昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

1 「三徳山三仏寺」参道口から皆成院まで

2010年03月31日 | 山陰地方の旅
3/22、鳥取県三朝町の「三徳山三仏寺」へ参拝しました。

受付で、奥の院「投入堂」への参拝は、4月1日山開きまでは出来ないことを知り落胆しましたが、とりあえず本堂までの参拝をしました。



三仏寺で頂いたパンフレットの表紙で、国宝の奥の院「投入堂[なげいれどう]」です。

「投入堂」は、山頂に近い急峻な断崖に造られ、写真を見るだけでも常識をはるかに超えた驚愕の建物です。

「三徳山・投入堂を世界遺産に!」と書かれていますが、このすばらしい建物を長く後世に遺すためにも世界遺産登録がぜひ実現してほしいものです。


三仏寺で頂いたパンフレットにあった三徳山全景の図です。

今回は、下の道路から、いくつかの石段を上り、登山事務所のある本堂までの参拝でした。

本堂から奥の院「投入堂」までの標高差は、約200m、往復1.5時間かかるそうです。

下の道路を向かって右に進むと三朝温泉です。



三朝温泉から三徳川に沿った県道21号を進むと石で造られた三仏寺の鳥居が見えて来ます。

この鳥居を見ると、古代からから明治維新まで続いた長い神仏習合の時代を感じさせられます。

道路脇に「洗心のみち」の案内板があり、鳥居の額束には「三徳山」と書かれています。

長い道のりを徒歩で参拝していた昔は、この鳥居に三仏寺に到着した感激を抱いた人も多かったものと思われます。

正面の高い山は、奥の院「投入堂」がある三徳山でしょうか。



道路に面した三仏寺の石段の登り口で、バス停もあります。

石段脇の白い案内表示に「中国観音霊場 第三十一番札所 三徳山三佛寺」とあります。

石碑には「石壇築立 八拾四壇」とあり、両脇に寄進されたと思われる名が刻まれています。

いきなり88段の長い、急な石段がはじまり、「投入堂」までの険しい行者道を予感させられます。

■石段の向いにあった三仏寺の案内板を転記します。
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三徳山三仏寺
 参道を登りつめた処に三仏寺本堂がある。嘉祥二年(八四九)慈覚大師が釈迦・大日弥陀の三尊をここに祀ったのが始まりという。
 本堂裏から山にむかうと重要文化財指定の文殊堂などの建造物が続き、巌窟の中には役の行者が投げ入れたという国宝投入堂がある。
 三仏寺には、重要文化財指定の蔵王権現像数体のほか、多くの文化財が保護されている。
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長い石段を上り、左に折れると二つ目の石段があり、上に参拝受付案内所の屋根が見えてきます。

石段の向かって右には、かなりすり減った石段が残されており、信仰を集める三仏寺の長い歴史を感じさせられます。



方形屋根に赤瓦の参拝受付案内所です。

受付を済ませ、一段上の「皆成院」の前から振り返って撮った写真です。

受付の人から投入堂への入山は4月1日からと教えられ、しかたなく本堂までの参拝としました。

肌寒い日でしたが、満開の梅が心をなごませてくれます。



参拝受付案内所の前から一段上の「皆成院」を撮った写真です。

手前の建物には、売店があり、御祈祷受付所、納経所などの看板の他、山菜料理、名物とうふ、冷やしあめ等々、食堂のメニューも掛けられていました。

周辺にお店もない山中の寺では、便利なお店と思われますが、宿泊も含めた運営は大変なご苦労があるものと思われます。



三仏寺の三つある宿坊の一つ「皆成院」の門で、参道の右手にあります。

門の柱に長い木の看板があり、「中国四十九薬師霊場 第四十三番札所」と書かれています。

又、門の脇の白い看板には「幸福・厄ばらいの 観音菩薩様」「寿命・眼・腰・病気の 薬師如来様」「智慧・受験合格の 文殊菩薩様」と案内され、まるで御利益の百貨店といったところです。



「皆成院」の正面です。

両脇に「薬師瑠璃光如来[やくしるりこうにょらい]」と染抜かれた赤と紺の幟が並び、門を入った堂の前にも「中国四十九薬師霊場」の幟も立てられていました。


「薬師瑠璃光如来」は、「薬師如来」と同義語のようです。



「皆成院」に参拝していると左手から聞きなれない大きなカエルの声が聞こえてきました。

見るとお堂の横に錦鯉が泳ぐ小さな池がありました。

向こう岸の中央付近の突き出た岩の下にヒキガエルを見つけましたが、声は池の右手の方から聞こえていました。



池の底にいたヒキガエルです。

よく見ると二匹で、大きなヒキガエルの上にもう一匹が乗り、前足でつかまっています。

まだ少し雪の残る境内で、冬眠から目覚め、さっそく繁殖期の行動開始のようです。

冬眠で体力を消耗した直後と考えると、ヒキガエルパワーは大したものです。

鳥取 春の風景

2010年03月27日 | 山陰地方の旅
先週3/22、世界遺産の登録を目指す、鳥取県三朝町の「三徳山三仏寺」へ参拝しました。

数年前、五木寛之の「百寺巡礼」をDVDで見て以来、三仏寺奥の院の神秘的な「投入堂」(国宝)の参拝を切望していました。

昨年6月、倉吉市付近を旅行しましたが、天候が悪く断念したこともあります。

午前11時に三仏寺へ到着、受付で奥の院「投入堂」への参拝は、4月1日山開きの後からと言われ、またしても「投入堂」の参拝はできませんでした。

境内で参拝者を案内されていた住職さんにザックを背負った山登りスタイルを見られ、服装はそれで良いが、もう少し下調べをして来て下さいと言われ、何とも恥ずかしい思いでした。



三徳山三仏寺の参拝の後、鳥取市気高町付近で見つけた菜の花畑です。

菜の花は、田舎の道端などでよく見かけますが、こんな広い菜の花畑は最近見かけなくなりました。

一面の菜の花にうれしくなり、車を止めて撮影しました。



菜の花畑のほとりで見つけた「ツクシ」です。

付近をよく見ると周囲は「ツクシ」でいっぱいでした。

「投入堂」への参拝が出来ず、落胆した気持ちを菜の花や、ツクシに癒されたようです。

ところで、「ツクシ」は杉の葉にも似た「スギナ」の子(胞子茎)で、これを食べるとスギ花粉症が治ったり軽減するそうです。

重症のスギ花粉症になった日本大学島方教授が、悲壮な覚悟で趣味の山菜採りに出かけ、採ったツクシを食べて完治したことから日大と企業による「つくし飴」の共同開発まで発展したそうです。

島方教授は、書籍「地図でみる西日本の古代」の編集もされた偉い先生で、ツクシはその日に水洗し、強火で油炒めするか、生で1年は冷凍保存できるそうです。

今が、ツクシ採りの季節、覚悟して採りに行くか、「つくし飴」を試してみてはいかがでしょうか。

次回の掲載は、「三仏寺」「茂宇気[もうけ]神社」への参拝の記録です。

油絵「春の花と洋酒の瓶」

2010年03月22日 | 妻の油絵
妻の油絵「春の花と洋酒の瓶」です。



華やかな春の花「スイートピー」「ラナンキュラス」と、「洋酒の小瓶」「グラス」の落ち着いた雰囲気がなんとなく調和しているようです。

淡い色のドレスをまとった貴婦人のような「ラナンキュラス」の花の姿は実に色鮮やかで、強い存在感を感じます。

ちなみに隣の洋酒の小瓶は、控え目に座る紳士にでも例えたらいいのでしょうか。

妻は、毎週のように花の絵を描いていますが、この絵はちょっと満足の出来だったようです。

尾道市「鳴滝城山」の散策

2010年03月18日 | 山陽地方の旅
3月3日に行った尾道市吉和町の鳴滝山周辺の散策の続きです。

鳴滝山展望台を下り、鳴滝城山を目指しました。



鳴滝山から東に見える「鳴滝城山」です。

戦国時代、頂上に城郭がそびた鳴滝城山は勇壮なものだったと想像されます。

向って右側(南)の斜面は岩だらけで、その向こうの麓には尾道市の街並みが広がっています。

山頂への道は、向かって左の斜面にありました。

■熊野神社にあった「鳴滝山城址」の案内板です。
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鳴滝山城址
元享年中(1321-1323)に宮地次政が築城、広義、広俊、恒躬と4代にわたって受け継がれたが、。100年後の応永30年(1423)美ノ郷に大平山城を構える。木頃経兼の奇襲にあい、恒躬は久山田の守武谷で戦死し、夫人鈴御前(木ノ庄木梨杉原氏の娘)も栗原門田まで逃れたが殺され、その子明光は幸わい落ちのび、因島の村上氏を頼って城の奪回を図るが事遂に成らず、三原市の佛通寺に入って?嶽と号した。しかし、群[?]山豪族の拠点となった山城の離合集散は激しく、まもなく宮地一族は鳴滝山に住みついた。
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「鳴滝城山」付近の地図です。

鳴滝山から車道を下り、鳥居のマークのある熊野神社の下を過ぎると登り口があり、赤い線で描いた細い山道を登って行きます。

①~⑤は、下に掲載する写真の説明で示す場所です。



上の地図①の場所で、車道から分かれる「鳴滝城山」への登り口です。

ここから山頂までゆっくりと歩いて10分程度です。



上の地図②の場所から山頂④を見上げた景色です。

「鳴滝城山」の頂上に近い西側の斜面には畑が広がっています。

畑のほとりの山道は日当たりも良く、黄色いタンホポの花や、赤・青の小さな雑草の花が元気に咲いていました。



上の地図③の場所から来た道を振りかえった景色です。

山の頂上に鳴滝山展望台が見えています。



上の地図③の場所から山頂を見上げた景色です。

山頂まであと少しです。

ここから急な上り坂になっています。



「鳴滝城山」の頂上に到着です。

南北に細長い山頂の北部分の景色です。

東西の幅は10m程度、南北に30~40mの長さもあったでしょうか、意外に狭い感じでした。



「鳴滝城山」の頂上南部分に円形の一段高くなった場所がありました。

この裏の南から見ると1m近い段差がありましたが、神様を祀る場所にも思えます。

山頂の所々に黒く焼け焦げた木の株があり、山火事になった痕跡です。

以前、尾道バイパスから、この辺りの山が丸焼けになったのを見付けて驚いたことを思い出しました。

火事は2002年12月だったようで、付近の家の人達は、さぞかし恐い思いをされたと思われます。

昔、鳴滝城が落城した時にも同じような無残な姿になったのでしょうか。



「鳴滝城山」から東方向の景色です。

眼下に尾道の街が広がり、尾道水道が東に伸びています。



向って左に岩子島、右に佐木島などが見えています。

国道2号は、このあたりから海岸沿いを走ります。



山頂から東北方向に10m程度下った斜面から細長く平坦な部分が突出していました。
(上の地図⑤の辺り)

平坦な部分の幅や、長さは頂上よりやや狭いようですが、ここにも郭が築かれていたものと思われます。



上の地図③の辺りの道の北側の石垣に囲まれた一段高い場所があり、基石だけ残った墓地の跡がありました。

山頂から20m程度下った辺りで、かってはここにも郭があったのでしょうか。

この付近を歩くと廃屋があり、山城が見捨てられた時代と同様、山の不便な家が顧みられなくなっているようです。


これで鳴滝山周辺の散策は終わりです。

因島の村上水軍の菩提寺「金蓮寺」で知った宮地氏から「鳴滝城」に興味を持ち、この地を訪れました。

鳴滝山展望台や、鳴滝城山から見る景色は、期待をはるかに超える素晴らしいものでした。

尾道市鳴滝山の散策 ②瀬戸内海の絶景

2010年03月14日 | 山陽地方の旅

これから目指す鳴滝山展望台辺りを鳴滝城山から眺めた景色です。

頂上左手に白い展望台の建物が見え、枯草の部分はパラグライダーのフライト場所になっていました。

写真に向って左下にU字カーブの先端が見えています。
(下段の地図では下部中央の道が大きく曲った辺りです)



熊野神社から鳴滝山展望台へ至る道順を記した地図です。

神社から山道を歩き、八注池駐車場の前で車道と合流します。

八注池[やつがいけ]から鳴滝山展望台への遊歩道が始まります。



熊野神社の横から裏手付近の道が珍しい階段になっていました。

階段の中央にコンクリートの細い斜面が作られ、初めて見るものです。

農作業などで使われる一輪車を通すためでしょうか???


山道の所々で、荒々しく土を掘った跡が見られ、イノシシの仕業と思われます。

山道で、熊に遭遇した場合の対応を本で読んだことを思い出しましたが、イノシシへの対応は完全に忘れていました。



車道に合流してすぐに車道の終点となる、八注池[やつがいけ]です。

葉の無い木が目立つ地味な山に囲まれ、深緑色の八注池は美しく輝いています。

案内板の前の石碑に「紅葉のひろば 鳴滝山植樹三十周年記念 平成十九年十一月二十二日」と刻まれていました。

この遊歩道に沿った森一帯には長い期間植樹が続けられているようです。

左の柵の入口を進むと池の土手で、土手の下に20台程度の駐車場があります。



「瀬戸内海国立公園 鳴滝山公園案内図」と書かれた案内板がありました。

図に向って右下の「現在地」から公園を一周する遊歩道が整備されているようです。

美しい景色を早く見ようと池の土手を通る時計回りのコースを進みました。

上段の地図に鳴滝山の三角点がありますが、この案内図には見られなく、場所が分かりませんでした。



「有名画家 写生地 小林和作画伯」と書かれた案内板がありました。

二本足の案内板の上部にある長方形の窓をのぞくと、小林和作画伯が描いた瀬戸内海の風景の構図が見えるようです。

元々、二本足の案内板には小林和作画伯の絵があったと思われますが、消えて見えなくなっていました。

小林和作画伯は、山口県の生まれで、46才に尾道の風景に魅せられて移住し、他界するまでの40年間、尾道の風景を愛して描き続けた洋画家だそうです。



長方形の窓から見える範囲と思われる写真です。(もう少し右手かも知れません)

薄曇りの午前10時頃、南南東方向の景色で、逆光の暗い写真になってしまいました。

向こうの長い橋は、「因島大橋」で、向って左の島が「向島」、右手の島が「因島」です。

中央の島は「岩子島」で、左の「向島」との間に赤い橋「向島大橋」が見えています。

この印象的な「因島大橋」が開通したのは小林和作画伯が86才で他界された1974年から9年後のことで、残念ながら絵にはありません。

赤い「向島大橋」は画伯他界の6年前(1968年)の開通で、絵にあるかも知れません。



急な坂道を登りきると「鳴滝山展望台」の白い建物が見えてきました。

左手の柵の下には瀬戸内海の美しい絶景が広がり、ここから見える島々を描いた説明板も見えます。

展望台の周囲は広場の入口に石碑があり、「パラグライダー(フライト広場)・・・」と刻まれていました。

柵のクサリのすぐ先は急斜面で、クサリを外してパラグライダーで飛び出して行くことを想像するだけでも身震いがします。



展望台から眼下に広がる景色を写真4枚に撮り、その左手2枚をつないだ写真です。

左手前に鳴滝城山がそびえ、その麓に尾道の町並み、対岸に向島の海岸が伸びています。

写真に向って右端に岩子島の東端が見え、向島の向こうには加島、百島、横島、田島が見えています。

尾道水道の風景は、千光寺公園から左右に見渡しますが、鳴滝山から見る尾道水道には、一直線に伸びる構図で、雄大さが加わっています。



上段の写真の右に続く景色ですが、右端は南南西の方向で、西の三原市方向は見えていません。

眼下の尾道市吉和町町並みの対岸に岩子島の全景が見え、その沖に大きな因島があります。

右端の手前に細島、そのすぐ沖に小細島、右端の沖には生口島、その向こうには大三島の島影が見えています。

瀬戸内海のほぼ中央に位置するこの海域は、島が最も多いエリアです。



展望台を過ぎ、遊歩道の南端辺りから西を見ると鉢ヶ峰がそびえています。

鉢ヶ峰の沖には小さな「宿祢島」が浮び、その沖に「小佐木島」「佐木島」「生口島」などが見えます。

「宿祢島」は、新藤兼人監督の名を世界的にした映画「裸の島」のロケ地となった無人島です。

ここから鳴滝山の遊歩道を外れ、鉢ヶ峰へ至る縦走ルートの案内板がありました。

鉢ヶ峰の中腹に見える寺は、麓の観音寺の奥の院で、この山の開祖は「万慶上人」と言われています。

「万慶上人」は、このブログ01月17日掲載の<白滝山「観音堂」と、開山の由来>で観音堂の山門にあった「白滝山霊異記」の説明文で、インドから来日して白滝山を開山した「法道上人」の弟子とされています。

鉢ヶ峰の「万慶上人」は、沖の細島に住んだ「白道上人」と共に、この地で永く布教を続けたようです。



遊歩道が北の方向に変わると下り坂になり、道の両脇に植樹がされていました。

植えられた木には小学校の児童の名が書かれた札が2名づつ付けられています。

道の周辺の山にも沢山の植樹が見られ、この地域の人々が鳴滝山で熱心な活動をされていることが分かります。

鳴滝山の次は、車道を下り、鳴滝城山の頂上を目指しました。

鳴滝山近くでみつけた早咲きの桜

2010年03月10日 | 山陽地方の旅
鳴滝山付近の散策の続きです。

順序は違いますが、鳴滝山からの帰り道で桜の開花を見つけ、一足早い花見の話です。


鳴滝山から国道2号バイパスへ下る途中、道路脇に咲き始めたばかりの桜を見つけました。

大きく膨らんだツボミが垂れ下り、ほんの少し開花を始めているようです。

写真を撮らせてもらっていると、横のお家から奥さんが出て来られ、この桜は沖縄の「緋寒桜」[ヒカンザクラ]と教えて頂きました。

沖縄の「緋寒桜」は、1月下旬頃に咲き始めるようですが、まだ見たことがありません。



これも「緋寒桜」の横に並んでいた桜です。

同じように開花を始めたばかりで、ソメイヨシノと比べて花が小さいものの、美しいピンク色が特徴です。

品種名は、分かりませんがこの桜も苗木を買ってきて植えられたそうです。

向こうに見える岩だらけの山は、先程まで歩いていた「鳴滝城山」でしょうか。



頂いた桜の小枝の一部です。(緋寒桜ではありません)

帰った時はしおれていましたが、水に差すとすぐに元気に開花しました。

このお家の奥さんは、実に気前よく桜の枝を約40センチ切って下さいました。
(ご親切にありがとうございました)

あれから約一週間、小枝の花も満開で、一足早い花見酒を楽しんでいます。

尾道市鳴滝山の散策 ①熊野神社

2010年03月07日 | 山陽地方の旅
3月はじめ、尾道市吉和町の「鳴滝山」一帯を散策しました。

ここには「鳴滝山展望台」や、「鳴滝城」があります。

02月14日掲載の 因島村上水軍の菩提寺「金蓮寺」の記事で、「宮地妙光」と、子息大炊助資弘が願主となって金蓮寺を建立したことを書いています。

「宮地妙光」が、ここ「鳴滝城」の城主の嫡男で、「鳴滝城」が落城して因島に逃れ、再興した物語があることを知り、鳴滝山周辺の散策を思いついたものです。



「鳴滝山」の展望台から尾道水道を見下ろした景色です。

時々晴れの日で、少し霞んでいましたが絶景を楽しむことができました。

左手にそびえる山は「鳴滝城山」(山の名称は国土地理院の地図より)です。

「鳴滝城山」からもすばらしい眺めでした。

この一帯から東西には福山市から三原市、沖には四国の山並みまで見渡せ、瀬戸内海の眺望の中では最高ランクの展望台だと思います。



国道2号線から「鳴滝山」方面への地図です。

「鳴滝山」への道は、2号線パイパス吉和インターから北の側道を少し西に進み、北に進んで行きます。

地図の赤い矢印に沿って進むと「鳴滝山」や「鳴滝城跡」があります。



「鳴滝山」一帯の地図です。

当日、歩いた範囲を地図に記しています。

歩いた順は、9:26「P1」駐車→9:32「熊野神社」参拝→山道を北へ→9:50「P2」駐車場付近で車道に合流→10:13「鳴滝山展望台」→10:50「P2」→車道を下る→11:10「鳴滝城跡」登り口→11:25「鳴滝城跡」頂上11:45→11:55「P1」



道路脇の案内標識に従って「鳴滝山」へ向って行くと右手に「瀬戸内海国立公園 鳴滝山登山道 駐車場」と書かれた看板が見えてきます。(上の地図「P1」)

その下に「熊野神社」と墨で書かれた案内板も見えます。



右手は駐車場で、中央の上り坂の道が「熊野神社」を経由して「鳴滝山」へ進む道です。

左手の道は、「鳴滝山」へ進む車道ですが、左手の山には「鳴滝城跡」があり、登り口はすぐ先です。



坂道を歩いて行くと「熊野神社」がありました。

先は神様に参拝、ご挨拶です。

短い石段を登り切った所にイノシシ対策と思われる柵があり、ジクザグに進むと境内に入ります。

他にも境内に入る道がありましたが、柵で完全にふさがれていました。


■拝殿に登る石段の脇に「熊野神社」の案内板がありました。
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熊野神社
応永9年(1402)鳴滝山城の守神として鎮座されたと伝えられ、熊野三社神のほか、伊邪那美命が祀られている。
また同社に、僧覚峰が筑紫から紀州大峰山に神命をおび赴く途次、この沖合で船が動かなくなり、神のお告げをうけ、山上に勧請したといわれている。
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二つ目の石段を登ると「熊野神社」の拝殿がありました。

ここで拝礼です。



拝殿の壁に「熊野神社・西光寺旧蹟」の修造寄付者芳名が掲示されていました。

平成13年11月竣工とされ、神仏を合わせて建物を改修されたものと思われます。

掲示された寄付者芳名に、かっての城主「宮地」姓が数名書かれていました。



拝殿の裏の小さな本殿です。

拝殿と、本殿が離れてた素朴な建物です。



本殿の横に小さな祠[ほこら]がありました。

5つの連続した祠と、単独の祠が並んでいますが、その間に非常にちいさなコンクリート製の祠もありました。

どんな神様が祀られているのでしょうか?



拝殿を背に下段の鳥居方向を見た様子です。

鳥居をくぐって石段を降り、右手に進むと「鳴滝山」です。



「熊野神社」の鳥居から左手に進むとお堂があり、その横に石仏が並んでいます。

地図には「熊野神社」の隣に「西光寺」と表示されています。

■拝殿に登る石段の脇に「西光寺旧蹟」の案内板がありました。
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西光寺旧蹟
鳴滝山二代目城主宮地広義が嘉暦3年(1328)建立した。
この寺は頂上にあって当時72坊をそなえ近くの鉢が峯、弥次池を行場とする山伏たちの吹きならす法螺貝の音が、山や谷をゆすったものとみられ、応永30年(1423)鳴滝城の奇襲の際寺も灰燼にきし建てかえられた。
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参拝を済ませ、神社の前の山道を「鳴滝山展望台」をめざして登って行きました。


倉敷で見た屋根の上の「ゴイサギ」

2010年03月02日 | 山陽地方の旅
1月下旬、妻が描く風景画の景色を求めて、倉敷美観地区へ行きました。



美観地区を流れる朝の「倉敷川」です。

川の向こうにある高い塀の向こうは「旧大原家住宅」のようです。

川の両岸にある木々に沢山の小鳥が忙しく動き回っていました。



メジロの小さな群れを見つけました。

絶えず動き回るメジロをやっと撮った写真です。



メジロの写真を拡大したものです。

ずんぐり系の愛くるしい姿が好きです。

子供の頃、春にメジロの大群に遭遇したことを思い出しました。

おびただしい数のメジロの大群が飛来、すぐ近くを飛び回る光景に、ワクワクしたものです。



観光案内や、無料休憩場もある「倉敷館」と倉敷川に架かる「中橋」です。

よく晴れ、観光客もまばらな平日の朝、妻の絵の川辺の街並みの風景探しです。



「凸凹堂」の看板のある東向きの店の屋根に大きな鳥が止まっていました。

「ゴイサギ(五位鷺)」のようです。




「ゴイサギ」が、東に向って飛ぶ飛行機を見上げているようです。

上空に飛行機雲風が見えますが、風のためか短時間で消えてしまいました。



拡大した「ゴイサギ」の写真です。

胸の羽が風でそり返り、なかなかオシャレな姿です。

■平家物語(巻第五)に「ゴイサギ」の名の由来があります。
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平安時代中期、醍醐天皇(60代天皇・在位897年~930年)が内裏近くの池のほとりにいる鷺を見つけ、そばに仕える六位の蔵人(秘書官)に鷺を捕まえるよう命じられたました。
鷺に近づいた蔵人は、鷺が飛び立とうとした時、「宣旨(天皇の命令)である!」と叫ぶと鷺は固まり、おとなしく捕まったそうです。
天皇は、従順に宣旨に従った鷺を誉め、「五位」※の位を与えて「鷺の中の王である」という札を付けて開放されたと言うお話です。

天皇の気まぐれとも思える命令に従い、鷺を捕まえた蔵人は、自分より上の位を鷺に与えられ、さぞかし悔しかったと思われます。
しかし、天皇は、いやいやながら命令に従う蔵人を見抜かれ、「五位」の階位を判断されたとも考えられ、この命令や、階位には日頃のストレス解消が込められていたのかも知れません。
「五位鷺」の名に、遊び心あふれる醍醐天皇のお人柄を想うと親しみを感じます。
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※五位:古代から続く律令制で、個人の地位を定めた位階制度の30ランク(正一位~少初位下)の内、11~12番目の位階のようです。

■醍醐天皇の時代(脱線気味の補足です)
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醍醐天皇の治世34年間は、先帝宇田天皇に続き、摂政・関白を置かず、後世「延喜の治」と讃えられた天皇親政の時代です。
南北朝時代の後醍醐天皇も範とした治世としても知られています。
しかし、父である宇多上皇も政治的な影響力を持ち、政治の実務は左右大臣の藤原時平・菅原道真に任せて親政はある程度形式的なものだったようです。
藤原時平の讒言で、菅原道真を大宰府の権帥に失脚させ、道真が失意の中で亡くなったのも醍醐天皇の時代でした。
その後に天皇の長子保明親王や、その子が続いて亡くなり、藤原時平も39歳で亡くなったことが菅原道真の怨霊によるものと考えられたようです。
道真の名誉回復をし、慰霊したものの、遂に清涼殿に落雷があり、その後まもなく崩御されています。
大宰府天満宮や、各地の天満宮に菅原道真が天神様として祭られて慰霊されるようになったのもこの時代からのようです。
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南の橋を渡って向いの岸に歩いて行きましたが、まだ「ゴイサギ」は同じ場所にいました。

時々、小さく身体を動かしていましたが、移動はしていません。

「ゴイサギ」は夜行性と言われ、昼間はウトウトしているのでしょうか。



同じ日の午後、吉備津彦神社の池で「ゴイサギ」に会いました。

めったに出会わない「ゴイサギ」に1日に2度も出会うとは、奇遇です。

天皇から五位の階位を与えられた幸運な「ゴイサギ」にあやかりたいと、ささやかな願いを込めて撮った写真です。