昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

長崎旅行-20 天正遣欧少年使節「中浦ジュリアン記念公園」

2013年06月06日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行5日目最終日、佐世保市「展海峰」の絶景を見た後、長崎県西海市中浦南郷の「中浦ジュリアン公園」へ向かいました。



「中浦ジュリアン記念公園」の資料館の屋上に建つ天正遣欧少年使節の一人「中浦ジュリアン像」です。

公園は、西方に東シナ海を望む小さな丘にあり、「中浦ジュリアン像」が指さすのはローマの方向だそうです。

「中浦ジュリアン像」は、天正遣欧少年使節として1582年(天正10)、14歳の時に長崎を出航、22歳となった1590年(天正18)にローマから帰国しています。

あどけなさが残る少年の表情から、希望に燃えていた出航前の姿と思われます。

■観光案内パンフレットより
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「私がローマにいったジュリアン神父である」
西海市中浦、俗名で「舘[たち]」と呼ばれている地。ここは天正10年(1582年)2月20日、長崎を出帆し、ポルトガル、スペイン、イタリアなどを歴訪、ローマ法王に謁見の上、大友、有馬、大村の三大名の親書を奉呈して天正18年(1590年)に日本に帰着した天正遣欧使節団の一人中浦ジュリアンの出生地である。
わずか12、3歳の少年たち(伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)は、約8年半にわたる長い旅を遂げた。そのとき使節団があたえた好感は、のちにそれらの国々で発刊された幾多の著書で明らかであり、ヨーロッパ諸国に日本を知らせるのに大きな役割を果たした。さらに帰国するとき持ち帰ったヨーロッパ文化(西洋画 西洋音楽 特に金属活字印刷術)によって近世初期の日本にルネサンスの息吹を伝えた。
ジュリアンは1591年、他の三人とともに聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、帰国報告をしたあと天草でイエズス会に入会した。後に再びマカオの神学校に学んで、神父となる。4人のうちジュリアンが最も長生きし、各地の信者の指導にあたったが、寛永9年(1632年)小倉で捕らえられ、翌年10月21日に長崎で穴吊りの刑により壮烈な殉教を遂げた。中浦ジュリアン神父、65歳の時であった。
ここ生誕の地には、彼の輝かしい功績と精神性を表わす美しい記念碑が建てられている。また、記念公園には、海の向こうのローマを指さす若き日のジュリアンの像が建てられている。
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「中浦ジュリアン記念公園」付近の地図です。

「中浦ジュリアン記念公園」は、西彼杵半島の北西部にあり、地図上左から上右に詳細地図を表示しています。

国道202号の「七釜郵便局」近くの交差点に郵便局と、公園の案内板があり、目印となります。



駐車場にあった「中浦ジュリアン記念公園」付近の案内図です。

案内図には銅像の建つ資料館の他、「中浦ジュリアン顕彰碑」が見られ、ここが生家跡とされている場所のようです。

■隣接の消防詰所横にあった案内板です。
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県指定史跡「中浦ジュリアン出生の地」
一九六八(昭和四十三)年四月二十三日指定
中浦ジュリアンは、一五八二(天正一〇)年、長崎から出航し、マカオ、ゴア(インド)、ポルトガル、スペインなどを経てローマ教皇に謁見を果たした天正遣欧少年使節の一員である。天正遺欧少年使節は、九州のキリシタン三大名(大友宗麟、有馬晴信、大村純忠)の名代として派遺され、帰国までに八年を有した。日本で最初の遺欧使節であり、ヨーロッパ諸国において日本国を知らしめたとともに、ヨーロッパ文化を日本に伝えた功績が高く評価されている。活版印刷機をもたらしたこと、聚楽第にて豊臣秀吉に謁見した際(一五九一年)、西洋音楽を披露したことが特に知られている。
帰国の中浦ジュリアンは苦難の道を歩んだ。一六〇一(慶長六)年よりマカオで学び、一六〇九(慶長一四)年には司祭に叙階されたものの、時代はキリスト教に対して次第に苛酷さを増していった。日本全国に禁教令が布合された後も、中浦ジュリアンは潜伏しっつ九州各地を布教したが、小倉で捕らえられ、一六三三(寛永一〇)年、長崎の西坂にて殉教した。ニ〇〇八(平成二〇)年、「ベトロ岐部と一八七殉教者」の一人として、福者に列せられた。
 指定地の北東にある城山には、空掘や土塁などの遺構を残す「中浦城」がある。周辺には、「館」・「垣内」・「御園」と中世の町並みをうかがうことのできる地名が残っている。中浦ジュリアンは、ここ中浦の領主の子として生まれたといわれている。
西海市教育委員会
なお、この案内板は、財団法人親和銀行ふるさと振興基金、西海市ポルトガル友好倶楽部のご協力によって立てられています。
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階段を上ると資料館があり、その屋上に「中浦ジュリアン像」が見えてきます。

階段の登り口のタイルに焼かれた案内板には四人の天正遣欧少年使節でおなじみの「中浦ジュリアン」の似顔絵があります。

階段を上って行くと次第に幅が広がり、資料館は頂上の小さな広場に建っていました。

■「中浦ジュリアン記念公園」の案内板の一部です。
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中浦ジュリアン 記念公園
 天正遣欧少年使節といわれる日本人で初めての遣欧使節が1582年(天正10年)2月長崎を出発した。
 その4少年の一人中浦ジュリアンは、他の少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ)達とともにローマ法王、スペイン国王に謁見し、ヨーロッパの各地で大歓迎を受けた。帰国後はキリスト教禁教の中、65歳で殉教するまで神父として布教に努めた。
 日本と西洋との文化の交流に大きな功績を残した中浦ジュリアンの波乱に満ちた生涯を知り、出生の地に残された歴史を偲ぶために、中浦ジュリアン居館跡周辺を史跡公園として整備したものである。
 平成13年12月
   西海市
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「中浦ジュリアン像」が建つ資料館の屋上の風景です。

屋上の小さなスペースの中央に銅像が建ち、周囲の壁に「天正遣欧少年使節」が訪れた地や、北東方向に見える「中浦城」があった「城の山」がパネル展示されていました。

■「城の山」のパネルの説明文です。
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城の山[じょうのやま](中浦城跡)
14・5世紀に形成された山城跡で、戦国時代から小佐々氏一族の城であった。海側の斜面が国道用地として削られているが、中央部の本丸、西側の二の丸、北側の土塁などが残っている。
ここからの五島灘の眺めは雄大である。
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資料館屋上に展示されていた「天正遣欧少年使節ヨーロッパ順路」のパネルを撮った写真です。

左上の地図は、日本と、ポルトガルのリスボンを往復する航路で、長崎からマカオ、マラッカを経てインドへ至り、アフリカ大陸南端喜望峰を回り、ポルトガルの首都リスボンまでの大航海だったことが分ります。

下の大きな地図にはリスボンからスペインを経てイタリアのローマに至る経路が描かれています。

■「中浦ジュリアン記念公園」の案内板の一部です。
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大航海時代・南蛮船の旅
 少年使節の航海には貿易が目的の南蛮船と呼ばれた帆船が使われた。当時の航海には常に危険が伴い、数々の困難の中、少年達が使命を果たし帰国できたことは歴史上の壮挙といえる。
 8年半に及ぶこの大旅行は日本では長い鎖国の間忘れられていたが、ヨーロッパの各地では大きな話題となり、16世紀90種類を越える書物が出版された。
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小さな展示室の中の壁に「中浦ジュリアン」の生涯を描いた絵がありました。

一面の壁に三つの絵が描かれ、左のステンドグラスの窓の下には海で遊ぶ子供の頃のジュリアンと、窓のすぐ右に描かれている屋敷は、ジュリアンの生家である領主小佐々氏のものと思われます。

中央の絵は、有馬(島原半島)のセミナリョでヴァリニャーノ神父に学ぶ少年時代のジュリアンたちのようです。

右の絵は、14歳のジュリアンが、天正遣欧少年使節の一人として南蛮船に乗り、遠い航海をしている風景と思われます。

■左の絵の案内文です。
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中浦ジュリアンの生い立ち
日本が西洋に向かって始めて窓を開いた1568年頃、中浦ジュリアンは肥前国中浦(今の西海町中浦)の領主小佐々甚五郎純吉の子として、舘(たち)と呼ばれたこの場所に生まれました。
幼い頃のジュリアンは中浦の海辺で仲間たちと遊ぶのが好きな元気で意志の強い少年でした。父甚五郎は葛の峠(佐世保市の旧宮村)の合戦で亡くなり、ジュリアンには母と二人の姉妹がいたと言われています。
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■中央の絵の案内文です。
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ヴァリニャーノの来日と天正遣欧使節の派遣
家族とともに中浦から大村へ移った後、ジュリアンは、島原半島の有馬にできたセミナリヨ(神学校)でキリスト教布教の責任者であるヴァリニャーノ神父と出会います。
日本人にヨーロッパ世界の偉大さを体験してもらい教皇に日本を紹介したという神父の計画で、4人の少年が選ばれ、九州の大名(大友・有馬・大村)の名代としてローマに派遣されることになりました。
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■右の絵の案内文です。
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命がけの長い航海
1582年(天正10年)2月20日、中浦ジュリアン・伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノの使節たちを乗せた帆船が長崎を出港しました。嵐の時は船が大きく揺れ、つらく不安な航海が続きます。
マカオとインドのゴアに滞在しアフリカの南端・喜望峰を経て大西洋へ、命がけの長い船旅で、ポルトガルのリスボンの港についたのは2年半を過ぎた1584年8月のことでした。
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次の壁の絵です。

左の絵は、長い航海をし、ローマのバチカン宮殿の前で、大勢の見物人の中を馬に乗って行進する少年使節たちの場面と思われます。

右の絵は、ジュリアンがローマ教皇の前でひざまずき、謁見する場面のようです。

「中浦ジュリアン」の生涯で最も思い出深い場面だったものと思います。

■左の絵の案内文です。
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あこがれのローマへ
美しい教会や荘厳な宮殿など、訪れたヨーロッパの国々で見たものは少年たちにとって驚きと感動の連続でした。マドリードではスペイン国王に謁見し、イタリアの各都市では、初めて日本から来た4人の使節は熱狂的な歓迎を受けました。
 1585年3月バチカンの聖ペトロ宮殿前ではローマ教皇に謁見するための長い行列が続いていました。この時ジュリアンは不運にも重い熱病にかかっていたのです。
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■右の絵の案内文です。
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ジュリアンのローマ教皇謁見
高熱のため公式の謁見は困難と思われたジュリアンでしたが、施設としての使命感と教皇様に対する情熱がまわりの人たちの心を動かし、特別の馬車向けられ謁見が実現します。84歳の教皇グレゴリオ13世は彼を暖かく抱き寄せ祝福を与えました。ジュリアンは大きな喜びに包まれ感激の涙を流しました。それから数日後、教皇はジュリアンの健康を気遣いつつこの世を去りました。
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次の壁の絵です。

左の絵は、ジュリアンたちがヨーロッパから持ち帰った西洋楽器で演奏し、印刷機では多くの本が発行された様子が描かれているようです。

西洋の学問や、絵画は、有馬のセミナリヨ時代から学んでおり、ヨーロッパ文明を理解する下地は教育されていたものと思われます。

右の絵は、41歳で司祭となったジュリアンが幕府の禁教令下で身を隠しながら九州各地を布教する様子が描かれているようです。

65歳までの二十数年間、死と隣り合わせの布教活動に人生をかけた厳しい時代だったことがうかがわれます。

■左の絵の案内文です。
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帰国後の使節たちとジュリアンの決意
1590年7月、8年半ぶりに帰国した中浦ジュリアンは立派な大人に成長していました。使節たちがヨーロッパから持ち帰った西洋楽器は、豊臣秀吉の前でその演奏が披露され、同じく活版印刷機は、「キリシタン版」と呼ばれる数々の貴重な書物を発行しました。
中浦ジュリアンは、天草の河内浦にあった修練院とコレジョ(大学)で学び、イエズス会の司祭になることを決意しました。
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■右の絵の案内文です。
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司祭への叙階
~民衆とともに~
3年間のマカオ留学の後、1608年、ジュリアン41歳の頃、長い間の努力が実って司祭に叙階され、博多の教会に赴任しました。ねばり強い布教活動は、民衆からの信頼を集めました。
1614年、徳川幕府の禁教令で激しい弾圧が始まり、教会は焼かれ、多くの宣教師が国外に追放されました。しかし、中浦神父は身を隠して国内に残り、信者のために九州の各地を歩きつづけました。
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左の壁に中浦ジュリアンが捕えられ、長崎で穴吊りの刑で殉教を遂げる最後の場面が描かれています。

右のテーブルの上には、2008年秋、ジュリアンの叔父の子孫小佐々氏が「中浦ジュリアン」の絵を持ち、ローマ法王に謁見した場面だそうです。

四百数十年前、天正遣欧少年使節がローマ教皇「グレゴリウス13世」に謁見した歴史の再現のようです。

■最後の絵の案内文です。
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中浦ジュリアンの殉教
迫害に苦しめられていた信者たちの心のささえとして活躍していましたが、幕府のきびしい捜索の中、ついに小倉でとらえられ、1633年10月21日長崎の西坂で、残虐な穴吊りの刑により殉教を遂げました。65歳の生涯でした。
「私はローマに行った中浦神父です」「この苦しみは神のため」、少年の頃の大きな憧れと人間に対する深い愛情に輝いた中浦ジュリアン最期の言葉でした。
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資料の展示コーナーに「中浦ジュリアンの手紙」がありました。

ローマのヌノ・マスカレニヤス神父からの手紙を1621年6月に島原半島南端の口之津で受け取り、同年9月に返信した手紙が残っていたようです。

当時、多くのキリシタンが捕えられ、殉教していった歴史や、命がけで布教活動する晩年のジュリアンの様子が生々しく伝わってきます。

■翻訳された手紙の文面です。
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中浦ジュリアンの手紙
第三経由
キリストにおいて敬愛する神父
ヌノ・マスカレニヤス神父 イエズス会総長顧問 ローマ

イエズス・マリア
キリストの平安

 一六二一年六月に、神父様のローマからの手紙を口之津でいただきました。
口之津は港であり、私は、最も厳しい迫害すなわち宣教師を日本から追放しすべてのキリシタンたちに背教させようとした年から、目上の命によってここに潜伏しました。その時から今日まで、ここの信者たちの世話をしています。この年には、日本の所々にあった多数の厳粛な殉教者のことをお聞きになったのでしょう。彼らの大部分はこの高来地方の人々でした。そして、この口之津からだけでも二十一人の殉教者があり、その上苦しめられ致命的な傷を負わせられたのち、殉教の拷問から帰された人もありました。実際にその後、数人が死にました。このことは、刑の執行者がこの町の人々をみんな亡ぼすことを望まなかったらで、町に残っている信者に対しても黙認していました。
 さて神父様、ここで心からのキリスト信者であり、信仰のために起こり得るすべての迫害に一身を投げ出している人々と共に神父様が私に下さった手紙を喜び合い、信仰心を起こさせる品々を彼らにも尊敬させました。このようにみんなが神父様の慈愛にずかり、私だけでなく、神父様の手紙に見られるように、この日本の国に対して抱かれている慈愛に感謝致しました。聖なる都ローマ、数皇聖下、枢機卿、カトリックの貴族、私がヨーロッパ滞在中に彼らから受けた愛に満ちた恵みの思い出を新たにし、私の楽しみとなぐさめは少なくありませんでした。こんな遠く、ローマから日本へ、多くの慈愛のしるしをもって手紙を描き下さった神父様に心から感謝します。この思い出は永久に忘れることはありません。
 私は、神様の恵みによりいつも元気で、イエズス会がここで耕しているキリスト教界で働くためにまだ充分に力があります。毎年告解ができる四千人以上の信者の世話が私に任されていて、その上に、私たちの間で分担されているここの国々への布教の旅もあります。今年、年報で報告される便りは多く、決して終らないこの迫害についてい ろいろのことがあるでしょう。私たちには一日もいっときも休むことができないくらいです。ちょうど今も、神父様へのこの手紙を終ろうとしているとき信者が来て、もっと安全な所に逃れるようにと知らせました。この地方の領主が高来の教会で今も守られている福音の教えを滅ぼすために、新らたに迫害を始めるという知らせがありました。神様が、私たちに忍耐と勇気をお与えになるよう祈っています。神父様は、特に祈りの時に私のためにお取 次ぎ下さい。神父様のミサ聖祭に私を委ねます。

   今日は一六二一年九月二十一日
       価値なき下僕
           中浦ジュリアン
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「中浦ジュリアンのあゆみ」と書かれた年表がパネル展示されていました。

ローマ教皇や、豊臣秀吉へ謁見した若い頃の輝かしい時代から、禁教令下の長く苦しい晩年の布教活動時代まで波乱に富んだ人生だったようです。

天正遣欧使節の4人の少年たちが帰国後、それぞれに歩んだ人生に興味が湧いてきました。

■年表のパネルが読みづらいので以下に転記しています。
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中浦ジュリアンのあゆみ
中浦ジュリアンは戦国領主小佐々氏の一族で、1568年(永禄11)中浦城主小佐々甚五郎純吉の子として生まれました。有馬のセミナリヨに入学したジュリアンは、1582年(天正10)、伊藤マンショ・千々石ミゲル・原マルチノとともに少年使節団の一員としてローマに派遣されました。
約8年半を経て日本に帰国したジュリアンは、きびしい迫害のなかキリスト教の布教に努めましたが、1633年(寛永10)長崎西坂の地で穴吊りの刑を受け殉教しました。
刑場で「私が、ローマにいった中浦ジュリアンである」といったといわれています。

1568(永禄11) 肥前国中浦(西海市)の領主小佐々甚五郎純吉(中浦殿)の子として生まれる。
1569(永禄12) 父甚五郎は葛の峠(佐世保市)の合戦で討死
1580(天正 8) 有馬のセミナリヨに入学
1582(天正10)2月20日少年使節団長崎港を出航、3月9日マカオに着く
1584(天正12) 8月11日リスボンに上陸 各地で大歓迎を受ける
        11月14日スペイン国王フエリぺ2世に謁見
1585(天正13) 3月23日ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見
        5月1日シスト5世の戴冠式に参列
        5月29日ローマ議会で市民権を賜る。
        6月28日ヴァネチア大統領に謁見
1586(天正14) 4月8日使節団リスボン港を出航
1590(天正18) 6月23日マカオ出航 7月21日長崎に帰港
1591(天正19) 3月3日緊楽第において豊臣秀吉に謁見
        7月25日天草内浦においてイエズス会に入会
1600(慶長5) 関が原合戦で八代の教会から川内に移る
1601(慶長6) 伊東マンショと一緒にマカオに留学
1607(慶長12)長崎で助祭となる
1608(慶長13)京都・博多で布教
       9月 伊東マンショ・原マルチノと一緒に司祭に叙階
1614(慶長19)原マルチノらマカオに追放される
       11月7日ジュリアン国内に潜伏
1615(元和元)この年から口之津を拠点に九州各地を布教
1632(寛永9) 小倉で捕まえられ長崎に送られる
1633(寛永10)10月21日 西坂において穴吊りの刑で殉教
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長崎旅行-19 佐世保市「展海峰」九十九島の絶景

2013年05月19日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行5日目最終日、朝早く佐世保市のホテルを出発、佐世保市の西岸一帯に多くの小島が広がる「九十九島」を望む「展海峰」へ向かいました。



「展海峰」の展望台から見下ろした九十九島の絶景です。

眼下の小さな港から突き出た半島の向こうには、静かな海に数多くの島が点在する雄大な風景が広がっていました。

7:40頃、展望台へ登り、しばらく薄曇りの風景を眺めていましたが、8:00頃から朝日が当り始め、すばらしい絶景となってきました。

沖に浮かぶ大きな島は「松浦島[まつらじま]」で、その右にカキ養殖のイカダが浮かんでいます。

■「九十九島」の案内板です。
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九十九島(西海国立公園)
佐世保港外から北へ25キロ、平戸瀬戸まで208の島々が連なる多島美は九十九島と呼ばれ、日本最西端の国立公園に指定されています。九十九島の中でも佐世保近海の島々は「南九十九島」と呼ばれ、とりわけ美しい島々が集まっています。
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「展海峰」から見下ろす「南九十九島」の地形図です。

「展海峰」は、佐世保湾の西を囲む「俵ケ浦半島」の山上にあり、北西方向に広がる「南九十九島」の一番の絶景を望む地とされています。

北西方向に見下ろす岬の形は、ワカメのようにも見え、その沖の「松浦島」の形は、驚くほど複雑なものです。

地形図で見る「南九十九島」の地形は、「展海峰」から見るよりはるかに複雑なものでした。



広い駐車場から坂道を登って行くと展望台が見えてきました。

坂道の途中、広い花畑があり、まだ咲いていないコスモスが植えられており、秋には色とりどりのコスモスが咲き乱れる風景が見られるようです。

「展海峰」の案内板によると3月中旬からは菜の花が咲くとされ、春秋の観光客を楽しませているようです。



下段の写真は、展望台から見た風景で、上段の写真は、展望台から撮ったパノラマ写真です。

展望台の階段を登るに連れて、感動の風景が広がってきました。

遠くが霞む天候で、見えない島も多かったと思われますが、多島美で知られる瀬戸内海でもこれだけの島数は見られません。



「展海峰」の案内板にあった「南九十九島」の展望地の案内図です。

「南九十九島」の展望地は、「展海峰」の他、「船越展望所」、「石岳展望台」があるようです。

「展海峰」の案内図にA・B・C・D四方向の矢印を加えているのは、以下に掲載した展望風景の写真の方向と記号です。



「展海峰」から北東方向(案内図矢印A)の風景です。

「俵ケ浦半島」の向うに佐世保の市街地が広がり、右手に烏帽子岳がそびえる雄大な風景です。

「展海峰」の案内図にあるように「俵ケ浦半島」のこの辺りは、幅が約300mと細くなり、「船越」の地名が付けられています。

石垣島の北部、伊原間にも同じように島が細くなった「船越[フナクヤ]」と呼ばれる場所があり、旅行で立ち寄ったことを覚えています。

そこではお祭りの中で、船をかついで反対側の海に越えていく神事もあるようで、「船越」の地名は昔の交通の名残と思われます。



「展海峰」から北方向(案内図矢印B)の風景です。

向かって右の峰は「赤崎岳」、少し低い左の峰は展望台のある「石岳」です。

「石岳」の左に富士山の形に似た小さな山になぜか気を引かれました。

地形図を見ると、この辺りの海に浮かぶイカダには「養魚場」と表示されており、タイ・フグなどの養殖だったのでしょうか。



「石岳」の左の山をズームで撮った写真です。

火山とも思えない小さな山なのに何故このような美しい形をしているのでしょうか。

地図で調べると標高約260mの「愛宕山」(別名「飯盛山」)と呼ばれ、山頂に鳥居のマークがあることから信仰の山のようです。



「展海峰」から北西方向(案内図矢印C)の風景です。

雲間から射す朝日がスポットライトのように眼下の港付近を照らしているため、沖に浮かぶたくさんの島が余計霞んで見えているようです。

冒頭の写真は、この風景の中央部をズームで撮ったもので、「展海峰」から見る最も美しいと感じた「南九十九島」の風景でした。



「展海峰」から西方向(案内図矢印C)の風景です。

左手の沖に「黒小島」が横たわり、この辺りの海を一層波静かにしているようです。

地形図を見ると左手前の深い入江に「真珠養殖場」と表示されており、三重県志摩市の英虞湾や、愛媛県南部の宇和海に広がる「真珠養殖場」が思い浮かびます。

「真珠養殖場」の多くは、驚くほど複雑なリアス式海岸の海で見られますが、規模は小さいもののここでも真珠養殖が行われるのは納得できます。



展望台の下に「田中穂積像」(作曲家)が建っていました。

知らない人でしたが、案内板を見ると昔のサーカスで聞かれた「美しき天然」を作曲した方でした。

哀愁を帯びたメロディーですが、美しい自然の風景を歌った曲だったとは意外でした。

■田中穂積像の案内板です。
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田中穂積と美しき天然
「美しき天然」は佐世保で生まれた曲です。独特のヨナ抜き(4、7番目のレ、ソの音がない)短音階を用いた日本初のワルツ曲「美しき天然」は、明治35年(1902)、佐世保市制施行の年に創設された私立佐世保女学校(後の市立成徳高等女学校-現佐世保北高等学校)で、音楽を指導した佐世保海兵団楽隊第三代軍楽長田中穂積によって、女学校のための音楽教材として作られたものです。
 鳥帽子岳や弓張岳から望む九十九島の風景をこよなく愛し、その想いを武島羽衣の詩に仮託して作曲したといわれています。田中穂積より直接口授された当時の女学生の愛唱歌となり、また校歌の代わりとして歌われました。
 田中穂積が没した翌年(1905)に楽譜が出版されるや、いろいろな場で演奏されるようになり、サーカスのジンタとしても親しまれて、全国に広まっていきました。
 現在、この哀愁を帯びた美しいメロディーは、国境を越えて中央アジアでも演奏されています。

田中穂積 経歴
1855(安政2)年11月4日 現在の山口県岩国市に生まれる。
1899(明治32)年 佐世保海兵団楽隊第三代目軍楽長として着任。
1902(明治35)年 「美しき天然」を作曲。
1904(明治37)年 永眠。享年49。佐世保市東公園(旧海軍墓地)に眠る。

◎田中穂積像は西海国立公園指定50周年を記念して、成徳高等女学校同窓会から寄贈されたものです。
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展望台の下から見渡す九十九島の風景です。

写真左上は、赤紫のクズの花で、展望台の周囲に咲き乱れていました。

何気なく見られる花ですが、間近に見たクズの花に意外な美しさがあることを知りました。

駐車場からの広い花畑に植えられたコスモスの花は見られませんでしたが、クズの花に「美しき天然」を見つけた9月の「展海峰」の見物でした。

長崎旅行-18 平戸市「田平天主堂」そびえるレンガ造りの鐘塔

2013年05月10日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行4日目、「平戸市生月町博物館・島の館」の見学の後、平戸市街地の散策を始めた直後あいにく小雨、あきらめて宿泊予定地の佐世保方面へ向かう途中、偶然、教会の案内標識を見て立ち寄ったものです。



正門に上る石段の下から見た「田平天主堂」の風景です。

突然、石段の上に建物が出現し、十字架を戴くドームの緑や、高くそびえる鐘塔のレンガ色の配色の美しさに感動した一瞬です。

幸い、雨が止み、建物の外観を見学をさせて頂くことが出来ました。



「田平天主堂」周辺の地図です。

左上の生月島から生月大橋、平戸大橋と渡り、国道204号から県道221号へ右折、しばらくすると右手にレンガ造りの鐘楼が見えてきます。

県道沿いにある生垣の駐車場に車を停め、道路に背を向けて建つ建物の正面に通じる路地を探し、たどりついたものです。



石段を上り、門柱の間から見えてきた「田平天主堂」(瀬戸山天主堂)の正面全景です。

下記の資料の一節にもあるように建物の設計・施工は、鉄川与助氏によるもので、レンガ造の教会堂作品としては最晩期のものとされるようです。

又、ここに天主堂が建設されたのはフランス、ノルマンディ地方の貴族出身「ド・ロ神父(1840~1914年)」が私財を投じてこの一帯に土地を買い、土地の無い多くの信者を移住させたことが元となったとされ、カトリックの布教活動が多くの信者の生活向上まで取り組んでいたことを知り、感心しました。

■書籍「長崎県の歴史散歩」の一節です。
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田平天主堂(国重文)は、長崎県内をはじめ、九州北部で数多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助の設計・施工によるもので、1917(大正6)年に竣工、翌年5月14日に献堂式が行われた。レンガ造りおよび木造のロマネスク様式、正面中央に八角形のドームを戴く鐘塔をつけた重層屋根が特徴的で、多彩なレンガ積み手法を駆使した細部のつくりも、外観の表情に彩りを加え、全体的に均整のとれた構成になっている。静寂に包まれた天主堂内部には、ステンドグラスから陽光が差し込む。天主堂のかたわらには、信者らの眠る墓地があり、司祭館をはじめ、門柱・石段・石垣など周囲の歴史的環境もよく保有されている。

天主堂のある高台一帯は、西彼杵半島の外海地方で布教にあたっていたド・ロ神父が、明治中期、私財で土地を買い求めて外海地方の信者らを移住させた土地である。その後、黒島や五島からも信者の移住があり.1888(明治21)年にはこの地に仮御堂がたてられた。信者らは天主堂の建築にもかかわった。

「長崎県の歴史散歩」長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会(編)、山川出版社(出版)
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玄関付近の風景です。

建物正面の中央部分が突出て、一階玄関と、鐘塔を兼ねた美しいファサードを構成しているようです。

又、壁面には玄関や、窓のアーチを中心に様々なレンガの模様が施され、重厚さの中にもおしゃれな雰囲気が感じられます。

玄関の前のマリア像の台座には「ルルドの聖母」とあり、敷地内に造られたルルドの洞窟のシーンと関連して造られたのかも知れません。



建物正面二階部分の外観です。

この辺りが建物正面の美しさを演出するポイントとなる部分に思えます。

三つ並ぶステンドグラスの窓周辺の装飾が素敵でした。



左の写真は、建物正面三階部分の外観です。

一見、時計かとも見間違える丸い飾り模様、ドーム型屋根の濃い緑色、その上にそびえる十字架と、目線が次第に建物のてっぺんに引き上げられていくようです。

左の写真は、北の県道沿いの駐車場から見た風景で、ドーム型屋根が球体に近い形に力強く盛り上がり、四角の建物の壁面がほぼおなじデザインで造られているようです。

屋根に使われた濃い緑色の一種に「鉄色」と言うのがありますが、設計・施工を手がけた建築家「鉄川与助」にちなんだ色なのでしょうか。



門を入り、玄関前から右手前方に木造の「司祭館」がありました。

下見板貼りの外壁にペンキが塗られた洋風の古い建物ですが、今でも使われているのでしょうか。



門を入り左手に石碑や、胸像が並んでいました。

向かって左の十字架が載せられた石碑は「聖堂修復記念碑」、中央の石碑は、「トマ大木勘次郎・パウロ浜口久衛門顕彰碑」と刻まれていますが、いずれも古いものと思われます。

右の胸像は、「イグナシオ中田藤吉神父像」とあり、この後に見る「貝殻焼き場」の案内板から「田平天主堂」建設時の神父の像でした。

この地域の信徒の力を結集し、素晴らしい聖堂を完成させた中田藤吉神父への尊敬と、感謝の気持ちが込められているようです。



石段を門の前を左に進み、レンガの建物の奥に「貝殻焼き場」の史跡が残されていました。

円形に石が積み上げられたシンプルな設備ですが、案内板には燃料のマキと、貝を交互に積み重ねて焼いていたと書かれていますが、煙突をどのように取り付けたのか、気になる疑問が残りました。

■案内板より
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貝殻焼き場
 田平教会はレンガの目づめにコンクリートではなくアマカワ(石灰と赤土をまぜたもの)を用いている。
 中田神父はこのアマカワに用いる石灰を自分たちで作った。
 信者たちは各家庭で食べた貝の穀を持ち寄り更に平戸や生月島からも貝殻を集めてこの窯で焼いた。
 まず下にマキを敷きその上に貝穀を置き更にマキ貝殻と交互に置き火をつけると取りつけた煙突からモクモクと煙を吐いて燃えたという。
 その火は夜も絶えることなく交代で火の番をした。
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貝殻焼き場から一段下ると「ルルド」と案内された場所があり、そばに「ルルド落成記念碑 1990年8月15日」と刻まれた石碑がありました。

岩の洞窟に聖母マリアが立ち、少女が見上げている場面で、右端のマリア像は、玄関正面の「ルルドの聖母」です。

1858年、フランス南西部のルルドで、薪拾いをする少女が洞窟に現れた聖母マリアに出会い、泉で水を飲み、顔を洗うよう告げられ、指差された洞窟の下に泉が湧き出したのが「ルルドの泉」とされます。

その水により奇跡的に病が治ったことから広く信じられるようになったとされますが、この地域の開発を進めた「ド・ロ神父」は、1840年にフランスで生まれた人で、18才の時の出来事だったようです。

長崎旅行で訪れた数ヶ所の教会にも同様の施設があり、フランスで起きた奇蹟が、実感を持つ「ド・ロ神父」により伝えられたためだったかも知れません。



天主堂の北西に墓地が広がっていました。

十字架を載せた墓や、石柱だけの墓が入り混じっていましたが、多くの墓にカラフルな造花が供えられているのが印象的でした。

枯れた花が並ぶ墓地を思い浮かべると、造花もまんざら悪くないようです。



天主堂の北の駐車場から見た「田平天主堂」の全景です。

屋根の形状から察すると、建物中央に吹き抜けの高く長い「身廊」があり、その両側に天井が一段低い「側廊」がある構造と思われます。

道路の案内標識を見つけて訪れた教会で、ひっそりとした建物に入る気持ちになれず、外観の見学をさせて頂きましたが、再訪の機会を得てゆっくりと内部の見学をさせて頂きたいと思う教会でした。

長崎旅行-17 「平戸市生月町博物館・島の館」今でも続く隠れキリシタン信仰

2013年04月28日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行4日目、「平戸市生月町博物館・島の館」の古式捕鯨に続き、生月島に今でも続く「隠れキリシタン」の展示資料の見学です。

「島の館」の展示パネルでは「隠れキリシタン」の名称の大半は、「カクレキリシタン」で表示されており、以下ではそれに従って記載します。

「カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音」(宮崎 賢太郎著、長崎新聞出版)によると、「カクレキリシタンとは、キリシタン時代にキリスト教に改宗した者の子孫である。一八七三年禁教令が解かれ、信仰の自由が認められた後もカトリックとは一線を画し、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を組織下にあって維持し続けている人々を指す。・・・」としており、当館の名称表示も同様の考え方と思われます。



「カクレキリシタン」展示コーナーの最初の展示、屏風絵「生月」です。

右手に数珠を持ち、うつむき加減に正座する女性は、かすかな煙がゆらゆらと立ち上る香炉を見つめ、深い悲しみに沈んでいるようにも見えてきます。

御神体の掛け軸には右手に剣、左手に綱を持つ眼光鋭い不動尊が描かれていますが、隠し文字「デウス」(キリシタンの神)は、見つかりませんでした。

■展示の説明文です。
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屏風絵 生月
  小山硬[おやまかたし]氏作・寄贈 
 障子が閉じられたほの暗い納戸の中で、デウスの文字が隠された掛軸の御神体を見つめて正座する婦人。その容色は、この世のものとは思えないほど白い。
 小山硬氏は昭和九年生まれ。 東京芸術大学で日本画を学び、若き日再会を歩き、キリシタンに想を得た一連の作品を制作し、昭和五十二年、「洗礼」で日本美術院賞を受賞された。
 「生月」は、この地のかくれキリシタンの御神体に接した印象をもとに、平成八年に制作されたが、本町出身で横浜美術館館長(当時)の陰里鉄郎先生の御仲介によって、平成十三年二月二十四日に当館に寄贈された。
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展示されていた「キリシタン時代の生月島周辺(16世紀後半)」と題する地図の写真が不鮮明で、作り直したものです。

地図の赤く塗られたエリアは、1560年頃の平戸松浦氏の重臣籠手田氏と、一部氏の勢力圏で、かつての教会の場所や、現代まで続くカクレキリシタンの集落が同一エリアに見られます。

又、緑の印は、「セミナリヨ」(小神学校)と、「コレジヨ」(大神学校)があったとされる場所で、展示パネル「生月島キリシタン関係年表」には
-1587年(天正15)豊臣秀吉、博多でバテレン追放令を出す。日本中の宣教師が生月島へ集合。セミナリヨ、コレジオも一時的に生月に移る。-
とあり、バテレン追放令により、山口からコレジオが山田へ、安土からセミナリヨが壱部へ一時移設され、短期間ながらも生月島が日本のキリシタン布教の中心地だったようです。

■展示パネルより
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生月島キリシタンの歴史
 天文18年(1549)に宣教師ザビエルが鹿児島に上陸した後、九州を中心にキリシタン(カトリック、)の教えが広まります。当時貿易港だった平戸でも、当地を治める大名・松浦氏の重臣・籠手田[こてだ]氏と一部氏が入信し、その領民の多くがキリシタンとなりました。
 しかし豊臣秀吉が天正15年(1587)に発令した伴天連[ばてれん]追放令以降、キリシタンに対する禁教圧力は次第に強まります。慶長18年(1613)幕府は全国的な禁教令を出し、その後はキリシタン禁制の高札が立てられ、寺への檀家帰属を強制する宗門改寺請制度や、踏み絵の行事も行われるようになりました。
 生月島でも慶長4年(1599)には、棄教を拒んだ籠手田氏・一部氏が多くの信徒を引き連れ長崎に退去しますす。慶長14年(1609)には島内に残った信徒の指導者ガスパル西玄可[にしげんか]が処刑され、元和8年(1622)と寛永元年(1624)にはカミロ神父の潜行布教を助けた信徒と家族達が中江ノ島などで処刑されます。
しかし、多くの信徒は、表向き神仏を祀りながら、キリシタンの信仰形態を続けました。
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上段の写真は、「カクレキリシタン」展示コーナーの奥に「御前様」(納戸神)を祀る昭和初期のカクレキリシタンの民家が復元展示されていたもので、下段は、その間取り図です。

ニワ(土間)から見た奥の「ザシキ」には集落の信徒の役員が行事の時に座る位置が表示されており、向かって右から「親父役 御爺役・役中・先役・二番役・三番役・四番役・据役」と書かれていました。

「ザシキ」では季節ごとに様々な行事が行われていたようで、かつての信徒の役員が並ぶ写真も展示されていました。

右手奥の部屋「ナンド」にはごカクレキリシタンの神体「御前様(納戸神)」が祀られています。

■展示の説明文です。
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住まい
昭和初期のカクレキリシタンの住まいを復元したものです。三方の壁を石垣に持たせかけた内側に、アダ・ヨコザ・ザシキ・ナンドの四間とニワ(土間)から成っています。ナンドには御前様(納戸神)をおまつりしていますが、これは堺目地区でのまつり方を参考にしています。住まいの中には、御前様とともに神棚、荒神様、お大師様、仏壇などがまつられていることに注目してください。家は、食事や夜なべ仕事など日常の生活を営む場ですが、同時にさまざまな信仰や行事の舞台であることが分かります。
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■ザシキ部屋の説明文です。
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行事に使われる座敷
カクレキリシタンの行事は、おもに座敷で行われる。まず一同でオラショを唱える。
その後、酒肴の膳が出てく、神様に届けてからいただく。
行事の中で、納戸の御前様に参拝することはない。
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左の写真は、「御前様」(納戸神)が祀られた右手奥の部屋「ナンド」の風景で、右は、別のコーナーに展示されていた同じご神体の絵の掛け軸です。

部屋の入口の案内板には「垣内(組)の御前様」とあり、小集落単位のカクレキリシタンの組織「垣内(組)」のご神体の一例として展示されているものです。

「垣内(組)の御前様」の掛け軸には和服を着て、子供を抱く女性の絵ですが、キリストを抱く生母マリア像が元となったようです。

■展示パネルより
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お掛け絵の種類
垣内(津元)の御前様(主要な御神体)の多くは、お掛け絵といわれる掛軸仕立ての画像です。お掛け絵のモチーフは、もともと聖母子、キリスト教の聖画に由来しています。なかにはキリシタン時代に制作された聖画がそのまま今日まで伝わったと思われるものもありますが、多くは、数度にわたって「お洗濯」と呼ばれる描き替えが行われており、様相がかなり変わってしまったものもあります。
数が多いのは聖母子で、聖母子のみを描いたものの他に、数珠に囲まれた「ロザリオの聖母子」、ロヨラとザビエルを加えた「聖母子と二聖人」、受胎告知やエジプトへの逃避途上の場面を描いたものもあります。また聖母子と一緒に、聖ヨセフや、聖母の母・聖アンナを描いた聖家族図と思われるものもあります。キリスト像では「荊冠のキリスト」などがあります。聖人では、洗礼者聖ヨハネ、聖セバスチャン、聖ヨアキムと聖アンナと思われるものがあります。
これらのお掛け絵は、長い禁教時代の間に教義が失われたため、本来、誰を描いたものか分からなくなっており、単に男神様、女神様として、または地元の殉教者として信仰されていました。
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展示コーナーにあった「垣内(組)の御前様」の掛け軸です。

他にも様々な掛け軸が紹介されていましたが、左の「ダンジク様」は、かつて島で殉教した家族で、島の南端近くの道に殉教地の案内標識があり、車で行ける史跡の案内板の場所で引き返しました。

■向かって左の掛け軸の説明文です。
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ダンジク様(聖家族図)
旧館浦ダンジク講の御神体
 ダンジク様とは、島の南西岸の暖竹の藪影に隠れていたが、船で捜索していた役人に発見され処刑された親子3人のキリシタンで、山田や舘浦には彼らを祀る講がいくつか存在する。キリスト教絵画との比較研究によって、キリスト、マリア、ヨセフの聖家族を描いた絵の影響が認められる
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■右の掛け軸の説明文です。
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聖母子と二聖人
旧山田垣内の隠居御前様
 上部に、雲上の三日月に座る左抱きの聖母子を、下部に左右から仰ぎ見る二人の聖人を配している。二人の聖人は、イエズス会の創始者であるロヨラ(左)しザビエル(右)である。
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■「ダンジク様」の史跡の近くの案内板に悲しい殉教の物語がありました。
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生月町指定史跡 だんじく様
昭和四十六年三月二十九日指定
正保二年(一六四五)平戸藩は押役を置きその下に宗門目付、下目付、宗門改め役を置いて切支円の取締りにあたらせた。
この頃、捕吏に追われた弥市兵衛と妻マリア、その子ジュアンは、この断崖の下のだんしくの繋みに隠れていたが子ジュアンが磯に遊びに出たところを海上から役人に発見され殉教した。
以来、海上からのお詣りは忌みきらわれている。
いまもなお旧一月十六日の命日には信者が集まり、信仰を守りつつ殉教していった人々をしのび祈りを捧げている。
  アーしばた山 しぱた山ナーアー
  今は涙の谷なるやナー
  先はナ一助かる道であるぞやナーアー

殉教の悲しみと、神の救いを希[ねが]う心情のほとばしるしみじみとした歌である。
この歌は昭和五十二年七月立教大学の皆川達禾教授によって招介され、東京国立劇場で生月かくれキリシタン歌オラショと共に発表された。
  平成三年三月二十五日設置
   生月町教育委員会
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これもご神体として祀られていたとされる「大型メダイ 無原罪の聖母」です。

色あせて、修復され、日本的な姿になった絵と違い、錆びないように大切に伝えられてきたものと思われます。



ご神体が祀られた「ナンド」の前の部屋「ヨコザ」の風景です。

四種類の祭壇があり、左から「お大師様(弘法大師)」、「先祖様(仏壇)」、右上段の「家の御前様」、下段の「小組のお札様」と案内され、昭和初期の信仰の様子がうかがえます。

右の上下段は、「カクレキリシタン」の祭壇のようですが、以外にも仏教の祭壇が大きな場所を占めています。

「カクレキリシタン」は、一途に一神教のキリスト教を信じ、表向き仏教や、神道に帰依していたと思っていましたが、信教が自由となった昭和の信仰の様子は、宗教が融合した独特の姿でした。



「オテンペンシア(オテンペシャ・お道具)」とされる宗教用具です。

説明文にあるように苦行の鞭として使われていたものが、神道の「御幣[ごへい]」の影響か、祓いの道具に転化したとされています。

密かに信仰を守っていた数百年の時代は、日常的に僧侶や、神主との関係もあり、元のキリスト教から大きく様相を変えてしまったようです。

■説明文です。
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オテンペンシア
オテンペンシア(オテンペシャ・お道具)は、元は苦行の鞭だったものが、祓いの道具に転化したもの。
地区によって形態が若干異なるが、一文銭などを加工した十字型金属を紐につけているものが多い。
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展示パネルにあった「生月の殉教地と殉教伝説」と題する地図の写真が不鮮明だったので作り直したものです。

生月島には御崎、壱部在、堺目、元触、山田と五集落があり、十字架のマークの殉教地に名称を表示しています。

生月島でのキリシタンの布教を積極的に受け入れたのは南蛮貿易の利益を平戸の領主「松浦隆信」の重臣「籠手田安経」と、その実弟「壱部勘解由」でした。

ガスパル様とされる「西玄可」は、平戸に在住する籠手田氏に代る生月島籠手田領の奉行であり、生月島全体のキリシタンの総責任者でもあった人で、籠手田氏・壱部氏が長崎へ退去した10年後に処刑されており、生月島でのキリシタン弾圧の最も大きな事件だったようです。

■パネルの説明文です
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生月の殉教地と殉教伝説
生月には多くの殉教地があり、キリシタン殉教の伝説が語り伝えられています。またロサマ(死霊様)としてまつられているものも、多くはキリシタン殉教に関わりがあるものとされています。このように祖先が受けた苦難がつたえられたことが、困難に耐え、現在に至るまで信仰が受け継がれてきた理由のひとつだと考えられます。

●ガスパル様
籠手田氏追放後の生月信徒の指導者だったガスパル西玄可は、慶長14年(1609)妻子とともに捕えられ、黒瀬の辻で処刑されました。ガスパル親子の亡骸は信徒の手によって教会の儀式にのっとり葬られたといわれています。

●中江ノ島
元和8年(1622)五島・平戸地方での潜伏布教を試みたカミロ神父を助けたという理由で、ジョアン坂本左衛門、ダミヤン出口才吉など多くの信徒がここで処刑されました。現在のカクレキリシタン信徒にとっては、聖なる「お水」を得る聖地になっています。

●ダンジク様
弾圧の際に逃れた夫婦と子供一人の家族が、島の裏側のダンジクの藪陰に隠れていました。
しかし、子供が海岸に出て遊んでいる所を、船で見回る役人に発見され処刑されてしまいました。ここでは正月16日を命日として行事がおこなわれています。

●サンパブロー様
幸四郎様とも言われます。幸四郎は元々キリシタンの禁教のために派遣されてきていましたが、失明の危機を信者の手厚い看護により回復したため信徒になりました。しかし、最後は捕えられ、殉教したといわわれています。

●焼山
布教が盛んにおこなわれていた頃、教会堂が建っていたと伝えられており、一時はセミナリヨもここに置かれていたそうです。焼山の名は教会堂が火を掛けられて焼かれたからだとも、また信徒を切ったあと穴に放り込んで火をかけたからだとも言われています。

●千人塚
正保2年(1645)生月に残存するキリシタンを根絶やしにすべく、熊澤作右衛門を隊長とする一隊が上陸し、多くのキリシタンを処刑しました。千人塚はその際殺された多くのキリシタンを埋葬した場所だと言われています。
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「お水瓶」が展示されていました。

上段の地図にある殉教地「中江ノ島」で汲む聖なる「お水」を入れていたのでしょうか。

■展示の説明文です。
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お水瓶
オーソドックスな形のお水瓶(堺目) 
一般的に行事に用いるお水瓶は、高さ20センチ程度の鶴首の壺で、口は紙などで蓋がされ、行事の時にお水をつけて祓うイズッポと呼ばれる木の棒が付いている。
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集落の多くがある生月島島の東岸から見える「中江ノ島」では、多くのキリシタンが処刑されており、信仰を守って殉教した人々によせる想いが「中江ノ島」を神聖な島としたのかも知れません。

平戸島から生月島大橋が見えてくると、その東に浮かぶ小さな島が「中江ノ島」でした。

今でも続く「カクレキリシタン」の信仰や、古式捕鯨で栄えた生月島島の歴史を紹介する 「平戸市生月町博物館・島の館」の展示には大いに魅力を感じました。

<参考資料>
「カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音」(宮崎 賢太郎著、長崎新聞出版)

長崎旅行-16 「平戸市生月町博物館・島の館」江戸時代最大の捕鯨

2013年04月10日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行4日目、平戸市の生月島を一周して風景を楽しんだ後、 「平戸市生月町博物館・島の館」の見学です。

南北に約10Kmの細長い、小さな生月島に博物館と称する施設があること自体、意外に思われますが、現在まで続く隠れキリシタン信仰や、江戸時代に平戸藩の財政を大きく支えた日本最大の捕鯨の本拠地でもあった島で、その充実した島の歴史の展示は非常に印象深いものでした。



「平戸市生月町博物館・島の館」の玄関前のロータリーの真ん中に造られたセミクジラの親子の噴水です。

左上のクジラ像の展示も玄関前にあったもので、館内にも鯨に関する展示であふれています。



館内一階の展示室の入口にある案内板です。

「勇魚とりの物語」のタイトルで、生月島の捕鯨の歴史を紹介するコーナーがありました。

吹き抜けの天井から吊り下げられた大きな鯨の骨格の大胆な展示にも驚きです。

玄関からの壁面には様々な鯨の絵が展示されており、江戸時代に繁栄した捕鯨の島の歴史が当館のメイン展示と思われます。

■展示パネルより
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勇魚とりの物語
昔 西海に
生月という島がありました
ここでは冬から春にかけ
沖合いを大きな鯨が
泳いでいきました
人々は鯨を勇魚[いさな]とよび
みんなで協力して
とるようになりました。
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上段の絵は、「勇魚とりの物語」のパネルに展示されていた絵で、江戸時代の絵師「司馬江漢」(1788~1789年)が描いた「生月島之図」です。

「生月島之図」は、天明8年(1788年)から約1年間の長崎旅行の記録「西遊旅譚」の中にあるもので、「司馬江漢」が長崎の帰路、生月島へ立ち寄り、島の風景を描いた一枚のようです。

「司馬江漢」は、捕鯨漁を経営する益冨家で約1ヶ月間滞在したようですが、益冨家のある生月一部浦の沖合いから島を見た風景と思われます。

絵を見ると、海岸の中央付近の家屋に「益冨宅」(矢印の場所)と書かれ、左手の海岸に建つ高い建物には「鮪見楼」と書かれ、大がかりな鮪漁も行われていたことがうかがえます。

下段の絵は、天保年間に益冨家が生月島で経営する捕鯨業の様子を描かせた「勇魚取絵詞」の絵の一つ「生月一部浦益冨宅組出図」です。

「勇魚取絵詞」の書籍「鯨取り絵物語」(中園成生・安永浩著、弦書房出版)によると、この場面は、冬から春にかけて行われる鯨漁の操業開始の日に行われる「組出[くみで]」の儀式の場面とされています。

江戸時代、生月島で行われていた捕鯨の様子は、司馬江漢の「西遊旅譚」「江漢西遊日記」や、益冨家の「勇魚取絵詞」などの資料でよく伝えられています。

■展示パネルより
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生月島の捕鯨の歴史
生月島で本格的に捕鯨が行われるのは、享保10年(1725)島北部の舘浦で、畳屋(のちの益冨)又左衛門と田中長太夫が共同で突組を操業した時からです。(翌年より単独経営)。享保14年(1729)には根拠地を島北部の御崎浦に移して経営を安定させ、享保18年(1733)には網掛突取法を行う網組編成に移行します。
益冨組は更なる発展を期して壱岐へ進出しますが、その過程で壱岐勝本に本拠を置く土肥組と、壱岐の主要漁場である前目(恵比寿浦)と勝本を交代で使用する取り決めを元文4年(1739)に交わし、発展の契機をつかみます。益冨組は18世紀には土肥組と同数の4組の網組を経営していましたが、文政~天保年間には壱岐の漁場を制し、5つの網組を傘下におさめる日本最大規模の鯨組になります。
弘化年間に入ると、欧米の捕鯨船が日本近海に進出した影響によって、当時の主要な捕獲対象だった背見鯨や座頭鯨が激減し、さしもの益冨組も経営縮小を余儀なくされ、明治7年(1874)には捕鯨業から撤退します。益冨組が操業した142漁期に捕獲した鯨は21790頭、収入は332万両に達します。
益冨組撤退後も、生月島での網組の操業は明治30年代まで続きます。また平戸瀬戸でも生月島民が多数参加した銃殺捕鯨が、明治15年(1882)から昭和22年(1947)頃まで行われています。
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展示パネル「西海の古式捕鯨地」の地図に生月島の地形図を合わせたもので、生月島の地形図には赤丸印で益冨家や、前回も紹介した益冨組の御崎浦納屋跡、平戸市生月町博物館・島の館の場所を表示しています。

「西海の古式捕鯨地」の地図に捕鯨の拠点が表示されており、山口県北部から五島列島までの捕鯨海域と思われる破線で囲んでいます。

生月島の益冨組の捕鯨地は、対馬、長門を除く壱岐~生月島~西彼杵~五島列島で、平戸藩の領域を中心に西海の漁場が集中する海域へ捕鯨事業を拡大して行ったようです。

西海での捕鯨は、餌を求めて冬に暖かい海域へ移動し、春には寒い海域へ戻る鯨の習性を利用してこの海域を通過する鯨を捕獲していたようです。

文政年間の益冨組は、冬に日本海を南下する「下り鯨」と、春に北上する「上り鯨」を捕獲するため、西海各地に5組の捕獲組織を敷き、下記の説明文の概要で、「冬組」「春組」と配置を替えていたようです。

周辺に捕鯨漁場が集中し、冬・春を連続して操業出来る効率的な生月島での創業も益冨組発展の背景となったのかも知れません。

■展示パネル「文政年間頃の益冨組配下の鯨組の配置」より
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(冬組)        (春組)
壱岐島-前目 → 壱岐島-前目
壱岐島-前目 → 西彼杵-江島
壱岐島-勝本 → 壱岐島-勝本
壱岐島-勝本 → 五島南部-大板部島
生月島-御崎浦 → 生月島-御崎浦

冬組の漁期 小寒10日前から彼岸10前まで
春組の漁期 春土用明けの後20日まで
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■展示パネルより
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西海捕鯨の歴史
 西海漁場は、対馬海峡に面した長崎、佐賀、福岡、山口各県の沿岸部からなります。この海域では縄文時代から鯨の利用や捕獲が行われてきましたが、本格的な捕鯨が始まるのは江戸時代初期の事です。
当初、紀州から出漁した突組[つきぐみ]が漁場を開拓しますが、すぐに平戸町人など地元からも捕鯨業に参入し、17世紀中頃に突組操業の盛期を迎えます。
 延宝5年(1677)に紀州太地(和歌山県)で網掛突取捕鯨法が発明されますが、翌年には深澤組が五島有川湾で同漁法を導入、その後西海各地で網組が興ります。18世紀に入ると、呼子小川島の中尾組、壱岐勝本の土肥組、平戸生月島の益冨組が壱岐や五島などで盛んに操業を行いますが、19世紀に入ると壱岐漁業掌握した益冨組の優位が確定します。
 しかし、弘化年間(1844~48)以降、日本海近海で操業する欧米捕鯨船の影響で深刻な不漁となり、廃業する鯨組も出ます。明治時代には長州川尻、呼子、生月島、五島有川湾などで、網掛突取、定置網、銃殺など様々な漁法が行われますが、厳しい経営を強いられます。
 明治32年(1899)遠洋捕鯨株式会社(長崎市)のノルウェー式砲殺捕鯨船・烽火丸が試験操業を開始。同じ年には山口県仙崎で日本遠洋漁業株式会社が設立され、近代捕鯨業が幕を開け、対馬や呼子でも沿岸型ノルウェー式捕鯨法の操業が行われます。
 昭和9年(1934)以降、南氷洋で日本の工船型ノルウェー式砲殺捕鯨法による操業(母船型捕鯨)が行われますが、下関は捕鯨船団の出漁拠点となり、五島列島などから多くの乗組員を輩出します。終戦直後には各地でミンク鯨を対象とする小型沿岸捕鯨が行われ、昭和30~40年代には五島福江島を拠点とした大型沿岸捕鯨が行われています。
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吹き抜けの展示室の中央に古式捕鯨の大きなジオラマがありました。

下段の図は、ジオラマの説明図で、下の「勇魚[いさな]とり」の説明文と併せて見て頂くものです。

9艘の船が大きな鯨を追い詰めたクライマックスとも思われる場面で、体を張って漁をする迫力のある捕鯨の様子が伝わってきます。

■ジオラマの説明パネルより
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勇魚とり(網取式捕鯨)
この場面は、生月島沖の捕鯨の様子を8分の1で再現したものです。
(1)勢子船が鯨に曳かれています。船の舳先には背見鯨の発見を示す幟が立っています。
  鯨に刺さった萬銛は、船を引く力で曲がっています。
(2)双海船[そうかいぶね]が網を回収しています。網は、鯨が被った部分だけ離れるように、つなぎ目を藁縄[わらなわ]で括[くく]っています。
(3)持双船[もっそうぶね]から羽指[はざし]が剣を投げています。上に向けて投げ、落下する力で鯨の皮膚をつき破ります。刺さると綱を引いて回収し再び投げます。
(4)鯨にとりつくため羽指が海に飛び込んでいます。帰ってきた羽指がドンザを着て火にあたっています。
(5)羽指が鯨によじ登り、手形包丁で鼻を切っています。鼻に穴を開けた後、別の羽指持ってきた綱を通して沈むのを防ぎます。
(6)羽指親父(船団の指揮をとる役)が采[さい]を振って作業の指揮をしています。
(7)2艘の持双船を持双柱[もっそうばしら]で繋げています。柱の下に鯨を吊り下げて運びます。
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網取式捕鯨の船の種類と、役割を説明したパネルにあった船の絵です。

上から勢子船[せこぶね]、持双船[もっそうぶね]、双海船[そうかいぶね]と並び、下の説明文に船の大きさや、役割などがあります。

上段のジオラマでは9艘の捕鯨船が見られますが、この絵の説明パネルでは三種類の船が合計30艘、乗組員は見習いなどを計算すると約470名となり、生月島の捕鯨船団は、意外に大規模なものでした。

■説明パネル「船の役割」より
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船の役割
勢子船[せこぶね](長さ約10.6m 幅2.12m 八挺櫓)20艘
鯨を網に追い立てたり、銛をうつ狩りの勢子(追っ手)の役割をする船です。先細りのスマートな形で、八挺[はっちょう]の櫓で漕ぐため早いスピードが出せました。また、旋回しやすいように、船首から船尾にかけての船底が弓なりになっていることも特徴です。ミヨシ(船首)ま先端にチャセンという尖った飾りを付けています。指揮をとる羽指の他、13人の加子(漕ぎ手)が乗っています。

持双船[もっそうぶね](長さ約10.6m 幅2.15m 八挺櫓)4艘
弱った鯨に剣でとどめを刺す際にも使われますが、一番大きな役目は、仕留めた鯨を2艘の持双船に渡した持双柱に吊り下げて運ぶことですが、チャセンはありません。指揮をとる羽指の他、12人の加子(漕ぎ手)が乗っています。

双海船[そうかいぶね](長さ約12m 幅3.64m 八挺櫓)6艘
鯨に掛ける網を張る船です。勢子船と違い、たくさんの網を積めるように幅が広いがっしりとした造りになっています。網を張る時には、2艘が網を結わえておいて両側に弓なりに張っていきます。その際には、自船の櫓で漕ぐ意外に附船に引っ張ってもらいます。指揮をとる羽指の他、10人の加子(漕ぎ手)が乗っています。
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捕鯨のジオラマの横に山の上で鯨を見張る「山見」のジオラマがありました。

説明文では鯨を見つけると、旗や、狼煙で船団に伝えるとあり、戦国時代まで活躍した海賊を彷彿とします。

■「山見」の説明パネルです。
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山見
西海では、冬に暖かい海に向かう鯨を「下り鯨」、春に餌の豊富な北の海に向かう鯨を「上り鯨」と呼びました。
生月島では、下り鯨は、平戸~度島間(田の浦落し)、度島~大島間(袴瀬戸落し)、大島北沖(貝島まわり・大矢入り)の3つのルートを通って島の東岸にあらわれ、五島方面に泳いで行きました。
そこで、鯨の通過を確認できる岬の突端・山の頂上・小島に山見という監視小屋を設けて鯨を見張りました。鯨を発見すると、旗や狼煙で他の山見を中継しながら沖場(船団)に伝えました。
また、海上に数艘の勢子船を配備して、沖を通る鯨を見張る「流し番」という方法もとられました。
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「山見」のパネルにあった「生月周辺山見配置図」です。

赤丸印が「山見」の場所で、3つの青丸印は「網代」とあり、冬に南下する鯨のルートは北東方向からの矢印、春に北上するルートは、南西からの矢印で表示されています。

この図から鯨の通る各ルートに山見を配置して、発見した鯨は生月島北端の網代へ追い込み、捕獲する手順が見えてきます。

又、捕獲した鯨は、島の地図の北東岸に書かれた「納屋場」へ引き上げたようで、鯨の習性と、海の地形を巧みに利用した漁法だったことがうかがえます。



上段の写真は、捕鯨の展示室の一角に生月島北東岸にあった御崎浦の納屋のジオラマです。

二段目の絵は、江戸時代の益冨組が制作させた「勇魚取絵詞」に掲載されている「生月御崎納屋全図」で、ジオラマの元となった絵のようで、海岸の建物や、地形は、ほぼ同様です。

三段目の図は、ジオラマの説明図にあった施設名称を吹出しで表示したものです。

中央の突堤から向かって右の浜が鯨を解体する「捌場[さばきば]」、その後方に加工処理を行う建物が並んでいます。

中央の突堤から左の浜から後方の広場が「前作事場[まえさくじば]」で、多くの船が引き上げられ、様々な道具類と併せた整備工場と、資材倉庫が並ぶエリアのようです。

向かって左端の建物は、船の指揮をとる羽指の宿舎「羽指納屋」、船を漕ぐ加子たちの「加子納屋」があり、数百名の宿舎が整備されていたようです。

ジオラマには見えませんが、納屋の周囲に柵が設けられ、数ヶ所に置かれた番小屋では夜間の警備も行われていたとされます。

御崎浦の納屋で働く人員は、船団員以外にも約100名、総人数は587名にものぼる大捕鯨基地だったようです。

益冨組は、壱岐から五島列島にこのような鯨組を5組保有しており、生月島を本拠地とする日本最大の鯨組は、約3,000人に及ぶ江戸時代としては途方もない巨大組織でした。

「鯨取り絵物語」によると、大規模な鯨網を扱う双海船の加子には、備後の田島(広島県福山市)から多くの人が雇われ、網を専門に修理する網大工もいたとされ、意外な場所で地元備後に関わる歴史を知りました。

■展示パネルより
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御崎捕鯨納屋場
この模型は、生月島の北部、御崎浦にあった益富組の鯨納屋場を捕鯨図説「勇魚取絵詞[いさなとりえことば]」を参考に、30分の1で推定復元したものです。中央の建物群が、鯨の解体・加工をおこなう納屋場で、左側の広場とそれを囲む建物は、道具の制作・整備をおこなう前作事場[まえさくじば]です。捕鯨のシーズン中はみんな納屋場内に住み込んで作業に従事していました。
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上段の写真は、御崎浦の納屋のジオラマの一部、海岸で二頭の鯨を解体している「捌場」で、その向こうに大納屋の建物が屋内の様子が見えるよう作られています。

下段の写真は、「勇魚取絵詞」に掲載されている「生月御崎納屋場背美鯨切解図」で、大勢の人が綱を引き、切断した皮を剥いでいる場面です。

鯨一頭に木材を十字に組んだ轆轤が2基使われており、ここに大勢の人が働いているのが印象的です。

左の鯨には、赤身が取られている段階のようで、轆轤は使われておらず、皮を剥いだ後の解体行程には人手が掛かっておらず、納屋での加工作業が忙しくなっていたものと思われます。

解体の作業場に渚が選ばれていたのは鯨の血を洗い流しながら作業するためだったのでしょうか。

■展示パネルより
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鯨の解体
運ばれてきた鯨は、納屋場の前の2ヶ所の突堤の間に、頭を陸側に付けて引きあげられます。そのあと各所に配置した轆轤[ろくろ]という人力によるウインチと大切包丁を使いながら解体されます。
解体は、まず背中の皮を剥ぐことから始まります。綱の付いた鈎[かぎ]を皮にあけた穴にかけ、轆轤で引っ張りながら、大切包丁で切れ目を入れて剥いでいきます。次にその内側の赤身、腹側の皮、大骨(背骨)と解体をすすめます。
解体手順はおおよそ13段階に分かれていました。
解体された皮・赤身・骨・臓物その他は、大納屋をはじめ各納屋に吊り鈎やモッコで運び込まれます。
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3枚の絵は、「勇魚取絵詞」に掲載されている大納屋、小納屋、骨納屋の作業風景で、「鯨の加工」の展示パネルにあったものです。

上段の絵は、「生月御崎浦大納屋図」で、皮から「鯨油」、赤身肉から「塩鯨」が製造され、大納屋は多くの人が動き回る最も大きな納屋だったようです。

中断の絵は、「生月御崎浦小納屋図」で、小納屋では主に骨から肉を削いで「塩鯨」、内臓を煎って「鯨油」を製造する他、様々な部位を食用などに加工し、鯨を完全利用する加工場だったようです。

下段の絵は、「生月御崎浦骨納屋図」で、骨を海水で煮て、骨髄に含まれる「鯨油」を採る他、骨を足踏み式の唐臼で粉砕して肥料用の「骨粉」を製造していたようです。

主力商品「鯨油」は、灯油で使われる他、水田に撒いて害虫駆除をする需要が大きかったようです。

「塩鯨」は、益冨家が料理本「鯨肉調味方」を制作し普及に努め、その中の鯨肉料理「鋤焼」[すきやき]が現代の「すき焼き」の元祖となったと紹介されています。

■展示パネルより
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鯨の加工
各納屋場は分業して鯨の各部位の加工をおこないました。
そのうち大納屋では、主に皮や赤身肉が処理されました。
分厚い脂肪層を持つ皮は小さく刻まれたのち、大釜の中で煎って液化(鯨油)されます。それを柄杓にすくいとり集めたものを最終的に樽詰めにしました。鯨油にすると腐敗することなく遠方まで出荷することができました。。赤身肉は塩漬け(塩鯨)にして保存が効くようにしました。
小納屋では骨についた肉を剥ぎおとしたり、内臓から油をとる作業がおこなわれました。
骨納屋では、油分を多く含んでいる骨を細かく刻んだあと、釜に入れて煮て油をとる作業がおこなわれました。
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二階に生月島出身の巨漢力士「生月鯨太左エ門[いきつきげいたざえもん]」の展示コーナーがありました。

益冨家の捕鯨が最盛期だった頃の力士で、相撲史上最も背の高い2.27mだったとされ、日本一の捕鯨の島をPRするには願ってもない力士だったと思われますが、若くして亡くなったのは残念です。

昔、松山市の全日空ホテルで偶然、高見山親方(身長192cm)と並ぶ横綱曙(身長203cm)と出会い、見上げた高さに驚きましたが、更に20cm以上高い「生月鯨太左エ門」に当時の人々の驚きはもっと大きかったものと思われます。

生月島の捕鯨コーナーを見学させて頂き、江戸時代の生月島の鯨文化をしっかりと伝えようとする素晴らしい展示内容でした。

■展示パネルより
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巨漢力士 生月鯨太左エ門
生月鯨太左エ門[いきつきげいたざえもん]
相撲界の記録の中で最大の身長を誇る力士です。文政十年(一八二七)生月・舘浦の漁師の子として生まれ、幼名を要作[ようさく]となづけられました。
要作は子供の頃からすでに身体が大きく、富豪の親戚の家に行った時、そこの旦那から米俵を持ち上げられればくれてやると言われ、軽々と抱えて帰ったという逸話が伝えられています。
平戸藩主・松浦公の勧めもあり、大阪の小野川部屋、次いで江戸の玉垣部屋に入門し、生月鯨太左エ門というしこ名を貰い土俵に立ちました。
身長はさらに高くなり、七尺五寸(二二七センチ)に達しましたが、嘉永三年(一八五〇)二四歳の若さで病死しました。
鯨を思わせる巨躯は、当時、鯨の島・生月の名を大いに宣伝してくれたでしょう。
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参考資料
「鯨取り絵物語」(中園成生・安永浩著、弦書房出版)
「江漢西遊日記」(司馬江漢著、芳賀徹・太田理恵子校注、平凡社出版)

長崎旅行-15 平戸市「生月島」断崖が続く風景

2013年03月26日 | 九州の旅
2012年9月13日長崎旅行4日目、長崎市から平戸市生月島まで走り、佐世保市まで引き返すコースの観光です。

当初の予定では長崎市から佐世保市にかけてのエリアの観光でしたが、あいにく午前中が雨の予報で、翌日の予定地で最も遠い生月島までの移動時間に振替えたものです。



平戸島から見た雨上がりの「生月大橋」の風景です。

朝、長崎市のホテルを出発、西海大橋、平戸大橋を渡り、ここまで約3時間のドライブでした。

「生月大橋」は、二十数年前に完成し、2010年まで有料だったようですが、現在は無料となって、観光に訪れる者にも助かります。

隠れキリシタンや、断崖が続く海岸線の風景などで知られる生月島には、十数年前の旅行で平戸までしか訪れられなかったので、今回は一番に来たものです。



左側の地形図が「生月島」で、「生月大橋」を渡り東岸を北上し、「塩俵の断崖」から「大バエ灯台」を見て西岸を南下、最後に「平戸市生月町博物館・島の館」を見学するコースでした。

右の地形図は「生月島」の位置を見て頂くもので、南の長崎から一気に走って来ました。



「塩俵の断崖」の風景です。

もっと雄大な風景を期待していましたが、ややものたりないさが残る風景でした。

観光としては、珍しい「柱状節理」の風景がポイントのようです。

道路から近い、海岸沿いの遊歩道から見下ろした風景で、そばの展望施設から見た風景を撮影した方が良かった知れません。

■案内板より
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生月島塩俵断崖の柱状節理
 生月島は、南北約十キロ、東西(最大幅)三・八キロの細長い島で、新第三紀(約二千五百万年前~約二百万年前)に「平戸層群」(約千五百万年前)の上に「松浦玄武岩」(約八百万年前)が重なった溶岩台地です。
 柱状節理は、溶岩流が厚い部分に発達する場合が多く、玄武岩の柱ははぽ垂直で、さらに水平に亀裂が生じてくる。当地の姿や断面五~七角形の蜂の巣状の俵を重ねた様は、これらを物語るものです。
 本節理は県内でも代表的なもので、南北に約五百メートルの長さと海面から約二十メートルの高さの規模をもち、景観的にも優れ貴重なものです。
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海岸付近をズームで撮った風景です。

岩が柱状に割れた「柱状節理」の断崖の下には、波で浸食された柱状の断面が並び、規則正しく六角形をしたものから四角形や、不定形のものまで様々です。

「塩俵」の名称は、白く乾いた柱状の断面の様子が「塩俵」に似ていたことによるものだったのでしょうか。



「塩俵の断崖」の駐車場近くの遊歩道脇にあった遊歩道の案内図です。

上の(西)海岸沿いに「生月島自然歩道」が造られ、北端に近い「大バエ灯台」まで続いているようです。

好天の日にのんびりと、断崖の風景を見ながら歩いてみたいものです。

■「生月島自然歩道」の案内図にあった(1)から(9)の地名です。
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(1)塩俵憩いの広場
 0.7Km
(2)オロノウチ
 0.5Km
(3)山見跡(旦那山)
 0.3Km
(4)駐車場
 0.4Km
(5)砲台跡
 0.3Km
(6)三番高り
 0.5Km
(7)二番高り
 0.3Km
(8)駐車場
 0.3Km
(9)大バエ灯台
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距離合計 3.3Km



生月島北端の小高い山の上に建つ「大バエ灯台」です。

白い階段を登った展望台からは360度の絶景が広がっていました。

灯台の壁の表示板には「大碆鼻 北東照射灯 初点平成14年3月」とあり、「大碆鼻[おおばえはな]北東照射灯」が正式名称のようです。

「照射灯」は、一般的な「灯台」と違い、危険な場所の暗礁などを照射して航行する船舶に知らせる施設とされ、上に見えるガラス窓から「大バエ灯台」の看板方向を照らしているようです。



「大バエ灯台」の展望台から北東方向を見た風景です。

生月島の北端「大碆鼻[おおばえはな]」の先端に黒褐色の岩礁が広がり、二人の釣り人も見られ、その沖に「鯨島[けしま]」が浮かんでいます。

「鯨島[けしま]」には鯨の親子のイメージも感じられ、江戸時代、日本最大の捕鯨拠点だった生月島の人々が名付けたことにもうなづけます。(鯨を「け」と読ませるの理由は謎で、興味がわきます)

「大碆鼻北東照射灯」が照らしている場所は、あの黒褐色の岩礁がある「大碆鼻」の先端辺りだったのでしょうか。

気象庁のサイトで平戸瀬戸の潮位データを見ると、当日の干潮時刻は13時頃で、この写真の岩場付近の海面水位は干潮の約1時間半前の状態です。

おそらく、満潮時には「大碆鼻」周辺の浅い海域は、航行が危険な暗礁地帯となる可能性があるものと思われます。

ところで、「大碆鼻北東照射灯」に照らされた夜の海は、イカ釣り漁船の集魚灯的効果で、たくさんの魚が集まる絶好の釣シーズンがあるのかも知れませんね。



「大バエ灯台」の展望台から南西方向を見た風景です。

生月島西岸の雄大な断崖の絶景が広がり、断崖の下の海には小さな漁船が浮かんでいます。

あの高い断崖は、「生月島自然歩道」の案内図にもある「二番高り」と思われます。

地形図で見ると「二番高り」付近の最高地点は標高86mで、「塩俵の断崖」の標高約35mと比較して圧倒的に雄大さを感じる訳です。



「大バエ灯台」の展望台から南方向を見た風景です。

平戸島から渡ってきた「生月大橋」が見え、その右には生月島の最高峰「番岳」がそびえています。

南北に約10Kmの細長い「生月島」を最北地点から一望した風景が見られました。



帰り道、「塩俵の断崖」の近くの道路脇で偶然見つけた石碑(右端)と、付近の風景です。

石碑には「益富捕鯨 納屋跡 昭和五十四年五月建立」とあり、東海岸の湾に面して小さな漁港と平坦な土地が見られました。

石碑の横の案内板によると、ここが江戸時代の捕鯨基地だったようで、詳細は生月島の最後に見学した「平戸市生月町博物館・島の館」と併せて掲載したいと思います。

■案内板より
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生月町指定史跡 御崎浦鯨組納屋場跡
 昭和四十六年三月二十九日指定

 享保十四年(一七二九)益富又左衛門正勝が、この地に、舘浦で営んでいた鯨組を移した。この一帯を石垣で囲い、網納屋、鍛冶網大工樽等の納屋、赤身納屋、東蔵尾羽毛[をばいき]蔵、苧[を]蔵、塩蔵大納屋、道具納屋、油壺場、小納屋、小納屋蔵、骨納屋、勘定納屋、大工納屋、米倉、新筋[しんすじ]蔵、艪[ろ]納屋、油貯[いれ]小倉、油貯六間倉、荒物貯八間倉等各一宇、筋納屋二宇、羽差納屋一宇、加子納屋三十宇、轆轤[ろくろ]八箇等があり、海岸に鯨の、船引揚げ場があり、当時の大工場であり、日本最大規模の捕鯨基地でもあった。享保十八年に鯨の網取法を導入してからは、少し離れた古賀江の海岸に網干し場を設けている。
 天明八年(一七八八)絵師、司馬江漢は生月の益富家に一ヵ月滞在し、この間この地を訪れて捕鯨その他をスケッチしている。又、明治二十四年には、幸田露伴が、この地や羽差をモデルとして、小説「いさなとり」を発表した。
 捕鯨不振により文久元年(一八六一)基地は閉じられた。
  平成三年三月二十五日設置
   生月町教育委員会
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生月島の西岸の道路を南に進むと「鷹ノ巣トンネル」があり、ここにも雄大な断崖がありました。

「鷹ノ巣トンネル」から少し北の道路脇に駐車場があり、立ち寄ってみましたが、この一帯にも雄大な断崖の風景が見られます。

駐車場にも石碑があり、「生月農免道路 竣工記念碑 平成五年五月吉日」とあり、西岸の道路は、比較的新しく造られた風景が楽しめるコースでした。



「生月島」南西端の「長瀬鼻」の断崖の風景です。

観光協会の案内では「長瀬鼻」には、「長瀬八洞」、「はなぐり洞門」があるとのことでしたが、断崖の下にある洞窟で、道路脇からはこの風景だけです。

「生月島」西岸は、玄武岩の断崖が続き、「生月農免道路」からの風景は、素敵なものでした。

この後、楽しみにしていた「生月大橋」の近くにある「平戸市生月町博物館・島の館」の見学です。

長崎旅行-14 長崎市「崇福寺」の中国盆「蘭盆勝会」

2013年03月21日 | 九州の旅
2012年9月12日長崎旅行3日目夕方、中国盆が行われていた長崎市鍛冶屋町の「崇福寺[そうふくじ]」を参拝しました。

「崇福寺」(黄檗宗-禅宗)は、江戸時代初期に長崎に住む華僑によって創建された寺院の一つで、3日間続く中国盆「蘭盆勝会[らんぼんしょうえ]」の初日でした。

長崎には1570年(元亀元)の開港以来、多くの華僑が来航、居住していましたが、出身地ごとに同郷団体「幇[ぱん]」を組織してそれぞれの菩提寺を創建していたようです。

江戸初期の1620年(元和6)に三江幇(江蘇省・浙江省)の「興福寺」が創建され、1628年(寛永5)に泉樟幇(福建省漳州・泉州)の「福済寺」、翌年1629年(寛永6)に福建省福州「崇福寺」が創建され、これら三寺を「長崎三福寺」と呼ぶようです。

古くから唐船には航海の守護神「媽祖[まそ]」を祀っており、長崎港碇泊中に安置する「幇[ぱん]」の集会所が菩提寺の基になったとされ、故郷を遠く離れ、同郷の人々が結束して生きてきたことがうかがえます。



鮮やかな赤色、黄色の提灯で飾られた崇福寺「三門」です。

どっかりとした姿の赤い「三門」は、「竜宮造」と呼ばれる形式の門で、台風で倒壊した門に代えて1849年(嘉永2)に再建された建物とされ、二階中央に「聖壽山」の扁額、向かって右側の門の上に「吉祥」左側には「如意」の文字が書かれ、三つの門があります。

この「竜宮造」の門は各地の寺院で見られますが、安徳天皇を祀る下関の赤間神宮(元・阿弥陀寺)の赤と白に塗り分けられた門を想い出します。

■案内板より
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国指定重要文化財 崇福寺三門(楼門)
  指定年月日 明治39年4月14日 所有者 崇福寺
 一般寺院の外門を山門というが、三門は禅宗寺院の場合そう呼ぶことが多く、三解脱門(空門・無相門・無作門)の略であるという。
 この建物は嘉永2年(1849)に再建された、中国趣味のきわめて濃厚な珍しい建築様式であるが、日本人棟梁の作で、特異な形から竜宮門の名で親しまれている。
 当山の山号「聖寿[しょうじゅ]山」の横学が楼上正面にある。隠元禅師の筆で県指定有形文化財。

(指定の経緯)
 明治39・4・14 特別保護建造物(古社寺保存法) 昭和4・7・1 国宝(国宝保存法)
 昭和25・8・29 重要文化財(文化財保護法)
  長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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賑やかな提灯に心が浮かれそうな「三門」中央の風景です。

中央の門の両脇に体をくねらせたような独特のポーズをした獅子の石像、門の上に暖簾のように掛かった「蘭盆勝会」の文字がいかにも中風の寺院を感じさせます。

門を入った突当りに拝観受付があり拝観料を支払って、左上に続く数十段の石段を登って行きました。



「崇福寺」のパンフレットにあった「崇福寺諸堂配置図」に「蘭盆勝会」の祭壇などを追記したものです。

左下の「三門」から入り、石段を上り、配置図に記した赤い字の番号順に建物を見て歩きました。



「三門」をくぐり、左手の石段を登って行くと国宝「第一峰門」(2)が見えてきます。

軒下の複雑な組物に豪華な極彩色が施されていましたが、よく見ると、とても細かで仏教的な模様が描かれていました。

写真左下は、門の右手の赤い破線で囲んだ場所にあった2体の人形「七爺八爺[ちーやぱーや]」です。

「七爺八爺」は、死後の魂を冥土へ連れて行く神様で、背が高く長い舌を出している「七爺」、背が低く黒い「八爺」が門を通る参拝者をみつめているようでした。

■案内板より
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国宝 崇福寺第一峰門
 指定年月日 昭和28年3月31日 所有者 崇福寺
二の門・中門・唐門・赤門・海天門の別名がある。中国寧波で切組み唐船で運び元禄9年(1696)ごろ建てた。唐通事[とうつうじ]林仁兵衛(林守壂[しゅでん])の寄進。
軒裏の複雑な組物(四手先三葉■[木+共]斗■[木+共]詰組[よてさきさんようきょうときようつめぐみ])が特徴で、華南地方に見られるが日本では唯一例である。平垂木を放射状に割付けた扇垂木[おうぎだるき]に鼻隠板[はなかくしいた]打ち。極彩色模様が施されているが、雨かかり部分は単なる朱塗りである。当初材は広葉杉(こうようざん)であることが確認された。(昭和39年塗装彩色修理工事のとき。)即非禅師書「第一峰」の額は県指定有形文化財。
(指定の経過)
明治39・4・14 特別保護建造物(古社寺保存法) 昭和4・7・1  国宝(国宝保存法)
昭和25・8・29 重要文化財(文化財保護法)   昭和28・3・31 国宝(文化財保護法)
 長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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■:表示できない漢字を「へん」と、「つくり」を例[木+共]と表現しています。



「第一峰門」をくぐると「閻魔大王」(3)の祭壇が作られていました。

参拝者も「七爺八爺」に案内され、ここで「閻魔大王」に裁かれるのでしょうか。



左手に国宝「大雄宝殿[だいゆうほうでん]」(4)が見えてきました。

下段の写真は、正面から見た風景です。

写真両端の柱の前に垂れ下がっている物は、下の案内板に書かれた珍しい建物の装飾「擬宝珠付き垂花柱[すいかちゅう]」と思われます。

■案内板より
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国宝 崇福寺大雄宝殿[だいゆうほうでん]
 指定年月日 昭和28年3月31日 所有者 崇福寺
本尊に釈迦(大雄[だいゆう]・だいおうの読みもある。)を祀る。中国で切組み正保3年(1646)建立した。寄進者は唐商何高材[かこうざい]。長崎に現存する最古の建物。はじめ単層屋根であったが、天和元年(1681)「魏之■[王+炎]」[ぎしえん]が日本人棟梁をつかい入母屋屋根の上層を付加し、現在の姿になった。
 特徴としては、軒回りの擬宝珠付き垂花柱[すいかちゅう]が珍しい。前面吹放ち廊下のアーチ型天井は、俗に黄檗天井と呼ばれ、黄檗建築独特のものである。下層部の当初材は広葉杉(こうようざん)と推定される。
 殿内の釈迦三尊や十八羅漢の仏像群と寺内の聯(れん。柱にかける文字を書いた板)や額(但し、隠元・即非・千■[豈+犬][せんがい]が書いたものだけ)は県指定有形文化財。
(指定の経過)
特別保護建造物・国宝・重要文化財・国宝など指定年月日と経過は第一峰門に同じ。
 長崎県教育委員会・長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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県指定有形文化財 崇福寺本堂の仏像群(釈迦三尊と十八羅漢)
指定年月日 昭和35年7月13日 所有者 崇福寺
大雄宝殿の本尊は釈迦如来座像。向かって右脇侍[わきじ]は迦葉[かしょう]尊者、左は阿南[あなん]尊者ともに立像。みな中空の乾漆像。胎内から銀製の五臓と布製の六腑が発見された。前者に承応2年(0653)化主[けしゅ](寄付集め世話人)何[か]高材、後者に江西南昌府豊城懸仏師徐潤陽ほか2名の墨書があった。
左右に並ぶ十八羅漢は中空の寄木造で麻布を置き漆で固めたもの、延宝5年羅漢奉加人数(1677)という巻物が三尊の胎内から発見されたことと、唐僧南源の手紙に唐仏師三人が崇福寺で羅漢を造ると書くので、この三人が徐潤陽ほか2名ではないかと疑うこともできる。どれもみな中国人仏師の作で当寺を示す貴重な作例である。
 長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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「大雄宝殿の向いにある「護法堂」(5)です。

頂いたパンフレットによると建物は、1731年(享保16)再建とあり、国指定重要文化財です。

「護法堂」の軒下には赤色と、金色が鮮やかな小さな建物が並び、花・ローソク・線香などが供えられていました。

これらは「蘭盆勝会」の時期だけのものだったのかも知れません。

「護法堂」の建物の中に入ると、中央は「観音堂」、向かって右の「関帝堂」には関羽像が祀られ、左の「天王殿」には「韋駄天像」の他に様々な神像が祀られていました。

寺院とは言え、「関帝像」や「媽祖」など、仏教以外の神様も祀られ、神仏習合だった江戸時代までの日本の神社仏閣もこのような様子だったと思われます。



上段の写真は、「護法堂」過ぎて突当りの堂で、中に「大釜」(6)が置かれていました。

「大釜」は、下の案内板の記述にあるように、江戸時代前期の1680年の不作から飢饉が発生し、慈善活動の粥の施しで使われた
ものだそうです。

寺のパンフレットには4石2斗(1石=1000合・約180リットル)を炊くと伝えられており、1人1合の粥としたら4,200人分となります。

お堂の左右に高さ約1mの「金山・銀山」が多く置かれていますが、精霊が冥土で使うお金としてお盆の最後にお土産として燃やされるようです。

「金山・銀山」は、上部の円錐形部分に金や、銀の円形の色紙がたくさん貼り付けてあり、これが金貨・銀貨とされるようで、1枚づつ貼り付けながら亡くなった人に思いをはせているのでしょうか。

下段の写真は、「護法堂」の奥に並んで建っている「鐘鼓楼」(7)です。

鐘を突く鐘楼は、よく目にしますが、「鐘鼓楼」は、初めてで、どんな音か聴いてみたいものです。

建物は、1728年(享保13)の再建ですが、梵鐘は、開創時の1647年(正保4)のものが残っているようです。

■案内板より
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市指定有形文化財 崇福寺大釜
 指定;昭和43年11月20日
 所有者 崇福寺 
第2代住持であった唐僧・千■[豈+犬][せんがい](千呆)性■[イ+安]が、飢餓救済の施粥[せじゅく]のために造った大釜である。
延宝8年(1680)の諸国不作以来、米穀不足となり、天和元年(1681)には、長崎にも餓死者が出た。 福済寺2代住持唐僧慈岳や当寺の千獃は、托鉢や富商の喜捨などで粥を煮、多数の窮民を救った。粥の施しを受ける者は多い日には、3,000人から5,000人に及んだという。
 千獃は翌天和2年(1682)2月大釜を造り、4月14日完成。 鋳工は鍛冶屋町の鋳物師案山[あやま]弥兵衛と推定される。
 長崎市教育委員会(平成元年3月設置)
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■案内板より
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国指定重要文化財 崇福寺鐘鼓楼[しょうころう]
 指定年月日 昭和25年8月29日
 所有者 崇福寺
 上階に梵鐘を吊り太鼓を置いて、鐘楼[しょうろう]と鼓楼[ころう]を兼ねる。鐘楼はもと書院前庭南隅にあったが、享保13年(1728)ここに位置を変え新築した。軸部は中国で切組み、日本人棟梁が建てた。建物の特徴は護法堂に同じ。雨がかり部分だけ朱塗りである。上層下層の比例に安定感があり、円窓・華頭窓・白壁の取り合わせの意匠も秀れている。
 梵鐘は正保4年(1647)鍛冶屋町住の鋳物師[いもじ]阿山[あやま]氏初代の作。県有形文化財指定。
(指定の経過)
特別保護建造物・国宝・重要文化財の指定経過と年月日は護法堂におなじ。
 長崎県教育委員会
 長崎市教育委員会(昭和62.3設置)
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「大雄宝殿」に並んで「媽祖門[まそもん]」(8)があります。

パンフレットによると1827年(文政10)に再建されたとあり、「媽祖堂」に対する門と、仏殿と、方丈を連絡する廊下を兼ねているとされています。

■案内板より
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国指定重要文化財  崇福寺媽祖門[まそもん]
 指定年月日 昭和47年5月15日 所有者 崇福寺
 媽祖堂の前にあるから媽祖堂門と呼ばれるが(文化財の指定は媽祖門となっている)、大雄宝殿と方丈とをつなぐ廊下を兼ねた巧みな配置となっている。現在の門は文政10年(1827)に再建したもので、建築様式は和風が基調をなしているが、扉前面に黄檗天井がある。木割が大きく外観がよい。主要材はケヤキである。
 媽祖は、まそ・まぁずぅ・ぼさと読むが、また天妃[てんぴ]・天后聖母[てんこうしょうも]・菩薩・老媽[のうま]などの呼び名がある。海上安全守護の女神で、各唐船には船魂神として媽祖の小像を祀る。
 長崎県教育委員会
 長崎市教育委員会
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門をくぐると、正面の更に一段高くなった場所に「媽祖堂」(9)が建っています。

中を覗きましたが、中央奥にエレガントな女性らしい媽祖像が安置されていました。

下の案内板では「寺に媽祖を併せ祀ったのは、長崎の唐寺の特色である」とし、江戸時代の長崎奉行の施政下で、宗教施設を制限されたことによるものだったのかも知れません。

左手には「蘭盆勝会」の仮設と思われる観音菩薩像の祭壇があり、次の写真で紹介しています。

■案内板より
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県指定史跡 崇福寺媽祖[まそ]堂
 指定年月日 昭和35年7月13日
 所有者 崇福寺
 海上安全の守護神媽祖[まそ]を祀る媽祖堂は当寺草創後間もなく、現状より小さなお堂として建てられた。航海安全を最上の願いとする来航唐商たちが祀っていた。ここ崇福寺のほか、唐人の建てた興福寺には媽祖堂があり、福済寺は観音堂の脇壇に媽祖を祀った。寺に媽祖を併せ祀ったのは、長崎の唐寺の特色である。来航唐船に祀る船魂神の媽祖像は、在港中これら唐寺の媽祖堂に奉安した。現存建物は寛政6年(1794)再建のものである。
 媽祖堂は唐人屋敷内にもあった。天后堂という。
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媽祖堂のそばに細長いテーブルを囲むように仮設の建物があり、観音像と思われる絵が掛けられていました。

どのような目的があるのか分りませんが、何か儀式でもするのでしょうか。



16:30頃、「大雄宝殿」(本堂)へ入る数名の僧侶の行列が見られ、木魚や、カネの音に合わせ読経が始まりました。

日本各地の寺院で聞く読経とは違う珍しい読経の様子をしばらく見せて頂きました。

境内に祀られている様々な神仏や、扁額を見てもほとんど理解できず、中国の文化や、宗教などを知る必要を感じた参拝でした。

以前、神戸の中華街で春節祭の行事を見物したことがありますが、このような季節の行事の時に訪れるのも楽しいものです。

長崎旅行-13 「長崎市古写真資料館」で見た幕末・明治の写真師「上野彦馬」

2013年03月08日 | 九州の旅
2012年9月12日長崎旅行3日目は、市内電車一日乗車券を購入して長崎市内の観光を楽しみました。

朝8時頃からグラバー園をゆっくりと観光、「長崎市古写真資料館」へ着いたのは10時過ぎでした。



市電石橋駅付近を通り、石畳のオランダ坂通りを上って行くと、左手に「長崎市古写真資料館」の入口が見えてきました。

明治の洋館を利用した施設で、道路脇には大きな「東山手洋風住宅群」の案内表示の下に「東山手地区町並み保存センター」「東山手 地球館」「長崎市古写真資料館」「埋蔵資料館」と書かれた案内板があり、明治期の「東山手洋風住宅群」を利用した施設が案内されています。

■「長崎市古写真資料館」の玄関にあった案内板です。
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古写真資料館
 長崎は、200余年の鎖国時代にはわが国唯一の貿易港として西洋の多くの文化が流入し、日本文化の近代化に大きく貢献しました。また、安政5年(1858)、幕府は5ヶ国と修好通商条約を結び、翌年、横浜・函館とともに長崎も新しい時代の自由貿易港として開港され、東山手・南山手周辺地区に外国人居留地が形成されました。
 居留地の建設時にはすでに多くの写真が撮影されており、長崎の町は重要な被写体でありました。
 この古写真資料館は、全国の資料館や博物館に所蔵されている幕末から明治期の貴重な古写真や絵葉書を通して、長崎の外人居留地と当時の長崎を紹介しています。
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「長崎市古写真資料館」のある「東山手洋風住宅群」を中心とした地図です。

「東山手洋風住宅群」は、長崎の市電の駅で、最も南にある「石橋駅」から北へ約100mの場所です。

右下の拡大地図にある黄色い7棟が「東山手洋風住宅群」で、左列の上1棟が「埋蔵資料館」、左列の下3棟が「長崎市古写真資料館」、右列の上2棟が「東山手地区町並み保存センター」、右列の下1棟が「東山手 地球館」として利用されているようです。



洋館が並ぶ「東山手洋風住宅群」の風景で、「長崎市古写真資料館」の建物です。

淡いグリーンの洋館が並び、和風の瓦屋根の塀に囲まれる風景にも文明開化が進んでいた時代が感じられるようです。

「長崎市古写真資料館」には幕末から明治の著名人や、長崎の風景写真の他、写真家「上野彦馬」の生涯がパネル展示されていました。

館内には多くの写真が展示されていましたが、撮影禁止とあり、彦馬の紹介パネルにあった小さな写真を使わせて頂き、館内外の風景写真と併せて掲載します。

■「長崎市古写真資料館」の案内板です。
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長崎市古写真資料館
長崎の出島は、わが国で最初にカメラが持ち込まれたところです。
外国人居留地の建設時には、すでに多くの写真が撮影されています。やがて写真技術は長崎に定着し、日本人による最初の営業写真館が開設されました。
 この古写真資料館は、居留地時代の洋風住宅を整備したもので、わが国における写真の開祖といわれる「上野彦馬」の偉業を紹介するとともに幕末から明治期の貴重な写真資料を通じて長崎の外国人居留地と当時の長崎、また、日本における写真の歴史について、展示を行っています。
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左の写真は、写真家「上野彦馬」(1838年~1904年)で、眼鏡橋に近い生誕地の案内板に掲載されていたものです。

右の写真は、「上野彦馬」の父、「上野俊之丞」の肖像画で、資料館のパネルに掲載されていたものです。

パネルの説明文にあるように彦馬の父「上野俊之丞」は、好奇心あふれる多才な人だったようで、日本に初めてダゲレオタイプ(銀板)の写真機を輸入し、そのカメラで撮影した薩摩藩主島津斉彬の写真が日本人による初めての写真となったようです。

しかし、父俊之丞は、彦馬が13才の時、62才で亡くなっています。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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学問的家庭環境の上野家
 彦馬の父、上野俊之丞常足[しゅんのじょうつねたり]は長崎の御用商人であり、長崎奉行所の御用時計師として、出島への自由な出入りを許されていました。代々の絵師でもある俊之丞は、西洋の知識を積極的に取り入れ、後に火薬の原料である硝石の製造も行いました。
俊之丞の研究は多方面にわたっていますが、特に製薬業・中島更紗の開発・研究には力を注いでいたようです。
 上野邸には俊之丞の盛名を慕って多くの蘭学者が集まりました。そうした中で、彦馬も日常的に貴重な蘭書を目にし、西洋の学問についての会話を耳にして育ちました。家庭内での会話にもオランダ語が使われていたそうです。母の伊曽[いそ]も教育熱心で、彦馬は幼少時代から町内の松下平塾に通っていました。
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左の肖像画は、彦馬が約3年間師事した儒学者「広瀬淡窓」で、天領の日田(大分県)で開いた私塾「咸宜園[かんぎえん]」は、全国から門弟が集まる日本有数の規模だったとされます。

「咸宜園」では身分、性別を問わず門弟を受入れ、平等に学べる先進的な教育だったようです

右の写真は、幕府が長崎に開設した海軍伝習所の教授として来日したオランダ軍医「ポンペ」です。

「ポンペ」は、医学伝習所を開設し、彦馬も入門を許され、やがてダゲレオタイプ(銀板)の次に発明された湿板写真に出会うことになります。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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日田・淡窓塾咸宜園へ入門
 嘉永6年(1853年)、16才になった彦馬は後見役の木下逸雲のはからいで、豊後日田(現在の大分県日田市)の咸宜園に入門しています。
咸宜園は、儒学者広瀬淡窓の私塾で、身分制社会にあって、身分に関係なく入門を許し、地位や年齢にかかわらず塾生を平等に取り扱うという先進性を持っていました。
咸宜園には、多くの門人が集まり、高野長英・大村益次郎・後の総理大臣、清浦奎吾などの人材もでています。
彦馬はここで約3年間漢学を学びました。そののち、日田から長崎へ戻った彦馬は、父の友人であった大通詞(通訳)の名村花渓から、蘭語・蘭学を学んでいます。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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彦馬、恩師ポンペとの出会い
 黒船の来航以来、開国を迫られていた徳川幕府は、諸外国に対抗するための海軍の必要性を感じました。
 幕府は安政2年(1855年)、長崎に海軍伝習所を開き、オランダの海軍士官を招いて諸藩の学徒に西洋式の軍事教育を受けさせることとしました。
 1857年、海軍伝習所の第2次派遣隊の一員として来日したポンペは、基礎科学に始まり、臨床医学にいたる組織的な教育を行いました。
 ポンペは伝習所の終了後も日本に残り、養生所(病院)も開くなど、西洋医学を日本に根付かせるのに大きな功績を果たしました。
 日田から戻った彦馬は安政5年(1858年)、このポンペのもとに入門しています。
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左は、1839年にフランスで発表された世界初の実用的なカメラ「ダゲレオタイプカメラ(銀板)」で、右は、「上野俊之丞手控え(カメラスケッチ)」とあり、彦馬の父俊之丞が初めて日本に「ダゲレオタイプカメラ」を輸入した時のスケッチと思われます。

「ダゲレオタイプカメラ」は、銀板上に定着させたポジティブ画像をそのまま鑑賞するもので、露光時間も初期には数十分要していたようです。

下の説明文にあるように彦馬が医学伝習所で学んでいた頃、写真技術は、「ダゲレオタイプ(銀板)」から1851年にイギリスで発明された「ウエット・コロジオン・プロセス(湿板)」へ変わって行く時代でした。

湿板は、感光材などを塗ったガラス板に画像を感光させ、現像したネガ画像を焼増しする方式です。

彦馬は、ポンペのもとで舎密学(化学)を学ぶ中で、その後の人生を決定づける新しい「ポトガラヒー(湿板)」の言葉に出会ったようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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「ポトガラヒー」なる単語発見
安政5年(1858年)、20才になった彦馬は医学伝習所のポンペのもとに入門しました。ある日、舎密学(化学)の勉強をしていた彦馬は、ショメールの百科事典の中に「ポトガラヒー」という単語をみつけました。
それは、発明後間もないウエット・コロジオン・プロセス、今日で言う湿板写真の紹介でした。
興味を覚えた彦馬は、早速ポンペにその内容を質問しました。いかし、ポンペは写真についての知識はありましたが、実際に撮影に成功したことはなかったのです。
 そこで彦馬は書物の知識を頼りに、ポンペの助言と協力を受けながら、堀江鍬次郎と共に、手探りで写真術の研究を始めることになったのです。
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上段の図は、「彦馬が自作したカメラの原理」と題するもので、凸レンズを通った画像の光が反転して後方の感光板へ写る単純なものだったようです。

又、薬品も文献を見ながら試行錯誤し、感光材や、現像液などを作ったことが伝えられています。

結果としては何とか写真撮影に成功したものの、実用出来るレベルではなかったようですが、この試行錯誤の苦労が、その後の写真技術の基礎となったものと思われます。

下段の図は、単レンズ、複合レンズが描かれたもので、彦馬は、複合レンズを教えてくれた写真家「ロシエ」から写真撮影の技術を学ぶことが出来たようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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手探りの研究-カメラ作り
 彦馬の写真研究は、まず写真機を作ることから始まりました。彦馬の父、俊之丞は天保14年(1848年)にオランダからもたらされたダゲレオタイプ(銀板写真機)のスケッチを手控え(メモ)残し、嘉永元年(1848)に輸入していました。あるいは彦馬も、それを参考にしたのかもしれません。
 初めて作った自作のカメラは、オランダ製の遠眼鏡からはずしたレンズを使ったものと言われています。これを筒にはめ込んで木製の箱に差し込んで覗くと、蘭書にあるとおりに物体が上下逆さまになって映ります。
 大小の木箱を入れ子にして、内箱に筒にはめ込んだレンズを固定し、この内箱を前後に動かすことによってピントわ合わせる仕組みなど、自分なりの工夫をしながらカメラを作り上げていったのです。
彦馬は自作のカメラに、凸レンズ一枚の「単レンズ」を取り付けていました。やがて、フランス人ロシエから、レンスを数枚組み合わせて写真の隅々まできれいにピントを合わせることができる「複合レンズ」を教わりました。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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手探りの研究-感光剤・現像液作り
写真を撮るためには、カメラだけではなく、映っている光景を科学的に固定するための感光剤が必要です。
彦馬はそれらの材料を、自分の手で、一つ一つ作りだしていきました。
まず、エチルアルコールを焼酎を蒸留して作ろうとしました。しかし、焼酎では不純物がどうしても取り除けませんでした。そこでポンペから、ジンをもらって、やっつと純粋なアルコールを得ることに成功しました。
硫酸を得るためには、硝石と硫黄を焚き、そこから発生するガスに水蒸気を通す、大掛かりな装置を作りました。6昼夜不眠不休の作業を行い、更に精製に1ヶ月かかったといわれています。
アンモニアは、地中に埋めて半分腐らせた牛の骨を、煎じて蒸留することで得られました。
また、青酸カリは、牛の生血を日光にさらして乾かし、分析・生成して作りました。
これらの作業は大変な悪臭を伴い、また、気味が悪いというので、近所からの苦情が相次ぎ、奉行所へ訴えられてポンペのとりなしで、ようやく事なきを得たという逸話も残っています。
彦馬はこうした苦難と試行錯誤を重ね、必要な薬品を製造していきました。そして、安政6年(1859年)には自力での撮影に成功したようです。同年、フランスの写真家ロシエが来日、彦馬は、ヨーロッパ最新の写真術の指導を受けることができました。
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「上野彦馬が活躍していた頃の写真撮影の様子(コロジオン湿板法)」と書かれたジオラマが展示されていました。

カメラの向こうに置かれた大きな箱は、感光材の塗布や、現像を行うための暗室だったのでしょうか。

当時、屋外の撮影は、荷物を運ぶ数名のスタッフが必要だったと思われます。

下の説明文にあるように彦馬の写真研究は、伝習所で共に学ぶ津藩の藩士「堀江鍬次郎」との出会いがあり、意気投合して共同研究を行ったとされます。

又、その関係から二人は、津藩で購入した最新式の湿板写真機を江戸へ持って行き、藩主や、諸侯を撮影することとなり、彦馬は一流の写真家への道を踏み出したようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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彦馬と堀江鍬次郎、江戸へ
 彦馬が伝習所で出会った津藩(現在の三重県)の藩士、堀江鍬次郎は、彦馬の良き共同研究者でした。鍬次郎は、藩主藤堂高猷[とうどうたかゆき]に願って、150両もする最新式の湿板写真機一式を、藩費で購入することを許されました。
万延元年(1860年)、彦馬と鍬次郎は藤堂公の命により江戸に行き、神田和泉橋の中屋敷に滞在しました。1年近くの間、2人は幕府蕃書調所に通いながら、屋敷に出入りする大名や旗本諸侯を撮影しました。その当時(文久元年)22才の彦馬を、鍬次郎が撮影した写真が残っています。
彦馬は文久元年(1861年)9月、藤堂公と共に津へ同行し、藩校有造館の洋学所で蘭語と化学を講義しています。
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写真は、彦馬の著書「舎密局必携」の一部のページです。

写真機や、三脚の挿絵があることから下の説明文にある「舎密局必携」の付録となった日本初の写真技術解説書「撮形術ポトガラヒー」と思われます。

彦馬が津藩の藩校「有造館」での講義のために書き上げた「舎密局必携」は、ポンペから学んだ舎密学を総括し、その後の彦馬の写真技術のバックボーンになったと考えられます。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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有造館時代の「舎密局必携」出版
 文久元年(1861年)、藤堂公と共に津へ向かった22才の彦馬は、藩校有造館洋学所で蘭語と化学を教えることになりました。
 ここで、語学力のないものが洋学を学ぶことの困難さを感じた彦馬は、日本語の科学の教科書「舎密局必携」を著しました。
 全編3巻になる「舎密局必携」は、藤堂高猷のはからいですぐに出版のはこびとなりました。
 これは主に9種の原書を参考・引用した名著で、その中で彦馬は、「化学当量」「元素記号」分子式」「化学式」などの概念を、国内の学者にさきがけて用いており、当時としては非常に画期的なものでした。
 「舎密局必携」は、大変な評判を呼び、全国的に利用されました。明治の中頃まで、関西を中心に科学の教科書として使われていたほどでした。
 付録には「撮形術ポトガラヒー」として、38項にわたって湿板写真に関する技術が詳しく記されています。これは日本初の写真技術解説書といえるでしょう。
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資料館に昔のカメラが展示されていました。

蛇腹が付いていることから「湿板カメラ」の次に発明された「乾板カメラ」の時代のものと思われます。

幕末の1862年、彦馬は、津から長崎に帰り、写真館「上野撮影局」を開設、長崎を訪れた著名人を数多く撮影することになります。

1881年(明治14年)43才の年、新しい写真技術のガラス乾板を日本で初めて輸入し、使い始め、その翌年に新築した写真館も「ビードロの家」と称されて話題を呼び、彦馬の四十代前半は繁栄への基礎固めの時期となったようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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写場「上野撮影局」開設から彦馬全盛時代まで
文久2年末(1862年)、長崎に帰った23才の彦馬は、「上野撮影局」を開設しました。これは横浜の下岡蓮杖と並び、日本最初の営業写真館で す。経営が軌道にのるまでには数年の月日を要しましたが、写真は徐々に人々の間に広まっていきました。
開設当初の撮影料は一枚一人二分。これは、当時の職人の一か月の生活費にあたりました。
 明治15年に、彦馬は家屋とスタジオを新築しました。特にガラス張りのスタジオは評判になり、「ビードロの家」と呼ばれました。フランスの小説家ピエール・ロチが「お菊さん」という小説の中で、この頃の撮影局り繁盛ぶりを描いています。
 彦馬は明治23年にウラジオストック、翌年には香港・上海に弟子を派遣し、上野撮影局の海外支店を開いています。
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■上野彦馬のパネルの説明文です。
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湿板写真時代の終焉
 明治14年(1881年)、彦馬は当時欧米で湿板に代わって主流になっていた乾板を、ベルギーのモンコーエン社から輸入しました。
 それまでの湿板は、ガラス板に塗った感光剤が濡れているうちに撮影・現像しなくてはならなかっつたので、保存や運搬が大変不自由でした。
 乾板は保存がきくので、いつでも手軽に持ち運びすることができ、しかも感度が高いので格段に露光時間が短くなり、非常に便利になりました。
 この乾板写真は「早撮写真」と呼ばれ、当時有名だったのが東京の江崎礼二です。
 一般には明治16年の海軍競漕会を江崎が撮影した「隅田川水雷爆発」が日本初の乾板写真とされてきましたが、実際には、彦馬のほうが2年早く導入していたようです。
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昔のカメラのそばに小さなステージがあり、坂本龍馬の写真パネルがありました。

ステージの案内板に「このコーナーは、初期の上野撮影局の屋外写場を再現したものです~」とあり、湿板時代には屋外のステージで撮影していたようです。

現地では気付きませんでしたが、ステージの左に置かれた黒い台をよく見ると、龍馬の横に写っているものとそっくりです。

幕末に撮影されたこの黒い台は、「レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界」(小沢健志・上野一郎監修、山川出版社発行)に後藤象二郎が左ひじを置き、カメラ目線で写った写真にも見られました。

この黒い台が写る二つの写真は、龍馬が亀山社中を結成した頃のものだったのでしょうか。

この洋風の台を見ると、幕末の開国により、いち早く文明開化波が押し寄せていた長崎の雰囲気が伝わってくるようです。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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幕末の若き志士たち
 慶応年間の上野写真館には勤王佐幕双方の志士たちが訪れ、その若き日の姿を写真の上に残しています。
 彦馬の人物写真は「ナダール風」と言われるように、フランスの肖像画に近いと評されます。
 彦馬の作風は、彼を指導したフランス人写真家ロシエの影響と思われますが、絵師の家に生まれた彦馬自身の絵画的センスも大きな要素と考えられています。
 彦馬の写真は時代ごとに光の使い方が異なっており、スタジオや、撮影技術の進歩が見て取れます。
 また、彦馬は集合写真における人物配置が非常に巧みで、その群像のまとめ方には定評があり、今日の感覚から見ても優れたものがあります。
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彦馬が撮影したとされるロシア「ニコライ2世(人力車上にて)」と記された写真で、皇太子時代の1891年(明治24)に長崎を訪れた時のものと思われます。

「レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界」によると、この写真撮影の前年、彦馬はウラジオストックに初の海外支店を設立、19世紀末の長崎には氷に閉ざされる冬のウラジオストックを離れたロシア艦隊がよく寄港していたとあります。

ロシア艦上での集合写真や、多くのロシア軍人の肖像写真も残されており、皇太子はなじみのある彦馬の写真館に案内されたようです。

この写真を撮影した年、彦馬は上海や、香港にも支店を出し、1893年(明治26)にはシカゴで開催された博覧会に出品した写真が最高賞となるなど彦馬は、40代後半から次第に絶頂期を迎えます。

しかし、1895年(明治28)、日清戦争の開戦により、海外支店は閉鎖、1904年(明治37)には日露戦争の開戦となり、彦馬はその年、亡くなっています。

以前このブログでも掲載しましたが、北海道旅行で知った、同時代の函館の写真家「田本研造」も同様ですが、幕末に屈辱的とも言われる開港でしたが、それにより新しい技術が伝わり、人を育て、新しい文化を産み、繁栄していった歴史に大きな夢を感じます。

■上野彦馬のパネルの説明文です。
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新写場「上野撮影局」全盛時代
 西南戦争が終わると、外国人や著名人を始め、一般庶民の利用客も飛躍的に増えました。
 明治15年、彦馬は家屋を新築し、採光のために天井をガラス張りにした洋風のスタジオをつくりました。このスタジオは「ビードロの家」と呼ばれて評判になり、ますます多くの客が訪れるようになりました。
 明治19年には清の提督丁汝昌を、24年にはロシア皇太子(後のニコライ2世)を撮影しました。
 後日の大津事件の際には、このロシア皇太子の写真の焼き増し注文が殺到しました。
 明治26年には明治天皇の御真影の複写を行うなど、彦馬の名声はますます高まりました。そのかたわらで彦馬は写真術の研究を怠らず、第一回内国勧業博覧会を始めとする様々な博覧会で、
彦馬の作品は次々に賞を獲得していきました。
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長崎旅行-12 長崎市中島川の「眼鏡橋」と石橋群

2013年02月26日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目夕方、島原半島の観光を終え、長崎市のホテルへチェックインした後、中島川の「眼鏡橋」周辺の散策へ出かけました。



「出島」のあった長崎湾の東岸を河口とする中島川の「常盤橋」から上流方向を見た風景です。

すぐ前の石橋が「袋橋」で、中島川に架かる石橋群の最も下流に架かる石橋です。

「袋橋」のアーチの下に飛び石を渡る観光客の姿が見られ、その向こうの橋が「眼鏡橋」です。

写真には写っていませんが、「袋橋」の下流の両岸に中島川の水量を軽減するために造られた地下水路の出口が見えます。

昭和57年、記録的豪雨により「長崎大水害」が発生、中島川に架かる石橋の多くも甚大な被害があり、石橋の改修と、その景観を保持するため、川幅の拡張に代えて暗渠のパイパス水路が考えられたようです。

江戸時代、多くの石橋が造られたのは、狭い川幅に適していたのかも知れません。

後方左の高い山は、長崎市街地の北東にそびえる「烽火山[ほうかざん ]」と思われ、江戸時代初期に異国船侵略の緊急連絡の「烽火[のろし]を上げる史跡が残っているようです。



陶板に描かれた「中島川石橋群」の絵図です。

横長の絵図を左右に分割し、上下に並べています。

上半分の図(左の図)は、中島川の上流、下半分が(右の図)下流の石橋群です。

現存する石橋にはピンクの吹出し、石橋からコンクリート橋に架け替えられたものは、グレーの吹出としています。

江戸時代には中島川に石橋が14橋あったとされ、上流から「第1橋」~「第14橋」と呼ばれ、現在のように個別の名称が付けられたのは明治時代になってからのようです。

上流にある石橋「桃渓橋[ももたにばし]」には江戸時代の番号呼称がなく、中島川支流の橋だったことによるものでしょうか。

絵図の下流に見える「常盤橋[ときわばし](第12橋)」から下流にも「賑橋[にぎわいばし](第13橋)」、「萬橋[よろずばし](第14橋)」の二橋の石橋があったようですが、やはりコンクリート橋に架け替えられています。



「眼鏡橋」に次いで古いと言われる「袋橋」の風景です。

橋の上で記念写真を撮る人も見られますが、車両の通行が制限されておらず、今でも現役の石橋のようです。

丸い擬宝珠の付いた欄干の橋には、江戸時代の情調が漂っています。

■現地の案内板です。
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袋橋
   栄町一古川町 市指定有形文化財(昭和46年10月21日指定)
 中島川の第11橋。この橋は記録がなく、架設年月、架設者とも不詳。中島川の下流の石造アーチ橋では、眼鏡橋につぐ古い石橋との説もあるが、確証はない。
しかし、享保6年(1721)閏7月以降、度々 洪水にも流失を免れており、壁面を整然と積む、長崎型石造アーチ橋の形態を良く残している。この橋は、袋町(現・栄町)に架かるところから、袋町橋とも呼ばれたが、明治15年に袋橋と命名された。
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「袋橋」の近くに「坂本龍馬像」と並び立つ「上野彦馬像」が建っていました。

「上野彦馬」は、江戸末期の写真家で、「坂本龍馬」や、当時、長崎を訪れた著名人の写真を撮影した人です。

近くに生誕の地とされる場所があり、川縁に銅像を建てて紹介しているようです。

「上野彦馬」の写真に関する資料が長崎市東山手町の「古写真資料館」に展示されており、後日掲載予定です。

■誕之地にあった案内板です。
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上野彦馬生誕之地
 上野彦馬は、天保9年(1838)、銀屋町16番(現、長崎市銀屋町)に生まれた。
父・俊之丞は、長崎奉行所の御用時計師で、ダゲレオタイプ・カメラ(銀板写真機)を日本で初めて輸入した。彦馬は16歳から広瀬淡窓の私塾・咸宜園で漢学を学び、その後、長崎に戻り、オランダ海軍医ポンペのもとで舎蜜学[せいみがく](化学)を学んだ。このとき湿板写真術に興味を示し、津藩士堀江鍬次郎とともに、フランス人ロッシェについて、写真術を学んだ。
 文久2年(1862)、彦馬は、中島川河畔に商業写真館・上野撮影局を開設。
高杉晋作ら著名人の肖像や各地の風景を撮影し、貴重な写真を後世に残すとともに、多くの門人を育成し、わが国写真業界の基礎を築いた。
 また、明治7年(1874)金星観測の写真撮影に参加。
さらに、明治10年(1877)には西南の役に従軍し、日本初の従軍写真家として活躍し、明治37年(1904)65歳でこの世を去るまで、写真技術の発展に多大な功績を残した。
   平成18年 長崎さるく博’06記念   長崎南口一夕リークラブ寄贈
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「袋橋」から見た「眼鏡橋」の風景です。

ちょっとおしゃれな白い目地が地味な石橋のイメージを親しみのあるものにしているようです。

中島川の両岸の遊歩道や、飛び石から水辺に映る眼鏡橋の風景を楽しむことが出来ます。

■現地の案内板です。
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眼鏡橋 めがねばし
  栄町-諏訪町  国指定重要文化財(昭和35年2月9日指定)
 中島川の第10橋。わが国最古の石造アーチ橋で、寛永11年(1634)興福寺唐僧黙子[もくす]禅師によって架設された。
 黙子禅師は中国江西省建昌府建昌県の人で、寛永9年(1632)に日本に渡来したが、石橋を架ける技術指導者でもあったようである。しかし、この眼鏡橋は、正保4年(1647)6月の洪水で損害を受け、慶安元年(1648)平戸好夢[こうむ]によって修復がなされた。
川面に映るその姿から、古来より“めがね橋”の名で長崎の人たちに親しまれていたが、明治15年(1882)に正式に眼鏡橋と命名された。
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飛び石から見た「眼鏡橋」の風景です。

穏やかな水面に橋の風景が映り、心が和む水辺の風景です。

川に対し、橋がやや斜めに架かるためか、メガネのシルエットが縦長です。



妻が立つ「眼鏡橋」のたもとの風景です。

橋に二段の階段が見られますが、擬宝珠のある欄干は「袋橋」と似ており、この橋を手本にして数多くの石橋が造られた歴史が実感できるようです。

二段の階段は、一時、取り除かれ、スーロプに改造されたようですが、再び江戸時代の姿を取り戻したようです。



中島川の河畔に「眼鏡橋」造った中国僧「黙子如定」の銅像がありました。

「黙子如定」(1597~1657年)は、長崎市の黄檗宗(禅宗)興福寺二代目住職に就任するため、1632年(寛永9年)に来日し、日本で生涯を終えています。

「黙子如定」が伝えた中国式の石橋技術は、洪水に強い架橋技術として日本各地に広がっており、多くの人々が恩恵を受けたものと思われます。

■銅像の案内板です。
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黙子如定の像
長崎の地に370年余りもの長い歴史を持つ眼鏡橋は『黙子如定(1597-1657)』という中国の江西省の僧が寛永9年に日本に渡来し同11年(1634)に我が国最初のアーチ型石橋として眼鏡橋を完成させた。
川面に映るその姿から古来より『めがね橋』の名で長崎の人たちに親しまれ、明治15年に正式に眼鏡橋と命名された。
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「眼鏡橋」の上流「魚市橋」の下に飛び石があり、たくさんの鯉が泳いでいました。

「眼鏡橋」周辺を散策する人々を和ませる水辺の風景です。



中島川の河畔にの公園に「シーボルトの桜」と案内された桜の若木がありました。

江戸時代末期、帰国したシーボルトが持ち帰った桜がヨーロッパで繁殖し、再び日本へ持ち帰られたようです。

シーボルトは、長崎に「鳴滝塾」を開き、西洋医学の教育を行った他、伊能忠敬が作成した「大日本沿海輿地全図」を持ち帰ろうとして国外追放となった事件でも有名です。

美しい日本の桜がヨーロッパに伝えられたことは、初めて知るうれしい歴史でした。

■現地の案内板です。
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シーボルトの桜
 この桜はシーボルトによって1866年頃ヨーロッパに紹介され、始めて見る桜にヨーロッパ人は魅了され、広まりました。
ヨーロッパでは、日本の有名な浮世絵師葛飾北斎の名前をとって、ホクサイと呼ばれました。

 この桜は八重桜の一種です。
普通は、桜の花には香りがありませんが、この花は芍薬(しゃくやく)のような香りがします。
花は長い期間咲き、薄いピンクで7個から12個の花びらをつけます。
140年後に長崎に帰ってきました。
                      2006年3月
NPOながさき千本桜
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「魚市橋」から見た上流の石橋「東新橋」と、その向こうにコンクリートの「芋原橋[すすきわらばし]」が続く風景です。

「東新橋」の欄干の擬宝珠などは、下流の「袋橋」とよく似ていますが、橋の反り返りがやや大きいようです。

「中島川石橋群」の絵図にあるように「芋原橋」を右手に進むと「黙子如定」が住職を務めた「興福寺」に至ります。



中国僧「黙子如定の像」の対岸に中国で制作された大理石の「水害復興と友好の記念碑」がありました。

昭和57年の「長崎大水害」では長崎市に通じる道路の多くが通行出来なくなり、救援物資などの輸送に大きな障害があったことを思い出します。

中島川の石橋も6橋が流失し、3橋が一部崩壊しており、大きく崩壊した眼鏡橋の画像が全国ニュースで報じられていました。

江戸時代、「眼鏡橋」に始まる石橋の建設の多くが来航した中国人の寄付を集めて造られたようで、「中島川石橋群」の絵図にある寺院を菩提寺とする中国の人々の参拝の便も考慮されていたのかも知れません。

現代の橋は、公共事業で造るのが常識となっていますが、江戸時代の長崎に民間の寄付で多くの石橋が造られた歴史も驚きです。

長崎に伝わる祭りにも中国の人々が伝えたものが多く、長崎は、西洋文化の窓口だったイメージ以上に中国とのつながりが大きかったことを知りました。

■現地の碑文です。
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水害復興と友好の記念碑
 昭和57年7月23日、長崎の街は想像を絶する集中豪雨により、死者、行方不明合わせて262人という大惨禍を受け、美しかった中島川石橋群も6橋が流失し、3橋が半壊しました。
 この碑は、中島川に石橋を架けるなど古くからゆかりの深い中国に依頼して製作した水害復興記念碑です。
 像は、不思議な能力を持った伝説上の中国の少年と元気な日本の少女が力を合わせて、風を呼び雨を呼ぶ巨大な龍を従わせている姿で、治水と日中の友好を象徴しています。
  平成元年2月23日
    長崎市長 本島 等
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長崎旅行-11 雲仙市小浜町の「金濱眼鏡橋」

2013年02月19日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、島原半島南端に近い口之津港を後に島原半島西岸を北上、雲仙市小浜町金浜の「金濱眼鏡橋」に立ち寄りました。

九州各地には多くの古い石橋が造られており、その見物も旅行の楽しみです。



金浜川のせせらぎに架かる「金濱眼鏡橋」です。

「金濱眼鏡橋」は、江戸時代末期の1846年(弘化3)に造られたアーチ型石橋で、アーチの向こうにコンクリート製の橋も見えます。

自動車が走る現代の橋と、流失対策で堅牢性を重視先して歩いて渡る江戸時代の橋が重なる風景です。



橘湾に面した島原半島南西部の雲仙市小浜町金浜周辺の地形図で、「金濱眼鏡橋」は、赤丸印の場所です。

右下隅は、「金濱眼鏡橋」周辺を拡大した地形図で、金浜川南岸の国道251号の脇に専用駐車場があり、「金濱眼鏡橋」は、旧道と思われる海岸沿いの道との中間にあります。

「金濱眼鏡橋」の下流側には金浜川の支流が合流しており、河口の南の小さな入江が金浜漁港です。



「金濱眼鏡橋」の上から国道251号が見える上流側を見た風景です。

「金濱眼鏡橋」の駐車場が国道が通る橋のたもとにあり、その下にある白壁となめこ壁の建物は、公衆トイレのようでした。

川岸に遊歩道が造られ、水辺を歩きながら「金濱眼鏡橋」の風景を楽しむことが出来るようです。



「金濱眼鏡橋」の上から下流の河口方向を見た風景です。

金浜川の両岸の遊歩道は、旧道の橋の下まで続き、約100mのちょっとした川辺の公園になっていました。

金浜川の河口のはるか沖には諫早市付近の山並みが見えます。



国道脇の駐車場に「金濱眼鏡橋」の石碑がありました。

写真を撮って帰りましたが、読み取りに苦労しました。

前後の文で、推測した部分もあり、間違っていたらご容赦ください。

■石碑の碑文です。
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金濱眼鏡橋由来記
 昔時、金濱川はしばしば氾濫し、
洪水のたびに架橋は流失した。ために
人々は苦しみ、その復旧作業に難儀した。
北串山の人、岡右衛門はこの窮状を
見かね、石橋架橋によって人々の難を
救わんと決意し、弘化三年(一八四六年)
遂にこれを完成した。当時の架橋技術の
最高を駆使したと言われる。
爾来およそ百五十年、この石橋は、
よく風雪に堪え、橋畔のアコウの樹とともに
生きて、時代の流れを見守り続けてきた。
しかしながら永い歳月の間に石材は風化し、
欄干や橋底は落ちるなどして、往年の
面影を止めないまでに傷みが激しくなった。
かつて、この石橋に通じる道路は、
「殿様道」とも称されて、藩制時代は
重要な街道でもあった。平成の今日、
生活道路としての意義は薄れたが、
今、往年の金濱眼鏡橋を解体修理して
平成金濱眼鏡橋を復元し、併せて河畔を
整備する。
そのゆえんとするものは何であるか。
それは、一つには、先人の遺徳を偲び
その尊い顕績を称えんがためである。
そして、またそれはこのすぐれた文化財を
永く児孫に伝え、その郷土愛の魂に
培わんとするためである。
  平成五年(一九九三年)三月三十一日
    小浜町教育委員会
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「金濱眼鏡橋」北岸に建つ石碑です。

石碑に刻まれた金色の文字は、橋や、川の名称「金」の文字を意識したものでしょうか。



「金濱眼鏡橋」の北詰の風景です。

アーチ型が高く、北岸の高さが低いためか、6段の階段が必要だったようです。



「金濱眼鏡橋」を歩き、中程から北岸をふり返った風景です。

橋の向うに直進する道がなく、不自然な位置に架る橋です。

石碑によると、橋に通じる道は、「殿様道」とも称され、「藩制時代は重要な街道だった」としており、平成の解体修理の時に橋の場所が変更されたことが考えられます。

北岸の高さが低く、橋に階段を設置したのは、直進の道がなく、長い傾斜の道を造れなかったことによるものと思われ、移設の際の苦肉の策が階段だった可能性もあります。



「金濱眼鏡橋」の中程から橋の南詰めを見下ろした風景です。

こちらは、石のアーチの先には階段がなく、長い坂道が続いています。

右手には「金濱眼鏡橋」150年の歴史を共にしたと石碑に書かれているアコウの樹がそびえ、坂道の右側に金浜川の小さな支流が流れています。

アコウは、「締め殺しの木」の別名を持つクワ科イチジク属の植物で、大木に寄生して長い気根を伸ばし、最後には大木を覆って枯らせてしまう怖い木でもあります。

もしかして「金濱眼鏡橋」と歴史を共にしていたのはアコウが寄生した大木だったのかも知れません。

長崎旅行-10 三池炭鉱の輸出港で栄えた口之津の歴史

2013年02月15日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、前回に続き、島原半島南端に近い南島原市口之津の「海の資料館」「歴史民俗資料館」「与論館」の見学です。

前回は、口之津港へ南蛮船が来航して繁栄した時代の歴史でしたが、今回は、「三池炭鉱」の輸出港として繁栄を誇った明治時代に歴史です。



展示室に入ると、たくさんの人々が汽船に群がる不思議な絵の前に石炭を積んだ小さな船が展示されていました。

船は、大牟田港から石炭を運んだ団平船[だんべいせん]と呼ばれるもので、汽船に積み替える作業風景の再現展示でした。

団平船の上に置かれた藁の容器に入れられた石炭を、汽船に架けられた梯子に多くの作業婦が立ち、リレーで運び上げているようです。

天然の良港とは言え、接岸する埠頭がなく、クレーンなどもなかった明治時代の作業風景に驚きます。

作業では「ヤンチョイヤンチョイ」との掛声が掛けられたとあり、大きなメガホンを持つ人が手渡しのタイミングを掛声で合図して作業ペースの管理をしていたのかも知れません。

下段右の絵は、上段パネルの作業風景の絵を拡大したもので、下段左は、作業風景の展示写真の一部分です。

又、説明文に石炭5トン=四斗樽100杯、四斗樽=容器8杯とあり、容器の石炭は平均6.25Kgで風袋を合わせて8Kg程度の荷物リレーだったようです。

長時間労働で、休みも少なく、猛暑や、真冬の寒さ、大雨などに関わらず海上に立ち続ける作業は、現代では考えられない厳しさだったと思われます。

■パネルの説明文です。
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 石炭[ごへだ]積み
三池から輸送された石炭はこのようにして団平船[だんべいせん]から手運びして本船(内外汽船)に積込みこの時の掛声をヤンチョイ、ヤンチョイと言ったのでこの容器をヤンチョイカガリというようになりました。
こうして運んだ石炭は本船の上で四斗樽に移し、容器[かがり]八杯で樽一杯となり樽一〇〇杯が五屯という計算でした。
つまり四斗樽は石炭の量をはかる枡[ます]の用をなしたのです。

 労務契約は次のとおりでした
一、本船積込み       一屯につき八銭四厘
一、舶倉内の石炭かきならし 一屯一銭
一、石炭陸揚[あかあげ]   一屯五銭
一、陸より団平船積出し   一屯四銭八厘
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上段の写真は、口之津港の明治20年代の(南から見た)全景写真で、赤い破線で囲んだ船が団平船のような小舟に囲まれており、中段に写真を拡大してみました。

この様子から見ると、口之津港には汽船が接岸する埠頭がなく、湾内に停泊して積込みを行っていたものと思われます。

下段は、明治30年代の(北から見た)全景写真で、埋め立てられたと思われる海岸に倉庫が並ぶ風景が見られます。

展示された年表には三井は、明治28年に貯炭場として口之津の大屋、中橋と呼ばれる地域21,000坪を買収したとあり、海岸に建ち並ぶ倉庫(赤い破線で囲んだ部分)には大量の石炭が貯蔵されていたものと思われます

口之津は、輸出船への積替えを行う拠点から、入出庫作業、保管を伴う本格的な物流拠点となって発展したようです。

訪れた口之津の町は、これらの写真の時代から早や110~120年が経過、これらの歴史を知らなかった私には口之津港の往時の面影はほとんど気が付きませんでした。



上段は、島原半島周辺の地形図で、下段は口之津港付近を拡大したものです。

口之津から輸出された三池炭鉱の石炭は、三池港が開港した1909年(明治42)までは、北に隣接した大牟田港から積出されていたようです。

三池山から大牟田川河口近くまで鉄道が敷設され、口之津までの輸送経路が見えてきます。

下段の口之津港周辺の地形図には前述の倉庫群があったと思われる場所を印しています。



たくさんの「団平船」を汽船が牽引する珍しい写真が展示されていました。

冒頭の写真で、汽船積み込む石炭を積んだ小さな船「団平船」が口之津港へ航行する風景でした。

冒頭の写真に石炭を積む「団平船」が展示されていましたが、この写真の「団平船」は、1本のマストがあり、船も少し大きいように見えます。

■パネルの説明文です。
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団平船
大牟田港から口之津港への運炭船(団平船)
団平船を数珠つなぎにして
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「口之津港」の貿易実績統計が展示されていました。

下記に掲載した説明文だけのパネル「三井との関係について」にありますが、口之津港は、1876年(明治9)に上海へ石炭輸出を開始、1906年(明治39)に最高額を記録、1909年(明治42)三池港の開港で入港船舶が激減したようです。

展示された統計からは口之津港からの輸出がいつまで続いたのか分かりませんが、昭和5年の貿易額は見る影もなくなっています。

■統計パネルに添えられた説明文です。
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三井との関係について
三井は明治9年から三池石炭を口之津軽由で上海へ輸出するようになった.出炭量、輸出量の増加に伴い口之津に税関を設け、
明治29(1896)年 口之津は輸出入貿易港に
明治39(1906)年 口之津から石炭輸出額最高に
明治42(1909)年 三池築港で口之津入港船舶は激減
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上段の写真は、「海の資料館」「歴史民俗資料館」に並ぶ「与論館」の建物の中に展示されていた「与論長屋」で、下段の写真にある当時の家を縮小し、移設したものです。

口之津港が輸出港として繁栄した時代、薩南諸島から多くの人々が移住し、石炭の船積み作業などで働いていたようで、「与論館」は、与論島の区長(村長)に率いられた約1200名の集団移住者があった歴史から姉妹町協定が結ばれ、展示されているようでした。

この写真からは当時の生活はうかがうことができませんが、「三池炭鉱 月の記憶―そして与論を出た人びと」(井上佳子著、出版石風社)によると、土間にゴザを敷き、親子がゴロ寝していたとあり、移住した人々は長屋での極貧生活を耐えていたようです。

■与論館の入口にあった案内板です。
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与論館
与論島[よろんじま]をはじめ鹿児島の島々から明治32年に集団移住し、苦労して口之津の繁栄の一端を支えてくれた。
この人たちを偲ぶ唯一の証として「与論長屋」を縮小再現した。
また、与論町と口之津町の絆を示す資料を展示している。
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■「与論長屋」の案内板です。
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与論長屋
 口之津が石炭輸出港として栄えた明治三十年(一八九七年)の頃、不足した労務者を南西諸島から募集した。特に与論島から、時の上野応介村長を始めとする千二百二十六名の応募があり、集団でこの地に移住したのて、ここに長屋を建設して収容した。これを俗に「与諭長屋」といって、この地区と焚場(現在の栄町)に数棟ずつ建設されていた。
 三池築港完成後、労務者が余り、与論の人達は島に帰ったり、三池に移住したりしたので、家屋は逐次取り除かれた。数棟のうち只一棟が八十余年の歳月に耐え、昔の名残りをとどめていたがこれも倒壊寸前となったので、昭和六十一年一月十日解体した。
 この家屋はその一部で、口之津の繁栄を支えてくれた与論の人達の労苦をしのび、併せてこの絆を長く伝えるため、所有者三原源二朗氏の好意により保存するものである。
 昭和六十一年三月
   口之津町
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「与論長屋」の建物の中にに展示されていた作業衣と、作業具です。

移住した当初、寒い冬でも芭蕉布で作った着物一枚で黙々と石炭を運んだ話も伝わっており、温かい与論島から来た人々には寒く、つらい土地だったと思われます。

書籍「三池炭鉱 月の記憶―そして与論を出た人びと」によると、移住したきっかけは、明治31年8月の台風による甚大な被害と、干ばつによる主食のさつま芋の不作、蘇鉄の澱粉採取・解毒に必要な水の不足により島は大飢饉に陥り、人手不足の三井三池炭鉱関係の募集で、集団移住したようです。

島に帰ることが出来ない人々は、口之津の生活環境が厳しくても耐えるしかなく、仕事の無い日には皆で集まり、三線・太鼓で、島の民謡を歌い、慰め合っていたようです。



海の資料館に展示されていた作業道具です。

ヒモの付いた竹カゴは、「陸揚[おかあげ]ばら」、鍬のような物は、「石炭荷揚用具」と案内されています。

様々な機械や、便利な道具が整備された現代の作業環境も、こんな簡素な状況から少しずつ発達したことを改めて教えられます。



これも海の資料館に展示されていた南海日日新聞(奄美市)の切り抜きです。(上の手書きの日付けが18.11.15とあり、2018年でしょうか)

記事によると、口之津港へ集団移住したのは、与論島だけではなく、沖永良部島からもあったようです。

明治31年代の口之津会員寄宿所作成の「海員申込人名禄」「海員人名簿」が口之津歴史資料館館長により見つけられ、与論島以外に沖永良部島から188人の集団移住も確認された他、喜界島24人、奄美大島14人、徳之島4人の移住も確認されたとしています。

船内で働く人が多かった沖永良部島の人々は、三池港の完成後には仕事が激減して帰島したり、各地へ分散したようです。

一方、船積み作業に従事した与論島の人々の多くは新設の三池港に移行した作業のため、大牟田へ移り、集団移住の歴史もよく伝えられていたようです。

台風被害や、大飢饉が薩南諸島一帯に広がっていたことがうかがわれます。



「口之津歴史民俗資料館」の二階に「からゆきさん」の展示コーナーがあり、様々な資料が展示や、山崎朋子さんの小説「サンダカン八番娼婦」のビデオ放映(約10分間)も見ることができました。

この展示案内を見た妻が「からゆきさんの港はここだったのか!」と驚き、昔読んだ「サンダカン八番娼婦」の記憶が蘇ったようです。

三池炭鉱の輸出港口之津から密かに乗船し、悲しい門出となった娘たちの展示資料に心を痛めながら見学しました。

■展示コーナーの案内文です。
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からゆきさん
明治から大正にかけて島原、天草地方の貧しい農家や漁村の娘たちが口之津港から石炭船の船底に隠されて、中国や東南アジア各地に売られていった。
その娘たちを「からゆきさん」と呼び、貧困の悲劇として語り継がれているが、「島原の子守唄」はこれをテーマにしたもの。
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「からゆきさん」の展示コーナーにからゆきさんだった女性の写真や、小説「からゆきさん物語」などが展示されていました。

「からゆきさん物語」の説明文に「まぼろしの邪馬台国」の著者宮崎康平さん(1980年逝去)の遺稿を2008年に出版したものとあり、映画「まぼろしの邪馬台国」で、竹中直人さん演じる盲目の宮崎さんの研究を吉永小百合さん演じる妻和子さんの物語が浮かんできました。

1917年(大正6)、島原市に生まれ、郷土の歴史家宮崎さんが「からゆきさん」の歴史に興味を持ち、書き残した未完の作品だそうです。

実在した「からゆきさん」とされる数名の女性の写真も展示され、過酷な境遇を耐えて生きていた歴史を生々しく実感させられるようでした。

■展示コーナーの案内文です。
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下の写真のからゆきさんは明治三十六年頃、十六歳の時、口之津港を出ていきました。
彼女の苦難の生涯を小説化したのが「島原の子守唄」で知られる作家・宮崎康平氏の遺稿「ピナンの仏陀」です。

<書籍販売の案内>
「ピナンの仏陀」九州文学1~5号 各800円、これを一冊にまとめたのが「からゆきさん物語」2600円
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「明治29年頃の口之津全景」のタイトルで「海の資料館」展示されていた写真です。

口之津港の入口付近の北岸から右手に入り込んだ湾の奥を見た風景のようです。

この写真の左端に写る汽船は、「島原の子守唄」の歌詞の一節にある「青煙突のバッタンフール」と呼ばれた船で、「からゆきさん」が密かに積まれて行ったとされる英国船だそうです。

石炭の輸送には、日本船の他、英国船、ドイツ船も入港していたことが説明されており、外国船「青煙突のバッタンフール」は人々の印象に強く残っていたものと思われます。

よく見ると「島原の子守唄」の作詩は、作家「宮崎康平(耿平)」によるもので、驚くことに「島原の子守唄」の歌詞も「からゆきさん」をテーマとしていたようです。

南蛮船来航の地として訪れた口之津港で、心に残る歴史を知りました。

下記に「バッタンフール」の説明と、「島原の子守唄の歌詞」(二番の歌詞に)も添えています。

■展示写真の説明文です。
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明治29年頃の口之津全景
 (三池炭の輸出港)
左から順に青煙突のバッタンフール、口之津灯台、検疫所、税関、着工直後の貯炭場、そして無数の団平船(艀船)が描かれている。
口之津が栄華を極めた時代を表す象徴的な絵である。
     提供:口之津史談会
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■「バッタンフール」の説明文です。
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バッタンフール船
イギリス船バッタンフールは口之津に最も多く入港した石炭船で「島原の子守歌」にも青煙突のバッタンフールとして登場します。

バッタンフール船:バターフィールドカンパニーの船の略称
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■CD「コロンビア・アワー 歌声喫茶の頃 山のロザリア」添付の歌詞です。
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島原の子守唄
 島倉千代子、コロムビア・オーケストラ
 作詩.宮崎耿平/採譜・宮崎耿平/編曲 言関裕而

おどみゃ 島原の
おどみゃ 島原の
ナシの木 そだちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気ナシばよ ショウカイナ
はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼[おに]の池[いけ]ん久助[きゅうすけ]どんの 連[つ]れん来らるばい

姉しゃんな 何処[どけ]行たろかい
姉しゃんな 何処行たろかい
青煙突の バッタンフール★
唐は何処ん在所[ぬけ] 唐は何処ん在所
海の涯ばよ ショウカイナ
泣くもんな がねかむ オロロンバイ
あめ型買うて 引張らしょ

彼所[あすこ]ん人[ふと]は 二個[ふたつ]も
彼所ん人は 二個も
純金[きんの指輪[ゆぷがね]はめとらす
金な何処ん金 金な何処ん金
唐金[からきん]けなばい ショウカイナ
オロロン オロロン オロロンバイ
オロロン オロロン オロロンバイ
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長崎旅行-9 南蛮船来航の地「口之津港」

2013年02月04日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、南島原市の「原城跡」を見学した後、島原半島南端に近い「口之津港」へ向かいました。

戦国時代末期、島原半島一帯を支配する大名「有馬義貞」は、実弟だった隣国の大名「大村純忠」を通じて南蛮船の来航を求め、キリスト教の布教を許したことから「口之津港」は歴史の舞台に登場することになりました。



口之津開田公園に隣接して「南蛮船来航の地」と刻まれた記念碑と、案内板が建てられていました。

何故か、この一郭は、四方を堀で囲まれ、小さな石橋を渡って入って行きます。

口之津港の海岸一帯は、埋め立てられたとされ、四方の堀は、海が埋立てられた過程を示すものかも知れません。

■「南蛮船来航の地」の案内板です。
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南蛮船来航の地
永禄五年(一五六ニ)有馬義直(義貞)口之津港を貿易港として開港
永禄十年(一五六七)司令官トウリスタン・ヴァスダウエイガの南蛮定期船の外二隻の南蛮船が入港
天正四年(一五七六)司令官シマンガルシーアのポルトガル船(ジャンク)が人港
天正七年(一五七九)ポルトガル船入港 巡察師ヴァリニァーノが口之津に着く
             全国宣教師会議を口之津で開催した。
天正八年(一五八〇)南蛮定期船(ジャンク)入港天正十年(一五八ニ)南蛮船入港(これが最後の入港)
             フロイス、口之津に居住し京都から届いた本能寺の変をこの地からヨーロッパに発信した。
こうして開港以来二十年間南蛮貿易商業地として栄えた。この間キリシタン布教の根拠地とし、また西洋文化の窓口としても栄えたのである。
  昭和十六年ー月十七日長崎県史跡指定
    口之津町教育委員会
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上段は、島原半島周辺の地形図で、下段は口之津港付近を拡大したものです。

天草諸島の北端の港「鬼池港」は、島原半島南端の港「口之津港」とフェリーで結ばれています。

熊本県の三池港は、大牟田市の東にあった三池炭鉱の積出港で、大型船が入港できなかった約30年間(1879~1909年)は、「口之津港」を上海への輸出港としていたようです。

下段は、口之津港周辺の地形図で、「開田[ひらきだ]公園」から「口之津歴史民俗資料館」の順で見て廻りました。

その途中に大きな観音像が立つ「玉峰寺」がありますが、キリシタン時代に「口ノ津天主堂」があった場所と考えられているようです。

口之津の南にある「烽火山[のろしやま]」は、googleの地図で見つけたものですが、古代の烽火[のろし]台のようにも思われます。

「肥前風土記」の高来郡(諫早市付近から南の島原半島)には「駅は四所、烽は五所」とあり、この辺りにも交通網と並行し、烽火[のろし]による軍事通信網が整備されていたようです。

天智天皇の時代、百済再興をめざす「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れ、西日本各地に山城や、烽火台が一斉に整備された時期のものかも知れません。



口之津開田公園の風景です。

上段は、北の端から見た風景で、下段は、ゲートの様な建物をくぐり、南に進んだ風景です。

中世ヨーロッパをイメージで整備されたとするシンメトリーの公園で幾何学模様の庭園は、自然の風景が取り入れられて安らぎを感じる日本庭園とは異質の雰囲気です。

かつて口之津で花開いた南蛮文化と、この公園のイメージは余りつながりを感じられませんでした。



白いペンキで塗られた「口之津海の資料館」を正面駐車場から見た風景です。

後方の淡いピンク色に塗られた建物は、明治32年開設の「旧長崎税関口之津支署庁舎」を再利用した「口之津歴史民俗資料館」で、右端に前方に少し見えるのが「与論館」と、三館をまとめて見学ができます。

「口之津海の資料館」には口之津が繁栄したキリシタン時代と、三池炭鉱の貿易港として繁栄した明治時代展示があり見学させて頂きました。



「口之津海の資料館」の横から渡ってきた「なんばん大橋」方向を見た風景です。

車1台が通る狭い橋で、対向車を心配して渡りましたが、人家も少なく交通量は余りないようです。

口之津港周辺の地形図でご覧頂けますが、「なんばん大橋」は、小さな入江に架けられたアーチ橋で、住宅が並ぶ狭い海岸沿いの道路のバイパスとして造られたのかも知れません。



「なんばん大橋」のたもと、「口之津海の資料館」の前に大きな南蛮船の絵が掛かっていました。

はるばる来航した南蛮船が波を蹴立てて航行し、幟をたなびかせた多くの小舟は、喜び勇んで並走する歓迎の風景でしょうか。

口之津港が南蛮貿易で繁栄した時代を彷彿とさせます。



「口之津海の資料館」に南蛮船が来航していた頃の美しい口之津港の風景画が展示されていました。

海岸を見下ろす教会、沖合に大きな南蛮船が見え、右手向こうに停泊する二艘がジャンク船としたら初来航の風景かも知れません。

1562年(永禄5)有馬義貞は、口之津港を開港したものの、初めての南蛮船来航は、5年後の1567年(永禄10)でした。

実弟の隣国の大名「大村純忠」が1561年(永禄4)に横瀬浦(大村湾の北)を開港し、1563年(永禄6)に領内の反乱と、豊後商人による焼打ちに遭い、南蛮貿易は、一時頓挫したようです。

横瀬浦事件や、領内のキリシタンの布教を懸念する義貞の父晴純(隠居中)は、キリシタンを禁止したものの1566年(永禄9)に亡くなり、解禁されたようで、口之津港への南蛮船の来航には様々な曲折があったようです。

■展示パネルの説明文です。
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南蛮船来航について
南蛮船(ポルトガル船)が最初に口之津に入港するのは1567年である。
1艘のナウ型と2艘のジャンク船だった。その後、1582年まで5回入港した。
来航の目的は、交易とキリスト教の布教であり、西洋文化の窓口となった。
この地は、有馬義貞が開港して以来、有馬侯の外港であった。
名だたる宣教師にアルメイダ、トルレス、フロイス、ヴァリニャーノらがいる。
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「口之津海の資料館」に展示されていた南蛮船の模型です。

口之津港の南蛮貿易の開港1562年からちょうど450年、記念イベントの「世界帆船模型展覧会」が近くの公民館で開催されており、パンフレットを頂きました。(時間がなく行けませんでした)

船の後部の甲板が傾斜して船尾が三階建てのように高くなっています。

昔、仙台旅行で支倉常長の乗った「サン・ファン・バウティスタ号」を再建した船を見学した時、、高い船尾には支倉常長や、船長の部屋があったのを思い出しました。

下の展示パネルによると、「南蛮船」の他に、「紅毛船」の名称で、オランダ・イギリスの船が区別されていたとされます。

確かに、南欧に多い黒髪と区別して、北欧側の「紅毛」の表現は分るような気がします。

江戸時代の長崎で続いたオランダの貿易にも「南蛮」のイメージを持っていた私には目からウロコでした。

■展示パネルの説明文です。
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南蛮船の来航と口之津
(1)南蛮船とは
ポルトガル船 南蛮船
スペイン船        黒船
オランダ船  紅毛船
イギリス船

(2)口之津入港
1.永禄10(1567)年 3艘
2.天正 4(1576)年 1艘
3.天正 7(1579)年 1艘 ヴァリニャーノ
4.天正 8(1580)年 1艘
5.天正10(1582)年 1艘

(3)日本来航と艘数
1.平戸  1550年~ 18艘
2.横瀬浦 1562年~ 5艘
3.福田  1565年~ 6艘
4.口之津 1567年~ 7艘
5.長崎  1571年~ 18艘
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「南蛮船の航路」と書かれた地図が展示されていました。

当初、ポルトガル商人は、マラッカを拠点としていましたが、マカオへ進出し、中国・日本との仲介貿易も拡大させたようです。

遠いヨーロッパからの商品を交易すると思っていましたが、日本が輸入する主体は中国の生糸だったようで、大量の銀が購入に充てられたようです。

世界遺産となった当時の石見銀山の権益は、尼子氏から毛利氏に移り、その後豊臣氏との共同管理に変遷したようですが南蛮貿易に利用されていたのかも知れません。

■展示パネルの説明文です。
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(4)日本への航路
   りスボン(ポルトガル)
    ↓
   ゴア(インド)
    ↓
   マラッカ(マレーシア)
    ↓
   マカオ(中国)
    ↓
   日本

(5)貿易品
○輸入品
  生糸,絹織物,砂糖,水牛角,
  ビードロ,ブドウ酒,羅紗 等
○輸出品
  銀,硫黄,傘,甲冑,塗物,
  小麦,小麦粉,米 等
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1563年(永禄6)、この地に布教の第一歩を印した修道士「ルイス・アルメイダ」(1525年頃~1583年)の銅像の写真で、銅像は島原市の白土湖の東岸に建つ島原協会にあるものと思われます。

「ルイス・アルメイダ」は、中国・日本の仲介貿易を行う商人でしたが、フランシスコザビエルから日本での布教を託されたトーレス神父との出会で、布教活動に加わったようです。

アルメイダは、有馬義貞の承諾を得て口之津に教会を建て、翌1564年(永禄7)にはトーレス神父が移って来て、この地がイエズス会の日本の本部となったようです。

貿易で財を成し、医師でもあったアルメイダは、私財を投じて日本で初めての西洋医学の病院や、孤児院を建てた人でもあり多くの人々を救った献身的な活動がこの像からもうかがうことができます。

27歳頃、商人として初来日し、58歳で天草で没したアルメイダの偉業には深く敬服するものです。

■展示パネルの説明文です。
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ルイス・アルメイダ
ポルトガルのリスボン生まれ。
口之津には1563年にやってきて、キリスト教布教に努め、口之津に教会・病院・初等学校を建設した。
外科医であり、九州を中心に30年間の布教活動後、天草河内浦で没した。
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イエズス会東インド管区の巡察使「アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ」の肖像画です。

1579年(天正7)の初来日では、マカオから定期船で口之津へ到着、約3年間滞在し、キリスト教の布教に大きな足跡を残した人です。

ヴァリニャーノは、日本に滞在する宣教師を招集して「口之津会議」を開催、日本人聖職者の養成を決定し、島原半島にも「セミナリヨ」(小神学校)、「コレジヨ」(大神学校)が設立されることになります。
(この時代は、白人以外の多くの民族が蔑視され、聖職者に登用されなかった中での重要な決定だったようですが、日本側もポルトガル人などを「南蛮人」と呼ぶことにも問題があるようですね)

又、初来日で滞在した3年間には有馬晴信、大友宗麟などの大名の他、1581年(天正9)には織田信長に謁見して歓待を受けたとされています。

有名な「天正遣欧少年使節」もヴァリニャーノによる発案、推進とされ、1590年(天正18年)には帰国する少年使節団を伴い、インド副王使節として再来日、キリスト教を禁止した豊臣秀吉に政治的立場で謁見するなど、イエズス会の戦略的な布教政策が彼によって押し進められたことが分ります。

「口之津海の資料館」の入口付近にあったコンパクトな展示でしたが、撮影させて頂いた写真を手掛かりにキリシタン時代の口之津を知ることができました。

■展示説明文
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アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ
イタリア生まれで、大学で法学を修めた。
1579年,日本で初めて口之津に定航船で入港し、印刷機、パイプオルガン3台などをもたらした。
日本教会史上、最も重要かつ影書力の大きかった人で、口之津で全国宣教師会議を開き、今後の布教方針や神学校内規を定め、4人の少年使節をローマに送った。日本には3度来日し、1608年,マカオで没した。
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長崎旅行-8 「原城跡」島原の乱の最後の舞台

2013年01月26日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行2日目、長崎県島原市のホテルを出発し、「島原まゆやまロード」から雄大な普賢岳の風景を見た後、南島原市の「原城跡」へ向いました。

「原城跡」は、天草地方と、島原地方の民衆が蜂起した「島原の乱」の最後の舞台となった城で、今回の長崎旅行の目的の一つとなったスポットです。



島原半島の東岸、国道251号を南下して行くと入江の向こうに「原城跡」の高台が見えてきました。

海に突き出た先端近くに原城温泉の大きな建物があり、その付近から高台に向かう細い道を走ると「原城大手門跡」がありましたが、草の生茂った場所で、何も見つけることができませんでした。



「原城文化センター」に展示されていた「一揆勢の動き」と題する島原・天草周辺の地図で、右上に原城周辺地図を加えています。

原城周辺地図では城郭のあった辺りを黄色に塗っており、「島原の乱」では国道251号の西側には幕府軍12万の大部隊が陣を張っていました。

■地図にある「一揆の動き」(10月~12月)の状況が南島原市発行の小冊子「南島原歴史遺産」にありました。
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3カ月の籠城農民と12万余の幕府軍
1637(寛永14)年(10月)、年貢を納めきれない口之津の庄屋の妊婦を水責めにして殺したこと、代官が聖画を破いたことなどに、キリシタンたちが腹を立て、代官を襲った。
領民たちは次々とキリシタンであると表明し、わずか15、16歳の少年の天草四郎を総大将に、島原半島の村々で蜂起し、松倉氏の居城森岳城(島原城)を攻めた。
(翌11月)、天草でも同じように富岡城を攻囲した。1638年1月(寛永14年12月)城を落とせなった民衆約3万7千人は、すでに廃城となっていた原城に立て籠もった。
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■資料を総合して島原の乱の原因や、背景をまとめてみました。
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1.藩主松倉氏の苛政
2.過酷を極めるキリシタン弾圧
3.三年も続く飢饉の原因をキリシタンを棄教したこととし、立ち返れ(再入信)ば救われるとの風評が広がる。
4.終末予言(最後の審判?)が流布され、キリシタンに改宗しなければ地獄に落ちると言われていた。
5.26年前に追放された伴天連が書き残した予言に、26年後に幼い善人(天の使い?)が現れるとし、利発で、様々な奇蹟を行う天草四朗が比定され、布教グループが組織された。
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本丸のそばの駐車場横の一段高くなった場所に「ホネカミ地蔵」が立ち、その左手に本丸正門があったようです。

地元願心寺の注誉上人が一揆側、幕府側の区別なく骨を拾い集めて慰霊した地蔵とされ、1637(寛永14)年の島原の乱から約130年後の建立だったようです。

原城跡には約3万人にのぼる島原の乱の死者が埋められたようで、当時も農地利用などで掘り出される人骨を見かねて慰霊したのかも知れません。

命を懸けて宗教を守ろうとしたキリシタンの人々を想うと、異教の地蔵菩薩に慰霊されている様子に戸惑いを感じますが、厳しいキリシタン禁制の江戸時代に注誉上人が行うことが出来た最大限の慰霊だったと考えられます。

■現地の案内板より
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ホネカミ地蔵
寛永十五年(一六三八)二月二八日、島原の乱は終わりを告げた。
ホネカミ地蔵は、明和三年(一七六六)七月十五日有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で葬れた人々の骨を、敵、味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。
八波則吉先生は、「骨かみ地蔵に花あげろ三万人も死んだげな小さな子供も居たろうか骨かみ地蔵に花あげろ」とうたっています。
「ホネカミ」とは、「骨をかみしめる」の意味で、その事から「自分自身のものにする」更に「人々を済度する」(助ける、救う)と、理解すべきだと言われる。
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上段の航空写真による原城本丸の案内図は、駐車場にあったもので、下段の地形図は原城全体の案内図となっています。

見学は、駐車場から案内図(6)池尻口門跡へ向かい、(5)(4)(3)の順で歩きました。

案内図では、有明海を上に描かれていますが、正しい方角は記事の二番目に掲載した原城周辺地図と対比してご覧下さい。

■現地の案内板より
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原城は、戦国時代の有馬氏の重要な城であり、1637(寛永14)年に勃発した島原・天草一揆の舞台となった城である。城は、海岸に突き出した丘に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、天草丸、鳩山出丸などから構成されていた。周囲は約4km、東は有明海、西と北は一部をのぞいて低湿地に囲まれた天然の要害であった。
本丸は石垣で囲まれ出入口は桝形となり、織田信長や豊臣秀吉の時代に完成された石積み技術が用いられ、近世城郭の特徴をもった。その特徴は、高い石垣、建物に瓦を使用、建物を礎石上に備えていた点である。一方、二の丸、三の丸は自然の地形を活かした土づくりであった。
原城の工事は、1599(慶長4)年にはじまり、1604(慶長9)年に完成したとされる。イエズス会宣教師の報告書は、文禄・慶長の役後に有馬晴信が居住している日野江城よりもー層適地にして、堅固で防御できるような新しい城を築城中であるとし、城内には晴信の屋敷のほか、家臣の屋敷、弾薬や食糧を蓄えた三層の櫓があったと記した。
1614(慶長19)年に晴信の子、直純は日向国臼杵郡(宮崎県延岡市)に転封となり、原城は、翌年に発令された一国一城令によって廃城となった。
1992(平成4)年から実施している発掘調査によって、本丸地区から多くの遺構・遺物が出土した。特に、十字架、メダイ、ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物は、島原・天草一揆にまつわる資料である。また、一揆後、幕府軍により壊され埋められた出入口や櫓台石垣、本丸の正面玄関に相当する出入口などが検出され、原城築城時の遺構や島原・天草一揆に対した幕府の対応を示す資料を発見した。
原城跡は1938(昭和13)年5月30日、国指定史跡となった。
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駐車場から(6)池尻口門跡へ向かう途中の風景です。

突き当りの石垣に沿って左に進むと池尻口門跡ですが、右手前方に石垣の角が見られます。

左上に見える十字架の塔は、池尻口門跡を入ると前方にそびえているものです。



上段の写真は、東端の池尻口門跡から本丸へ入り、振り返った風景です。

右手の池尻口門跡は、約6m、5段の石段が発掘され、遺跡保護のためか、手すりの付いた木道が整備されています。

正面の小さな石碑は、「佐分利九之丞の碑」とされ、原城への最期の総攻撃に幕府軍に志願し、先陣を切って勇敢に戦死した因幡藩の武士の墓でした。

下段は、案内板にあった「原城絵図」で、江戸初期までの領主有馬氏の資料「藤原有馬世譜」にあったようです。

原城は、有馬氏が居城だった「日の江城」の支城と思っていましたが、駐車場の案内板では新たな居城として築城した本格的な城郭だったようです。

城の中央の四角の中に「本丸」とある場所は、案内板にある「弾薬や食糧を蓄えた三層の櫓」だったのでしょうか。

■現地の案内板より
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池尻口門跡
この虎口(出入口)は、島原の乱後幕府の現地処理による徹底的な破壊により、石垣の築石やグリ石などで埋め尽くされ、さらに土を被せて隠されていました。
発掘調査で検出し、開口部は東西に開き約6m、奥行は南北に約12mで5段の階段を有する虎口であることが分かりました。
階段の平場部分に門柱の基石があり、建築物としての門があったことがうかがえます。
この虎口は、本丸の裏門にあたり「池尻口」と明記してある絵図もあります。
  南有馬町教育委員会
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■「佐分利九之丞の碑」の案内板です。
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佐分利九之丞の碑
佐分利九之丞は、因幡藩(鳥取県)・池田侯の家臣で、島原の乱の時、慰問使として差遣された人であります。
 寛永15年(1638)2月27日、幕府軍の総攻撃にあたり、九之丞は細川軍の先陣を承って進撃したが、本丸において遂に斃れました。彼は刀を採り、傍らにあった自然石に己の姓名と年月を彫り込んだものと伝えられその自然石がそのまま彼の墓碑となっています。
 佐分利家は、彼の勇戦奮闘の功績により一千石の加増がありました。
 「墓碑」と並んで建っている「副碑」は、九之丞の子孫である「軍平」という人が、祖先の霊を供養するため、口之津町玉峰寺の僧を招き建てられたものであるといわれています。
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右手に池尻口門跡を望む本丸内の風景です。

中央に建つ白い像は、地元南島原市出身の彫刻家北村西望作「信念にもゆる天草四郎」です。

左端には大きな字で「原城跡」と刻まれた石碑があり、この下に碑文を書いています。

■「原城跡」の石碑の碑文です。
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 徳川幕府のキリスト教徒弾圧。
 同時に、松倉重政、勝家父子、二代にわたる悪政によって、その日の生活を脅かされた有馬地方の信徒は、天草四朗時貞を盟主として、幕府軍との一戦を決意。
 天然の要害、原城は、たちまちにして、修羅の巷と化した。
 時は、寛永十四年十二月(一六三七年)。
 幕府の征討将軍板倉内膳重昌は、諸藩の軍勢を指揮して、総攻撃を加えること実に三回。
 しかし、信仰に固く結束した信徒軍の反撃に惨敗、繁昌、自らも戦死した。
 思わぬ苦戦にあせった幕府は老中松平伊豆守信綱を急派。
 陸海両面より城を包囲。
 やぐらを組み、地下道を掘り、海上からは軍船の砲撃など、四たびの総攻撃。
 遂に信徒軍の食糧、弾薬ともに尽き果て、二の丸、三の丸、天草丸、本丸と相次いで落城。
 主将四朗時貞をはじめ、老若男女、全信徒相次いで古城の露と消えた。
 これ寛永十五年二月二十八日である。
 その数、三万七千有余。
 思えば、何ら訓練もない農民たちが、堂々数倍に及ぶ幕府軍の精鋭と矛を交えること数ヶ月。
 強大な武力と、権勢に立向ったその団結と情熱、信仰の強さ。
 遂に悲憤の最期を遂げたとはいえ、この戦乱は、当時の国政の上に痛烈な警鐘となり人間の信仰の尊さを内外に喧伝した。
 史家をして
 「苛政に始まり、迫害に終わった。」
 といわしめた島原の乱。
 優美にして堅固。
 かつては、日暮城とまで讃えられた原城。
 いま、古城のほとりに立って往時をしのべば、うたた、感慨無量。
 信仰に生き抜いた殉難者のみたまに対し、限りない敬意と、哀悼の念を禁じ得ない。
 ここに、三百二十年祭を記念して、信徒、幕府両軍戦死者のみたまを慰め、遺跡を顕彰する次第である。
  昭和三十二年五月二十五日
    長崎県知事 西岡竹次郎
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上段は、池尻口門跡を入った正面にあった「天草四朗時貞の墓碑」です。

墓碑の前には小さなマリア像が置かれ、花や水が供えられ、埋葬のない墓ですが、墓前に立つと厳粛な気持ちになります。

下段に並ぶのは、天草四朗像で、向かって左は、本丸に立つ北村西望作「信念にもゆる天草四郎」で、目をつむり、両手を組んで祈る表情は、澄み切った心を映しているようでした。

向かって右は、墓碑の案内板に「天草四朗肖像 画柴田美術館蔵」と紹介されていたもので、大きく膨らんだ南蛮風のズボン、長いマントに二本の刀を差した姿が印象的です。

中央は、原城文化センターで頂いた小冊子「南島原歴史遺産」に掲載されていた「天草四朗の図 島原市蔵」と紹介されていたもので、「南海の美少年」と称されたイメージに近いようです。

■現地の案内板より
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天草四朗時貞の墓碑
 天草四朗
 小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の子で、本名益田四朗時貞といい洗礼名はジェロニモとかフランシスコなどといわれています。
比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強したとありますが、詳細は不明です。
島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。
一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。
四朗はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。

この墓碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。
 南有馬町教育委員会
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上段は、本丸西側にある「櫓台跡」で、池尻口門跡の案内板に掲載の「原城絵図」にも石垣が突出た部分です。

下段は、案内板にあった島原の乱最後の総攻撃場面「島原の乱図屏風」(秋月郷土館蔵)の一部です。

「櫓台」の石垣を登る幕府軍や、上から攻撃する一揆軍の姿が活き活きと描かれていますが、石垣の上から下をのぞいき、当時の壮絶な戦いを思い浮かべて見るのも一興です。

■現地の案内板より
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櫓台石垣
 島原の乱後の幕府による現地処理で、徹底的に破壊され埋め込まれた石垣張り出し部分であります。この場所は、築城当時天守相当の重層のの櫓があったと推定され、口之津、天草方面を見渡せる絶好の場所であります。
 写真の絵図は島原の乱の張り出し部分はこの場所と推定されます。幕府軍は石垣をよじのぼろうとしているが、一揆軍は塀の上から石などを投げ落とし必死で防戦しています。
  南有馬町教育委員会
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本丸正門跡に近い場所で行われていた発掘調査の風景です。

大きな石が掘り出されているのは、幕府軍によって破壊された石垣でしょうか。

9月の炎天下で黙々と行う発掘作業は、つらいものと思われます。



上段の写真は、発掘された人骨がバンジュウの中に入れられていたものです。

もしやと思い、現場の人にたずねるとやはり人骨とのことで、破壊した石垣と共に多くの遺骸が埋められていたようです。

ここは、約2万7千人とする一揆軍が、幕府軍の総攻撃でほぼ全員が殺される地獄のような光景が繰り広げられた場所でした。

下段は、発掘現場近くの案内板にあった遺物の写真で、発掘された代表的な物が紹介されているようです。

この後訪れた「原城文化センター」には発掘された様々な遺物が展示されていました。

「原城文化センター」でも散乱する人骨が発掘された状態のレプリカや、有馬にあったとされる「セミナリオ(キリシタンの中等教育機関)」の建物の絵などが印象に残っています。

■現地の案内板より
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原城発掘
平成4年度(1992)から実施した本丸地区の発掘調査により、多くの出土遺構・遺物がありました。特に「島原の乱」にまつわる十字架・メダイ・ロザリオの珠などのキリシタン関係遺物の出土は歴史的意義付けの上で貴重な研究資料であります。他に火縄銃の鉛玉、輸入陶磁器、瓦など、原城築城当時から乱で封印されるまでの原城を物語る資料が出土しています。
 出土遺物は、「原城文化センター」で展示しています。
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有明海に面した本丸の中ほどに「白洲」と題する案内板があり、海を見下ろす視界が開けた場所がありました。

300mの断崖から見下ろす有明海は青色に輝き、血しぶきが飛び散る壮絶な殺戮があった古戦場の風景とは思えない美しさです。

案内板に旧暦の8月の大潮の干潮に「白洲」が見えるとされていますが、沖の海面に帯状に輝く場所があり、撮影したものです。

下段にあるのは原城周辺の地形図で、南の海中に細長い浅瀬が見られ、おそらくここが「白洲」と思われます。

赤い海藻が、死骸となると白い石灰質の小石になるそうで、それが堆積して浅瀬となったのが「白洲」のようです。

司馬遼太郎は、「街道をゆく島原・天草の諸道」の最期にこの「リソサムニューム」について次のように語っています。

~この世界的にも珍奇な水生植物について考えるとき、赤い色の海藻がべつに接点はないにせよ、十字架の旗のもとで死んだ三万の霊とつい気分として重なってしまう。
原城の死者が生者に弔われることなく、死者自身が弔わざるをえなかったことと、どこか白い石は詩的に似通っているのだろうか。~

心に残る原城跡の見学でした。

■現地の案内板より
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白洲
ここ原城本丸の南、約300メートル沖合に東西約1000メートルに亘る浅瀬がある。
旧暦3月と8月の最干潮時にもっともよくその姿を見せ、この地では「白洲」とよんでいる。
これは「リソサムニューム」という学術的にも極めて珍しい植物が繁殖しているもので、世界にはイギリス海岸、インド洋、ここ「白洲」の3ヶ所にしかみられない。
  南有馬町教育委員会
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参考文献
「島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起」中央公論新社発行、著者:神田千里
「長崎県の歴史 県史」山川出版社発行、著者:瀬野精一郎・佐伯弘次・小宮木代良・新川登亀男五・野井隆史

長崎旅行-7 雲仙普賢岳噴火の被災遺構 「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」

2013年01月15日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、長崎県島原市の「島原城」の次は、雲仙普賢岳の火砕流で被災した 南島原市「旧大野木場小学校校舎」と、南島原市「道の駅みずなし本陣」に併設された「土石流被災家屋保存公園」など雲仙普賢岳噴火による被災遺構の見学です。



1991年(平成3)9月15日、雲仙普賢岳からの火砕流により全焼した「旧大野木場小学校被災校舎」正門からの風景です。

死者行方不明者43名、損壊家屋49戸の大惨事となった1991年(平成3年)6月3日の火砕流から約3ヶ月後に被災しており、生徒や、近隣住民は避難して無事だったようです。

火砕流による全焼建物とされていますが、黒煙ですすけた感じはなく、これは高温の火砕流による火災の特徴なのでしょうか。

雲仙普賢岳の火砕流や、土石流による被害は、1993年(平成5) 8月まで続き、その後の死者は1名に留まったものの、火砕流による損壊家屋271戸、土石流等による損壊家屋581戸と、この地域が壊滅的な状況に陥ったことがうかがえます。

後方にそびえるのは眉山で、約200年前の1792年(寛政4)、火山性地震により東斜面の大崩壊が起こり、有明海沿岸全体に大津波を発生させ、14,920人以上の死者を出す「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれる大災害を起こしたことで知られています。



「島原まゆやまロード」から見下ろした「旧大野木場小学校被災校舎」付近の風景です。

校舎の隣の建物(写真右端)は、雲仙普賢岳の監視を行う「砂防みらい館(大野木場砂防監視所)」です。

左手に大きな砂防ダムが造られ、校舎と手前の眉山の間は火砕流や土石流を流すと思われる幅の広い谷となっていますが、この辺りは火砕流により多くの家屋が焼失した北上木場町と思われ、その後の防災整備で大きく地形が変わったのかも知れません。

「島原まゆやまロード」は、眉山の西を通り、「平成新山」を間近に見上げるルートにあり、翌朝に島原市を発つ途中に撮った写真です。



「砂防みらい館(大野木場砂防監視所)」の展示室にあった航空写真で、雲仙普賢岳噴火による被災地域の全景です。

写真には平成5年9月6日とあり、災害発生がほぼ終結した頃の様子と思われます。

普賢岳、平成新山から水無川河口付近まで火砕流の跡と思われる白くなった地域が被災と思われますが、全焼したとされる「旧大野木場小学校」の辺りには緑が見られ、災害は隣接した範囲にも及んだようです。



「土石流被災家屋保存公園」の案内板にあった航空写真に補足説明を加えたものです。

写真上段は、「土石流被災家屋保存公園」の場所を案内するものと思われ、公園となった水無川のすぐそばの家屋が水無川からあふれた土石流により被災したことがうかがえます。

写真下段は、公園の拡大写真で、被災家屋を保存展示する白いテントの建物を中心に周囲に数棟の被災家屋が保存されています。

航空写真は平成10年9月の撮影とされ、災害の終結から約5年を経て次第に復旧が進んでいる様子が見られます。



大きなテントの建物の中に土石流で埋まった家屋が並んでいます。

雨で押し流されて来た大量の土石流で無残な姿になってしまったようです。

大自然の圧倒的な驚異になすすべもなく被災した家屋に人間の無力さを痛感させられます。

向こうの二階建ての建物は、近くから移設されたもので、一階の玄関付近には土砂がなく、屋内の被災状況をのぞくことができました。

■公園の案内板です。
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土石流被災家屋保存公園の概要
 土石流被災家屋保存公園は、土石流災害のすさまじさと防災の重要性を来園の皆様へ知っていただく目的で作られたものです。
 公園内のすべての家屋は、平成4年8月8日~14日の土石流により被害にあったもので、平均で約2.8メートル埋没しています。
 ●敷地面境:約6.200m2  ●保存家屋:11棟
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屋外に保存された被災家屋です。

向こうの白壁の建物は、道の駅みずなし本陣の施設「大火砕流体験館・火山学習館」のようですが、手前の被災家屋の高さと比べると、一階分の高さに埋まった土砂の上に建てられたことが分かります。

■公園の案内板です。
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土石流被災家屋保存公園
 雲仙普賢岳の平成噴火では、火山の山麓lこ大きな土石流が何度も発生しました。1992年(平成4年)8月8日~14日にかけ、水無川でも大規模な土石流が続発しました。ここではそのときに埋没した家屋を当時のまま保存しています。これらの家屋に住んでいた人たちは避難していたため、人的被害はありませんでしたが、私財が失われ、移転を余儀なくされてしまいました。

 土石流で大きな被書を受けた水無川流域。1992年8月8日の深江町の降水lは最大時間雨量37mmと少し強い雨でしたが、非常に大規模な土石流が発生して周囲の家屋を襲いました。
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案内板にあった写真で、よく晴れた水無川の上流に溶岩ドームが盛り上がる普賢岳の風景です。

写真に見える日付は92.8.7で、この一帯を埋め尽くした土石流の前日でした。

既に普賢岳からの火砕流で、水無川の上流の多くの家屋が火災に遭い、雨で押し流される土石流を警戒して多くの住民が避難していたようです。



上段の写真の翌日1992年8月8日、雨で押し流されてきた土石流で水無川の風景は一変しています。

水無川には大きな岩に混じって壊れた家屋の一部と思われるものも見られます。

大量の土石流は、水無川流域の様々な物を呑み込んで有明海方向へ流れていったようです。



島原半島の地図に「仁田(にた)峠循環道路」の「仁田峠第二展望台」や、「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」の場所を表示してみました。

雲仙岳頂上に近い「仁田峠第二展望台」には「旧大野木場小学校」「土石流被災家屋保存公園」を見学した翌日に訪れたもので、普賢岳・平成新山の頂上や、火砕流が流れ落ちた有明海方向が一望できる場所です。

あいにくガスに霞んで、ハッキリとした風景を見ることができませんでしたが、雄大な大自然の風景の片鱗を味わうことが出来ました。

■仁田峠循環道路を通った時に頂いたパンフレットの説明文です。
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・仁田峠第二展望台~島原半島随一の絶景ポイント~
国道57号線を島原市から雲仙温泉の方に向かい、雲仙ゴルフ場の近くで右折すると仁田(にた)峠循環道路に入ります。この道路沿いにあるのが、仁田峠第二展望台です。
この展望台からは、平成新山溶岩ドームと、そこから海に向かって延びる水無川上流の急斜面が、荒涼とした景観を作っています。水無川の下流域では、火砕流や土石流の被災域と、川の両岸に造られた導流堤が有明海まで続きます。平成噴火で噴出した土砂が、眉山を避けるように堆積していることから、約200年前には大災害を引き起こした眉山が、平成噴火の時には島原市街を土石流や火砕流から守ったようにも見えます。天気の良い日には、さらに遠方に阿蘇火山や霧島火山が見える事も。
視線を右手に移すと、深江(ふかえ)・布津(ふつ)・貝崎(かいざき)といった断層が、細長い森となって海まで続いています。さらに右手には海に突き出た原城跡、そして、島原半島の南端にある岩戸山(いわどさん)が見える事も。晴れている日に一度は訪れたい、島原半島随一の絶景ポイントです。
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「仁田峠第二展望台」の案内板にあった展望写真(上段)と、火砕流を説明するイラスト(下段)です。

火砕流は、写真左側の「平成新山」の溶岩ドームが崩壊、右側の斜面を火砕流が流れ落ち、冷えて固まった土砂が雨により土石流となって「水無川」河口付近の海を埋めてしまったようです。

噴火した山頂や、流れ落ちた斜面、海岸までの被災地を一望しながら見る案内板は、説得力のあるものです。

■仁田峠第二展望台の案内板
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平成新山と被災地の遠望
 地下から上がってきた高温の溶岩は、粘り気が強いため、山頂付近でこんもりと盛り上がった地形をつくりました。これが溶岩ドームです。溶岩ドームは山の急斜面に張り出すように流れたため、溶岩が部分的に崩れ落ちて火砕流が発生しました。平成新山の裾野には、火砕流の流れた跡を見ることが出来ます。また、有明海まで達した土石流の跡も眺められます。
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案内板に「幻の雲仙岳」と書かれた不思議な図がありました。

「雲仙岳」(普賢岳、国見岳、妙見岳などの総称)全体に多くの断層があり、山が沈下しているようです。

もしも沈下しなかったら2,000mを超える山となるとして、「幻の雲仙岳」のタイトルを付けたようです。

「雲仙地溝」と呼ばれる地殻構造に興味が湧いてきます。

■仁田峠第二展望台の案内板
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沈みゆく雲仙火山
 雲仙火山は北側に千々石断層、有価に市井・深江断層と、多くの断層によつて切られています。そのため内側が沈み込むように落ち込んでいます。このような地質構造を「地溝」と呼びます。雲仙地溝の中央部では、火山噴火で積もった噴出物の量が膨大に溜まつています。もし沈み込んでいなければ、普賢岳は二千メートルを超える九州一の山だったと考えられます。
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図書館で、やっと見つけた雲仙地溝の図です。

「雲仙・普賢岳大噴火 寛政と平成の記録」(村山磐著 東海大学出版会出版)に掲載され、「雲仙地溝帯(伊藤和明「地震と火山の災害史」から」と補足が付けられていました。

調べていくと地溝は、九州を横断して別府湾へ突き抜け、さらに四国、紀伊半島へ伸びているようです。

又、「島原半島世界ジオパーク」のパンフレットによると地溝の北にある千々石[ちぢわ]断層は、「島原半島を南北に引き裂く大地の動きがつくった半島内最大の大地の裂け目です。約30万年の間に大地は最大450mもずれ、断層の南側の地面は今も年間1.5mmの割合で沈降を続けています。」とあります。

又、下記の資料では島原半島や、九州が南北に引き裂かれ、年間1.4cm拡大ているとは・・・まったく知りませんでした。

日本列島は、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、北アメリカプレートがせめぎあっていることは知っていましたが、これらの地殻変動を理解するにはもう少しお勉強が必要のようです。

■「雲仙・普賢岳大噴火 寛政と平成の記録」(村山磐著 東海大学出版会出版)より
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雲仙火山群は雲仙地溝内に噴出したのであるが、この雲仙地溝は今もなお年間一・四cmの速度で南北に拡大し、沈降を続けている。地溝の北は千々石断層、南は深江断層の二つの正断層によって画されている。千々石断層は、西側では断層崖となっているが、東側では普賢岳や眉山を構成する溶岩類で覆われているので明確な位置は明らかでない。深江断層は、深江.布津両町境付近を流れる深江川に沿った西北西~東南東方向の断層である。
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長崎旅行-6 「島原城」の散策

2013年01月07日 | 九州の旅
2012年9月11日長崎旅行1日目、長崎県島原市の「武家屋敷」の次は「島原城」の見学です。



「西の櫓」の前から見上げた「島原城」天守閣です。

堂々とそびえる天守閣は、飾り破風のない簡素な姿です。



「島原城」のある長崎県島原半島周辺の地形図です。

1624年(寛永元年)「島原城」は、約7年の歳月をかけて松倉氏によって築城され、藩主の転封が相次いだのの幕末まで島原藩主の居城となっていました。

半島南部の「日野江城」は、鎌倉御家人で、キリシタン大名でもあった有馬氏の居城で、1614年有馬氏が延岡へ転封され、1616年に大和から転封してきた松倉氏が「島原城」へ移るまで居城としていたようです。

「原城」は、有馬氏が築城した支城で、「島原城」の築城の頃に廃城となっていましたが、島原の乱(1637年12月~1638年4月に)で、一揆軍が立て籠もったことで知られており、翌日訪れました。

■「長崎県の歴史散歩」(山川出版社出版、長崎県高等学校教育研究会編)
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島原城跡と武家屋敷跡
 島原駅におりると、真正面に島原城(森岳城)の天守閣がみえる。
この城は、有馬直純(晴信の子)が延岡に転封されたのち、この地にはいった松倉重政によって、1618(元和4)年から7年余をかけて築かれた。以後、有馬の日野江城にかわって、島原が政治・経済・文化の中心となり、高力氏・松平氏・戸田氏、再び松平氏と4氏19代の譜代大名が交代して支配した。島原の乱(1637~38年)では、城の外郭部の大手門(現在の裁判所の地)と桜門(島原第一中学校玄関付近)で攻防戦があった。
 城は、内郭の本丸・二の丸と三の丸(藩主の邸宅。現、島原第一小学校と県立島原高校)、外郭の家中屋敷からなり、規模は壮大である。城の特徴は、鉄砲戦に対応する築城法で、建物は装飾のない層塔風総塗込式となっている。1964(昭和39)年に復元された天守閣のなかには、キリシタン史料館があり、南蛮貿易時代から島原の乱までを中心に、多くの貴重な史料を展示している。
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「島原城」の案内板にあった案内図です。

向かって右の大手門から入り、堀に沿って二の丸の左手から本丸へと入って行くようです。

三の丸は、この図から更に左にありますが、省略されています。

丑寅の櫓、巽の櫓、西の櫓の名称は、天守閣からの方角から名付けられており、

■「島原城」の案内図に添えられた案内文です。
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島原城由来
 この地は森岳といい、有馬晴信が本陣を構えて佐賀・龍造寺隆信軍を撃破したところです。この瑞祥の地に、五条(奈良県)から入封した松倉重政が島原城を築きました。一六一八年(元和四年)着工、四~七年の歳月を経て完成。同時に島原城下町も整備したといいます。破風をもたない層塔型総塗込の五層の天守閣を据える本丸。北へ二の丸と三の丸を配して、要所を三層櫓で固め、外郭は四キロにわたり矢狭間をもつ練塀で取囲みました。
 四万石の大名には過分な城です。ここに有馬氏時代からの海外貿易の利益と、松倉氏の新興大名としての意気込みが見られます。
 以来、松倉氏・高力氏・松平氏・戸田氏・再び松平氏と四氏十九代の居城として輝きました。その間、一六三七年(寛永十四年)島原の乱では一揆軍の猛攻をしのぎ、一七九二年(寛政四年)島原大変時には打続く地震と足下を洗う大津波にも耐えてきました。
 明治維新で廃城になり、払下げ・解体されましたが、島原市民の夢である御城復元への取組みが長年続きました。一九六四年(昭和三九年)天守閣が復元するなど、次第に昔の面影を取戻しつつあります。
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案内板に「ありし日の島原城(島原市立第一小学校蔵)」と紹介された絵(?)がありました。

明治の初め頃まで残っていたとされる築後約250年の「島原城」の雄姿です。

高い石垣、周囲2,220mの城郭、33の櫓を備えた島原城の築城には延べ100万人の動員があったとされ、民衆への負担は過酷を極め、13年後の島原の乱につながったと言われています。

南東方向からの風景で、既に再建されている左端の「西の櫓」、中央の「巽の櫓」、右端の「丑寅の櫓」の間にも多くの建物が見られます。

右下に見える茅葺の屋根は、堀を囲むように建ち並ぶ上級武士の屋敷です。



「島原城」本丸東南から蓮の茂った堀りを見下ろした風景です。

上段の「ありし日の島原城」の風景は、向かって右手の辺りからと思われます。

街の向こうに穏やかな有明海が広がり、対岸の熊本の山並みは「熊ノ岳」でしょうか。



「西の櫓」の前に二つの大きな「籠城用の梅干かめ」が展示されていました。

城外の武家屋敷の案内では「梅・柿・密柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果物は自給できるようになっていた」とあり、籠城に備えた大切な食料の一つだったと思われます。

数千人の籠城を考えると、他にも様々な対策があったものと思われます。

■「籠城用の梅干かめ」の案内文です。
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籠城用の梅干かめ
旧藩時代この城の本丸に置いてあったもので籠城用としての梅干を入れてあったかめであります。
明治八年この城が解体されるとき市内中町の喜多氏が譲り受け保存していたものであります。
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これも「西の櫓」の前にあった「キリシタン墓碑」です。

400年以上前の墓とは言え、墓碑が持ち去られて展示されていることが気になりますが、住民約3.7万人が亡くなったとされる島原の乱で、弔う人のいなくなった墓も無数にあったものと思われます。

自国の強化を図る戦国大名有馬氏は、南蛮貿易の利権と引替にキリスト教の布教を許し、自らも洗礼を受けた結果、島原半島にもキリシタンが広がったようです。

しかし、豊臣政権が国内を統一すると、地方での覇権争いが終結、更に中央政権による貿易の独占や、禁教政策が進むと、もはや地方にはキリシタンを擁護する力も必要性も無くなっていったと考えられます。

ポルトガルや、スペインなどが世界各地を征服して、植民地化していたことや、連動して布教するイエズス会の活動情報などから警戒感が高まり、キリシタンには禁教政策による苦難の時代となります。

■「キリシタン墓碑」の案内文です。
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キリシタン墓碑
 永禄五年(一五六二)領主有馬義直キリスト教の布教を許す。
寛永十四年(一六三七)島原の乱起る。
 現在、島原半島で発見されている墓碑は約百二十基で蒲鉾型、箱型、庵型、九庵型、平庵型、平型、薄型、自然石型等があります。
【右側の墓碑:島原市指定有形文化財】
市内三会亀の甲で発見蒲鉾型表の右側に慶長八年十二月二十二日、中央に干十寺が刻まれてあり刻みは判読できない。
【中央の墓碑:島原市指定有形文化財】
南島原市西有家町で発見蒲鉾型干十字が記されています。
【左側の墓碑】
市内大手旧島原藩家老職奥平氏宅の庭から発見されたものです。
碑面の部分が削り取られて手洗盤として再利用されていました。
         島原市教育委員会
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「西の櫓」の前に丸い穴をくりぬいた円柱形の「石の水道管」が展示されていました。

案内板では「島原城桜門外の水源と、城内三の丸に敷設してあった」とし、前回の長崎旅行-5の冒頭の写真で掲載した「史跡 御用御清水」から武家屋敷一帯へ水道の設置を行ったと書かれていた水道管と思われます。

「史跡 御用御清水」の案内板では水道の実態がまったく理解できませんでしたが、この水道管を見てようやく分ってきました。

「史跡 御用御清水」の案内板によると水道の敷設は、1669年に福知山から転封してきた松平忠房公によるものとしていますが、下記の「石の水道管」の案内文では敷設は、「十八世紀末以降といわれています」とあり、年代説明に差異があるようです。

■「石の水道管」の案内文です。
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石の水道管
 島原城桜門外の水源と城内三の丸に敷設してあったもので中央をくりぬいた石を漆喰で管状に接合し、この一本約七〇センチの石棺をさらに接合して水道管にしたものです。
 敷設したのは城主松平氏の後期、十八世紀末以降といわれています。
    島原市教育委員合
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前回の長崎旅行-5でも掲載した江戸時代の「島原藩士屋敷図」です。

赤い線で囲んだ図の左下は、桜門付近の拡大図で、桜門のすぐ外の場所に「御用御清水」があったことが分かります。

島原の乱で、攻防戦があったとされる桜門のすぐ外の水源から城内へ生活用水を引込む工事の際、「石の水道管」を地下に敷設して破壊から守る配慮だったのでしょうか。

又、水道の設置が武家屋敷一帯とあり、「石の水道管」は、広い城内にひしめく武家屋敷全体に敷設されていたものか興味が湧いてきます。

2010年のイタリア旅行で、紀元前1世紀のポンペイ遺跡に現代と変わらない形の水道管(鉛製)に蛇口が取付けられていたことを思い出し、余りに大きい文明のギャップを痛感しました。