昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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広島県立歴史博物館の特別展「姫谷焼」

2008年05月27日 | 日記
福山市西町にある「広島県立歴史博物館」の特別展「姫谷焼-備後に花開いた初期色絵磁器-」を見に行きました。

「姫谷焼」は、江戸時代の初め20年間、広島県福山市加茂町姫谷で作られた焼きものです。
日本の色絵磁器の産地には有田・九谷が知られていますが、この姫谷は第3の産地だったようです。

地元でも15年ぶりの展示だそうで、残存する約100点の内、約50点が揃った展示で、めったにないチャンスです。

最近、「広島県立歴史博物館」の入館料は、大幅に値下げされ、一般で290円になっていました。
高校生まで無料なので、もっと利用者が増えるといいですね。



広島県立歴史博物館の玄関に「姫谷焼」の大きな看板がありました。

看板の向って右に、皿へ絵を描いているマンガのキャラ「イチエモン」があります。
姫谷焼の伝説の陶工「市右衛門」から考えたようです。
館内に「市右衛門」の墓の写真パネルがあり、姫谷焼窯跡の近くにあると紹介されていました。

■看板の内容を転記します。
幻のやきもの
15年ぶりに出会う姫谷焼

平成20年度春の展示
姫谷焼(ひめたにやき)
一備後に花開いた初期色絵磁器-

4月25日(金)→6月8日(日)
広島県立歴史博物館



パンフレットに掲載されていたお皿の絵柄(左)と、お皿の写真です。
赤・黄・緑・青・紺とカラフルですが、素朴さのある美しい絵柄です。

■「姫谷焼」のパンフレットに記載された案内文を転記します。
幻の姫谷焼
 広島県の備後地方には、古くから姫谷焼と呼ばれる色絵磁器の血がいくつか伝えられてきました。これらのやきものは、現在の福山市加茂町百谷にある姫谷という場所で焼かれたものと伝えられていました。しかし、いつ、だれが、何のために製作したのか、どのような作品が製作されたのかなど、その実体は明らかでない点が多く、長らく幻の姫谷焼とも呼ばれていました。

窯跡の発掘調査
 戦前には、当時の深安郡広瀬村大字姫谷(現在の福山市加茂町百谷)に姫谷焼の窯跡が存在することがつきとめられました。そして、戦後の昭和52・53年までに何度かの発掘調査が実施され、姫谷焼の研究は大きく進展しました。
 現在では、姫谷焼は有田焼(佐賀県)・九谷焼(石川県)とともに江戸時代前期に製作された初期色絵磁器の一つであること、色絵のほかに染付・白磁・青磁・陶器なども製作していたこと、17世紀後半の限られた時期に製作されたことなどが明らかになっています。

15年ぶりの展示会
 姫谷焼の作品には個人蔵のものが多く、それらを鑑賞する機会は決して多くありません。そこで、このたび広島県立歴史博物館では福山ロータリークラブとの共催により、地元に伝えられている代表的な姫谷焼の作品に触れるための展示会を介画しました。
 姫谷焼の展展会としては、平成5年に福山城博物館で開催されて以来、15年ぶりの企画です。ぜひこの機会に、江戸時代前期の一時期、備後に花開いたやきもの文化の精華をお発しみください。



パンフレットに掲載されていたお絵皿の写真です。
古さを感じさせない落ち着いた親しみの持てる絵柄です。

展示品の中には同じ絵柄の皿が数枚並んでいるものがありました。
よく見ると少しづつ絵の違いがあるものの、それぞれが美しく、熟練した職人の手書きの技能を感じさせられます。

地元の江戸時代の文献「西備名区」(馬屋原呂平)では、福山藩主となった水野勝成が若い頃、親から勘当されて諸国を徘徊していた頃、姫谷焼の窯に滞在し、作業を手伝ったことや、後に福山藩主として赴任した後、窯の主人を援助して苦労の多い焼き物作りから引退させたことが書かれています。

しかし、陶器の生産開始年代と、水野勝成が諸国を徘徊していた時代に明らかなズレがあるそうです。
4代藩主の水野勝種が関っていた説もあり、姫谷焼にはまだ多くの謎に包まれているようです。

初代福山藩主水野勝成は、徳川家康の従兄で、福山駅近くにある「天下橋」も家康(天下様)との縁で造られたと言われています。
バラ祭りの5月18日、福山市船町商店街の景品付きクイズで「天下橋」が問題になっていました。
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北の地で見た「弁慶」

2008年05月24日 | 東北地方の旅
岩手県奥州市「えさし藤原の郷」のつづきです。



「えさし藤原の郷」へ入場するとまもなく「義経館」があり、続いて「弁慶館」があります。
「弁慶」は、「武蔵坊弁慶」といい、最期まで「源義経」に仕えた僧兵です。



ナギナタをかまえた弁慶の人形がありました。
この人形の構えは、なんとなくぎこちない感じです。

後ろに擬宝珠(ぎぼし)のついた高欄があり、おとぎ話にある牛若丸と闘った五条の橋の場面でしょうか。



「弁慶の薙刀と鉄下駄」という体験コーナーがありました。
さっそく薙刀(なぎなた)を手に取り、鉄下駄を履いてずっしりした重さを体験しました。



安宅の関のセットがありました。
こちらは出口です。

安宅の関は、石川県小松市の海岸近くにあったとされていますが、実在を否定する説もあるようです。



有名な勧進帳の安宅関の場面です。
京都から平泉への逃避行を続ける義経一行が、安宅の関で関守の富樫左衛門に正体を見破られそうになった時の場面です。
弁慶は、山伏のリーダーとして新米の山伏「義経」を金剛杖で叩き、疑いを晴らした話は有名です。



「伽羅御所」のセットの建物の中に「笈(おい)」、と弁慶の下駄が置かれていました。
案内には「弁慶の小道具、記念撮影にお使い下さい」と書かれていました。



翌日、「中尊寺」を拝観しました。

月見坂を進んでいくと「弁慶堂」に上る石段がありました。


「弁慶堂」は、神社のような建物でした。

「弁慶堂」の正面左におみぐじの自動販売機が置かれていたのでこちらから撮りました。
消火栓の赤いボックスなら法律もあり、仕方ないのでしょうが、おみぐじの自動販売機の設置場所は、雰囲気を考慮して欲しいものです。



弁慶堂の中をのぞいてみました。
義経、弁慶、二体の木像が安置されていました。

義経はともかく、僧兵姿を見慣れている弁慶の鎧姿は、異様にも見えます。
二人は、ややうつむき、死を覚悟した場面にも見えてきます。

■入口にあった案内板を転記します。
この堂は通称辨慶(べんけい)堂という
文政九年の再建である。
藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀愛宕宮と称したそばに、義経と辨慶の木像を安置す
辨慶像は文治五年四月高舘落城とともに主君のため最後まで奮戦し衣川中の瀬に立ち往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の馨及安宅の関の勧進帳に義経主従が背負った笈(おい)がある代表的鎌倉彫である



写真に向って右側に北上川が流れ、左側には新幹線の高架が続き、その先は衣川を渡る橋になっています。

義経や、弁慶が最期を迎えた場所はこの場所から見えているものと思われます。
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平泉町「無量光院」、北の地にあった極楽浄土の世界

2008年05月21日 | 東北地方の旅
昨年10月8日の旅行で行った岩手県奥州市「えさし藤原の郷」のつづきです。



「えさし藤原の郷」の「伽羅御所」の前に庭園と、池があり、その向こうに「無量光院」を再現したセットが見えています。

「無量光院」は、奥州藤原氏三代秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂をまねて造った寺院だそうで、平泉にあった秀衡の屋敷「伽羅御所」に隣接して造られた寺院だったようです。



正面から撮った「無量光院」の景色です。
建物の前の木は、小さなものを選んで植えてあるようですが、後ろの山の木が大きく見えます。
よく見ると実際の建物より小さく造られているようです。
テレビや映画の制作では、建物の背景となるこの山は、画像処理技術でカットするのでしょうか。



「えさし藤原の郷」の後、平泉町の「無量光院跡」へ行ってみました。
この写真は、「無量光院跡」の案内板にあった建物の再現図です。

下の説明文にもあるように寺院の背後に富士山の形に似た金鶏山(高さ98.6m)があり、秀衡が造らせた山とも言われているようです。(上の絵にはありません)

■現地の説明書きを転記します。
特別史跡無量光院跡
無量光院は三代秀衡が建立しました。モデルは宇治の平等院鳳凰堂。鳳凰堂は、「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供まで唄われました。無量光院もまた仮想の極楽浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像。西方に極楽あり、その主は阿弥陀如来なのです。春秋彼岸の頃、無量光院の正面に立つと、西方にある金鶏山の真上に日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったのです。



無量光院跡にある「中島の跡」とされる場所です。
上の絵にあるように池に浮かぶ島だったようです。

現在、平泉の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)を中心とした地域が世界遺産登録に申請されているようです。
この平泉が、浄土思想を基調とし、浄土の世界を具現化した史跡であることが、ユネスコ世界遺産登録を申請した趣旨だそうです。



発掘ではこの辺りに建物の礎石や、池の跡などが確認され、極楽浄土を感じさせる美しい建物があったようです。

「無量光院」の「無量」は、各地にある「無量寺」でなじみがあります。
「阿弥陀如来」の光が無限に十方世界を照らすということから「無量光如来」とも言われることに由来しているようです。

「阿弥陀如来」にちなむ「無量」と言う言葉が、日本の数字の桁の名で最も大きいのが10の68乗「無量大数(むりょうたいすう)」にも使われています。
インドから中国を経て伝わった仏教ですが、「阿弥陀如来」にちなむ名称が科学で使う最高の数字の桁名に使われることはいかにも東洋的だと感じます。



この辺りは発掘中と思われる場所です。
これまでの発掘調査では、東西約240m、南北約270mの規模で、京都の平等院を凌ぐ大きな寺院だったようです。



平泉町「中尊寺」のかっての覆堂が別の場所に移設され、その中に「無量光院」の絵が展示されていました。
背後に富士山に似た「金鶏山」が描かれていました。

「金鶏山」の麓には高館で亡くなった源義経の妻子の墓があるそうです。
最期まで義経に連れ添った妻は武蔵の国の武士の娘だったそうです。
生まれ故郷の武蔵の国から見た富士山の話を義経の妻から聞いていた人が、死を憐れみ、富士山に似た「金鶏山」の麓に葬ったのかも知れません。

■説明書きを転記します。
無量光院 及川文吾作
新御堂とも云い、藤原秀衡将軍の建立で、金容丈六阿弥陀如来が安置されました。院の結構地形に至るまで宇治の平等院をかたどったみのでしたが、天正年間に焼亡し、今は田圃に変り、残礎断石離々として其のいにしえを語るのみであります。
又、遥かに見える金鶏山の社は平泉の鎮守総社で熊野権現の遠景です。
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「えさし藤原の郷」の「義経持仏堂」と、平泉町「高館」

2008年05月18日 | 東北地方の旅
岩手県奥州市「えさし藤原の郷」のつづきです。


平泉町の高館にあるお堂を模した「義経持仏堂」のセットがありました。
高欄の付いた廻り縁にナギナタをもった弁慶像が立ち、中に義経の座像があります。

源義経は、「持仏堂」で、最期を迎えたそうです。
たくさんの弓矢を撃たれた弁慶が仁王立ちを続けていた「弁慶の立ち往生」と言われる場面もこの「持仏堂」を守るとしたらすぐ近くだったと思われます。



翌日、平泉町「高館(たかだち)義経堂」へ行ってみました。
最後の石段から「高館義経堂」を見上げたところです。



「高館義経堂」は、1683年(天和3年)、仙台藩主伊達綱村(第4代)が義経を偲んで建立したものだそうです。
伊達綱村は、正宗の曾孫に当ります。
父の3代藩主綱宗が、遊興放蕩三昧で強制的に隠居させられ、綱村が2歳で藩主となった事件は「伊達騒動」として知られています。



お堂は、想像以上に小さなものでした。

■案内板にあった説明文を転記します。
「高館 義経堂」
ここ高館(たかだち)は、義経最後の地として伝えられてきた。
藤原秀衡は、兄頼朝に追われて逃れてきた義経を平泉にかくまう。
しかし、秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺言に背いて義経を襲った。
文治五年(1189年)閏四月三十日、壱台の英雄義経はここに妻子を道連れに自害した。
時に義経31歳。
吾妻鏡によると、義経は「衣河館(ころもかわのたち)」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばれるこの地は、「衣河館」だったのだろうか。
ここには、天和三年(1683年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られている。
頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてた東に束稲の山なみが眺められる。
束稲山は往時、桜山と呼ばれ、西行が山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠じた。
また、元禄二年、俳聖松尾芭蕉が、「おくのほそ道」で詠んだ「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、この場所といわれている。
平成六年四月 平泉観光協会



すぐ下の道のそばから北上川が見下ろせ、「高館展望説明図」という案内板がありました。

江戸時代、伊達綱村が義経終焉の地としたこの山は、標高66mで、平泉では風光明媚な場所のようです。


「高館」から北上川をみた景色です。
川の向こうの正面に「駒形峯」右手に「観音山」などが見えます。



北上川の上流方向(北)を見た景色です。
少し上流には、衣川の支流があります。



北上川を見下ろす平泉町の小高い丘に「高館義経堂」があります。
奥州藤原氏三代秀衡・四代泰衡が本拠としていた「柳之御所遺跡」もその南にあります。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると義経が、奥州藤原氏四代泰衡(やすひら)に攻められ、最期を迎えた場所が「衣河舘」とあります。

現在、地図の上部分に衣川の北岸に衣川遺跡群があります。
義経最期の場所「衣河舘」は、衣川遺跡群の発掘調査により、衣川の北岸と考える説が有力となりつつあるようです。

衣川の北岸は、かっての奥六郡の覇者、安倍氏、清原氏の拠点であり、奥州藤原氏の政治顧問的な藤原基成の拠点でもあったようです。
義経が身を寄せていた「衣河舘」は、その藤原基成の館だったと思われます。

義経が奥州藤原氏を頼った経緯や、再び落ち延びてかくまったことも朝廷に政治的つながりを持つ元中央貴族の藤原基成の画策であった可能性もあるようです。
「朝廷」対「鎌倉幕府」の対立する政治情勢の中で、藤原基成は、奥州藤原氏、義経の政治的価値を最大限利用しようとしていたものと思われます。
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えさし藤原の郷の「中尊寺 金色堂」と、本物との違い

2008年05月15日 | 近畿地方の旅
岩手県奥州市「えさし藤原の郷」見物のつづきです。



「えさし藤原の郷」には平安時代の建物が立ち並び、時代劇の世界にタイムスリップした感覚になっていきます。

園内の「金色堂」の案内標識に従って少し長い階段を上って行きました。



「金色堂」のセットがありました。
セットとは言え、お寺で見かけるお堂と同じような建物です。
「金色堂」に期待して少し長い階段を上って行きましたが、平凡さにちょっと落胆してしました。

■案内板の説明文を転記します。
「金色堂」
平泉黄金文化の最高傑作である金色堂を、建立当時を想定して覆堂のないかたちで再現しています。
奥州の覇者となった藤原清衡は平泉で新都建設に着手しました。その宗教的中心となったのが中尊寺で、諸堂の造営にかかった歳月は21年に及びました。現存する金色堂は三間四方の単層方形造りの外観をもち、屋根は木瓦葺で、木造に漆が塗られ、その上に金箔が張られています。当時流行の阿弥陀如来を本尊としています。金色は価値の高さを表現する色であり、宗教的には霊性を示します。清衡は、戦乱で罪なくして死せられた魂を弔い、奥羽の安寧と国家の安泰を祈念するとともに、辺境と言われた地に都と同じく仏教文化を築くという願いを込めて金色堂を建立しました。



まだ見ぬ「金色堂」でしたが、建物の中や、外観も貧弱で、まったくイメージが違いました。
金色に塗られたこのお堂に、あの「金色堂」の名称を付けるのは、かなりムリがある感じです。



「金色堂」のセットを斜めから撮ったものです。
写真に向かって右側におみぐじが、結び付けられています。
左側におみくじの自動販売機があり、参拝と錯覚して買ってしまうのでしょうか?



本物の「中尊寺 金色堂」の外観です。
「えさし藤原の郷」の見物後に行きました。
「金色堂」は、この大きな覆堂(おおいどう)の中にあり、出口から金色の建物が少し見えています。
建物の前に立つと長い歴史の重みを感じます。

覆堂の入り口から出口まで一方通行の通路をゆっくり歩きながら「金色堂」を拝観しました。


「中尊寺」で頂いたパンフレットの「金色堂」の仏像の写真です。

薄暗い覆堂の中で光る「金色堂」の仏像や、建物の美しさ、荘厳さに感動しました。

■パンフレットの説明文を転記します。
<国宝>金色堂
天治元年(1124)の建立で、中尊寺創建当初の唯一の遺構です。
皆金色の阿弥陀堂は、荘厳の限りが尽くされ、まさに極楽浄土を現世にあらわしています。
ご本尊は阿弥陀如来。その前に観音菩薩、勢至菩薩、左右に三体ずつの六地蔵、最前列には持国天と増長天が仏界を守護しています。
仏壇(須弥壇)・四本の巻柱、長押は螺鈿細工・蒔絵の粋が施されています。夜光貝(螺鈿)・紫檀・アフリカ象の象牙などの材料は、当時の交易の広さを物語ります。
中央の須弥壇の中に初代清衡公、向って左の壇に二代基衡公、右に三代秀衡公のご遺体と泰衡公の首級がおさめられています。
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「えさし藤原の郷」で見た「江刺鹿踊」

2008年05月12日 | 東北地方の旅
「えさし郷土文化館」の見学を終え、隣の「歴史公園 えさし藤原の郷」へ行きました。
「えさし藤原の郷」にはテレビドラマで使われた奥州藤原氏や、源義経にまつわる建物や、多くの歴史的建物を模したオープンセットが作られ、残されています。



「えさし藤原の郷」の中央にある政庁のステージで「江刺鹿踊(えさししかおどり)定期公演」があり、見物しました。

これは、「第5回江刺りんご皮むき大会」「加藤茶 爆笑トークLIVE」のイベントの合間に行われていました。



「江刺鹿踊」は、地元の高校、岩谷堂農林高校の鹿踊同好会によるものでした。
手前の女子高校生は、長い鹿の角が、からんだものを直しているようです。



太鼓は、単純なリズムを繰り返してたたかれ、時折体を左右に回したり、お辞儀をして角を地面にたたきつけるように踊っていました。

旅行前の下調べで「鹿踊り」を知り、出来れば見たいと思っていました。
このブログで2008-02-08に掲載した「遠野市立博物館」玄関前の「獅子踊り」の銅像 で鹿の面をした「獅子踊り」を紹介しました。
まさか、ここで見ることができるとは思ってもいませんでした。

広い会場に太鼓の音が響き、伝統的な踊りに大勢の人が見入っていました。



伝統的なお面と、衣装の様子です。
高校の同好会では、このようなすばらしい衣装や、お面、太鼓を揃える費用は大変だと思います。
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「福山ばら公園」の散策

2008年05月08日 | 日記
5月6日、近所にある「バラ公園」に行きました。
恒例の「福山バラ祭り」を2週間後に控え、次第に花が開いていました。
ばら公園には280種、5,500本、すぐ近くの緑町公園にも190種類、5,500本が植えられ、二つの公園を会場に5月17・18日「福山バラ祭り」が開かれます。



この花の名は、「ローズ福山」で、やわらかなピンク色の花です。
まだ咲きはじめで、わりと駐車場に近い場所に植えられています。

■花の下にあった小さな案内板の説明文を転記します。
「ローズ福山」
198年4月1日、「ばら」を市の花に制定。
1986年、市制施行70周年を記念し、新品種のばらに「ローズ福山」と命名し、当園に植樹。



ばら公園の入り口には、ばらの像と、公園の案内文が刻まれた石碑があります。


福山市ばら公園
ばら公園の生い立ち

城下町として発展した福山は 戦災により
市街地のほとんどが焦土と化してしまいました

 戦後の復興事業で設けられたこの公園の一角に
「荒廃した街に潤いを与え 人々の心に和らぎを
取りもどそう」を合いことばに付近の人々を中心に
市民有志が ばらの苗木千本を植えたことが契機
となり ばら公園が誕生しました

 その後もばらは福山を愛する市民と共に増え
続け ばらの街 福山を代表する美しい公園
になりました

 春と秋には いろとりどりのばらが香り豊かに
咲きほこり広く市民に親しまれています

 毎年五月にはこの公園を中心に市民の花の
祭典 福山ばら祭が華やかに開かれます

昭和五十九年

 ばらは 昭和六十年四月一日福山市の花に
制定されました



公園の木がとてもさわやかな緑になってきました。



ピンクの花「シルビア」が広く植えられていますが、開花はまばらです。



まばらに咲く園内では唯一、満開状態の「ベイシルドボンド」という品種です。



一見、牡丹にもにている「クライスラーインペリアル」という品種です。



「熱情」という品種です。
素敵な赤色が印象的です。



「ヒーパネス」という品種です。
今年は、枝の張りが少ないようです。



「ザフェアリー」という品種です。
背の低い茎に小ぶりの花が咲いています。
個性的な色なので、多くある品種の中では記憶に残る花です。



「天津乙女(あまつおとめ)」という品種です。
やさしくて気品のある感じの花です。

「天津」を「てんしん」と読むと中国の品種かと思いますが、日本で作られた品種だそうです。
「天津」を「あまつ」と読むと、「古事記」「日本書紀」に登場する古代のお姫様のイメージになりますね。



駐車場に近い場所に小さな石碑と、それを紹介するカンバンができていることに気付きました。
これまで読んだことのない石碑です。

■看板と、石碑の案内文を転記します。
福山ばらのまちの原点
~1000本のばらから始まった~
ぜひご一読ください

<石碑>
ここに善意の花ひらく
美しい町づくり賞 受賞記念

バラ公園の建設 それは私たち町民の夢であり努力の目標でした
尊い胞子の汗を流して新しい希望のバラ苗1000本を植えつけたのは昭和31年の春でした。
以来徳永市長の熱意によって市と地元の力が強く結びつき、緊密な協力のもとに建設が進められ10年の星霜をかさねて、ついに天下に誇るバラ公園が完成しました。
この地元住民の積極的な市民活動の実績が高く評価され、昭和42年度の「全国美しい町づくり賞」を受賞しましたのでその名誉を記念し市民の将来へのともしびとするため、ここに記念碑を建てます、
昭和43年5月
 花園町々内会
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「えさし郷土文化館」でみた東北地方の蓑・ケラ

2008年05月06日 | 東北地方の旅
「えさし郷土文化館」の見学の続きです。



様々な展示品の中に、蓑(みの)が展示されていました。
なぜか、とても印象に残っていたので掲載しました。

秋田のナマハゲなど東北地方の蓑はもっと粗いイメージがありましたが、かなり繊細な作りです。
縄文時代には既に天然繊維で作られた衣服が作られていたそうですが、このケラも相当に古い時代からの伝統を続けているものと思われます。

■説明文を転記します。
ケラ(蓑)
稲藁(いなわら)や菅(すげ)などの茎や葉、藤(とう)や棕櫚(しゅろ)などの樹皮を編んだ雨具で、古事記や日本書紀の中にもでてくるほど古くから用いられています。
形式には様々なものがあり、背蓑・肩蓑・胴蓑・腰蓑・藁帽子などに分類されていますが江差地方で作られ使用されてきたものは主に肩蓑形式で「ケラ」と呼ばれました。
野外で仕事する場合には雨降りや雪降りにかかわらず着用し、現場で動き回る時は脱ぎ、昼食の際には敷物としても利用しました。ケラ作りは主に「まやけた」(馬屋の二階)などを作業場にして仕掛けておき、雨降り休みや節句休みに編み足して仕上げました。完成までおよそ2日前後かかりました。



上の写真のミノに並んでこんなものが展示されていました。
ちょっとカラフルで、民族衣装とでも呼べるような衣装です。

寒さを防ぎ、荷物を背負ったり、野外で座る時の敷物にしたりと、たいへん便利なものだったのではないかと推察しています。

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「えさし郷土文化館」でレプリカ仏像の拝観

2008年05月03日 | 東北地方の旅
岩手県奥州市江刺区岩谷堂にある「奥州市 えさし郷土文化館」に行きました。
「成島毘沙門堂」と「兜跋毘沙門天立像」に続いて仏像の拝観です。



「えさし郷土文化館」で頂いたパンフレットの表紙です。
この仏像は、江刺市藤里にある「藤里毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」です。

以前、掲載した「成島毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」と同様に地天女(地母神)の手のひらに載っている毘沙門天立像です。

トチの木の一木造で、「ナタ彫り」と言われる丸ノミで粗く彫られた横縞に特色があるそうです。

この「えさし郷土文化館」には「藤里毘沙門堂」の他、この地域の「黒石寺」「極楽寺」「正法寺」等の仏像のレプリカが多く展示されています。

こちらでのレプリカ拝観で、スケジュールの時間節約になりました。
しかし、「黒石寺」の「四天王像」、本堂正面の鉄製の狛犬などは現地で見たかったのですが、平泉までの予定のため、時間がなく次の機会としました。



2006年10月、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事「東北新幹線・岩手古寺巡礼」にあったページです。

この仏像は、事前のイメージと比較して、意外に小さく見えました。
やはり成島の巨大な「兜跋毘沙門天立像」を見た後だったのかも知れません。
毘沙門天は、さすが「戦いの神」で、とても厳しい目をしています。

右上に見える金色の仏像の写真は、岩手県奥州市水沢区にある「黒石寺」の本尊「薬師如来坐像」(国指定重要文化財)です。

その下には、奥州市「黒石寺」のご住職(女性)や、四天王像の写真が見えます。


この写真も2006年10月、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事「東北新幹線・岩手古寺巡礼」に掲載されていたページです。
「黒石寺」の本尊「薬師如来坐像」が1ページ全体にアップで描かれ、当時の黄金文化と、長い歴史の隔たりを感じます。

「黒石寺」をご存じない方でも東北地方で、今年の初めにJR東日本に駅での掲示を拒否された祭りのポスターで、ヒゲのある全裸の男性が「わいせつ」かどうかでニュース報道されたことには記憶があると思います。

その祭りが黒石寺の「蘇民祭」で、日本三大奇祭のひとつと言われいるようです。
今年の祭りは、ポスターのニュースのおかげで参拝者が殺到すると予想したマスコミ関係者だけが賑わっていたそうです。



「えさし郷土文化館」で頂いたパンフレットにあった「薬師如来坐像」の全体像です。
館内では、台座の上に安置され、ガラスケース越に見ました。
この仏像は、桂の木の一木造りだそうです。
桂の木は古代から神聖な木とされ、たしか製鉄の神様が降臨する木としても知られているようです。
雑誌の写真と、記事で少し期待を膨らませていたせいか、あまり感動がなかったのが残念です。
レブレカの仏像で、ガラス越に見たせいでしょうか。



これもJR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事のページです。
中央の「銅龍頭」は、「金銅製で、北上市の「極楽寺」に残されているそうです。

「極楽寺」は、今から約1,200年前頃に造られたようです。
朝廷軍を率いる坂上田村麻呂は、蝦夷の首領アテルイを破り、アテルイの拠点だった北上川東岸に大伽藍を建てたそうです。
「極楽寺」「は、大伽藍だった「国見山廃寺」と強い係わりがあったものと思われます。


「えさし郷土文化館」の「銅龍頭」は予想と違い、ずいぶんちいさなものでした。

龍頭(りゅうとう)は、仏教の儀式の「幡(ばん)」という飾りものを吊るすために使われたそうです。

「極楽寺」は、国見山の近くで、北上川に近い場所にあります。

この地方の蝦夷を制圧した朝廷が、蝦夷の拠点であった土地に逆襲に備え、「柵」を作り厳重に防衛していたようすが伺えます。
自分たちを守ってくれる多くの仏閣を造り、「兜跋毘沙門天」の像を造り、平安を祈ったのでしょうか。
「兜跋毘沙門天」は、唐の時代に西域の町が外敵に襲われた時、「値母神=地天女」が土の中から「兜跋毘沙門天」を掌にのせて現れ、外敵を追い散らした伝説があるようです。
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