昔に出会う旅

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ドイツ・スイス旅行 8 ハイデルベルク城(2)

2013年08月31日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目夕方、ハイデルベルク城の見学の続きです。


ハイデルベルク城の内郭へ続く「橋楼」です。

後方には城門塔がそびえ、「橋楼」の前後には堀に架かる石橋が連続し、これらの橋は、かつては跳ね橋だったのでしょうか。

「橋楼」「城門塔」と連続する施設は初めて見るもので、一見すると、二重の門で防御を固めていたようにも思われますが、この「橋楼」の二階の窓を見るかぎり、敵の攻撃に備えた建物には見えず、通常の門番の業務のための施設のようにも思われます。



ハイデルベルク城の見取り図です。

「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)から転載させて頂いたもので、前回紹介した西側の城壁や、「ロンデル」(砲台跡)は除外されているようです。

中庭に面した建物の大半は、比較的新しい16世紀の居住用建物で、外周の城郭を構成する円塔や、多角形塔の建物は、14~15世紀の古いものだそうです。

門を入り、左の「ルプレヒト館」から時計回りで、正面の「フリードリヒ館」、右手前方の「オットー・ハインリヒ館」「ルートヴィヒ館」と見ていきます。



「橋楼」を過ぎると石橋の向こうに「城門塔」がそびえています。

短いトンネルのような入口を進むと「内郭」です。

入口の上には槍と、剣を持つ兵士像と、剣を持って二本足で立つライオン像が下を通る人々を見下ろしています。

冒頭の写真にも見えますが、「城門塔」の屋根の上には小さな塔があり、この塔は南西方向から迫る敵を高い場所から監視する目的で造られたものと思われます。



「城門塔」の前の石橋の左手から見下ろした風景です。

外郭と、内郭の間を深い堀で隔て、防御を固めていたようです。



「城門塔」を抜けると内郭の中庭の風景が開けてきました。

ハイデルベルク城の見取り図にもあるように中庭の周囲には、八棟の建物がありますが、1225年、プファルツ選帝侯ルートヴィヒ1世が居城として以来、14世紀から17世紀にかけて増改築が繰り返されたそうです。



中庭を進み、「城門塔」の方向へ振り返った風景です。

ハイデルベルク城の見取り図にあるように、右手の建物が城内最古の建物とされる「ルプレヒト館」です。

ルブレヒト3世(1352~1410年、プファルツ選帝侯在位1398年~1410年)による建物ですが、ファサードの壁に見られる鷲の紋章(写真右上)は、1400年にルブレヒト3世が神聖ローマ帝国皇帝(ローマ・ドイツ王)に選ばれたことに由来するものだそうです。

又、下の説明文にある双子の天使のレリーフ(写真右上)は、建物入り口の上部分に見られ、双子の息子を亡くした建築者の想いが込められているようです。

外壁の四階部分や、建物内部は、無残にも破壊されていますが、残された外壁から比較的簡素だった当時の姿がうかがえます。

■「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)より
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ルブレヒト館
左手の最初の城館は「ルブレヒト館」で一番古く、1400年ごろに建てられた。建てさせたプファルツ選帝侯ルブレヒト3世にちなんでルブレヒト館と呼ばれている。ルブレヒト3世は後にローマ・ドイツ王ルブレヒト1世となった。
建物入り口上のレリーフには伝説がある。建物を建築中に建築者の双子の息子が足場から落ちて死んだ。建築家は悲しみ、この双子のレリーフを造って天使に見立てたという。
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中庭を囲む建物では最も高い「フリードリヒ館」で、五階層の建物(屋根裏含む)で、1607年の建築とされています。

ギリシア・ローマ時代の文化の復興を目指したルネッサンスがドイツで始まった時期の代表的な建物とされ、ファサード(建物正面)に飾られた多くの石像や、装飾などにその特徴を感じます。

■「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)より
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フリードリヒ館
正面の建物は「フリードリヒ館」と呼ばれ、1601年から1607年にかけて、選帝侯フリードリヒ4世によって建てられた。
この建物のファサード(正面)には、ドイツの歴史、殊にこの城に縁のある人物の石像が飾られている。
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「フリードリヒ館」のファサード上部に飾られた石像の写真を集めたものです。

上段の2体と、二段目中央の像は、古代神話の神の像と思われ、その他の像は、上の説明文にあるように、この城に縁のある人達でしょうか。

屋根の上に建つ上段の2体の像の判別が出来ませんが、二段目中央の剣と、天秤を持つ像は、正義の女神「テミス」の像(ローマ神話のユースティティア)」のようです。

右手の剣は「力」を、左手の天秤は「正しく判断する正義」を表しているとされ、法曹界でよく使われるこの像には「予断を持たず裁きを行う」の意味で、目隠しがされているものが多いようです。

上段に古代神話の神を配置していることから最上段の二神は、最高神「ゼウス(ローマ神話ではユーピテル又はジュピター)と、その妻ヘーラー(ローマ神話ではユノ)とも考えられます。

しかし、二段目の女神「テミス」は、「ゼウス」の二番目の妻とされており、これでは三角関係の配置になり、「私達を天秤にかけているの!」とゼウスに迫っている場面になってしまいそうです。



「フリードリヒ館」のファサード下部に飾られた石像の写真を集めたものです。

二段目の像の上には像の名称を刻んだと思われるプレートが見られ、両端の像には「FRIDERICVS[フリードリヒ]」の名が見られ、いずれかがこの建物を建てたプファルツ選帝侯「フリードリヒ4世」と思われます。

右から2番目の像は、幼少で選帝侯位を継いだ「フリードリヒ4世」の叔父で、摂政の「ヨハン・カジミール」と思われ、ハイデルベルク城の地下にあるワインの大樽を最初に作ったことでも知られているようです。



「フリードリヒ館」の右手の風景です。

右手の建物は、「オットー・ハインリヒ館」で、左手の建物は、「ザール・バウ(集会室)」、間の背後にそびえる八角形の塔は「鐘楼」です。

左手の「ザール・バウ(1549年築)」は、ドイツ・ルネサンスが始まった頃の建築で、アーケードなど部分的にその最も早い例が見られ、建築の専門家の間でよく知られているそうです。

背後の八角塔の鐘楼は、14世紀に建てられた前時代のゴシック様式だそうで、17世紀に建てられた最も新しい「フリードリヒ館」とは300年近い差があるようです。

参考文献:「ドイツ・北欧・東欧の古城」 (太田静六 著 吉川弘文館)




「オットー・ハインリヒ館」の正面(上段)と、中央玄関辺り(下段)の風景です。

「フリードリヒ館」と同じようにファサードには多くの石像が見られ、ルネサンス建築の特徴が感じられます。

1563年築に建てられた「オットー・ハインリヒ館」は、ドイツに導入されたルネサンス建築の最初期の好例として著名だそうで、「フリードリヒ館」「ザール・バウ(集会室)」「オットー・ハインリヒ館」とルネサンス建築が並ぶハイデルベルク城は、ドイツ・ルネサンスの初期的宮殿遺構としての価値が高いそうです。

ルネサンス建築の初期と、その後の特徴の推移などに興味が湧いてきました。

■「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)より
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オットー・ハインリヒ館
右手の美しいファサードの建物は「オットー・ハインリヒ館」である。プファルツ選帝侯オットー・ハインリヒによって建てられた。彼は、1556年にプファルツ選帝侯となっている。
現在、オットー・ハインリヒ館の地階は、薬事博物館として利用されている。
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「オットー・ハインリヒ館」の右手に建つ「ルートヴィヒ舘(1524年築)」です。

ルネサンス影響が部分的に表れた「ザール・バウ(1549年築)」より四半世紀前の建物ですが、最初に紹介した1世紀前の「ルプレヒト館(1400年築)」の印象に近いようで、ルネサンスによる短期間の変化の大きさを痛感させられます。

■「ドイツ世界遺産と歴史の旅 プロの添乗員と行く」(武村陽子著、彩図社出版)より
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ルートヴィヒ舘
オットー・ハインリヒ館に隣接する建物は、「ルートヴィヒ館」と呼ばれる。1524年にプファル
ッ選帝侯ルートヴィヒ5世によって建てられた。
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ハイデルベルク城の見学は、まだ続きます。

ドイツ・スイス旅行 7 ネッカー川を見下ろすハイデルベルク城(1)

2013年08月16日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目夕方、フランクフルトの南、ペンスハイム」のワイナリーからさらに南下し、ライン川の支流ネッカー川河畔に広がるハイデルベルクの町に到着しました。

ハイデルベルクは、中世に栄えた町で、「ドイツ・北欧・東欧の古城」(太田静六著 吉川弘文館)に歴史的な説明文がありました。

■「ドイツ・北欧・東欧の古城」より
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ハイデルベルクの名が最初に現れるのは1196年頃で、この頃はヴォルムス司教領の一小村に過ぎなかった。
この小村が名を出すようになったのは、プファルツ公国の領主・プファルツ伯オットーが13世紀前半に居城してからである。プファルツ伯は神聖ローマ帝国皇帝を選出する特権を持つ選帝侯という有力者なので、プファルツ伯が居城地とした結果、ハイデルベルクは急激に発展した。しかも、プファルツ伯は以後、18世紀までの約500年の長期にわたって居城地としたので、一段と栄えるようになった。
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ネッカー川に架かる橋「アルテ・プリユッケ」から左岸を見たハイデルベルクの街の風景で、街の上の高台に「ハイデルベルク城」がそびえています。

神聖ローマ帝国時代(962~1806年)のプファルツ選帝侯の居城「ハイデルベルク城」は、三十年戦争(1618~1648年)、プファルツ継承戦争(1688~1697年)と、二度の戦争で徹底的に破壊されたため、居城はマンハイムへ移され、現在は廃城として保存されているようです。



ドイツの地図にハイデルベルク周辺の地図を拡大して加えたものです。

ハイデルベルクは、マンハイムからチェコのプラハまで東西千キロに続く「古城街道」のハイライトとも言える町で、マンハイムでライン川に合流するネッカー川の河畔には多くの古城が見られるようです。



「スイス・オーストリア ロマンティック街道の本」 (近畿日本ツーリスト 出版) に掲載されているハイデルベルクの町の観光地図です。

ネッカー川河畔に街並が広がり、南の高台にはハイデルベルク城があります。

又、ハイデルベルクにはドイツ最古のハイデルベルク大学(1380年創立)があり、第二次世界大戦後はアメリカ軍が駐留する町でもあります。



右手に折タタミ傘を持つ添乗員Yさんに連れられ、ハイデルベルク城の入口に入ろうとする風景です。

左下の図は、上段のハイデルベルクの市内地図からハイデルベルク城の部分を切取り、少し拡大したもので、ハイデルベルク城の入口は、右下隅にあります。

今回は、ハイデルベルク城の外郭(ハイデルベルク城図1~4)の範囲をこの図の番号で紹介します。



入口を入り、左手に「ゲーテ記念碑」(ハイデルベルク城図1)があり、Wikipediaによると、ゲーテ(1749~1832年)と共にここを訪れた晩年の恋人マリアンネ・ヴィレマーが作った詩の一部が刻まれているようです。

戯曲「ファウスト」、小説「ウィルヘルム・マイスター」と並び、ゲーテ文学の三大主柱とされる抒情詩「西東詩集」の中の詩「いちょうの葉(ギンゴ ビローバ)」は、1815年9月にこの辺りで作られたとされ、秋になると写真の右上から斜めに垂れ下がるイチョウの枝も紅葉し、二人が立つ当時の風景が蘇るようです。

1814年、65歳のゲーテが古い友人であるフランクフルトの銀行家ヤーコプ・ヴィレマ-(1760~1838年)と会い、その時に同席していたのが30歳の若妻「マリアンネ」(1784~1860年)で、二人には35歳の差があったようです。

マリアンネは、小さな芝居小屋で母親と働いていましたが、ヴィレマーにみそめられて養女として引き取られ、約14年後に妻として迎えられた直後だったようです。(「ゲーテ その生涯と時代」講談社発行 リヒァルト・フリーデンタール著より)

「西東詩集」の名は、西洋の一詩人が歌った東洋風の詩いう意味だそうで、その中の「ズライカの書」ではゲーテは高徳のアラビア詩人「ハテム」として、「マリアンネ」はイスラム文学の中で最も美しく、才智ある恋の女性「ズライカ」として、それぞれが作った詩が対話形式で展開しており、ゲーテと出会って間もないマリアンネの詩の才能には驚きます。

■「ゲーテ全集 第一巻 西東詩集」(人文書院出版 )より
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いちょうの葉

はるばる東方の国から移されたという
これはいちょうの落葉だ
いちょうの落葉には
神君を満足させる深い意味がふくまれている

これは一枚の葉がさかれて
二枚になったのだろうか
それとも 二枚がたがいに結びあって
一枚の葉になったのだろうか

この問にこたえるために
ぼくはちょっとうまい考えを思いついた
ぼくの歌を聞きたまえ
ぼくもまた一枚と二枚であるいちょうの葉にみえないか
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イチョウの葉先の中央の切れ目を二つの葉が結合した痕跡と発想したゲーテの詩です。



「ゲーテ記念碑」の碑文の部分です。(ハイデルベルク城図1)

翻訳サイトで調べることも考えましたが、一部文字が読み取れず、断念しています。



「ゲーテ記念碑」の先にあった砲台跡「ロンデル」(ハイデルベルク城図2)です。

西の高い城壁から半円柱形に突出していた施設の約半分が破壊され、内壁の下方に各階の床を支えていたと思われる石積みが見られます。

各階の右手には塞がれた窓のような跡が見られ、大砲は、各階に据え付けられ、壁に開けられた窓から砲撃していたのかも知れません。

ロンデルの上には、街を展望する人が立っていますが、突出た施設からの眺望はなかなかのものでした。



ネッカー川に架かる橋「アルテ・プリユッケ」から見た「ハイデルベルク城」で、黄色の破線で囲まれた場所が「ロンデル」です。

破壊を免れた「ロンデル」の壁には窓がなく、二度目に城が破壊されたプファルツ継承戦争(1688~1697年)当時には砲台が廃止されていたものと思われます。



「ロンデル」に隣接して螺旋階段がありました。

「ロンデル」の各階に通じる階段だったと思われます。



「ゲーテ記念碑」の少し東側に「エリーザベト門」(ハイデルベルク城図3)がありました。

工事のフェンスで囲まれたこちら側は、門の裏側だったようで、美しい装飾がある正面の写真は撮れませんでした。

エリーザベト門は、1615年にフリードリヒ5世 (1596~1632年、在位1610~1623年)が妻エリザベスの誕生日を祝って造られたものとされ、門の正面からは同じくエリザベスのために造られたイギリス館が望めるようです。

プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は、イングランドとの同盟を目的に1613年、イングランド王ジェームズ1世の王女エリザベス・ステュアート(1596~1662年)と結婚したものです。

それから10年後、選帝侯の地位を追われて不遇の生涯を送ったようですが、二人はその後も仲睦まじく生活していたようです。



ハイデルベルク城の内郭に入る城門の風景です。(ハイデルベルク城図4)

次回は、内郭の紹介です。

初めてみるサツマイモの花

2013年08月08日 | 日記

お隣の畑にサツマイモの花が咲いていました。

我が家のサツマイモ畑に隣接する畝にアサガオのような花を見つけ、よく見るとサツマイモのツルに咲く花でした。

生れてはじめて見るサツマイモの花です。



一輪の花が黒マルチの畝に咲く風景です。

お隣の畑では今朝、他の畝のサツマイモを収穫されていましたが、遅く植え付けられたこの畝だけが残っていたものです。

聞き漏らしましたが、植え付け時期から推察すると、花の咲きやすいと言われる安納芋かも知れません。

(8/10追記 お尋ねしたら紫イモでした)



横から見たサツマイモの花です。

やはり花びらの形はアサガオそっくりです。

花の付け根にはいくつかのツボミが見られ、次々と咲くようです。

サツマイモと、アサガオの植物分類を調べてみると。

何と!両方とも「ヒルガオ科サツマイモ属」ではありませんか。

美しい花を咲かせるあのアサガオがサツマイモ属だったとは・・・なぜかガッカリです。



花のすぐそばに落ちた花びらが見つかりました。

又、いくつかの花弁が付いた枝が二つあり、ここから花が落ちたようです。

もしかして花がよく咲く一つの株だったのかも知れません。

生れてはじめて見る花に感激した今朝の畑仕事でした。

ドイツ・スイス旅行 6 ペンスハイムのワイナリー

2013年08月03日 | 海外旅行
南ドイツ・スイス旅行2日目、ライン川クルーズを終え、ハイデルベルクへ向かう途中、フランクフルトの南にある小さな町「ペンスハイム」のワイナリーへ立ち寄りました。



ドイツの全域地図と、フランクフルト付近の詳細地図です。

詳細地図にはライン川クルーズを終えたサンクトゴアハウゼンからツアーのバスでライン川東岸を引返し、「ペンスハイム」のワイナリーへ立ち寄った旅程を赤い矢印で描いています。



レストランも営業するワイナリー・モーア[Weingut Mohrヴァイングート・モーア]の店の風景です。

ツアーのバスが駐車する静かな裏通りに面したお店の建物は、ワイン醸造所のイメージではなく、レストランの雰囲気です。

写真右上は、店の前の若い女性の看板を拡大したもので、店内で聞いた説明では、ぶどう畑でワイングラスを持って微笑むのはこのお店の娘Franziska Mohr[フランチスカ・モーア]さんです。

看板の説明文には「ワイン産地ヘシッシェベルクシュトラーセ地域の2012~2013年女王の家」とおぼしきことが書かれてあり、このお店のご主人がワインの女王となった自慢の娘さんを、さっそくお店の宣伝に使っているようです。



左の写真は、レストランの入り口付近にあった立て看板の写真で、何が書かれてあるのか分りませんが、ここにもフランチスカさんの愛らしい姿の写真が飾られています。

右は、入口の上に掛けられた看板で、ぶどうの木をデザインした素敵な看板でした。

ドイツの各地の町を歩くと素敵な看板が多く見られ、町の景観を引き立てていました。



レストランの入り口付近の風景です。

建物に入ると、日本人の男性従業員の案内で、さっそくワインが貯蔵されている地下室へ案内されました。

昼下がりの15時頃、一階レストランの来客はいませんでしたが、店で飲まれるワインは、地下室に大量貯蔵されており、大酒飲みが押し寄せて来ても品切れの心配はないようです。



ライン川沿いに広がるドイツワインの主要産地の地図です。(旧東ドイツのエルベ川流域にある2ヶ所の地域は省略)

「優雅なるドイツのワイン」(古賀守著、創芸社発行)の地図に手を加えて川の名称・ワイン産地11ヶ所の地域名の日本語表記を加えました。

この地図によると、「ワイナリー・モーア[Weingut Mohr]」のあるペンスハイムは、ライン川東岸の「ヘッセン・ベルグシュトラーセ地域」に含まれているようで、店先の娘さんが描かれた看板にもその地域の女王とあり、ワインの地域名は、商品説明や、地域活動などで広く認識されているようです。

「優雅なるドイツのワイン」の著者古賀守氏によると、ドイツワインは、世界で最も北にある北緯50度圏(樺太とほぼ同じ)にある唯一の産地で、日照時間が非常に短く、他地域より約1ヵ月遅れで収穫されるぶどうで造られているそうです。

しかし、本来寒冷地帯でありながら大西洋のメキシコ暖流による気温の温暖化と、ヨーロッパ最大のライン川の反射熱や、膨大な水量による気温の安定化がその流域のぶどう栽培を支えているそうです。

古賀守氏は、「ワインとはブドウの果実がその年その畑で摘み取られた時点で、すでに9割がたは出来上がったもの」とし、独特の環境で育ったぶどうで造られたドイツワインは、全世界のワインの中で最も多くの果実酸を含有するため優れた果実味を持つ唯一独特の「ドイツワインタイプ」と言える特殊なワインであるとしています。

又、地図の左右を色分けし、ワインの味筋が違うエリアを表示しています。

緑に塗られた西の7地域は、古生代の地質の影響で、「ワインの味香が,ほぼ酸味の冴えをベースとした柔らかい湿潤な感覚」とされ、ベージュ色に塗られた東の4地域(旧東ドイツ2地域も同類の味)は、中生代の地質の影響により、「土味豊かな乾燥した味わいの傾向」としています。

以上が旅行から帰り、ブログを書くためのにわか勉強で得たドイツワインの知識ですが、書籍「優雅なるドイツのワイン」はとても理解しやすく良い本でした。


「ワイナリー・モーア[Weingut Mohr]」の地下貯蔵室の見学風景です。

ドイツでのワイン貯蔵は、温度の安定した地下室で行われるそうで、天井の梁に見える黒カビで汚れたような色は、ワインの酵母によるものだそうです。

緑と白の縞模様のシャツの人が案内頂いた日本人の従業員さんです。

ワインの仕事に志をもって取り組まれているようにも見受けられ、ぜひ頑張って頂きたいものです。



地下室に置かれたワインの樽を見学している風景です。

ステンレス容器で貯蔵される以前の木の樽で貯蔵・熟成されていた風景が残されているようです。

に伝統的な手掘りの装飾が施された樽のフタが印象的でした。

そばにワインの女王となったお店の娘フランチスカさんの姿が描かれた樽があり、記念ボトルも発売されているようです。

■ワインの試飲で頂いた説明書にあった記念ボトルの案内文です。
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フランチスカ Franziska記念ボトル2011年(29ユーロ)く750ml>
今年、マイスターの娘がBergstrasse地域のワインの女王(WeinK6nigin)に選出されたのを記念して作られたワイン。すっきりとした辛口ながらもフルーティさを併せ持った味わいが特徴です。
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ステンレスの貯蔵タンクが並ぶ地下室の風景です。

長期間貯蔵されるワインや、数種類のワインが作られているようで貯蔵量も少なくないようです。

前述の「優雅なるドイツのワイン」によると、ヘッセン・ベルグシュトラーセ地域は、ライン川流域のワイン産地では最小の地域で、僅か23枚の畑、430ヘクタールのブドウ園しかないそうです。

しかし、複雑な土壌構成と、非常に好条件な気象で、小粒ながら自己の特質を堅持し、年によっては驚くばかりの銘酒を発表しているとしています。

この地域で栽培されているぶどうは、半分以上が「リースリング[Riesling]」と呼ばれる品種だそうです。

「リースリング」は、ドイツに自生していた野生種を長期間改良し、白ワイン用品種として世界のワインの王者と言われる品種となったそうです。

しかし、「リースリング」の栽培には最適の土質と併せて南傾斜畑が必要で、晩熟性である等々、いろいろ難しい欠点もあることからドイツ全体の耕作面積は25%止まりとなっており、この地域の恵まれた自然条件が「リースリング」の栽培と、良質のワイン作りを支えているようです。



レストランで白ワインの試飲をしている風景です。

ドイツワインの知識がなく、あまり興味もなかった私には何となくおいしいと感じただけでしたが、今考えると、もっと注意深く味わうべきだったと悔やまれます。