昔に出会う旅

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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

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南九州旅行No.5 高千穂峰を遥拝する「霧島東神社」

2012年05月27日 | 九州の旅
南九州旅行1日目、宮崎県高原町、霧島連山の東端「高千穂峰」を望む「狭野神社」の次は、直線距離で約2Km南にある「霧島東神社」への参拝です。



赤い鳥居鳥居の見える「霧島東神社」社務所前の風景です。

曲がりくねった暗い森の中の坂道を延々と走り、やっと着きました。

赤い鳥居は、左右の柱に小さな稚児柱が二本づつ付いた「両部鳥居[りょうぶとりい]」と呼ばれる形式で、厳島神社などで見られるものです。



「霧島東神社」近くの「御池[みいけ]」のそばにあった高原町の案内図の一部です。

標高約270mの「狭野神社」から、かつての噴火口「御池」の湖畔を通り、「霧島東神社」は標高約450mの場所にあります。

案内図の道を見ると、「霧島東神社」への道は、二子石を経由する高千穂峰登山道の一部でもあるようです。



「霧島東神社」の社務所です。

急な上り坂の山道を不安な気持ちで走り、やっとたどり着いた時、この建物を見てほっとしたのを思い出します。

案内板によると、主祭神は、伊邪那岐尊[いざなぎのみこと]、伊邪那美尊[いざなみのみこと]の夫婦神で、日本書紀に書かれている「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」と違う古事記の文字が引用されていました。

又、配祀は、主祭神に次ぐ天照大神、天忍穗耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合命、神日本磐余彦尊(日本書紀の表記)と、系譜に従った代々の神のりようです。

■社務所前に神社の案内板がありました。
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霧島東神社[きりしまひがしじんじゃ]
伊邪那岐尊[いざなぎのみこと]、伊邪那美尊[いざなみのみこと]を主祭神として祀り、第十代崇神天皇の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建されたと伝わる。
錫杖院を建立し、霧島六社権現のひとつとして霧島山で神意仏心を崇める修行を行う修験者たちの拠点となった。
当時は霧島山大権現東御在所之宮と呼ばれ、霧島修行の興隆に伴い自社ともに栄えた。
度重なる霧島山の噴火により復興造営を重ねており、現在の社殿は享保十二年(一七二二)の造営により、幾度かの改修を経て今に至る。殿内奥には雌雄一対の龍柱が祀られ、正面には寛文六年(一六六六)薩摩藩主島津光久公寄進の「東霧島座」(霧島の東に座す)の扁額が納められている。
例大祭 十一月八日・九日
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社務所の前には「御池[みいけ]」を見下ろす雄大な新緑の風景が開けていました。

直径約1Km、周囲約4Kmの「御池」は、縄文時代後期の約4200年前には噴火口だったようです。

キャンプ場のある「御池」の湖畔へ立寄りましたが、釣りを楽しむグループがのんびりと湖畔で過ごしていました。



赤い鳥居を過ぎると長い石段が続いています。

駐車場までの長い坂道の車道では、横切る石段の参道が見られ、昔の参拝はかなり厳しい参拝だったようです。



石段を登り、赤い山門から社殿に続く参道を見た風景です。

左手の建物は、「猿田彦神社」のようです。

山腹の広い境内にも見えますが、この直線の参道は、参道左側から右側へ下る山の斜面に造られていました。

社殿が建つ奥の場所は、やや広い平地ですが、参道と合わせて、地形を巧妙に利用したことがうかがわれます。



山門を過ぎ、「猿田彦神社」の前から振り返った風景です。

この場所から左下に石段の道が続いており、「猿田彦神社」の社殿内に安置された鏡を下の石段から仰ぐと何故か輝いているように見えていました。



参道から拝殿正面を見た風景です。

左右の小さな祠は、南九州の神社でよく見かけるもので、隋神門に代わるものでしょうか。



美しい「霧島東神社」拝殿の風景です。

よく清掃がされた拝殿で、気持ちよく参拝させて頂きました。



拝殿後方に続く、幣殿と、その奥の本殿です。

本殿の屋根には鰹木と、千木がそびえ、白い壁に赤い柱が映えて気持ちが新鮮になってくるようです。



本殿の左側にしめ縄が張られた遥拝所と思われる場所があり、その横に丸い棒状の石の塚がありました。

右下の写真は、社務所前の案内板にあった「天之逆鉾[あまのさかほこ]」で、写真左下の丸い棒状の石はそれを模したものと思われます。

案内板によると高千穂峰の山頂にある「天之逆鉾」は、「霧島東神社」の社宝としていることから視界の遮られた木立の先には「高千穂峰」がそびえているものと思われます。

■社務所前の案内板にあった「天之逆鉾」の説明文です。
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天之逆鉾[あまのさかほこ]
高千穂峰(一五七四m)の山頂にあり、霧島東神社の社宝として祀られている。
伊邪那岐尊、伊邪那美尊が高天原から鉾を差しおろし、かきまぜて作った国土に、逆さに突き立てたものと伝えられる。また、天孫降臨の際に瓊々杵尊[ににぎのみこと]が天照大御神から授かった鉾ともいう。実際に祀られた時期は明確ではないが、霧島山の修験者たちが神話にならって祀ったとされ、少なくとも江戸時代にはその存在は広く知られていた。霧島山に対する信仰の対象であるとともに戦前までは雨乞いの神ともされ、鉾の前で祭儀を行っていたという。
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参拝の帰り道、「御池」の河畔から西にそびえる「高千穂峰」を望んだ風景です。

晴れの14時、素晴らしいと思われるこの風景も残念ながら霞んでいました。

「霧島」の名は、このように霞むことから呼ばれるようになってしまったのでしょうか。
コメント

南九州旅行No.4 神武天皇を祀る「狭野神社」

2012年05月22日 | 九州の旅
南九州旅行1日目、熊本県人吉市の観光を終え、国道221号を都城市方面へ向かいました。

次のスポットは、霧島連山の東麓、宮崎県高原町の「狭野神社」です。

熊本県人吉市と、宮崎県都城市を結ぶ国道221号の県境付近には熊本県側に「人吉ループ橋」、宮崎県側に「えびのループ橋」があります。

想い出にと走ってみましたが、ループ橋の規模が大きく、らせん状のイメージを捕える写真は撮れませんでした。



直線の道が続く、「狭野神社」の表参道です。

長い参道の両側には、杉の大木がそびえ、神社の風格を感じさせられます。

「狭野神社」の名は、神話の「神武天皇」の幼名「狭野皇子」にちなんでおり、近くには降誕の伝承地「皇子原」があります。

大正時代から終戦まで、神武東征以前の宮だったとされる「宮崎神宮」(宮崎市)の別宮とされていた時期もあったようです。



「狭野神社」付近の地図です。

霧島連山の東にそびえる「高千穂峰」は、天孫降臨神話に結び付けられた山岳信仰の山で、かつてはその中腹に「霧島岑神社」が祀られていたようです。

963年、天台僧「性空上人」がこの地で修業し、「霧島岑神社」への参詣の便を考慮して山麓に5社を分社、「狭野神社」は、その1社とされています。

地図に赤い鳥居で示した分社は、霧島神宮(地図左下)・霧島東神社(地図狭野神社南)・東霧島神社(地図右下)・狭野神社(地図中央付近)ですが、霧島岑神社(狭野神社北)は、火山噴火のため山腹から分社の夷守神社のあった現在の場所へ移設され、夷守神社の名が無くなったようです。

分社5社の総称「霧島六社所権現」の名は、天孫三代の夫婦神6座を祀ることから名付けられたとされ、以下がその神様です。

・瓊々杵命[ににぎのみこと]・木花咲耶姫命[このはなさくやひめのみこと]
・彦火々出見命[ひこほほでみのみこと]・豊玉姫命[とよたまひめのみこと]
・鸕鷀草葺不合命[うがやふきあへずのみこと]・玉依姫命[たまよりひめのみこと]



西参道入口にあった境内案内図です。

中央付近に御社殿、その右(東)に社務所が建ち、表参道は、東から西に進んで行きます。

参道は、右の駐車場を突き抜け、更に東へ長く伸びているようです。



表参道を進んで行くと、赤い橋の下を小さな谷川が流れていました。

杉の木立から漏れた日差しが橋の上を照らし、爽やかな5月の参道でした。

下記の神社の案内では「狭野神社」の祭神は、「神日本磐余彦天皇[かむやまといはれひこのすめらみこと]」(神武天皇、御幼名 狭野尊)で、妃の「吾平津姫命」と、他六柱を配祀しているようです。

「他六柱」は、天孫三代の夫婦神6座と思われ、明治時代からの宗教政策で「霧島六社権現」から「神武天皇」を祀る神社への転換されたことがうかがわれれます。

■社殿前にあった神社の略記です。
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狭野神社(略記)
(旧 官幣大社宮崎神宮別宮、現 別表神社)
神祭神 神日本磐余彦天皇(第一代の天皇) (神武天皇、御幼名 狭野尊)
配 祀 吾平津姫命 他六柱
 当社は、孝昭天皇(人皇第五代)の御代、神武天皇の御降誕の地に社殿の創建があったのが当社の創祀という。その後、再三に亘る霧島山の噴火により社殿等炎上の災厄に遭ったが、慶長一五年(一六一〇)現在地に社殿を造営還座された。その他、藩主島津氏より社殿の改築、社領の寄進等が行われた。
 太古、天皇は日向の国(宮崎県)より大和の国(奈良県)に入り、辛酉の春(二月十一日)橿原の宮に即位された。我が国ではこの年を建国の時として紀元元年としている。そして天皇は、民生安定を目標とし、同胞一体、国土の開発経営に当られた。その治績徳望を称へて、始馭天下之天皇とも申し上げている。
 ここに日本国の基礎、政治の基本が定められた。日本人は神武天皇を建国の英主と仰ぎその聖徳を怠れない。また天皇は一二七歳迄長命であったと言われている。
 当社は、古来霧島六社権現(霧島神宮他)の一つとして、事始めの神(事業所安全)、厄除開運、交通安全、子供達の守り神、長寿の神として人々の篤い崇敬をあつめている。

●主な祭典行事
  例  祭 十月二十三日 当社最大の祭典
  祈 年 祭 二月 十八日 岡日苗代祭の特殊神事が斎行される
  その他 紀元祭二月十一日(奉祝行事)御田植祭五月十六日(棒踊り、奴踊りなどの奉納
  狭野夜神楽十二月第一土曜日(第二鳥居付近にて徹宵奉納される)
●史跡名勝
  皇 子 原
  当社より西約一キロメートル高千穂峰の麓で神武天皇御降誕の聖地と伝えられている
  狭 野 杉
  参道の巨杉は、今から四百年前植栽され現在十本残り国の天然記念物に指定されている
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「狭野神社」の神門付近の風景です。

薄暗い杉並木の参道から神門をくぐると、向こうには神を祀る明るい境内が開けています。

神門は、比較的簡素な白木造りで、伊勢神宮に似た雰囲気が感じられます。

明治時代以降の改築によるものでしょうか、神仏習合時代の「霧島六社権現」の特徴は消されたのかも知れません。



神門をくぐった前方にしめ縄が張られた大きな杉がそびえていました。

杉の周囲は柵で囲われており、神木としているのでしょうか。

右手の石段を進むと社殿の正面です。

■杉の大木の前に立てられた案内板です。
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狭野杉の由来
慶長四年薩摩藩主 島津義弘公、重臣 新納[にいろ]武蔵守忠元を遣はし当神社別当寺神徳院の住職 宥淳法印[ゆうじゅんほういん]と協力し植栽せるものと伝ふ。樹令正に四百年に垂[なんな]んとす。大正十三年 国の天然記念物に指定せらる。
樹高六十一、三m ・ 目通り六~七m ・ 根元九m
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狭野杉のそばに薩摩藩の重臣「新納忠元」の歌碑があり、その前に歌の解説が刻まれた石版もありました。

藩主の命で狭野杉の植栽に関わったとされる「新納忠元」は、戦国時代の島津藩の家臣の中では最も名を馳せた猛将で、歌にも優れた才能があったようです。

この歌は、85歳の忠元が亡き妻を偲び、春風に妻の消息を尋ねる歌のようです。

戦国時代に生まれ、藩主四代(忠良・貴久・義久・義弘)約70年間仕え、関ヶ原の戦いから10年、薩摩藩が琉球を武力制圧した翌年の歌でした。

忠元が他界したのは、この歌を詠んだ半年後の12月、戦いに明け暮れた激動の生涯に終止符を打ち、亡き妻のもとに行く日が近づいた忠元の心境が感じられます。

■歌碑に刻まれた「新納忠元」の歌です。
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「散りていに 花の行方は 風や知る 吹き伝えても 我に教えよ」
  新納武蔵守 忠元
  慶長15年春
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「狭野神社」の拝殿正面の風景です。

いつもながら家族・親族の健康と、旅の安全をお祈りしました。



参拝後、神門近くから社殿をやや斜めから見た風景です。

社殿は、拝殿の後方に幣殿、本殿と並び、一般的な構成ですが、境内に立った雰囲気は厳粛さを感じるきれいな神社でした。

右手の小さな建物に「祈願受付所」の看板がありました。

この一画には社務所がなく、西参道からの参拝者にも配慮した施設のようです。



境内案内図にもあった社殿東側に建つ社務所です。

不景気な時代、閑散とした境内を考えると、今では立派過ぎる建物に見えてしまいます。

地方の人口が減少し、神社の氏子や、寺院の檀家も減少する時代、各地の神社仏閣に活気が戻る日はあるのでしょうか。



大きな木の下に「別当寺跡」と書かれた案内板がたっていました。

社殿前の「狭野杉の由来」の案内板にあった「別当寺神徳院」はこの場所に建っていたようです。

霧島連山の噴火による破壊だったのか、明治時代の神仏分離、廃仏毀釈によるものかは分かりませんが、ここでは神仏習合の霧島六社権現信仰は廃れてしまったようです。

参道にそびえる狭野杉を見上げ、耳を澄ますと、杉の植栽に尽力した別当寺神徳院の住職のため息が聞こえてくるかも知れません。
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南九州旅行No.3 人吉市「大村横穴群」と、古墳時代の絵

2012年05月18日 | 九州の旅
南九州旅行1日目、熊本県人吉市駅前の「からくり時計」の次は、人吉駅裏の「大村横穴群」の見学です。

「横穴墓」は、古墳時代後期の支配者層の墓の一種で、山の斜面に横穴を掘り、羨道・玄室などを備えた墳丘のない墓の形態です。

又、「横穴墓」は、5世紀末の九州を起源とする説が有力で、7世紀にかけて九州地方から東北地方南部に至るほぼ全国に広がったようです。

3世紀中頃から6世紀まで造営された「前方後円墳」の終焉時期に盛んになった「横穴墓」は、古墳時代約400年間の最後を飾る全国的な墓の形態だったようです。

「横穴墓」と同じ古墳時代後期の宮崎県では「地下式横穴墓」と呼ばれる珍しい形態の古墳があり、今回の宮崎旅行の楽しみの一つでした。



前回も紹介しましたが、からくり時計が仕込まれた小さなお城があるJR人吉駅前の風景です。

写真左側の建物JR人吉駅の裏、後方の山に岩の斜面が見え、「大村横穴群」は、その一帯に広がっています。

JR人吉駅と、右手の「汽車弁当」の看板のある建物の間に「くま川鉄道」の駅舎があり、そこから駅裏に抜ける跨線橋がありましたが、知らなかったので東側の踏切の道を通って行きました。



跨線橋から眺めた「大村横穴群」の壮観な風景です。

岩の斜面の下部に横穴が並び、その下の芝生の斜面に遺跡への立入を制限する柵と、見学場所があります。

安全面を考慮した結果とは思いますが、見学場所から岩に描かれた細かい装飾を見るには少し見えずらいものでした。

時代は大きく違いますが、岩の斜面に造られた墓と言えば、沖縄の首里城に隣接した「玉陵[たまうどぅん]」や、「浦添ようどれ」を思い出します。

弥生時代から沖縄の貝を装飾品とする交流もあり、関連はなかったのでしょうか。



見学対象の遺跡の東隣にある岩場です。

横穴墓があるようですが、岩のくぼみに石仏が置かれていることや、すぐそばまで立ち入ることが出来るようで、保護された遺跡の範囲ではないようです。

道路脇には約3台の駐車スペースもあります。



遺跡の見学場所にあった案内板です。

横穴墓の第6号ab墓から第12号墓までの写真と、岩に掘られた装飾などの説明がありました。

■案内板にあった遺跡の概要説明です。
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 大村横穴群は、球磨川の北にある村山台地の南側崖面にある。崖面の約800mの間に東西2群に分かれて27墓の横穴がある。これらの「横穴」は、6世紀から7世紀の古墳時代後期に造られた「墓」であり、この中の8基の横穴の外面には動物、武器、武具、幾何学文様(円支三角文等)の装飾がある。大村横穴群は早くから学界に注目された遺跡で、大正5年(1916)には京都帝国大学(現在の京都大学)考古学研究室の浜田耕作氏らにより調査が行われた。その後、学術価値から大正10年(1921)3月3日に国指定史跡となっている。
 横穴の構造は、羨門[せんもん]、羨道[せんどう]、亡くなった人を寝かせる玄室からなり、これらの構造は古墳時代の高塚古墳(前方後円墳、円墳等)の横穴式石室と共するものである。
 装飾を持つ古墳を一般に装飾古墳と呼び、全国に約600墓の古墳が知られているが、熊本県内にはそのうち3割の187墓の装飾古墳がある。なぜ装飾がなされたかはさまざまであるが、亡くなった人の権力を示すためや墓を悪霊から守るためなどと考えられる。
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案内板に「横穴の構造」と題する説明図がありました。

前方後円墳などに造られた横穴と同様の構造があるようで、単純な洞穴と違い、埋葬の文化が感じられます。

横穴墓は、横穴の構造や、副葬品も多様だそうで、埋葬するそれぞれの人に寄せた想いの違いが現れたのかも知れません。

■説明図にある各番号の説明文です。
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1.羨門・・・玄室への入口
2.羨道・・・横穴の外部から玄室に通じる道
3.玄室・・・横穴の主体となる亡くなった人を安置する部屋
4.屍床・・・亡くなった人を安置する区画
5.仕切・・・玄室内を区切る境の突帯
6.通路・・・玄室の中央を貫く道
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見学場所から右(東)に見える横穴群です。

案内板には右から番号が付けられていましたが、右の大きな穴の番号は書かれていませんでした。

中央付近の縦長の横穴は、第6号a墓、左端の岩でふさがれた横穴が第6号b墓としています。

右の横穴は特別に大きく、後世に別の目的で改造されたのでしょうか。

土の斜面に掘られた横穴墓の遺跡が次第に崩れて消滅する中、岩に掘られた横穴墓は、永く後世に残せる貴重な遺跡です。



見学場所から中央付近に見える横穴群で、上段の写真の左に続く場所です。

右の横穴は、第7号墓、中央が第8号墓、左のやや大きな横穴が第9号墓とされています。

右の第7号墓の穴の周囲の岩肌には装飾があり、後述します。



見学場所から左(西)側に見える横穴群で、右の横穴が第10号墓、中央が第11号墓、左のやや大きい塞がれた横穴が第12号墓とされています。

見学場所から見える遺跡は、上段の2枚の写真と合わせた100mに満たない範囲ですが、案内板の説明文「崖面の約800mの間に東西2群に分かれて27墓の横穴がある」とされる範囲から見ると一部だったようです。

中央の第11号墓の穴の周囲にも装飾があり、後述します。




第7号横穴墓の拡大写真(上)と、案内板にあった装飾図(下)です。

馬が描かれており、生前にはこの辺りを馬で駆け回っていたのかも知れません。

上の馬3頭と、馬鐸3個が対になると考えると雄馬で、下の馬2頭は母子の馬でしょうか。

右の弓の絵の下部が欠落し、左側の下部にも絵がありませんが、破損してしまったのでしょうか。

■案内板の装飾図の補足説明文です。
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靭  矢を入れて持ち歩くための容器。矢簡のこと。大村横穴群の較は背に負うものと考えられる。
矢  弓の弦につがえて射る武器。矢竹・ヤナギなどで作った矢柄の先に跡(やさき・やじり)をつけている。
刀子 日常の食事や雑用に用いられた小刀のこと。
鞆  弓を引く人の左手首にむすびつけ矢を放つさいの弦の衝撃を防ぐために半月形の袋状に作った革製品で、内部に獣毛をつめてある。
馬鐸  馬の胸につけた装飾品の一種。扁円筒形で上部に半環状の紐があり、内部に吉をさげて菖をだす青銅製の小鐸のこと。
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第11号横穴墓の拡大写真(上)と、案内板にあった装飾図(下)です。

こちらは弓矢が三つも描かれてあり、複数の人を埋葬していたのでしょうか。

一般的に、古墳には死後、黄泉[よみ]の世界での生活に配慮してか、様々な品物が副葬されています。

岩に刻まれたこれらの絵は、副葬品を簡略化したとも考えられますが、奈良で発掘された豪華な玄室の絵から類推すると、黄泉[よみ]の世界では絵に描かれたものが霊的に大きな力を持つと考えられたのかもしれません。

1,500年もの昔の絵に想像をかきたてられます。
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南九州旅行No.2 心がなごむ「人吉駅前 からくり時計」

2012年05月16日 | 九州の旅
南九州旅行1日目、熊本県人吉市「青井阿蘇神社」の次は、すぐ近くの人吉駅前広場の「からくり時計」見物です。



人吉駅前の風景です。

駅前に三階建ての小さなお城が作られ、「からくり時計」が仕込まれていました。

作動時刻が1時間毎ということで、見計らって来ましたが、連休明けのためか見物人はあまりいませんでした。



小さなお城の前の案内板にあった「からくり時計」の説明図です。

下の説明文の「あらすじ」に対応させてご覧ください。

からくりが始まると1階の四方の窓は、常に解放されていますが、二・三階は各二面の窓から殿様の人形が物語の順に登場します。

■案内板にあった「からくり時計」の説明文です。
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からくり時計
【あらすじ】
 お祭りの日、相良の殿様、城下へ-。
 刻の太鼓の音とともに、からくり時計が作動し、城の一階
 部分から臼太鼓踊り手達が登場。臼太鼓の音に誘われて、
 殿様は庄屋どんに扮して城下見物に行くことに。
 人吉温泉で一汗流し、ごきげんでお城に帰った殿様は、今日
 一日のできごとを想い「天晴れ」と城下を望むのでした・・・。
【作動時刻】
 ◆3月~10月 9時から18時まで(毎時間)
 ◆11月~2月 9時から17時まで(毎時間)
 それぞれ一回の作動時間は3分10秒です。
 なお、上記時刻は平常時の作動時刻ですので、変更される場合があります。
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太鼓の音が始まると、一階の窓が開き、兜と、太鼓を身に着けた人形が輪になってまわり始めます。

説明文にある「臼太鼓」は、当地に古来から伝わるもので、太鼓を打ちながら舞う勇壮な踊りだそうです。

「臼太鼓」のスタイルは、どこか東北に伝わる鹿踊りに似ているように思います。



「庄屋どん」に扮した「相良の殿様」が天守閣から城下を眺めている場面です。

のどかで、楽しそうな音楽と共に現れた殿様は、城下見物にワクワクしているようです。

持っている風呂敷包みの中身は何なのでしょうか?



二階の窓に現れた裸の殿様で、「人吉温泉」で二人の女性に背中を流してもらっている場面のようです。

反対側の窓では女性からお酌をされてお酒を飲む殿様が登場していたようですが、気付かず見逃してしまいました。

お酒は、やはり「球磨焼酎」だったのでしょうか?



殿様が、天守閣三階に登場した最後の場面です。

うまい酒と、温泉に満足した殿様がお城に戻り、「あっぱれじゃ!」とでも言っているのでしょうか。



最後の「相良の殿様」をズームで撮った写真ですが、お気の毒に右手に持つ扇子がこわれているようです。

1日10回、1時間毎に登場するハードスケジュールの中で、こわれた扇子を楽しそうに振っている殿様に元気をもらいました。
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南九州旅行No.1 茅葺屋根の社殿「国宝 青井阿蘇神社」

2012年05月14日 | 九州の旅
2012年5月7日(月)から11日まで南九州旅行へ行ってきました。

「南九州旅行」とは言え、熊本県南部の人吉市や、鹿児島県東部の志布志市などが含まれますが、大半は宮崎県でした。

広島県福山市から高速道路をひた走り、熊本県南部の人吉市「青井阿蘇神社」が最初のスポットです。

その後、都城市~志布志市~日南市~宮崎市~西都原市~日向市~大分市と廻る5泊6日の行程でした。



「青井阿蘇神社」社殿の前に広がる蓮池の水面に三連の石橋「禊橋[みそぎばし]」が映る風景です。

神社の駐車場に車を止め、朝のさわやかな空気の中、楼門へ向かって歩いて行く時、赤い欄干の「禊橋[みそぎばし]」が見えてきました。

高速道路を半額の深夜料金で走ろうと、自宅を深夜に出発、約7時間走行して9:20頃から参拝です。



「禊橋」から楼門を見た風景です。

赤い鳥居の奥に見える茅葺きの堂々たる楼門に力強い風格を感じます。

この場面で、妻と記念写真を撮り、参拝へ向かいました。



大きな茅葺屋根がそびえる「青井阿蘇神社」の楼門です。

写真左上の白い顔の彫刻は、「青井阿蘇神社」のwebサイトにも紹介されていた屋根の四隅下に二つづつある神面の一部です。

神社などの狛犬や、寺院の仁王像などに見られる阿吽(ア・ウン)の表情を神面の彫刻で表現した「人吉様式」と呼ばれる独特のものだそうです。

■楼門の左手にあった案内板です。
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青井阿蘇神社由緒
鎮座地 熊本県人吉市上青井町
御祭神 建磐竜命 阿蘇都比売神 国造速瓶玉神
当神社は 第五十一代平城天皇の大同元年 肥後国阿蘇郡鎮座阿蘇神社の御分霊を阿蘇の神主尾方惟基比所に勧進すと、後鳥羽天皇建久九年相良氏当郡に封ぜられ 其の後 慶長二年二百五十余社の宗社と定め 神領二百十六石を供莫?し 大宮司をして統括せしむ 祭礼最も荘厳を極め 神社を中心として領内に祭政一致の範を示し 子孫累代其の遺風を守り 明治初年に及ぶ 爾来当地方の一の宮として郷民深く尊崇す。
本殿 渡殿 幣殿 拝殿 楼門は 国の重要文化財にして慶長五年藩主相良長毎 之を奉納す、豪華絢爛たる桃山様式の代表的建造物で 楼門の神額は天台座主二品堯恕法親王の親筆である。
明治五年郷社に列格 昭和十一年県社に昇格 昭和三十四年神社本庁の別表神社に加列せられる。
例祭 自十月三日至九日 祈年祭 二月十七日
新嘗祭 十一月二十三日 夏越祭 旧六月晦日
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■楼門正面右手の案内板です。
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国宝 青井阿蘇神社  熊本県人吉市上青井町
 平安時代の大同元年(806)に阿蘇神社の分霊を勧進して創建されました。鎌倉時代初期に相良氏が遠江(静岡県)から当地へ入国してからは氏神としての崇敬を受け、地域色を強めてきました。現在の社殿群(本殿・廊・幣殿・拝殿・楼門)は慶長15年(1610)から同18年にかけて人吉の相良家20代長毎[ながつね]の命により造営されたものです。
 社殿の特徴は、楼門に代表される急勾配の茅葺屋根や軒から下を黒漆を併用する技法など人吉球磨地方の独自性の強い意匠を継承する一方で、彩色や錺[かざり]金具などは桃山期の華麗な装飾性を取り入れており、その後の当地方社寺造営の規範となっています。また、廊の龍に見られる秀麗な彫刻や特異な幣拝殿形式は、広く南九州地方にその影響を与えたとされています。
 平成20年6月9日、県内に現存する文化財としては初の国宝に指定されました。
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楼門の右手に安置された弓を抱えた看督長[かどおさ]と、木製の狛犬です。

楼門に看督長と、狛犬が並んでいるのも珍しい光景で、両方とも口を開く阿形[あぎょう]はちょっとほほえましい感じでした。

左手の看督長と、狛犬は口を閉じ吽形[うんぎょう]でしたが、これら珍しい慶長年間の随身彫刻を興味深く拝見させて頂きました。



楼門をくぐり、正面に見えた拝殿です。

振り返って見る高い楼門と比べると少し平凡さを感じますが、正面の軒に付けられた唐破風が桃山時代の雰囲気を漂わせているようです。

案内板にあった青井阿蘇神社の祭神「建磐竜(龍)命」は、神武天皇の孫で、「阿蘇都比売神」は妻、「国造速瓶玉神」は二人の子供とされています。

「建磐竜(龍)命」の父は、神武天皇の皇子「神八井耳命[かむやいみみのみこと]」で、異母兄との皇位継承争いでおじけづき、勇敢に戦った弟(綏靖天皇)に皇位を譲った神話が伝わっています。



拝礼の後、拝殿の奥を見ると木製の狛犬が見え、ズームで撮ったものです。

これも珍しい姿の狛犬です。



拝殿前の風景です。

色鮮やかな郷土玩具「きじ馬」が並んでいました。(写真左上は、「きじ馬」を前から見たものです)

右の小さな「きじ馬」は、車輪があり、引っ張って遊ぶタイプのようで、中央や、左の「きじ馬」は、背に乗って前後に揺らして遊ぶタイプのようです。

カラフルで、車の付いた玩具ということで、2006年の鹿児島旅行の時、鹿児島神宮、隼人歴史民俗資料館で見た鯛車を思い出しました。



拝殿の左手に並ぶ二つの鳥居は、境内社「青井稲荷神社」、「宮地嶽神社」のものです。

二つの社殿の間に「むすび回廊」と名付けられた屋根のある回廊を奥に進むと代々の宮司を務めていた青井家の住居が「文化苑」と名付けられ公開されていました。(見学していません)



社殿を横から見た風景です。

左手から茅葺きの「拝殿」「幣殿」、その右手に銅版葺きの「廊」「本殿」と並ぶ珍しい構成です。



破風の装飾「青井阿蘇神社」の本殿です。

屋根の上に鰹木が並び、外削の千木もそびえています。

柱の上の豪快な木組みも印象的です。



本殿の右手にクスの神木がありました。

根回 12.2m、樹高 21.5mとあり、美しい姿です。

左の枝の上に注連縄が張られ、その上に青い龍が乗せられていました。(写真左上は拡大写真)

神社由緒の案内板にあった御祭神の「建磐竜(龍)命[タケイワタツノミコト]」の「タツ」と、かつて宮司を世襲した「青井家」の「アオ」にちなむものでしょうか。

境内に平成24年壬辰[みずのえたつ]にちなむ「龍」の装飾を紹介する案内板があり、本殿、廊、楼門に彩色された「龍」の装飾が説明されていました。

しかし、漢字が伝わっていない紀元前の弥生時代の名前「タケイワタツノミコト[建磐竜(龍)命]」に「タツ」とあっても「龍」に結びつくとは限らず、後世の関連付けにも思えます。



神社が創建された大同元年(806)から50年ごとに行われる神事「大寶御注連祭」[たいほうおんしめさい]の写真です。

クスの神木の近くに「大寶御注連祭」[たいほうおんしめさい]の大きな案内板があり、掲示された6枚の写真の一つです。

神楽で見られる場面にも似ているようですが、興味深い神事です。

この神事は、実に1200年もの間続けられており、国宝となった社殿も太平洋戦争の空襲や、火災、自然災害などを乗り越えて380年以上続いていることは実に驚くべきことです。

鎌倉幕府成立後、この地の地頭となった相良氏が戦国時代や、関ヶ原の戦いを生き延び、奇跡的にも明治まで続いていたことも大きな要因となったものと思われ、人吉の地に不思議な魅力を感じます。

■案内板の説明文です。
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大寶御注連祭
 大寶御注連祭は、平安時代初期の大同元年(806)ご鎮座以来、青井阿蘇神社で50年ごとに営まれてきた特別な祭礼で、平成18年の1200年祭で24回目を数えた。
明治39年に斎行された1100年祭の文献に、『境内に長い竹を立て、頂上部に日・月・星をあらわす3本の御幣を取り付け、その下に円形に藁で編んだ縄を巻きつける。この縄に森羅万象をあらわす青・黄・赤・白・黒の五色の御幣をレつらえ、麻苧や賽銭を取り付け、その下から八方にしめ縄を張り巡らせ酒樽を吊り下げる。祭壇には金幣3本を安置し、その前にお供え物として白餅2枚、赤餅2枚、くつ形餅4枚と米12俵、塩12俵をそなえ、祭壇の前では球磨神楽を舞った』と記されていたことから、これを忠実に再現し10月8日の夕闇せまるころ、青井大明神をはじめ八百万神々を迎え、満月と満天の星空のもとおよそ5時間にわたり現存する球磨神楽17番の舞すべてを奉納した。
 これまで50年に1度ずつこの特別な祭礼が営まれてきたということは、この土地を拓き生活のいしずえを築いた祖先たちの神祭りの方法と感謝の真のあらわし方を何時いつまでも忘れないように、そして世の中の平和と更なる発展を願ってのことだろう。
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油絵「赤い牡丹」

2012年05月04日 | 妻の油絵

妻の油絵「赤い牡丹」です。

妻は、この絵の出来栄えに少し不満足だったようですが、濃い赤色の牡丹の絵に新鮮さを感じ掲載しました。


過去の牡丹の絵は、いわゆる「ぼたん色」(濃いピンク)の花で、濃い赤色の牡丹にはどこか落ち着いた美しさを感じます。

牡丹と言えば、数年前のゴールデンウィーク、島根県の中海に浮かぶ大根島で見た色とりどりの牡丹の花をなつかしく思い出します。

最近、牡丹に限らず世界的な品種が集められた花園が多く出来てきました。

たしかに多くの品種が揃った花園や、広い花園には驚きと感動がありますが、日常生活の中で一枝の花を見つめ、しみじみと感じる美しさも大切にしたいものです。
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