昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

川平の豪族「仲間満慶山英極」

2007年05月31日 | 沖縄の旅
底地ビーチの駐車場の南西側にある「仲間満慶山英極(なかまみつけーまえいきょく)」の墓を参拝させて頂ききました。
この墓は、断崖の洞穴を墓にしたものと思われ、「ヤドピケー」といわれているようです。


「仲間満慶山英極」(1467年~1500年?)は、八重山地方に豪族が群雄割拠していた15世紀末、川平の豪族だった人です。
「仲間満慶山英極」の館は、川平の仲間森にあったそうで、一昨日掲載の「川平貝塚」 は同様の場所・時代と考えられます。

当時の八重山には西表島祖納の「慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようちょう)」、与那国島の女傑「サンアイイソバ」、波照間島の「明宇底獅子嘉殿(みうすくししかどぅん)」、石垣島には石垣市街地辺りに「長田大主」、平久保に「平久保加那按司」、大浜の「オヤケアカハチ」などの豪族がいました。

琉球王朝と組んだ宮古島の仲宗根豊見親は、西表島祖納の「慶来慶田城用緒」、石垣の「長田大主」(仲宗根豊見親の子と言われている)を軸に八重山への影響力を強めていたようです。
その中で石垣島では「オヤケアカハチ」の勢力が強大化しつつあり、1500年「長田大主」を追い詰め、西表島へ逃がしてしまった事件により「オヤケアカハチの乱」が展開して行きます。
琉球王朝軍・仲宗根豊見親軍が迫ることを知り、孤立した「オヤケアカハチ」は、周辺の豪族へ助けを求めたようです。
「オヤケアカハチ」の助けを求められた「仲間満慶山英極」は、琉球・宮古島・中国などの情勢を判断したのか、その申し出を断ったそうです。
「オヤケアカハチ」との会見からの帰り、「オヤケアカハチ」の仕掛けた落とし穴にかかり、襲われて殺されてしまったそうです。
「オヤケアカハチ」は、琉球王朝軍・仲宗根豊見親軍との決戦に備え、敵対勢力の一掃を企る意図があり、助けを求める名目で接触したことも推察されます。

「仲間満慶山英極」は、「平家の末裔とも言われており、同じ平家の末裔と言われる西表島祖納の「慶来慶田城用緒」とつながる宮古島の仲宗根豊見親側に立ったものと考えられます。


底地ビーチの駐車場の南西から「仲間満慶山英極」の墓に行く道の入口付近にある施設です。
水道に関係する施設と思われますが、とても背の高い施設です。


墓へ向かう道の様子です。
道の両側は、茂みが広がっています。


道の奥に階段があり、その先は高い断崖がそそり立っています。
その断崖の下に墓が見えてきます。


墓前で手を合わせて拝ませて頂きました。
墓碑に「英傑 仲間満慶山英極」とありましたが、写真がうまく撮れていませんでした。


向かって左には石碑があり、故人を称えたことが刻まれているようです。
現在も、子孫の方々は、祖先「仲間満慶山英極」を大切にお祀りされているようです。


墓を斜め前から撮った様子です。


正面右隣に「仲間サカイ之墓」と刻まれた墓碑があり、その後ろに故人を称えた石碑があります。
「仲間サカイ」は、1713年~1813年に生きた女性で、有名な「鷲ぬ鳥節」の元となった「鷲ユンタ」作ったと言われ、「仲間満慶山英極」の子孫とされているようです。
「鷲ぬ鳥節」に興味がある方は、沖縄三線のサイトで 「鷲ぬ鳥節/宮良高林」を試聴できます。

かって石垣島の市街地大川に「与那国御嶽(ユノーオン)」があり、「仲間サカイ」はその御嶽の神司(かんつかさ)だったようです。
アーケードの商店街「あやぱにモール」には「鷲の鳥節」発祥の記念碑が建っているようですが、見落としていました。

明和大津波が発生した年が1771年で、御嶽のある市街地大川にも巨大な津波が襲ってきたことと思われます。「仲間サカイ」が58歳前後の頃と考えられ、約100歳まで生きたことを考えると、その一帯では数少ない生存者と推察されます。


正面左隣にも墓があります。
特に墓碑はありませんでした。

底地(すくじ)ビーチ

2007年05月30日 | 沖縄の旅
川平半島の西側の海岸、「底地(すくじ)ビーチ」に行きました。
長い砂浜に林の木陰がある美しいビーチでしたが、不思議なくらい人の少ない場所でした。

*昨日掲載の川平貝塚の記事で御嶽名(拝所)が確認でき、訂正記載しています。


「底地ビーチ」の施設案内板です。
石垣市の市営ビーチのようで、シャワー施設、トイレが各4ヶ所、無料駐車場も完備のようです。
しかし、2006年9月の台風13号で、ハブクラゲ防止ネットが破損したままで補修されていないようです。
団塊の世代の移住受入れが、石垣市の財政を圧迫するなどとテレビで放送していましたが、受け入れ前に財政が困窮状態になっているのでしょうか。


南北に走る海岸の北を見た景色です。
ホテルがあり、砂浜では人が遊んでいます。



「底地ビーチ」の北西にある「川平石崎」の景色です。
静かな場所で、美しい「川平石崎」の風景を見ていると心がなごみます。
「川平石崎」の北側の海は、マンタに出会える日本一人気の高いスポットのようです。



きれいな海です。
以外に船がたくさんいました。
このビーチはご覧の通り遠浅のようで、干潮になるとだいぶ沖まで干上がるのではないかと思います。
シャワー施設まで100m以上になると、泳ぐ運動から歩く運動に変わり、汗を流す施設になってしまうのではないかとつまらない想像を働かせてしまいました。


南北に走る海岸の南を見た景色です。
妻が貝殻や、珊瑚のかけらを拾っていました。


砂浜も良く見ればこんな様子です。
珊瑚のかけらで砂浜ができている感じです。


ビーチ南の海岸には小さな桟橋があり、船が停泊していました。
向うに見える山の麓には切り立った岩場があり、15世紀末の川平の豪族「仲間満慶山英極(なかまみつけーまえいきょく)」の墓があります。
(次回の掲載予定です)

川平貝塚と、御嶽「オン」と、「神の山」

2007年05月29日 | 沖縄の旅
川平湾からすぐ近くの「川平貝塚」を見に行きました。
「川平貝塚」は、1904年(明治37)に東京帝国大学の鳥居龍蔵氏により発見された15世紀の頃の遺跡のようです。
鳥居龍蔵氏は発見した土器を、「外耳(そとみみ)土器」(八重山式土器)と名づけ、この発掘が八重山の先史時代の研究の始まりとなったようです。
「外耳土器」は、土器の外側に耳のような取っ手がついた形をしており、その後のバナリ焼にも同様の形状が見受けられます。(石垣市八重山博物館にも展示されています)
又、中国大陸からの遺物も出土しており、大陸との交流が始まっていたことが伺えます。
やしの実大学 太平洋総合講座のサイトによると「鳥居先生は八重山の人の身体的な特徴から八重山の人々の起源は台湾との説を当初だしました。ところが後にその説を自ら覆し、八重山の人は大陸起源だといいました。なぜ覆したのかは分かりません」とあります。
ちなみに鳥居龍蔵氏は、その後中国の少数民族ミャオ族などの研究を行い、弥生時代以降の日本文化とのつながりを唱えていたようです。
2007年5月8日掲載の「アンガマの面」から見えてきたこと でもミャオ族のお面と「アンガマ」のお面がそっくりなことを紹介しました。
鳥居龍蔵氏が明治時代にここまでの研究をされていたことに強い驚きを感じます。



川平湾から内陸に向かう道の右側に「川平貝塚」の石碑・案内板があります。
又、案内板に沿って右折する細い上り坂の道が、貝塚に向かう道のようです。


■案内板の説明文を転記します。

史跡 川平貝塚
 昭和47年5月15日 国指定
この貝塚は、比高約30メートルの仲間森と獅子森を含む一帯の原野や畑地に形成されています。1904年(明治37)に考古学者鳥居龍蔵博士によって中央の学会に紹介され、先史時代の南島文化研究の草創の地となったところです。
貝塚から出土する遺物としては、いわゆる外耳土器を含む土器類、中国製品を含む陶磁器類、石器、貝器等があります。先島諸島の遺跡は、大別すると陶磁器類を伴出する遺跡と、それを伴わぬより古い時期のものと考えられる遺跡および石器のみを出土し土器を伴わぬ遺跡に分類できます。陶磁器類を伴出する遺跡の年代は、宋銭の出土をみるものがあることから、ほぼ推定可能です。
川平貝塚は、先島諸島の遺跡の一類型を代表するものであり、学史的にも重要な位置をしめます。
  沖縄県教育委員会
    昭和53年3月31日


「川平貝塚」の案内板の向かい(道路の左側)にある山川御嶽(ヤマオン)です。
この御嶽のすぐ裏手(南側)には小高い山があり、下の地図で分かるように、横長の山を背にして、すぐ南に小高い隆起があります。
この拝所は、この裏手の山を神の宿る山として遥拝する場所だったのではないかと推察しています。
山の中央の隆起の高さに違いがありますが、今帰仁の「クバの御嶽」が、神の宿る山として崇められているのと同様の例ではないかと考えられます。
「クバの御嶽」については、2007年4月13日に掲載の「クバの御嶽」にアマミキヨの洞窟をご覧下さい。


「川平貝塚」付近の地図です。
「川平貝塚」は、沖縄県のサイト Wonder沖縄 によると「この貝塚は、丘の中腹から頂上一帯にあり、仲間丘―ナカマムリィ―と獅子丘―シシムリィ―の二つの丘とその周辺を指している。」とあり、三つの点の記号と、「川平貝塚」の表示されている場所の北西にある二つの丘を指すものと思われます。
当時、この川平の地に住んでいた人々は、神の山に見守られるこの場所を選んでいたのかも知れません。


「川平貝塚」の案内板から右折し、少し走った左手にある群星御嶽(ンニブシオン)です。
遺跡のある二つの丘から南西の位置にあったと記憶しています。
道をはさんで草むらが続き、その向こうに小さな山が見え、貝塚に行く道があるか見渡しましたが、分かりませんでした。

「川平湾」の珊瑚

2007年05月28日 | 沖縄の旅
石垣島の「川平湾」でグラスボートに乗って見た珊瑚の写真です。
八重山の海には360種類の珊瑚があるそうで、日本一多いようです。
案内の人の説明はありましたが、種類の名はまったく覚えていません。


①写真の上下の黒い部分は、グラスボートの船底の縁です。
大きなテーブル状サンゴがガラス面いっぱいに見えています。





















⑧白色・青色の枝状のサンゴです。


⑨細い枝状のサンゴの先が光っているように見えます。


⑩小さなテーブル状のサンゴです。


⑪クマノミが見えます。名前は分かりませんが小さな水色の魚がたくさん群がっています。


⑫遊覧の帰りに見た海の景色です。

「川平湾」の風景と、グラスボート

2007年05月27日 | 沖縄の旅
石垣市島川平の「川平湾」に行きました。
石垣島の北西部にある景勝地ですが、世界初の黒真珠養殖に成功した地としても知られているようです。
又、川平は歴史のある集落で、伝統的なお祭りや、貝塚遺跡など興味のある場所です。


「川平(かびら)湾」を南から望む吉原の西の道路脇に湾を一望できる「川平湾展望台」があります。
「川平湾」の向かって右に半島のように見えるのは地図によると「小島」とあり、中央に浮かぶ小さな島は「ムクパナリ」と呼ぶそうです。10台程度の駐車場ですが、ゆっくりと景色を眺めることが出来ます。


上の景色をズームで撮って見ました。
湾の中央に丸い屋根のようなものがある施設が浮かんでいます。


「川平湾」の地図ですが、右下の赤い点は「川平湾展望台」のある場所です。
「川平湾」の入口付近にある赤い点は川平の集落や、「川平湾」を遊覧するグラスボートの乗り場がある場所です。
地図の中で、海に点線でサンゴ礁のバリアリーフ(堡礁)が道のように湾内に入り込んでいるのが見えます。


お店が数軒並び、ブーゲンビリアも南国の観光地の雰囲気を醸し出しているようです。
川平の集落に入り、とりあえず有料駐車場へレンタカーを止めました。
グラスボートの乗車券売り場に行こうとした時、グラスボートの呼び込みと思われる係員に声をかけられ乗船券を購入しました。


愛嬌のあるシーサー店先に立っています。
お店では乗車券の他、食事やお土産物を売っています。


浜辺に下りていきました。
グラスボートが並んだ海岸の風景で、下の海の色と少し違いがあるのが分かります。
グラスボートの案内係員からしばらく待つように言われ、景色を見て待っていました。


海の色は、逆光気味で、期待したほどの美しさが無かったのが実感です。
グラスボートの操縦士が、雲助タクシーの運転手のような仏頂面の接客態度で、少し気分を害したためかも知れません。
グラスボートの遊覧時間も30分間と聞いていましたが、5~6分早く下船させられました。
グラスボートは、移動時間が大半で、サンゴ礁を見る正味の時間は余り無かったように感じました。
枡に載ったコップにあふれる酒を注いでもらうと実に得をした気分にさせられ、次の一杯も注文したくなりますが、これでは二度と乗る気にはなりません。
セコイ話になってすみません
お店のグラスボートきっぷ売り場で購入したほうが良かったのでしょうか。

「光により七色に変化する美しい海」と案内にありましたが、体感できませんでした。
実態のある話なら、七色の変化がどの時間帯にどの角度で見えるのか、積極的な案内が欲しいものです。

石垣島最北端「平久保埼」の絶景

2007年05月26日 | 沖縄の旅
石垣島の北に突き出した「平久保埼」に行きました。
2005年11月03日の写真です。



「平久保埼」に立つとサンゴ礁の海に「平久保埼灯台」「大地離(ウフジシパナリ)」が見えます。
私には、石垣島で見た最高の景色でした。



「平久保埼」の地図です。
南から東に曲がった県道は、平野で終点となり、地図中央下から「平久保埼」へ入る道があります。
「平久保埼」周辺の海にはサンゴ礁で出来たバリアリーフ(堡礁)が島を囲っているのが分かります。
バリアリーフ(堡礁)は、外洋の荒波を防ぎ、内側の浅い海(ラグーン)はおだやかな海の楽園となっています。


「平久保埼」の駐車場の手前から見た景色です。
左に見える小山の裏に回ると灯台が見えますが、小山の頂上からの景色も最高です。


駐車場から遊歩道に入り、東の海岸線を見た景色です。
サンゴ礁の海の美しさにうっとりとさせられます。


展望台から東の海岸線を見た景色です。
はるか東に続く石垣島最北端の海岸線で、はるか向うに突き出て見えるのは「浦崎」で、「平久保埼」よりやや南に位置します。


東の山の向うに見えるのは上段の地図にもある「平野集落」です。



「平久保崎灯台」まで坂道を下り、北の海岸を見た景色です。
「大地離(ウフジシパナリ)」と、サンゴ礁の美しさに感動でした。


「大地離」を拡大してみました。



「平久保埼」から西を見た景色です。
一面に生える草の中にソテツが見えます。


「平久保埼」から西を見た景色です。
バリアリーフの外側に船が見えます。


平久保橋付近の海辺の景色

2007年05月25日 | 沖縄の旅
平久保崎が近づいて来ると、左に護岸堤防が続く所があります。
通りがけに砂浜や、海の景色がすばらしく、道端に車を止めて景色に見入っていました。



写真に向かって左に見えるのが「平久保橋」で、小さな平久保川を渡る橋です。
前を走るレンタカーが停車したのに続き、橋の上に車を止めたところです。
この先、護岸堤防が切れた所に海岸に下りる道があります。
向うに見える小さな山々の裏側に「平久保崎」があります。



「平久保橋」の上から見た河口の南側の景色です。

下に続く写真は、南北に走る海岸線を南から北に撮ったものです。


水のない「平久保川」の河口です。


「平久保川」から北の浜辺の風景です。
砂浜に生えている草はハマヒルガオのようです。


浜辺が切れた北側には、岩のある海岸が続いています。


護岸堤防と、浜辺の景色です。
元気なハマヒルガオが広がっています。


再び車を走らせて行きました。
「平久保崎」の山が近づいてきました。

昨日の記事にも牛の放牧場がありましたが、石垣島や、近くの島でたくさんの牛が飼育されています。
500年前、この平久保には500頭近い牛馬を飼育していた歴史が伝えられているようです。
1500年頃石垣島の北部には、英雄オヤケアカハチと肩を並べる「平久保加那按司」が勢力を持ち、牧場を行っていたようです。
英雄オヤケアカハチについては、2007-04-23、巨大な津波石 「石垣島の観光」2日目に記載しています。


この山を過ぎ、左折すると平久保崎灯台に行く道です。
ソテツの山は独特の風景です。
畑にはサトウキビが育っています。


石垣島北部の豪族の屋敷「伝平久保加那按司館址」が平久保半島への道の終点「平野」にあることを知り、行ってみましたが、よく分かりませんでした。

付近の適当な場所を選び写真を撮りました。

石垣島平久保の「アイナマ石伝説」

2007年05月24日 | 沖縄の旅
石垣島2日目、「伊原間(いばるま)海岸」を出て、「明石」から平久保の「アイナマ石」までの思い出を掲載します。



「伊原間(いばるま)海岸」から2~3Km走るとかわいい形の山が見えてきました。
地図で見た「はんな岳」でしょうか??



少し北に進んで撮った山の写真です。
子供が絵に描くようなやまで、山はだも特徴があります。



道路が山に近づき、見上げて撮った山の写真です。
ソテツが群生しています。
この一帯は「石垣牛」の放牧場になっているようです。


島田紳助さんのお店「トムル」が見えてきました。
テレビで紳助さんが石垣島にお店を開いた話しを何度か聞いたことがあります。
お店の後ろにも住宅があるようです。
テラスの正面からは、海(東シナ海)の景色がよく見える場所のようです。


後ろの山は「トムル岳」、山の裏側(太平洋側)には「トムル崎」があり、お店の名前にしたようです。
お店の横にも住宅が見えます。
朝9時半頃だったので、まだ準備中のようです。


明石に入ると左手に農産物を販売しているお店があります。
入り口に手押し車を押して歩く「おばぁ」が立っています。
の人が品物を持ち込み、交代で店番をしている感じでした。

お店では主に野菜を売っていましたが、「モズク」が目に付きました。
店番の「おばぁ」に日持ちをたずねてみると塩を混ぜているので1年は大丈夫と説明され、購入しました。
ビニール袋入り1Kg位で確か300円だったと記憶しています。
普段、スーパーで食べる品物とちがい、とてもおいしいモズクでした。


平久保に入り、道路が上り坂になった辺りに「アイナマ石」の道案内板があります。
道路左には放牧場が広がり、たくさんの牛がのんびりと草を食べていました。
「アイナマ石」は右折して山道を少し走ります。


「アイナマ石」の場所にある案内板です。
昔、石垣島の最北端平久保は途方もない僻地だったものと思われます。
親が決めた結婚が当たり前の時代、お嫁に行かされる女性の気持ちを考えると同情する人も多いと思います。


これが「アイナマ石」です。
手前の石が人の姿に見えたのでしょうか。
角度を変えて撮った下の写真もよく見ると、とても人の姿には見えません。
しかし、必死で探す親達には山の中で見つけた岩影が、おもわず娘に見えたのかもしれません。


まさかこの伝説の通り、娘が石になったとは思えません。
石になった話しで、この縁談に決着をつける意図もあったのでしょうか。
好きな人とかけ落ちして幸せになっていたらいいですね。

石垣島 「伊原間海岸」の津波石

2007年05月23日 | 沖縄の旅
八重山旅行、石垣島2日目(4/22)
「玉取崎」から北に約1.5Kmの太平洋側に「伊原間(いばるま)海岸」があります。
「平久保崎」へ行く途中、「伊原間海岸」にある「明和の大津波」で打上げられたと言われる珊瑚石を見に立ち寄りました。



「伊原間海岸」の入口にアダンの木が見えます。
確か2日前の天気予報は雨でしたが、幸い曇りになりました。
晴れの日のすばらしい海の色が見られなく、ちょっと残念です。



「伊原間(いばるま)海岸」に入るといきなりこんな風景が目に入りました。
「流木」と呼んでいいのでしょうか。
おそらく海岸付近の木が暴風雨にさらされて流されてきたものと思われます。
「根こそぎ」とはこんな状態のことを表現したのかと変な感動を覚えました。



「流木?」は、皮がはげたものが大半でした。
黒潮にのって台湾や、フィリピンなどの島々から色々なものが流れて来るといわれていますが、いったいどこから流れてきたのでしょうか。。



こんなしっかりと根が張った木が流されて来たところをみると、海岸が大きく崩れ、周りの土ごと波にさらわれたのでしょうか。



波打ちぎわの近くに大きなイカの甲が流れてきていました。
長さ35cmはある甲で、八重山で「クブシミ」と言われる巨大な甲イカ科のイカのようです。
「クブシミ」は、和名を「コブシメ」と言い、3母音の沖縄方言を5母音的に修正した名称のようです。
「クブシミ」は、石垣島のサンゴ礁で産卵風景が見られるようです。
大きな体にもかかわらず美味いそうで、燻製で土産物でも売られているようです。



「津波石」と言われている黒い大きな珊瑚石がありました。
満潮で、石のそばで見られませんでしたが、石に渦巻き状の模様があります。
4/23に掲載の 巨大な津波石 「石垣島の観光」2日目 でも紹介した「明和の大津波」で打上げられたものといわれています。
1771年(明和8)4月24日午前8時頃、石垣島の東南東約40㎞の海底でM:7.4の大地震が発生、八重山諸島・宮古諸島を巨大な津波が襲い、死者・行方不明者は約12,000人にも及び、壊滅的な被害となったそうです。
特に、石垣島の南部では高さ80mを超える巨大津波だったと言われています。



「津波石」と思われる黒い岩は、海岸付近に点在しています。
八重山諸島・宮古諸島の人々は、江戸幕府-薩摩藩、中国清の二重支配で苦しむ琉球王朝の支配下で、重い人頭税に苦しめられていたそうです。
その苦難の生活を更に追い詰める巨大津波の被害からの立ち直りは、想像を絶する苦労だったものと思われます。
この美しい海が、再び暗黒の海に変身しないことを祈らずにはいられません。

断崖に立つ「石垣御神崎灯台」

2007年05月22日 | 沖縄の旅
八重山旅行の1日目(4/21)最後は石垣市崎枝の「御神崎(うがんざき)」に行きました。
曇りの夕方のため写真が暗く、一昨年11/3の写真を混ぜて掲載しています。


「御神崎」に到着、灯台手前の駐車場に車を入れ、海側(西)の道路脇を見ると「ヒルザキツキミソウ」が一面に咲いていました。



「ヒルザキツキミソウ」の花です。
アカバナ科オエノテラ(マツヨイグサ)属の多年草で、原産地は北米だそうです。
白い花ですが、開花後にピンク色に変化してくるそうです。
花の中に十字に見えるメシベも特徴のようです。
「ヒルザキツキミソウ」は道路脇の斜面(法面)緑化に使われる草でもあり、風の強い「御神崎」の道路脇に植えられたものと思われます。



「ヒルザキツキミソウ」のすぐ海側に「イリオモテアザミ」が群生し、花が満開でした。
私には「イリオモテアザミ」と、本土のアザミは、見分けがつきません。
沖縄本島では白い花の「シマアザミ」を海岸付近でよく見かけます。



「石垣御神崎灯台」の案内板です。
灯台の説明の他、八重山丸の悲しい遭難事故についても書かれています。
よく見ると「御神崎」のふりがなが、「おがんざき」となっています。
沖縄県のホームページにはこの場所を「うがんざき」と紹介しており、官庁が固有名称として一般的な読み方に変えているものと思われます。
観光案内の一部サイトでも、「おがんざき」と紹介しており、紛らわしいものです。



道路から灯台へ向かって撮った景色です。(一昨年の写真)
秋晴れの本当に良い天気でした。
誰もいなかったので、灯台のすぐ下にレンタカーを駐車しています。
左上の道に妻がこちらを向いていますが、この距離では記念写真にはなりませんでした。



「石垣御神崎灯台」の場所から北西を見た景色です。(一昨年の写真)
八重山丸遭難事故の慰霊碑・観音像が立っているのが見えます。
観音像のすぐ上に船が航行しているのが見えていますが、八重山丸のイメージと重なります。
遊歩道は、右上の奇岩の方に続いています。


「石垣御神崎灯台」の場所から北を見た景色です。(一昨年の写真)
雄大な断崖の景色や、巨大な奇岩に圧倒されます。
もう少し波があると、大きなしぶきが見えて一層雄大に見えるのでしょうね。
水平線を見ると両脇が少し下がり、地球の丸みが見えています。
北海道室蘭市にある「地球岬」の景色を思い出しました。



灯台を囲う柵にもたれてしばらく景色に見とれていましたが、ふと振り返ると数メートル先に柵に止まった鳥がいました。(一昨年の写真)
記念写真を撮ってやると、飛んでいきました。
きれいな青色の野鳥でしたが、名前は?です。



「石垣御神崎灯台」を遊歩道(北西側)から撮った風景です。



上の写真とほぼ同じ場所から北西方向を撮った風景です。
向うに八重山丸遭難事故の慰霊碑が見えます。
手前にテッポウユリが咲いています。


白い「テッポウユリ」の花です。
ツボミも程ほどあり、ちょうど見ごろだったのかもしれません
八重山の島々(石垣島、西表島、竹富島)をまわる旅行でしたが、各地で「テッポウユリ」と、「月桃」の花が咲き乱れていたのが今でも思い出されます。



八重山丸遭難事故の慰霊で建立された観音像です。
台座には建立の経緯が書かれていたように記憶しています。
すぐ隣には、遭難で亡くなられた方の碑があり、線香が焚かれていました。



遊歩道から北東方向の断崖の景色です。
水平線にかすかに見えているのは川平石崎でしょうか。


断崖に立つ「石垣御神崎灯台」の景色です。
一昨年は、晴れていましたが、下まで見に行きませんでした。
晴れの日の明るい写真が撮れなくて残念でした。
荒々しい雄大な景色に圧倒されましたが、写真では今一つ伝わらないようです。

石垣島「電信屋」の歴史的背景

2007年05月21日 | 沖縄の旅
石垣島の「電信屋(デンシンヤー)」は、台湾の統治と深く絡んだ時期に造られたとされており、歴史的背景を少し調べてみました。


<台湾統治の開始>
日清戦争が1895年4月に終結、下関条約で中国の清から台湾を割譲させましたが、安定した統治がすぐに開始されたものではなかったようです。

下関条約の翌月5月には清朝の役人達や、中国系の人々が清朝の台湾を割譲に納得せず「台湾民主国」をつくる独立宣言をしたそうです。
同年10月には「台湾民主国」は日本軍により制圧されたようですが、台湾兵士に14,000人の死者が出たとされています。

民衆による抗日運動は1902年まで根強く続いていましたが、民衆の武器はほぼ没収され鎮圧されたようです。
その後も散発的な抵抗事件が続いていましたが、1915年の西来庵事件で武装蜂起事件は終わったそうです。
しかし、1895年清からの台湾割譲から1915年の西来庵事件まで実に20年にわたる抗日武装蜂起が続いていたことには改めて驚きました。

台湾への海底電線の敷設は、日清戦争が終結した1895年に計画されたものと思われ、翌年に沖縄本島まで、1897年に台湾までの敷設完成となり、石垣島「電信屋」の運営も始まったようです。



<通信技術と海底ケーブル>
日本列島の海底ケーブルの敷設は、北海道・本州・四国・九州・対馬等の主要な島には終わっており、沖縄・台湾ルートは日清戦争後に計画されたものと思われます。
日清戦争は、琉球の所属問題も絡んでおり、戦争終結で台湾の統治と合わせ、直ちに海底ケーブルを敷設したことは情報通信の重要性が強く認識されていたものと思われます。

又、鹿児島・台湾間の海底ケーブルには長距離対策で「現波通信機」と言う日本初の技術を導入、「現波機」で表された受信波形を目で見て情報を読み取ったようです。


<通信技術の発達と、関係する事件>

1832年 シリング(ロシアの大使館員)が電信機の技術を発明

1837年 モールス(米国)がモールス符号(短音・長音の組合せで文字を表現)を発明
1851年 英・仏間のドーバー海峡で海底電線を使い電信に成功

1868年 明治維新

1869年 日本で、東京、横浜間で電信開始

1875年 グラハム・ベル(米国)が電話機を発明

1894年 日清戦争開戦(7月)
1895年 日清戦争終結(4月)台湾割譲、台湾民主国独立宣言、日本軍台湾を鎮圧
1895年 イタリアのマルコーニが無線電信機を発明

1897年 鹿児島~沖縄本島に海底電線布設
1897年 沖縄本島~石垣島~台湾淡水間(850.1km)に海底電線布設

1904年 日露戦争開戦(2月)
1905年 日露戦争終結(9月)日本が、日本海海戦で無線通信を使用(世界初)


日本が、世界ではじめて戦争で無線通信を使用した歴史がありました。
日露戦争中、哨戒中の「信濃丸」が長崎県五島列島の西でバルチック艦隊を発見、無線で「敵艦隊見ユ、456地点、信濃丸」と打電したと言われています。

1895年に発明された無線通信が10年後の日本海海戦で日本により使われたことは、日本の技術革新が世界的にも迅速だったことがうかがえます。

しかし、日本で最初にバルチック艦隊を発見したのは粟国島(沖縄本島の西)の商人「奥浜牛」だったようです。
宮古島に雑貨を売りに行く途中発見、宮古島に着き、警察へ届けたそうです。

バルチック艦隊発見の情報は、役所からの指示で5人の漁師(久松五勇士)が電信の出来る石垣島までサバニを漕いで15時間かけて伝えたそうです。
しかし、「信濃丸」の打電より1時間遅く到着し重要視されなかったようです。
技術の差が大きな伝達時間の差になります。

「久松五勇士」が有名になったのは昭和に入り、軍国主義教育の教科書にのったことがきっかけだったようです。
精神論が強調される風潮の中、「久松五勇士」は時の人になったそうです。


明治時代の日本は、日清戦争・日露戦争を勝利し、独立国家を維持してきました。
その時代は、欧米列国により植民地にされた国が非常に多くありました。
一歩間違えば国家が消滅する国際環境の中で、真剣に政治が行われていたことを実感できました。

現在、日本は、海底ケーブルにより世界各国と通信がつながっているそうです。
特に最近では大容量の通信が出来る光ファイバーが大半だそうです。

「電信屋」 海底電線の中継基地

2007年05月20日 | 沖縄の旅
石垣市崎枝屋良部にある「電信屋(デンシンヤー)」と呼ばれる元海底電信陸揚室を見に行きました。
石垣島の西に突き出た「屋良部岬」の南端「大崎」付近に「電信屋(デンシンヤー)」があります。
県道79号を崎枝地区から「屋良部岬」の南側の海に沿って行くと舗装道路が直角に右に曲がる場所に、左折する未舗装道路が進入路です。




写真は、海岸になだらかに下る未舗装道路で、かなり痛んだ細い道が続いています。
道の先に「電信屋(デンシンヤー)」の建物と、きれいな海が見えて来ます。



「電信屋」の建物です。建物の両側に石塀が見えます。
かっては、重要な施設として塀や門があったのだろうと想像されます。



「電信屋」の塀の下は美しい海が広がっています。
頑丈な石塀の造りもよく分かります。



「電信屋」の建物のすぐ横にある説明板です。
日本は、日清戦争の勝利で台湾統治を開始、1896年に鹿児島から沖縄本島が海底電線で結び、翌1897年には沖縄本島から石垣島経由で台湾まで結んだようです。
当初は陸軍省が管理し、緊急性の高い軍事関係の通信が中心だったと思われます。
その後、逓信省に移管され、政情安定後の経済関係の情報や、一般情報にも通信が広がって行ったようです。




建物の向かって左に「電信屋記念碑」があります。
下の写真は、その碑文です。2001年1月に建立されたようです。



「電信屋記念碑」にあった説明図です。
鹿児島から奄美大島、沖縄本島、石垣島を経由して台湾まで海底電線が結ばれたことが分かります。



「電信屋」の外壁です。
太平洋戦争の時、連合軍の攻撃で壁面にたくさんの弾痕が見られます。



「電信屋」の建物は、二部屋に仕切られ、向かって左(海側)の部屋の中の様子です。



「電信屋」のもう一つの部屋の様子です。
向かって左角にトイレがありました。左の壁には隣の部屋に通じる入口があります。


「電信屋」の建物がある場所から坂道を降りていくと砂浜に出て行きます。



「電信屋」の下の砂浜から西を見た風景です。
先に見えている所が「屋良部岬」の南端「大崎」のようです。

次回は、「電信屋」の下歴史的背景を掲載します。

森田邸で「ユビハブ」にかまれた

2007年05月19日 | 沖縄の旅
昨日に続き、「八重山民俗園」の「森田邸」を掲載します。
昨日、「森田邸」の間取り図に間違いが分かり、修正しています。
(台所、その東側の部屋、北側の部屋の大きさなどが間違っていました)


玄関を入った「一番座」の北側にある床の間です。
写真の向かって右に縁側が見えます。

床の間に泡盛「於茂登」がありました。
余談ですが数年前、インターネットで石垣島の泡盛を色々な銘柄で1升瓶6本購入しました。
その中では「於茂登」が一番気に入った味でしたが、「八重泉」「請福」もそこそこ気に入った味でした。
「やいま」「かびら」「赤馬」も飲みくらべてみましたが、「赤馬」だけは独特の臭いが強く、口に合いませんでした。
「やいま」は、JAが八重山産の米で作った泡盛で、クセはありませんでしたが私には少しものたりない感じでした。

一昨年、八重山旅行の時、居酒屋で「八重泉樽酒」を飲み、すっかりファンになりました。
樫樽貯蔵の8年もので、まったりとした味を時々楽しんでいます。



「一番座」から「二番座」「三番座」を撮った写真です。
八畳の間が続き、突き当たりが台所です。
写真に向かって左側に縁側があります。


「二番座」にある仏壇で、本土の仏壇とは様子が違っています。
仏壇の横に「島の祭典」のパネルが掛けてありました。
石垣島、黒島のお祭りを紹介してあります。


「三番座」を南から撮った写真です。
写真に向かって左は、台所の奥に手造りの郷土玩具「ユビハブ」などを案内するオジサンが見えます。
一昨年来た時と同じ人でしたが、前の写真と比べて少し白髪が増えたようでした。
すっかり忘れてしまいましたが、親切に島について色々教えて頂いたことだけは覚えています。



台所にあった郷土玩具の陳列風景です。
竹筒に立ててある青い細長いものが「ユビハブ」です。
妻が、案内のオジサンに「ユビハブ」の口に指をいれてもらい、シッポを引っ張られると指から抜けなくなりました。
一瞬あせった表情になっていましたが、引っ張ったシッポを緩め、「ユビハブ」の体や、口も広げてもらい、やっと開放されました。

「ユビハブ」、向かって左の「エビ」、中央下の「バッタ」など手造り玩具は、それぞれ150円で売っていました。

100年前の沖縄の住宅文化

2007年05月18日 | 沖縄の旅
「八重山民俗園」にある「森田邸」を見学しました。
1900年(明治33年)に建てられた旧士族の邸宅で、沖縄の伝統的な形式の住宅だそうです。

■この記事の最後に「森田邸」玄関の脇に掲示されていた説明文を転記しています。



「森田邸」を正面(南)から撮った写真です。
石灰岩の石垣で囲い、門には扉がありません。



「森田邸」の門の横にあった屋敷の配置図です。
中心にある建物がウーヤ(主屋)で、トンガワ(台所)はウーヤの西側に接続してあります。
東側に庭園が作られていますが、東側に客間となる「一番座」と縁側がある関係のようです。



「森田邸」のウーヤ(主屋)の間取りを写真を見ながらおおざっぱに作って見ました。
部屋は、南側を「表座」、北側を「裏座」と言うようです。
又、東から西へ「一番座」「二番座」「三番座」と並び、西側にトンガワ(台所)が配置されています。
かっての沖縄の住宅は、「二棟造り」が基本で、トンガワ(台所)はウーヤ(主屋)の西側に分離して造られていたようで、そのなごりのようです。



門を入ると正面に「前城(ピーフン)」があります。(一般的には「ヒンプン」と言います)
魔よけ、目隠し、風除けなどの目的で作られているそうです。
「ヒンプン」の左右を通り、中に入れますが、右(東)は地位の高い人、左(西)は地位の高い人が通っていたようです。



屋根の上のシーサーをズームで撮ってみました。
デザインもユニークで、なかなかの名作です。



塀の中から取った「森田邸」の主屋の全景です。



南東にある扉のない玄関です。
廊下から続く雨戸を締めるようです。
玄関の奥が客間となる「一番座」で、部屋の北側には床の間があります。
かって沖縄の一般住宅には玄関がありませんでした。



玄関の西側に「二番座」「三番座」が続いています。
「二番座」の北側には仏壇があります。
「三番座」は、普通お茶の間で使われたようです。


南西に少し突き出でた台所です。




西北(豚小屋前)から主家の裏側を見た景色です。
縁側は、主家の南側・東側にあるのが一般的ですが、「森田邸」の主屋には西側・北側にも縁側がありました。

又、沖縄民家建築の特徴の一つで、庇が長く軒を柱で支えた軒下の空間を「雨端」(アマハジ)と言うようです。


カー(井戸)です。
円筒形の縁の材料は、石灰岩のように見えますが、よく分かりません。


これは天水槽(天水タンク)だそうです。
沖縄の土地は、保水力の少ない隆起サンゴ礁のため、昔から水不足に悩まされていました。
かっての沖縄の各家々では雨水を濾過して利用する「天水槽」と呼ばれる装置を備えていたようです。



敷地の西北にある豚小屋です。


■「森田邸」玄関の脇に掲示されていた説明文を転記しています。
<森田邸>
家屋寄贈者 森田孫栄氏
(1984年現在石垣市文化財保護審議委員長)
八重山における旧士族の邸宅
1900年(明治33年)に建てられた

(構造)
イヌマキ材による寄棟造り赤瓦(本瓦)葺平屋建て、面積154㎡
(形式)
順沖縄風に則り、一番座、二番座、三番座、炊事場などを南西にしつらえ縁側とアマバシと称する深い軒の出をゆったり張り廻し、それら表座敷に対し各々に付属的に裏座敷が設置されている。

該屋敷は、かって石垣市の中心地大川278番地に存在していたものであるが、1984年7月八重山民俗園へ移築復元した。

「海人の家」にあった漁具や、船

2007年05月17日 | 沖縄の旅
「八重山民俗園」の「海人の家」を見学しました。



「海人(うみんちゅう)の家」の手前にデイゴの大木がありました。
八重山のあちこちでデイゴの花が咲き始めていましたが、この木はまだのようです。



写真は、「海人の家」の前にあった説明板です。

1879年(明治12)琉球処分政策で沖縄県が出来、王朝時代のお役人たちも失業して沖縄本島から石垣島にも来たようです。
石垣島の海岸近くの土地で漁業を営み、沖縄本島の糸満市の舟や、漁具を購入したり、漁法を教えてもらった関係もあったのではないかと推察されます。


「海人の家」の前に展示されていた大きな貝で、「オオシャコガイ」のように見えます。
大きな貝と言えばイタリアの名画「ビーナスの誕生」を思い出しますが、ごらんの通り雨水が溜り、少し腐っているようです。



網の漁で使う漁具が展示されていますが、説明がないのでよく分かりません。



竿で釣る漁具が展示されています。

大小の海亀が展示されていましたが、最近亀の絶滅が懸念されています。
石垣島では養殖もされているようです。



天井裏には古いタイプのリールのついた竿が展示されていました。
始めてみました。



モリのような漁具が掛けられていました。
遠浅の海で船の上から魚を突くのでしょうか。



「海人の家」の横にサバニが展示されていました。



サバニの内部です。

■サバニの説明板を転記します。
<サバニ>
サバニは、一本の大木を削って作った丸木舟から発達したもので、南方文化の影響をうけているといわれています。
現在はエンジンを積んでいますが、以前は櫂で漕ぎ帆走でした。又、底がV字形になっている為安定感が悪く、すぐに回転し転覆もよくしましたが、適当な風さえあれば機械船にも負けない程のスピードが出たのです。