昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

和紙の人形が語る「信長物語」

2009年04月29日 | 近畿地方の旅
安土城天主「信長の館」の続きです。

ゆっくりと見る時間がないため、とりあえず館内を写真に撮り、帰ってゆっくりと見せて頂きました。

やや広角のデジカメで、近くで撮ったために人形の写真がゆがんでしまいました。

やはり実物をゆっくりと見るのが一番です。



再現された安土城天守閣の横に素朴で、素敵な三重県南伊勢町河内が展示されていました。

これらは、和紙人形作家木村藤氏の寄贈品だそうで、「信長物語」は、8場面で構成されています。

各場面の物語の文章には木村藤氏の他、お弟子さんの作家と思われる作者の名が記載されていました。

又、案内では「この展示台に貼られている和紙は琵琶湖産のヨシを使用しております。(草木染)」と書かれあり、地元の和紙も「信長物語」の演出の一端をになっているようです。



■「織田信長物語」この場面の一節です。
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(一)吉法師誕生
那古野[なごや]城主織田備後の守信秀の嫡子吉法師は美しい乳児だったが、恐ろしく疳[かん]の強い児であった。
したがって乳母達はこの若様はお育て致しかねますと三人までも次々とひまを取った。だが、四人目の乳母養徳院にはよく馴れ親しんだ。
(以下は、人形の作者です)
 作 吉法師・養徳院・森田美智子
    侍女・・・・・・佐藤延子
    同・・・・・・・浅利純子
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中央の子供を抱く女性は、母か、乳母か分かりませんが、信長は大切に育てられていたようです。



■「織田信長物語」この場面の一節です。
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(二)吉法師はすくすくと成長して美しい少年になった。どうかすると男装している少女の様にさえ見えた。
「何と美しい」「まこと女子の様な」と村の衆は感嘆した
武将の児は器量が良うても何の足しにもならぬ、鬼瓦の様な面がまえでも逞しく勇ましいのが頼もしいわ・・・
家来たちの蔭口を耳にした吉法師はその日を境に行状が一変した。

作 吉法師・・・・・・高際牧子
   家来・村の衆・・・阿倍たけ子
           村上光子
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■「織田信長物語」この場面の一節です。
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(三)信長大うつけ時代
 礼儀正しい言葉遣いをしていたのが驚くべき雑言を吐く様になった。
「おれは武将の児だ。軟弱な女子の様な等と言われるのはこの上もない恥だ。よし、このおれがどの様な男かみるがいい。」
吉法師は、自分の優美な顔や姿に憎しみを燃やしその印象を変えようとしたのである。
「若君は急に変わられた。ようやく男らしうなられた。あの調子、あの調子」と悦ぶ者が多かったのは戦国の時世のせいである。

 作 信長・・・木村藤
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■「織田信長物語」この場面の一節です。
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(四)父信秀の死
「父よなぜ死んだ、死の間際にこのおれを呼び寄せる事さえなく一体このおれを何と思っておられるのだ、世評通りの大うつけと思っておられるのか。父よ父よ何故死んだ。」
英気鋭く才智あふれ己をたのむ心は人一倍強かったとは言へ、わづか十六才の少年にとって急にその双肩にのしかかってきた荷は余りに重かったのである。

 作 信長・・・木村藤
    濃姫・・・小原渓子
    僧・・・・本田千恵子
    侍女・・・朝比奈照
    家来・・・藤平幸子
    同・・・・鈴木操
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■「織田信長物語」この場面の一節です。
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(五)信長斎藤道三訪問
信長がどんな格好で来るか見て来てやらうと物陰からのぞきみて、ややこれはと目を見張った。信長の馬上のいでたちは聞きしに優る珍妙奇怪なものであったのだ。
髪は萌黄[もえぎ]の平打ちで巻立てた茶筅[ちゃせん]つぶしに結び湯かた染のかたびらの袖をはづし腰の廻りにはまるで猿曳きのように火打ち袋、ひょうたんの袋など七つ八つぶら下げ長柄の大少をわら縄で巻きつけている。しかしその前後には弓、鉄砲五百丁、三間柄朱槍五百本を押立て、異形の威風あたりま目をうばうばかりである。道三は首を振ってうなった。近道からそっと正徳寺に戻って着かへをして信長を待った。

 作 信長・・・木村藤
    道三・・・深見幸子
    家来・・・藤平幸子・植松エミ子
         阿倍たけ子・鈴木登喜子
         村上光子・萩野美智子
         本田千恵子
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向って左、井戸の陰から斎藤道三が信長の様子を見ています。

信長の型破りのスタイルは、初めての天守閣を持つ安土城にも通じている様に思えます。



■「織田信長物語」この場面の一節です。
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(六)信長大変身
寺内の宿舎に一応落ち着いた信長がしばらくして姿を現した時、待っていた家臣たち一同は、あっとわが眼を疑った。それは今迄夢想してみたこともない新しい信長の姿を見たからである。髪は折曲げに結い、かちんの長袴をはき、小脇差を差しまるで絵から抜け出たような典雅な容姿と美貌が、一きわ端麗に見せていた。
出迎へる斎藤家の家老には目もくれず長袴の裾を引いてするり、するりと通りぬれる。
さすがのまむしの道三も、これはただのうつけではないぞと内心きもを冷やすのである。

 作 道三・・・深海幸子
    信長・・・高際牧子
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■「織田信長物語」この場面の一節です。
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(七)木下藤吉郎 信長に蜂須賀子六を引き合わせる

 作 信長・・・・・・木村藤
    藤吉郎・・・・・植松エミ子
    蜂須賀子六・・・本田千恵子
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向って右の人形が信長、左が木下藤吉郎、後ろにひざまずく蜂須賀子六です。

木下藤吉郎に猿回しの猿の烏帽子をかぶせているのは分かり易いとは言え、人形の品格が下がるようで残念な感じがします。



■「織田信長物語」この場面の一節です。
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(八)信長 出陣の朝 濃姫と舞を舞ふ

 作 信長・・・木村藤
    濃姫・・・小原渓子
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桶狭間の戦いの前夜、濃姫の打つ鼓で、扇子を持つ信長が「敦盛」を舞う場面です。

映画や、テレビで見た有名な場面、「人間[じんかん]五十年、下天[げてん]の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。」と謡いながら舞う信長を思い出します。

「敦盛」は、室町時代頃から武士に好まれた能と並ぶ芸能「幸若舞[こうわかまい]」の演目のひとつです。

奇跡的な「安土城天守閣」再現と、信長の似顔絵

2009年04月27日 | 近畿地方の旅
「安土城考古博物館」の次に安土城天主「信長の館」に行きました。

ここには安土城天守閣の五階・六階が再現され、その豪華な美しさにとても感動しました。



展示館一階には八角形の城天守閣の五階部分が再現されています。

パンフレットによると、この天守閣の再現には加賀藩の大工さんの家に伝わった図面の発見によるものだそうで、奇跡的な発見だったようです。

■パンフレットの説明文を転記します。
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1579年(天正7年)「織田信長」の命によって建築された安土城は日本で最初に天主閣を備えた城であっただけでなく、世界で初めての木造高層建築であった。
その高さ46メートルの壮大で絢爛豪華な様をキリスト教宣教師が「ヨーロッパにもあるとは思えないとても壮大なもの」と絶賛した。
しかし、1582年「本能寺の変」後、半月たらずのち筑後以来わずか3年で安土城は焼失し、長年の間その外観、構造は解明されず「幻の名城」と呼ばれてきた。
近年になり加賀藩の御抱大工に伝わる「天主指図」が発見される。
元・愛知県産業大学学長内藤昌氏により「信長記」「信長公記」などの史料との照合や遺跡発掘・実測調査の結果「安土城」であることが解明された。
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五階の奥には弟子たちに囲まれた釈迦が描かれています。

信長が考えた天守閣は、単に豪華賢覧な建物ではなく、深い宗教世界を描いていたようです。

近江の寺院を焼き尽くした信長とは信じられないものです。

■パンフレットの説明文を転記します。
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天界をイメージした5階黄金の間
天主5階は仏教の世界観による理想郷を象徴しています。
宇宙空間を表す八角形、約30坪(99㎡)の空間。
金箔の壁と釈迦説法図の襖絵に囲まれた総朱漆塗りの床の中央に2枚の畳が置かれています。
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頂いたパンフレットにあった五階の説明図です。

各部分の絵の意味は分かりませんが、仏教をはじめ中国から伝わった様々な思想が反映されているようです。



最上階の屋根を見上げた様子です。

壁の一面が金色に輝き、屋根の先端にも金色の模様の瓦が並んでいます。

この豪華な天守閣を見上げた人々は、新しい天下人の登場を強く意識したものと思われます。

■パンフレットにこの天守閣の再現についての説明文があり転記します。==========================================================================
400年余りも経た1992年「スペイン・セビリア万国博覧会」の日本館のメイン展示として安土城天主の最上部5階6階部分が、東京大学・東京芸術大学・京都市立芸術大学の指導あって内部の障壁画と共に原寸大にて忠実に復元された。
博覧会期間中には最も多い入場者を記録し、人々の日本文化への関心の深さが示された。
万博終了後その「天主」を安土町が譲り受け解体移築し、新たに5階部分に、発掘された当時の瓦をもとに焼き上げから再現した「庇屋根」、天人の飛ぶ様を描いた天井「天人影向図」[てんにんようこうず]、6階部分に金箔10万枚を使用した「外壁」「金箔の鯱[しゃちほこ]をのせた大屋根」が取り付けられた。内部には当時信長が「狩野永徳」を中心に描かせた「金箔障壁画」も再現している。
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階段の上り口付近に「信長の似顔絵」が展示されていました。

織田家宗家に家宝として伝わり、礼拝していたとあります。

この似顔絵は、まさしく歴史に登場する信長のイメージに思えます。

■似顔絵に説明文があり、転記します。
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宣教師が描いたと言われる織田信長の肖像画(天童市三宝寺蔵)
この肖像画は、当時の宣教師が描いたもので、信長に最も似ていると天童織田家に伝えられてきたものです。
天童織田家は、信長の次男信雄(入道常真)にはじまる。信長が本能寺で非業の死を遂げ、長男信忠も死亡した。それで信雄が宗家を継ぐことになる。
その天童織田藩庁の記録、「御在所御容人御役控帳」(「天童市史編纂資料第二七号)」)に
 天保四癸巳年 正月 御太祖様画像拝礼、従当年被仰付候事
 天保八丁酉年 元日 御服中二付 御太祖様尊像拝礼無之
の記録がある。織田家宗家に家宝として秘蔵されてきた肖像画を、正月に電柱に飾り、拝礼された事が明らかになった。

今もこの画像は三宝寺の御霊屋に掲額されており、信長はじめ歴代藩主の位牌も安置され、供養法要がつづけられています。

写真は、平成十三年八月五日 日本テレビ「知ってるつもり」で放映されたものを提供いただきました。
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六階の建物下部の様子です。

はじめて見るような構造です。



階段を登りきると六階の見学通路がありました。

窓からのぞき込むようになっています。



六階の様子です。

金色の壁、金色の襖絵は、豪華ですが、重厚さもあります。

秀吉が、金の茶室を造ったのは、この部屋の影響かとも思えます。



パンフレットにあった六階の図面です。

この時代、古代中国の文化がベースにあったことが伺えます。



最上階の屋根を仰ぎ見た様子です。

破風には、城郭建築らしい引き締まった豪華さがを感じます。

「安土城考古博物館」の見学

2009年04月22日 | 近畿地方の旅
滋賀旅行2日目、2008年11月2日10:40頃、「安土城跡」から近くの「安土城考古博物館」へ向いました。



東海道本線(琵琶湖線)を横切るといかにも信長が好んでいたような中世ヨーロッパ風の塔がある「安土城考古博物館」が見えて来ました。

コスモス畑が花盛りでしたが、休耕田を利用して観光客を楽しませようとする地元の人の気持ちを感じます。



「安土城考古博物館」の建物に近づくと、「博物館から見た安土城跡」と書かれた写真が展示されていました。

下段の写真は、その場から「安土城跡」方向を撮った写真です。

標高約200mの安土山に石垣築かれ、武家屋敷が立ち並び、「安土城」の天守閣がそびえ立つ様は、実に壮大だったものと思われます。



「信長の館」と、「安土城考古博物館」の共通入場券です。

とても印象的なデザインです。

二つの建物は、六角形と思われる部分が共通のようです。



「安土城考古博物館」で頂いたパンフレットにあった周辺の絵地図です。

向って左の山が「安土城跡」で、その左上に弥生時代の「大中湖南遺跡」が見えます。

中央の「安土城考古博物館」を中心に「旧安土巡査駐在所」「旧宮地家住宅」「旧柳原学校校舎」「信長の館」が並び、その下の山には「瓢箪山古墳」が見えます。



これも博物館のパンフレットにあった「大中の湖南遺跡模型」と書かれた写真です。

壁面に遺跡の平面的な模型が展示され、人形は農耕をしている様子を説明するものです。

「大中の湖南遺跡[だいなかのこみなみいせき]」は、弥生時代中期の農耕集落遺跡で、今は干拓された「大中湖」の湖畔にあったようです。

「大中湖」は、琵琶湖周辺に多くあった内湖[ないこ]の一つです。

遺跡からは、集落跡・水田跡・木製農具・漁具・狩猟の弓・祭祀具など当時の生活を知る遺物が多く出土し、博物館に展示されていました。



館内の本棚の上に飾られた弥生人と思われる人形で、意外な高さ飾られて驚きました。

地震で落ちて来る懸念はないのでしょうか。



古墳時代の王の服装を再現していました。

向って左から前期(4世紀)・中期(5世紀)・後期の(6世紀)と並び、副葬品だけの展示と比較して実感が持てます。

後期の王は、高島町鴨稲荷山古墳の副葬品ですが、朝鮮半島の色濃い影響がある特殊な古墳で、後期の一般的事例ではないようです。

■説明文があり、転記します。
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王者の装い
古墳時代は大きく前・中・後の三つの時期に区分されるが、古墳の石室内に残された副葬品から、それぞれの時期の王者たちの装いが復元できる。前期(4世紀)の王は、県下最大の前方後円墳、安土瓢箪山古墳の被葬者を、中期(5世紀)の王は、大量の鉄製武器・武具を副葬していた栗東町新開1号墳の被葬者を、後期の(6世紀)の王は、豪華な金銅製の冠・飾履などを副葬する高島町鴨稲荷山古墳の被葬者をそれぞれモデルとしてみた。
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パンフレットにあった写真で、「復元された金銅製のスパイク(鴨稲荷山古墳)」と説明されていました。

上段の写真「王者の装い」で、古墳時代後期の王が履いているものと思われます。

国内では出土例が少なく、朝鮮半島から伝わったとされるこの靴は、「飾履[しょくり]」と呼ばれる儀式用の靴で、靴の裏まで飾りが付いていては、とても履いて歩けるものではないように思えます。

ただ、パンフレットの説明文にある「スパイク」は間違いではないかと思います。



パンフレットにあった安土城天守閣の300分の1の再現模型の写真です。

館内ではガラスケースに入れられ、確か高さが1mまでの小さなものでした。



安土城の立体模型がありました。

長い模型が斜めに立てられ、当時の城の様子がよく分かります。

湖を掘に利用したとても堅固な城だったようです。

この城が、あっけなく炎上したことが不思議です。

ここから天下に号令を発する日を間近にして無くなった信長ですが、もし本能寺の変がなかったらどんな日本になっていたのか興味深いものがあります。

日の出と、飛行機雲

2009年04月19日 | 日記
滋賀旅行の思い出を中断し、日の出の写真です。


今朝5:55、テラスから見えた日の出の景色です。

窓から見えた日の出が美しく、デジカメを持ってテラスに出てみると雄大な飛行機雲が出来ていました。

雲の上の先端にジェット機が、飛んでいます。

向って左下にも斜めの飛行機雲があり、北東方向から西に向かったようです。


この雲を見た一瞬、「テポドン」の名が脳裏をよぎりました。


琵琶湖畔にそびえていた昔の「安土城」

2009年04月16日 | 近畿地方の旅
「石馬寺」からきぬがさ山トンネルをくぐり、数分で「安土城跡」へ到着しました。



「安土城跡」の入口に石碑と、案内板がありました。

石碑の大きな文字は、独特の書体です。

写真に向かって左側に安土山が見え、手前の空地が駐車場になっています。

数台の車が駐車し、見学者は、まばらでした。

■「安土城跡」の案内板を転記します。
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特別史跡 安土城跡
織田信長はが天下統一を目前にしてその居城として築いた城である。天正四年(1576)着工、天正九年ごろ竣工したと認められる。
天正十年(1582)六月、本能寺の変の直後に天主閣等も罹災[りさい]し、ついで廃城となった。
琵琶湖に突出した丘陵の安土山の全域を城域とし、各所に石垣を築き、中央に七層の大天守閣をはじめ各殿舎等を建て雄大かつ壮観を極めた。また山ろく平地には城下町を形成するなど近世都市の先駆であった。
現在城の縄張りを知ることのできる石垣・石段・礎石等のほか罹災をまぬがれた織田氏の菩提寺である見寺の三重塔・楼門および金剛二力士像(いづれも重要文化財)が残存している。
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復元された石垣のそばの大きな案内板の一部に「明治26年の安土城跡周辺地形図」と書かれた地図がありました。

緑の部分が「安土城跡」です。

当時の安土山の東側や、西側の北半分は湖だったことが分かります。

あの赤い天守閣が、琵琶湖のほとりにそそり立つ様は、素晴らしいものだったと思われます。


現在の「安土城跡」周辺の地図です。

湖に突き出ていた安土山も干拓が進み、かっての面影はありません。

安土山の南は、東側にある繖山[きぬがさやま]につながり、その間を東海道本線が走っています。

「安土城」の天守閣は、安土山の南の頂上付近で、大手門からの道はその南の谷に沿っていたようです。

安土山の南に水路が二本見えますが、かっての堀だったものと思われます。

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特別史跡安土城跡
安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で討ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。築城開始から三年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄[のぶかつ]や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。しかし天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。
安土城跡は大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万㎡が特別史跡に指定されました。
昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年~50年(1960~1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として「特別史跡安土城跡調査整備事業」が20年計画で行われています。
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駐車場から、城内の大手道を結ぶ道で、かっての大手門があった付近と思われます。



「安土城跡」の料金所がありました。

予定外の石馬寺の拝観で、時間にゆとりがなく、入場はあきらめました。



案内板にあった地図で、安土城跡の南西部分です。

かっての安土城は、大手門の道から天守閣を正面に見上げるコースにあります。

近づくにつれて壮大な天守閣に圧倒されたものと思われます。

左手には見寺の三重塔、右手には有力武将の屋敷が建ち並び、来る者は信長の権威を強く感じたのではないでしょうか。

向って左に赤い字で「百々橋口」と書かれた門が見えます。

見寺へ直接登って行く道があったようです。



案内板にあった出土品の瓦で、「搦手道湖辺部出土の金箔瓦」と書かれていました。

「搦手道湖辺部」は、安土山の上にある天守閣から東北東方向の麓に下った道の辺りと思われます。

この金箔に飾られた瓦が並ぶ様子は、豪華なものだったと思われ、城の裏手までもこのような瓦を使った信長の財力は計り知れないものだったのではないでしょうか。

仏教勢力との対立、南蛮貿易などの影響もあり、旧来の文化から新たな文化の模索が始まった時代の建築だったのではないかと思います。



大手門の道から西を見た様子です。

石垣の途中が一段低く復元されており、西虎口(門)があった場所と思われます。



大手門の道から東を見た様子です。

大手門の東に石段が復元されており、東虎口(門)があったようです。

■石段の上り口の脇に案内板があり転記します。
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石塁と大手三門
 安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。
 東側石墨は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲しています。石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失し築城時の高さは不明です。そのため復元にあたっては、南側から石墨北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。東平入[ひらい]り虎口[こくち]は、間口約5・5m奥行き約4・2mで、柱を受ける礎石等が残ってないため門の構造は不明です。
 石塁の中に詰められている栗石がない部分が約30m(東側石塁の西端に網を張って中の乗石が見えるようにしている部分から西です)あり、この間に大手門があったと思われます。石塁から南に2間分、2・4mの間隔で礎石が2基、礎石抜き取り穴が1基見つかっていますが、石塁の基底石が据えられている面と同じ高さにあり、大手門の柱が石塁より前に2間分飛び出すという特異な形になり規模や構造において不明な点が多くどのような門であったか不明です。
 また、虎口や通路に上がる段差がある部分ですが、その多くが後世の開墾で当時の遣構が消滅して、石段であったか木階段であったか確定することができませんでした。そのため確実に築城時に段があうたが材質が不明である部分については安土城では用いられていない花崗岩の切石で復元して築城時の遺構と区別することにしています。門があったと見られる部分には豆砂利樹脂舗装をして表示しています。また、通路部分は針葉樹の間伐材を使ったウッドチップ樹脂舗装で表示しています。上段の郭の内、土塀があったと推定される箇所はウバメガシの生垣にしています。
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案内板にあった「平安京内裏の内部構造」と書かれた図です。

上段の説明にあるように安土城の南にある大手門付近の三つの門は、平安京内裏の門を模したものと考えられているようです。

石馬寺の本堂、大仏宝殿の拝観

2009年04月12日 | 近畿地方の旅

滋賀県東近江市五個荘の「石馬寺」の「大仏宝殿」と、「本堂」内部の拝観をさせて頂きました。

庫裏の玄関から座敷に上がり、拝観を受付けて頂きました。



石庭の背後にある岩壁で、白ネコが昼寝をしていました。

庫裏から「大仏宝殿」へ渡る通路を歩いていた時、見つけました。

猫は、気持よく寝ていましたが、このまま石になり、「石猫寺」と呼ばれる創作話はどうでしょうかね。

この後、受付の女性から「大仏宝殿」まで案内され、次に本堂の拝観をするよう説明されました。



受付で頂いた「木造役行者腰掛像」の絵葉書です。

鎌倉時代の作で、国指定重要文化財のこの像は、「大仏宝殿」に入り左手に進むとあります。

像の後ろには、大木をくりぬいて作ったようなアーチ型の背景があり、杖を持ち、高下駄を履いた役行者[えんのぎょうじゃ]が岩に座った形です。

役行者は、名を役小角[えんのおづぬ]と言い、7世紀後半に活躍した修験道の開祖と言われています。

「木造役行者腰掛像」の両脇には「前鬼、後鬼像」があり、強い法力を持ち、神鬼を従えた伝説が、ちょこんと座る小ぶりな鬼の姿に表現されているようです。

「大仏宝殿」にはその他、すばらしい仏像が並んでいました。

入口を入った正面にひと際大きな金色の「阿弥陀如来座像」を中心に、左右それぞれ三体の仏像が安置されていました。

又、入口を入り右手には剣を持ち牛に腰かけた「威徳明王牛上像」があり、顔と、両腕が側面にも付いていました。

すばらしい仏像を間近に見ることが出来て、大変感動しました。

撮影禁止で、写真で紹介出来ないのが残念です。



「大仏宝殿」から本堂へ向う通路の先に小さな本堂の入口が見えます。

本堂の仏壇の脇に、石馬寺の本尊「十一面親世音菩薩」の御詠歌が、掲げられていました。

「まつかぜや やまのたをりの いしばでら いさごのなみに こまぞやすらぐ」

仏壇の脇には、「雲居国師」と書かれた座像がありました。

仙台、松島瑞巌寺の開祖「雲居希贋国師」で、この寺を臨済宗、妙心寺派として再興された方だそうです。

以上、偶然立ち寄った石馬寺の印象的な仏像の拝観は、忘れられない思い出となりました。

ありがとうございました。

「石馬寺」の歴史と、境内の散策

2009年04月10日 | 近畿地方の旅
安土城跡の見学を前に、予定外に立ち寄った「石馬寺」で、境内の散策です。

昨年、11月初めでしたが、紅葉はまだのようで、境内は、深い緑の木々に囲まれていました。



手前の建物は、重要文化財の仏像が安置されている「大仏宝殿」で、その向こうに本堂が見えます。

「石馬寺」で頂いたパンフレットにあった一節です。
・・・人里をやり過ごして乱れ石積みの「かんのん坂」を登りつめれば、そこにあるのは、ただ自然の整序[ととのい]と旋律[ふしまわし]。・・・

以前は、本堂が茅葺屋根だったそうで、この一節がもっと実感できたものと思われます。



「石馬寺」周辺の地図です。

安土城跡とは直線距離で、約2Kmと近く、琵琶湖東岸の平野の中に独立した山並みが続いています。

「石馬寺」の背後の山頂(標高約300m)からは、安土山(標高約200m)を見下ろす位置にあります。

織田信長が、京都へ上洛の兵を進めた時、「石馬寺」は焼き払われたと言われています。

拝観受付の女性の話では、多数残っている平安・鎌倉時代の仏像(国指定重要文化財が多い)は、とっさに裏山に埋められ、難を逃れたそうです。

その後、天下をとった豊臣秀吉により寺領が没収されるなど「石馬寺」は受難の時代が続いたようです。

その後に築城された「安土城」が本能寺の変で廃虚となる中、江戸時代に「石馬寺」が再興されたことは人々の厚い信仰によるものと思われます。



「大仏宝殿」の前に「鐘楼」がありました。

向って左は、石段の入り口です。



庫裏と、「大仏宝殿」の間に石馬寺の石庭があります。

裏山の岩壁を背景にして白砂に数個の岩が配置され、白波に浮かぶ島をイメージします。

「大仏宝殿」の壁が風情を落としているようで、せめて生垣でも欲しいところです。



「大仏宝殿」の前から見た庫裏の建物です。

屋根瓦が葺き替えられて新しそうな建物に見えますが、玄関を入ると年月を重ねた建物でした。



境内を進み、一段高い場所に本堂の玄関がありました。

このたたずまいに長い歴史を感じさせられます。



本堂を通り過ぎ、奥の方から見た本堂前の様子です。

■寺で頂いたパンフレットにあったお寺の歴史の一説を転記します。
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「石馬寺」は聖徳太子の創立以後、法相宗、天台宗と転宗し、近江源氏、代々木氏の篤く帰向するところとなりましたが、永禄十一年(1568)、織田信長が京都に上ろうとして佐々木承貞を攻めた時その戦禍を受け伽藍、院妨ことごとく兵火の災いに罹り昔日の壮観を二度と見ることができなくなりました。越えて豊臣氏が天下を取るや寺領、山林を没収され山主、僧徒は退散を命じられ、ある者は農民となり、ある者は商人となるに及びました。
 後、慶長八年、徳川氏の知るところとなり「石馬寺」が復興、寛永十一年、家光公上洛にあたり現、神崎郡能登川町に造営された御茶屋御殿を移して大方丈としました。そして正保元年(1644年)十一月、仙台、松島瑞巌寺の開祖、雲居希贋国師を中興開山とし臨済宗、妙心寺派となり現在に至っております。
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本堂を過ぎ、突き当たりにお堂がありました。

苔むした境内にひっそりとたたずむお堂は、実に風情があります。

お寺のパンフレットにも説明が無く、堂の名は分りません。



本堂を過ぎ、お堂に向う右手に石仏が鎮座していました。

最初見た時、ドキッとしましたが、何かをじっと見つめ、思慮深い風貌に見えてきます。

顔と、肩幅・体のバランスから子供のような印象も受けますが、パンフレットに記載されている「不動明王座像(露座石佛)」と思われます。

しばし立ち止まり、拝観させて頂きました。

滋賀県東近江市五個荘「石馬寺」の長い石段

2009年04月06日 | 近畿地方の旅
滋賀旅行2日目の2008年11月2日、滋賀県東近江市五個荘の「石馬寺」に立ち寄りました。

多賀大社から安土城跡をめざして車を走らせているとカーナビに「石馬寺」という風変わりな寺の名が見えました。

持参した本「滋賀県の歴史散歩」に掲載されており、聖徳太子にちなむ由緒あるお寺でした。

「霊地を探し、山に登った太子が下りてみると、乗ってきた馬が、石になっていた」とされる伝承の記載に、引きつけられるように立ち寄ってしまいした。



「石馬寺」と刻まれた石碑が立って、その後ろに杉の木が高くそびえていました。

この辺りに池の中に石馬があったようですが、見逃してしまいました。



「石馬寺」と刻まれた石碑の隣に「聖徳太子建立 石馬寺大門跡」と書かれた石碑がありました。

その後ろに「石馬寺」への石段の道が見えています。

長い石段が続いているようでしたが、とりあえず登って行きました。



参道を上り始めたすぐ左手の塀の向こうにおびただしい石塔が置かれていました。

新たに造られたものではないようです。

昔の石塔を少しずつ掘り出し、再建されているのでしょうか。



急な石段が続いていました。

両側には石垣が築かれ、かって屋敷があったことがうかがえます。

荒々しい石積みの石段でしたが、案外問題なく上って行けました。



しばらく石段を上ると左右に道があり、右手に曲がると石馬寺、左手に曲がると六所神社、直進すると雨宮瀧神社へ続く道のようです。

神社・寺院が複数あり、聖徳太子が強い霊気を感じられたこの山には、もっと以前から神の山として崇められた歴史があったのかも知れません。

右手の案内板に「亡者の辻」とあります。

この辺りは霊がさまよう辻ということなのでしょうか?



石段の左手に六所神社がありました。

時間がなく、通り過ぎて行きました。



石馬寺は、右手に折れ、上って行きます。

大きな岩が坂道のそばにありましたが、この山の上の方にはもっと大きな磐座があるかも知れません。



「石馬寺」の石碑がありました。

下の「寺」の字は普通読めません。

上から参拝を済まされた人が下りて来ていますが、これで途中二組にお会いしました。



道のほとりに石仏が並びはじめました。

よだれ掛けがちょと可愛いらしさを演出しているようです。

石仏の上の方に軒が庇[ひさし]が造られています。



この付近は、二列の石仏が下を向いて並んでいます。



石仏がたくさん並んでいました。

道の脇で、上って来た人を出迎え、声が聞こえてくるようです。

石塔の頭だけが、二つ並んでいるのは何なのでしょうか。



ようやく境内までたどり着きました。

途中、息が切れそうで、休みながら何とか登ってきました。

左手に鐘楼があり、正面の白壁の建物は、宝物館です。

緑がとてもさわやかでした。

11月はじめでしたが、まだ紅葉の秋には少し早かったようです。

これから予想外のすばらしいお宝を拝観することになります。

「多賀大社」の素晴らしい社殿に感動

2009年04月04日 | 近畿地方の旅
滋賀旅行の2日目は、彦根市に近い「多賀大社」の参拝からスタートしました。

「多賀大社」の祭神は、伊邪那岐[いざなぎ]命と、伊邪那美[いざなみ]命で、伊勢神宮の祭神「天照大御神」の親神になります。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」などとPRされ、伊勢や、熊野と比較して利便性の良いことで次第に参拝者を増やしたようです。

今でも初詣には大渋滞が発生するほど有名な神社のようです。



露店や、土産物店が並ぶ通りに面した「多賀大社」の鳥居です。

8:10頃で、周辺のお店は開店準備の時間でした。

古事記(※1)では「伊邪那岐[いざなぎ]命は、淡海の多賀に坐[まし]ます」とあり、多賀が終焉の地とも考えられます。

平安時代の「延喜式神名帳」では「小社 多何神社」が確認され、近江国に13社の大社がある中、当時の社格は高くなかったようです。

日本書紀(※2)では伊奘諾命[いざなぎ](古事記と漢字が違う)は、淡路島の幽宮[かくれみや]で、静かにお隠れになられたとあります。

淡路島の多賀には「伊奘諾神宮」があり、「延喜式神名帳」での社格は名神大社で、「淡路伊佐奈伎神社」と記載されています。

一般的には日本書紀の内容を信じるむきが多いようですが、ここ多賀の地名にも大変古い歴史があるように感じます。
 
※1古事記:「故其伊邪那岐大者 坐淡海之多賀也」
※2日本書紀:「是以 構幽宮於淡路之洲 寂然長隠者矣」



鳥居を入った右手に神社の案内図がありました。

たくさんの摂社があり、背後には「杉坂山」の神木も描かれています。

式内社には磐座[いわくら]のあるご神体の山が、あることが多いようですが、「杉坂山」の情報がなく、分かりません。

図に向って左には、いくつかの摂社や、神社には珍しい鐘楼がありましたが、カットしています。



鳥居を入り進むと「太閤橋」に突き当ります。

半円形に近い急な坂の橋は、やはり神様専用の橋のようで、通行禁止となっていました。

■橋のそばに「そり橋」の案内板があり、転記します。
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多賀大社の「そり橋」
太閤秀吉が当社に寄せた信仰から「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は「太鼓橋」である。
築造は、江戸初期寛永十五年に徳川幕府の助成もあって大僧正慈性によって本殿以下諸堂社の造営が行われた。
「寛永年間多賀大社絵図井指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営際に築造されたものである。
こり「そり橋」は神橋であって、例祭にはお神輿が渡られる。昭和七年の造営には、「そり橋」の附近が改修され現在に至っている。お多賀さんの表玄関にふさわしい重厚な橋である。
平成3年十一月吉日 多賀町教育委員会
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「太閤橋」を両脇にある石橋から迂回すると土塀と、神門があります。

門の中から立派な神社の建物が見えて来ました。

■門の脇に「多賀大社」の案内板があり、転記します。
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多賀大社の概略
ご祭神 伊邪那岐大神[イザナギノオオカミ] 伊邪那美大神[イザナミオオカミ] 
この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万物の神々と、その主宰神としての天照大神をお生みになられましたので昔から、わが日本国の祖神[おやがみ]さまと仰がれ、奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海「おうみ]の多賀にご鎮座という記事が見えています。
そこで、早くより朝野の尊崇あつく、延命長寿、縁結び、厄除けの霊神と仰がれ、元正天皇や俊乗坊重源、太閤秀吉の母大政所の延命祈願、武田晴信(信玄)の厄除祈願など数々のご社伝が伝えられております。
四月十二日の多賀まつり(古例大祭)の騎馬四十頭に及ぶご神幸は天下に名高く、他にも節分祭、お田植祭、万灯祭、九月古例祭、七五三なども大変なにぎわいを見せます。
室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講はあまりにも有名ですが、更に近年は崇敬会に加入して神縁を結ばれる人々も増加しています。
ご本社の左奥にある参集殿では、これらの人々のお食事、あるいは結婚式の披露宴なども行われています。
又、春の枝垂れ桜、秋の紅葉、国の名勝である奥書院庭園も見事で、年間を通じ約百七十万人の参拝者を数えております。
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大きな鳥が、羽を広げたようなすばらしい多賀大社の社殿です。

桧皮葺の屋根と、背後の緑が美しく映えて感動しました。

現在の社殿は、昭和7年に再建された建物で、幾度の火災や暴風の被害で再建が繰り返されているそうです。

これだけの建物を繰り返し再建続けることに、何か不思議な底力を感じさせられます。



拝殿正面から奥の神殿を見た様子です。

とても美しい神殿の祭壇が見えています。


8:30頃神官さん、巫女さんが大勢集合し、正座していました。

朝礼が始まったようで、何か唱和していましたが、数分で終わりました。



絵馬ではなく「杓子」に願い事が書かれ、掛けてありました。

平安時代、元正天皇の病の平癒を祈念して多賀社は、強飯[おこわ・こわ-めし]を炊いて、杓子を添えて献上した。

その結果、天皇が全快せられたことで、無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったとされています。



国家「君が代」の歌詞にある「さざれ石」は、長い歳月に小石が固まって岩になる例えを歌詞にしたもですが、この石は本当に小石が大きな石の塊になったものです。

初めて「さざれ石」を見たのは島根県の熊野神社でした。

最初はとても感動しましたが、最近感じなくなりました。

■さざれ石の前に案内板があり、転記します。
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さざれ石の由来
君が代は千代に八千代にさざれ石の
巌となりて苔のむすまで
この手氏は通称さざれいしといわれ岐阜県春日村の産 古今集に天皇の大御代の弥栄を寿ぎ祈り この石の如くましませと詠われ 後に一部改作されて日本の国歌となりました
学名は石灰質角礫岩で 長い年月の間に溶解した石灰岩が多くの小石を集結して次第に大きく生長したもので 誠に目出度い石であります
岐阜県揖斐川町の小林惣一郎翁がはじめて発見したものです
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「寿命石」と案内された石がありました。

下の説明文で、東大寺再建の任を前に祈った「重源」が、二十年の延命を感得したゆかりの石と説明されています。

「石のゆかり」の内容がよく分かりませんが、お祈り次第では20年長生きというごりやくがあるというなかなか商売上手な神社のようです。

■「寿命石」の案内板があり、転記します。
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寿命石と祈願の白石
今から八百余年前、俊乗坊重源は後白河上皇から、南都東大寺再建の大勧進を仰せつけられた。上人はまず大神宮に三度参拝、さらに寿命守護を祈るため当大社に参籠し、満願の暁に「莚」の字の虫喰いのある柏葉を授かり二十年の延命を感得、ついに大業をとげたと云われている。
この寿命石は上人がその霊験をいただいた際のゆかりの石だと伝えられています。
重源上人が授かった「柏葉莚字」・・・・柏の葉のご神託により延命を授かったこと・・・・の故事に因んで、昔から白石にもろもろの願いを込めて、寿命石に祈願する人々が絶えません。
祈願の白石は授与所に用意しています。住所・氏名を書いてご祈願下さい。後のち白石はご本殿の庭に敷き長く祈念致します。
 発穂料 五〇〇円
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中央の大きな石が、「寿命石」でも願い事が書かれた白石が「祈願の白石」のようです。

日吉大社「大宮大橋」

2009年04月01日 | 近畿地方の旅
日吉大社の参拝を終えて山王鳥居をくぐり、大宮橋に来ました。

2009-02-20の記事で紹介した東本宮の参道入口の「二宮橋」と、この西本宮参道入口にある「大宮橋」「走井橋」を合わせて「日吉三橋」と呼ぶようです。



緑に覆われた日吉大社の大宮橋です。

「大宮橋」の名称は、かって「日吉大社西本宮」が、「大宮」と呼ばれていたことに由来するようです。

豊臣秀吉が寄進した木の橋を江戸時代、石橋に架け直したと言われています。

アーチ型の石橋と違い、木の橋の構造を石材に替えて造ったものです。

欄干が美しく造られているのが印象的です。


■大宮橋のたもとに説明板があり、転記します。
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重要文化財 建造物
日吉大社日吉三橋 大宮橋 一基
(大津市坂本五丁目)
大宮橋は、西本宮(大宮)へ向かう参道の大宮川にかかる花崗岩[かこうがん]製の石造反橋[そりはし]ですが、木造橋の形式をそのまま用いています。
幅五・〇メートル、長一三・九メートルで、川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、貫[ぬき]でつなぎ、その上に三列の桁[けた]をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡しています。
両側に格座間[こうざま]を彫り抜いた高欄[こうらん]をつけるなど、日吉三橋のうちでも最も手が込んでおり、豪壮雄大な構造の、代表的な石造桁橋です。
天正年間(1573~1592)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(1669)のことです。
大正六年(1917)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。
 大津市教育委員会 平成十七年(2005)十一月
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横からみた「大宮橋」です。

大宮川の清流と、少し色付きかけた紅葉の木が、風情のある石橋に演出しているようです。

紅葉が進むと素晴らしい景色が楽しめると思います。



大宮橋のすぐ横、下流に大きな杉の木がそびえ、その下に朱塗りの祠「走井[はしりい]社」があります。

「走井社」は、6月30日、大晦日、山王祭の前に大祓式の斎場となるそうです。

そびえたつ杉の大木には「しめ縄」が巻かれ、ご神木とされているようです。

向かって右に簡素な石橋「走井橋」が見えます。

「走井」の名は、橋のそばに湧く泉の名に由来するそうですが、泉は見逃しました。

橋のすぐ横まで杉の枝が垂れ下がり、日吉大社の説明では「臥龍の如き杉の枝が伸び、一帯を神巌な聖域たらしめています」としています。

とても自然に出来たとも思えず、枝に重石をぶら下げて形を造ったのでしょうか?



5列の長い石版が並ぶ「走井[はしりい]橋」です。

寛文九年(1669)、第四代将軍徳川家綱の時代に造られたものです。

垂れ下がる杉の枝もあり、欄干のない危うさは、あまり感じられません。

■走井橋のたもとにも説明板があり、転記します。
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重要文化財 建造物 日吉大社日吉三橋 走井橋 一基
(大津市坂本五丁目)

走井橋は、大宮橋のすぐ下流にかかるお祓いをするための石造反橋[そりばし]です。
日吉三橋の中で最も簡素な構造で、幅四・六メートル、長十三・八メートルを測ります。川の中に方柱の橋脚をたてますが、その数も六本と少なく、また桁も省かれ、橋脚の頭に継ぎ材をおいて、橋板をかけています。
橋板に反りをつけることで、軽快な感じをよく出しています。
走井橋の名は、橋の傍らに走井という清めの泉があることに由来します。
天正年間(1573~1592)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(1669)のことです。
大正六年(1917)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。
 大津市教育委員会 平成十七年(2005)十一月
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「走井橋」から少し離れて見上げた杉の大木です。

小川のほとりで水に恵まれてよく育っているようです。

手前の石塔は、寺院でよく見かけるものです。

これで日吉大社の参拝が終わりです。