昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

浦添市美術館、葛飾北斎の「琉球八景」 №2

2010年06月24日 | 沖縄の旅
5月8沖縄「浦添市美術館」の収蔵品展、葛飾北斎の「琉球八景」の続きで、残り4作をご紹介します。

前回も書きましたが、北斎が、「琉球八景」を描く時に参考にした「周煌」の絵を下段に並べていますので比較してご覧下さい。



この上下の絵は、「旬崖夕照[じゅんがいせきしょう]」で、那覇市の海岸にある「波上宮」です。

北斎が描き加えた舟の辺りは、埋め立てられていますが、最も分かりやすい場所です。

波上宮は、案内板によると1368年(室町時代)(三山時代の中山察度王統の頃)、薩摩の頼重上人が波上宮の別当寺波上山護国寺を開山したことが始まりとし、熊野神社の伊弉冊尊、速玉男尊、事解男尊を祀っています。



この上下の絵は、「長虹秋霽[ちょうこうしゅうせい] 」です。

かつて那覇市街が「浮島」と言われる島だった頃、崇元寺橋付近と、松山二丁目付近を結ぶ海中道路があったようです。

「秋霽」は、「あきばれ」とも読まれ、墨絵の作者「周煌」は秋晴れの日に見た海中道路を描いたものと思われます。

上下の絵には石で造られた海中道路の途中に7ヶ所のアーチが描かれていますが、舟の通行や水路としていたものと思われます。

以前、北斎の絵だけ見た時、富士山を描き加えているように見えましたが、元の墨絵にも富士山に似た山がありました。

北斎は、富士山に似た山の下に水平線を書き加えて上手く距離感を出し、異国風の舟や、海中道路を歩く人の姿を描き加えて詩情あふれる絵に仕上げているようです。



この上下の絵は、「城嶽霊泉[じょうがくれいせん]」と言われ、その場所は、前回掲載した「泉崎夜月」の那覇市泉崎から東方向に数百メートルの付近にある「城岳公園」(沖縄県那覇市楚辺) とされています。

緑豊かな「城岳[ぐすくだけ]」から流れ出る湧水が勢いよく流れ落ちていますが、清国の冊封副使「周煌」が下段の絵を描いた時代から約250年経ち、都市化した那覇では見られなくなったようです。

しかし、沖縄各地には今でも豊かな湧水が多く見られ、地域の人々の癒しのスポットとして親しまれています。

一昨年訪れた沖縄本島南部の湧水<名水百選「垣花桶川」と、長い石畳の坂道>なども心を癒してくれるスポットでした。

この絵にも遠くに富士山のような山が見えています。

下段の「周煌」の絵にも富士山に似た山が見えますが、上段の北斎が描いた山の存在感は別格です。

「富嶽三十六景」を完成させ、新たな境地を開いた北斎の描く富士は、小さくても力強さを感じさせてくれるようです。



この上下の絵は、「中島蕉園[なかしましようえん]」と言われ、その場所は、那覇市泉崎で、国際通りの西の突当り「那覇バスターミナル」付近とされています。

「蕉」とは「芭蕉[ばしょう]」つまりバナナのことだそうです。

ちなみに江戸時代前期の俳人「松尾芭蕉」も、言い変えると「松尾バナナ」になってしまいます。

「芭蕉」には沖縄の有名な織物「芭蕉布[ばしょうふ]」の原料「糸芭蕉」や、美しい花を咲かせる「花芭蕉」もあり、バナナを付ける「実芭蕉」もあります。

「中島蕉園」にはいったいどんな「芭蕉」が植えられていたのでしょうか。



2008年の正月に、兵庫県たつの市室津の「たつの市立室津海駅館」で見た「琉球使節行列図」の一部です。

朝鮮通信使の展示と合わせて、ガラスケースの中にこの長い絵も展示されていました。

たつの市室津には、 大名が泊る六軒の本陣があり、海路を進む琉球使節も瀬戸内海の室津にも停泊、珍しい琉球使節の行列に町の人々もさぞ感激したものと思われます。

室津の町並み見物で、「本陣 薩摩屋跡」の石碑も見つけましたが、ここに琉球使節も宿泊したのでしょうか。

葛飾北斎の絵の販売地域は分かりませんが、琉球使節は、九州から江戸までの道中、各地話題を巻き起こし、北斎の「琉球八景」も琉球ブームに沸く人々の人気を大いに集めたものと思われます。

■展示の絵の説明文です。
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琉球使節行列図(江戸時代)
           (高畠家文書たつの市教育委員会蔵)

 琉球使節とは、琉球国王が徳川将軍へあいさつのため派遣した使節で、将
軍の代替わりを祝う慶賀使と、琉球国王が就任を感謝する謝恩使の二つがあ
った。将軍への参府は「江戸上り」と呼ばれ、寛永11年(1634)から嘉永3
年(1850)まで18回行われた。薩摩藩は慶長14年(1609)に琉球国を属国と
していたこともあり、参勤を琉球使節の江戸上りと抱き合わせで行なった。
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「鞆の浦埋立て架橋計画」や、「崖の上のポニョ」の舞台とされて話題となっている福山市鞆町の臨済宗妙心寺派「萬年山小松寺」の本堂です。

このお寺には鞆で病死した琉球使節の楽師「向生」の墓があります。

地元福山市にも琉球使節の史跡がありました。



本堂の脇に「琉球司楽向生碑」と刻まれた追悼碑があり、その横に「幽岸曹源大禅定門 興世山親雲上姓向道享」「寛永二年十月十三日歿 享年二十二歳」と立て札がありました。

第14回目の琉球使節で、新将軍家斉への賀慶使だったようです。

180センチ以上の高さと思われるこの追悼碑を見つけ、墓を確認するのを忘れてしまいました。



本堂の中に琉球の赤い扁額「容顔如見」が掛けられています。

亡くなった琉球使節の楽師「向生」の祖父、父が七回忌の法要に訪れて奉納したものと伝えられています。

祖父や父が「まるで向生の顔を見るようだ」と、墓に向かった想いを即興で書いたのでしょうか。

北斎の「琉球八景」の背景となった「琉球使節」は各地に多くの歴史を遺しているようです。

浦添市美術館、葛飾北斎の「琉球八景」 №1

2010年06月17日 | 沖縄の旅
5月8沖縄旅行初日、「浦添市美術館」の続きです。

収蔵品展で、葛飾北斎の描いた「琉球八景」の展示を見ました。

数年前に「琉球八景」を知り、機会があれば是非見たいと思っていました。



葛飾北斎が、「琉球八景」を描くきっかけとなった「琉球使節」が、描かれています。

「江戸上り行列図」(沖縄県立博物館蔵)の一部で、琉球王国から江戸幕府への使節が江戸の町を歩く様子が描かれています。
(長い一列の絵の一部を二段に編集しました)

中国風の装束と、音楽で異国情緒あふれる行列に、大勢の民衆が見物したようです。

琉球から江戸へ約2,000Kmの長旅をする琉球使節は、新将軍への祝い、琉球王の新任の時に送られていたようで、江戸時代初期から幕末まで18回、明治新政府へ1回送られています。

この図は、琉球大学の開学60周年記念事業「江戸上」探検隊の案内パンフレットから借用したものです。



浦添美術館「収蔵展」のパンフレットで、葛飾北斎が描いた「琉球八景」の一つ「長虹秋霽[ちょうこうしゅうせい]」の一部が掲載されていました。

北斎が、「琉球八景」を描いたのは1832年(天保3)で、その年第16回目の琉球使節を迎えた後で、江戸の町は、琉球使節への関心が盛り上がっていたようです。

北斎が、世界的に有名な「富嶽三十六景」を完成させたのが、その前年の1831年です。

大胆な構図で描く風景画の新境地を開いた北斎の絵は、信仰の山「富士山」を描いたこともあり、この時代大いにもてはやされたようです。

「琉球八景」は、北斎が「富嶽三十六景」で勢いのある時に描かれたようです。

「琉球使節」の行列を見た江戸の人々が、この絵により更に琉球への憧れをかき立てられたものと思われます。

数年前、この絵を見て北斎が、琉球に行って描いたのではないかと思いました。

しかし、調べてみると江戸幕府が発刊した中国の書物「琉球国志略」に挿入されている「球陽八景図」を参考にしたことがわかりました。

「琉球国志略」は、1755年に清国(中国)が琉球に送った冊封副使「周煌」が書いたもので、滞在した那覇の風景八か所を描いたようです。

以下に、「北斎」の絵と、参考にした「周煌」の絵を上下に並べて紹介します。



上段の絵は、葛飾北斎が描いた浮世絵版画「琉球八景」の一つ「泉崎夜月」です。

下段の墨絵は、「周煌」の「泉崎夜月」です。

「琉球八景」は、那覇市内にあり、この絵の泉崎の地名は、沖縄県庁のすぐ西に残っています。

北斎は、「泉崎夜月」の名称から元絵にない月を描き、夜の雰囲気を出したようです。

浦添美術館で見た北斎の絵と比べて極めて見劣りのする画像ですが、興味のある方は是非実物を観賞し、感動を味わって頂きたいと思います。

「周煌」が書いた墨絵「球陽八景図」は、本の左右2ページに描かれた画像を結合していますので、中央に切れ目が残ってしまいました。



上段の絵は、北斎の「臨海湖聲[りんかいこせい]」です。

下段の絵は、「周煌」の「臨海潮聲」で、北斎は「潮」を「湖」にアレンジしています。

この場所は、那覇市西町にある「三重城」で、那覇港の防衛や、貿易船のために築かれた施設だったようです。

このブログでも<那覇港の城塞「三重城」>で「三重城」を紹介しています。



この上下の絵は、「粂村竹籬[くめむらちくり]」です。

「粂村」は、現在の那覇市久米付近で、中国系の人々が居住していた町です。

現在、日中友好で造られた中国庭園「福州園」があります。



この上下の絵は、「龍洞松涛[りゅうどうしょうとう]」です。

何と!! 北斎は、大胆にも雪景色にアレンジしています。

この場所は、那覇市の「奥武山公園」付近で、海に突き出した山には昔あった「龍洞寺」が見えます。

残り四点の絵は、次回とします。

浦添市美術館の「琉球交易港図屏風」

2010年06月07日 | 沖縄の旅
5月8~10日、二年ぶりに沖縄旅行へ行ってきました。

「浦添市美術館」のホームページで、葛飾北斎の「琉球八景」や、「琉球交易港図屏風」の展示があると知り「琉球漆器」の観賞と合わせて初めて訪れたものです。



駐車場から歩いて行く途中で見えた「浦添市美術館」の建物です。

たくさんの塔がそびえ、ヨーロッパや、イスラムの雰囲気を感じます。

かつて異国との交易で栄えた沖縄の伝統を意識して造られたのでしょうか。

早々と梅雨入りした沖縄の初日は、幸いにも曇りでした。



「浦添市美術館」の玄関は、建物の間を通り、階段を上がって行きます。

階段の上に高い塔がそびえ、アプローチの景色はとても素敵です。

玄関は、一階とされており、撮影場所の頭上には一階の渡り廊下が架かっています。



階段の右手に美しい花芭蕉が咲いていました。

5月の沖縄本島は、初めてで、この花芭蕉も初めて見ました。

沖縄本島の3日間は、花芭蕉の他、月桃[ゲットウ]や、テッポウユリの白い花が各所で見られ、梅雨の沖縄の魅力とも言えます。



「浦添市美術館」のパンフレットにあった建物の一階配置図です。

向って左から渡り廊下をくぐり、「1 受付案内」と書かれた上が玄関です。

常設展示は左上5-1~5の部屋、企画展示は4-1~3の部屋です。

建物は、地階、二階がありましたが、展示は一階だけのようです。



「浦添市美術館」の入場券です。

たくさんの塔を一望する建物の写真と、周囲の図柄は、琉球漆器のものでしょうか。

この写真を上段の平面図で見ると、中央のスリムな塔は6-4(右端)、左手の塔は受付案内のある右下のブロックと思われます。



「浦添市美術館」の玄関に貼り出されていた企画展のポスターです。

いよいよ期待していた展示が見られると心がはやりました。

下に「観覧料 無料」とありますが、企画展の料金が無料の意味のようです。

しかし、充実した展示内容で、観覧料 一般 150円は恐縮する安さです。



頂いた「浦添市美術館」のパンフレットにあった「琉球交易港図屏風」(部分)で、六曲の屏風で、内側の四曲の部分が載っています。

かつて琉球王朝は、中国の明・清帝国の冊封体制下にもあり、数年毎に「進貢使」を派遣、皇帝に献上品を奉げ、多くの下賜品を持ち帰っていました。(江戸幕府-薩摩藩の支配下でもあった)

この図は、「進貢使」が中国から帰国して賑わう那覇港の様子を描いたものです。

真っ先にこの屏風がある廊下に面した長い展示場所に行きましたが、見上げる高さの迫力ある屏風絵でした。

同様の屏風絵は、沖縄県立博物館や、京都大学、滋賀大学の博物館にも残されているようです。

このブログで2008年08月に掲載した<那覇港の城塞「三重城」>に「沖縄貿易図屏風」(滋賀大学蔵)の一部がありますが、ほぼ同じ絵のようです。



管内で頂いた資料に載っていた「琉球交易港図屏風」六曲一隻(19世紀)の内、向って左三曲です。

中央上の船は、「接貢」の旗が掲げられ、「進貢使」を中国に迎えに行き帰国した「進貢船」のようです。

この3本マストの船には、「接貢」の旗の他、白地に赤い日ノ丸の旗、黒地に白く北斗七星のような図が描かれており、未だ謎です。

その船の下には懸命に競うハーリー舟や、丸に十字の薩摩の旗を掲げる船も見えます。



「琉球交易港図屏風」六曲一隻(19世紀)の内、向って右三曲です。

向って左下の船には「旨捧帰国」の旗が掲げられ、「進貢使」を中国に送って行き、帰国した「進貢船」のようです。

左下隅には三重城の先端が見え、中央やや下には波上宮も見えています。

右上には首里城が描かれ、右下には馬に乗る人、日傘をさす人などが活き活きと描かれています。



名護市の「ホテルゆがふいんおきなわ」の二階レストランの入口に「進貢船」の模型が展示されていました。

実物は、全長約40mあるようですが、この模型は1mを超える程度の大きさで、黄色い旗には屏風絵にもあった「旨捧帰国」の文字が見えます。

「浦添市美術館」の屏風が撮影禁止だっただけに、とても有難い展示でした。

又、沖縄海洋博公園の海洋文化館にも大きな模型が展示されていますが、やはり撮影禁止でした。



模型「進貢船」の先端です。

龍の顔でしょうか、シーサーの顔にも見えます。

船体に描かれた白い目と共に、船の安全を祈るおまじないと思われます。



「進貢船」の模型を後ろから見た写真です。

船体の後部には大きな鳥が翼を広げ、太陽も描かれていました。

マストの上には日の丸の旗も見えます。(間違いでした→黄色に赤丸の旗で、日章旗ではありません、コメントを頂き、気が付きました-2011/2/28追記)

写真を撮っていたらレストランの女性から親切な申し出があり、船の横で妻と並んだ記念写真を撮って頂きました。

名護市「ホテルゆがふいんおきなわ」に2泊し、このレストランでのバイキングの朝食も満足でした。

大変、お世話になりました。
 

日本の滝百選、三次市作木町の「常清滝」

2010年06月02日 | 山陽地方の旅
5/29、広島県三次市作木町下作木の「常清滝[じょうせいだき]」へ行ってきました。

「日本の滝百選」のリストを見ていたら広島県で唯一選ばれていることを知り、思い立ったものです。

広島県の滝で思い浮かぶのは「三段峡」や、福山市の「龍頭の滝」ですが、落差126mでは「常清滝」が群を抜き、中国地方でも№1のようです。



県道62号から、レンガ色の建物、三次市役所作木支所の裏手に「常清滝」が見えています。

「常清滝」は、県道から東南東方向に入った谷の奥にあり、午後の陽を受けて白く光っていました。



「常清滝」付近の地図です。

三次市街地から国道54号北上、左折して県道62号へ入ると長い「便坂トンネル」があります。

県道62号を約7Km走ると左手に作木中学、三次市役所作木支所があり、その裏手の谷の奥に「常清滝」があります。



三次市役所作木支所の後方に専用の駐車場があり、横の階段を上り「常清滝」へ向います。

案内標識には「常清滝へ500m」とあり、約10分で到着します。

階段の途中に未熟な赤いサクランボがたくさん落ちていました。



階段を上り、車道に沿って進むと道が分かれ、鳥居方向に直進すると「常清滝」です。

鳥居の扁額には「権現神社」と書かれ、鳥居から先は車の侵入が止められています。

右手に進むと「高丸農園」の標識と看板があり、梨の品種名「新水・幸水・豊水」から梨園があるようです。

何の花か、道の脇に続く草に直径約1cmのツボミがたくさん見られ、もうすぐ花が楽しめそうです。



道が大きく左に曲がるとベンチや、休憩所のある広場で、その先に「常清滝」へ向う細い道が続いていました。

標識には「常清滝 0.4Km」とあります。

広場の一段上には「権現神社」があるようです。



谷川に沿った道をせせらぎの音を聞きながら歩いていきます。

心地の良い風が谷を流れ、時折聞こえてくる小鳥の声に癒されます。

しかし、「マムシ注意」の案内標識が2~3ヶ所にあり、道の先をよく注意して歩きました。



滝の音が聞こえ始め、目の前に「常清滝」の全体が見えて来ました。

陽ざしに輝く緑の間に岩の断崖がそびえ、はるか上から細く白い滝の流れが続いています。

落差126mの「常清滝」の姿を目の前にした感動は、この写真からでは無理のようです。

■滝の下付近に「常清滝」の石碑がありました。
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広島県名勝 常清滝
指定年月日 昭和35年8月25日
指定地   広島県三次市作木町下作木字天楽371-1
説明    
この滝は中生代白亜紀の中期(今から約1億年前)に噴出した
流紋岩の断崖にかかり、三段に分かれている。高さ126米
に及び古くから名瀑として知られた日光の華厳滝や熊野の那
智の滝の高さにも匹敵する。周囲の埴生は深山性の要素に
富み、トチノキ、ヤマモミジ、チドリノキ、ケグワなどの樹木か
らなるみごとな林相にかこまれた滝の姿は一段と美しい
昭和57年10月1日
広島県教育委員会
三次市教育委員会
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「常清滝」の滝つぼの様子です。

水量が少ないためか、岩が固いためか、余りに小さく浅そうな滝つぼです。



展望台から撮った「常清滝」の全体です。

「常清滝」前に上り坂があり、数十メートル上ると丸木で造られた滝の展望台です。

このブログでも紹介した岡山県真庭市の「神庭の滝」を思い出しました。

「神庭の滝」は、落差110mでこの滝よりやや低いものの、水量が多く力強い滝でした。

名のある滝にはそれぞれに素晴らしい個性があるようです。



展望台から撮った「常清滝」の上部です。

「常清滝」三段の内、上二段の部分と思われます。

駐車場にあった観光案内の看板で、「常清滝」の説明文に「瀑水は三段にわかれ、上が荒波(36m)、中を白糸(69m)、下を玉水(21m)と名付けられている。」とありました。

展望台で一眼レフを三脚に取付けて撮影している方に出会いました。

お話を聞くと「常清滝」は、雨の多いこれからの季節が見頃で、紅葉の時期より美しいと感じられているようです。



展望台から撮った「常清滝」の下部です。

水が勢いよく落ちる様を見ると、何となく「玉水」と名付けられているのが分かります。

数日前の雨で、少し水量が増え、より美しい姿が見られたものと思われます。



展望台の坂道に祠がありました。

滝や、泉のそばには神仏が祀られていることが多く、ここでも滝にまつわる信仰が続いているものと思われます。

帰りには「江の川」沿いの「川の駅 常清」に立寄りました。