昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「四国カルスト」で見た絶景

2009年09月30日 | 四国の旅
9月26日、愛媛県と、高知県の県境にある「四国カルスト」へ行ってきました。

「四国カルスト」は、「秋吉台」(山口県)「平尾台」(福岡県)と並ぶ「日本三大カルスト」の一つですが、その中で景色は最高です。

標高1,300mから1,400mの峰の道に沿った四国カルストの景色は、天気にも恵まれて素晴らしいものでした。

朝6:15に福山市の自宅を出発、四国カルストの道に交差する「地芳峠」に到着したのは10:00頃でした。



四国カルストの中で、妻が、一番気に入った景色です。

五段城付近から、はるか先の「姫鶴平」[めづるだいら]方向を見た景色で、なだらかなカルスト地形が広がり、赤い屋根の牛舎が見えます。

写真左上に風力発電機が見え、その横には「姫鶴荘」[めづるそう]の建物が見えます。



四国カルスト付近の地図です。

松山市から高知市まで走る国道33号のほぼ中間地点の愛媛県久万高原町の「柳谷支所」付近(地図①)から国道440号を②③④と進み、「地芳峠」から「四国カルスト」の道に入ります。

「四国カルスト」の道に入り、⑤から⑩までが今回楽しんだエリアです。

帰りの道は、⑩の天狗荘から整備された林道を走り、⑪を経由して③の地点で来た道に合流しました。

⑦から⑩までの点線で囲まれた区間は、今回掲載した景色を撮った区間です。



「四国カルスト」の道を進むと右手に「姫鶴荘」[めづるそう]がありました。

写真に見える「姫鶴荘」の建物はレストラン部分で、右手に2階建ての宿泊施設が続いているようです。

「姫鶴荘」の前まで来ると、突然素晴らしい景色が広がってきます。



標高1,300mの「姫鶴荘」の向かいの駐車場から道路左手(北)の眼下に広がる「姫鶴平」の景色です。

白い石灰岩が密集している中央の丘のはるか向こうに高い山が見えますが、方角と、形から「石鎚山」ではないかと思われます。

写真右手に広い駐車場があり、周辺は長い柵で囲った放牧場が広がっています。



「姫鶴荘」付近から東にのびる道の景色を撮った写真です。

2基の風力発電機の向こうに見える山は、五段城(地図⑧)のようです。

ここから東端の「天狗荘」まで、約4.5Kmの道のりで「四国カルスト」の絶景を楽しみました。



「姫鶴平」から東に進んだ辺りの道路わきに放牧された牛が草を食べていました。

ベージュ色の毛から「ジャージ種」の乳牛と思われます。

「ジャージ種」は、一般的な白黒の「ホルスタイン種」より濃厚な牛乳を出すようです。

四国カルストで放牧されている牛は、ほとんどツノが生えているようでしたが、妻は、ツノのあるこの牛を見て雄牛と勘違いしていました。

ツノがない牛は、小さい時にツノを除去して伸びないようにしているようです。



道路北側の斜面の下に黒毛の牛がいました。

向こうに見える山の手前には深い谷があります。

下の道路を軽四トラックが走っていますが、この後、写真左手を少し過ぎた辺りで止まって、牛を呼び集めていました。

呼ばれて小走りに集まる牛の様子は、なかなか可愛らしいものです。

栄養のある穀物飼料などを与えているのでしょうか。



上段の写真の少し東側で見た景色です。

山の斜面を見下ろし、ズームで撮った景色です。

切り立った山の斜面の手前に緩やかな起伏の草原が広がり、放牧の牛がのんびりと草を食べていました。

こんな景色をゆっくりとながめていると、心の底から和みます。



道の向こうに五段城が近づいて見えてきました。

この辺りには大小の石灰岩の岩がゴロゴロしています。

道路の両脇には柵に有刺鉄線が張られて、放牧の牛と仕切られています。



「五段城」付近から道路右手の南東方向を見た景色です。

この辺りには所々に道路脇が広くなった駐車場があり、ゆっくりと景色が楽しめます。

斜面中腹に見える道路は、上段の地図⑩「天狗荘」から高知県側(南)に向かうスピンカーブの道です。



「五段城」横の道路から見上げた景色ですが、頂上は見えません。

「五段城」の頂上は、標高1,455.6mですが、この辺りの道路の標高も1,420mと高く、四国カルストの道路では最も高い場所のようです。

以前に行った北九州市の南端にあるカルスト台地「平尾台」に「羊群原」[ようぐんばる]と呼ばれる場所があります。

「羊群原」の名の通り、遠くから見るたくさんの石灰岩は、本当に羊の群れに見えたのを思い出します。

■「五段城」横の駐車場に案内板がありました。
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五段高原
五段高原は四国カルストの中でも最も景観がすぐれており、標高は1,000mから1,456mあります。
晴れた日には、東に室戸岬、北に石鎚山が遠望できます。
車道のない時代には人々は歩いてここを越えていましたが、急な坂道を登る途中、緩い区間が五つあったことから、この名がつけられました。
近くのササ原には「巨人の踏切」と呼ばれる6㎡ほどの窪地があります。
この付近には、大小のドリーネ(石灰岩が雨水によって溶食された窪地)が集まっています。
特に大きいドリーネは直径が8m、深さは5mもあります。
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地図には「五段城」、案内板には「五段高原」とあり、違いがよく分かりません。



11:00頃、四国カルストの東端「国民宿舎 天狗荘」横の駐車場に到着、西を見た景色です。

向こうに見えるなだらかな山の頂上には散策路を歩いて登る東屋があり、左手に小高く盛り上がっている場所には展望台があります。

後ろ(東側)には天狗高原の山頂(標高1,484.9m)がそびえ、一帯には「天狗高原セラピーロード」と呼ばれる散策路があります。

今回、とりあえず、道路に沿った景色を掲載しましたが、次回には、ススキの散策路や、「カルスト学習館」などを予定しています。

「猿田彦神社」の参拝で見た不思議な八角形

2009年09月27日 | 近畿地方の旅
「月讀宮」から内宮方面に国道23号を約1Kmの「猿田彦神社」へ参拝しました。

内宮の大きな駐車場と、国道23号を挟んで西隣にあります。



「猿田彦神社」の参道口です。

参道口は、アスファルト舗装で、やや興ざめですが、鳥居付近から向こうは細かな砂利が敷き詰められ、さすがに拝殿前は神域の雰囲気が感じられます。

「猿田彦神社」は、当初「猿田彦大神」の子孫とする伊勢神宮の宮司「宇治土公[うじのつちぎみ]氏」が、邸内で祖神を祀る私的な神社だったようです。

江戸時代末期に火災があり、明治11年の社殿再建で正式な神社となったと言われています。

■頂いた神社の資料を転記します。
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猿田彦神社御神徳略記
主神  猿田彦大神
相殿  大  田  命
御  由  緒
猿田彦大神[さるたひこおおかみ]は天孫降臨[てんそんこうりん]の時、天八衝[あめのやちまた]に待ち迎えて、啓行[みちひらき]をされ、天孫を高千穂[たかちほ]へと導かれてから、天宇受売命[あめのうずめのみこと]に送られて、伊勢の五十鈴[いすず]の川上に来られ、こゝを中心に広く国土を開拓指導された地主の神で、皇大神宮がこの地に鎮座されたのは天上からの幽契[ちかい]によると古書に伝えられて居ります。
垂仁[すいにん]天皇の御代に皇女倭姫命[やまとひめのみこと]が神宮鎮祭の地を求めて諸国を巡歴された時に、猿田彦大神の御裔[みすえ]の大田命[おおたのみこと]がお迎えして、大神以来守護して来た五十鈴の川上の霊域を献上して、伊勢の神宮を創建申し上げました。大神と大田命との子孫は宇治土公[うぢのつちぎみ]と云い以来永く玉串大内人と云う特殊な職承に任ぜられて代々奉仕して来ました。
御神徳高い大神は佐田大神、千勝大神、白鬚大神、導祖神、さいの神、庚申さま等々として津々浦々にお祀りされますが、日本書紀にも伝えられている通り、大神本拠の地であり大神の末孫宇治土公[うぢとこ]家の累代奉祀する最も特色ある本社であります。
大神は古来物事のはじめに災害を祓い、万事最も善い方へみちびき給うとされ、特に地祭[じまつり]方除、災除、建築、移転、開業、商工業の繁栄、豊産、豊漁、開運の御祈祷を全国から出願されます。

境内社佐瑠女神社
俳優[わざおき]、神楽[かぐら]、技芸、鎮魂[ちましづめ]の祖神[おやがみ]と仰がれる、天宇受売命[あめのうずめのみこと]を奉祀。天照大御神が天岩窟[あめのいわや]に籠[こも]られ世の中が乱れたとき、天宇受元命がその前で神楽をされ、そこに集った八百萬の神々が喜び笑い、天照大御神再び現れて平和な世になったと伝えられます。
また天孫降臨に際して待ち迎えた猿田彦大神と最初に対面し、高千穂の峯に至る道を開かれ、その後本拠の地に赴[おもむ]かれる大神と共に伊勢に来られ、その功により「媛女君[さるめのきみ]」と称号を受けられました。
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鳥居の前から拝殿方向を見た写真です。

よく見ると、鳥居や、灯篭の柱が八角形でした。

参道口の手水舎の柱も八角形ですようで、何やら特別な理由がありそうです。



拝殿前に「古殿地」の文字と、古来の方位が刻まれた「方位石」と呼ばれる石柱が柵に囲まれ、建っていました。

「古殿地」の意味は、江戸時代末期の火災前に神殿が建っていた場所ということでしょうか。

この「方位石」に刻まれた「星回り図」の八角形が、各所に使われている柱の八角形の元になっているものと思われます。

これは、方位除け、厄除けの祈祷をPRする目的か、拝殿正面に極めて目立っていました。(神社も厳しい生残り競争の時代でしょうか)

神社や、お寺の祈祷では生れ年で決まる「九星※」が、その年の星回りで凶方に位置する場合に行われるようです。

※九星の星回り
一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星

ちなみに「六白金星」の私は、今年が厄年で、お正月に近くの神社で厄払いをして頂きました。



「猿田彦神社」の拝殿です。

「猿田彦神社」の祭神は、「猿田彦大神」その末裔「大田命」です。

建物正面中央は、独特の建築様式「二重破風 妻入造」で、ツノのように突き出した「千木」も美しさを引き立てているようです。



拝殿後方の神殿を横から垣根越しに仰ぎ見た写真です。

全体的に美しさを感じる建物で、「千木」の先端は、内宮と同じ内削ぎになっていました。



境内にもうひとつ「佐瑠女神社」[さるめじんじゃ]の簡素な社殿がありました。

参道口を入ったすぐ脇に、本殿側に向いて建っています。

祭神は、猿田彦と夫婦の神様「天宇受売命」[アメノウズメノミコト]です。

■置かれていたパンフレットを転記します。
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縁むすび御守
さるめ神社
人と物が様々に出合い結ばれる
ことによって新しい形が生まれ、
またそれぞれが成長していきます。
天岩戸開きを誘い、猿田彦大神様と
豊かな道をひらかれた天宇受売命
(アメノウズメノミコト)様の御守です。
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社殿の裏手に「御神田」と刻まれた大きな石碑と、水田がありました。

左右と突当りは、木々が茂った林になっています。

社殿横の通路に「御神田」と矢印が書かれた立て札があり、案内に従ってたどり着いたものです。

右手の林の中に不思議な建物が、かすかに見えています。(下段に紹介しています)



休憩所に掲示されていた御田祭[おみた]のポスターです。

ここを訪れたのが5月4日、御田祭の開催日前日でした。

この女性がかぶっているのは平安時代からの市女笠[いちめがさ]のようですが、縁がフラットで、初めて見る形です。

平安時代の市女笠として見たものは、縁が下に曲がり、顔が少し隠れるものでしたが、市女笠にも時代や、用途による違いがあったのでしょうか。



田植えの準備が整った水田の右手から左奥を見た景色です。

水田の奥に藤棚と、その下にサツキが見え、花が開き始めていました。

右手の奥のテントの下に注連縄で囲まれた場所が作られ、「御田祭」の神事が行われたものと思われます。



水田の右手奥に得体のしれない建物がありました、

建物の前に小さな立て札があり、「猿田彦土中神社 ご自由に中にお入りください 内部観覧時間 午前9時~午後5時・・・」と書かれていました。

写真も吊り下げられています。

見学したのは朝8時過ぎで、残念ながら鍵が閉まっていました。



石段の上に不思議な建物があり、その前に小さく「猿田彦土中神社」の立て札があります。

入口は極めて小さく、茶室の入口のような大きさです。



横から見た「猿田彦土中神社」の建物です。

この建物は、「猿田彦神社」の各所に見られる八角形柱でした。

気になって「猿田彦土中神社」を検索すると、美術家の鈴木寅二啓之氏の作品を制作し、この建物と合わせて奉納するまでを「猿田彦土中神社」の名称でドキュメンタリー映画にしたようです。(2009年8月公開)

鈴木寅二啓之氏が、墨で描いた絵を土に埋め、バクテリアなどの作用で変化させ完成品とするもので、実に風変わりな技法のようです。

伊勢神宮別宮「月讀宮」の不思議

2009年09月20日 | 近畿地方の旅
5月4日7時過ぎに「松下社」を出発、7:30頃には伊勢市中村町の「月讀宮」に到着しました。

「月讀宮」は、伊勢神宮 内宮の別宮で、天照大御神の弟神「月讀尊」を主祭神とする神社です。



国道23号線沿いの裏参道口です。

参道口に2~3台の駐車場があり、利用させて頂きました。

御幸道路のすぐ脇にある表参道口よりこちらが落ち着いて出入り出来るようです。



「月讀宮」付近の地図です。

Aが裏参道口、Bが表参道口、Cも裏参道口と思われます。

①から②を経て右手上にある四つの社殿へ参拝しました。



参道②を右手に曲がると「手水舎」があります。



「手水舎」を過ぎ、③付近に二つの建物がありました。

手前は、板壁があり、倉庫のように見えましたが、向こうの建物は、壁のない柱だけの建物で、内宮・外宮でも見かけた形式です。

神事などが行われるのでしょうか。



左手に板塀に囲まれた小さな祠があり、後方には大木がそびえています。

この祠は、式年遷宮の御敷地[みしきち]に建つ心御柱覆屋のようにも見えますが、板塀に囲まれているものは初めて見ます。

又、式年遷宮の御敷地[みしきち]は、石垣の上の左手にあり、この場所とは違うようです。

板塀に囲まれ、参道脇にあるこの小さな建物は、私にとって今でも謎です。



四つの社殿に立て札があり、一番奥から「月讀荒御魂宮[つきよみのあらみたまのみや]」「月讀宮」「伊佐奈岐宮[いざなぎのみや]」「伊佐奈弥宮[いざなみのみや]」と並んでいました。

社殿を取り巻く新緑の森の美しさが印象的でした。



「月讀宮」の社殿です。

「月讀尊」は、「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」の子供で、天照大御神の弟神、素盞嗚尊の兄神とされています。

このブログで、<2009-07-14 外宮別宮「月夜見宮」へ参拝>でも記載していますが、外宮の別宮に「月夜見宮」があり、祭神も「月夜見尊」とされ、「「月讀尊」と同じ神様です。

その記事にも少し書きましたが、天照大御神の弟神「月讀尊」が、内宮・外宮両方の別宮として祀られていることや、弟神「素盞嗚尊」が別宮に祀られていないことなど、とても不思議に感じます。



上段の地図④にある「宿衛屋」[しゅくえいや]で、お札・お守りの授与を行っている施設だそうです。

朝早く、まだご出勤前のようで、留守でした。



参道口から②付近で突き当った場所に式年遷宮の新御敷地があります。



①参道口を進み、②までの中間に「葭原神社」[あしはらじんじゃ]があります。

「葭原神社」は、内宮の末社だそうで、ここにも式年遷宮の新御敷地があました。



裏参道から「葭原神社」へ上がる石段です。

「葭原神社」の祭神は、「佐佐津比古命」「宇加乃御玉御祖命」「伊加利比売命」とされています。

「宇加乃御玉御祖命」は、稲荷神社の祭神と思われますが、他の二神は初めて聞く神様です。

5月連休の伊勢神宮の参拝の記録も「猿田彦神社」が残るだけとなってきました。

「三平山」から見た「大山」「烏ガ山」の絶景

2009年09月16日 | 山陰地方の旅
9月13日、岡山県の蒜山[ひるぜん]に近い、鳥取県の県境にそびえる三平山[みひらやま]へ登りました。



「三平山」頂上から見た伯耆大山と、右手が烏ヶ山[からすがせん]です。

久しぶりの山歩きで、爽快な気分になりました。

晴の予報でしたが、残念ながら、大山の頂上に少し雲がかかっています。

本のグラビア写真で見た三平山頂上からの雪の大山は、素晴らしいものでしたが、今日は全体的に少し霞んでいるようです。



「三平山」(標高1009.m)付近の地図です。

蒜山ICから国道482号を米子方面(西)へ走ると「内海峠」があり、下り始めて直ぐに左折します。

さらに案内標識を見ながら左折すると三平山登山口の駐車場があります。

駐車場からは①から⑥の番号順に進み、①の駐車場へ戻ってくるコースを歩きました。



「内海峠」を左折し、数百メートル走った左手にある案内標識です。

ここから左折し、約2Km走ると三平山の登山口です。

三平山の南には朝鍋鷲ヶ山(標高1,074m)があり、三平山からの縦走コースがあります。



①駐車場のすぐ先にある三平山の②登山口です。

10:10頃、10台程度の駐車場は、すでに満車状態で、幸運にも1台空いていました。

ここから頂上までの道は、ジグザクの道でコンスタントな傾斜が造られ、予想以上に楽な登りでした。

登山道は、全体的によく整備され、素晴らしい眺望と合わせて気持ちの良い山歩きが出来ました。



②登山口から③八合目付近まではこんな「蒜山三座」の眺望が楽しめます。

「蒜山三座」の麓に広がる蒜山盆地は、約15万年前には東西に長い湖(蒜山原湖)だったそうです。

2年前の4月、「蒜山郷土博物館」を見学して知ったことですが、すぐ隣に「四つ塚古墳群」もあり、たくさんのツクシを摘んだ思い出がよみがえりましたす。



③八合目付近を少し上から振り返って見た景色で、茶色い案内板が見えます。

写真ではよく分かりませんが、道の両側の地面が、だいぶ低くなっています。

■茶色い案内板に「土塁」の説明文がありました。
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土塁[どるい]
この土塁は、明治31年(1898)蒜山の原野2,300haが陸軍の軍馬育成場として接収された時に放牧された軍馬が外に出ないように建設されたもので、実に総延長56Kmに及ぶ大工事であった。現在残存している46Kmの土塁には往時をしのばせる幾多の史実が秘められている。
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土塁は、稜線に沿って造られ、一段高い土塁の上を登山道として利用しているようです。

土塁は、頂上を挟む南北の登山道にありましたが、頂上付近では跡形なく崩れていました。

高い山上に56Kmの土塁を築く工事は、実に膨大な労力をかけたもので、明治の富国強兵政策のすざまじさを感じます。



すぐ先に頂上が見えてきました。

周囲にはほとんど木が無くなり、ネザサと、ススキが広がっています。

前日の雨のせいか、急斜面では道の黒土が滑りやすくなっていました。



11:00頃、山頂に到着しました。

左手の雲が掛った山が、「大山」、右手の三角形の山が「烏ヶ山」[からすがせん]です。

石柱は、その裏側をくり抜き「豊年様」[とよとしさま]が祀られています。

■石柱のそばに茶色の説明板がありました。
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豊年様[とよとしさま]
明治5年(1872年)4月に建立され、豊受大神(食産霊神)を祝って豊年祈願をしてきた。古くは6月11日に、ふもとの白髪の人たちによって祭られている。
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「豊受大神」は、伊勢神宮の外宮の祭神ですが、「豊年様」[とよとしさま]と呼ぶのはここだけではないでしようか。

写真の左手に、遠く米子市街や、弓ヶ浜の景色かが広がり、素晴らしい眺望でした。



「烏ヶ山」[からすがせん]を頂上からズームで撮ったものです。

名の由来通り、烏が羽を広げたような姿に見えます。

手前の草が「ネザサ」で、1本の茎に細い葉が10枚程度ついている種類です。

三脚を立て、妻と記念写真を撮り、広い山頂の草原に座り、家から持参したおにぎりを食べながら素晴らしい景色をゆっくりと楽しみました。



④山頂から南の下山コースを見た景色で、⑤穴ヶ乢[あながたわ]は、すぐ先の山を過ぎて下った場所にあります。

山頂から少し下ると道が二手に別れ、案内標識が無く、迷いましたが、左折する方向に進みました。(正解だったようです)



上段の写真に見えた小高い尾根から振り返った三平山山頂です。

山頂で一緒だった10名程度のにぎやかなパーティーが、下山して来るのが見えます。



⑤穴ヶ乢[あながたわ]の北にある急斜面の道から下の舗装された林道を見下ろした景色です。

真赤な木の実がとてもきれいでした。

穴ヶ乢までの急斜面の道は、非常に歩きづらく、何度も滑りそうになりました。

おかげで久々の筋肉痛登山になってしまいました。

「松下社」の気になる小さな鳥居

2009年09月14日 | 近畿地方の旅
「御塩殿神社」から二見浦海岸沿いを東に向かい「松下社」を参拝しました。

二見の「夫婦岩」付近から国道42号に合流、鳥羽方面へ1~2Km走った所に「松下社」があります。

すぐそばを五十鈴川の派流が流れています。



国道42号線沿いに「松下社」の森が茂り、クスの古木がありました。

幹や根の中央が空洞になりながらも枝や、葉が元気に茂っています。

背後の境内は、一段高くなっています。

■柵に囲まれたクスの木の根元に立て札がありました。
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 松下社の大クス
県指定文化財
松下 松下社 昭和一二・一二・一〇指定
 松下社宮域内の南東部にあり、昭和一二年(一九三七)一二月一〇日に三重県の天然記念物に指定されている。
主幹は五メートル位を残して枯損し下部は空洞化しているが、樹幹基部の周辺から枝幹が張り出して堂々たる景観を保っている。
 樹齢は二〇〇〇年とも言われているが、その風格は幽遠な蘇民の伝説を秘めた神社によく適応し、より一層の荘厳さを漂わせている。
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松下社付近の地図に境内の建物名称(推測)を張付けたものです。

黄緑のエリアが松下社の境内で、参道口がA・B二ヶ所あります。

大クスは、国道42号沿いにあり、真っ先に見えます。



上段の境内図にある参道口Aです。

右手には手水舎があります。

神社の境内がとても奇麗に掃除され、本当に気持ち良く参拝させて頂きました。

地元の方々が、「松下社」を大切にされていることが分かります。



三段の石段が見えています。

石段を上がった左手に板塀と、入口があり、神社の門のようです。

突き当たりを右手に進むと再び石段があります。



板塀越しに中を覗くと、小さな祠がありました。

立札には「蘇民祠」と書かれてあり、蘇民将来を祀る祠のようです。

この地では「蘇民将来子孫」と書いた桃符を注連縄に吊す習慣が古くから続いているようです。

「蘇民将来」の伝説は、「備後風土記」(広島県東部)の逸文にありますが、この地方に色濃く残っているのはなぜでしょうか。

■東洋文庫「風土記」吉野裕訳 にある備後風土記の逸文を転記します。
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備後国[きびのみちのしりのくに]
 蘇民将来
 備後の国の風土記にいう、-疫隅の国社[えのくまのくにつやしろ]。昔、北の海においでになった武塔[むとう]の神が、南の海の神の女子を与波比[よばい](求婚)に出ていかれたところが、日が暮れた。その所に将来兄弟の二人が住んでいた。
兄の蘇民将来はひどく貧しく、弟の将来は富み、家と倉がー百あった。ここに武塔の神は宿を借りたが、惜しんで借さなかった。兄の蘇民将来はお借し申しあげた。そして粟柄[あわがら](粟の茎)をもって御座所を造り、粟飯などをもって饗応した。
さて終わってお出ましになり、数年たって八桂の子供をつれて還って来て仰せられて、「私は将来にお返しをしよう。お前の子孫はこの家に在宅しているか」と問うた。蘇民将来は答えて申しあげた。「私の娘とこの妻がおります」と。そこで仰せられるには、「茅の輪を腰の上に着けさせよ」と。そこで仰せのままに〔腰に茅の輪を〕着けさせた。その夜、蘇民の女の子一人をのこして、全部ことごとく殺しほろばしてしまった。そこで仰せられて、「私は速須佐雄[はやすさのお]の神である。
後の世に疫病がはやったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰に着けた人は免れるであろう」と
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松下社の拝殿の前に立ちました。

鳥居、壁のない銅板葺きの拝殿、その奥に塀に囲まれた神殿があります。

右手の茅葺きの建物は、絵馬が多く掛けられていることから「絵馬殿」とも思われます。



拝殿前の両脇に門のような石組みがあり、小さな鳥居と、枯れた榊が置かれていました。

始めて見るものです。



拝殿から見た「松下社」の神殿です。

■立て札に祭神が書かれていました。
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ご祭神
 不詳一座
 素盞鳴尊
 菅原道真
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拝殿横にある茅葺の建物です。

神様に奉納された絵馬がたくさん飾られていました。

奉納された絵馬が神様に見えるよう配慮してか板壁の建物に窓が広く開いています。



社務所と思える建物ですが、常駐する人はいないようです。

建物の前に石と注連縄で囲まれた木がありました。

大木でもない木に注連縄が張られ、いったいこの木は何なのでしょうか。



南の参道口近くに「山の神」と書かれた立て札があり、小さな鳥居が立掛けられた枯れた榊の束がありました。

拝殿前にも同じものがありましたが、一体何でしょうか。

古代の信仰の形を思わせるとても珍しいものです。



参道口Bから見た境内です。

神殿建物の方向から、こちらが正式な参道口のようで、この後方に一の鳥居がありました。

境内のあちこちで見た榊の束に立掛けられた小さな鳥居の不思議な光景が今でも気になっています。

伊勢神宮の製塩施設「御塩殿神社」

2009年09月09日 | 近畿地方の旅
「御塩浜」の見学を終え、6:30頃、すぐ近くの「御塩殿神社」[へ行きました。

駐車場がなく、参道口まえの道路脇に駐車し、短時間で参拝させて頂きました。



「御塩殿神社」みしおどのじんじゃ]の前は変則的な三叉路で、カーブミラーから左手に進む道が、外宮に至る「御塩道」[みしおみち]です。

「御塩道」は、「御塩殿神社」で作られた「御塩」を外宮まで運ぶ約10Kmの街道だそうです。

右手の道路の横断歩道をそのまますすむと「御塩殿神社」の参道です。

■カーブミラーの下ある二つの白い石碑の小さい方に説明文が刻まれていました。
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鴨長明は、鎌倉時代初期の人で、「方丈記」の作者としても有名です。
文治二年(1186)ごろ、二見の御塩殿を訪れ、ひの物ふりて神々しいたたずまいにすっかり感動しました。それがこの歌です。
  二見町教育委員会
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■大きい石碑に刻まれていた鴨長明の歌です。
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二見潟神さびたてる御塩殿 幾千代みちぬ松かげにして 長明
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早朝の「御塩殿神社」の参道口です。

真直ぐに進む参道は、木が生い茂り、薄暗いトンネルのようでした。

■参道口前の道端に「御塩殿神社」の案内文が刻まれた石碑がありました。
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御塩殿神社
塩筒翁の神がまつってあります。
域内に皇大神宮の御料の御塩を調製する御塩殿、御塩焼所、御塩汲み入れ所があります。
御料の御塩は、夏の土用に町内の西地内にある御塩浜から運ばれた塩分の濃い海水を御塩汲み入れ所におさめ、これを御塩焼所で荒塩に焼きます。
さらにこの荒塩を、毎年三~四回、御塩殿において三角形の土堝をもって堅塩に焼き固めて、これを御料に供えています。なお、御塩の調進は昔から神領二見郷の住民が奉仕しております。
  二見町教育委員会
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参道を進むと「御塩殿」[みしおでん]が見えてきます。

鳥居があり、板垣に囲まれた建物で、てっきり「御塩殿神社」と思いました。

「御塩殿」は、粗塩を焼き固めて「堅塩」を作る施設だそうです。



「御塩殿」の左手にこじんまりとした「御塩殿神社」の建物がありました。

「御塩殿神社」は、皇大神宮の所管社で、この建物は他の所管社と同じようです。

参道口の案内板によると祭神は、「塩筒翁の神」とあります。

「塩筒翁」[しおつつのおきな]は、日本書紀に出てくる「塩土翁」と同じ神様と思われます。

釣針をなくして途方にくれた山幸彦(彦火火出見尊)を助けた場面や、神武天皇(山幸彦の孫)へ東征を進言した場面に登場します。



右手から見た「御塩殿」です。

「御塩殿」の右手後ろの塀の中に「御塩御倉」の屋根がほんの少し覗いています。

「御塩御倉」には「御塩殿」で作られた「堅塩」が外宮へ運ばれるまで保管されているようです。



「御塩殿」の右手に社務所のような建物が見えます。

その建物の横の道を左手に進むと「御塩殿」の後方にある「御塩焼所」「御塩汲入所」があります。



林の中の道を進むと生垣に囲まれた「御塩焼所」「御塩汲入所」が見えてきます。

人気のない早朝の境内を妻と二人で歩いて行きましたが、無断で奥まで入って行くことにいささか躊躇してしまいます。



左手の建物が「御塩焼所」、右手の建物が「御塩汲入所」です。

ここにも鳥居があり、神聖な場所への入口としているようです。



御塩焼所[みしおやきしょ]では、大きな鉄鍋で鹹水(濃縮された塩水)を煮込み、水分を蒸発させて粗塩を作る施設だそうです。



鳥居の向こうに「御塩汲入所」[みしおくみいれしょ]の建物があります。

前回紹介した御塩浜から運ばれた「鹹水(濃縮した塩水)」を保管する施設だそうです。

屋根が低いため建物の中を立って歩くのがつらいようです。

入口が見当たりませんでしたが、左手の妻側にあるのでしょうか。



「御塩汲入所」の切妻と、後方の「御塩焼所」の切妻が並び、美しく見えました。

この建物の建築様式は、「天地根元造り」[てんちこんげんづくり]と呼ばれ、竪穴住居のイメージも感じるスタイルです。

伊勢神宮の塩田「御塩浜」

2009年09月06日 | 近畿地方の旅
5月連休の熊野・伊勢・志摩旅行の続きです。

旅行3日目、5月4日の早朝6時過ぎ、伊勢市二見町荘にある「御塩浜」に行きました。

この後に見学予定の、「御塩殿[みしおどの]神社」と合わせたものが伊勢神宮の製塩施設のようです。



人気のない五十鈴川の河口付近の土手から興味津々で「御塩浜」[みしおはま]を見下ろしました。

手前のコンクリートのマスは、海水の取水口で、塩田は柵に囲まれた部分(縦38m、横31m)です。

写真には見えませんが、すぐ左手に土手から下りる道があります。



伊勢市付近の地図です。

赤いマークの「御塩浜」は南の「伊勢神宮 内宮」の横を流れる五十鈴川の河口にあります。

ここで作られた濃縮塩水が、東にある「御塩殿神社」へ運ばれて塩になるようです。

現代ではトラックで濃縮した塩水を運ぶことが出来ますが、担いだり、荷車で運んでいた昔は製塩する「御塩殿神社」と同じ場所にあったものと考えられます。

二見浦で塩が作られ始めたのは「伊勢神宮」創建の頃とされていますが、当初は海水を煮詰める製法で、この御塩浜(塩田)はなかったものと思われます。

古墳時代後期~奈良時代の福井県小浜市の岡津製塩遺跡を見学したことがあります。

当時は、海岸に平たく石を敷き詰め、ソフトボール程度の大きさの土器に塩水を入れて複数並べ、その周囲で火を焚く土器製塩だったようです。

この「御塩浜」(塩田)の始まりは、それからかなり時代が下った頃からと思われます。



向こうに見える五十鈴川の河口から遡った土手に造られた御塩浜の取水口です。

土手の反対側に最初の写真の取水施設があり、干満の差を利用して海水を引き込んでいるようです。

この辺りでは五十鈴川の流れと、海水が混じり合っているものと思われます。

常識的には、塩分の薄い河口付近の水では海水を乾燥させる効率が悪いと考えられます。

しかし、一部の本では、河口付近の水が、きめ細かく、ミネラル豊富な塩が採れる先人の知恵が伝えられているとの見解もありますが実態は分かりません。



土手から道を下り、「御塩浜」の入口に立ちました。

御塩浜(塩田)の手前に鳥居がありましたが、特に社殿はありませんでした。

この鳥居で、やはり伊勢神宮の塩田であるとの感じが伝わってくるようです。



御塩浜(塩田)に近づくと、左手に物置小屋のような建物がありました。

作業の用具などが納められているものと思われます。



鳥居に近づいてみると、「黒木の鳥居」(木の皮を剥がず原木で造った鳥居)です。

左手には「貫」(笠木の下の二段目の横木)のない鳥居のようなものが立っていますが、何のためのものかよく分かりません。



土手の下の取水口につながった水路です。

突き当たりの土手の向こうには五十鈴川の河口付近の流れがあります。



御塩浜(塩田)の中の様子です。

正面の柵の下は、御塩浜(塩田)に塩水を入れる取水口のようです。

御塩浜(塩田)の中央付近に板が四か所に立てられています。

この場所は、沼井[ぬい]と呼ぶ施設で、濃縮された塩水を効率的に作る役割があるようです。



沼井[ぬい]の付近を拡大した写真で、奥行きが長く、長方形の穴が開いています。

この右手に大きな沼井の穴を掘るようですが、興味のある方は三重県醤油味噌工業協同組合 御塩作りの作業に掲載されていますので参考にして下さい。

「御塩浜」での塩作りは、一見昔の情緒を感じるものと思われますが、かなりの重労働のようです。

油絵「6月の道三川」

2009年09月02日 | 妻の油絵
妻の油絵「6月の道三川」(F20)号です。



6月末頃の作品で、家の近くを流れる道三川の風景を描いたものです。

昨日までの展覧会に出品するため掲載を控えていました。

この風景の場所は、福山市霞小学校南東の霞橋たもとにあり、川沿いのお家の方が、毎年精魂をこめて美しい花を咲かせています。

このブログ2009-06-14 福山市「道三川」の川辺に咲くあじさいに掲載した2段目の写真の場所です。

水辺の花の風景画を描きたいと言う妻と、道三川を散策して選んだ場所でした。

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