄緑色の壁が、森の緑に感じよく映えていました。



「旧神居古潭駅舎」の正面玄関です。

なつかしさや、親しみを感じる建物でした。

7:30頃で、鍵が掛けられて中には入れませんでしたが、中にはパネル展示がされていました。

■駅舎建物の脇に案内板がありました。
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旧神居古潭駅 旭川市指定文化財

 明治23年、北海道の内陸開発の拠点として旭川村が設置され、明治31年7月16日には空知太(現在の滝川)から旭川まで鉄道が開通した。
 当駅は、明治34年12月3日に神居古潭簡易停車場として設置、明治36年5月15日に神居古潭駅となった。
この駅舎および便所は、明治43年に建設された。その後、大正末期から昭和初期にかけて一ないし二度の増改築が行われたと推定されるが、建設当初の遺構はよく残されている。
 昭和44年9月30日、函館本線の納内~伊神居古潭駅駅間がトンネル化されたことにより、神居古潭駅は廃駅となったが、明治期の数少ない駅舎建築として貴重であることから、平成元年に神居古潭廃駅当時の姿形をもとに復元を行った。
建物は、典型的な小規模駅舎建築であると同時に、明治期における西洋建築意匠導入の特徴を残す数少ない現存例であり、道央・道北の鉄道発展史を考える上でも貴重な例である。
    平成3年3月31日指定
    旭川市教育委員会
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「旧神居古潭駅舎」の建物後方にはかつての両面プラットホームがあり、線路のあった部分は舗装されています。

駅舎建物の後方入口には「サイクリングロード休憩所」の看板があり、線路跡は転用されているようです。

プラットホームにはかつての表示板が残され、「神居古潭駅」の名と、前後の「納内駅」「伊納駅」の駅名が表示されていました。

■左手のプラットホームにあった付近の名所案内です。
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名所案内
神居古潭竪穴住居遺跡 西へ1.5Km国道12号沿い
 (北海道指定文化財)
神居古潭おう穴群   石狩川周辺吊橋から上流へ1.4Km下流へ0.2Km
 (旭川市指定文化財)
神居古潭ストーンサークル群  対岸神居山中腹 徒歩30分
夢殿観音       対岸トンネル上 徒歩15分
カムイスキーリンクス 高速ゴンドラリフト 2,400m
           全日本スキー連盟A級公認コース
桜・紅葉
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「旧神居古潭駅舎」への坂道を上がった左手に三連結のSLが展示されていました。

一番前には「29638」、次に「C57」、後ろは別名「デゴイチ」の「D51」です。

「29638」は、大正時代に造られた車両で、その他の2両も昭和初期に造られているようです。



「神居大橋」の少し上流の道路脇に「オオウバユリ」と思われる花が咲いていました。

アイヌ文化を紹介するDVDで、旧暦5月にはアイヌの女性達が丸い根の部分を採取し、デンプンを取る様子を見たことがあります。

この花を見て、「オオウバユリ(大姥百合)」の根を掘る古代の人々の姿を思い浮かべました。

北海道旅行No.1 富良野・美瑛地区の畑見物

2010年07月24日 | 北海道の旅
5月の沖縄旅行の記事を中止、北海道旅行へ変更します。

今回の北海道旅行は、7月14日から7月21日までの8日間で、以下が行程概要です。

1日目 福山市自宅~岡山空港→千歳空港~上富良野・美瑛~旭川泊
2日目 旭川~幌延~稚内~宗谷~稚内泊
3日目 稚内→利尻島→礼文島泊
4日目 礼文島→稚内泊
5日目 稚内~オホーツク海沿岸~網走泊
6日目 網走~知床~野付半島~弟子屈(屈斜路湖畔)泊
7日目 弟子屈~湖めぐり(屈斜路・摩周・阿寒・オンネトー)~士幌~帯広泊
8日目 帯広~南富良野~千歳空港→岡山空港~福山市自宅

北海道での移動はレンタカーで、千歳空港から8日間(フィット)、重複して利尻島4時間(軽四)、礼文島24時間(軽四)を借りました。

少し小雨がありましたが、概ね天気に恵まれた幸運な旅行になりました。



上富良野町「かんのファーム」の花畑で、16:30にやっと到着しました。

観光案内の写真通り、なだらかな丘陵に美しい花畑が広がり、妻は大喜びです。

自宅を9:00に出発、岡山空港11:25、千歳空港11:10から旭川市を経由して順調に到着しました。



家族連れで花畑を楽しそうに見物しています。

平日のためか、観光客もまばらで、天気にも恵まれてゆったりと見物できました。



畑のほとりにこんな警告の看板がありました。

畑の中に入ると罰金1万円!

右上の家族連れは大丈夫だったのでしょうか?



上富良野町の道を南東に進んでいると正面に高い十勝連山が見えて来ました。

高い三角の山が十勝岳でしょうか。

この一帯には黄色の麦畑、白やピンクの花が咲くジャガ芋畑、緑のとうきび畑が続いています。



富良野川に向って走っていると駐車場のある公衆トイレがあり、隣に大きな岩の上に立つ石碑がありました。

石碑には小さな文字がびっしりと刻まれ、読み取れませんでしたが、最後二行目に大正15年12月15日とあり、この石碑が作られた時期と思われます。


石碑の横にある案内板です。

案内板には「大正泥流の痕跡」とあり、その下の写真には大岩の左手には人の姿が見えます。

説明文には「記念碑の石」「大正15年5月24日、十勝岳噴火に伴う大正泥流により、運ばれてきた大礫」とあります。

妻に「大正泥流の痕跡」と伝えると、三浦綾子さんの小説「泥流地帯」にあった十勝岳の噴火で発生した泥流ではないかと言いました。

「大正泥流」とは十勝岳に積もった大量の残雪が噴火により急速に溶けて発生したもので、十勝岳の麓を泥流が襲い、死者・行方不明者144名、損壊建物372棟の深刻な被害が発生したそうです。

この石碑と、泥流で流れてきたと思われる大岩は、泥流の恐ろしさを後世に伝えるため遺されているものと思われます。

こんな厳しい歴史を忘れてしまったように美しい畑が広がる富良野・美瑛で、再び惨事が繰り返さないことを祈るばかりです。



美瑛駅の北の丘にある「北西の丘展望公園」です。

ピラミッド型の展望台からは、360度の広大な景色が見えました。

18:00頃、辺りの景色にも黄昏が近付いてきました。



「北西の丘展望公園」の景色です。

花畑には土が見えて少し殺風景ですが、周囲の美しい景色を堪能しました。



美瑛町のポプラの木、「ケンとメリーの木」です。

昔、「スカイライン」のCMで、この木の映像に流れていた「道の向こうへ 出かけようよ 今が通りすぎてゆく前に~」の歌詞は今でも懐かしく思い出します。

左の車からウェディングドレス姿の女性が道路を横切っています。

これもCMか、観光案内の写真撮影で、夕陽に映える花嫁姿をねらった写真でしょうか。



遠くの丘に「親子の木」が見えました。

丘に立つ木は、遠くから見る方が良いようです。



道路脇の畑にトラクターが動いていました。

飛行機の翼のように両側に長いパイプを広げ、農薬を散布しているのでしょうか。

はじめて見る光景です。



旭川方面に走っていると「セブンスターの木」がありました。

観光案内の写真では、広い丘の続く道端にぽつんと立つ一本のカシワの木でした。

しかし、木の横には写真では見なかった土産物店の建物や、自動販売機が並び、余りにイメージが違いました。

ここでも「ケンとメリーの木」の所で見かけたウェディングドレス姿の女性が来ていました。

妻によると、夕方の撮影は、女性の肌を美しく見せるのではと言っていました。

観光案内の写真と、余りに違うこの風景は、化粧した女性の顔と、素顔と同じ様なものだと納得した日でした。

北海道を旅行中です

2010年07月18日 | 北海道の旅
7月14日、北海道へ出発、4日目が終わり、残り4日になりました。

1日目は、美瑛町の花畑などを見物、2日目は旭川から稚内までの長距離を走り、3・4日目に利尻島、礼文島を見物しました。

今日は、稚内から網走に向かいます。



礼文島のトレッキング中、南部を歩く桃岩コースから見た利尻富士です。

観光パンフレットで見た夢のような景色が、そのまま目の前に現れました。

ただだだ感激でした。

地元の方のお話では、久しぶりの好天とのことで、運にも恵まれたようです。



3日目午前中に旅行した利尻島で見た利尻富士です。

利尻富士は、雲に隠れ、なかなか全容を見ることができませんでした。

これが一番よく見えた利尻富士で、欲求不満がつのる見物でした。

この欲求不満が、午後の礼文島で見た利尻富士の感激を一層大きくしてくれました。

油絵「ひまわり」

2010年07月12日 | 妻の油絵

妻の油絵「ひまわり」(F6号)です。

毎年のように描く花ですが、花瓶のない構図は初めてで、新鮮に感じます。

黄色の「ひまわり」の花言葉は、「あこがれ」です。

又、黄色は、風水でも西に飾ると金運アップする色と言われ、物事を好転させるイメージにつながっているようです。

元気のない時代と言われていますが、最近のひまわりは、ミニひまわりが増えて「金運アップ」への期待や、「あこがれ」の気持ちも小さくなってしまったのでしょうか。


美しい石門の「西森御嶽」

2010年07月07日 | 沖縄の旅
宜野湾市の森川公園の続きです。

森の川を見た後に、すぐ横の「西森御嶽」へ行きました。



広場の奥に「西森御嶽」[にしむいうたき]の石門が見えて来ました。

門の奥は、深い森が続いているようです。



門の入口付近が石で囲まれ、一段高くなっていますが、参拝するエリアでしょうか。

濃い緑に覆われた石門には沖縄らしい風格を感じます。



石門に沿って左に進むと、塀の後方の森の中に石碑が見えて来ました。

小高い場所に自然石の石碑が見え、その下段には細長い木の標識に「市指定史跡 西森碑記」と書かれてあります。

最初の写真の一番左手にある白い案内板に近付いた辺りで、塀越しに撮った写真です。

■白い案内板にこの石碑の説明文がありました。
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宜野湾市指定史跡
 西森碑記[にしもりひき]
                               平成3年8月1日 指定
 この石碑は高さ120cm、幅30~60cm、厚さ10~22cmのニービヌフニ(微粒砂岩)でできている。
 尚清王(在位1527年~1555年)の第七子を初代とする向氏[しょうじ]伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正[ようせい]3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
 碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親[おくまうふや]とが出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村[ぎのわんまぎりじゃなむら]の野国掟[のぐにうつち]の娘で、名を城[ぐすく]の大按司志良礼[うふあんししられ]といい、尚清王の夫人である。私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟[のぐにうつち]は奥間大親[おくまうふや]の末裔であるという伝説があるからであろう。
 これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
 大清雍正[ようせい]3年9月吉日、向和憲垣花親方[うぇーかた]朝理・向良顕伊江按司[あじ]朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
 碑文の末尾の人物は三司官[さんしかん]の向和声を含めいずれも伊江家の子孫たちである。
 平成4年3月
                                宜野湾市教育委員会
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石門の左端から少し後方に回り込み石塀の裏側を撮った写真です。



「西森碑記」の石碑の下の様子です。

黒い石に「奥間大観」「察度王」「天女羽衣」の文字が並び、その上に天女のシルエットが刻まれています。



石門の右手に小さな赤い花がたくさん咲いていました。

この場所は、天女の夫「奥間大観」の住居や、墓があったとも言われています。

「西森碑記」の案内板では、1725年(江戸時代中期)に造られとされるこの石門などの施設には、なぜか古めかしさを感じません。

美しい花を植え、天女の帰りを待つ「奥間大観」や、子供達の願いがこもっているのでしょうか。



ここにも戦争犠牲者の慰霊碑がありました。

島全体が戦場となり、多くの犠牲者を出した沖縄では各地で慰霊碑をよく見かけます。

悲惨な戦争を絶対に繰り返さないためにも歴史をよく学び、未来を考えることが大切です。

雨の日の沖縄観光は、各市町村の歴史資料館などで、歴史を学んではいかがでしょうか。

琉球のはごろも伝説の舞台「森の川」

2010年07月04日 | 沖縄の旅
浦添美術館から北東方向へ約4Km、米軍普天間飛行場の南西に隣接した宜野湾市の森川公園へ行きました。

森川公園には琉球三山分立時代の中山王察度の生誕にまつわる「はごろも伝説」があることを知り訪れたものです。



駐車場から進んで行くと右手に「森の川」、その左手奥に「西森御嶽」の石塀が見えます。

更に「西森御嶽」の左手には戦争戦没者の慰霊碑「森川之塔」がそびえていました。



石垣で整備された「森の川」です。

右手の道を進むと正面左奥に見える拝所へとつながっています。

深い森、草に覆われた石垣を見ていると普天間飛行場に隣接していることを忘れてしまいそうです。

■「森の川」の案内板があったので転記します。
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沖縄県名勝 宜野湾市 森の川
                     1967(昭和42)年4月11日指定
                     2000(平成12)年5月19日追加指定
名勝「森の川」は天女が降臨し沐浴したという「羽衣伝説」の舞台となったところです。「球陽」などの古文書によると、天女は奥間大観なるものと結婚し、一男一女を授かり、のちにその男子は中山王察度になったと記されています。
察度王は1372年に公式に初めて中国明と外交を開いた人物として知られています。
泉の東隣には村の聖地であるウガンヌカタがあり、そこに立つ石碑(西森碑記)に、泉は1725年に向氏伊江家の一族により、石積みで建造されたことと、そのいきさつが記されています。
この泉はまた真志喜の重要な泉で、子供が出生したときの産水、正月の若水をとる泉であり、地域の方々との結びつきが深く、大切な場所です。
 2003(平成17)年3月設置 沖縄県教育委員会 宜野湾市教育委員会
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森の川の入口に陶板に描かれた「森の川」の絵がありました。

地元の子供が描いた絵でしょうか。

中央の水場では、水を汲む人や、洗い物をするが描かれています。

左手奥には拝所で手を合わせる人も描かれています。



水場には飛び石があり、洗い物などをするのは3~4人が限度のようです。

沖縄の各地にある泉の施設では小さい方だと思いますが、何故か品の良さを感じます。



石垣の穴からきれいな湧水が流れ出ています。

水量が少ないようですが、隣接の広大な土地が飛行場になったためでしょうか。



入口付近から右手にある坂道です。

坂の上には白いユリが咲き始めていました。



ハブか?!

坂道の途中で、茶色い細長いものが目に飛び込んで来ました。

足を止め、よく見ると大きな豆のサヤのようでした。

ちょっと驚かされました。

50cmを超える長さで、ホウオウボクの豆のサヤだったのでしょうか。



道の突き当たりに石の壁で囲まれた拝所がありました。

水場の入口から左手奥に見えた場所です。

石の壁に小さな入口が見えます。



拝所の入口の前から水場を見下ろした写真です。

昔、天女が沐浴をしていたのはこの辺りでしょうか。

「はごろも伝説」では奥間大観が沐浴する天女を見つけ、「はごろも」を隠した上、親切のふりをして天女を家に連れ帰ったそうです。

その後、天女は妻になり、一男一女を授かったそうですが、女の子が家に隠していた「はごろも」を偶然見つけてしまい、天女は「はごろも」を着て天に帰ってしまいました。

同じような「はごろも伝説」は日本各地に伝わっています。

しかし、その後、男の子が成人して察度王となったストーリーは、森の川の「はごろも伝説」の特徴で、王の正統性を天女の血統としてアピールするものだったと思われます。

現代の感覚から見ると、一人で沐浴して天に帰れなくなった不用心な母。羽衣を隠し助けるふりをして天女を妻にしたずる賢い父。これらの話は、あまり自慢できるものではないようにも思われます。



拝所の中を石塀の上から撮ったものです。

水の神様が祀られているのでしょうか。



石塀の中は門のように四角に窪んだ場所があり、ここに向って祈るようです。

私も手を合わせて一礼、ごあいさつをして帰りました。



石塀に囲われた拝所の中から小さな入口方向を撮った写真です。

拝所の中は、意外に広く感じました。

昔ながらの石造りの施設や、周囲の緑に心が癒されました。

油絵「紫陽花」

2010年07月01日 | 妻の油絵

妻の油絵「紫陽花」(F6号)です。

梅雨に、しっとりと咲くイメージを出したかったそうです。

先日、母から聞いたことですが、実家の庭に毎年咲く紫陽花は、土壌が酸性のために青色の花がを咲かせるそうで、アルカリ性の場合、赤い花が咲くそうです。(品種名は忘れました)

リトマス試験紙の色の変化と逆ですね。

又、その紫陽花は亡くなった叔母からもらって植えたことも聞き、懐かしい想い出がこみ上げて来ました。