昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.51 「オタモイ海岸」の風景

2012年02月29日 | 北海道の旅
北海道旅行8日目 6/10(金)、旅行最終日は小樽から羊蹄山付近を経由して新千歳空港へ向かうルートです。



晴天の小樽市オタモイ海岸の風景です。

オタモイ海岸は、2004年9月に一度訪れ、雄大な風景に魅せられて再訪したものです。

残念ながら海岸への道は通行止めで、駐車場からこの景色を見るしかありませんでした。

断崖には崩落を防ぐ金網が取り付けられていますが、やはり危険で、通行は無理のようです。



小樽市市街地の西にあるオタモイ付近の地図です。

大きな赤丸の場所がオタモイ海岸の駐車場、左の小さな赤丸の場所がオタモイ地蔵です。

駐車場からオタモイ地蔵への道は、破線で表示されており、途中に2ヶ所のトンネルも見られます。

海岸の駐車場への道は、連続するスピンカーブを下って行きます。



海岸の駐車場に戦後まもなく消失した「オタモイ遊園地跡」の案内板がありました。

■案内文を転記します。
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当代一を誇った夢の里、
 オタモイ遊園地跡

オタモイ
 地名は、アイヌ語のオタモイ(砂の入り江の意)に由来する。

現在、小樽市唯一のカタカナ表示の町名。
 オタモイ海岸は、市の北部にあり、高島岬から塩谷湾までの約10Kmに及ぷ海岸の一部で、付近には赤岩山(371m)など標高200m前後の急峻なな崖と奇岩が連なっている。一帯は昭和38年ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定され、祝津・赤岩海岸とともに雄大な景観を誇り、訪れる人々を魅了している。
 かって、この景勝地に大リゾート基地が存在した。
昭和初期、隆盛を誇った割烹「蛇の目」(花園1)の店主加藤秋太郎は小樽には見所がないという知人の言葉に奮起し、名所探勝の日々にあけくれる。そして、ついに、古来白蛇の谷と呼ぱれたこの地を探し当て、昭和11年「夢の里オタモイ遊園地」を完成させた。
 その規模は当代一を誇り、プランコ、すべり台、相撲場等の遊園地施設のほか、龍宮閣や辨天食堂といった宴会場や食堂を設けた。特に京都の清水寺を凌ぐといわれた龍宮閣は、切り立った岩と紺碧の海に囲まれ、まるで龍宮城のお伽の世界のようだったという。
 最盛期には一日数千人の人々で賑わったこの施設も戦争が始まると贅沢とみなされ客足が遠のき、戦後、これからという昭和27年5月営業再開を目前に控えながら消失した。
 現在、遊園地の跡を偲ばせるものは断崖の上に残った龍宮閣の礎石と遊歩道トンネルの部分だけである。
 また、オタモイには神威岬(積丹半島)が女人禁制の頃の悲恋にまつわる子授け地蔵尊の伝説があり、今でも多くの人々に信仰されている。
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2004年9月に訪れた時に撮った写真があり、以前のオタモイを紹介します。

駐車場付近から見たオタモイの入口付近の風景です。

雄大な断崖に造られた遊歩道の先にトンネルがあり、入口は竜宮城の門のようです。

左手に歩いて行く人の姿が見られます。



遊歩道を進み、トンネルの入口付近から駐車場方向を振り返った風景です。

駐車場付近は、「オタモイ遊園地」の施設跡があったとされ、広く整地された場所でした。

斜面の上の駐車場から海岸へ降りる道路もあり、「オタモイ遊園地」の船着場があったようです。



「オタモイ遊園地」の絵の一部で、右の岩山方向へ進むとオタモイ地蔵です。

現在の駐車場辺りに「辨天食堂」があったようで、プランコ、すべり台、相撲場などの遊園地施設が並び、車で下ってきたスピンカーブも描かれています。



遊歩道を進み、トンネルを抜けると断崖から突き出た細長い広場があり、下りてみました。

柵から下を除くと、岩の急斜面に柱を支えたコンクリートの基礎の跡が見られます。



「オタモイ遊園地」の絵に赤い柵で囲まれた広場に建つ建物が「龍宮閣」の名で描かれていました。

車で下りて来た道とは別に、右手の上の山から「オタモイ地蔵」へ下る道が見えます。

伝説が語り継がれる「オタモイ地蔵」だけに、あの蛇行した長い坂道を昔から歩いて参拝していたものと思われます。

今でも通ることが出来るのでしょうか。



「オタモイ遊園地」の案内板に「龍宮閣」のすごい写真がありました。

急斜面の岩場にたくさんの柱で支えられた大きな建物が危なっかしく建っていたようです。

この建物が、人々の度肝を抜き、話題性をつくっていたのかも知れません。



「龍宮閣」のあった広場から西の「オタモイ地蔵」付近を見た風景です。

早い北海道の秋、草が赤く枯れ始めて寂しさが漂っていますが、断崖の雄大な風景に感動した思い出がよみがえります。



「オタモイ地蔵」の更に西の風景です。

断崖の海岸は、はるか先まで続いていました。

「オタモイ地蔵」へお参りし、海岸に下りる道を進んでいきました。



大きな岩が並ぶオタモイ海岸の風景です。

「オタモイ遊園地」の絵では左の二つの岩に注連縄を渡して「二見岩」と名付け、伊勢の二見興玉神社の夫婦石をイメージさせたようです。

案内板にある伝説で、女人禁制の積丹半島の神威岬沖の海が荒れ、船から身投げをした妊婦が流れ着いたのはこの辺りだったのでしょうか。

妊婦が葬られた場所に立つ「オタモイ地蔵」は、いつしか子授けのご利益をもたらすとされ、亡くなった親子は地蔵尊の救いで成仏したようです。

駐車場から「オタモイ地蔵」への参拝の道が閉ざされた今、参拝者はほとんどいなくなり、子授けの願いは届かなくなっているようです。

北海道旅行No.50 「西崎山環状列石」

2012年02月22日 | 北海道の旅
北海道旅行7日目 6/9(木)、積丹半島から小樽へ向かう途中、余市の「西崎山環状列石」へ立ち寄りました。

「環状列石(ストーンサークル)」は、文字通り石を環状に並べた縄文時代の遺跡で、埋葬を伴うものや、伴わないものもあり、単なる墓ではないようです。

2008年04月、岩手県北上市の「樺山遺跡」をワクワクしながら見学した思い出があり、東北地方北部から北海道に伝わったストーンサークルに興味があり、訪れたものです。



静かな林の中に柵で囲まれた「西崎山環状列石」がありました。

資料によれば「西崎山環状列石」の遺構は、4区に分かれ、ここは唯一整備された1区です。

■「日本の古代遺跡 北海道」より(野村崇著 保育社発行)
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 この遺跡は、一九五〇・五一年(昭和25・26)に駒井和愛氏が、一九六三年に峰山巌、久保武夫民らが、一九六八・七二年に大場利夫氏を中心とする北海道大学北方文化研究施設が、それぞれ発掘調査をおこなっている。
 配石遺構は丘陵の頂上部から南側の鞍部[あんぶ]にかけて多数あり、丘陵北側から4区、1区、3区、さらに沢をへだてて西側を2区としている。
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「西崎山環状列石」周辺の地図です。

「西崎山環状列石」は、小樽市との境界線近くの「西崎山」の尾根にあり、余市湾を望むこの一帯には小樽側の「忍路環状列石」を含めて多くの環状列石遺構が発見されています。

北海道で発見された「環状列石」は、北部を除いたほぼ全域にありますが、密集しているのはこのエリアと渡島半島南部エリアのようです。

本州に始まる「環状列石」は、渡島半島南端へ伝わり、縄文時代後期中葉の北海道に広がっていきました。



長い階段の下に見えるのは「西崎山環状列石」の駐車場です。

坂道を登った駐車場から更に急な階段を上り、その後は平坦な尾根の山道が続きます。



一本道の山道を歩き、柵に囲まれた「西崎山環状列石」へ到着です。


林が途切れた遺跡の北方向の風景です。

遺跡の北側に門のような柵のない部分があり、屋根つきの案内板も見えます。

南北に伸びる「西崎山」の尾根を平坦にした楕円形の遺構がありました。

資料にあった「西崎山環状列石」の概要です。

■「日本の古代遺跡 北海道」より(野村崇著 保育社発行)
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頂上部のⅠ区は長径一七メートル、短径一二メートルの楕円状に大小の石が散列している。その数だけでも五〇〇個をかぞえ、うち二〇個ほどが直立している。配石の西南部に径一メートル内外の小型のストーン・サークルが七基ある。これらは低い立石や寝石で周囲を囲み、内部に割石などを詰めている。中心には五〇センチほどの立石が立てられるものもある。
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林の途切れた史跡の北側に古びた案内板ありました。

■案内板を転記します。
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説 明
一、指定文化財の名称
  道指定史跡 西崎山環状列石
二、指定の年月日
  昭和二十六年九月六日三、指定の理由 古代人の残した石造り遺構として考古学界の学術調査上重要な遺跡として認められ、北海道教育委員会より史跡文化財として指定を受けた。
四、説明事項
  環状列石(ストンサークル)直径一米程度の環をなして、自然石のやや大きいのが並んでおり現在七ケ所残っているが元はそれ以上あったものと思われその構造からみてもまた穴の中の燐分から云っても古代の墳墓であろうと推定されております。
この丘陵には4つの墓環状の列石があり立石の最大のもので、高さ約七〇~八〇糎、穴の深さ一米位穴内の土中から燐分が検出され、また敷石附近から縄文土器の破片が多数出ました。
五、注意
 一、無断で柵内に入らないようにして下さい。
 一、地域内より出土した埋蔵物を勝手に持 ち去ることのないようにたしましょう。
 一、その他史跡の保存に支障のある行為を した場合、厳重に処罰されることがあ りますからお互いに気を付けましょう。
  北海道教育委員会 余市教育委員会
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北側に開けた場所から余市湾が一望できました。

左に見える断崖の岬は、「シリパ岬」です。

東西の風景は、林にさえぎられ、よく見えませんでした。



北側から見た遺跡の風景です。

楕円形の柵に囲まれた遺跡の東側には石が見当たりません。

遺跡の範囲としたのは出土品などがあったのでしょうか。

東側の広場から西の環状列石に向かい祭祀を行う縄文人の姿が想像されます。

余市町の西には標高872mの「天狗岳」がそびえおり、祖霊の鎮座する山として崇めていたのかも知れません。



様々な形をした棒状の石が立てられています。

資料では7基のストンサークルがあるとしていますが、立石の周辺に置かれた石は雑然と置かれ、ストンサークルと呼ぶには苦しい表現のようです。



先端が太くなった印象的な立石がありました。

周囲の石も角が丸く、縄文人たちは川や海岸の石を運んできたものと思われます。

案内板にもありましたが、この地下に葬られた人の痕跡や、発掘された土器についての記載が資料にありました。

■「日本の古代遺跡 北海道」(野村崇著 保育社発行)
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配石の下部には、直径、深さともに一メートル前後の墓穴が掘り込まれている。駒井和愛氏は、穴の中の土のリン酸分析をおこない、外部の土との比較で三・五倍から七倍のリン分があると報告している。
付近から出た土器片は縄文時代後期中葉の手稲式土器である。1区の北側の4区では、配石は土壙上にただ並べたようなもので、整然としていない。配石遺構下から船泊上層式土器が数個体検出されている。
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水彩スケッチ「タンポポの咲く湯沸岬灯台」

2012年02月20日 | 妻の油絵

北海道東部、浜中町の霧多布岬に建つ「湯沸岬灯台[とうふつみさきとうだい]」の風景です。

霧多布岬の先端へ続く長い遊歩道を歩き始めると、タンポポの咲き乱れる広場があり、その向こうにのどかな「湯沸岬灯台」の風景が見えてきました。

灯台を過ぎると風景は一変、奇岩と断崖の雄大な霧多布岬が現れてきます。

北海道旅行No.49 積丹半島「神威岬」の絶景

2012年02月13日 | 北海道の旅
北海道旅行7日目 6/9(木)早朝、函館のホテルを出発し、積丹半島の先端、「神威岬」へ到着したのは11時頃でした。

途中、日本海沿岸の雄大な風景や、鰊御殿を見物しながらここまで5~6時間のドライブです。



駐車場から坂道を登った峠にある神威岬[かむいみさき]の門です。

門の上には「女人禁制の地 神威岬」とあり、江戸時代まで女人禁制だった歴史を知らされました。

門の向こうに岬の先端付近に建つ「神威岬灯台」が見え、尾根をたどる長い遊歩道が続いています。

■門の近くに案内板がありました。
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梨本弥五郎と女人禁制の解除
その昔、神威岬の沖合は「魔の海」として多くの人々に恐れられており「婦女子を同伴して行けば神霊の怒りにふれ、その船は必ず転覆する」という迷信があった。
安政二年(一八五五)幕府が蝦夷地を直轄して開拓を計画してから、箱館奉行が神威岬以北に対しても移住民の土着を奨励した。
翌年の安政三年、箱館奉行調役下役元締の「梨本弥五郎」が幕府に宗谷詰めとして赴任するよう命じられた。この命を受けた梨本は下役や妻子を連れて赴任するのだが、神威岬を通過する時、海は荒れ舟子たちは恐れおののいた。
しかし梨本は毅然と立ち上がり、岬の岩角に向かって大声で叫んだ。
「私は征夷大将軍家定の家来である。今君主の命を受け岬端を通るになぜ神罰を受けなければならないのか」そして、その岩角めがけて銃を撃ち放った。
銃声が波濤を打ち破り岬に響き渡ると、神霊の怒りはおろか海は穏やかそのもので、全員無事に岬を越え赴任地に着くことができた。
この梨本の岬越えがきっかけで、神威岬の女人禁制が事実上解かれたことになすのだが、しばらくは迷信の影響を受けてか、女性たちは自分のために海が大荒れになることを恐れ、船艫の板子の下に隠れたり、筵をかぶって全身を隠して通ったといわれる。
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「梨本弥五郎」は、北海道の最北「宗谷」へ警備のため、初めて赴任した人で、2010年10月27日の記事、稚内市「北方記念館」でも女人禁制の解除が紹介されていました。



「神威岬」付近の地図です。

「神威岬」は、積丹半島の先端付近にあり、小樽から車で海岸線を西へ60~70Kmの場所です。

積丹半島の先端付近には「余別岳」(標高1,298m)「積丹岳」(標高1,255m)などの峰がそびえています。



「神威岬」の門がある峠から駐車場を見下ろした風景です。

国道229号から約1Kmの場所に広い無料駐車場があります。

駐車場から岬の先端まで約1Kmありますが、最初にこの長い坂をゆっくりと登り、体を慣らします。



「神威岬」を少し進んだ辺りから北側の断崖の下を振り返った「念仏トンネル」付近の風景です。

断崖の下の浜に「念仏トンネル」の入口が見え、その左に「水無しの立岩」がそそり立っています。(写真右下に拡大写真)

向こうにかすかに見えるのは東の「積丹岬」です。

かつて岬の先端「神威岬灯台」への道は、下に見える海岸を歩いていたようで、「念仏トンネル」はその途中に掘られたものです。

遊歩道の柵には「念仏トンネルが見える場所」の案内標識があり、見下ろしました。

■そばにある案内板に「念仏トンネルの由来」が書かれていました。
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念仏トンネルの由来
大正一年(一九一ニ)十月二十九日午前八時半ごろ、神威岬灯台の草薙灯台長夫人、及び土谷補員夫人)」その二男(三歳)が天長節(天皇誕生日)のお祝いの品物などを買い出しに余別市街へ行く途中、ワクシリ岬付近で荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死した。
ワクシリ岬は上は断崖絶壁、下は波打ち際の険しい地形で、なぎや干潮の時はわたることができるが、そうでないときほ容易に越えることのできない難所である。
土地の人々はこのような海難事故が再び繰り返されないようにするため、大正三年にトンネルを造る計画をたて着工した。
開削作業は岬の西側と東側の南方から同時に始められたが、測量計画の誤算か開削枝術が未熟なためか、トンネルの中央で食い違いが生じ工事が頓挫してしまった。ところが和人たちが犠牲者の供養をふくめ、双方から念仏を唱え鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向がわかりエ事を再開することができたのである。
このようにして大正七年十一月八日に開通となり、以来「念仏トンネル」の名がある。
また、この全長六十メートルのトンネルは割合低く中が真っ暗闇なため、「念仏を唱えながら通ると安全である」と言い伝えられている。
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見下ろすと、驚くほど美しい海が広がっていました。

晴天ならもっと美しい色だったものと思われます。



更に先端に進んで、岬の南岸を振り返った風景です。

中央付近に「神岬漁港」があり、右端の海岸近くに「たこ岩」がそそり立っています。(写真右下に拡大写真)

長さ3mにもなると言われる北海道名物「ミズダコ」の頭をイメージします。

残雪のある堂々とした台形の山に魅せられます。



遊歩道のほぼ中間の急な下りの階段の上から岬の先端を見た風景です。

遊歩道は意外に起伏が大きく、変化に富んだ風景が現れてきます。



先端近くの最後の坂を登り、振り返った風景です。

道の先には「神威岬の門」が見え、向こうにそびえる残雪の山は「余別岳」と「積丹岳」でしょうか。

雄大な風景に感動しました。

「神威岬の門」左の小高い場所は、展望台だったようですが見過ごしてしまいました。



上段の写真の右側に広がっていた風景です。

山の急斜面を巨大な獅子が駆けおりている姿にも見える岩です。

獅子の頭のような茶褐色の岩には大小の石が混じった岩で、下の白い岩は堆積した砂岩のようです。

遊歩道を歩く人と比べると岩の巨大さを感じます。



「神威岬灯台」を先端側から見た風景です。

灯台の後方に平地があり、かつて燈台守が住む家があったのでしょうか。

■灯台の前に案内板がありました。
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神威岬灯台
~女人禁制の地に建つ灯台~
この灯台は、北海道庁明治21年(1888)年から6年間にわたって20基の灯台を
建設した最初の灯台であり、明治21年(1888年)8月25日に初点灯しました。北海道の現存する灯台では5番目に古いものです。~

位置     北緯 43度21分00秒
       東経 140度20分51秒
光り方    単閃光 毎15秒に1閃光
光の強さ   17.0万カンデラ
光の届く距離 21.0海里(約39Km)
高さ     地上から灯台頂部 約12m
       水面から投火   約82m
管理事務所  小樽海上保安部
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「神威岬」の先端から見下ろした風景です。

斜め右の先端にある岩礁は、「メノコ岩」と呼ばれ、アイヌの娘が身を投げて岩となった伝説がありました。

平泉から逃れてきた義経と、アイヌの娘の物語で、北海道各地にある義経伝説がここにもありました。

■アイヌ伝説集(更科源蔵編著 北書房版)に掲載されていた伝説です。
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神威岬の神威岩とメノコ岩
 義経が日高平取の酋長の家に滞在中、酋長の娘と恋仲になったが、大望を抱く義経は北に行くことになり、それを知った娘はその後を追い、神威岬まで来たときに、すでに義経主従は帆を張って舟出したあとだったので、恨みのあまり神威岬から激浪の中に飛び込んで、ついに岩になったのがメノコ岩であるとのことである。それ以来和人の舟が女を乗せてこの先を過ぎようとすれば、必ず船を覆えし難船するという。それは酋長の娘が恨みの言葉の呪いによるもので、それ以来この岬から奥へ女人が入るのを禁じたのであるという。(北海道庁編「北海道の口碑伝説」)

 もう一説には音義経がここへ逃げて来たときは冬であったので、この岬の親方のところで一冬をすごすうち、この親方の一人娘と仲がよくなったが、春になって義経が北へ行くことになり、親方から舟を一艘もらったが娘も一緒に行くというので、義経は家へ行って針と糸をもって来るように言いつけ、娘が家に行っている間に逃げ出したので、帰って釆た娘は悲しきのあまり‥今燈台のある崖のところから身投げしてメノコ岩になった。岩が抱いているのは義経の子供で、それからはメノコ岩の所を女が通らなくなったのである。(深瀬春一「松前伝説」)
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雄大にそびえ立つ高さ40mの「神威岩」です。

「神威岩」には神が岩になったとする伝説もあり、神秘的に立つ姿が心に残ります。

■岬の先端に方角を示す円形の案内板がありました。
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神威岩は現在位置から北西の方向約四十メーターの位置にあり、その大きさは高さが四十メーター(現在位置は標高七十メーター)、胴回りは最大約五十メーターにもなります。
海面に見える岩の表面積はおよそ五百坪と広大で「千畳敷」と呼ばれています。
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北海道旅行No.48 国道229号 「にしん街道」で見た風景

2012年02月10日 | 北海道の旅
北海道旅行7日目 6/9(木)、寿都町にある二ヶ所の「鰊御殿」を外から見物し、積丹半島の「神威岬」を目指して走っていきました。

江差から小樽までの海岸を走る国道229号は、かつて鰊漁で栄えていたことから「にしん街道」とも呼ばれているようです。



寿都町の鰊御殿から約20Km、長いトンネルが連続する雷電海岸を走っていると、そびえる断崖が見えてきました。(下段の地図[1]の場所)

雄大な断崖を見上げていると、大自然の圧倒的な力を感じさせられます。

駐車場の案内板を見て立ち寄りましたが、東屋もある小高い丘で、地図では「雷電野営場」(キャンプ場)とあります。

この辺りの道路は、岩盤をくり貫いて造られた区間が多く、難工事だったことがうかがわれます。



積丹半島付近の地図です。

立ち寄った場所に赤い番号を付けています。

上段の断崖の風景は左下の雷電岬の近く[1]の場所で、左上の神威岬を目指して走っていきました。



水田の向こうに残雪の山が美しく輝いていました。

地図[2]の場所(協和町)から南側に見えた風景で、地図で見ると「岩内岳」や、「雷電山」の峰々だったのでしょうか。

北海道南部でも1000mを超える山頂には6月でも残雪が見られます。



屋根の上の煙出しが印象的な「鰊御殿とまり」の建物と、その向こうに泊漁港が広がっています。(泊村、地図[3]の場所)

ここからも彼方に残雪の山が望まれ、上段の写真と同じ峰々だったものと思われます。

時間がなく、建物の外観だけ見て通り過ぎました。



泊村の北部、興志内村‎に差し掛かると海岸近くに大きな岩の島「弁天島」がそびえていました。(地図[4]の場所)

岩の島に架けられた橋は、島の手前で広場に降りていく階段があり、島の右手に続くコンクリートの遊歩道も整備されているようです。

人家もなく、磯釣りくらいしか用のないと思われる島に立派な橋とは実に不思議に思われますが、これも大きな岩山に魅かれる人の習性によるものでしょうか。



神恵内村の小さな港にそびえていた奇岩です。(地図[5]の場所)

5~30cmの石が混じった堆積岩のようで、左下の拡大写真にあるように表面には一部露出した石がイボの様に突き出ていました。

不思議な岩の形と、カモメの遊ぶ風景が印象に残っています。



カモメの遊ぶ奇岩のそばにレンガ造りの倉庫がありました。(地図[5]の場所)

神恵内漁港のすぐ北の海岸で、鰊漁で栄えた明治の頃の建物でしょうか。



道の駅「オスコイ!かもえない」に立ち寄りました。(地図[6]の場所)

魚の干物や、海草などが安く、お土産に購入しました。



海岸近くにちょっと珍しい「柱状節理」の巨大な岩礁がありました。(地図[7]の場所)

岩石に出来る規則的な割目を「節理」と言い、柱状になったものが「柱状節理」です。

溶岩の表面が冷えて規則的な割目が出来、冷えるに従って割目が内部へ進行することで柱状となるようです。

巨大な鉛筆のような六角柱の岩は各地で見られますが、球状の岩が「放射状節理」になった根室市花咲岬の「車石」も珍しい節理の事例です。

眺めていると、酒のツマミにするエイのヒレの干物に見えてきました。



柱状節理の岩礁が見える場所から北に見えた「ジュウボウ岬」の美しい風景です。(地図[7]の場所)

右手に「西の河原トンネル」の入口が見え、左手に岩場の「ジュウボウ岬」が伸びています。

「ジュウボウ岬」の岩場の右に平地があるようで、トンネルの名にもある「西の河原」と呼ばれる浜と思われます。

地図では「西の河原」に地蔵尊が祀られ、あの世へ渡る三途川[さんずのかわ]の「賽[さい]の河原」をこの世に再現した霊場のようです。

アイヌの伝承では約5Km北の「神威岬」の沖を女性を乗せて航行する船は遭難するとされ、この一帯は海の難所だったことも関連しているのかも知れません。



「西の河原トンネル」の入口のそばの美しい断崖の風景です。

沖には「ジュウボウ岬」の岩場が見え、断崖の下に洞窟があるようです。



「西の河原トンネル」の入口のそばにある洞窟の風景です。

よく見ると「柱状節理」の中に出来た珍しい洞窟のようでした。

この他、国道229号沿いには荒々しい断崖の風景や、奇岩が見られ、ドライブを楽しませてくれます。

北海道旅行No.47 寿都町の「鰊御殿」

2012年02月05日 | 北海道の旅
北海道旅行7日目 6/9(木)、最初の観光スポット寿都町の「鰊御殿」の見物です。



寿都町の「鰊御殿橋本家」(明治12年[1879年]完成)の全景です。

日本海沿いの国道229号に入り、北へ約2Kmの場所にありました。

中央に旅館の看板のある母屋、向かって右に蔵、左に倉庫と思われる建物が並んでいます。

早朝、函館市のホテルを出発、長万部から太平洋岸を離れ、日本海沿岸の寿都町へ着いたのは8:20頃でした。



北海道旅行7日目の予定は、函館市から積丹半島を経由して小樽までの約300Kmの行程です。

小樽まで車で走行するだけで7~8時間かかるため、ラッシュ前の早朝に出発、ほぼ中間地点の寿都町へ8:20頃着くことができました。

渡島半島の西海岸を走る国道229号は、前日訪れた江差と、小樽を結んでいます。



道路の向かいから見た「鰊御殿橋本家」の母屋です。

後方に低い山があり、前方は日本海を望みます。

正面から見ると寄棟屋根の二階建建物の堂々たる姿に魅せられます。

寿都町のサイトによると、橋本家は、鰊漁の網元ではなく漁家へ資金提供し、鰊の加工品(鰊粕・身欠き鰊・数の子など)で返済を受けて販売する「仕込屋」と呼ばれる商家だったようです。

やはり鰊漁場の番屋とは建物の趣が違います。



玄関の上に「御宿 鰊御殿」の看板が見えますが、今でも旅館を営んでいるのでしょうか。

一見、昭和の一般民家のような造りにも見えますが、建具をよく見ると明治時代初期、意欲的に洋風化を取り入れた建物だったことが伝わってきます。



屋根の上に小さな切妻屋根の施設が二つ並んでいました。

屋根に突き出た四角の柱の壁にある開口部から、煙出しの施設と推察されます。

シンプルな寄棟屋根にこれら大小の「越屋根」が変化のある美しさを演出しているようです。



向かって右の蔵と思われる建物です。

一見、質素な建物に見えますが、二階の窓周辺に手間をかけた細工が見られます。



向かって左の倉庫と思われる建物です。

屋根や壁に老朽化が見られます。

建物後方に全体をブルーシートで覆われた建物が見えますが、もっと破損が進み保護されているのでしょうか。

歴史的な建造物でも風化しやすい板壁の建物の維持は、困難な問題のようです。



「鰊御殿橋本家」から国道229号を北へ約1Km走った場所にある「漁場建築 佐藤家」です。

1894年(明治27)に釘をいっさい使わず造られた間口24.3m、奥行18mの「鰊御殿」です。

■建物の脇にあった案内板です。
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有形文化財
漁場建築 佐藤家
 所 在 地 寿都郡寿都町字歌棄町
 指定年月日 昭和四十年三月二九日
 管 理 者 寿都町
カクジュウ(□の中に十)佐藤家は嘉永五(一八五二)年以降ウタスツイソヤ、二場所請負人を勤め歌棄場所から黒松内に至る十六キロ余りの道路、磯谷の能津登から岩内場所との境界アブシタまで四キロ余の道路を私費をもって開削し名字帯刀を許された定右衛門・栄右衛門父子の系図である。
またニシン漁獲法の改善を心がけ行成網を導入して西海岸のニシン漁の急速の発展に尽し維新後は駅逓取扱人を命ぜられ当地方随一の名家である。
この建物は主屋は間口二四.三メートル奥行一八メートルの二階建でよせ棟屋根に西洋風下見張り二階正面に櫛形ペジメントの付いた上げ下げガラス窓屋根の大棟をまたいて洋風の六角形の煙出しその背後に和風の切妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風が入りまじった折衷の独特のスタイルの外形をもっている。またニシン場建築にみられる漁夫宿泊部を含んでいない点に特色がある。
建物の完成年代は外形の洋風建築形式からみて常識的に明治一〇年から二〇年の間の建築と思われる。旧態の保存が良好である上建築年代・規模・意匠・構造の諸点からみて現在の漁場建築中でこの建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。
 平成二年四月
   寿都町教育委員会
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寄棟屋根の中央にガラス窓で囲まれた六角柱の施設がありました。

案内板によれば「六角形の煙出し」とありますが、ガラス窓の上・屋根の下には煙を出す開口部が見られず、ガラス窓にも開放構造が無いようにも見られます。

見る限り、ガラスには汚れも無く、煙出しの施設と思われませんが・・・。



建物を横から見た風景です。

屋根の上にある六角形のガラス窓の施設のすぐ右手に小さな屋根がのぞいているのが見えます。

案内板に「和風の切妻屋根の煙出し」と書かれた施設と思われます。

ガラスが高価だった明治20年代頃、「洋風の六角形の煙出し」とされる施設は、ガラスが煙で汚れることを考えると、明かり取りの施設だったと思われてなりません。



建物の正面を横から見た風景です。

玄関の向こうに柱で支えられた和風の竪繁格子のある出窓のような施設が続き、珍しく撮ったものです。

又、二階の屋根の下側も丸みのある壁で、洋風の窓と合わせてお洒落な雰囲気を感じさせてくれます。

一階が和風、二階や屋根の上の六角形の施設が洋風と、一般の住宅としては珍しい贅沢な建物です。



玄関の風景です。

かつては出入りする多くの人々で賑わう風景が見られたものと思われます。

老朽化した建物や、雑草が生えた玄関先を見ると過ぎ去った長い年月を感じさせられます。

北海道旅行No.46 洋式城郭「五稜郭跡」と再現された「箱館奉行所」

2012年02月02日 | 北海道の旅
に北海道旅行6日目 6/8(水)、江差町から函館市の「五稜郭跡」へ着いたのは夕暮れ間近の18:30頃で、かろうじて間に合いました。

「五稜郭跡」には2年前の夏にも訪れましたが、昨年復元された「箱館奉行所」の見学が楽しみでした。



入口付近にあった「五稜郭」の案内図です。

「五稜郭」は、江戸時代末期に箱館港の開港にともなって造られた施設で、五角形の洋式城郭です。

図右下の駐車場から「五稜郭タワー」の横を通り、濠に架かった二つの橋を渡って城内へ進んで行きます。

■案内板の説明文です。
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特別史跡五稜郭跡
昭和27年3月29日指定
五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨー□ッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。
安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。
五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。
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入口付近の案内板にあった「榎本武揚」と、「土方歳三」の写真です。

「五稜郭」の名を一躍有名にしたのは、「箱館戦争」でした。

明治維新の動乱期、「五稜郭」は、「榎本武揚」率いる旧幕府軍によってあっけなく陥落し、樹立された箱館政権の中核施設としても使われていました。

■案内板の写真に添えられた説明文です。
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箱館戦争と特別史跡五稜郭跡
江戸湾から軍艦8隻と共lこ脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館こ入り、五稜郭を占拠したのは、明治元年(1868年)10月。
新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げました。日本の新しい時代が始まったのです。

榎本武揚
天保7年~明治41年(1836年~1908年)。
江戸(東京都)生。オランダ留学後、幕府海軍副総裁。慶応4年(1868年)旧幕府脱走軍を率いて品川沖を出発し、五稜郭を占拠しました。

土方歳三
天保6年~明治2年(1835年~1869年)。
武蔵国(東京都)生。近藤勇らとともに新撰組を結成。仙台で榎本等と合流し、脱走軍では陸軍奉行並となります。
明治2年5月11日箱館の一本木関門(現若松町)付近で戦死。
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濠をはさんで見る「五稜郭タワー」です。

日没間近の夕日に美しく染まっていましたが、時間がなく入場は出来ませんでした。

タワーから夕日に映える「五稜郭跡」や、町並みの風景は、さぞ素晴らしいものと思われます。



「五稜郭」の正門へ向かう最初の橋「一の橋」です。

左手の向こうには二番目の橋「二の橋」が見えています。

橋を渡り、右手に一段高く積まれた石垣は、左手の正門を銃砲から守る「半月堡[はんげつほ]」と呼ばれる施設です。

最初の案内図にあるように濠で囲まれた三角形の施設で、二つの橋で結ばれています。



左の図は、最初に設計された「五稜郭図」で、右の図は「半月堡 遺構確認図」と書かれた図で、案内板に掲載されていたものです。

当初、5ヶ所全てに「半月堡」が設計されたものの、施工では正門前の1ヶ所となっています。

江戸時代末期、幕府の予算不足なども要因だったのでしょうか。

■図に添えられていた説明文です。
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五稜郭図(初年度設計図)
市立函館博物館蔵(函館市指定有形文化財)
五稜郭の設計図武田斐三郎が作成した初期の設計図で半月堡が5ヶ所に描かれています。

半月堡
半月堡は、西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁[うまだしるい]ともいい
ます。郭内への出入口を防御するために設置されています。
当初め設計では各稜堡[りょうほ]間の5か所に配置する予定でしたが、工事規模の縮小などから、実際には正面の1か所だけに造られました。
北側中央部の土坂が開口部となっているほかは、刎ね出しのある石垣で囲まれています。

※刎ね出し 武者返し・忍び返しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっています。
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正門付近の風景です。

藤棚のトンネルの上には満開の藤の花が美しく垂れ下がっています。

右手の石垣は、五角形の土塁に造られた石垣の門で、最上部には突き出た縁も見られます。

突き当りの左側手前に門番所跡があったとされ、土間と縁側のついた6畳、5.5畳二間の遺構確認図が展示されていました。



正門付近の案内板にあった「土塁・石垣」の説明図です。

五角形の土塁の中でも正門付近には、高い石垣が積まれ、その断面図のようです。

城郭の上に突き出た石の縁は、「刎ね出し」と呼ばれるものでした。

■「土塁・石垣」の説明文です。
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土塁・石垣
五稜郭の土塁は、堀割からの揚げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築という工法で造られています。
郭内への出入口となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっています。特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎ね出し」とよばれる防御のための迫り出しがあります。
石垣には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北方の山の石が使われています。
※刎ね出し 武者返し・忍び返しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっています。

土塁・石垣の構造
本塁石垣は裏込めの奥に土留めの石垣を据えた二重構造になっています。
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上の写真は、城郭の中央に再現された「箱館奉行所」です。

城郭の中に歩いて行くと、風格ある建物が夕日を浴びてそびえていました。

下の写真は、再現建物の前の案内板に掲示されていた昔の「箱館奉行所」で、建物の復元に寄与したとされる写真です。

上に掲載した「榎本武揚」や、「土方歳三」の写真が「田本研造」により撮影とされ、この写真も箱館戦争の頃、「田本研造」により撮られたのかも知れません。

下の説明文にあるように元治元年(1864)に完成、明治4年(1871)に解体と、わずか約7年間の建物だったようです。

この古い写真と、同じ角度で撮影して並べてみましたが、ほぼ同じ姿で再現されています。

■案内板の説明文です。
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箱館奉行所古写真
箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御施設として築造されたのが五稜郭です。
安政4年(1857)に着工して7年後の元治元年(1864)に完成し、蝦夷地の政治的中心となりました。
明治維新の際には戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、明治4年(1871)に奉行所庁舎は解体されました。
それから140年の時を経て、平成22年(2010)に箱館奉行所が復元されました。
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この平面図も「箱館奉行所」前の案内板にあった「五稜郭内庁舎平面図」で、昔の建物の平面図と思われます。

「復元部分」と書かれ、青い破線に囲まれた復元建物以外にも、左や、上部分に建物があったようです。

復元されていない建物跡だった場所をは、カラー舗装で表示されており、当時の施設規模の大きさを感じさせられます。

■案内板の説明文です。
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箱館奉行所(遺構平面表示)
箱館奉行所は、公務を執る役所部分と奥向[おくむき]とよばれる奉行の役宅部分に分かれていて、その総面積は約3,000㎡となっています。このうらの約3分の1の範囲(約1,000㎡)は建物を復元し、残りの約2,000㎡分は地面に部屋割を区画した遺構平面表示により奉行所建物の範囲を表示しました。
いずれも発掘調査によって発見された柱の礎石などの建物遺構の真上に復元しています。
役所部分は、玄関・大広間などの儀式の部屋、裁判などを行う部屋、奉行とその部下の仕事部屋、炊事部屋などが、奥向には奉行とその家族が住むための部屋などがありました。
また、奉行所を囲む板塀や木柵、井戸などの遺構の位置も表示しています。
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「五稜郭」の入口付近にあった復元模型です。

「五稜郭」全体の構造がよく分かります。

「箱館奉行所」の建物は、復元建物の写真とは違い、棟が複雑に組み合わされた施設だったことがわかります。



「五稜郭」の復元模型に並べて展示されていた建物の説明図です。

平面図の各建物に1~20の番号が付けられ、名称が紹介されていました。

「五稜郭」の門は三ヶ所、それぞれに門番所があったようですが、正門だった右下の門以外は半月堡がなく、防御の弱さが感じられます。

■平面図の建物名称文です。
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1.箱館奉行所、2.用人長屋、3.手附長屋、4.給人長屋、5.近中長屋、6.徒中番大部屋、7.供溜腰掛、8.公事人腰掛、9.仮牢、10.土蔵、11.板庫、12.板蔵、13.奉行所厩14.御備厩、15.秣置場、16.稽古場、17.湯所、18.湯遣所、19.門番所、20.門
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幕末、洋式の城郭「五稜郭」を造った「武田斐三郎」の顕彰碑がありました。

「武田斐三郎」(1827~1880年)は、大洲藩(愛媛県)に育ち、緒方洪庵に洋楽、佐久間象山から兵学を学んでいます。

ペリーが黒船で浦賀に来航した時に書いた「三浦見聞記」で幕府から才能を認められて役人に採用されたようです。

ペリー2回目の来航の時には、箱館での会談に列席しています。

■顕彰碑の碑文です。
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五稜郭築城設計及び監督
箱館奉行支配諸術調所教授役
武田斐三郎先生 顕彰碑

五稜郭は我が国はじめての洋式築城で安政4年着工、7年の歳月を費やして元治元年(1864)に竣功した。
のち旧幕府脱走兵がこの城に拠り箱館戦争の本城となった。築城100年記念に当たってこの碑を建てた。
昭和39年(1964)7月18日  函館市
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これで北海道旅行6日目が終わり、次の日は積丹半島から小樽まで日本海海岸を北上して行きます。