昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

油絵「ワインと柘榴」

2012年11月30日 | 妻の油絵

妻の油絵「ワインとザクロ」(F6号)です。

ザクロの地味な赤色が鮮やかに見えるのは、ワインの瓶の緑や、ザクロの葉の緑とのコントラストによるものでしょうか。

静かな秋を感じさせるザクロの実ですが、葉が残るザクロの実には躍動感が感じられます。

ザクロが割れ、赤い宝石のような粒が輝き始めた秋の作品でした。


長崎旅行-1 キリシタン大名「大村純忠」終焉の居館跡

2012年11月25日 | 九州の旅
2012年9月11日から5日間の長崎旅行1日目です。

早朝、福山市を出発して長崎自動車道大村インターからすぐ近くの「大村純忠史跡公園」へ到着したのは9時過ぎでした。

長崎旅行1日目は、午前中に大村市、諫早市、午後から島原市の観光です。

今回の長崎旅行は、南の島原半島南端から、北の平戸島、更に橋で結ばれた生月島まで県内をでほぼ一周する5日間の素敵な想い出が残る旅行になりました。



「大村純忠終焉の居館跡」の駐車場です。

左手の国道444号と、後方に見える長崎自動車道の高架が交差した場所にありました。

右手の道を進み、長崎自動車道の高架をくぐるとキリシタン大名「大村純忠[すみただ]」(1533~1587年)終焉の居館跡「大村純忠史跡公園」です。



「大村純忠史跡公園」付近の地図です。

右の地図Aは、大村湾東岸の大村市を赤い丸印で表示したものです。

左上の地図Cは、「大村純忠史跡公園」付近の拡大地図で、国道444号と、長崎自動車道が交差した横の公園を黄色で表示しています。

左下の地図Bは、大村市街の地図で、「大村純忠終焉の居館跡」、「大村純忠」の居城「三城城跡」、純忠の長男「喜前[よしあき]」(1569~1616年)が築城し、明治維新の廃藩まで大村氏の居城としていた「玖島城跡」の場所を表示しています。

「大村純忠終焉の居館跡」が居城だった「三城城跡」から約3Kmも離れており、政務から遠ざかった隠居生活だったことが窺えます。



長崎自動車道の高架下を進むと「大村純忠史跡公園」の門が見えてきました。

上段の地図Cで、駐車場から進んだ右の矢印の場所です。

晩年の純忠は、勢力を強めた隣国佐賀の戦国大名「龍造寺隆信」に服従を強いられ、3人の息子を人質に差し出していましたが、龍造寺と島津・有馬の連合軍が激突した島原の沖田畷の戦い(1584年)で、隆信が首を取られ、領主に返り咲くことが出来たようです。

1586年(天正14)、大村純忠は、龍造寺から無事帰還した長男喜前に家督を譲り、隠居した2年後に54歳の若さで亡くなったとされ、隠居の直接的な理由は、死因となった肺結核の苦しみによるものと思われます。

■現地の案内板より
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市指定史跡 大村純忠終焉の居館跡
ここは、日本景初のキリシタン大名大村純忠が晩年を過ごした舘の跡です。古くから堀口館と呼ばれてきました。
南蛮貿易のため、長崎開港や天正遣欧少年使節の派遣など多くの歴史的偉業を行ってきた純忠ですが、佐賀の戦国大名龍造寺隆信の圧迫により、領主の座を退き、居城三城城より重臣庄頼甫の屋敷であったこの地に隠居しました。純忠はこの屋敷で約2年間過ごし、天正15年(1587)54歳で亡くなりました。
現在、この奥には庭園の跡と害われる泉水が残っており、市の史跡に指定されています。この泉水は「舘の川[たちのかわ]」と呼ばれ、どんな干ばつでも水が枯れなかったと伝えられています。ここは、純忠が晩年を過ごした貴重な場所として保存し、公園として整備されました。
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「大村純忠史跡公園」の門をくぐり、公園内から振り返った風景です。

公園内には建物跡を示す物もなく、塀で囲まれた敷地の中は、史跡を実感するものは見当たりませんでした。

公園の敷地は、門の向こうの長崎自動車道に隣接しており、道路工事に伴う発掘調査が行われ、屋敷の一部は道路の下に埋められたようです。

案内板に「この泉水を中心とした地」とあるのはよく確認できませんでしたが、敷地南側の石塀の外に小さな流れがあった辺りと思われます。

■現地の案内板より
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遺跡 坂口舘跡
この泉水を中心とした地は、大村純忠が晩年を過こした舘と伝えられる場所です。高速道路建設や公園設置の前に行われに発掘調査で、この広場から高速道路下までに、何世紀にもまたがる多くの建物の跡や当時使っていた陶磁器なとの品物が発見されました。宣教師ルセナの記録によれば、「純忠の屋敷は大きく、わら葺きであった」と言われています。大きな建物は高速道路下て見つかりましたが、いくつもの建物跡が重なり合っているため、純忠の屋敷の形や大きさははっきりわかりませんでした。出土した品物の中には、16世紀から17世紀前半にかけての中国や東南アシアの焼き物も出土しており、当時の生活がしのばれます。
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敷地南側に石塀が続き、案内板が並んでいました。

野面積みのこの石塀は、発掘調査による再現だったのでしょうか。



戦国時代の佐賀・長崎地方の地図で、戦国大名の勢力図と、南蛮船の寄港地が描かれています。

南蛮船の寄港地は、「平戸」、「横瀬浦」、「福田」、「長崎」と変遷したとされ、「茂木」は寄港地ではなかったものの長崎、浦上と共にイエズス会へ寄進された土地だったようです。

寄港地は、松浦氏の「平戸」を除き、大村純忠の領地だったようで、初のキリシタン大名「純忠」と「イエズス会」の結びつきの強さが感じられます。

■現地の案内板より
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大村純忠[おおむらすみただ](1533年~1587年)
戦国時代の大村領主。島原の有馬家から養子として大村家に迎えられ、大村家を継ぎ領主となりました。周辺の戦国大名である佐賀の龍造寺氏、平戸の松浦氏、武雄の後藤氏などと争い、大村湾を取り巻く領土を確立していきます。特に後藤貴明は、大村家に生まれながら、純忠のために後藤家へ養子に出されたため、終生、純忠に対して敵意を持ちました。
純忠は、貿易港として横瀬浦、福田、そして長崎を開港して南蛮貿易を行い、また、キリスト教を受け入れ、日本書初のキリシタン大名となり、日本初のヨーロッパ公式訪問団である天正遣欧少年使節派遣など歴史に残る多くの事業を行いました。純忠はこの地で亡くなり、三城城下の宝生寺に埋葬されましたが、その後改装され、本経寺に埋葬されたと伝えられますが、墓は不明となっています。
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案内板に「南蛮屏風」(狩野内膳筆)の一部、南蛮船の部分が無彩色で描かれていました。

大村純忠の時代の南蛮船寄港地を時代順にまとめてみました。
 1543年(天文12)南蛮船が種子島に漂着
 1550年(天文19)平戸(松浦領)に初めて南蛮船が入港
 1562年(永禄5)横瀬浦(大村領)を開港
 1564年(永禄7)8月 横瀬が襲撃される
 1565年(永禄8)福田(大村領)を開港
 1571年(元亀2)長崎港(大村領)を開港

■現地の案内板より
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大村純忠と南蛮貿易
1.南蛮船の入港
戦国時代の末期、日本へ南蛮人(ポルトガル人)が来航し、南蛮貿易が始まります。南蛮船は、最初平戸に来航していましたが、平戸領主松浦氏と不和となったポルトガル人は、新たな港を探し、大村領内の横瀬浦に目をつけました。領主大村純忠は、ポルトガル人の希望を受け入れ、キリスト教布教の許可を出したため、彼らはここを港と定め、横瀬浦で南蛮貿易が始まりました。

2.長崎開港
開港された横瀬浦は、武雄の後藤貴明に襲われて、炎上、わずか一年で役目を終えてしまいます。ポルトガル人は、新たな湾を探し、キリスト教に寛容な大村領での貿易を望み、福田に来航、さらに良港を求め、長崎を探し当てました。元亀2年(1571)純忠は長崎を港として聞き、以後、南蛮貿易の拠点となりました。この後、長崎と茂木は純忠によつて教会(イエスス会)へ寄進されますか、これには貿易の定着と周辺の大名からの安全などの狙いがあつたといわれています。
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これも案内板にあった「南蛮屏風」(狩野内膳筆)の一部で、珍しい服装の南蛮人で賑わう港の風景です。

「南蛮屏風」は、神戸市立博物館のサイトで屏風全体の画像を見ることができます。
(神戸市立博物館 http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin/046.html)

■現地の案内板より
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3.南蛮渡来の品々
南蛮貿易の輸入品は、生糸や絹織物などが中心でしたが、貿易品だけでなく、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられ、日本の文化に大きな影響を残しました。また、伝わった南蛮文化と日本の文化が合わさって南蛮漆器などの工芸品が作られ、海外に輔出されるものもありました。

4.天領長崎へ
豊臣秀吉が九州を平定すると、教会へ寄進されていた貿易港長崎は、秀吉により取り上けられてしまいます。続く徳川幕府でも長崎は幕府直轄の天領として治められるようになり、大村領から離れていきました。
その後.鎖国を迎え、長崎は唯一西洋との窓口して栄えますが、その基礎を築いたのが、大村純忠による長崎開港でした。
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案内板にあった「天正遣欧少年使節」の4少年の肖像画です。

「天正遣欧少年使節」は、布教を進めるイエズス会により企画され、九州のキリシタン大名の名代で、ローマ教皇のもとへ派遣された使節です。

「長崎県の歴史」(小川出版)に使節派遣の目的と、4人の少年が書かれていました。
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<派遣の目的>
(1)ヨーロッパの世俗世界とキリスト教会の偉大さと壮大さを彼らを通じて日本人に知らしめる。彼らはいわば語り部であった。
(2)口ーマ教皇に新布教地日本を紹介してキリシタン大名の名において帰服を表明させる。
(3)新布教地でのイエズス会の成果をセミナリオ教育で養成された少年を通じて誇示する。
(4)以上のような成果をもってローマ教皇とポルトガル国王から財政援助を獲得することであった。
<少年使節>
正使:伊東マンショ(大友宗麟の名代)
正使:千々石ミゲル(有馬晴信・大村純忠の名代)
副使:中浦ジュリアン(大村領中浦の領主中浦甚五郎の子)
副使:原マルティノ(大村領波佐見の領主原中務の子)
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使節の少年たちは、1580年(天正8)、有馬に設置された修道士育成の初等教育機関「セミナリヨ」に学ぶ12~3歳の者からで、約2年後の派遣となったようです。

年齢的に大人へ成長する時期の8年5ヶ月の大旅行で、フロイスの記録では4人の親兄弟の多くが再会した時、顔を識別出来なかったエピソードが語られています。

■現地の案内板より
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大村とキリスト教
1.日本最初のキリシタン大名
宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた12年後、大村領では、領主大村純忠によリキリスト教布教の許可が出され、また、純忠自身も領内横瀬浦でキリスト教の洗礼を受け、日本最初のキリシタシ大名となりました。洗礼名をドン・バルトロメウといい、ヨーロッパでもキリシタン大名として広く知られました。領主の改宗により、大村領内にはキリスト教が広がっていきました。

2.領内すべてキリスト教へ
キリシタンとなった純忠は、家臣領民に対してキリスト教への改宗をすすめ、領内ではキリシタンにより神社仏閣が破壊され、キリスト教一色になっました。居城三城城下にあつた宝生寺は教会に転用され、南蛮貿易港であった長崎、そして茂木を教会に寄進するなと、純忠はキリスト教との関係を深めていきました。宣教師フロイスによると当時の信者は6万人を数えたと記録されています。
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「大村純忠史跡公園」の中にある小さな茅葺屋根の建物です。

二面に壁があるだけの開放的な建物で、休憩施設のようです。

向うの石塀に小さな門が造られ、水の流れる林へ道が続いていました。



茅葺屋根の建物の前から公園内の北を見た風景です。

何となく見た三角屋根の建物は、何だったのでしょうか。

大村純忠の資料にフロイスの日本史がよく引用されており、今回読む機会を得ました。

激動の戦国時代、幾度も絶体絶命の窮地にたち、その都度生き延びてきた純忠の様子がありありと伝わってきて、約450年の隔たりを忘れてしまうようでした。

小国の領主だった大村氏が奇跡的にも幕末まで続いたのは、粘り強く生きた純忠のDNAだったのかも知れません。

長崎旅行 「壇ノ浦パーキング」で見た九州最北端の不思議な風景

2012年11月18日 | 九州の旅
2012年9月11日未明、福山市の自宅を出発し、長崎県をめぐる5日間の旅に出発しました。

これまで掲載した今年5月の「南九州旅行」は、次第に記憶が薄れ、終了とさせて頂きます。



9月11日6時20分過ぎ、立ち寄った「壇ノ浦パーキング」から東に見えた風景です。

アレ! 並んで歩くキリンさん?

イヤイヤ 恐竜のロボットかも?

黄金色に輝く神秘的な風景です。



関門大橋の橋脚の間に見えた関門海峡と、対岸の風景です。

航行する船の向うに見えているのは対岸「太刀浦埠頭」に立ち並ぶクレーンの風景でした。



上段の風景から少し左に見えた「太刀浦埠頭」先端の風景です。

これが九州最北端の風景となります。

彼方には本州の小野田市付近の風景が朝日に輝き、「太刀浦埠頭」に並ぶクレーンのシルエットを浮かび上がらせているようです。

埠頭の先端に上段の写真に見えなかった2基のクレーンがあり、合わせて7基並んでいました。



「壇ノ浦パーキング」から見た関門大橋の風景です。

橋脚の間に九州最北端北九州市の「太刀浦埠頭」が見えています。

曇り空の東の水平線近くにわずかな雲間が空いて、そこに輝く風景が見えていたものです。

6時前の日の出から約30分経過し、太陽はまだ水平線に近い雲の上で、降り注ぐ光が神秘的に見える時間帯だったのかも知れません。

素敵な長崎旅行を期待させてくれるような風景でした。

南九州旅行No.30 「青島神社 元宮」のビロウ樹の参道

2012年11月16日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市「サンメッセ日南」のモアイ見物の後、国道220号を北上して「青島神社」へ参拝しました。

途中、雄大な日南海岸の風景を見下ろす「道の駅フェニックス」にも立ち寄り、天候に恵まれて最高の風景を楽しむことができました。



海に架かる小さな「弥生橋」の向うに「鬼の洗濯板」の海岸に囲まれた「青島」が見えてきました。

「青島」は、周囲1.5Km(宮崎市観光協会資料より)、標高最高地点が約6mの小さな島です。

JR青島駅前広場の南側に面した無料駐車場を利用しましたが、意外に空いていました。



「弥生橋」から見た「青島」の海岸の風景です。

間近に見える珍しい「鬼の洗濯板」に目を奪われます。



「青島」周辺の空中写真です。

社殿の方角や、「鬼の洗濯板」の伸びている方角が気になり、国土地理院の地図サイトから拝借したものです。

「鬼の洗濯板」の地層が東に傾いているのはフィリピン海プレートによって押された方向によるものでしょうか。

「青島神社」の参道は、島の南の浜から北西方向に伸び、社殿はその奥に建っていました。



島に入ると「青島神社」の赤い鳥居が見えてきました。

「鬼の洗濯板」の海岸が続き、気持ちが和む潮騒の参道は、「青島神社」ならではの雰囲気です。

■島の入口にあった案内板です。
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種別 特別天然記念物
名称 青島亜熱帯性植物群落
指定年月日 大正十年三月三日
特別指定 昭和二十七年三月二十九日 国指定
青島は、陸地に近い島で、島内には、本土にくらべて特異な植物が繁殖し、北半球最北の貴重な亜熱帯性植物群落がある。
自生地植物は、一九七種で、熱帯及び亜熱帯性植物二七種を算し、その代表植物ビロウの成木は約四三〇〇本で、ビロウ純朴は群落地の六分の一を占める 最高樹齢は三〇〇年、来歴は古来の遺存と推定される。

種別 天然記念物
名称 青島の隆起海床と奇形波蝕痕
指定年月日 昭和九年五月一日国指定
周辺の岩盤は、新第三紀(三千万年から百万年前まで)海床に堆積した砂岩と、泥岩の規則的互層が傾き(走向北三十度東、傾斜二〇度東)海上に露出し、波浪浸蝕を受け、堅さの違いにより凹凸を生じたものである。
岩盤上には、ひびや断層が多く壇かい浸蝕による蜂窩がみられる。
 平成元年八月二十二日
  宮崎市教育委員会
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参道が海岸から左に折れ、島の中に入って行く入口付近の風景です。

右手の社務所を過ぎると、左手に「日向神話館」がありましたが、おなじみの神話の場面や、巨人長嶋名誉監督の蝋人形が展示されているようです。(パスしました)



島の中に進んで行くと、正面に神門、左手に手水舎が見えてきました。

案内板によると昔、青島は一般の人々の立入が禁止された神聖な島だったようで、自由に参拝できるようになったのは江戸時代からのことだったようです。

同様の例で、広島県の宮島でも山頂の「弥山」を対岸の地御前神社(北の海岸にあり、弥山が左右対称の美しい姿に見える場所)から遥拝していたようです。(山陽自動車道下り線 宮島SAからもほぼ同様の山の姿が見えます)

宮島の厳島神社の社殿は、美しい姿の弥山を遥拝する線上にあるものの社殿は南の弥山ではなく、南東方向への礼拝となっており、長い神仏習合時代に古代信仰の一部が忘れられたのかも知れません。

■手水舎の横に神社の案内板がありました。
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青島神社
  宮崎県宮崎市青島
  東経百三十一度二十八分
  北緯 三十一度四十八分
御祭神
 天津日高彦火々出見命
 豊玉姫
 塩筒大神
御祭神譜
 天照大神-天忍穂耳命-瓊々杵命
 彦火々出見命(青島神社御祭神)
 盧茲草葺不合命(鵜戸神宮御祭神)
 神武天皇(宮崎神宮御祭神)
御由緒
 彦火々出見命[ひこほほでみのみこと]が海宮からお帰りのときの御住居の跡として三神をお祀りしたと伝えられている。 初めてお祀りした年代ははっきりしてないが、日向土産という国司巡視記に嵯峨天皇の御宇(約千百七十九年年前)奉崇青島大明神と書いてあったといわれる文亀[糸+亀](室町時代約四百八十八年前)以後は藩主伊東家の崇敬が厚く御社殿の改築や境内の保護に万全を尽くされ、明治以後は国内絶無の熱帯植物繁茂の境内を訪ねる人が多く、縁結び、安産、航海、交通安全の神として、益々神威が輝くようになった。
御境内
 全島(四四九、三アール、一三四七坪)神社所有地
 昔から霊地として一般の入島は許されず 藩の島奉行と神職だけが常に入島し 一般は旧三月十六日島開祭から島止祭(同月末日)まで入島を許されていたが 元文二年(二百五十二年前)当時の宮司長友肥後が一般の参拝者にも入島を許されるよう藩主にお願いして許可され 以後入島が自由になった。
 昔から聖域として保護されたので植物、岩石が自然のまま残り 大正10年3月植物が、昭和九年五月岩石が天然記念物に指定され国の保護を受けることになったのである。
平成元年十一月  青島神社社務所
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南の浜から続く参道の突き当りに建つ「青島神社」本殿です。

平日でしたが、次々と参拝者が続いていました。

本殿前に向かって右を差し「順路 元宮参拝」と書かれた矢印の案内板が掛けられています。

案内板には他に「天の平瓮投げ[あめのひらかなげ] 産霊紙縒[むすひこより] 真砂の貝文 一年安鯛おみくじ」と書かれており、何だか分りませんが右手の「元宮」には珍しいものが色々あるようです。

参拝を済ませ、右手の「本宮」へ進んで行きました。



本殿右に進み、「元宮」への門をくぐった参道の風景です。

真直ぐ伸びた白砂の道を生い茂った緑が囲み、門の近くは絵馬のアーケードの様です。

南の島の雰囲気が漂い、ちょっぴり神秘的な参道に「元宮」への期待が高まります。



5,000本の群落とされるビロウが茂る青島神社元宮の参道脇の風景です。

ビロウは、ヤシ科・ビロウ属の植物で、沖縄ではクバと呼ばれ、御嶽で神木とされているものです。

民俗学者吉野裕子氏によると、日本古来の「扇」の元はビロウだったとし、その変遷過程は、紙で作られた三保神社の長形の扇や、木片で作られた平安宮跡出土の檜扇などに見られるとしています。

「扇」は、庶民生活の冠婚葬祭などから、皇室の儀式に至る様々な場面で使われていましたが、今では伝統芸能や、和装の結婚式などでしか見かけなくなっています。(暑い夏に扇ぐものは除きます)

お祭の行列の先頭で扇を振って露払いをする天狗などからも扇には悪霊や穢れを祓うの神聖な力があると考えられていたようで、元のビロウにも同様の力があったと思われます。

日本書紀に伊弉諾尊が亡き妻伊弉冉尊を追って黄泉の国へ行き、穢れて戻ったとして「筑紫の日向の橘の檍原[あわきはら]」で禊[みそぎ]祓いをされたのは、日向が強い祓いの力を持つビロウが生える地であったためかも知れません。

■境内の案内板
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ビロー樹(国指定特別天然記念物 大正十年三月三日指定)
 一、全島と殆ど覆って繁茂し、その数約五千本である。
 二、最高樹齢は、約三百年と推定される。
 三、春開花し実は晩秋に熟して落ち翌春発芽する。
 四、ビロー樹の成因に次の二説がある。
 (イ)漂流帰化植物説
     南より北に流れる黒潮のためにフィリピン等南方面から漂着した種子又は生木が活着して漸次繁殖したという説。
 (イ)遺存説
     第三紀前日本に繁殖した高温に適する植物が気候、風土環境に恵まれて今日に残存したものであるという説。

その他の植物
島内自生植物は、七四科二二六種、熱帯亜熱帯植物二七種に及ぶ。
その主なものは、次の通りである。
◎くわずいも、さといも科
  当地方では境内にだけ産し有毒植物である。
◎はまゆう(はまおもと)ひがんばな科
  夏季純白の花を開く本邦中部まで分布。宮崎の県花。
◎ひぎり くまつづら科
  初夏より初秋まで真紅の美花を開く島内の貴重植物。
◎しゃりんぱい(はまもっこく)いばら科
  樹皮から網の染料を作る当地方が自生北限の植物。
◎ふうとうかずら こしょう科
  春開花晩秋さんごのような実が多数垂れ美観を呈する。
◎たぶ くす科
  ビローの繁茂前の植物として今日残っており貴重なもの。
 青島神社境内植物   昭和五九年調査
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参道の突き当りの広場に赤い「元宮」の建物がありました。

古代祭祀の遺物が出土したとされ、かつてはここで礼拝が行われたものと思われます。

本殿では北西方向に礼拝し、元宮では北東方向に礼拝するのは宮島の厳島神社にも似た変遷があったのかも知れません。

■境内の案内板
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元宮
常若の霊木ビロウ樹にかこまれるように鎮座する元宮は、ちょうど青島の中央に位置する。
この地は悠久の昔、古代祭祀に使われたとされる勾玉・土器・獣骨・貝殻等が多数出土しており、古代祭祀跡地に大元の社殿が在った事から、その御霊の安寧を祈り「元宮」が再建された。古くから病気平癒や婦人病に霊験あらたかとされ、元宮に髪を結び帰るという信仰があった。
大正天皇のお成り以降、多くの御皇族に御参拝戴き、現在でも参詣が絶えることは無い。
 元宮は古代信仰の聖地としてその面影を今に残し、訪れる人すべてに安らぎを与えている。
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写真左側は、「元宮」の後方にある「磐境[いわさか]」とする場所だそうで、社殿の無かった神社の古代の姿と思われ、沖縄の御嶽の奥で、低い石垣に囲まれたイビを彷彿とします。

御嶽のイビは、祭祀で神様(祖霊)に降臨して頂くための最も神聖な場所とされ、民俗学者吉野裕子氏によると、石垣の形は母の胎内を現わし、そこに生える枝のないクバの木は男根の象徴ではないかとし、死後の魂は胎内へ戻り、再びこの世に生まれる考え方が背景となっているようです。

写真左側は、柵に掛けられていた「天の平瓮投げ[あめのひらかなげ]」の案内板で、近くでは「平瓮」と呼ばれる素焼きの小皿(1枚200円)が売られていました。

■「天の平瓮投げ」の案内板です。
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天の平瓮投げ
素焼きの平瓮を投げ枠内入れば願いが叶い、割れると開運厄除

天の平瓮投げ 作法
一、磐境[いわさか]に二礼
二、平瓮に小声で願い事を唱える
三、磐境に向け平瓮を投ずる
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これは、玉鵜戸神宮の亀石の穴に運玉を投げ入れるゲーム感覚の運試しにも似ていますが、御幣が立つ「磐境」に小皿を投げ、散乱している様子にはいささか抵抗を感じます。



奥宮の横に円形に積まれた石にしめ縄が掛けられ、その上に貝殻が盛られていました。

横の案内板では「真砂の貝文」と題して、「神社前の浜辺にて、真砂(青島神社ではタカラガイを指す)を探し、自身の想いと願いを込めてこの波状岩にお供えください」とあり、この場所は「波状岩」と名付けられているようです。(一般的に「波状岩」は「鬼の洗濯板」を指すようですが・・・)

初めての参拝者がこの案内板を読み、神社前の浜で「タカラガイ」を探して、再び長い参道をここまで戻って置くとはあまり考えられず、長い歴史を演出する飾りにも思われます。

■境内の案内板
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真砂の貝文[まさごのかいぶみ]
ここ青島は、二千四百万年前の隆起海床に貝殻が堆積してできた島である。
従って青島の別名を「真砂島」とも云う。
古代万葉の人々は、和歌の中で「濱の真砂」と詠み、数多い貝殻の中から自分の心情に合った貝を探し、それに想いと願いを込めたのである。
青島では、貝の中でも特に下の「タカラガイ」が真砂と呼ばれ大切にされてきた。
神社前の浜辺にて、真砂を探し、自身の想いと願いを込めてこの波状岩にお供えください。
悠久の時を刻み続けるこの元宮の地で、あなたの想いは静かに息づくことでしょう。
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青島神社参拝の想い出は、古代から続くビロウの群落の中を歩く元宮の参道でした。

願わくば古代祭祀跡が発掘された場所に、かつての古代祭祀場が再現され、当時の祭祀の様子を「日向神話館」で見たかったものです。

参考文献 扇―「性」と古代信仰の秘密を物語る「扇」の謎(吉野裕子著、学生社発行)

南九州旅行No.29 「サンメッセ日南」でモアイ見物

2012年11月07日 | 九州の旅
南九州旅行3日目(2012/5/9)、宮崎県日南市「鵜戸神宮」参拝の次は、鵜戸崎の北に隣接するテーマパーク「サンメッセ日南」で、モアイ像の見物です。



「サンメッセ日南」モアイ広場入口付近の風景です。

「サンメッセ日南」は、広い山の斜面に造られたモアイ像を中心とするテーマパークですが、実物に近い複製と知り訪れたものです。

「モアイ」は、太平洋に浮かぶ絶海の孤島「イースター島」に造られた謎の石像群で、南米チリ領ですが、東南アジアから太平洋に広がったポリネシア文化圏に含まれるようです。



「サンメッセ日南」の入場券(上)と、パンフレットに掲載の園内案内図です。

日南海岸の斜面に「サンメッセ日南」が広がり、海岸に沿った国道220号から園内への坂道を進んで行きます。

モアイ広場は南(図左)にあり、斜面の下にはヤギのいる牧場、斜面の上には「地球感謝の鐘」などの施設があります。



料金所や、駐車場に近い「ウエルカムプラザ」の風景です。

「ウエルカムプラザ」は、ショップ・レストラン・貸カートなどがあり、園内散策の起点となる施設で、モアイをモチーフにした「みらいちゃん」「イキール君」のかわいらしいマスコットキャラが出迎えてくれました。

右手には東国原前県知事のモアイスタイルの像が立ち、「長い間お世話になりました」の丁重なメッセジも添えられていますが、こちらはキモキャラに分類されそうです。



モアイ広場からウエルカムプラザなどのある北の方向を振り返った風景です。

斜面下にはヤギなどを飼育する牧場が広がり、貸カートに乗って走る人も見られました。

モアイ広場から太平洋を見下ろす風景に気持ちが安らぎます。



モアイ広場に立つモアイ像です。

モアイ像は、アフと呼ばれる石積みの祭壇に立ち、中央にはただ一つの階段があります。

これらの石像は、イースター島のモアイ像の中でも代表的な「アフ・アキビ」7体の復刻像で、足元の案内板ではイースター島の長老から同意を得て復刻されたことが書かれています。

■モアイの案内板がありました。
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この岬に立つと、太平洋は眼前に大きく広がりまるくさえ見えます。早朝の日の出を拝みますと、海の果て黒潮海流の流れ行く先々には何があるのかとロマンを誘います。そのような思いの中からイースター島のモアイ像が浮かんできました。
一燈圃生活の創始者西田天香さんを師と仰ぎ、モアイの修復に参加された高松の多田野弘氏、そしてモアイ修復委員会の奈良国立文化財研究所及び飛島建設株式会社、又イースター島の考古学者クラウディオ.クリスティノ.フェランド氏も参加し、学術的鑑修と卓越した技術によって、更にイースター島長老会と島民の人々のご理解によって代表的なモアイ、アフ・アキビ7体の完全復元模刻が完成しました。
世界で初めて、そしておそらく唯一であろうモアイの完全復刻がこの地に許されたのは、太陽からのメッセージ(日向・ヒムカの国)でありモアイ修復チームの功績の賜であり、又、西田天香さんの遺徳によるものと感謝いたします。
地球の平和、そしてイースター島と日南市の友好の絆の深まることを願って、ここにそのいきさつを後世に書き残しておきます。
1996年4月12日   京都 一燈園当番 西田 多戈止 合掌
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環太平洋の両端から、隈想に耽るモアイ立ち、両者の間には数百年、おそらく約20世代近い歳月が流れている。赤道を挟んで、過去と現代が話しているのだろう。ひょっとしたら、テレパシーで会話する寡黙な石人たちだろうか。無限に広がる紺碧の海、モアイがこれ程似合う環境はない。ラパヌイの人々が長い歴史にわたって大切にしたように、私たちも、異国の神々を次の世代に伝えたい。ラパヌイと日南の友好のために。
  1996年4月12日  モアイ修復委員会
         猪熊兼勝
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この記念碑はラバヌイ島のアキビ祭壇(アフ)が素晴らしく再現されたもので、私は技術アドバイザーとして参加できたことを大変光栄に思っています。この記念碑が遠方離れた弘達の島と日本の間の友好と親睦を深めることを期待しています。
  1996年2月9日  チリ大学付属イースター島研究所
         考古学者・トンガリキ再建プロジェクト
               クラウディオ・クリスチーノ
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ラパヌイ(イースター島)にあるアフアキビを復刻したものを日南市に置くことを、市長として、また長老会の一員として賛同します。
今後継続して交流がなされることを願っています。
  1996年2月12日     ヘドロ・エドモンド市長
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案内板に描かれた「イースター島」(現地では「ラパ・ヌイ」の名で呼ばれる)の地図です。

ほぼ三角形の島で、それぞれの角近くに山があり、下の山は「ラノカウ火山」だそうです。

火山の北に島の人口が集中する「ハンガロア村」があり、その間に飛行場の滑走路が伸びています。

「サンメッセ日南」に造られたモアイ像のオリジナルがある「アフ・アキビ」は、島の北西にあります。

多くのモアイ像は、海岸に内陸を向くように建てられていますが、「アフ・アキビ」は島の内陸部にあり、海を向いて建つ珍しい石像でもあるようです。

島の東にある「ラノララク」は、約1,000体あると言われるモアイ像の大半が切り出された凝灰岩の山で、未完成の像や、放置された像が今でも多く残されているようです。

その東の「アフ・トンガリキ」は後述の「MOAIはこうして日南海岸に建てられた!」の説明文にある日本のクレーンメーカー(株)タダノ・奈良国立文化財研究所・石工の左野氏(飛鳥建設)が現地の協力を得て修復した15体のモアイ像の場所です。

■地図の案内板にあった説明文です。
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ラパ・ヌイ(イースター島)は、南米チリの西方約3800km沖合の南太平洋に位置する島です。隣のタヒチ島まで約4000kmも離れていて、文字どおり南洋に浮かぶ「絶海の孤島」である。
日本から約15000km、太平洋を間にして対峙するラパヌイは周囲60kmの三角形をした小島で、その3つの頂点には300~500mの高さの休火山がある。
島内には川は無く、低い山の斜面から海岸に向けて緩やかに丘陵が広がっている。高い樹木は集落周辺以外には見あたらず、青々とした草原のうねりがどこまでもつづいている。
1722年、オランダ人提督ヤコブ・ロツゲフェーンが西欧人として初めてこの島に上陸。
この日がキリスト教のイースター(復活祭:春分の日以降の満月の次の日曜日)であったため、こう呼ばれた。しかし島の人々は今でも本来の呼び名であるラパ・ヌイ(ポリネシア語で、大きな島の意味)を使っている。
海岸近くに数多く分布する巨石人像・モアイは、西欧人の多大な関心を集め、その謎とともに今日でもなお世界の七不思議のひとつに数えられている。中でもアフアキビの7体は、他と違って海岸から1.6km内陸の丘陵に位置し、伝説とともに特徴的なモアイである。

位置:南緯27度9分・西経109度26分
面積:約16,628ha ※1
地形:三角形状(縦方向12km・横方向24km・外周60km)
国籍:チリ共和国
人口:2,800人 ※2
音語:スペイン語(ラパヌイ語)
時差:日本より15時間遅れ
空港:3000m級滑走路(スペースシャトル緊急避難着陸用)
(イースター島の旅・ランチリ航空会社発行/1995年より)
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★案内板や、パンフレットの内容に違いが見つかり、参考のため記載します。
※1 イースター島の面積は、広場の案内板では「約16,628ha」(約166km2)とあり、 「サンメッセ日南」が配布するパンフレットでは「175km2(香川県小豆島より少し小さい)」と表示され、Wikipediaでは約180km2とそれぞれ違っています。
又、小豆島は、Wikipediaでは153.30km2としており、イースター島の面積が逆に大きくなるようです。
※2 イースター島の人口は、広場の案内板では「2,800人」とありますが、 「サンメッセ日南」が配布するパンフレットでは「現在4,300人」とあり、Wikipediaでは「総計(2005年)3,791人」と記載されており、これにも違いが見られます。



案内板に描かれたイースター島の地図の下に「モアイの種類」と題する図がありました。

モアイ像は、年代と共に大型化していったとされ、石像の形は、図の左から右へ時代変化したものと思われます。

日本の弥生時代、祭祀に使われたとされる銅鐸が次第に大型化し、終焉を迎えた歴史を彷彿とします。

書籍「イースター島の謎」ではイースター島の考古学年表で、以下の時代区分をしています。
 1.古代(400~1000)入植と発展の時期 モアイ像は700年以前に始まる?
 2.中期(1000~1680)発展期、アフとモアイ像の時代 1500年以降には像の頭に凝灰岩製の赤い被り物(プカオ)が現れる。
 3.後期(1680~1722)衰退期、フリ・モアイの時代 モアイ像を祭壇アフに作ることが終わり、半ピラミッド状のアフを墓とする。
 4.原史期(1722~1868)欧州人との接触で島に様々な変化があり、この時代末期にはキリスト教への改宗が進んだ。
 5.歴史期(1868~)ペルーの奴隷狩り、疫病などで1877年には島の人口が激減、1800年の9,600人から111人となった。

資料:「イースター島の謎」(カテリーヌ・オルリアック/ミッシェル・オルリアック 共著、藤崎京子 訳、創元社発行)

■案内板「モアイの種類」の図の説明文です。
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モアイの種類
 A:Moai Escoria Roja(Tahai)
 B:Moai Ahu Vai(Tahai)
 C:Moai Tuturi(Rano Raraku)
 D:Moai KoTe Riku(Tahai)
 E:Moai Ahu Tongariki(Hotu lti)
 F:Moai Paro(Ahu Te Pito Kura)
 G:Moai Rano Raraku(Termi Nal)
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「サンメッセ日南」に並ぶ石像7体の内、左から三番目の最も背が高いと思われるモアイ像です。

説明図などから像の高さは4m余り、人の高さと比較した上段の「モアイの種類」の図ではCタイプに近いようです。

足がどこにあるのかよく分りませんが、しゃがんだ姿勢とされるモアイ像にはどことなく親しみを感じます。

しかし、このくぼんだ目の部分には白い珊瑚の白目と、中心に黒い瞳がはめられていたとされ、元々は目に強い印象を受ける顔だちだったと思われます。

かつて最盛期には10部族に分かれていたとされるイースター島では、亡くなった部族の長の像を競って彫り、の祭壇アフへ建てる時に目をはめたとされ、その時点で像に神聖さが宿るものとしていたようです。

巨大な石像を十数キロ離れたまで運搬した方法や、島で採れない珊瑚の入手ルートなどは、現代に残る謎のようです。



案内板にあったイースター島の「アフ・アキビ」7体の写真です。

かなり風化が進み、頭の一部が欠けている像もありますが、「サンメッセ日南」での復刻は、破損や、風化する前の石像をイメージして復刻されたようです。

下の説明文では、かつてほとんどのモアイ像が倒されていたとされ、「アフ・アキビ」も発掘されて、再建された歴史があったことには驚きました。

■「アフ・アキビ」の説明文です。
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アフ・アキビ
環太平洋の島々には色んなポーズで石人がしやがんでいる。その代表者がラパヌイのモアイである。数百年前、島には10の部族があった。彼らは部族毎にモアイ(石人)を作りアフと呼ぶ祭壇に祀った。部族の祖先の偶像であったが、アフの上では数個体のモアイが並んだ。面長の顔に長い耳、胴長の単調な姿で、細い腕に親指がピンと反る。アフ毎に同じ顔、形は制作集団の技の特徴か、時代の形か。巨大なモアイを好んだ最盛期、部族抗争で、モアイ信仰派は敗れる。600体のモアイは顔を下に倒された。島の西北アキビのアフでも7体のモアイが倒された。1960年よりラパヌイ考古学の父W・マロイとチリ考古学の長老G・フィゲロアによって発掘され、ラパヌイの好き日の姿に再建された。多くのモアイが内陸を見詰めるなかで、アキビのモアイは毎日、美しい海の彼方の夕焼けを望む。日南モアイはアキビをイメージして復刻された。

■アフ・アキビの伝説■
伝説によると、ある時ヒバの国にハウマカという賢者が夢を見た。彼の魂は夢の中で、彼の元を去り、日の出づる方向に新たな大地を求めて旅に出た。やがて彼の魂は、マタ・キ・テ・ランギ(イースター島の古名、天を見つめる日)という名の島にたどり着き、島中を調べ廻った後、美しいアナケナ海岸にやって来た。“この地こそが、我が王が民を率いて上陸するに適した場所だ”と叫んで、魂は再びハウマカの身体に戻っていった。
目覚めたハウマカの話を聞いたホツ・マツア王は、本当かどうか7人の使者を航海に送り、やがて5人がとヒバへ帰り着くと王はついに決心をし、民を率いて長い航海の末、この島へたどり着いたという。
アフ・アキビのモアイは、年に2度、春分・秋分には太陽の沈む地点を見つめるという方向性を持っているといわれる。夕陽に映えるモアイたちは遥か故柵、伝説の島々に思いをはせているのかも知れない。
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案内板に「アフ・アキビ復刻」と書かれた図が並んでいました。

上の7体の図は、頭が破損した像もあり、元の「アフ・アキビ」の石像と思われます。

中段の図は、祭壇アフの断面図のようで、これは現地のものを再現しているようです。

下の図は1辺が25cmで、高さ4.5m、幅1.5mのマス目に各石像のイメージが描かれ、石造の大きさが分かります。



モアイ広場から斜面の上を見上げた風景です。

広場の端に沿ってユネスコの世界遺産を紹介するたくさんのパネルが並んでいました。

「サンメッセ日南」の園内案内図にあった「太陽の階段」や、「地球感謝の鐘」「蝶の楽園」等は、はるか上にあり、900円の貸カートを借りてまで見たい気にもならず、結局、広場だけの見物でした。

「サンメッセ日南」のパンフレットに「アフ・アキビ」のモアイ像が日南で復刻された経緯に日本の企業や、研究機関、宗教団体が関係している事が紹介されていました。

イースターの東部「アフ・トンガリキ」に高さ5m以上ある15体のモアイが日本人の力によって復刻された事が記されています。

■パンフレットより
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MOAIはこうして日南海岸に建てられた!
 * 3つの「OnIy One」*
なぜ、日南海岸に唯一イースター島のMOAIが完全復刻されたのか?
この地は、昭和44年に京都の財団法人「一燈園」の青年達が牧場を作って和牛の生産を行っていましたが、昭和62年に閉牧しました。しかし地元の村おこしの要請を受けて平成8年4月、村おこしと地球の平和を願って、サンメッセ日南を設立した。

イースター島のモアイ(アフ・トンガリキ15体)
日本のチームが5年かけて修復平成3年某TV局が、世界七不思議の一つと言われているモアイを紹介、昔々の部族間の争いと、昭和35年のチリ大地震で倒壊したモアイを放映し、このように荒廃している世界の文化財の修復こそ平和に貢献する日本の役割ではないか、と訴えた。
そこで立ち上がったのが四国のクレーンメーカー(株)タダノ・奈良国立文化財研究所・石工の左野氏(飛鳥建設)の三者でモアイ修復委員会を結成、チリ大学イースター島博物館の協力も得て、部族間の争いや地震で倒されていたモアイを平成2年より約5年間かけてアフ・トンガリキ15体を完全修復、このモアイ修復委員会の努力によりイースター島は「ラパヌイ国立公園」としてユネスコ世界遺産に登録することができた。

サンメッセ日南のモアイ(アフ・アキピ)復刻作業
イースター島の長老会は修復チームの希望に応え、初めてモアイを日本で復刻することを許可した。また、㈱タダノは長年、一燈園が開催している智徳研修会の参加メンバーであるのと日南海岸はモアイ建立に相応しい景観であるところから、石工の左野勝司氏はモアイ、アフ・アキビ7体を精魂込めて彫りあげ、サンメッセ日南の地に建立した。

サンメッセ日南に建てられたモアイは、アフアキビ7体の完全復刻として極めて貴重なものである。
(イースター島の石は持出し禁止のため、福島県白川村の同じ凝灰岩で作られた)
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最後にモアイ広場の端にある板張りのステージから見たモアイ像です。

ほとんどのモアイ像は、海を背に部族の集落を見守るように建てられたとされ、太平洋を背にするこの風景はイースター島のイメージに似ているのかも知れません。

絶海の孤島イースター島で、700~1700年頃まで最大約千年続いたと思われるモアイ像造りは、溶岩が固まって出来た玄武岩や、黒曜石の石器で、火山灰が堆積して出来た比較的柔らかい凝灰岩を彫ったものだそうです。

海底火山が島に成長し、やがて動植物が繁殖し、そこに人類の文化が花開く歴史が見えてくるようです。

謎に満ちた「イースター島」をチョッピリ体感したような「サンメッセ日南」のモアイ見物でした。

油絵「秋の実り」

2012年11月01日 | 妻の油絵

妻の油絵「秋の実り」です。

毎年描くぶどうに、今年は栗が登場しています。

栗の実を包む「いが栗」の表面は、密集した細いトゲで構成されています。

面で表現する他の果物とは違う勢いのある筆遣いと、根気が必要だそうで、だいぶ苦戦した作品のようです。

来年は、もっと上手く描けるかな?



先々週末の巨大なさつま芋の収穫風景です。

畑の端に植えられていた一株で、スコップが小さく見えるほど大きな芋が育ち、驚きの記念撮影でした。

今年は、延べ40mの長さの畝にさつま芋を植え、豊作になりました。

さつま芋は、酒のつまみや、おかずに合う料理が見当たらず、晩酌をする男からは敬遠される作物です。

ところが先日、妻が考えた「さつま芋のサラダ」がビールや酒にも合う味で、ちょっぴり感動の一品でした。

蒸してつぶしたさつま芋に刻んだラッキョウ、ベーコンを混ぜてラッキョウの酢、ヨーグルト、マヨネーズなどで味付けしたものですが、ラッキョウの甘酸っぱさが効いたようです。

「秋の実り」さつま芋の豊作を素直に喜ばせてくれるレシピが出来ました。