昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

油絵「蜜柑のある静物」

2009年05月31日 | 妻の油絵
2ヶ月ぶりに妻の油絵です。

先月の休みに撮影していたのですが、掲載するのをすっかり忘れていました。



F6号の静物画で、今年3月の作品です。

タイトルのイメージとは違い、数種類の柑橘類などの実が並んでいます。

みかんの他、レモン・柚子・イヨカンや、おまけにザクロがあります。

洋酒の瓶は、もちろん空、寄せ集めの果物にも少し生活感がにじみ出てしまったようです。

不景気な時代、細かいことを気にせず、元気に生きて行きましょう。

花を飾り、歌と踊りで祭る伊弉冉尊の「花の窟神社」

2009年05月27日 | 近畿地方の旅
「獅子岩」の次に「花の窟神社」[はなのいわやじんじゃ]へ行きました。

「日本書紀」神代の巻では、「伊弉冉尊」が亡くなられて紀伊国熊野の有馬村で葬られたとし、土地の人々は、花を飾り、幡旗を立て、笛太鼓を鳴らし、歌い舞って伊弉冉尊を祭っているとされています。

何と、今でも熊野市有馬町の「花の窟神社」では季節の花を飾り、歌と踊りで、伊弉冉尊を祭り続けていると聞き、かねてから参拝したいと思っていました。

今回の「熊野・伊勢・志摩旅行」の一番の目的が、ここ「花の窟神社」の参拝でした。

今回は、掲示板の説明文が多く、適当に飛ばしてご覧下さい。



国道を曲がると右手に「花の窟神社」の参道入口、その向いに駐車場があります。

大きな石柱に「日本最古 花の窟神社」とあります。

日本最古は、神社をどう定義するかで変わってきますが、素性の分った神様を祭る場所としては確かに日本最古と思われます。

■境内入口の脇にあった神社の案内板に神社の概要がありました
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花の窟神社
祭神  伊弉冉尊[いざなみのみこと] 軻遇突智神[かぐつちのかみ]
例大祭 春祭 二月二日 秋祭 十月二日

神代の昔より花を供えて祭るので花の窟と言う。
窟の頂上よりかけ渡すお綱は神と人とをつなぎ神の恵みを授けてくださるお綱なり。
平成九年五月二十三日
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■参道の脇にあった案内板の説明文です。
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花の窟神社 (熊野市指定文化財 史跡)
熊野市は、神話や伝説が豊富なところで、その代表的なものがここ「花の窟」である。
「日本書紀」によると、皇室の祖先とされる女神天照大神の母神である伊弉冉尊[いざなみのみこと]は、火の神・軻遇突智神[かぐつちのかみ]を産んだとき、火傷を負って死に、この地に葬られた。尊の魂を祀るため、土地の人々は花が咲く季節に花を飾り、のぼりや幡旗[はた]を立て、笛太鼓を鳴らし、歌い踊って祭を行うとされている。このことから「花の窟」という名前がついた。
熊野三山の中心である本宮大社は、主神が伊弉冉尊の子家津御子[けつみこ]神であるため、今も花を飾って祭が始まる。このことからもわかるように「花の窟」は熊野三山の根源ともされ、わが国の古代信仰の重要な意味を持った場所なのである。

お綱掛け神事 (三重県指定無形民俗文化財)
「日本書紀」に記されていることが今に引き継がれ、2月2日と10月2日には多くの人が集まり「お綱掛け神事」が行われる。綱は藁縄[わらなわ]7本を束ねた物で、花をつけた3つの縄旗が吊るされている。
この縄旗は朝廷から毎年奉納された錦の旗であったが、洪水で旗を積んだ舟が難破したため、縄でその形を模したのが始まりとされている。

 黒潮回廊と神々の故郷 熊野市
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突き当りの建物が、「参籠殿」で、その向こうに「花の窟」が見えて来ます。

左手に手水舎があり、そのすぐ横に大きな岩がありました。



手水舎の横にある大きな丸い岩です。

直径は1mを少し超える感じで、苔むしています。

神社入り口前の建物「花の窟縄ない処」に掲示された丸い岩の写真には「丸石さま」と書かれてありました。

古代祭祀で神聖な石として使われたものではないかと思われます。



「参籠殿」を通り、門の右手前方に「花の窟」が見えて来ました。

「花の窟」は、低い石垣で囲まれ、社殿のなかった古代祭祀場の形にも似ているようです。

■神社入り口の向かいにあった文化庁・三重県・熊野市の合同の案内板です。
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国史跡 熊野参詣道伊勢路
 花の窟
この花の窟には社殿はなく、高さ約45mの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古からの遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の真下に立つと身の引き締まる思いがする。
伊弉冉尊[いざなみのみこと]、軻遇突智神[かぐつちのかみ]である。毎年2月2日と10月2日には、祭典の主要神事である「お綱かけ神事」が行われる。お綱かけは、わら縄で編んだ110尋(約180m)の大綱に季節の花、扇をくくりつけ巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引き渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。
日本書紀神代の巻一書に「いざなみのみこと、火神[ひのかみ]を産むときに、灼[や]かれて神退去[かむさり]ましぬ、故[かれ]、紀伊国[きのくに]の熊野の有馬村に葬[はぶ]りまつる。土俗[くにひと]、此の神の魂[みたま]を祭るには、花の時には亦[また]花を以[も]て祭る、又鼓吹幡旗[つづみふえはた]を用[も]て、歌い舞いて祭る。」と記されている。
「花の窟」の名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である。その紀行文「いほぬし」には
・・・見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて、経を籠め奉りたるなりけり。「これは弥勒仏の出給はん世に、取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る」といふ。げに見奉れば、この世に似たる所にもあらず。・・・傍らに王子の岩屋といふあり。・・・
と花の窟を述べている。
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遂に「花の窟」を目の前にし、数年前から来たかった場所だけに感慨ひとしおでした。

正面の岩壁の下に伊弉冉尊が祀られ、はす向かいに軻遇突智神が祀られています。

暗い林の中から最後の門をくぐり、「花の窟」の前は、石垣と、木々に囲まれた広場になっていました。



岩の窪みの前に伊弉冉尊が祀られ、色とりどりの花がたくさんお供えされていました。

語り継がれた伝承もあり、この土地の人々は、花が好きだった伊弉冉尊を偲び、お供えされているものと思われます。

窟の下に金の御幣が、立てられていますが、伊弉冉尊の御神体と考えられているのでしょうか。



同じように岩の前を囲い、「軻遇突智尊」が祀られていました。

下の説明文にあるように背後の岩は、「王子の窟」と言われ、高さが約12mあるそうです。

祭壇の横には屋根のあるコンクリート製のローソク立て、その前には屋根付きのお賽銭箱が置かれています。

この前に座って拝む姿を想像すると、どことなく沖縄の礼拝の姿と重なってしまいます。

奈良時代までの神社は、社殿が無かったと考えられており、最も古い伝統を受け継いでいるのはこの様な形かも知れません。

■神社入り口向かいの「花の窟縄ない処」に掲示されていた案内文です。
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花の窟
日本書紀神代の巻に「一書に曰はく、伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去[かむさりましぬ。故[かれ]紀伊国の熊野の有馬村に葬[はぶ]りまつる。土俗[くにびと]、此の神の魂[みたま]を祭るには、花の時には亦[また]花を以て祭る。又鼓吹幡旗[つづみふえはた]を用[も]て、歌い舞いて祭る。」と記されている日本最古の神社です。社殿はなく、高さ約45mの窟をそのまま御神体としており、熊野三山や伊勢神宮成立前の太古の自然崇拝の遺風を漂わせています。花の窟の名は、季節の花々で神をお祀りしたことに由来すると言われており、古くから花祭りという珍しい祭礼を行っていたことがうかがえます。2004年(平成16年)7月に「紀伊山地の霊場と参拝道」として世界遺産に登録されました。対面に鎮座している火神・軻遇突智神[カグツチノミコト]を祀った12mほどの「王子の窟」(「聖の窟」とも)は、王子信仰(大神の御子神を祀る)の原形だと言われています。
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石垣で囲われた広場の隅から撮った写真です。

高さ約45mの窟を、何とか上から下まで収めました。

伊弉冉尊が葬られたのはこの岸壁に深い洞窟があるのではないかと想像していましたが、見当たりませんでした。

数千年前からの風化を考えると、今の姿から想像するのは無理かも知れません。

ここも「鬼ヶ城」「獅子岩」と同じ地質のようです。



伊弉冉尊の祭壇の前から見上げた窟の様子です。

山上から綱が2本張られ、それぞれに3つの縄旗が吊るされています。

1年に2回(2/2・10/2)新しい綱が張られるそうで、前回の綱が残って2本になっていることは、豊作が期待できるそうです。



神社入り口向いの「花の窟縄ない処」に掲示されていた写真で、「花の窟」の頂上付近を離れた場所から撮った様子です。

太い綱が、岩の上から張られ、縄旗の様子もよく分かります。

縄旗の下部には季節の花々が結び付けられるようです。

写真は、「神代から続くお綱かけ」の題で、撮影 濱中貞義氏と記されていました。

■神社入り口向かいの「花の窟縄ない処」に掲示されていた案内文です。
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「お縄かけ神事」① ~三流れの幡[みながれのはた]~
大綱に吊るされた御神体正面の3つの縄旗は、その昔に朝廷から奉献されていた錦の旗の名残で、伊弉冉尊が産んだ3貴神(天照大神、月読尊、素戔嗚尊)を象徴しています。「紀伊続風土記」にも”ある時に熊野川の氾濫によって錦の旗が届かなかったため、土地の人びとが縄旗を作って、旗の下に様々な季節の花を結びつけて行う”との記述があります。
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七里御浜から「お綱引き神事」を撮った写真で、実に大勢の人が参加され、「花の窟」の遠景も分ります。

「花の窟」前の「参籠殿」に掲示され、「お綱引き神事に全国各地から」の題で、大江眞一氏撮影と記されていました。

■神社入り口向かいの「花の窟縄ない処」に掲示されていた案内文です。
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「お縄かけ神事」② ~御子神が宿る大綱~
大祭に用いられる大綱は、古代米の稲藁で作られた7本の綱を1尋ごと(1.6m)に結束したものです。7本の綱もそれぞれ伊弉冉尊[イザナミノミコト]が産んだ自然神7柱を表しています。この日本一長いとも言われている大綱は、神々が宿るものであるため、またぐことは禁忌とされています。ちなみにお綱掛け神事は”かけ替え”ではなく、前回かけたお綱が残っている場合はそのままにして新たにお綱をかけます。したがって、お綱が2本ある光景が見られる場合もあります。全大祭のお綱が残っていることは豊作を約束するものとして喜ばれると言われます。
 ①風の神・・・級長戸辺命[シナトベノミコト]
 ②海の神・・・少童命[ワタツミノミコト]
 ③木の神・・・句句廼馳[ククノチ]
 ④草の神・・・草野姫[カヤノヒメ]
 ⑤火の神・・・軻遇突智命[カグツチノミコト]
 ⑥土の神・・・埴安神[ハニヤスノカミ]
 ⑦水の神・・・罔象女[ミツハノメ]
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花の窟神社の秋季大祭、春季大祭に奉納される少女たちの美しい踊りの様子です。

「花の窟縄ない処」や、「参籠殿」に掲示されていた写真をよせ集めたものです。

向って右上の写真は、「花の窟縄ない処」に掲示され、「安浦の舞、乙女の舞の舞姫さま」の題で、撮影 濱中貞義氏と記されていました。

向って左下の写真は、「参籠殿」に掲示され、「豊栄(乙女)の舞」の題で、撮影 松岡功氏と記されていました。

■神社入り口向かいの「花の窟縄ない処」に掲示されていた案内文です。
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神々の故郷の原始祭典
花の窟神社 秋季大祭・春季大祭
場所 花の窟神社  主催 花の窟神社 お白州引き実行委員会(お白州引き行事)

日本書紀にも記されている日本最古の神社「花の窟」は、日本の神々の母・伊弉冉尊の御陵であり、熊野三山の根源地として我が国の古代信仰にとって非常に重要な神域です。
百尋(166m)の御神体の窟頂上から「七里御浜」へ引き出して境内へ渡す「お縄かけ神事」(三重県指定無形民俗文化財)は、五穀豊穣を祈願するとともに、神と結びつながり、神の恵みをいただく太古から受け継がれる神事です。秋季大祭の際には、神聖な白石を載せた花車を引く「お白州引き」や道中踊りなどが行われます。

タイムスケジュール 秋季大祭(春季大祭)(※例年のおおよその時間です)
10月1日(2月1日) 16:30~ 宵宮(花車の煉りともちまき)
10月2日(2月2日) 9:30~ 「お白州引き」※

10:00 修祓(山上へ登る氏子の御祓い)
10:30 「お縄かけ神事」 安浦の舞・乙女の舞
11:30 神事終了、もちまき
 ※「お白州引き」は秋季のみ行われます。
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坂上田村麻呂の熊野海賊征伐、「鬼ヶ城」の戦い

2009年05月23日 | 近畿地方の旅
話が前後しますが、「鬼ヶ城」「大馬神社」にまつわる鬼退治にもう一つ付け加えなれけばならない伝説がありました。



もう一つの伝説を知ったのは、ここ「道の駅 熊野きのくに」でした。

5/2 昼時、熊野市の観光を終え、国道42号を尾鷲市へ向かう道に「道の駅 熊野きのくに」があり、立寄りました。

この二つの建物では、木工製品や、野菜、加工食品などを売っています。

他に食堂や、観光案内場の建物が並び、駐車場も満車状態でした。

昼飯は、名物の「さんま寿司」「めはり寿司」で、初めての「さんま寿司」も、おいしく頂きました。



「道の駅 熊野きのくに」の観光案内場で見つけたパンフレットの表紙です。

熊野古道と、旅人の絵と思われます。

かわいいデザインで、手にとって見ると「泊観音と鬼退治」とあり、ゆっくり見たいと頂いて持ち帰りました。



三つ折りのパンフレットを開いてみました。

何と、ここでも平安時代の征夷大将軍「坂上田村麻呂」が「鬼ヶ城」で戦う話に加えて観音様の話も加わっているようです。

■内容を転記します。
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 ふるさとの民話が息づく東紀州へ その十一
泊観音と鬼退治 熊野市
 平城天皇の頃、諸国に鬼神魔王と呼ばれる鬼たちが騒ぎ立てて人々を苦しめていた。
坂上田村麻呂将軍は鬼退治を命じられたが、鬼たちは逃げ隠れ、行方知れずになってしまった。
高い山に登り観音さまの名を一心に唱えて祈っていると、烏帽子をかぶった天人が現れた。
「東方の海辺に岩屋あり、多蛾丸という悪鬼立てこもれり。大悲の弓にて討つべし。我は大馬権現なる
ぞ」 と言うと、白馬にまたがり西天に飛び去った。
 このお告げで勇気が出た将軍は、すぐに兵船で海に出た。岩屋を望む沖までは来たが、守りが固くて近来可れない。
途方に暮れていると、沖の島に一人の童子が現れ、手足をあげて歌い舞う。岩屋を守っていた兵もつられ、大舞踏会になってしまった。
あまりのにぎやかさに身の丈七尺(約二メートル)もある多蛾丸も気を奪われ、思わず岩屋の戸を開いてしまった。そこを逃さず、将官早は大悲の弓で射貫いた。
 童子は鬼が退治されたのを見届けると、光を放ち飛び去った。
将軍があとを追うと、深山の頂上の洞くつに姿を消した。将軍は感ずるところがあり、その頂上に幼少の頃から肌身離さず持っていた一寸八分(約五センチメートル)の千手観音を納める寺を建立して治国平和の霊場とした。これが泊の千手観音様である。今、この観音様は大泊の清泰寺に安置されている。
 麓大泊の清泰寺から、将軍が建立した船出臥山際水上寸lの跡には、いくつもの観音石像がやさしい表情で立っている。
民話出血ハ『みえ東紀州の民訴』
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坂上田村麻の鬼退治伝説に関連する熊野の地図です。

坂上田村麻呂将軍へ多蛾丸を「大悲の弓にて討つべし」※と言ったのは大馬権現で、多蛾丸の首を埋めたのが、大馬神社だったようです。

次に、鬼ヶ城の戦で、童子が現れ、にぎやかに歌い舞うたとある沖ノ島が地図にある「魔見ヶ島」のようです。

又、鬼の退治を見届けた童子が、姿を消した場所に坂上田村麻呂の所持していた千手観音を納めたのが泊観音(比音山清水寺)とのことです。

これだけの伝説の場所があったことを熊野に来て初めて知りました。

※「大馬権現」と、「大馬神社」の神様は同じと思われますが、「大悲の弓」を辞書で見ると「仏・菩薩が慈悲の心で衆生の煩悩の悪魔を降伏させるのを、弓にたとえていう語」とありますが、話では実際に弓で射たとあり、よく分かりません。



パンフレットの表紙にあった題字と、イラストを拡大してみました。

ちょっと素敵な天女が空を飛ぶ絵です。



パンフレットの表紙側のコピーです。

旅行で頂いたパンフレットや、入場券等は、スキャナーで撮り、スナップ写真と同じグメーピングでファイルに整理しています。

かさばる現物のほとんどは、処分しています。

熊野の七里御浜にそびえ立つ「獅子岩」

2009年05月21日 | 近畿地方の旅
「鬼ヶ城」の次に、熊野市井戸町の「獅子岩」に行きました。


国道42号のすぐ横にあり、熊野灘に向いた「獅子岩」です。

「鬼ヶ城」から車で「獅子岩」を通り過ぎるとすぐに国道脇の駐車場と、展望する場所があります。

この「獅子岩」が、世界遺産、国の天然記念物と聞き、よけい風格を感じてしまいます。

■駐車場の脇にあった「獅子岩」の案内板の説明文です。
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獅子岩
高さ約二五メートル、周囲約二一〇メートルの岩塊で海岸の断崖の遺物と認められる。
獅子が大洋に向ってほえる形をしている。
その口にあたる部分は鬼ヶ城の洞窟と同じ成因によるものである。
地盤の隆起と海蝕の現象の生み出した奇観として稀に見るものである。
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「七里御浜」の長い浜辺が続いています。

「七里御浜」に沿った国道42号を走っていて、そびえ立つこの「獅子岩」を見落とすことはありません。



「獅子岩」の顔の辺りをズームで撮って見ました。

この複雑な岩肌は、「鬼ヶ城」と同じ地質のようです。

かなりグロテスクな顔ですが、鳥の顔にも見えてきます。



「七里御浜」の向こうに「鬼ヶ城」の岬の山が見え、手前の「獅子岩」との間に「井戸川」の河口が見えます。
(前回掲載の鯨は、突き当たりの入り江で捕獲されたものと思われます)

井戸川の支流近くの山中に「大馬神社」があり(地図では国道から6~7Km)、「獅子岩」とすぐ南側の岩、「神仙洞」が、その神社の狛犬とされているそうです。

ちなみに25mの「獅子岩」は、口を開いた狛犬といったところですが、なんとも雄大な話です。


2009-05-10の掲載で、案内板に書かれた「鬼ヶ城伝説」を紹介しました。

平安時代初期、鬼ヶ城をネジロとしていた海賊「多娥丸[たがまる]」は、坂上田村麻呂によって征伐され、「大馬神社」にその首が埋められているそうです。

この伝説に興味をそそられ、「大馬神社」や、「神仙洞」も見たかったのですが、時間の都合でパスしました。



熊野市の中心部の地図です。

今回の旅行で立ち寄った場所や、関連した場所の印をつけて見ました。

「大馬神社」は地図の上の部分にあります。

「獅子岩」の後、「花の窟神社」→「産田神社」と行きました。



最後に「獅子岩」の全景です。

地形から見ると、海岸に山がせり出し、その先端にあるのが「獅子岩」と思われます。

偶然とは言え、自然の造形には驚くばかりです。

熊野「鬼ヶ城」の石碑で知った写真家「田本研造」

2009年05月19日 | 近畿地方の旅
熊野市「鬼ヶ城」の見物を終え、駐車場までの帰り道での話です。



鬼ヶ城からの道から国道42号へ上がる急なコンクリートの階段の途中に「鯨魚供養塔」がありました。

台座に「水難供養」と書かれた背の高いお地蔵さんを中心に石塔が並んでいましたが、「鯨魚供養塔」がどれかよく分かりません。

■「鯨魚供養塔」の前にあった立札の説明文です。
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熊野市指定準文化財
有形民俗文化財 鯨魚供養塔
 「鯨魚供養塔、明治十三(1880)年庚辰十二月七日当浦漁夫中」とあり、早朝、鯱に追われた一頭の巨鯨が、脇ノ浜の波打際に跳ね上り、岩屋で野宿をしていた一人の武士がこれを発見、親井戸の漁夫たちに急報ついに捕獲して代金千五百円の収益をあげ、この収益を生かして、木造二階建の木本小学校を新築落成した。
 鯨を発見した浪士は、岡山の藩士で、その功を賞讃され、時の木本浦戸長から、脇浜の姓をいただき、ながく木本住民として暮した。
 指定 昭和五十四年四月一日
 熊野市教育委員会
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捕獲した鯨を売って、小学校の校舎が新築できたとは驚きです。

この供養塔から見下ろす脇ノ浜で、賑やかに鯨の解体が行われたものと思われます。

数日前、同じ紀伊半島の和歌山県田辺市で、浅瀬に迷い込んだ鯨のニュースがありました。

昔からたまにこんなことがあったのですね。

幸運にも鯨を発見した岡山の浪士が、岩屋で野宿していたいきさつも気になるところです。



鬼ヶ城の西入口の案内板にあった案内地図です。

「くまの特産品館」横の駐車場まで帰ろうと、「鯨魚供養塔」のある階段を上り、国道42号のトンネルまで行ってみましたが、歩道がなく危なくて通れそうにありませんでした。

しかたなく引き返していると、家族づれの方に出会い、「木本隧道」を通る道があると聞き、一緒させて頂きました。

案内地図には「木本隧道」付近から熊野古道「松本峠」へ行く道も見えます。



「木本隧道」の入り口です。

トンネルの入口には「鬼ヶ城歩道トンネル」と書かれてあり、ずいぶん古いトンネルのようです。

この「木本隧道」は、山の中腹にあり、標識を見ると普通車以下なら通行可能のようです。

トンネルの歩道は、照明もあり、ゆったりと歩けました。

「木本隧道」を出ると国道42号へ突当り、「鬼ヶ城」の入口へたどり着きました。



再び「鬼ヶ城」の入口付近にあったモニュメントで、鬼が口をあけている姿とのことです。

私にはとても鬼に見えませんでした。



国道42号から「鬼ヶ城」へ入った道端に石碑がありました。

自然石の石碑には「日本写真界の先駆者 田本研造之碑」と刻まれていました。

■隣の石板にも写真家田本研造氏の説明文がありました。
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田本研造翁小伝
翁は天保二年(1831)現熊野市神川町の山深き農家に生まる
二十二歳長崎に行き蘭医に仕えかたわらオランダ写真術に心寄すが志を得ず
二十八歳函館に渡るも病みて右脚切断の悲運に遇う
ときに執刀医たりし縁をもってロシア領事館医より写真術を習得す

明治四年(1871)北海道開拓使命により開拓記録写真撮影に専心すること十有余年その厖大なる作品は迫真の記録性に優れ■■写真師の声名これより大いに挙がる
風景と人物主流の写真史初期秀抜のドキュメントは高く評価され
下岡蓮杖 上野彦馬と並び■■■写真界の先駆者と称せらる
 大正元年(1912)八十一歳函館に没す
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こんな人がいたとは知りませんでした。

しかし、この石碑の前は、ほとんど歩く人がいないし、何気なく通り過ぎてしまうのではないかと思います。

熊野市神川町の「田本研造」の生家跡は、住所から地図を見ると七色ダムの少し南の山間部のようです。

片脚を失った田本研造が写真家として再起し、北海道の開拓の記録写真を多く残したことが高く評価され、函館市の図書館のサイトに田本研造の生前の写真と、「田本アルバム」の写真が公開されています。

↑こちらでゆっくりと写真をみせて頂きました。

又、明治維新の頃、五稜郭を占拠し、数か月間箱館政権を樹立した「榎本武揚」や、「土方歳三」(新撰組)の写真を撮ったことでも知られているようです。


鬼ヶ城の見物を終え、次はすぐ近くの海岸にある獅子岩です。

熊野市「七里御浜」で目撃した不思議な「鯉のぼり」の風景

2009年05月17日 | 近畿地方の旅
2009年5月2日、熊野市有馬町の「七里御浜」に面した国道脇で、珍しい光景を目撃しました。



通路の向こうに「七里御浜」が広がり、鯉のぼりが海の上を泳いでいました。

それを眺めている人もいます。



熊野市の生田神社から紀伊半島をめぐる国道42号線に突き当る交差点の光景です。

長い国道脇の防波堤から浜辺に出る通路から見えた鯉のぼりでした。

「七里御浜」にはたくさんの鯉のぼりが泳いでいましたが、この角度で一尾だけ見えていました。

川にたくさんの鯉のぼりはよく見ますが、長い浜辺にたくさんの鯉のぼりが泳いていたのは初めてです。

「花の窟神社」[はなのいわやじんじゃ]、「産田神社」[うぶたじんじゃ]の後に見た景色でしたが、鯉のぼりの話題が遅くなってしまうので繰り上げて掲載しました。


奇岩が続く海岸 熊野の「鬼ヶ城」 ③鬼の洗濯場~

2009年05月15日 | 近畿地方の旅
三重県熊野市から開始した旅行の最初の観光スポット「鬼ヶ城」の続きです。



前回の最後に紹介した「水谷」と思われる場所があった付近の景色です。

向かって左の階段の少し右側の洞窟辺りが、「水谷」と思われる場所です。



左の遊歩道の手すりの上に「鬼の洗濯場」と書かれた案内板があります。

「水谷」を過ぎ、上りの石段が大きく左に曲がる少し手前から上の方向を撮った写真です。

「鬼の洗濯場」らしき場所を探しましたが、良く分かりませんでしたが、後でこの上にあったことが分かりました。



西入口の環境省・三重県の案内板にあった「鬼の洗濯場」の写真です。

岩場の上から下を見た写真で、先に海が見え、その手前には遊歩道が見えます。

「鬼の洗濯場」は遊歩道のかなり上にあり、遊歩道から見えなかった訳です。

登る人もいない急な岩の斜面の上の「鬼の洗濯場」の案内表示は、観光客を惑わす効果しかないようです。

■案内板にあった「鬼の洗濯場」の説明文です。
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鬼の洗濯場
平らで大きな岩場になっており、昔、鬼がここで洗濯をしたと言われている。
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浅い洞窟の中にちょっとグロテスクな「波切不動」がありました。

岩の斜面に斜め下を向いた白い岩のようですが、どうみても「不動明王」の姿に見えませんでした。

■西入口の環境省・三重県の案内板にあった「波切不動」の説明文です。
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波切不動
石英粗面岩の岩盤から一種異質の岩が突き出しており、かっては不動尊の形をしていたことからこう呼ばれるようになった。
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写真に向かって右側の岩の下に穴がたくさん開き、まさに蜂の巣のようです。

自然の造形に驚くばかりです。

写真の左側に「波切不動」が見えています。

■西入口の環境省・三重県の案内板にあった「蜂の巣」の説明文です。
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蜂の巣
洞窟の天井は無数の窪みがあって、まるで蜂の巣のようである。
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「蜂の巣」を更に進むと西側に「七里御浜」の長い砂浜と、熊野の街が見えてきました。

「七里御浜」はここから熊野川の河口まで続く、丸い小石の多い長い海浜です。

熊野川から先には同じような「王子ヶ浜」が続いています。



荒波が押し寄せる「王子ヶ浜」で、黒くて丸い小石の浜が広がっています。

4年前の南紀旅行で撮ったもので、静かな瀬戸内海に慣れた者には、この波は感動的でした。



「王子ヶ浜」の波打ち際から後ろの防波堤に近い場所は、黒い砂浜でした。

長い堤防に沿って延々と「ハマゴウ」が繁殖していました。(これも4年前の写真です)



ちょうど「王子ヶ浜」には「ハマゴウ」の薄い青紫の花が満開でした。

4年前の7月中旬、、朝早くホテルを出発し、立ち寄って撮ったものです。

この熊野灘の変化に富んだ海岸は、忘れられない思い出になりました。

奇岩が続く海岸 熊野の「鬼ヶ城」 ②犬戻し~

2009年05月12日 | 近畿地方の旅
前回の三重県熊野市の「鬼ヶ城」の見物の続きです。



鬼ヶ城の案内図です。

「千畳敷」「奥の木戸」に続き、地図の赤い丸印「猿戻り」から「水谷」までの景色を紹介します。

もともとこの奇岩の海岸は、「鬼の岩屋」と呼ばれていたそうです。

案内地図の上中央に「鬼ヶ城城跡」が見えるように、この山の上に戦国時代の城があったようです。

1523年頃、この地の領主「有馬和泉守忠親」が、隠居城を築き、「鬼ヶ城」と名付けたそうです。

ちなみに織田信長が生まれたのが1534年で、その11年前の築城だったようです。

甥に家督を譲った忠親が、隠居後もなお、城を必要としたことは、一族間でも生死をかけて争った戦国時代の厳しさが考えられます。

又、忠親が、隠居城の名を「鬼ヶ城」とした理由にも興味がわいてきます。

その後、忠親に実子が生まれ、甥を死に追いやり、甥一族の攻撃により自害したと伝わる歴史を考えると、忠親自身に鬼のような人間を見ていたのかも知れません。



「猿戻り」と表示されていた場所から西の海岸線を見た景色です。

大きく縦に走る岩の裂け目を少し過ぎた辺りに「犬戻り」の表示もありました。

垂直に近い断崖と、大きく縦に走る岩の裂け目で、猿や、犬も進むことをあきらめるという意味でしょうか。

断崖・絶壁に造られた遊歩道の坂道を登り、かなり高くなった場所で、景色は抜群です。

猿・犬と聞けば、キジを加えた桃太郎のおとぎ話を連想します。

この絶壁でも、空を飛ぶキジでは「キジ戻り」は、ないでしょうね。

■西入口の環境省・三重県の案内板にあった「猿戻り」「犬戻り」の説明文です。
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「犬戻・猿戻」
長さ百数十m、高さ数十mの絶壁で、大きな岩の裂け目が見られ岩角に打ち寄せる波飛沫は壮観である。
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「犬戻り」の表示板がある辺りから東側を振り返った景色です。

後ろから小学生くらいの子供たちが賑やかに歩いていました。

一番向こうに「奥の木戸」が見えていますが、断崖の道は次第に高くなり、下の海は、かなり下に見えます。

遊歩道の柵で安心して歩けますが、絶壁の岩の裂け目に架けられた橋などを見ると、工事をした人に感心します。



断崖の下に見えた「鬼の風呂桶」と案内された岩です。

写真に向って中央からやや右にある岩の窪みが「鬼の風呂桶」のようです。

断崖の下の海は、少し風もあり、波しぶきがきれいです。



絶壁の上を見ると、所々でこんな岩が見えます。

4年前、南紀旅行で見た「虫喰岩[むしくいいわ]」を思い出します。



「神楽岩」の案内表示があり、この岩ではないかと思われます。

とにかく巨大な岩でした。

案内板にも説明がなく、なぜ「神楽岩」の名が岩に付くのか謎です。



大きな岩が二つ並び、手前が「神楽岩」、向こうが「木喰岩」と思われます。

「神楽岩」の手前の岩の上で水色の服を着て釣りをしている人がいます。

上段の「神楽岩」の写真のよりだいぶ西から撮ったので形が違うようにも見えます。

■西入口の環境省・三重県の案内板にあった「木喰岩」の説明文です。
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木喰岩
約300tの大岩が太平洋の怒涛に持ち上げられ、その岩の下に流木が食い込むところから名付けられた。
流木は大波が来るごとに入れ替わるという。
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上段の写真の向かって右端に「木喰岩」の下部分が見えますが、岩の下に隙間があり、流木が食い込むのではと思います。

(現地に具体的な案内がないので岩を勘違している可能性がありますが・・・)


「木喰岩」のすぐ西側にこんな岩がありました。

勝手に「鬼の飛び石」と名づけました。

飛び石を歩いて行った鬼が、向こうの海に二本のツノだけ出して沈んでいます。



「鰐岩」と思われる岩ですが、いち早く妻が見つけ教えてくれました。

1枚の写真に収まらなかったので、2枚の写真を強引に結合させてしまいました。

■西入口の環境省・三重県の案内板にあった「鰐岩」の説明文です。
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鰐岩
鬼ヶ城の中央に突き出た所の海にある巨岩で、まるで海を泳ぐワニの姿のようであることから、誰とはなくこう呼ぶようになった。
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「潮吹」とおぼしき辺りの写真です。

探して見ましたが、潮を吹いている所はありませんでした。

岩の名前だけが書かれた案内板を見て、まじめに探す自分がアホらしくなりました。

要は、海岸の景色を楽しめばいい話で、この案内板は場所当てクイズなのだと思えばいいのです。

■西入口の環境省・三重県の案内板にあった「潮吹」の説明文です。
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潮吹
岩の割れ目に挟まれた大石の下に、両側から波が押し寄せるとき、吠えるような音響を発して潮を吹くという。
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「飛渡り」は、写真の上部分に小さな橋が架けられている場所に表示板があり、橋が無かった頃の名だそうです。

「鬼の見張り場」は、この写真の手前辺りだったと思われます。

西入口の案内板(環境庁・三重県が設置)には「鬼の見晴らし場」と書かれてありました。

「見晴らし場」なんて言葉は、聞いたことがありませんが、国の名勝・天然記念物に指定されているだけに熊野市の案内板にある「鬼の見張り場」を支持する訳にもいきません。

もしかして、これは環境省の役人が考え出した「自然の景観」「場所当てクイズ」「名前当て2択クイズ」を複合した新たな観光政策かも知れません。

■西入口の環境省・三重県の案内板にあった「飛渡り・見晴らし場」の説明文です。
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飛渡り
岩の割れ目が深く入るところで、下から怒涛の音が聞こえ飛沫が上がってくる。橋のない時は、ここを飛んで渡ったことからこの名が付いた。

鬼の見晴らし場(鬼の見張り場)
昔、海の交通が盛んであった頃、七里御浜を一望におさめ見張り場に絶好の場所であったという。
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「水谷」の場所がよく分かりません、とりあえず案内板付近の水のある場所の写真を載せました。

「鬼ヶ城」の数ヶ所で、切り立った岩壁を伝って少量の水が流れ落ちる場所もありました。

写真上部の岩が黒くなっている様子は、釉薬[うわぐすり]が垂れた陶磁器のようにも見えます。

■西入口の環境省・三重県の案内板にあった「水谷」の説明文です。
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水谷
鬼ヶ城山頂から絶えず清水が流れ落ちており、昔、鬼が水を汲んだ所と言い伝えられている。
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奇岩の散策が、もう少し残っていますので、次回の掲載とします。

奇岩が続く海岸 熊野の「鬼ヶ城」 ①千畳敷

2009年05月10日 | 近畿地方の旅
三重旅行の最初の観光スポットは、変化に富んだ奇岩が延々と続く海岸「鬼ヶ城」です。

奈良県からの大半が、国道169号で、熊野市に入り国道309号、国道42号線を走り、海岸線に出ました。



熊野市の市街地のすぐ東側にある「鬼ヶ城トンネル」の東口の写真です。

国道42号から海岸側の「鬼ヶ城」へ分岐する道があり、金棒を持った赤鬼の人形が立っています。

ここから200~300mで「鬼ヶ城」の有料駐車場(500円)に着きます。



「鬼ヶ城」の広い駐車場から海岸に出る道の入口で、ここにも金棒を持つ鬼が立っています。

おとぎ話の桃太郎の絵本で見たような赤鬼・青鬼で、道を進んだ両側に土産物店が並んでいました。



土産物店を過ぎ、海が見える場所から下りの石段の道になります。

下を見ると木製の案内板と、黒い石碑が建っていました。

写真の左上部分に横から撮った石碑の写真を貼り付けていますが、二本のツノがあり、鬼の形に見えます。

又、熊野市は、碁石でも知られる「那智黒石」の産地で、この黒い記念碑の石材にも使われているものと思われます。

■案内板と、石碑の文を転記します。
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熊野の鬼ケ城(木製の案内板より)
昔から南紀州の奇景として名高い鬼ヶ城は、石英粗面岩からなり、岬の崖が一段の高さ2~4mkの数段かになる階段状をなし、数回にわたる急激な地盤の隆起のあとを残しています。
各段毎に海蝕洞窟があり、いずれの洞窟も入口の上段が鋭くとがり天井部には蜂の巣状の風食痕があり、床面は平らな棚となっています。

井上靖の詩 (黒い石碑より)
昔 熊野の鬼たちはここに集り棲んだ。
彼等は風に髪を飛ばし渦を啖い 夜はすもすがら岩を揺すぶる波濤の音の中に眠った。
月明の夜より雷鳴の夜を好んだ。
ニ本の角は稲妻の中で生き生きとした。
ー鬼ヶ城にてー
 井上 靖

この詩は井上靖氏が親友 竹本辰男氏に贈られた作品である。
平成二十一年二月
建立 熊野市・・・・
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「鬼ヶ城」にあった案内板の地図です。

向って右の「くまの特産品館」から左の神社まで名前が付けられた15ヵ所の奇岩が案内されています。

海岸の現場にも奇岩の名称プレートがありましたが、「どの岩か?」「なぜその名がつけられたか?」歩いて見ただけでは分からないものがありました。

■案内板の地図に添えられた案内文を転記します。
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鬼ヶ城伝説
鬼ケ城は、海風蝕と数回の大地震で隆起した凝灰岩の大岩壁。東口から西口の弁天神社まで約1kmの間に大小無数の洞窟が階段状に並んだ奇岩奇勝で知られる名勝である。その昔、桓武天皇(737~806)の頃、この地に隠れて、熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊多娥丸を、天皇の命を受けた坂上田村麻呂(751~811)が征伐した。その伝説に基づいて鬼の岩屋と呼ばれたが、後に鬼ケ城といわれるようになった。

鬼ヶ城めぐり
鬼ヶ城は洞窟や奇岩にユニークな呼び名がついている。広々とした千畳敷から奥の木戸、猿戻り、鬼の風呂桶、犬戻り、神楽岩、木喰岩、鰐岩、潮吹、飛渡り、鬼の見張場、水谷、鬼の洗濯場、波切不動、蜂の巣などと続いている。それぞれに特徴のある洞窟や、絶壁などが連なり、見飽きることのない名勝である。
風が強く、少し海が荒れた日の鬼ヶ城は、猛々しく激しい極めて男性的な表情を見せてくれる。
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この案内板は、千畳敷から奥の木戸を過ぎた辺りにありました。



海岸に沿った岩場の道を進むと岩に穴をあけた「千畳敷」の入口が見えて来ます。

案内板に「数回にわたる急激な地盤の隆起のあと・・・」とありましたが、大昔の海岸線は、右上の岩山の上辺りにあったのでしょうか?

なだらかな斜面と、浸食された部分を見ると、数回の地盤隆起の説明が、なんとなく分かったような気になります。



「千畳敷」の入口の裏側は、こんな岩の穴になっています。

以外に岩の厚みもあり、人工的に掘られたトンネルのようです。



「千畳敷」の中央付近から入口方向を見た様子です。

入口のトンネルをくぐると、岩の広場が開けていました。

上に突き出た岩山の先端は、地盤が隆起する以前の海水面で、そこから下の岩のダイナミックな変化が、地殻変動を物語っているようです。



「千畳敷」の中央付近から奥の方向を見た様子です。

奥行きの長さもかなりのものです。

■「鬼ヶ城」の西端にある案内板に「千畳敷」の説明があり、転記します。
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石英粗面岩が海蝕されてできた大洞窟で、前方に5段の段丘がある。
大地震ごとに隆起したもので高さ15m、広さ約1,500㎡あり、上段・下段に分かれている。
昔、多蛾丸の住みかであったと言われている。
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広さ1,500㎡は、約900畳で、「千畳敷」の名は、まんざら誇張でもないようです。

「多蛾丸」は、鬼(海賊とも言われている)の首魁の名で、平安時代の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂によって討伐された伝説があるようです。



上段の写真の左部分をズームで撮ったものです。

「千畳敷」の奥には一段高いステージのような場所があり、上がる階段が作られています。

ゆったりと下の海を眺める人が座っていますが、上の岩を見ると今にも落ちてきそうな感じがします。



上段の写真の上の岩部分をズームで撮った写真です。

今にも落下してきそうな岩の部分の様子です。

注意書きも見当たらないことから落下の危険性は低いのでしょうが、やっぱりこわい場面です。



「千畳敷」の下で釣りをする人がいました。

下の岩場にも平らな場所が出来ています。

足元の岩の表面は、穴だらけです。



ステージに上がり、一番奥の方に進んだ場所から西側を見た景色です。

V字形の岩の間を抜ける「奥の木戸」の石段が見えます。

天気が良く、弱い風も吹き、快適な海岸の散策でした。

次回は、この後の名称の付いた数々の岩場を紹介します。

熊野・伊勢・志摩旅行のスタート

2009年05月06日 | 近畿地方の旅
ゴールデンウィークの5/2から5/4まで2泊3日の「熊野・伊勢・志摩旅行」へ行ってきました。

数年前から伊勢参りのプランを考えていましたが、高速料金の値下げで、思い切って車で行くことにしました。



旅行1日目(5/2)のコースです。

早朝4時前に福山市の自宅を出発、三重県熊野市を観光して、伊勢市近くのホテルまで約530Kmの行程を走破しました。

心配した高速道路の渋滞もなく、順調なドライブでした。

西名阪道柏原ICから一般道に入り、奈良県吉野町からは国道168号線を南下するルートで、よく整備された道でした。

4年前の和歌山県南部の旅行では奈良県五条市から新宮市まで劣悪な国道168号線を走りましたが、格段の差です。



8時過ぎ、奈良県南部の川上村の国道169号線沿いに大きな「大迫ダム」が見え、立寄りました。

ダムの巨大さに驚きです。

この川は、和歌山市を河口とする「紀ノ川」の上流「吉野川」で、年間降水量が日本一の山「大台ヶ原」の水が流れ込むようです。



向って右の道路が南に進む国道169号線、左手に「大迫ダム」があります。

左折して堤防の上の道を進むと「入之波温泉」があるようです。



更に国道169号線を南下し、9時頃には熊野川の支流「北山川」にある「池原ダム」が見える場所に着きました。

ダムを少し通り過ぎ、下流からダムの堤防が見える場所です。

、「大迫ダム」より少し大きい感じの巨大な堤防で、通り過ぎた道から見えた貯水池も、とてつもなく大きなものでした。

この「北山川」にも「大台ヶ原」の水が流れ込んでいるようです。



「池原ダム」から約15分南へ走り、右手に美しい景色が見えて来ました。

「七色ダム」の貯水池のようで、この辺りから国道169号線は、三重県に入ります。

きれいな緑色の池と、山の新緑が感動的でした。



よく見ると小舟に乗って釣りをしている人がいました。

静かな川面で、のんびりと釣りを楽しんでいるようです。



上流方向を見ると、こちらでも小舟の釣り人がいました。

■すぐ近くに川に下りて行く道があり、入口に看板がありました。
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社有地につき許可なくダム湖への進入立入を固く禁ずる
電源開発(株)北山電力所
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釣りをしている人達は、電源開発(株)の人かもしれません。

この北山川は、少し下流から瀞峡[どろきょう]と呼ばれる美しい渓谷になります。

この七色ダムの貯水池の底にもかっては美しい渓谷が続いていたようです。

約30分後の午前10時に熊野市の町に着きましたが、休憩を含めて福山から6時間少々かかりました。