昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

下関市豊北町の「土井ケ浜遺跡」№1

2007年08月30日 | 山陽地方の旅
山口県の北西にある下関市豊北町の「土井ケ浜遺跡」を見に行きました。
約2000~2300年前の弥生時代の代表的な埋葬遺跡で、今回の山口旅行目的のの一つでした。

写真は、「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」の玄関を正面から撮ったもので、入場口で頂いたパンフレットの一部をスキャナーでとり、合成したものです。
玄関に向かって左側にゴホウラ貝のモニュメントが立っています。

■以下にパンフレットの案内文を紹介します。

土井ケ浜遺跡の発掘調査は昭和28年(1953年)から始まり、平成12年(2000年)まで19次にわたる調査が行われた結果、約300体の弥生時代人骨が出土しました。
これらの人骨は日本人の起源や現代人の成り立ちを解明する上での貴重な資料として活用されています。

「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」は、約300体の弥生時代人骨や副葬品などを出土した国指定史跡「土井ケ浜遺跡」の全容を紹介している施設です。
弥生シアターの入り口では3D立体映像「よみがえる弥生人」を250インチの大画面でご覧ください。
「Q&A」「あなたは縄文人?弥生人」のコーナーではパソコンを動かし、旧石器時代から現代までの頭蓋を見て、しばし日本人のルーツに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」に展示されていた土井ケ浜遺跡周辺の地図です。
写真に「土井ケ浜南遺跡」とある場所のすぐ上に位置する場所に「土井ケ浜遺跡」はあります。
向って左上の島は2000年11月に角島大橋で陸続きとなった「角島」です。


「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」に展示されていた「土井ケ浜遺跡」周辺の航空写真です。


「土井ケ浜遺跡」のある「土井ヶ浜弥生パーク」の案内図です。


「土井ヶ浜ドーム」です。
入口を入ると埋葬遺跡が広がり、さまざまな人骨の出土状態が人骨のレプリカで再現されています。


最初の写真にもあったゴホウラ貝を腕輪にカットしたモニュメントです。
ゴホウラ貝の腕輪は、沖縄や奄美諸島で採れる巻き貝の一種で、吉野ヶ里遺跡でもゴホウラ貝の腕輪が出土しています。弥生時代の交易が極めて広範囲に行なわれていたようです。

展示場のゴホウラ貝輪の説明文によると巻貝の中心部分の渦巻き模様に宗教的な意味があり、朝鮮半島から伝わったとあります。
しかし、渦巻き模様は日本では縄文時代の土器・土偶などにも見られ、世界的にも古くから呪術的要素を持つ模様として描かれているようです。
又、ゴホウラ貝輪の説明文にゴホウラ貝を磨くと白くつややかで、中国の玉の手ざわりに似ているとあります。
玉石は、中国長江流域で起こったまで長江文明(紀元前14000年頃~紀元前1000年頃)で重用された歴史があります。
又、弥生時代から本格的に始まる稲作のルーツは長江文明とされており、ゴホウラ貝輪の交易と併せて東アジアの文化のつながりで捉える必要があるように思えます。


「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」の入場券です。
埋葬遺跡を発掘し、再現した「土井ケ浜ドーム」内の写真が印刷されています。
いつも旅行先の入場券や、施設のパンフレットは、記念に持ち帰り、スキャナーで画像のみ保存しています。


長門市日置の「千畳敷」

2007年08月26日 | 山陽地方の旅
「千畳敷」と呼ばれる広い平坦な地形が、海岸近くの山の上にあると聞き行ってきました。
山の上には芝生の広場、広い駐車場などがあり、風力発電のとても大きな風車が回っていました。

千畳敷のある長門市日置は、平成17年3月の合併までは日置町だったようで、「日置」は、「へき」と呼ぶようです。
歴史的には呼び方の「へき」が先にあり、漢字を当てたものと考えられますが、かなり大胆な当て字のように思えます。



「千畳敷」周辺の地図です。
等高線で山上が広く平らになっていることが分ります。
駐車場は、一か所表示していますが、「千畳敷」の文字の辺りにもあります。
「千畳敷」は、西の油谷島までの半島、「向津具半島」の付け根に位置しますが、半島の名称「向津具」は、「むかつく」と呼ぶようです。
この風光明媚な半島の呼び方が「むかつく」とは意外な呼び名です。
「向津具(むかつく)」の語源はわかりませんが、実に印象に残る名称です。



千畳敷に上る道の途中にあった大きな風力発電機です。
上の地図に表示しているものです。


千畳敷の駐車場の風景で、西に向いて撮った景色です。
風力発電機が2基見えますが、ここはかなり風の強さで、風力発電の立地としては納得できます。


千畳敷の展望台近くにあった案内板です。
元「日置町」の観光案内板だったようです。


売店・レストランの上が展望台になっていました。
こんな静かな山の上にもかかわらず、意外にお客さんがいました。


屋上の展望台です。
周辺の景色がよく見え、以下の写真はここから撮った周囲の景色です。


展望台から南を撮った景色です。
千畳敷は、東西に長く広がっていますが、南北の広がりもかなりなものです。

「千畳敷」は、頂上が標高333m、広さが約26,400平方m(7,985坪)の草原です。
1坪=2畳とすると「千畳敷」は、約1万6千畳にもなり、かなり控えめな名称です。
「日置(へき)」、「向津具(むかつく)半島」と合せて地名の面白さを感じました。



展望台から東を撮った景色です。
天気もよく、海と半島がたいへん素晴らしい色でした。
向って左上の手前に見える半島は「今岬」、その向こうには仙崎の北の「青海島」が見えています。
今回の旅行では、ここから西南の下関までの範囲でしたので、次の機会に訪問したいスポットです。
展望台の上は特に風が強く、歩いていてもよろめくようでした。


展望台から北西を撮った景色です。
水平線をよく見ると左右が中央より下がった感じで、丸い地球を感じます。
北の斜面の下から強い風が吹き上がって来ているようです。

長い鳥居のトンネルがある「元乃隅稲成神社」

2007年08月21日 | 山陽地方の旅
「龍宮の潮吹」に向かう岩場に赤い鳥居が山の上に向かってトンネルのように並んでいました。
鳥居には「元乃隅稲成神社」と書かれています。
一般的には「稲荷神社」と書きますが、ここでは「稲成神社」とあり、ちょっと変っています。
断崖の山の上にある社は、派手に並ぶ鳥居のわりにかなり小さいように思えます。


赤い線は、「元乃隅稲成神社」の鳥居が並び、カーブして登って行く参道の位置です。
地図の鳥居の印は、山の上の「元乃隅稲成神社」の小さな社がある場所です。
社の西側は海から切り上がった高い断崖になっています。


「元乃隅稲成神社」の社と、向かって左側の社務所をズームで撮ったものです。
社務所から向かって左に平らな道があり、一般道へ繋がっています。


断崖の上に建つ「元乃隅稲成神社」の景色です。
切り立った岩山の景色が、神社の風格を演出しているようです。


「元乃隅稲成神社」の社の断崖下から海岸西側を撮った景色です。
右上の海岸線には先日掲載の「立石観音」のある夫婦岩のひとつ「沖ノ島」がかすかに見えています。


参道の鳥居をくぐって進む途中の景色です。
最初、下り坂で、しばらくすると次第に急な上り坂になっています。


参道を登りきった「元乃隅稲成神社」の社(やしろ)前の景色です。
予想通り小さな社でした。
真夏の厚い日差しがありましたが、少し強い風があり、さわやかな気持ちで参拝できました。


「元乃隅稲成神社」の社の横にあった説明板で、神社の由来が書かれていました。
「元乃隅稲成神社」は、島根県津和野の「太皷谷稲成神社」から分霊した神社とされ、「太皷谷稲成神社」は、京都の伏見稲荷から分霊された神社とされています。
「太皷谷稲成神社」は、千本鳥居の参道が人気だそうで、自称「日本五大稲荷」としています。
「元乃隅稲成神社」の主祭神は、「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)です。

この説明板によると「白狐」が初代祭主の枕元に現れ、「吾を此の地に鎮祭せよ」とお告げがあったとされていますが、「宇迦之御魂神」が「白狐」と言うことになります。
一般の神社にある「狛犬」と同様に神社をお守りする「狐」が神様として現れた点には少々疑問がありますが、「龍宮の潮吹」を見下ろす場所に赤い鳥居のトンネルの神社があることは、この地をより楽しませてくれる施設になっていると感じます。


「元乃隅稲成神社」の社の横から断崖下の海を見た景色です。
向かって右の岩場に釣をしている人が小さく見えていました。


上の写真から目線を上げた景色です。
高い「元乃隅稲成神社」の社から見える海と、岩場は、とても良い景色でした。


社務所から一般道へ向かう道から下を見た景色です。
曲がった参道の赤い鳥居がとても印象的でした。

「龍宮の潮吹」

2007年08月19日 | 山陽地方の旅
山口県長門市油谷西津黄にある「龍宮の潮吹」に行きました。
立石観音から海岸沿いに東北方面約500mの所に「龍宮の潮吹」があります。


「龍宮の潮吹」周辺の地図です。
移動したA~Eの順に説明します。


地図のAの場所から「元乃隅稲成神社」の鳥居と参道や、海岸に「龍宮の潮吹」付近の岩場が見えます。
写真の向かって右から1cm余りの海岸の岩場に小さな四角い石が立っています。(地図D)
そこの岸壁の下から「龍宮の潮吹」があるようです。


民宿「潮吹荘」を過ぎると「龍宮の潮吹」の駐車場があります。


駐車場から展望台へ行く通路です。
丸木で造られています。


展望台を西から見上げた景色です。


展望台(地図-B)から東南にある入江方向の景色です。
海中にあるコンクリートの防波堤の巨大さに圧倒されます。
展望台に立って海を見渡すと、夏の日本海の美しさを改めて感じます。


「龍宮の潮吹」の説明板です。


「龍宮の潮吹」に行く途中に変わった色の地層が見える岩がありました。


先にみえる四角い石の付近の断崖から「龍宮の潮吹」が上がってくるようです。


断崖の下の岩の穴から爆音と共に噴水のような豪快な水しぶきが上がってくるそうで、龍が天に向かって昇る有様に似ていることから「龍宮の潮吹」の名づけられたそうです。
しかし、風はありましたが、波が穏やかで、全く「龍宮の潮吹」の気配がありませんでした。
岩場を降りて確かめようとする人がいましたが、見えないようで、あきらめて帰って行きました。


断崖の下を見た景色です。(地図-D)
どのあたりから吹き上げるのかわかりませんでした。
写真の通り波は穏やかでしたが、とにかく風が強く岩場を歩くのが少し恐い感じでした。
「龍宮の潮吹」は、強い北西の風が吹き、波が高い冬場によく見られるそうで、満潮・干潮の時は見られないようです。
少しは見られると思って来たのが甘かったようです。

地元の「新世紀ながと創造ネットワーク会議事務局」のサイトに「龍宮の潮吹」のよくわかる写真が掲載されていますので紹介します。
クリック 「濤雪と龍宮の潮吹き」



地図-Eの場所に巨大な岩の島があり、「畑島」と呼ぶようです。
「龍宮の潮吹」は見られませんでしたが、この岩場の豪快な景色と、きれいな海の色に満足しました。

長門市油谷の「立石観音」

2007年08月15日 | 山陽地方の旅
地図に「立石観音」とあり、東後畑の棚田から見えていた二つの岩のある海岸に行ってみました。
写真は、坂道を下る途中で撮ったもので、岩の付近は漁港のようです。
二つの岩は、コンクリートの防波堤でつながり、海岸付近に積み上げられたテトラポッドと共に、冬の日本海の荒波から港を守っているようです。
海にそびえ立つ二つの岩は周囲に何もなければ自然の美しい景観だったと思いますが、港に近い所に立っていたため防波堤の一部にされてしまったようです。
ことわざに「立っているものは親でも使え」とありますが、この美しい二つの岩まで漁港の一部に使ってしまう人間のしたたかさに感心します。


この二つの岩の高い方を「沖の島」、低い方を「地の島」と呼ぶそうで、二つを合わせて「夫婦岩(みょうといわ)」と呼んでいるようです。
この「夫婦岩」は、1605年(慶長9年)12月16日、慶長の大津波により突如現れたと伝えられ、聞く者に大津波のものすごさを感じさせます。


上の写真の向って左から撮った景色です。
道路から「地の島」まで防波堤でつながり、コンクリートで地続きになっています。


上の写真のトラックの後ろから「地の島」を撮った風景です。
「地の島」の上に登る階段が造られており、頂上には石の祠に「立石観音」と呼ばれる観音菩薩が祀られ、地元の人たちは漁業の安全を祈っているそうです。


「立石観音」へ上る階段の入口です。
岩を近くで見るとその黒さが印象的です。


階段の入口横にあった案内板です。
高い「沖の島」の高さは41mあまり、低い「地の島」の高さは20mあり、海に浮かぶ「夫婦岩(みょうといわ)」では日本一のようです。


上の写真のトラックがあった付近から「地の島」の左を撮った景色です。
「地の島」の端には岩のトンネルがあり、後ろに高い「沖の島」が見えています。


岩のトンネルをズームで撮った景色です。
コバルトブルーの海がきれいでした。


「地の島」の陸側に沿って道が造られています。
この先は長い防波堤が続いています。



「地の島」に沿った道を進むと高い防波堤の壁の向こうに「沖の島」が見えていました。


おだやかな湾内にある漁港の風景です。
晴天で、海がとてもきれいに見えました。

日本の棚田百選「東後畑の棚田」

2007年08月14日 | 山陽地方の旅
山口県長門市の西にある油谷から下関市内までの1泊2日観光旅行の記事です。
8月12日晴天の日、山口県長門市海油谷東後畑にある「東後畑(ひがしうしろだ)の棚田」を見に行きました。
棚田は、はるか下の日本海を見下ろす斜面に広がっていました。


現地に掲示されていた「東後畑の棚田」の地図です。
東西からの道に、道案内の標識があり、近くに行けばなんとか行けます。


東側の道路から見た棚田の見物場所です。



丸木でできたトイレ、東屋があり、約3台の駐車場があります。
西に歩いて行くと広い駐車場があります。


見物場所から見た東側の道路を見たところです。


道路を挟んで反対側にあるため池です。
石にしめ縄が掛けてあるのは田の神様か、水の神様でしょうか。


東側の斜面にある棚田です。
日差しが強いものの、強い風が吹き、割と涼しく見物できました。


正面の下に見える棚田です。
下にもため池が見えます。
こんな斜面にたくさんの棚田を営むには多くの水が必要で、ため池をたくさん造っているようです。


西側の棚田の景色です。
海岸付近に「立石観音」が見え、東後畑の棚田の風景を引き立てているようです。
晴天に海の色がとてもきれいに見えます。
特に向って左上の入江は、白い砂浜があり、真っ青な海が素敵な薄いブルーに変わっているのが印象的でした。


「立石観音」は、海岸に夫婦岩とされる大きな岩があり、岩の上に「立石観音」が祀られているようです。
又、岩の場所は小さな漁港になっているようです。



棚田の見物場所にあった夕暮れの棚田の写真です。
日本海にたくさんの漁火が見え、神秘的な風景です。


道路わきに注意の掲示板がありました。
どうも写真撮影で、農作業をじゃまする人がいるようです。

石垣島「唐人墓」

2007年08月11日 | 沖縄の旅
石垣島の新川富崎の「唐人墓」にお参りしました。


「唐人墓」には残虐な事件により亡くなった中国人の「苦人(クーリー)」128人を祀った墓だそうです。
「唐人墓」の前は広場になっており、その前は海の見える芝生の植え込みが広がっていました。


「唐人墓」の正面にある説明文です。
事件や、墓の建設の経緯は、この説明文に書かれています。
1852年、イギリス船で400人の中国人がカリフォルニアへ送られる途中、残虐な扱いを受けて船内で暴動を起こしたそうです。その影響で、船は石垣島近海で座礁し、中国人たちは船から逃げ出し、石垣島で保護されたそうです。
しかし後日、英米兵が石垣島に来て、逃げた中国人を大勢殺していったそうです。
病気で死んだ人も多く、島の各地で埋葬されていた人も合わせてこの墓に祀られたそうです。


屋根の上の鮮やかな色彩の人形が、数か所でそれぞれ物語のシーンを表現しているようでした。
物語の内容や、人形についてはよく分りません。

「唐人墓」は、アメリカ大陸に連れて行かれる、中国人奴隷のような人たちだったようです。
コロンブスがアメリカ大陸を発見した(人類としての発見ではない)後、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に住んでいたインディオを奴隷的に扱い、千数百万人の人が死んでしまったようです。
ヨーロッパ人は、その不足を補うためにアフリカ大陸から黒人奴隷を多くアメリカ大陸に連れてきたようです。
アフリカ大陸からの黒人奴隷の供給が減少し、(アフリカでの労働力需要増加による)その不足を中国人で補おうとしていた時代の事件だったようです。


屋根中央の上にある人形です。

この事件は、江戸時代末期の黒船事件の少し前の事件で、琉球王朝の対応も非常に難しいものではなかったかと思います。


屋根中央の人形の向って右下の人形たちです。
この英雄のような人形たちが、イギリス・アメリカ兵に殺された苦人(クーリー)たちに救いを与えてくれるのでしょうか。


屋根中央の人形の向って左下の人形たちです。


屋根の左右の下段に龍が描かれ、向って右の写真です。


上の写真と反対の、向って左の竜の写真です。


向って右の龍の下の人形です。


向って左の龍の下の人形です。



左右のシーサーの写真を合体させています。
シーサーの顔は、中国風のようです。


八重山博物館で見た「勾玉」

2007年08月09日 | 沖縄の旅
八重山博物館に「勾玉(まがたま)」が展示されていました。
「勾玉」と言えば三種の神器(さんしゅのじんぎ)など、神話時代のことが思い浮かびます。しかし、沖縄で「勾玉」に出会うとは実に意外でした。

説明には「ビーロースク遺跡出土 13~15世紀」とあり、神話時代からざっと千年後の遺跡から発見されたものと言えます。
ところが、現代の沖縄にもノロ(女性の司祭)が「勾玉」を身に着けることもあり、「藁算」「象形文字」などと合せ、沖縄には、とてつもなく古い文化を保持する力を感じます。


石垣市新川の喜田盛遺跡から出土した15~16世紀頃の勾玉(説明書は「曲玉」)がありました。
この石垣島に勾玉が伝わった経路や、時代は分りませんが、縄文時代に始まる勾玉が続いていたことに感動しました。
島根県松江市に「出雲玉作資料館」があり、平安時代まで「勾玉」が作られていたようで、現代にも技術が伝承されているようです。
一昨年見学しましたが、展示されていたメノウの原石の美しさが印象的でした。
勾玉と、沖縄といえば「吉野ヶ里遺跡」の出土品ゴホウラ貝の腕輪を思い出します。
弥生時代の遺跡、吉野ヶ里から、沖縄地方のゴホウラやイモガイなど貝の腕輪や、新潟県糸魚川産のヒスイ製の勾玉が出土し、当時の交易は、我々の想像をはるかに超える距離で行なわれていたようです。


パナリ焼の「土製勾玉」が展示されていました。
パナリ焼は、西表島の南東にある新城(あらぐすく)島で作られていた焼き物で、約100年前ころまで続いていたようです。
貝を潰して粘土に混ぜる点に特徴があり、東隣の黒島の遺跡からのみ多量に出土していると説明されています。
作ってみたものの人気がなく、普及しなかったのでしょうか?
縄文時代、弥生時代、古墳時代の全国の遺跡からも「土製勾玉」は、出土していますが、時代と場所を大きく隔てた黒島の「土製勾玉」は不思議な存在です。

石垣島豊年祭の「旗頭」

2007年08月05日 | 沖縄の旅
石垣島、八重山博物館の玄関に入るといきなり何かの飾りのようなものが置かれていました。
下の木の札に「松竹梅」とあり、太陽・鶴・松・竹・梅の飾りが付けられていますが何に使うものか解りませんでした。
博物館は、まったくこれを知らない人間が、いきなり見ることを想定していないようです。


「八重山博物館」の玄関です。
いかにも昔のお役所といった感じの建物で、階段を上がっていきます。


玄関付近にもうひとつ飾りのようなものが置かれ、下の木の札に「旗頭 川藤(ズルカキ)」寄贈:大川字会とありました。
「旗頭」の文字で沖縄のお祭りの旗の上に飾るものではと気付きました。


展示室に絵と、説明文が展示してありました。
石垣島、「四カ字の豊年祭」の絵ようです。
「四カ字(しかあざ)」は、石垣島離島桟橋を中心とした市街地で、新川、石垣、大川、登野城(とのしろ)の四つの字(あざ)の総称だそうです。
昔、石垣村から始まり、登野城が分離、さらに石垣から新川、登野城から大川が分離して四つの字(分離した当時は村でした)となったようです。
「豊年祭」は、字(あざ)毎にある御嶽(おん)で行なわれる「オンプーリィ」と、「四カ字」合同で行う「ムラプーリィ」があるそうです。


展示室のガラス越しに、「四カ字の豊年祭」の写真が展示してありました。
よく見ると玄関の飾りは、旗の上にある飾りとおなじもののようです。


上の写真の横に少し変わった飾りが展示されていました。
流の頭が描かれ、その口から剣が出ています。

説明書きを以下に転記します。
■ヤマカシラ
村のシンボルとして、村人が総出で働くとき、あるいわ集まるときに使用した。竿にたてて持ち、下に三角旗をつけた。
右上の道踊りの図にも、龍のヤマカシラが描かれている。


こんな飾りも展示されていました。
玄関の飾りとよく似ています。
中心に太陽が描かれているものが多いようです。


この写真は、「八重山民俗園」の「旧牧志邸」に展示されていた、「四カ字の豊年祭」写真です。
幟に書かれている文字にはそれぞれに願いが込められているようです。
「請福」「天恵豊」「祈豊」「愛(?)雨」「四海波静」などの文字が見えますが、なんとなく願いの意味がわかるような気がします。
お祭りで、重い旗を持って歩く人は大変なようです。


油絵「ひまわり」

2007年08月02日 | 妻の油絵
妻の油絵です。
生き生きと咲く「ひまわり」を涼しさを感じさせるガラスの花瓶にさしています。

第47回 光風会 福山グループ洋画展が福山市の天満屋福山店8階で開催されています。
開催日時 8/1~8/6 AM10:00~PM7:30(最終日はPM6:00まで) 入場無料

先生方の絵が並ぶ中、この絵も展示させて頂いています。