昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

神武東征の出発の伝承地「宮浦神社」

2007年01月13日 | 九州の旅
写真は、鹿児島県霧島市福山町の宮浦神社です。
日本書紀の有名な神話で、神武天皇東征の時、船出をした伝承地だそうです。
海岸に伝承を書いた看板がありました。
石段を上がった境内入口に神木の夫婦銀杏がそびえています。
夫婦銀杏は、推定樹令約1200年、幹回8m、高さ37m、とても元気そうな樹でした。
10月上旬の秋口、セミの鳴く鹿児島では葉も青々していました。
祭神は天神七代・地神五代・神武天皇と案内板に書かれていました。
「神武天皇東征とは何だったのか」とても興味があるテーマです。
推測ですが、「天忍穂耳尊」の子「瓊瓊杵(ニニギ)尊」の代から正統な系譜から外れ、ヤマトの「饒速日(ニギハヤヒ)尊」が天照大神の正統な系譜を継ぐ者だったのではないか、神武東征とは少し血縁が離れた皇族のクーデターではなかったのかと考えています。

福山町の「黒酢の壷畑」があった

2007年01月13日 | 九州の旅
写真は鹿児島県霧島市福山町で見た黒酢の瓶壷です。
鹿児島湾や、桜島が見える山の斜面にフェンスで囲われた「アマン(酢)壷畑」がありました。なにしろ今や健康食品ブームで高級品ですからね。
約200年前、中国から伝わった伝統製法で春と秋に仕込みを行っているそうです。
原料は、蒸した玄米、麹、水で、54リットルのカメ壷に仕込み、毎週1回かき混ぜる作業が続くそうです。屋外で約6ヶ月醗酵させた後、大きな瓶壺に移してさらに半年以上醗酵させると黒酢ができるそうです。
上の写真撮影には少し苦労しました。なんせ厳重なフェンスに「セコム」の看板があって、近づくにも神経を使いました。

巨大噴火に消えた「貝文土器文化」

2007年01月13日 | 九州の旅
写真上は、上野原遺跡で発掘の貝殻で文様を付けた平底の「貝文土器」です。他地区の縄文時代の土器は、底の尖った土器から始まり、平底の土器が出現するのは、縄文前期の6000年前頃からのようです。円筒形や、四方の縁が尖った9500年前のこのデザインは現代人にも洗練された美しさを感じさせてくれます。
「石蒸し焼き炉」と思われる直径10~20cmの石を多く置いた「集石遺構」が104基発掘されています。石を焼き、葉で包んだイモ・魚・肉を置き、土をかぶせて蒸し焼き料理をする施設と考えられています。南太平洋の島々では今でも行われている調理方法です。
「燻製施設」と思われる連穴土抗も発掘されています。大小二つの穴を数十センチ離して掘り、両方の穴を地中でつないだ設備です。大きな穴で火を焚き、小さい穴から出る煙で燻製を作っていたようです。
南九州では縄文時代草創期から独特の「貝文土器」の文化が栄え、6300年前の鬼界カルデラ(屋久島の北、硫黄島付近)の巨大噴火で西日本の縄文人が壊滅的被害を受けるまで続いていたようです。

三内丸山遺跡よりはるかに古い「上野原遺跡」

2007年01月13日 | 九州の旅
写真は、復元された9500年前(縄文時代早期前葉)の竪穴住居です。
52軒の住居跡が重なり合って発掘され、10軒程度のムラが長期間営まれていたことが分かったそうです。屋根は、かやぶきで、形は木を曲げて組み合わせ、ドーム型になっています。
遺跡は、海岸から500m離れた標高260mの高台にあり、高千穂峰と、桜島を結ぶ直線上の中間付近に位置します。上野原遺跡には大型の壺形土器や、石斧などを埋納した祭祀遺構があり、神の山を望む場所に銅鐸・銅剣など埋納し、祈っていたと思われる数千年後の古代信仰とも類似点があります。
桜島から北の鹿児島湾全体が「姶良カルデラ」と言われ、急斜面に囲まれたこの高台は、巨大な外輪山の一部のようです。
青森県三内丸山遺跡は、約5000年前(縄文時代中期)陸奥湾を望む高台に作られた集落ですが、鹿児島湾を望む高台に作られた点でよく似ています。
鹿児島県では平成11年に指宿市の水迫遺跡で、はるか1万5千年前の住居跡2軒が発掘され、定住が旧石器時代後期から始まった可能性が高いと考えられています。