昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

名水百選「垣花桶川」と、長い石畳の坂道

2008年09月30日 | 沖縄の旅
「仲村渠樋川」[なかんだかりひーじゃー]の次に、沖縄県唯一の全国名水百選「垣花樋川」[かきのはなひーじゃー]に行きました。
「垣花樋川」は、沖縄県南城市玉城字垣花にあり、「仲村渠樋川」のすぐ近くにあります。



写真は、「垣花樋川」[かきのはなひーじゃー]の入り口で、道路から直角に下り道が始まっています。
この入口の向って右側に2~3台駐車可能な駐車場があり、利用させて頂きました。
この道を進むと長い下り坂が続いています。



アスファルト舗装の下り道を少し進むと石畳道になります。

更に更に進むと道端に大きい平らな石が置かれています。
横の案内板には「イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石)」と書かれていました。
丘の上にある垣花集落の人達が、生活用水を汲んで長い坂道を登る途中、休憩で座った石のようです。

石畳道の上には金属製の水道管が見えます。
下の「垣花樋川」の湧水を簡易水道で使っていると聞き、ポンプで水を汲み上げているとも考えましたが、100mもある坂道の高低差で、本当に下の水源地から水が登って行くのか不思議にも思えます。



さらに下っていくと、二つ目の平らな石が置かれていました。
案内板には「ナカユクイイシ(中休み石)」と書かれ、ここでも人々が休憩したようです。

石は、草で覆われ、周りに小さな赤い花が咲いていました。



うっそうとした長い坂道を進むと、突然視界が広がります。
「垣花桶川」と、丘の下に美しい海の景色が見えてきました。

道が二手に分かれ、向って左上の道に進むとブロック造りの小屋があり、その先には「イナグンカー」(女の川)といわれる湧水があるようです。
この小屋は簡易水道のポンプ室かも知れません。

向って右の道を進むと再び道が分かれて、左に進むと「イキガンカー」(男の川)、右に下ると「ンマミシガー」(馬浴川)があります。

■案内板があり、転記します。
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垣花樋川[かきのはなひーじゃー](俗称 シチャンカー)
 天然の美しい川や泉を保全して後生に伝えるという目的で推薦され、昭和60年に環境庁の全国名水百選に選ばれた。百選の中でも最初は全国31件が選ばれこれに入選した。垣花樋川は集落の南側にあって、石畳の急な坂道を100メートルほど降りて行くと、左側のうっそうと繁った林の中腹岩根から湧水が湧き出ている。
 かっては左側上のイナグンカー(女の川)は女が使い、右側下のイキガンカー(男の川)は男が使っていた。その下流の浅い水たまりはンマミシガー(馬浴川)、全体をまとめてシチャンカー(下の川)と呼ばれ、樋川から流れた水は下の田をうるおし、稲作が盛んであった。垣花村の人々はトチャンカーで水浴び、洗濯、野菜洗い、水汲みをするためカービラ(川の坂)を行き来した。石畳道の途中には女たちが一息入れたナカユクイイシ(中休み石)、イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石)が残っている。
 現在は、簡易水道として地域の飲料水等の生活用水や、農業用水として利用されている。
 平成18年1月 南城市玉城字垣花
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二つ目の分かれ道を左に進むと、道の先に「イキガンカー」(男の川)が見えてきます。
道の途中にはベンチが二つ置かれています。

斜面のあちこちから水が湧き、水の流れる音が聞こえてきました。



左上を見上げると、最初に見えたブロックの小屋があり、その横から勢いよく水が落ちていました。
「イナグンカー」(女の川)から湧いた水のようです。

「仲村渠樋川」もそうでしたが、男女で使う水汲み場が違っていたようです。
トイレが男女別なら分かりますが・・・。



右下に見える池が、「ンマミシガー」(馬浴川)です。
向って左上の「イキガンカー」(男の川)や、「イナグンカー」(女の川)から水が流れ込んでいます。



「イキガンカー」(男の川)です。
四方をコンクリートで囲われて、下の水溜めは浅いものでした。

向って右上に石を四角に組んだ拝所があり、その後ろによく分かりませんが「サキシマスオウノキ」に似た板根のある大きな木がありました。



「イキガンカー」(男の川)では勢いよく水が流れ出ていました。

溝の突き当りに水源の穴があり、その周囲に「クワズイモ」の大きな葉が生い茂っています。
穴の奥をのぞいて見ましたが神秘の闇でした。


大木が「イキガンカー」の周囲にそびえています。
その生命力に圧倒されます。



上から見下ろした「ンマミシガー」(馬浴川)です。
水の透明さがよく分かります。

「ンマミシガー」(馬浴川)には赤い小さな魚がおよいでいました。


「ンマミシガー」(馬浴川)の先に畑があり、地元の農家のご夫婦が農作業に精を出していました。
うす曇でしたが、美しい海が広がり「仲村渠樋川」[なかんだかりひーじゃー]で楽園のような安らぎのひと時でした。

帰りの長い上り坂を、昔の水汲みの人々と同じように「ナカユクイイシ(中休み)」や、「イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石)」で一休みしながら帰りました。

南城市玉城の共同生活用水場「仲村渠樋川」

2008年09月26日 | 沖縄の旅
沖縄県南城市玉城字仲村渠にある仲村渠樋川[なかんだかりひーじゃー]という湧水が出る昔ながらの共同生活用水場を見に行きました。



西側から石畳の坂道を下ると「仲村渠樋川」が見えてきます。
手前の石垣の上に拝所があります。

「仲村渠樋川」は、向かって左側の斜面に湧水を溜める施設、その前面に水を利用する施設が造られています。

石畳の道や、広く枝を張った広場の大木になんとなくすがすがしさを感じます。



東側から「仲村渠樋川」の広場や、西側の石畳の道を見た景色です。
広場全体に木陰をつくるおおきな木の下は、風もあってとてもさわやかでした。

■向って左側の広場の端に案内板があり、転記します。
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仲村渠樋川[なかんだかりひーじゃー](国指定重要文化財)
 仲村渠樋川は、仲村渠集落の共同用水施設で、沖縄の伝統的な石造井泉[せきぞうせいせん]を代表するものである。
 古くはうふがーと呼ばれ、水場に木製の樋[とい]をすえた程度の施設だったようだが、大正元年(1912)から翌年にかけて、津堅島[つけんじま]の石工により琉球石灰岩などを用いて造り替えられた。その施設はいきががー(男性用水場)、いなぐがー(女性用水場)、広場、拝所[はいしょ]、共同風呂、かーびら(石畳)によって構成され、敷地北側からの湧水を貯水槽に貯え、水場へ流して使用されていた。昭和30年代に簡易水道が敷設[ふせつ]されるまでは、飲用、洗濯、野菜洗い、水浴びなどの生活用水として利用されていたが、最近は主に農業用水に利用されている。
 しかし、先の沖縄戦で共同風呂周辺は破壊され、土で埋められたため、昭和39年に広場にはモルタルが塗られ仮の改修がなされた。更に平成16年に実施された復元工事により、大正2年(1913)当時の樋川の状態に復元され敷地全体の景観が整えられた。同時にいきががーの芋洗い場[いもあらいば]や広場の石敷き、共同風呂も復元整備がなされた。共同風呂については、主に発掘調査により発見された出土品(北側の石柱二本・石壁の一部、水槽、洗い場床、五右衛門風呂[ごえもんぶろ]の一部)や近辺の類例などをもとに復元がなされた。また法面保護のため、共同風呂北側および広場東側に擁壁[ようへき]工事が施[ほどこ]され整備された。
  玉城村教育委員会
  平成17年3月31日設置
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案内板に「仲村渠樋川」の施設案内図がありました。
周囲の灰色部分は、一般の道路で、図の下にある石畳の広場は確か5m程度は低い場所だったと記憶しています。

向って左に「拝所」、緑色の斜面の下には「いきががー」(男性用水場)、その右に「いなぐがー」(女性用水場)、右には赤瓦の屋根の共同風呂が配置されています。



案内板に「いきががーと広場北側(昭和27年撮影)」と書かれた昔のモノクロ写真がありました。

パンツ姿の男性が水浴をしています。



地面から一段低くなった場所が、「いきががー」(男性用水場)です。
向って左の壁は、水槽ですが、水は流れ出ていませんでした。

仲村渠樋川[ナカンダカリヒージャー]の読み方や、意味がよく分らないので、調べてみました。
「仲村渠」は、地名で、樋川は湧水を利用する施設の名称です。
「仲村渠」の「渠」は溝・人工水路の意味があるようです。
しかし、この読み方だけは想像すらできません。



水の出口は、栓で塞がれていました。
でかい浴槽の栓のような形で、初めて見るものです。
この栓を上に引き抜くと壁の穴から勢いよく出るものと思われます。



一段低くなった「いきががー」(男性用水場)に入り、振り向いた景色です。

石段が左右二ヶ所にあり、石段の間に水が溜っている場所は、芋洗い場[いもあらいば]です。



「いきががー」と、共同風呂の間に造られている「いなぐがー」(女性用水場)です。
すぐ横の「いきががー」(男性用水場)には3つある水の出口が、こちらでは1つしかありません。

向って左から流れ出ている水は、水槽からあふれ出る水の出口のようです。



「仲村渠樋川」を正面から撮った写真です。
向って右の建物が共同風呂ですが、オープンです。
中央の石垣の裏が「いなぐがー」(女性用水場)です。



共同風呂の中の様子です。
案内板の説明にあった「五衛門風呂」のようですが、人が入れる大きさではありません。
お湯を沸かして体を洗ったものと思われます。

ここなら風呂に水を汲む作業が、楽ですね。



東側の道の上から「仲村渠樋川」を見た景色です。


仲村渠樋川の東側の坂道を上り、ほんの少し東に小さな展望場がありました。



堤防のある海岸は、「志喜屋漁港」や、「アドチ島」のようです。
天気も良く、公園から見下ろす海の景色は、とても素敵でした。

庄原市山内町、彼岸花の咲き乱れる道

2008年09月24日 | 山陽地方の旅
沖縄旅行の思い出を一休みして休日に見た彼岸花を掲載します。



庄原市山内町を流れる国兼川の土手の道で彼岸花がたくさん咲いているのを見つけました。
道の両側に100m以上続いています。
楽しくなって、道をどんどん進んで行きました。

周囲の田んぼは、所々で早生の品種の稲刈りが終わり、刈り取った稲の株から緑の芽が伸びていました。



花が100m以上続く土手の先に小さな木があり、シラサギがたくさんとまっていました。
15羽程度はいるようで、こんなに集まっているのは、初めての光景です。

逃げられないように、遠くからズームで撮影しました。



国兼川の土手に咲く彼岸花の赤い色は、稲穂の黄金色や、草の緑と美しく調和しています。
普段、平凡と思われる景色もこの季節だけは、輝いて見えます。



彼岸花は、まだ咲き始めのようで、所々につぼみが伸び、これからもっと花が増えそうです。
地面のあちこちから若い芽がたくさん伸び始めていました。

一昨年10月に鹿児島旅行に行き、このブログ「鹿児島の黄色い彼岸花」で紹介しました。
後で調べたら「ショウキズイセン」と言われる品種で、白い彼岸花もあるようです。



彼岸花を接写しました。実に華麗な姿です。
よく見ると一本の茎に5~6個の花が付き、細く長い花びらが、からみついて一つの花のように見えるようです。

毎年、妻は、彼岸花の絵を描いています。
今年も先週描きましたが、近日撮影して掲載します。

シーサーのいる「知名埼灯台」と、「テダ御川」

2008年09月21日 | 沖縄の旅
「クラジ石」を見物した後、近くの海辺にある「テダ御川」を見に行きました。



331号線から「わちばる太郎」の看板を海の方角に入り、少し進むと左に別れる道があります。
「テダ御川[うっかー]」の案内板が立っていました。

直進した先には「海鮮グルメ レストラン わちばる太郎」のお店が見えています。



写真は、案内板を拡大したものです。
「テダ御川[てだうっかー]」と、「東御廻り[あがりうまーい]」といわれる行事についての説明や、案内地図がありました。

「東御廻り」は、首里城の「園比屋武御嶽[すぬひゃんうたき]」から沖縄本島南東部の「玉城グスク[たまぐすくぐすく]」まで、聖地14ヵ所を巡る行事です。
案内地図に赤い字で書かれてある「テダ御川」は、6番目の聖地で、「佐敷グスク[さしきぐすく]」からここ「テダ御川」を経て、次は最高の聖地「斎場御嶽[せーふぁうたき]」へ続くようです。

「東御廻り」は、かって国王の行事だったものが、現在では一般の人々の行事になっているようです。



知名埼付近の地図です。
国道331号線を東に入り、①の分岐点から点線で表示されている道をたどり、②「知名埼灯台」から③「テダ御川」まで徒歩のコースでした。



墓地の間を進み、しばらく草むらに囲まれた山道を進んで行きます。
墓場の道が折れている場所に案内表示がないため、とても不安になりました。

灯台が見え始める手前のカーブにやっと道案内があるだけで、途中何度も引き返そうかと思うような道のりでした。



草むらの中の道を上りつめ、道が西へ折れると景色が広がり、「知名埼灯台」が見えてきます。
高台に吹き上げてくる心地よい風と、このすばらしい景色にしばしの間、感動していました。



この灯台の玄関には赤瓦の屋根があり、その上にシーサーがいます。
サンゴ礁の海から聞こえる潮騒の中で、屋根に座るシーサーを見ていると、改めて沖縄に来ている実感が湧いてきます。



灯台の周囲は垣根で、正面に小さな門があります。
灯台には楕円形のドアが取り付けられ、まるで船や、潜水艦のようです。

ところで、この灯台に電線が引き込まれていません。気になって調べてみました。

沖縄の海を守る「第十一管区海上保安本部」のサイトに「沖縄の海の道しるべ 沖縄本島地区」のページに沖縄の灯台(航路標識)が紹介されていました。

知名埼灯台の電源は、自然エネルギー(太陽電池)とあり、その他の灯台の多くも同様でした。
灯台の小さな丸い屋上に太陽電池のパネルが取り付けられているのでしょうか。

大きな灯台の電源は、購入電力がありましたが、エネルギー問題や、Co2削減対策が進んでいることが分かり少し安心しました。




灯台を過ぎると道は急な下り道になり、長い階段がありました。
階段の下には美しいサンゴ礁の海が広がっています。



長い階段を降りるとコンクリートの道が造られていました。
突当りに「テダ御川」の石碑が見えています。

■「テダ御川」の石碑の左側に石に彫られた案内板がありましたので転記します。
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知念村指定文化財第四号
昭和五十七年三月三十一日指定
テダ御川
国王が久高島渡島のとき飲料水の補給をし、また、知名崎通過の際海上無事を祈った霊泉だといわれている。
園比屋武御嶽から始まる「東り廻い」の巡拝地でもある。
昭和八年頃までは清水が湧き出る泉であったが、後方の知名城の山から国会議事堂の建築にも使用されたトラバーチン(石材)が産出し、一帯は採石場となった。そのため知名城の山は崩壊し現在では湧水も涸れてしまっている。
平成二年三月一日知念村教育委員会
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「テダ御川」の石碑です。
石碑の上に岩にコンクリートを塗りつけて「うてだうか 水神 1969年●●」と文字が刻まれていました。
しかし、●●部分の文字は読めませんでした。



階段を登る途中から見た「テダ御川」です。
向って左の道の突当りに「テダ御川」の石碑が見えます。



長い階段をやっと上り、灯台近くで西側の断崖の下を見下ろすと養殖場に浮かぶ「クラジ石」が見えました。


知念半島「知名崎のクラジ石」

2008年09月20日 | 沖縄の旅
沖縄本島旅行の思い出です。
南城市佐敷から知念半島を時計回りに進んで行きました。


知念半島の北東部にある知名崎にさしかかった辺りで、海岸近くにキノコの形をした岩が見えました。

沖縄の海岸では所々で見かける形の岩ですが、気になって止まって見ることにしました。



車を止める場所を探して進むと、すぐにカーブにさしかかり、駐車場や、小さな展望台らしき施設が見えました。
「海鮮グルメ レストラン わちばる太郎」と書かれた看板が目印で、左折するとお店があるようです。



小さな駐車場に知念岬の観光案内地図がありました。
現在地は、地図の上部にある赤丸の所です。



上の案内地図を拡大してみました。
「クルマエビ養殖場」、「クラジ石」、「太陽御川」などが書かれています。
あのキノコの形をした岩は、「クラジ石」と呼ぶようです。



少しだけ高くなった展望台に上がるスロープから駐車場を振り返った景色です。



「クラジ石」を眺める石で造られた展望台です。
石の柵の上にはパノラマ写真の案内板があります。

正直な気持ち、この二つの岩を遠くから眺めるための駐車場や、展望台が造られていること自体に感動しました。



パノラマ写真の案内板の中央部分です。
コンクリートの堤防に囲まれた「クラジ石」のある水域は「クルマエビ養殖場」ようです。

「海鮮グルメ レストラン わちばる太郎」を調べたら、この養殖場、(有)板馬養殖センターが経営しているようです。
この養殖場では新鮮な車海老や、海ぶどうが養殖され、「わちばる太郎」で食べられるようです。



展望台からパノラマ写真と同じ場所を撮った写真です。

この岩が、琉球新報社の沖縄コンパクト事典で、紹介されていました。
「高倉の形に似ているところからクラジー(倉石)とよばれる。」とあり、「クラジ石」の名前の由来が判ってきました。

「高倉」については、このブログ<茅葺きの高床式建物「我部祖河の高倉」>でも紹介した昔の沖縄にあった高床式の倉庫です。



「クラジ石」の一つを拡大して見ました。
長い時代を経て波に削られた様子が分かります。

茅葺き屋根に草が生えた高倉によく似ています。
この周囲にたくさんの車海老がおよいでいるのでしょうか。

冨祖崎の「ハマジンチョウ群落」 半マングローブ植物??

2008年09月16日 | 沖縄の旅
沖縄県南城市佐敷字冨祖崎の「ハマジンチョウ群落」を見に行きました。

ハマジンチョウは、「浜沈丁」とも書き、ハマジンチョウ科ハマジンチョウ属の常緑低木です。
日本では三重県、九州、沖縄県などの河口付近の海岸に自生しているようです。



近くまで行くと標識がありました。
この辺りの土地は、埋め立ての土地のようです。



小さな公園のようになって、道路脇に車を止めて入口を入って行きました。



■案内板があり、説明文を転記します。
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沖縄県指定天然記念物
南城市富祖崎海岸のハマジンチョウ群落
昭和36年6月15日指定 所在地南城市字富祖崎
 ハマジンチョウは、九州南部から台湾、中国南部やインドシナなどの地域でみられます。ハマジンチョウの仲間は、日本では2種類だけが知られ、沖縄では海岸線沿いに点在して生育しています。木の高さは1mから2mで、初夏になるとうすい紫色の花を咲かせます。
 真謝川河口から富祖崎川河口にかけての海岸には、ハマジンチョウの群落がみられます。このようにハマジンチョウが多く育成している場所は、我が国では他に例がなくとても珍しいもので、その生態を研究する上でたいへん貴重です。また近くにはオヒルギやメヒルギ、シマシラキ、サキシマスオウノキ、サガリバナなどからなるマングローブ林もあり、海岸泥地に生える植物の様子を研究する場所としても重要な地域です。
富祖崎海岸一帯は、陸地からの土砂が海の中にゆっくりと積もってできました。現在陸地の部分も、かっては富祖崎海岸のような泥質海岸でした。現在見られるハマジンチョウ群落やマングローブ群落は、地域一帯の過去の環境や地史を解明する上でも貴重なものなのです。
なお、この地域で許可なく現状を変更し、もしくは保存に影響を及ぼす行為を行うことは法律で禁止されています。
平成5年3月 沖縄県教育委員会
平成19年3月一部修正 南城市教育委員会
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案内板の上段にあるハマジンチョウの花の写真がよく見えませんが、薄い紫色の地に紫色の斑点があるかわいい花のようです。

下段の図は、生息地の観察通路図です。
向って斜め右に延びる通路の幅広になっている部分が一段高い橋です。
入口と、案内板は、通路の左端の丸の部分です。
濃い緑色の部分がハマジンチョウ、黄色部分がヒイラギギク、黄緑部分が、メヒルギの生えている場所だそうです。



観察通路を進むとすぐに上り階段があり、ハマジンチョウの木が通路をふさいでいました。



一段高くなっている橋の上から振り返った景色です。
階段上り口の左右にハマジンチョウが見られますが、その周辺はメヒルギのマングローブが広がっています。

ハマジンチョウは、河口付近の(塩分濃度が低い)水辺に育つ植物ですが、「マングローブ植物」には含まれていません。
調べてみると「半マングローブ植物」の一種で、「マングローブ植物」が水辺に育つのに対して、陸地でも育つ植物だそうで、こんな種類があるとはちょっと驚きです。

「マングローブ植物」には、メヒルギ・オヒルギ・ヤエヤマヒルギ・ニッパヤシ・ヒルギモドキ・ヒルギダマシなどがあり、「半マングローブ植物」にはハマボウ・ハマジンチョウ・ハマナツメなどの種類があるそうです。



ハマジンチョウの枝の先にはたくさんの実が付いていました。
初夏まで花が咲くとも聞いていましたが、見つかりませんでした。



ハマジンチョウの実を枝の下から撮った写真です。



一段高くなった観察通路の橋です。



橋の上から下を見ると水辺になっています。
「富祖崎川」の河口に近いこの一帯は塩分濃度の低い、マングローブが育つ水辺がかろうじて保護されているようです。



向こうに見える海は、中城湾です。
細い帯状の砂浜が、北にある冨祖崎公園の方から南にのびていました。
自然にできた砂州のようです。

ハマジンチョウは、海岸の埋め立てなどで減少し、環境省から「絶滅危惧II類」とされているようです。

油絵「神社と狛犬」

2008年09月13日 | 妻の油絵
F20号
広島県庄原市口和町向泉にある「多加意加美神社」を描きました。

神社のすがすがしさを表現するため、緑色の配合を見直し、絵具の重ね方も少し薄めにしてみたそうです。

「多加意加美神社」は、備後国惠蘇郡[えそぐん]の式内社といわれています。
「惠蘇郡[えそぐん]」は、かっての広島県比婆郡の西部です。

正面の石段を上り、神社の狛犬と、拝殿が見えた場面です。
石造の立派な狛犬の脇に、焼き物の狛犬が置かれていますが、どことなく赤瓦に似た色つやでした。

「佐敷城跡」の「月代の宮」に参拝

2008年09月10日 | 沖縄の旅
沖縄本島旅行の思い出の続きです。
大里城の次に南城市佐敷字佐敷の「佐敷城跡」へ行きました。

「佐敷城」は、14世紀頃、三山時代といわれた沖縄本島を統一した尚巴志[しょうはし]や、その父思紹が拠点としていたグスク(城)です。



「佐敷城跡」への道は、国道331号線から佐敷小学校の東側を南へ入った場所にあります。
国道331号線沿いに大きな鳥居がありました。
鳥居の向こうに見えるのは国道です。



「佐敷城跡」の広場です。
写真に向かって左から車で入ってきました。
右に見える建物は、「内原の殿」跡に建てられたほこらで、右から入り、左に祭壇がありました。

■「内原の殿」の案内板を転記します。
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内原の殿(ウチハルヌトゥン)
内原の殿は、上城の殿ともよばれ、女官たちの働いていた場所といわれており、もともとはカマド跡付近にあったと考えられています。
以前は粟石の柱で壁はありませんでしたが、昭和55年にコンクリートのほこらに建て替えられました。
南城市教育委員会
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広場に入り、すぐ右手の斜面に慰霊碑が建ち、その後方に「上グスクのカマド跡」がありました。

拝所のようにもなっており、沖縄の伝統的な信仰で、カマドの神様、ヒヌカン(火の神)をお祀りしているようです。

■案内板を転記します。
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上グスクのカマド跡
グスク時代のカマド跡といわれており、火の神を祭ったところと考えられています。
また、この辺りは女官たちの働いていた場所といわれています。そのようなところから、女官の詰め所といわれる内原の殿は、もとはこのカマド跡にあったともいわれています。
南城市教育委員会
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「佐敷城跡」には尚巴志一族を祀る神社「月代[つきしろ]の宮」が建てられており、正面に見える階段から「月代の宮」に登って行きます。

階段横に「月代宮」と刻まれた石碑があります。

■写真に向かって右端に「佐敷城(グスク)」の案内板があり、転記します。
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佐敷グスク(上グスク)
佐敷グスクは、三山を統一した尚巴志とその父尚思紹の居城跡といわれています。1979年の発掘調査によって、青磁・白磁のお碗や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しました。また、柱の穴
のあとや土留めの石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクに見られるような石垣はまだまだ発見されていません。
さかえる町 しぜんの町 きぼうの町 佐敷町教育委員会
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案内板に「佐敷城跡」の案内図がありました。
かっての「佐敷城」をイメージすることは出来ませんでした。



「月代の宮」の鳥居と、石段を登った先に拝殿が見えます。



「月代の宮」の拝殿です。
鉄製の欄干が錆びて、少しみすぼらしくなっています。

錆びる前に早く塗装しないと大変です。


「月代の宮」の拝殿の中から後方に本殿が見えます。
本殿は、以外に小さなものでした。



「月代の宮」の本殿です。
本土の神社と比較すると小さなものですが、御嶽[うたき]を基本とする沖縄の信仰で、この神社「月代の宮」がどのような人々によって造られ、維持されているのか興味のあるところです。



「月代の宮」の本殿の前に小さな石碑が置かれ、「御先神様 佐敷世之主 国の主」と刻まれています。
尚巴志一族の祖霊を讃える言葉でしょうか? なぜか深い信仰を感じます。



「月代宮」の本殿の裏に「上グスク之嶽」がありました。
後ろは道路になっており、神秘さが失われている感じです。

ここは、琉球王朝時代から聖地とされ、首里城から沖縄本島の東南部の聖地14ヵ所を巡る行事「東御廻り」の一か所とされているようです。
「東御廻り」は、かって国王の行事だったものが、一般の人々の行事になっているようです。

■上グスク之嶽の案内板を転記します。
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上グスク之嶽
排所巡礼「東御廻り[アガリウマーイ]」のコースの一つで、『琉球国由来記』には祭神としてステツカサノ御イベ・若ツカサノ御イベの二神が記されています。もともとこの場所にあったのかは、まだ分かっていま
せん。
佐敷町教育委員会
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「大里城跡」横の井戸「チチンガー」

2008年09月07日 | 沖縄の旅
「大里城跡」の見学を終え、「チチンガー」を見に行きました。



「大里城跡」の門の手前の四つ角付近に案内板が並んでいました。

向って右は、前回掲載の「大里城」の案内板です。
案内板のすぐ後ろに、共同井戸「チチンガー」があります。

■向って左の案内板にある「チチンガー」の説明文を転記します。
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大里村指定有形文化財(建造物)
チチンガー  平成2年3月15日指定
チチンガーは、島添大里グスクの城門近くの城壁外に設けられた降り井形態の井戸で西原集落の村の共同井戸として使用されていた。
築造年代は定かでないが、島添大里グスクとの関係から14世紀頃と推定される。井戸の湧水地点は地表から8メートル下にあり、取水地までは琉球石灰岩の岩盤を削って43段の階段が取り付けられている。取水地の岩盤部分は琉球石灰岩の面取り積みの石が積まれており島添大里グスクの城壁の一部ともみなされている。
伝承によれば、井戸が城壁外にあると清水湧きだし、場内に取り込まれると水が枯れたとのことである。
また場内のスクヤマヌウカー(御井)が枯れたので築造したとの伝えもある。
チチンガーは、島添大里グスクと密接に関わっているばかりでなく、当時の城と井戸との関係を理解する上でも貴重である。
 平成2年3月25日指定 大里村教育委員会
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南城市大里西原の案内地図も並んでいました。
「大里城跡」は、大里公園となっているようで、付近には「ミーグスク」や、「カニマン御嶽」があるようです。



案内地図にあった「チチンガー」の向かいにある公民館です。
建物の向って右部分にトイレがありました。
大里城の入り口付近に見学者への利用案内が掛けられていたので利用させて頂きました。



公民館の向かいの四つ角に野菜の無人販売所がありました。

キャベツが5コ並んでいます。
左の青い料金箱と、右に買物袋が置かれ、販売準備OKです。



四つ角から路地に入り、「チチンガー」を通り過ぎた道端にパパイヤの木が並んでいました。。

木にはたくさんの実が付いて、「取るな」と書いた看板が取り付けられています。
又、パパイヤの実全てに続き番号まで書かれてあります。
現行犯逮捕で、よそから持ってきたなどと言わせないためでしょうか?

「取られたくない!」と言う強い気持ちがひしひしと伝わってきます。



写真は、「チチンガー」のすぐ横にある拝所です。
糸満市字大里の「南山城跡」近くの泉「カデシガー(嘉手志川)」にも拝所がありました。
生活に欠かせない大切な水がいつまでも湧き続けるようにお祈りをするのでしょうか。

石で造られたアーチと、石垣にどのような意味が込められているのか興味のあるところです。



「チチンガー」の入口です。
ここから石段が43段続き、8mの地下に下りて行きます。

人が、階段で地下におり、水汲みするタイプの井戸は初めてです。

沖縄南部で、大きな勢力を持っていた「島添大里城」に大勢の人が集まることなど考慮すると、一度に多くの水を汲む必要から階段タイプの井戸が考えられたものと推察されます。

上記の「チチンガー」の説明文によると「・・・井戸が城壁外にあると清水湧きだし、場内に取り込まれると水が枯れた・・・」 とあります。
城に籠って防衛することを考えると井戸を城壁外にすることは考えられません。

しかし、沖縄全土が統一され、城の防御の重要度が低くなり、周囲の人々の生活を考慮して井戸を城外に移したのではないかと思います。



石段が最初に直角に曲がったところから下を見た写真です。

石段は、人がバケツ(昔は水桶・水甕)を持ってなんとかすれ違うことが出来る感じです。


一番下の水汲み場です。
ゴミが落ちないように屋根がついていますが、水汲みの作業にはとても邪魔な感じです。

人が、かがんで、柱の間から下の水を汲むのは少しきゅうくつそうです。



井戸の上から8m下を覗き込んだ写真です。
大里城にも咲いていた小さな赤い花が、ここにもたくさん咲いています。

水道のない時代、毎日使う水の全てをこの井戸から汲んで持ち帰る生活は、水道ができた現代では想像すら出来なくなってしまいました。
8mの石段と、家までの距離を重い水を持って帰る毎日は、実に大変だったと思われます。

地元のオジーの解説で「大里城跡」見学

2008年09月03日 | 沖縄の旅
朝、那覇のホテルを出発して南城市大里西原の大里城へ行きました。



沖縄が、三山時代と言われた14世紀頃の勢力分布を想像した地図です。
大里城は、別名「島添大里城」と言われ、南山エリア(黄色)の東部にあります。

「大里城」のすぐ南には、佐敷城があり、佐敷按司[あじ]だった尚巴志[しょうはし]が、三山を統一する過程で、最初に攻略したのがこの「大里城」と言われています。
尚巴志は、この「大里城」を拠点として中山「浦添城」を攻略、その後も重要な拠点としていたようです。



「大里城跡」近くの集落を過ぎると大里城跡の門がありました。
門の中央に大きな石が車止めに置かれているようです。

■門から十メートル手前にあった「大里城跡」の案内板を転記します。
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「大里城跡」
大里城跡は、大里村字西原の北側、標高約150メートルの琉球石灰岩の丘陵台地に形成されている。
北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。
この城跡は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王・島添大里按司によって築城されたと「中山世鑑」の中に記されている。
また尚巴志が最初に攻略した城でもあり、後に三山統一のきっかけともなり歴史的に重要なところである。
城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連郭式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。
1991年の村内遺跡分布調査の際試掘した結果、本丸跡から褐袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。
 平成4年1月 大里村
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門を入ると、草の生えたとても広い場所があります。
この辺りが、「大里城」の二の郭だったようです。

この郭の広さは沖縄のグスクの中でも特に広いように思えます。
兵を鍛えたり、戦いの前に多くの兵が集まる場所でもあったと思われますが、2~3千人は入れそうです。

広場の奥に建物が見えます。
建物の壁には大きな字で「城」と書かれ、床はステージのようになっていました。

写真に向かって右側に二本の大きな木があり、その間に「一の郭」に上って行く道があります。



二本の木の間を上っていく道です。
道の両脇には小さな赤い花がたくさん咲いていました。



坂道の途中から右に入る道があり、脇道の左側に拝所があります。
拝所の周りにも小さな赤い花が、いっぱい咲いていました。



坂道を上がると細長い広場があり、「島添大里城」の案内板がありました。
案内板を撮影して読んでいると、道の向こうから歩いて来た地元のオジーと出会いました。
挨拶をすると、とても気さくな人で、大里城について色々な話を聞かせて頂きました。

この広場の道を直進すると大里按司の墓があり、手前を右に上がると展望台に上る道があると教えてもらいました。
又、この一帯にはとてもたくさんの拝所があり、お祭りの日には集落の人達が手分けして拝んで歩いても半日近くかかることなど、地元の人ならではの解説でした。

大変、お世話になりました。

このオジー、朝10時頃にもかかわらず、色黒の顔に赤みが差し、アルコールの臭いがプンプンでした。
朝から泡盛で、上機嫌だったようです。

ちなみに写真に写っている手は、案内板の説明してくれていたオジーのものです。
手にも赤みが差しています。



上の写真にある案内板の一部、大里城の「想像復元図」です。
周辺を歩いてみた地形のイメージと、復元図がいま一つ一致しません。

復元図によれば、ここから北に首里城、浦添城、から勝連城まで望めるようです。

■「島添大里城」の案内板にある説明文を転記します。
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島添大里グスク 南城市史跡
史跡はおよそ東西200m、南北100m、面積が20,000㎡以上もあって、県内でも有数の規模を誇るグスクです。
グスクの北側、大地縁の断崖を背にして一の郭、そこから南東方向へ二の郭、三の郭と放射状に広がっています。グスクの中心部である一の郭は、一段高く基檀上に造成された正殿跡と、その前面に御庭と考えられる平場から構成されています。過去の調査によって建物の柱を支えるための基石が数箇所から確認され、島添按司の住居である正殿規模は約22m×13mもあり、幾度も改築が行われたと考えられています。
城内には一の郭を囲む城壁のほか、数箇所に城壁が残っており、さらに発掘調査によって、採石を免れた城壁の基礎部分が地中より確認されています。
出土遺跡には、土器やカムィヤキ・中国製陶磁器・東南アジア製陶磁器・日本製陶磁器・鉄器・石器・装飾品・古銭・自然遺物など多くの文物がみられ、往時の繁栄ぶりが窺えます。
平成15年2月2日指定
沖縄県南城市教育委員会
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細長い広場を左手に進むと、こんな拝所がありました。
この辺りが一の郭だったようです。

オジーに聞いた通り、この前を通り過ぎる道を直進して大里按司の墓を目指しました。
細い道が、突然急な下り道になり、危険を感じたので引き返してしまいました。



展望台に上る坂道の途中にあった拝所です。

オジーの話通り、拝所がたくさんあります。



展望台の施設です。
残念ながらあまり遠くの景色は見えませんでした。

坂道を歩き大汗をかいていましたが、心地の良い風で一息つきました。



展望台の施設の横にあった拝所です。

小さな屋根のある変わった施設が見えます。
「浦添ようどれ」でも見た「焚字炉[ふんじゅるー]」に似ています。

「焚字炉[ふんじゅるー]」についてはこのブログ2008-07-05掲載の「浦添ようどれ 一番庭」の見学№3 の最下段に説明しています。



大里城跡の調査で石垣が確認されたという地図を見て、その領域を赤い線で描いて見ました。

次回は、大里城の門の近くにある「チチンガー」の見学を掲載予定です。
オジーから「ミーグスク」のことも聞いていましたが、見学を忘れてしまい次回の楽しみとしています。