昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

益田市「染羽天石勝神社」と、「米原恭庵」の石碑

2009年11月29日 | 山陰地方の旅
10月11・12日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

石見旅行の2日目 朝8:00頃、「染羽天石勝神社[そめばあめのいわかつ]」へ参拝しました。

「染羽天石勝神社」は、この地を開発した一族の祖霊を祀ったようで、奈良時代に創建され、明治維新の神仏分離までは「勝達寺」だったようです。

このブログ2009-11-23掲載の石見美術館の特別展で見た国の重要文化財「不動明王坐像」は、この勝達寺の本尊でした。


「染羽天石勝神社」の参道は、右手の益田東高校のグランド前にあります。

鳥居の前の石柱には「式内 縣社 染羽天石勝神社」、両脇に石灯籠には「瀧蔵大権現」の文字が刻まれていました。

下記の説明文に「弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]を石神とした自然崇拝を起源とし・・・」とありますが、「注連岩」は、背後に見える山の頂上の真下辺りにありました。

■境内の案内板に神社本殿の説明文がありました。
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国指定重要文化財
染羽天石勝神社本殿[そめばあめのいわかつじんじゃほんでん]
指定 昭和四年四月六日
染羽天石勝神社は、社殿の東側、弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]を石神とした自然崇拝を起源とし、神亀二年(七二五)に天石勝命を祭神として創建されました。
『延書式[えんぎしき]』に美濃郡五座のひとつとしてその名がみえ、後に蔵権現と呼ばれるようになりました。承平元年(九三一に社殿西側の高台に別当寺[べっとうじ]の勝達寺[しょうたつじ]を建立し、中世には益田氏の庇を受けて発展しました。
明治の廃仏毀釈に伴い勝達寺は廃寺となり、神社も名を染羽天石勝神社と改めました。なお、勝達寺の本尊であった不動明王坐像は鎌倉の極楽寺に現存し、国の重要文化財に指定されています。
 本殿は、天正九年(一五八一)に火災で焼失しましたが、益田藤兼[ふじかね]・元祥[もとよし]親子により再建されました。その後、江戸時代に修理され、昭和十二年に解体修理、昭和三十九年及び平成十年・十一年に屋根の葺き替え工事が行われています。
本殿は三間社流造[さんげんしゃながれづくり]で、三間×三間の身舎[もや]の前に奥行一間の吹放し板張りの庇床[ひさしゆか]を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。
本殿の特異な平面構成と装飾彫刻の蟇股[かえるまた]や手挟[たばさみ]に見られる桃山時代の特色から、昭和四年に国宝となり、戦後、文化財保護法の制定に伴い、改めて重要文化財に指定されました。
平成十八年十二月 益田市教育委員会
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右手の参道から境内に入り、左手の社務所前の駐車場から参道方向をみた様子です。

小さな屋根の手水舎から向って左の本殿に進んで行きます。

後ろの大きな建物の玄関が、手水舎の右手に見えます。

建物の出入口はここだけで、四方の壁面には窓が続いており、まるで寺院の講堂のような建物でした。

神社では初めて見る変った建物でした。



一段高く、石塀に囲まれた建物の前で、背後の本殿に参拝するようです。

写真の右手に見える大きな建物の裏手になります。



上段の写真の建物を正面から見た写真です

見た目には拝殿前の参拝する場所に見えますが、小さな屋根だけの建物です。



参拝の建物の奥には本殿に上がる石段がありました。

石段上の小さな赤い本殿を見上げた写真です。



参拝の建物の前から石段上の本殿を見上げた写真です。

染羽天石勝神社のすぐ左隣に別の神殿があり、上る石段がありました。

石段の横に神社のものとは違う石碑が見えます。



■石段の脇に興味深い江戸末期の医者「米原恭庵」の石碑があり、転記します。
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「米原恭庵頌徳碑」
米原恭庵は本名を祥 号を恭庵と称し文政十一年八月石見国高角村(現益田市高津町)米原宗敬の長男として生る 歳僅か十一才にして医学に志し 津和野藩医岩本靖庵に師事し 更に長門国須佐村田村玄洞に学び 十七才の時江戸に上り 竹内玄同の門を訪れ 西洋法内外科及牛痘種法等を修学の上帰郷す 
嘉永二年九月旧師田村玄洞より牛痘を入手し 初めて高角村において接種 翌年三月までに五百有余名に施行す 時に恭庵二十一才であった
当時高角港は津和野藩港として殷賑を極めたが 反面悪疫病の流行も亦猛威を振い 特に天然痘の災禍は地方住民を苦しめた 恭庵は惨状を見るに忍びず 私財を投じ決然として全国に先駆け牛痘接種を断行しその防疫に献身した 後 居を益田村に移し内外産各科に亘りその研究と診療に生涯を捧げた
ことに先師の医術に対する偉大なる研究心と牛痘実施の先駆者としての功績を讃えその遺徳を敬仰する
 昭和四十七年九月二十二日
  益田市美濃郡医師会建之
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■上段の写真向って左に新しく造られた石の案内板があり、上記の石碑と同様の説明に加え、次のことが刻まれていました。
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・・・・嘉永二年(1849)七月十七日に、オランダのモーニッケが長崎で日本初の牛痘接種に成功しているが、そのわずか二ヶ月後に僻地に住む恭庵が新しい接種法を実施したことになる。
・・・・右側後方の碑は恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑である。
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写真中央の石碑に向かって右隣に先の尖った石碑が江戸時代に恭庵が建てたようです。

新たな種痘技術を使う決意には、使命感の他、不安や迷いもあったと思われますが、この恭庵の話は、多くの人に希望と勇気を与えてくれるものと思われます。



石段を登ると小さな神殿があり、提灯には「染羽大元神社」と書かれています。



「染羽大元神社」の隣に「染羽天石勝神社」の赤い本殿があります。

この社殿は、天正九年(1581)に焼失、その後、益田藤兼親子により再建されとされ、おそらく桃山時代の建物と思われます。

天正九年(1581)は、織田信長が倒された本能寺の変の前年で、この神社も長い激動の歴史を生き延びてきたことを改めて感じました。



本殿の前部分を横から撮った写真です。

神社案内板に「・・・奥行一間の吹放し板張りの庇床を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。 」とあり、この建物の特徴はこの部分と思われます。



本殿に向かって右手に進むと弁天池があり、小さな鳥居と祠が見えます。

神社の説明文に「弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]」とあり、後方の山裾の岩と思われます。

神亀二年(725)に創建されたとされていますが、岩のある古代祭祀的な場所を見るとその以前から祭祀が行われていた可能性があります。



それぞれ特徴のある形の小さな石碑が並んでいました。

刻まれたひら仮名混じりの文が読めず、残念ながら何の石碑かわかりませんでした。

福山城博物館の「箱田良助と榎本武揚展」

2009年11月25日 | 日記
先週日曜日、福山城博物館で開催されていた2009年秋季特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」へ行って来ました。



福山城の天守閣の前では菊花展が開催されていました。

写真には写っていませんが、たくさんの菊の花が並び、賞を受けた花は素人の私が見ても立派に見えます。

菊花展も当日までのようで、夕方には花を片づけられていました。



天守閣の入口に上がる石段の横に特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」の大きな看板がありました。

「箱田良助」は、福山市神辺町箱田の出身で、江戸にでて伊能忠敬の弟子となり、日本地図の製作に参画した人で、榎本武揚の父です。

榎本武揚は、ジョン万次郎の私塾で英語学び、幕末には4年半の間、オランダ留学をしています。

帰国後、海軍副総裁に任命され、大政奉還の後には旧幕府の軍艦を率いて函館の五稜郭にたてこもった函館戦争の中心人物です。

その後、明治新政府に罪を許され、政府の要職を歴任した旧幕臣の中では別格の扱いを受けた人物でした。



特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」のパンフレットです。

展示の資料写真がなく、せめてこの写真でも参考にして下さい。



先週の土曜日、箱田良助の生家を訪ねました。

神辺町の要害山の西にある生家の横に、最近建立された石碑がありました。

最初よく分からず、管茶山記念館で道をたずねたら職員の方に現地まで車で案内して頂きました。



古い塀に囲まれた箱田良助の生家です。

道路の向こうが北、手前が南だったと記憶しています。

塀の右手には門があり、箱田良助の石碑は写真を撮っている道の右側にあります。

■福山市神辺町の「管茶山記念館」にあった箱田良助の説明文です。==========================================================================
箱田良助[はこだりょうすけ](1790~1860)
 箱田良助は、1790(寛政2)年、安那郡箱田村庄屋の細川園右衛門の次男に生まれました。名を良助、のちに左大夫、源三郎と改めました。細川家が一時期、地名である「箱田を名乗ったことから、良助もそれを苗字としました。
1807(文化4)年6月、17歳のとき、江戸に出て伊能忠敬に入門し、測量術(地図など作製するために土地の距離や面積、高さなど測る技術)を学びました。
 九州第一次測量、第二次測量に参加した後も、忠敬の一番弟子として、測量や地図作製に尽力しました。
1821(文政4)年の大日本沿海輿地全図の完成のために貢献しました。
1822(文政5)年、幕臣である榎本家の株を買って縁組みし、榎本園兵衛武規と改名しました。さらに、1844(弘化元)年には、御勘定万(幕府の会計係)となって旗本(将軍にお目通りできる武士)に加えられています。1860(万延元)年8月、71歳で亡くなりました。
 また、良助の息子には、1886(明治元)年の箱館戦争で政府方に対抗して五稜郭を占拠した榎本武揚(1836~1908)がいます。
 2001(平成13)年、旧細川邸前に、箱田良助の生誕地を示す記念碑が神辺町観光協会によって建てられました。
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管茶山記念館にある管茶山の銅像です。

菅茶山[かん ちゃざん](1748~1827年)は、地元備後地方では江戸後期の教育者として知られ、漢詩人・朱子学者として歴史に残る人です。

箱田良助は、茶山が開いた近くの廉塾[れんじゅく]に学んでいたものと思われ、茶山と、伊能忠敬との交友関係がきっかけで忠敬へ入門することになったと推察されます。

■管茶山記念館にあった管茶山の説明文です。
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管茶山
(1748~1827)
 名は晋帥[ときのり]、字は礼卿[れいきょう]、通称は太中[たちゅう]、号は茶山[ちゃざん]。
 管茶山は、酒造業で神辺東本陣主人も勤めた菅波樗平[すがなみちょへい]と半[はん]の長男として延享5(1748)年2月2日、備後の国安那郡川北村(現在の福山市神辺町川北)に生まれた。
 19歳のとき京都に遊学し、初め古文辞学[こぶんじがく]を市川某[いちかわなにがし]に、古医法[こいほう]を和田泰純[わだたいじゅん]に学んだ。しかし、古文辞学の非を悟り朱子学の那波魯堂[なばろどう]に入門した。しかし、古文辞学の非を悟り朱子学の那波魯堂[なばろどう]に入門した。那波門下の兄弟子には備中鴨方[びっちゅうかもがた]の西山拙斎[にしやませっさい]がいる。
遊学は6回に及び安永2(1773)年・安永9(1780)年には大坂で頼春水[らいしゅんすい]や「混沌社[こんとんしゃ]」社友と交わっている。
 天明元(1781)年頃、神辺に私塾「黄葉夕陽村舎[こうようせきようそんしゃ]」を開いた。塾は3室20畳の講堂、3棟の寮舎、菜園、茶山居宅からなる。寛政8(1796)年に福山藩の郷塾となり、「神辺学問所」「廉塾(れんじゅく)」と呼ばれる。塾では、菅茶山とともに藤井暮庵[ふじいぼあん]・頼山陽[らい・さんよう]・北條霞亭[ほうじょう・かてい]など都講(塾頭)による四書五経[ししょごはょう]を中心とした講釈がなされ、寺子屋などの初等教育を修了した10~20歳代の多くの階層にわたる塾生が2~3年にわたって学んでいる。
享和元(1801)年、福山藩の儒官[じゅかん]となり、藩校弘道館[こうどうかん]で講釈を始めた管茶山は、文化元(1804年)年・文化11(1814)年の2回江戸詰を命ぜられ、藩主阿部正精(あべまさきよ)直属の教授となり、文化6(1809)年には「福山志料[ふくやましりょう]」を、文政2(1812)年「福山藩風俗問状答書[ふくやまはんふうぞくといじょうこたえがき]」をまとめている。
 「宋詩に学べ」という文芸運動を西日本で大成した茶山は「当世随一の詩人」と評され、詩集「黄葉夕陽村舎詩[こうようせきようそんしゃし]」の発行は、多くの文人墨客[ぶんじんぼっきゃく]の来訪を促した。
 文政10(1827)年8月13日、管茶山は80歳で病歿し川北村(現在の神辺町川北)網付谷[あみつけたに]に葬られた。その墓碑は頼杏坪[らい・きょうへい]の撰文[せんぶん]である。
 「廉塾ならびに菅茶山居宅」は昭和28(1953)年に国の特別史跡に、「菅茶山の墓」は昭和15(1940)年に広島県史跡に指定されている。
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管茶山記念館に展示されていた伊能忠敬の肖像画です。

商家を隠居した50才から測量や天文観測を学び、56才の第一次測量(蝦夷地)から、74才に亡くなるまで日本地図の作成に情熱を燃やした生涯には感心します。

■管茶山記念館にあった管茶山と伊能忠敬の説明文です。
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管茶山と伊能忠敬
 1860(文化6)年、九州第一次測量(第8次測量)へ向った測量隊は、11月27日に神辺に到着しました。伊能忠敬が宿泊していた本陣(本荘屋菅波氏[ほんじようやすがなみし])に茶山が出向いて面会しました。「黄葉夕陽村舎詩」に「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」(伊能先生、命[めい]を奉[たてまつり]り諸道[しょどう]行きて測量、次いで見[まみ]え問い賦[ふ]して贈る)という詩があります。
 また、測量隊は1811(文化8)年の九州測量の帰路にも神辺を通り、箱田良助の生家(箱田村庄屋細川氏)に宿泊しました。茶山はそこへ使者を送っています。さらに、1812(文化9)年11月2日、神辺を訪れた伊能忠敬から銅版の万国図を贈られています。
1814(文化12)年、茶山の2度目の江戸滞在の際には互いに行き来して親交を深めました。
 第八次測量(九州第一次測量)から測量隊の一員として参加した箱田良助は、のちに茶山と伊能忠敬の交流を助けるなど重要な役割を担った人物でした。

「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」(伊能先生命[めい]を奉[たてまつり]り諸道[しょどう]測量し、行次いで見[まみ]え問い賦[ふ]して贈る)という詩に、茶山は幕府の命令によって日本全国の測量と地図作成に力を尽くした伊能忠敬を褒めたたえるとともに、忠敬の測量の経過を聞くことで自分の詩嚢[しのう](詩文を入れておく袋)に、中国の黄河や五岳(中国の霊山)をおさめたようだといい、忠敬のように諸国漫遊に生涯をささげられることをうらやましく思う、と詠んでいます。
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この資料も「管茶山記念館」に展示されていたものです。

箱田良助は、1807年に17歳で入門し、2年後の1809年の第7次測量に参加していることがわかります。

第7次測量の経路図が下に見えます。

経路=江戸→中山道→岐阜→大津→山陽道→小倉→九州東海岸→鹿児島→天草→熊本→大分→小倉→萩→中国地方内陸部→江戸



説明書きにナポレオン3世から将軍徳川慶喜に贈られ、榎本武揚に下賜されたとあった「フランス製軍服」と一緒に展示されていた「ディニェ モールス印字通信機」です。

武揚は、父良助の死去2年後の1862年から4年半の間、幕府の命でオランダに留学したようです。

オランダからは、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽」に乗って帰ったようですが、その半年後の1867年11月に大政奉還があり、翌年の江戸城開場から函館戦争へ突き進んで行きます。



今年8月2日朝に訪れた函館の五稜郭の案内板にあった「榎本武揚」と、「土方歳三」の写真です。

あいにくの雨で、写真に水滴が見えます。

五稜郭で蝦夷共和国政府を樹立、武揚は選挙で総裁となったようですが、翌年の1869年(明治2)降伏しました。

函館では函館戦争で散った土方歳三が予想以上に高い人気でした。



「福山城美術館」のある天守閣の最上階から北東方向の景色で、中央に蔵王山が見えます。

天守閣では福山市の歴史が上階に登るほど古い時代の展示になり、最上階では全国の城の写真展示や、360度の美しい景色が楽しめます。

益田の夜は、石見神楽と、仏像鑑賞

2009年11月23日 | 山陰地方の旅
10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

益田市の二つの柿本神社の参拝を終え、とりあえず駅前のホテルにチェックイン。

夕方から石見美術館で石見の仏像展と、いわみ芸術劇場で石見の夜神楽を見に行きました。



「石見美術館」、「いわみ芸術劇場」は、島根県芸術文化センター「グラントワ」の中にありました。

「グラントワ」は、屋根はもちろん壁までも石州瓦で造られていました。

最初は、石州瓦に気が付かず、ただ巨大で、風変りな壁だと思っていました。



近づいて壁を見ると屋根に使われている石州瓦ではなく、壁用の焼物になっているようです。

上下2タイプの瓦は、「石州瓦」と言うより「石州タイル」のようです。



島根県芸術文化センター「グラントワ」の中庭で、中央に浅い池があり、四方を建物で囲まれています。

中庭から見る施設も屋根から足元まで石州瓦が徹底して使われているようです。

「大きな屋根」を意味する「グラントワ」(フランス語)の名称は、石見の文化を象徴する石州瓦の建物から新しい文化を培って行こうとする想いからでしょうか。

玄関を入り、左手に「石見美術館」、右手から正面奥にかけて「いわみ芸術劇場」の施設が配置されていました。

最初に入場した石見美術館には「千年の祈り 石見の仏像」と題し、白鳳時代以降、千年以上の石見地方の仏像が30体余り展示されていました。



石見美術館の特別展「千年の祈り 石見の仏像」のパンフレットの一部です。

この仏像は、かつて益田市にあり、明治時代の神仏分離によって廃寺となった「勝達寺」にあった木造の「不動明王坐像」(国の重要文化財)です。

現在、神奈川県鎌倉市「極楽寺」に安置され、約100年ぶりの里帰りのようです。

この座像を横から鑑賞させて頂きましたが、背筋から腰にかけてとても美しい姿が印象的でした。

光背が外されており、正面から見てやや迫力に欠け、物足りなさを感じました。



当日、「グラントワ」の玄関にあたパンフレットの一部です。

訪れた日は、ちょうど美術館が一年に一回の無料開放デーとなっていました。



この仏像は、島根県大田市の「龍沢寺」の木喰[もくじき]作「釈迦如来坐像」です。

素朴さと、微笑みが何となく落ち着いた気持ちになります。

木喰(1718年~1810年)は、江戸時代後期に全国を旅して一木造の仏像を刻んで奉納した遊行僧・彫刻家だそうです。




石見芸術劇場の小ホールで開催される「石見神楽」のパンフレットです。

毎週日曜日18:00から定期公演が開催されているそうです。

「石見神楽」がこの旅行の一番の楽しみでした。



石見芸術劇場の小ホールの受付場所です。

受付が始まる17:30の少し前の様子です。



石見の夜神楽の定期公演の入場券です。

この入場券は、大切な記念として下を切り取る前に撮影したものです。



受付で頂いた当日の夜神楽のプログラムです。

岡見神楽社中は、浜田市の西の端にある久代町で、益田市の隣だそうです。

昔、益田市の神楽団から伝統衣装などを引き継ぎ、始めた経緯があり、益田市での公演には格別の想いがあるようです。

ユーモアのある方言で会話する場面や、熱くなる激しい舞に神楽の面白さを堪能しました。

柿本人麿の終焉を祀る宮「高津柿本神社」へ参拝

2009年11月21日 | 山陰地方の旅
10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

益田市戸田町の「戸田柿本神社」を後にして、益田市の市街地に近い「高津柿本神社」を参拝しました。



「高津柿本神社」の参道は、長い石段で、上には大きな楼門が建っています。

赤い欄干の橋の下の両側には鯉がおよぐ小さな池がありました。

石段の両側の手摺りに童謡の歌詞を白い板に手書きしたものがたくさん掛けられていました。

宮司さんが、歌聖人麿を祀る神社をもっと親しまれるように考えてのことでしょうか。



「高津柿本神社」は、益田市市街の西を流れる高津川の西岸にあります。(赤い鳥居)

今はありませんが、高津川の河口付近には柿本人麿終焉の地と言われる鴨島(後述しています)があったそうです。

万葉公園に隣接し、近くに「蟠竜湖」も見えます。

地図で見るとトナカイのツノのように枝分れしたような「蟠竜湖」は、谷がせき止められて出来た形だそうです。

海岸の砂が風で飛んで来て、谷が自然に堰き止められたと知り、驚きました。



長い石段の途中に堂々たる楼門がありました。

■楼門の由緒書があり、転記します。
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柿本神社楼門由緒
 歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に宮廷歌人として仕えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(724)、石見高津の鴨島で逝去された。
聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。万寿三年(1026)五月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。
 現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝九年(1681)、高角山に本殿、拝殿楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入り口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。
 この楼門は初層と上層からなり、二層とも桁行3間、梁間1.5間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。
 前回の大改修は明治二十四年(1891)に行われ、今回の平成十七年(2005)の改修は、百十四年ぶりの大改修となる。長い年月にわたる風雨等により劣化が進んだため、屋根の葺き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。築後三百二十四年を経て、二十一世紀の現代に再生された。
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石段を登った山の中腹に大きな拝殿がありました。

拝殿は、切妻が三重になった立派な建物で、初めて見る形式です。

写真左手に見えるのは柿本人麿の銅像、右手には社務所がありました。

■社殿の一段下の境内に神社本殿の案内板がありました。
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柿本神社本殿
(指定 昭和五十七年六月十八日)
柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。
鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長十三年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文十一年(1671年)には津和野藩主亀井茲政[これまさ]によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。
そして、延宝九年(1681年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入、桧皮葺で、唐破風造の向拝を有し、津和野の方向を向いています。殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。
また、柿本神社は享保八年(1723年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊が奉納されています。
平成八年三月    益田市教育委員会
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柿本人麿の銅像です。

万葉歌人を代表する人麿の銅像は、絵で見るより実に風格ある姿です。



拝殿の横から更に坂道を登ると、急斜面に建てられた「宝物殿」がありました。



「宝物殿」の前から拝殿奥の神殿を見ることが出来ます。

拝殿の銅版葺きとは違い、桧皮葺の立派な神殿です。



拝殿前の広場の端に人麿の歌が書かれた立て札があり、その横に高津川の上流方向が見えます。

石見のや 高角山の木の際より 我が振る袖を 妹見つらむか
(石見の 高角山の木の間から 私が振る袖を 妻は見てくれたろうか)

ここから見渡す景色で、何となく情景が浮かんでくるようです。

人麿の石見の妻とされる人は、島根県江津市の依羅娘子[よさみのいらつめ]で、高角山も江津市の山とされる説が有力のようです。

浜田市東部にある石見国府から国司の人麿が、江津市まで約13Kmを妻のもとに通っていたことになります。(参考-石見国府から益田市まで約47Km)

地元有力者の娘を現地妻としたのは政治的な配慮や、身分を考慮したものと思われますが、歩いて3時間の道のりは現代の感覚では気が遠くなるようです。

この他にも、人麿が石見で詠んだと思われる歌が書かれた立て札が3~4立っていました。

人麿を祀る宮司さんの気持ちが伝わってくるようです。



社務所で道を教えて頂き、拝殿前の境内から坂道を登り「和風休憩所」の裏にある「梅原猛記念碑」を見に行きました。

石碑には「柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台 梅原猛」と書かれています。

柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台 梅原猛

梅原猛氏は、著書「水底の歌 柿本人麿論」で発表した自説(柿本人麿が益田市沖の鴨島で水死刑となった説)を証明するため、地震で沈んだ鴨島の調査を行ったそうです。

この石碑は、その調査を記念するものと思われます。



拝殿の一段下の境内に梅原猛氏の海底に沈んだ「鴨島」調査の案内板があり、高津川河口にあったかっての「鴨島」の地図が描かれていました。

■案内板の説明文を転記します。
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鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況
昭和五十二年七月、梅原猛先生、考古学、地質学の先生等は、人麿公終焉の地である鴨島を科学的に立証するため、十日間の海底遺跡調査を試みられた。

海底調査資料より抜粋
●浅い所の水深は四米で、五~六米の所がかなり広がっている。
陸側で八米、沖へ向う側十二米、東西五百米、南北四百米位で面積は大体二十万平方米。

以下、省略しますが、石段に使われていたと考えられる石が引き上げられたと書かれていました。
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案内板の横に大きな歌碑があり、海底から引き揚げられた石が、台石になっています。

柿本人麿の生誕地「戸田柿本神社」へ参拝

2009年11月15日 | 山陰地方の旅
10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

益田市三里ヶ浜の「観音岩」を後にして、海岸沿いを西に約2Kmの場所にある「戸田柿本神社」を参拝しました。

旅行の下調べで、ここが柿本人麿の出生地とする説があることを知り、少し驚きました。

二十数年前、梅原猛著「水底の歌 柿本人麿論」を読んだ記憶では、人麿は流罪で都から遠く離れた益田市に連れて来られ、水死刑となった説が、強く印象に残っていたためです。

この地が人麿の出生地であり、終焉の地としたら「水底の歌」で読んだ非業の死のイメージには違和感が出てきます。

ともかく益田市は、人麿と強いつながりがあるようです。



東光山の中腹に建つ「戸田柿本神社」の社殿です。

少し長い坂道を登り切った境内から更に一段上にそびえる社殿には写真以上に大きく輝いて見え、品格を感じます。

拝殿のすぐ右手に四本の石柱で囲まれた柿の木があり、神木とされているようです。

■拝殿下の石段の横に神社の由緒が掲示されていました。
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戸田柿本神社由緒記
祭神は正一位柿本朝臣人麿であります。人麿公は今からおよそ千三百年前、天武、持統、文武の三天皇につかえ宮廷歌人として令名が高く、万葉集に数多くの長歌、短歌を遣しています。
そのうち「妻と別れて京に上り来る歌」「臨死[みまか]らんとする時自ら傷みて作る歌」は石見の国と人麿との深い由縁を物語っています。
わけても「万葉集」の「石見の海打歌の山の木の際りわが振る袖を妹見つらむか」の「打歌の山」が古くから益田市中垣内町の大道山とされ、その北西の戸田町は、生誕地、北東の高津町は死没地と伝えられています。
柿本社の宮司綾部家は四十九代続いている旧家ですが、その庭前の柿の木もとに、祭神は七才の童子となって孝徳天皇即位九年に天降ったと古記にあります。同家には人麿のお墓が現存しています。
社殿は神亀年代に創建され、学問、産業、疫病除厄の神様で、津和野亀井藩主をはじめ、古来地方民の尊崇厚いところであります。

 記
一、建造物 本殿 権現造り 文政五年 四月再建
      拝殿 妻破風  木造り明治二十九年再建、
              組み物の彫刻は精巧そのもの、美事である。
      宝庫、社務所  大正十二年建立   
      神楽殿     明治三十五年増築
二、御神体 柿本人麿木彫座像 ほかに人麿御童子像、付帯像計七体は益田市指定
               文化財、台座の動物浮かし彫りは妙である。
               作者は津和野藩士大島常一(文政五年作)
三、宝物  柿本従三位人麿記、人麿旧記、柿本集、筆柿古木の根など多数
      綾部家には近世古文書の所蔵が多い。なお境内には神木筆柿がある。
四、例大祭 四月十八日 新年祭 春季
  八朔祭 九月一日  新穀感謝祭 秋季

  昭和五十六年十一月吉日
    益田ロータリークラブ建之
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「戸田柿本神社」の駐車場近くにあった案内板です。

国道191号から南に曲がり、右折した道の脇に小さな駐車がありました。

この道を直進するとすぐ左手に「遺髪塚」、更に進むと「足型岩」「聖なる岩(柿本人麿伝承岩)」があるようです。

案内板の右上に「戸田柿本神社の御神体 人麿七体像」と書かれた写真があります。

上の写真には三体の像があり、中央に人麿像、左右に養父母像がありました。

その下には四体の従者の像があり、合わせて七体の神体像としているようです。



益田市の万葉公園にある「和風休憩所」に展示されていた戸田柿本神社の御神体像「人麻呂童形像」と案内された写真です。

人麿が生まれてしばらくして、両親が亡くなり、柿本家に語家(語り部)として仕える綾部家の夫婦によって養育されたとされています。

今から1300年以上前の話ですが、現在も綾部家が戸田柿本神社の宮司として49代続いていることに驚きました。



道路脇の駐車場から神社のある東光山方向を見た景色です。

小川に架かった橋を進むと右上に登る坂道が分かれ、参道になります。

神社の鳥居と、手水舎が、桜の木の陰になり見えていません。

付近には農家がまばらにあり、実にのんびりした場所です。



坂道を登り始めるとすぐに赤い鳥居が見え、その先に長い石段が続いています。

何と、安芸の宮島で、海に浮かぶ大鳥居と同じ形です。

鳥居の形式は「両部鳥居[りょうぶとりい]」と呼ばれ、左右四本の稚児柱で支えているものです。

扁額には金色の文字で「柿本神社」とあります。

益田市にはもう一つ高津町に「柿本神社」があり、戸田町にあるこの「柿本神社」と区別するために町名を付けて呼ばれているようです。



坂道を登って行くと境内が見えてきます。

左手の木の陰に拝殿があり、中央に「社務所」、右手の白壁の建物は「宝庫」、右端の建物は「神楽殿」と思われます。



境内の入口付近に珍しく石州瓦の鯱鉾が置かれていました。



白壁の「宝庫」です。

左右の壁の下部になぜか鬼瓦が付けられていました。



「宝庫」の鬼瓦を拡大した写真です。

石州瓦の鬼瓦と思われますが、なぜ壁に取り付けられているのか分かりません。

とにかく始めてみる光景です。



拝殿前に個性的な狛犬がありました。

窪んだ大きな目、鼻筋が通った顔は、始めてみる顔立ちです。



拝殿に登る石段の脇にこんな瓦が置かれていました。

拝殿の屋根にある瓦と同じように見えましたが、石州瓦が多用されている理由はまったく謎です。

帰る頃に3名の家族連れが参拝に来られましたが、静かな境内でした。

油絵「静物」

2009年11月14日 | 妻の油絵
妻の油絵「静物」(F6号)です。

個性の強い洋酒の瓶、カゴに盛られたアジサイのドライフラワーに、季節の果物「桃」、「スモモ」が元気そうに並んでいます。

まだ暑かった9月の作品で、背景のブルーは、涼しさを求める潜在意識が影響していたのかもしれません。

この絵を掲載するため、妻に絵のタイトル「静物」を聞かされました。

静物??? 

これだけ賑やかに物が並んだ絵のタイトルが「静物」・・・。 

何か適当なタイトルは、ないものでしょうかネー。

油絵「アメジストセージ」

2009年11月11日 | 妻の油絵
妻の油絵「アメジストセージ」です。



見慣れない紫色の花「アメジストセージ」と、秋を感じさせてくれる「あけび」と、カゴに盛られた「ざくろ」が描かれています。

この絵を見て紫の花がどんな花か想像が出来ず、妻に聞いてもよく分かりませんでした。

紫色の花の下は、水色の花模様が二つある緑の花瓶です。



11月8日の日曜日、笠岡市茂平で偶然見つけた「アメジストセージ」です。

広い干拓地の北にある山沿いの道にJAの産直野菜のお店があり、帰る時に裏手の門の横に咲いているのを見つけたものです。

しかし、妻は、絵に描いた花と少し色が違って白っぽいようだと言っていました。

「アメジストセージ」は、アメリカ大陸原産、シソ科サルビア属の植物で、別名「サルビア・レウカンサ」「メキシカンブッシュセージ」とも呼ばれています。



絵に描いた花と同じ色の「アメジストセージ」です。

この花も笠岡市茂平の道路端のお家の庭先に咲いていたものを見つけたもので、JAのお店を出て山沿いの道を西に少し走った場所でした。

妻が車からこの花を見て気付き、番犬に吠えられながら撮影させて頂きました。



JAのお店に植えられていた花を接写した写真です。

一つの茎に無数の花が付き、花は紫の根元部分・白い先端部分で構成されています。

以外にも花の表面は、起毛した柔らかい布のようで、拡大して気づいた美しさです。

二つの花の色の違いは、この先端部分の色の違いで、二番目の花は根元と同じ紫色でした。

この花は、イメージを表現するのが少し難しかったようです。

2009 卜部俊孝展に行きました

2009年11月08日 | 妻の油絵

今年の「卜部俊孝展」の案内はがきに印刷されていた「ばら」(水彩SM)です。

軽やかで、洗練されたタッチと、やわらかい色が魅力的に感じます。



案内はがきの一部です。

入場無料で、見学出来ます。

例年「展ギャラリー」で、11月14日から始まっていましたが、1週間早くなっています。



「展ギャラリー」を正面から見た様子です。

4台の駐車が可能で、ショーウィンドウには比較的大きな絵が掛けられています。



右手のショーウィンドウに掛けられている「ばら」(油彩F20)です。

陽射しで白っぽく見えますが、見ごたえのある美しさを感じます。

今回の展示されている絵では一番好きな絵でした。



左手のショーウィンドウに掛けられている「静物」(油彩F30)です。

卜部先生の顔とも言える重厚で洗練されたモチーフです。



会場に入り、すぐ右手の部屋の隅にあった「静物」(水彩)です。

ほとんど無彩色でしたが、洗練されたクラシックな魅力を感じます。



黒い線に緑で彩色された「美観地区」(水彩)です。

無造作に描かれたとも思えるそれぞれの線が、全体的に見ると、まとまりのある洗練されたイメージを出していることに驚きを感じます。



「あじさい寺」(水彩)です。

絵の右端に「康徳寺」と書かれており、広島県世羅町の雪舟庭園がある寺院と思われます。

見栄えが良く、この絵が最初に売約済みとなったようです。



最後に「尾道水道」(油彩F8)です。

天高く白い空が広がる素敵な風景画でしたが、少し暗い場所のため上手に撮影できませんでした。

卜部先生の絵の紹介にはこのタイプの風景画は欠かせないと思い、悪戦苦闘の修正画像です。



会場の様子です。

素敵な絵が並び、楽しい鑑賞のひと時でした。

失礼とは思いながら絵心のない私の感想を添えさせて頂きました。

「2007年の卜部俊孝展」「2008年の卜部俊孝展」の様子も、このブログに掲載していますのでご覧下さい。

益田市三里ヶ浜の「観音岩」

2009年11月07日 | 山陰地方の旅
10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

浜田市から日本海沿岸を西に走り、山口県萩市と隣接する益田市に向かいました。



益田市街を通り過ぎ、海岸沿いを5~6Km西へ走ると浜辺の近くに立つ「観音岩」があります。

海岸近くの海に半円形の大きな岩がそびえていました。



「観音岩」周辺の地図です。

益田市街を西に進むと石見空港があり、サンシャイン広場を過ぎた国道191号沿いに未舗装の駐車場があります。



駐車場から見た「観音岩」です。

駐車場に「海岸保全区域喜阿弥地先海岸」の案内板があり、「観音岩」から約1Km西の「喜阿弥港」までを保全区域とする図がありました。

海岸の土砂採取や、施設の工事などの場合、県知事の許可が必要と書かれています。



「観音岩」付近から西に続く長い砂浜です。

上の地図の「ふれあい広場」そばに海水浴場のマークがあることから夏には大勢の人で浜がにぎわうものと思われます。

先に見える岬は、1Km先にある「喜阿弥港」辺りでしょうか。

13:30頃、少し陽が西に傾きかけ、逆行気味の写真になりました。



西から見た「観音岩」をアップで撮ってみました。

良く見ると右向きのネズミのようにも見えます。

左に伸びたシッポ、丸めた背中、右側にある丸い目、顔の下に揃えた前足・・・。

岩の裏は日陰でよく確認できませんでしたが、

岩の裏は、日陰でよく見えませんでしたが、この岩の面は、どう見ても観音様には見えません。



「観音岩」の上部を拡大した写真です。

岩の一部には草が茂り、毛がびっしりと生えているような感じにも見えます。



海岸を東に進み、海岸とほぼ直角方向に見た「観音岩」です。

なぜこの岩を「観音岩」と呼ぶのかわかりませんが、岩礁の目印となって付近を航行する船の安全を守っていたものと考えられます。

山陰西部の海岸で、観音にまつわる場所は、今回石見旅行の最初に行った畳ヶ浦の穴観音、2007年8月の山口旅行で行った長門市油谷の「立石観音」があります。

いずれも、危険な日本海に船出する人々の安全を観音様に見守って頂く信仰の場になっているようです。

観音菩薩は、様々な姿で現れて人々を救うと言われ、この岩もその一つでしょうか。



上段の写真より少し東から撮った「観音岩」です。

やはり岩の端の厚みは薄いようです。

海は比較的穏やかでしたが、波の音と磯の香りで気持ちの良い浜辺の散策でした。



「観音岩」から東側の海岸を見た景色です。

右手の山から突き出ている鉄の構造物は、石見空港の誘導灯と思われます。

飛行機は、ちょうど「観音岩」の真上を航行するようで、観音様に空の安全も見守って頂くようにお祈りするのもいいのではないでしょうか。

紅葉の山歩き「吾妻山」

2009年11月03日 | 山歩き
10月31日、広島県庄原市比和町の「吾妻山」へ行って来ました。

福山市の自宅を朝7時過ぎに出発、吾妻山登山口の駐車場へ着いたのは9:45頃でした。



晴天に輝く「吾妻山」の全景です。

下段の地図-③付近から撮った写真です。



「吾妻山」付近の地図です。

地図-①駐車場からスタートして⑦までの番号順に歩きました。



地図-②の場所にある「大池」です。

朝日に輝く紅葉が水面に映り、とてもさわやかで、美しい景色でした。

妻は、絵に描きたいと、この辺りの景色を写真におさめていました。



地図-③から少し登った辺りから左手の小さな山「小彌山」[こみせん](地図-④)と、右手の「吾妻山」(地図-⑤)が見えます。

この辺りは草原の道ですが、少し先から「小彌山」の中腹まで林の道になります。



「小彌山」[こみせん](地図-④)に登り、少し進んだ場所から見た「吾妻山」の頂上です。

左手の斜面の道には登山者のパーティーが続いていました。

空気も澄んだ見晴らしの良い登山道が続きます。



頂上に近い最後の直線の坂道から「小彌山」[こみせん]方向を見下ろした景色です。

紅葉の林の間の道を登って来る人が続いています。

雄大な景色に感動でした。



10:40頃、「吾妻山」頂上に着きました。

途中ゆっくりと景色を楽しみながら麓から頂上まで約50分でした。

頂上でおばあさんが4~6才位の二人の女の子を連れてお弁当を広げ、天気の良い日にはピクニック気分で登れる山のようです。



「吾妻山」の頂上付近を旋回するヘリコプターです。

頂上に着く少し前からヘリコプターが飛んで来ました。

数回、「吾妻山」を大きく旋回して去って行きましたが、皆でヘリコプターに手を振って歓迎しました。

このヘリコプター、尾翼にはANHと書かれ、ボディー後部のストライプ部分にNHKのマークがあり、紅葉の取材のようです。

ストライプは、全日空カラーのようで、NHKの専属チャーター機と思われます。



吾妻山頂上から登山口付近を見下ろした絶景です。後方には雄大な山並みが続いています。

国民宿舎の赤い屋根の右手に「原池」が見えます。

駐車場は、国民宿舎の左手辺りだったと思われます。



「吾妻山」の頂上(地図-⑤)から南の尾根沿い(地図-⑥⑦)方向に下り始めた景色です。

ススキの白い穂が道の両脇に続き、紅葉と調和して意外な美しさを感じさせられました。



地図-⑥「大膳原分岐」から「大膳原・烏帽子山」に縦走する道がある東方向を見た景色です。

左手の山が「烏帽子山」、その手前が「大膳原」、右手の山が「比婆山」のようです。

「比婆山」は、古事記によると「伊邪那美命」(イザナミのみこと)を葬る山とされています。

この「吾妻山」に登り、亡き妻「伊邪那美命」が眠る「比婆山」を眺めた「伊邪那岐命」(イザナギのみこと)が、「吾が妻よ」と偲んだことから「吾妻山」と名付けられたそうです。

このブログで2008-10-26に「比婆山」に登った記録を載しています。



地図-⑦「南ノ原」から麓までの道は、紅葉の林が続く緩やかな道でした。

昼12時頃、駐車場へ帰ると既に満車で、空きを待つ車もいました。

帰りは庄原市西城町熊野の伊邪那美(イザナミ)命を祀る「熊野神社」を参拝しました。

油絵「収穫」

2009年11月01日 | 妻の油絵
久しぶりに妻が描いた静物画(F10号)です。

秋の果物、ぶどう、梨、ザクロと並んでいる酒の瓶は、ワインと、ブランデーのものでしょうか。

デッサンの練習で、静物画を描いたそうですが、クラシックなイメージは、何とか表現出来たようです。