昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

琉球王朝時代からの屋敷「宮良殿内」(石垣島)

2007年07月31日 | 沖縄の旅
八重山博物館に石垣市大川の宮良殿内の建物模型と、設計図が展示されていました。
宮良殿内を訪問した写真と合わせて掲載します。


宮良殿内の建物模型です。
一般の民家と比べると、重みがあり、屋根に美しさを感じます。


一番座、二番座、三番座が並び、裏座も三つ並んでいます。
軒下の雨端(アマハジ)が、南・東に加え、北にもあります。
東南の玄関も士族の格式を感じます。


写真の写真は、一昨年、宮良殿内を訪問した時のものです。
屋敷が一段低くなっていて、屋根が低く見えます。


④門の内側から見た景色です。
写真に向かって左側に「宮良殿内」の説明板があり、転記します。

重要文化財建造物 旧宮良殿内(めーらどうぬず)
名勝       旧宮良殿内庭園
         国指定 昭和47年5月15日
文政二年(1819年)松茂氏第八代宮良親雲上当演が宮良間切頭職(八重山最高の役職)に任命されたことを記念に創建されたといわれる。上級武士の格式を備えた構えである。建物は木造平屋づくり木瓦葺きである。
材料は総イヌマキで雨端柱(方言ハナシバーヤ)は根付丸太を使用している。屋根は琉球石灰岩の石板で囲い、南西の中央に薬医門型式の門を建て、その西端に裏門を築いてある。
表門を入ると築地塀のひんぷんがあって、中門を開ける。敷地のほぼ中央に主家を配置しその東側には石を積み築山を築いた庭園がある。南東部に築地塀で囲った便所を設け、表門と裏門の間に井戸を造っている。
庭園は首里の庭園師城間親雲上(ぐすくまべーちん)の設計指導によるもので、琉球石灰岩を主材料に五つの築山を築いている。これは日本庭園の伝統・・・・・・


門を入り、右手に回り込んだ所から門の内側を見た景色です。
ひんぷんのような壁に、二番目の門が造られています。(写真向って左の壁)


二番目の門を入ったすぐ横にはスダレを壁の上に掛けていたのが印象的でした。


正面に玄関があります。


沖縄風の枯山水庭園だそうです。
見慣れた日本庭園と違い、ソテツや、サンゴ礁の岩が沖縄らしさを感じさせてくれます。


建物の東側を北に向いて撮った風景です。
廊下


家の東から「一番座」を見た景色です。
床の間や、茶道具も見えて中国風の沖縄本島とは雰囲気が違うようです。
江戸幕府や、薩摩藩の政策もあり、琉球王朝をことさら中国風にみせ、琉球通信使が来訪して幕府の威信を高める効果を狙ったことを考えると、八重山では比較的自由に大和風を取り入れたものと推察されます。


受付におじいさんが座っていました。
おじいさんの話では、八重山は、古代から大和と往来があり、信仰も共通点が多いと聞かされました。
海流に乗るとかなり早く日本本土と往来ができたなどの話が聞けて八重山の歴史に興味を持ちました。
このおじいさんは、この家の当主のようで、確か若い頃(戦争中)に広島県に来て住んだ話もしていたように記憶しています。


八重山で見た伝統凧「ピキダー」「シャクシメー」

2007年07月27日 | 沖縄の旅
石垣島離島桟橋の近くにある登野城の「八重山博物館」を見学しました。
展示室の奥にはじめて見る伝統凧がありました。


博物館の中に肩の高さほどある白く四角形の凧が蝶の形の不思議なものと一緒に展示されていました。
四角形の凧は、昔から八重山で作られている「ピキダー」と言う凧だそうです。
細い竹の骨を縦横にたくさん組み合わせて大きな凧を作っているようです。
凧に糸目糸がたくさん付けられています。
八重山の凧の糸目糸にはアダンの木の気根(土の上に出ている根)を裂いて作っているそうです。


四角形の凧「ピキダー」と一緒に展示されている蝶の形のものがありました。
説明書きがなかったので博物館の受付に尋ねたら男性の職員さんが出てこられ、説明を聞くことが出来ました。
これは、「シャクシメー」と言う名で、沖縄本島では「フータン(風蝶)」と言う名だそうです。
「シャクシメー」は、針金の先に輪を作ったものを蝶の本体に2本取付け、輪に凧糸を通すそうです。
蝶は凧糸に沿って上空の凧まで上がって行き、凧の糸目糸まで到達すると、蝶の羽がパタンとたたまれ、今度は糸に沿って手元まで下りて来るカラクリがあるそうです。
蝶の形をした「おもちゃの風力ケーブルカー」といった感じです。
「シャクシメー」の言葉の意味はよく分かりませんが、八重山では糸目糸を「シャク」と呼ぶようです。


「シャクシメー」を上から見た写真です。
骨格は竹で作られているようです。
凧糸を通す針金の輪が見えます。
凧の後ろに曲げられた竹の骨が見えますが、カラクリはよく分かりませんでした。
「シャクシメー」は、凧揚げを2倍楽しませてくれるグッズのようです。
八重山のお正月には凧揚げ大会もあるようで、是非見てみたいと思います。


頂いた「石垣市立 八重山博物館」のパンフレットの表紙にも「シャクシメー」がありました。


一昨年訪問した時、「八重山博物館」は、休館日で、そのすぐ前の道路は、発掘作業中でした。
よく覚えていませんが、「何を発掘しているのですが?」と質問し、おばさんから説明を聞いている場面だったと思います。
腕を組んでいる元気の良いおばさんによると、戦争中の人の骨も出ているような話しだったと記憶しています。
この遺跡からは、15~17世紀の遺物も発掘されているようです。


八重山の伝統凧には「ハッカクー(八角)」と言う凧もありました。
写真は、石垣島の八重山民族園にある「海人の家」に展示されていた「ハッカクー(八角)」です。
四角に組んだものを二つ作り、45度ずらして組み合わせているようです。
糸目糸には八重山ならではのアダンの根(気根)を裂いたものが使われているようです。

「ハジチ(針突)」の模様

2007年07月25日 | 沖縄の旅
「みんさー工芸館」に沖縄女性の入れ墨「ハジチ(針突)」が案内されていました。
この入れ墨の模様一つ一つに意味があるそうで、魔除け・願いごとなどが込められているようです。
日本には「言霊(ことだま)の文化」があると言われていますが、「ハジチ(針突)」は絵文字により、呪文などを表現していたものと思われます。


「成人の証・入墨 ハジチ(針突)」と説明され、女性の手の甲に施された入墨の写真が掲示されていました。


みんさーの帯の横に面白い資料が掲示されていましたので以下に説明文を転記します。
■ハジチ (針突き)
ハジチは、女性達が手に入墨を施すという沖縄、奄美の島々の古い風習で、地域などにより、色々な模様がありました。
明治32年(1899年)、日本政府は、野蛮な風習として禁止令を出しましたが、隠れてハジチを行う女性も多く、現在でも高齢者に散見されているようです。

説明文の下には島々の入れ墨の模様のイラストがありました。
島の名前と、位置がよくわからなかったので地図と結びつけてみました。


奄美大島から沖縄県全体の地図です。
二つの以下の二つの地図にに分け、ハジチの模様をひも付けてみました。
■地図-A 奄美諸島、沖縄諸島
■地図-B 先島諸島(宮古島・八重山)
しかし、ハジチの模様は、身分・時代によっても違うようで、以下に掲載された模様が、どの時代の、どの身分のものかは分りません。


■地図-A
地図にひも付けると、島の位置により、模様が違いが共通だったり、変わっていたりするのがわかります。




■地図-B
宮古島や、その付近の島々のハジチの模様は際立って複雑で、石垣島・竹富島の模様はシンプルな感じです。

「みんさー工芸館」琉球時代の織物の歴史

2007年07月22日 | 沖縄の旅
石垣市登野城にある「みんさー工芸館」へ行きました。



門を入り、正面の建物1階に工房・展示販売店、2階に資料展示室があります。
門を入り左側の建物には、染色した糸が干されていました。


門を入った植え込みで、シーサーが出迎えてくれました。
後ろの玄関にもなかなか面白いシーサーがいます。


2階に資料展示室に上がるとミンサーの美しい作品が展示されていました。


これもミンサーの作品です。


写真の帯は、「みんさーふ」と呼ばれ、女性が心を込めて織って婚約した男性に贈ったそうです。
その隣の「チダマ」は、「みんさーふ」のお返しに男性から女性に贈られるものだそうです。


「みんさーふ」は、木綿糸を藍で染めて織り上げたもので、帯の絣(かすり)模様に意味があるようです。
昔の結婚は、男性が女性の実家を訪ねる「通い婚」と言う風習だったようです。
帯の中央に白い四角の模様が五つのものと、四つのものが交互に並んでいます。
「いつ(五)の世(四)までも末永く」という願いが込められてるそうです。
又、帯の両端にある「ヤッサミ模様」は、ムカデの足に似ており、「足しげくおいでください」と言う意味になるそうです。
なんだかこじ付けの様にも思えますが、一応信じておきましょう。

「みんさー」の語源も案内されていました。

めんさ  めんさ
「綿紗」・「綿狭」
    ↓
発音上沖縄の母音は、アイウの3音のみ(エオがない)
ま み む め も
       ↓    ミンサー
ま み む み む


写真は、「八重山上布」と言い、「苧麻(チョマ)」の繊維(麻に似た繊維)で織られた伝統的な織物です。
昔、宮古・八重山に人頭税制があった時代、首里王府が女性から織物を厳しく取り立てていた悲しい歴史があります。
涼しそうな白地に落ち着いた絣模様に親しみを感じます。


写真の両側に立つ女性マネキン人形には、琉球王朝時代の衣装「スディナ」が着せられています。
又、向って右のマネキン人形には伝統的な士族婦人の略礼装で、「カカン」と言う巻スカートのようなものが「スディナ」と一対で用いられていたようです。
中心に立つ男性の衣装は、黒朝衣(クルチョージン)・大帯だそうです。
「黒朝衣」は、王府時代の三司官以下の士族の礼装だそうで、絹や、麻などの繊維を藍染で作られているようです。
「大帯」は、前で大きく結んでいますが、礼装とは言え、お腹が出た人にはつらい服のように思えます。


「夏川りみ」さんがNHK紅白歌合戦で着た衣装が展示されていました。
「涙そうそう」でブレイクし、2002年の初出場した時に着たのが青色の衣装で、沖縄の海の色を表現したと思われる「みんさー」のドレスにはちょっと感動しました。


写真に向かって右上に「みんさー工芸館」館長の新絹枝が掲載されていました。
新絹枝館長は、この施設を経営する株式会社あざみ屋の創業者で、衰退する「みんさー」の復活に取り組まれ、2000年には「現代の名工」の認証を受けられたそうです。
一階の販売店では「みんさー織り」がハンドバッグ・財布・花瓶敷きなど現代生活で使われるものが売られていました。
「みんさー工芸館」のサイトにはオンラインショップもあります。

白保集落の風景

2007年07月19日 | 沖縄の旅
赤瓦と、石垣の家並みが続く白保集落を歩いて見ました。
四つ角にブーゲンビリアがにぎやかに咲いていました。


こんな感じの静かな石塀の通りが集落のあちこちで見られました。


フクギと、石塀の古い家並みが続いています。


あちこちの石塀にフクギが組み込まれていました。


フクギの周りの石をよく見ると色々なサンゴ石があります。


フクギの幹にこんな模様がありました。
何かの顔に見えませんか。


石塀の向こうに赤瓦の家が見えます。


軒先に柱がある沖縄の伝統的な住宅がありました。
ブロック塀がちょっと雰囲気をこわしています。


赤瓦の屋根でもちょっと変わっています。
庭にヤシの木が植えられ、南国の雰囲気が漂ってきます。


伝統的な平屋の隣に二階建ての赤瓦の家が建っています。
二階にはテラスもあり、ちょっとしゃれたお家です。


白い漆喰が光る赤瓦の家がありました。
門柱の上にかわいいシーサーがいます。


屋根の上にシーサーがいました。


白保海岸の散策

2007年07月17日 | 沖縄の旅

石垣島の南東部にある「白保海岸」へ行きました。
茶色の道は、国道390号線で、白保集落は、東南に向いた海岸に面しています。


かって明和の大津波で運ばれたと思われる石が海岸にたくさんありました。
石垣島、西表島などの八重山諸島で1771年4月24日に八重山地震が発生したそうです。
地震の被害はあまりなかったそうですが、大津波による被害で白保集落ではほぼ全滅したそうです。


石に近づいてみました。
肩位の高さの石がゴロゴロしています。
写真の向かって右に見えるのは護岸の堤防で、長い海岸線に続いています。


干潮の海岸で、二人のおばあが何か採っています。


近づいて聞いてみました。
「アーサー」という海藻だそうです。


沖に出ると足元は、砂浜ではなく、デコボコの琉球石灰岩で、一面にアーサーが生えています。


おばあの話によるとアーサーは、乾燥して保存するそうで、お汁に入れて食べるとおいしいそうです。
土産物屋で売っていた緑の海藻を思い出しました。


少し陸に近い海岸の様子です。
ゴツゴツした琉球石灰岩の上にサンゴ石が転がっています。


海岸に流木が流れ着いていました。


海岸からの帰り道、護岸のすぐ内側にある雑草の中に珍しい植物の実を見つけました。
このスイカのような柄の緑と、赤の実は「オキナワスズメウリ」だそうです。
「オキナワスズメウリ」は、ウリ科オキナワズズメウリ属の一年生つる性植物で、沖縄では自生しているようです。


ちょっと拡大して「オキナワスズメウリ」を撮ったものです

妻の油絵「那智大社の紫陽花」

2007年07月13日 | 妻の油絵
久々に妻の油絵を掲載します。
2005年7月中旬、南紀旅行で熊野那智大社の境内に咲いていた紫陽花を見て描いたものです。(20号)
山の中腹の境内に咲く紫陽花に、朝日が当っている風景です。
又、南紀の各地で見かけた朝顔を隣に描き、7月の季節感を表現したいと思ったそうです。




ついでに那智の滝周辺の風景を掲載します。
紫陽花は、境内から下を見下ろす敷地の端に咲いていました。
熊野那智大社の境内に登る参道の景色です。


熊野那智大社の拝殿だったと思います。
向かって右の大木は、「那智のクス」で、平重盛手植えと伝えられている推定樹齢800年の樟(クス)で、高さ27m、幹回り8.5mあるそうです。


那智山青岸渡寺の三重の塔から那智の滝を見た景色です。
有名な景色で、何も書くことはありません。


上の風景の那智の滝の部分をズームで撮った景色です。


那智の滝を滝壺前の飛滝神社から見上げた景色です。
朝早く、勝浦のホテルを出発して真っ先にここにお参りしました。

「フルスト原遺跡」と、石垣島の英雄

2007年07月11日 | 沖縄の旅
15世紀末石垣島の英雄「オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)」の居城と伝えられる「フルスト原遺跡」に行きました。
「オヤケアカハチ」は、ここを拠点に石垣島東部に勢力を誇っていたようです。
1500年、「オヤケアカハチの乱」で宮古の仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみや)を中心とする琉球王朝軍3,000の兵(軍船100隻)との戦いに敗れた後、廃墟となってしまったものと思われます。


石垣空港の滑走路の東側を塞ぐように遺跡は横たわっています。
宮良湾の西に注ぐ小さな川に沿った小高い丘の上に造られた史跡です。
空港の滑走路を延長する案があったそうですが、なんとか壊されずに残ったそうです。
又、沖縄県は、1979年に石垣島の南東にある白保の沖合いの海を埋め立て、2500m の滑走路を建設する計画を発表したそうです。
世界有数の青珊瑚がある白保の海を守る反対運動により、1989年に計画が撤回され、現在は、石垣島の東部、カーラ岳付近に2,000mの滑走路の建設が進められているようです。


2号石塁を少し離れて見た景色です。
背の高さより少し高い石塁で囲われており、いわゆる戦で防御を目的とした城の感じではありません。


2号石塁の入り口です。
石塁は、とっしりとした造りで、その幅は地面で約1m、最上部で約60cm程度あったと記憶しています。
入り口から石塁の中に入ると、なぜか心が落ち着きます。


2号石塁の入り口を入り、左手の石垣の上に「ノゲイトウ(野鶏頭)」が咲いていました。
緑の雑草と、珊瑚石の中で、可憐で柔らかそうなピンクの花が、なぜか強く印象に残っています。


石塁の一部が壊れた場所がありました。
この先は、斜面に下りて行くようです。
斜面には木や雑草が生えて、こわいハブさんが出てきそうです。


確かここは3号石塁だったと思いますが、かなりしっかりした造りです。
石塁の中には屋敷や、民衆の家屋が立ち並び、にぎわっていたものと想像されます。
島で焼かれた土器に加え、中国製の陶磁器が発掘されていることから大陸との交易も行なわれていたものと思われます。


この写真を見ると改めて石塁の美さを感じます。
オヤケアカハチは、波照間島に生まれ、この地に来て石垣島東部に勢力を誇る英雄となったと言われています。
珊瑚石を一つ一つ積上げた石塁にアカハチの生きざまを感じるような気がします。


乱雑に石が積まれた場所に3号石塁の表示板がありました。
かっての繁栄の時代、アカハチの生きていた頃の様子をちょっとでもいいから覗いて見たい衝動にかられます。


遺跡の前の道端にも「ノゲイトウ(野鶏頭)」が咲いていました。
「ノゲイトウ」は、ケイトウ(鶏頭)の原種といわれ、ナデシコ目ヒユ科の一年草です。
アカハチと同じ波照間島の出身で、ライバルでもあった長田大主(なーたふーず)の妹が、アカハチの妻クイツバ(古乙姥)と言われています。
アカハチを支え、共に生きた妻、クイツバ(古乙姥)の姿は、可憐で素朴なこの「ノゲイトウ」のようなイメージだったのではと勝手な想像をしてしまいました。


「フルスト原遺跡」の主「オヤケアカハチ」の銅像が、大浜集落にあります。(最上段の地図-右下の赤丸の付近)
大きな体で、力持ちのアカハチは、赤い髪をしていたと伝えられ、波照間島に漂着したオランダ人と、島の女性との間に生まれた子供だった説もあるようです。
銅像は、兵を率いて戦う姿を現したのでしょうか。
しかし、アカハチの服装は、もっと文化的だったのではないかと推察しています。
大陸との交易、遺跡から発掘される遺品などを考えると相当な富を築いていたものと思われ、地域の豪族の服装としては余りにも質素な姿の銅像のように思えます。

石垣島に咲き誇る「ハイビスカス」の数々

2007年07月09日 | 沖縄の旅
石垣島の「バラビドー観光農園」でたくさんの種類のハイビスカスが咲いていました。
ハイビスカスはアオイ科フヨウ属で「ブッソウゲ」「フウリンブッソウゲ」などの種類があります。
沖縄では「アカバナー」と呼もばれ唄にも歌われ親しまれている花です。
掲載した写真は、ごく一部で、色・花の形状で多くの種類が栽培されていました。


ハイビスカス園の風景です。
ハイビスカスに少し雨がかかっていたので、ビニールハウスではないようです。





霧吹きでしずくを付けたものではありません。














フウリンブッソウゲ(風鈴仏桑華)と言い、同じアオイ科の植物です。
南アフリカ原産だそうです。










「バラビドー観光農園」のブーゲンビリアの花

2007年07月08日 | 沖縄の旅
「バラビドー観光農園」には色々なブーゲンビリアが、鉢植えで育てられていました。
ブーゲンビリアは、ハイビスカスと並んで南国を演出してくれる花です。



「バラビドー観光農園」のゲート付近の風景です。
ブーゲンビリアが、大勢で歓迎してくれている印象でした。


ブーゲンビリアの花言葉は「情熱」だそうです。
この花の色を見ているとなんとなく納得です。


ブーゲンビリアは、オシロイバナ科ブーゲンビリア属の熱帯性の低木で、原産地が中南米だそうです。
和名は、イカダカズラ(筏葛)だそうですが、いまいちなじめない名です。


ちょっとエレガントな色です。


花の形が角ばって少し違うようです。
ブーゲンビリアの花びらと思われている部分は、苞(ほう)といわれる部分で、その中にある白く丸い部分が「花」だそうです。
花は、苞(ほう)の中に1~2個見えていますが、普通3個付くそうです。


白い花です。
イギリスでは、「ペーパーフラワー」と言われているようですが、納得です。


この写真で見ると、一見「つつじ」のような感じです。


花の形が角ばって、葉が斑入りです。


この花も色が変わっています。


向かって右の花は、苞(ほう)が八重になっています。
ブーゲンビリアの花の種類は、250品種以上だそうで、苞の色・苞の形状・葉の色などの違いがあるようです。


この花も苞(ほう)が八重になっています。
バラビドー観光農園を紹介するサイトがありましたので興味のある方はどうぞ。
石垣島で暮らす人をインタビュー VOL.16 バラビドー観光農園


この花が一番あでやかな感じです。
こんなに種類があるのにサット眺めただけで、ゆっくりと観賞することが少ないようです。

「バラビドー観光農園」の植物たち

2007年07月07日 | 沖縄の旅
バンナ岳の東、県道87号線を西に入ると「バラビドー観光農園」があります。
たくさんの種類のハイビスカスや、ブーゲンビリアなどで、南国の植物を楽しめます。



ゲートの両側でトックリヤシや、美しいブーゲンビリアが迎えてくれました。
ずらりと並んだブーゲンビリアの種類が多く、次回写真で紹介します。


駐車場に大きなガジュマルの木があります。
網の目状に張った根は芸術的ですが、全体の姿はイカのようにも見えます。
手前に真直ぐ立っている木は「トックリノキ」です。


玄関でしゃれた顔のシーサーが見張っています。
ここで料金200円を払い、見学の始まりです。
お店の奥でジュースを飲んでいる人がいます。


「バラビドー観光農園」には、ヤシ園で、他にハイビスカス園・蝶園・熱帯果樹園があり、どうも農園のイメージではなくちょっとした植物園のようです。


トックリヤシの横に「オオゴチョウ」(黄紅蝶)の花が咲いています。
実に魅力のある花ですね。


ハイビスカス園には様々な種類の花が咲いています。
すごくたくさんの種類があり、驚きです。


変わったハイビスカスの花です。
フウリンブッソウゲ(風鈴仏桑華)のようです。


ゴレイシ(別名スターフルーツ)です。
断面が星の形をしているところから名づけられたようです。
濃い黄色に熟さないと美味しくないようです。


ボーリングのボール位の大きな実がなっていました。
「フクベノキ」(瓢の木)だそうです。
重くなりすぎて、ヒモで吊っているようです。


蝶園に「オオゴマダラ」が群がっていました。
「オオゴマダラ」は、日本では大きさが最大級の蝶で、東南アジアから沖縄にすむ蝶だそうです。
毒草のホウライカガミ(蓬莱鏡)をエサにしているため、体内に毒が残って鳥などに食べられないようです。
赤いプラスチックのネットの袋に群がる訳がよく分かりません。

石垣島の「底原ダム」がたたえる「世果報の水」

2007年07月06日 | 沖縄の旅
石垣島の最高峰「於茂登岳」の東を南北に縦断する県道87号線沿いに「底原(すくばる)ダム」があり、立ち寄ってみました。



「於茂登トンネル」の北の入り口です。
全長1,174mで、沖縄では最長のトンネルだそうです。
入口の上にはシーサーが描かれ、ヤシの木も南の島を演出しています。


「於茂登トンネル」を南に抜けた(地図①)左手に「底原ダム」が見えてきます。
東西に走る堤防の道は、地図上で測ると約1.5Kmもありました。(地図②⇔③)
等高線を見ると堤防と、その下の高低差があまりないようです。
ダム湖は、非常に広いものの、水深が浅いようです。


ダムの西から東の堤防を見た景色です。(地図②から③の方向)
長い直線の堤防が続いています。
1992年に完成した「底原ダム」は、宮良川水系の底原川に造られています。
宮良川の河口は石垣島の南、宮良湾に注いでいます。


石碑に「世果報の水」とあります。
「世果報」は、「ゆがふ」と読むそうで、沖縄方言の母音変化「え(e)」→「い(i)」、「お(o)」→「う(u)」を考慮すると読み方が分かります。
「果報」は、辞書で「運のよいこと。また、幸せなさま」とあります。
「果報な世の水」と読み替えると意味が、少し判ってくるような気がします。
沖縄では弥勒(ミルク)信仰があり、ニライカナイから訪れるミルクが「世果報(ゆがふ)」をもたらせてくれると考えられているようです。


ダムの堤防の道に入る入口で、左右の門柱の上にシーサーがいます。
車は進入禁止になっています。


なかなか面構えの良いシーサーですが、ちょっと肥満体なところに親近感がわきます。
後ろに見えるダム湖は、実に広々としています。


案内板にあった「底原ダム」の全景写真です。


ダムの堤防から西を見た風景です。(地図②の辺り)
正面の突き当りから進入してきました。


ダムの堤防の上の道です。
とにかく長い直線道路ですが、なにやら袋が落ちています。
牧場付近で見かける干草の袋のようです。


「底原ダム」の堤防から南東方向を見た景色です。(地図④の辺り)
土手の下には田んぼや、畑がたくさん見え、その向うにカーラ岳が見えています。(向かって一番左の山)
約500年前、石垣島の英雄「オヤケアカハチ」が琉球王朝との戦いで、最後を遂げたのがこのダムの辺りと言われています。
かって、オヤケアカハチが宮良湾に面した大浜に拠点(フルスト原遺跡)を持ち、強い勢力を保持していたのはこの広い宮良川流域の農業だったのではと推察しています。


堤防の西の端にある水の落ちる所で、ダムの高さが高くないことが分かります。
見た目より貯水量は、かなり少ないようです。
かって、この島には深刻な渇水の歴史があり、水の不足がいつ発生するか分かりません。
観光旅行者も水を使う量を少しでも少なくするよう工夫をしたいものです。

やっと見つけた「荒川の滝」

2007年07月04日 | 沖縄の旅
「米子焼工房」の宇宙人的シーサーたちに別れを告げて、県道79号線を少し西に走った所に「荒川の滝」があります。
2年前訪れた時には見つけることが出来ず、あきらめて帰った想い出があります。


この道の下に「荒川の滝」があります。向かって右下の道路脇から下りて行きます。
道路の南側から東方向を撮ったもので、この道の下には川が横切っています。
つまり写真にある道の下部分は橋ですが、車ではなかなか気付きません。

今回は、予め地図で川の位置を確認していたので何とか駐車場を見つけて分かったものです。


米原付近の地図です。
赤丸の辺りが「荒川の滝」です。
地図に天然記念物「荒川のカンヒザクラ自生地」が表示されています。
地図の南に「於茂登岳」があり、その中腹になります。


お昼頃訪れましたが、ひっそりとしていました。
道路から滝の周りまでは、木がうっそうと茂り、川に覆いかぶっさていました。
天気のせいもあり、薄暗くて、滝のすがすがしさを感じられなかったのは残念でした。


道路脇に車2台程度が停められる駐車場があり、こんな看板がありました。
もう少し上流に行くと、もっと眺めの良い滝があるそうで、立入を禁止しているようです。

又、天然記念物「荒川のカンヒザクラ自生地」の青色の案内板もありましたが、古くて読みにくくなっていました。
「荒川のカンヒザクラ自生地」は、日本で唯一の自生地だそうで、約300本の木が点在しているようです。


この滝の落差は、3m程度だそうで、石垣島では数少ない滝の一つです。
夏は、子供の水遊びで賑わうそうです。

「米子焼工房」の宇宙人的シーサーたち

2007年07月03日 | 沖縄の旅
「米原のヤエヤマヤシ群落」を出発して県道79号線の米原キャンプ場付近を走っていた時のことです。


突如、道路脇に巨大な宇宙人が出現しました。
しかも一匹だけではありません。
どうもあのウルトラマンのような世界にまぎれ込んでしまったようです。


目が異様に大きな宇宙人がいました。
こいつらの目を見ていると、なぜか頭がおかしくなりそうです。


手を上げ、大きな口を開けてなにやらわめいています。
気付かれたら襲ってくるかも知れません。


この敷地の端に立っていました。
こいつは見張り役のようです。


建物の入口にも宇宙人がウジャウジャいます。


こちらの入口にも宇宙人がいます。
どうもこの建物は宇宙人に占拠されてしまったようです。


建物の中をそっと覗いてみました。
やっぱり、この建物は宇宙人たちのアジトのようです。


宇宙人に見つかってしまいました。
「えい!幸せの魔法にかけちゃうぞ」と叫びましたが、何もおこりませんでした。
(何事もおこらなかったことが、幸せだとも言うのでしょうか)
あわてて外に逃げました。


道路の向かいには、こんな建物がありました。
「米子焼工房」の看板があり、ここにも宇宙人がいます。

しかし、落ち着いて見るとここは焼物屋さんのようです。
とにかく変わった焼物屋さんです。
なんでこんなオブジェを作っているのでしょう。


改めて店内に入ってみました。
「米子焼シーサー」と表示され、たくさん陳列されています。


色々なシーサーが並んでいます。
幸福のシーサー、フラダンスのシーサー、妖精のシーサーなどあります。
まったく、外のオブジェと言い、こんな独創的なシーサーを創ったこの店の主人の発想にはついていけません。


とにかく、わけの分からないお店です。
店内にはかわいいシーサーがありましたが、オジサンには恥ずかしくて買えませんでした。

この店を調べてみるとホームページがありました。
こちらが→→米子焼工房(よねこやきこうぼう)のホームページです。

又、こちらのサイトで店の紹介がされていました。
「島で暮らす人をインタビュー VOL.14 米子焼工房、シーサー」

米子焼工房のご主人さまへ 変なことを書き、大変失礼しました。

「米原のヤエヤマヤシ群落」と、椰子研究者

2007年07月02日 | 沖縄の旅
石垣島の米原にある「米原のヤエヤマヤシ群落」を見に行きました。
「ヤエヤマヤシ」は、石垣島と、西表島だけに自生するヤシです。


とても大きなヤシの木です!
手をかけている木は、直径約30cmですが、中央の2本の木の直径は、肩幅以上の60~65cmには見えます。

実は、中央の木が、手前にあるため、直径が異常に大きく見えているためです。
最大の木の直径は30cmで、上の写真は、トリックでした。
でも、すごい高さのヤシの自然の林です。


案内標識に従い、県道79号線を南に折れると「米原のヤエヤマヤシ群落」の入口に突き当たります。
右手が駐車場で、正面の石段が入口で、その横に石碑があります。
正面の山の上にはヤエヤマヤシの群落が見えています。
向かって右の緑の表示板は「米原のヤエヤマヤシ群落」の案内板です。


■写真の向かって左に青い説明板があり、転記します。
<天然記念物 米原のヤエヤマヤシ群落>
昭和47年5月15日指定
ヤエヤマヤシ Satakentia liukiuensis (Hatusima) H.E.Mooreは世界中で石垣島、西表島だけに自生する1属1種のヤシです。かっては小笠原諸島のノヤシと同属と考えられていましたが、1964年に初島住彦氏によってノヤシ属の新種として記載されました。その後、H.E.Moore氏がヤエヤマヤシ属を新設し、この属に移しました。属名Satakentiaはヤシの研究家であった佐竹利彦氏の名前を記念しています。本種の近縁種は中国や、フィリピンには分布せず、地理的に遠いニューギニア周辺に分布しています。
 本種最大の自生地であるこの群落には多数のヤエヤマヤシが生育しており、中には樹高15~20m、胸高直径30cmに達する見事なものもあります。また、この群落内にはヤエヤマヤシの他に、ハマイイヌビワ、コニシイヌビワ、ホソバムクイヌビワ、ショウベンノキ、リュウキュウガキ、アカテツ、フクギ、ハブカズラ、コミノクロツグ、クワズイモ、ミカワリシダ、オオクサボク、トウツルモドキなどの植物が見られます。
 なお、この地域において許可を得ることなく現状を変更し、または保存に影響を及ぼす行為をすることは法律で禁じられています。
 文部科学省
  沖縄県


ヤエヤマヤシの林に入って行きました。
木の下には大きな根株がスカートのように膨らんで付いています。


ずいぶん高い木です。
やはり、こんなに高い木を台風や、強い風から守るためにはしっかりと木を支える構造が必要でしょうね。


木の根株を拡大した写真ですが、よく見るとフラダンスのおねえさんが腰ミノを着けている姿に似ています。
腰ミノの下にある根株の構造はどうなっているのでしょうね。


山の中に「ギランイヌビワ」がありました。
板根が発達する木ですが、いまひとつです。


ヤシの遊歩道の終わる付近の景色です。
山の斜面にヤエヤマヤシが茂っています。


入口にあった案内図です。
一周して駐車場に帰る道があります。
案内図に「ヤシ記念館」がありました。


駐車場に「椰子記念館」の案内板がありました。
ヤエヤマヤシ発見・命名者佐竹利彦とあります。

しかし、上に記載した青い説明板(3番目の写真の説明)によると、「属名Stakentiaはヤシの研究家であった佐竹利彦氏の名前を記念しています。」とありますが、学名が「Satakentia liukiuensis (Hatusima) H. E. Moore」です。
佐竹利彦についての記載が(株)サタケのサイトにあり、確認できます。
それによるとヤエヤマヤシが固有の属であると発見したのは佐竹利彦であり、学名「Satakentia liukiuensis (Hatusima) H. E. Moore」の命名者が「H.E.Moore氏」(ムーア教授)ということになるようです。
東広島市の精米機メーカー(株)サタケの二代目社長佐竹利彦氏は、本業とは関係ないヤシの研究に没頭したようです。
本業がうまくいかなかったら道楽息子だったのでしょうが、「ヤシ博士」の異名を持つまで研究を進めた実力は、本業でも発揮されたものと思われます。